明代城壁
鐘鼓楼広場などの『古都西安』を感じさせるエリアを囲んでいるのが、『明代城壁』である。唐の長安城をベースに1370~1378年(明の洪武3~11年)の7年をかけてレンガ積みで構築された城壁である。周囲13912メートル、高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メートルと、厚さが高さより大きい堅固な城壁である。周囲の長さは約14 キロメートル である。
東西南北に4つの門があるが、最大規模の西門は西側のシルクロードにつながる城門で、明の時代はここからシルクロードへ向かって出発したのだと想像すると、胸が躍ってくる。 入口近くに西安城壁景区全景図が掲示され、旅客センター(ツァリスト・インフォァメーション)が設置されるなど、観光客への対応も万全である。
多くの観光客は、南門から城壁に登り、市内をカメラに収めている。壁の上にある鐘も人気である。横にある説明文によると、この鐘は、高さ1.75メートル、直径0.96メートルで、主に祝祭用に使われたらしい。
城壁を一周できるが、14キロメートルもの長さは普通の人には無理であろう。でも、いくつかの門から城壁内へ登り降りることができるので大丈夫。挑戦してみましょう。楽をしたい人は、レンタサイクルを利用しましょう。安遠門の自転車ステーションでは、十数台の自転車をそろえて客を待っていますよ。
個人的には、城壁上部のレンガによる舗装構造の説明に興味を持った。説明文を写真に示したが、舗装部分は3層のレンガで構成され、6台の車の並走に耐える構造である。注目すべきは、端部から中央に向かって5度の勾配をつけて排水を良くしている点である。仕事がら、「流水層を設けている点などが特記される」と、論文調になるので、ここまでで。
清真大寺
鼓楼から骨董品が並ぶアーケード『化覚巷』をゆっくりと北に向かう。中国人の骨董好きは英国人と並ぶと言われるが、特に『玉』には目がない。知識の無い私は店主と客のやり取りを楽しんで見ているだけであるが、現金の束を片手にやり取りするさまを見ていると、「本当?」と驚いてしまう。もちろん、骨董そのものを楽しむ人達も多いことは言うまでも無い。近くには、『西安蓮湖歴史文化街区』があって、この地域の保全を推進している。近年の歴史的地区や文化地区が画一化、均質化されていることへの危機感であろう。「頑張って欲しい」。
化覚巷を北へ数百メートルも歩くと、西安最大のイスラム寺院、清真大寺がある。作りは仏教寺院に見えるが、木造のモスクである。化覚巷にあるため、化覚巷清真大寺とも、あるいは東大寺とも呼ばれているそうだ。敷地面積約 13,000 平方メートル、建築面積約6,000 平方メートルで4つのブロック(進院)に分かれている。深い知識はないが、今回の西安訪問の中で、清真大寺とこの周辺は、『兵馬俑』とともに私が最も楽しみにしていた所である。
中国にイスラム教が正式に伝えられたのは、唐の時代の651年であるが、清真大寺の創建は742年(唐の天宝元年)、その後、拡張工事が重ねられ、現在に至っている。見所が多いが、第四進院の奥にある礼拝大殿の美しさ、緑色の瑠璃の瓦で被われているその美しさは、必見である。一眼レフを置いてきたことを後悔する。信者のおじさんの話だと、1000人以上が礼拝できるそうだ。もう1つ、教わった。西安にはイスラム教徒が約6万人いるそうだ。
そして、第四進院の六角形建築物、鳳凰が翼を広げたような屋根が美しい鳳凰亭も多くのカメラのフラッシュを浴びていた。皆さんがため息をついていたのが、第三進院の省心楼である。アザーンを発する(礼拝を呼び掛ける)ミナレットである。工事のための足場を組む鉄棒で八角形の美しい姿が囲われていたのである。お見せするのは、美しさを誇る彼女にとっては酷なことだ。勘弁してやってください。
清真大寺後日談
