ブルガリアのソフィア(その2)

私は忙しいのだ
 『ブルガリアのソフィア(その1)』からの続きである。
ゆっくりとした旅は続く。セントラル・ハリを出てすぐ前のマリア・ルイザ大通りを挟んでバーニャ・バシ・ジャーミヤが君臨するように建つ。1566年、オスマン朝最高の建築家と言われるミマール・スィナンによって設計されたイスラム寺院である。名前の『バーニャ』は、すぐ東側にある中央浴場(現在は、ソフィア歴史博物館)に由来するそうだ。外観の重厚な姿だけでなく、内部のシャンデリアやモザイクも人目を惹く。
 いつの間にか地下鉄一駅分を歩いて、地下鉄M2線のセルディカ駅付近まで来た。この辺りはスヴェタ・ネデリャ広場と言われ、まさに町の中心である。広場に建つ石造りの立派な教会は、ブルガリア正教会ソフィア主教職の聖堂、聖ネデリャ教会である。シェラトン・ソフィア・ホテル・バルカンのすぐ隣にある。オスマン帝国から解放された後、周辺の教会や神学校を集めて建てた教会だという。私が覗いた時には入場することができなかったが、数えきれないほどのろうそくが灯されて壁に描かれたイコンを照らしているそうだ。
 そして、ソフィアに現存する最古の建物である聖ゲオルギ教会である。先程通ったシェラトン・ソフィア・ホテル・バルカンと大統領府の建物に囲まれて建っている。創建はローマ時代の4世紀と言われ、聖堂は赤いレンガで造られている。
 ソフィアに現存する最古の建物である聖ゲオルギ教会の後は、地下鉄M2線のセルディカ駅からすぐの、これまた歴史のある聖ペトカ教会を訪問する。オスマン帝国に支配されていた14世紀に建てられたブルガリア正教会の聖堂で、名前にあるように、殉教者の聖ペトカを祀る。この辺りは、『セルディカの遺跡』が連続する、まさに『