化覚巷の市場(バザール)風の賑わいに魅了されて、昼間の様子を見てみようと、翌日また出かけた。ところが、方向音痴は、やはり方向音痴。例によって『ロスト・マィウエイ』。相当歩き廻ったが、見つけられない。そこで、『清真大寺』の場所を何人かの歩行者に聞いたが、そのような寺は無いという答えが返ってきた。「えっ、昨日行きましたが?」。「胡散臭い奴だな」と思われたのか、皆さん、急ぎ足で行ってしまった。このやり取りを見ていたのか、おじいさんが出てきて、字を書けと鉛筆をくれる。英語が通じないようだ。『清真寺』と書いたところ、「ブーミンバイ(わからない)」と言って腕を組む。そして、数十秒おいて、はっと気づいたようなジェスチャーをして、(『清真大寺』ではなく、)『清真寺』と書いた。さらに東西南北と書いたうえで、西へ行けと言っているみたいだ。私はマージャンはできないが、東西南北ぐらいは分かる。「よしっ」じゃない、「ありがとう」と言って西へ向かった。何人かの通行人に聞いて、行ったり来たりして、やっとたどり着いた、でも、見たことのない風景であり、小さなモスクである。「信者ではない」と断ったうえで敷地内に入れてもらった。お昼時なので、かごに入れたパンを信者に配っていたおじさんが教えてくれた。「ここは清真西寺だ」。
話をまとめよう。私は、『清真大寺』に行こうとしたのだが、間違って『清真寺』と聞いたり書いたりしたので(大間違いをしたので)、「知らない」と言われ、さらに親切なおじいさんが西を示したので、その後に対応してくれた親切な方々は『清真西寺』を探していると考えて、その場所を教えてくれたのだ。
その苦労を知ってか知らずか、パン配りのおじさんがにこにこしながら大きいパンを二つもくれた。丁寧にお礼を言って、一つは昼食に、もう一つは夜食に食べた。信者ではないので、イスラム教が禁じるワィンが横にありました。『方向音痴の旅日記』、真っただ中である。
青龍寺
中学、高校の教科書に出てくる『空海(弘法大師)』が学んだ『青龍寺』である。創建は隋の文帝治下の西暦582年(開皇2年)で、原名は『霊感寺』という名前であったが、662年に再建されて『観音寺』と改名、その後、唐の睿宋治下の西暦711年(景雲2年)に現在の名称である『青龍寺』に改名された。
日本人の空海は、804年に遣唐使船で唐に渡り、ここで、『恵果和尚』を師として真言密教を学んだ。空海は多才かつ大変な勉強家で、中国の文化、芸術、科学等を学び、帰国後に国家の発展に大きな寄与をした名僧である。具体的には、高野山に金剛峯寺を建立し、真言宗を開いた。また、写真にも掲げたが、書に優れ、そして(土木工学の研究に従事した者としては胸が躍るが)、国土建設の中心技術である灌漑技術を我が国に伝えている。
あるいは、報道で知っておられる方もいらっしゃると思いますが、我が国から桜の木1000株が贈られ、季節には「チェリィ・ブロッサム」と、信者のみならず、多くの方々が日本への感謝の祈りを捧げるのである。
日本人は桜が好きで、毎年、『桜前線』に一喜一憂し、酒盛りをし、友情を高め、…、いいことづくめである。そして日本人が思う以上に、外国人の桜への憧憬は大変なものである。どの国に行っても、どの階層の人と話しても、どの季節であっても、『桜の話』は必ず登場する常連である。外国旅行をされる方々は、桜の写真をいつも持っていて下さい。
大興善寺
数日前にここ大興善寺を訪ねたが、多分VIPの訪問だったのだろう、緊急閉館と近隣の交通止めに会ってしまって、断念せざるを得なかった。今日、改めての訪問である。 城壁外 の 長安中路はもう頭の中に入っている。
大興善寺の創建は西晋の武帝(司馬炎)が治めた秦始秦康年間(256~289年)で、西安で最も古い仏教寺院の一つである。中国密教発祥の寺と言われている。隋の文帝治下に拡張され、大興善寺と改名された。隋唐代にインドから布教に訪れた高僧達が経典の翻訳や密教の教えに従事した。とくに、インド僧不空和尚(705~774年)が有名で、以後ここは長安における仏教経典翻訳の中心地となった。
寺の敷地には、大雄宝殿、平安地蔵殿、鼓楼、観音菩薩殿などが建っている。日本の関連では、空海大師像や日中仏教文化交流記念碑等が残っている。
もう一つ。我が国の「絵馬」のように、「願い事を記したい」時は、赤いリボンを使って下さい。無料です。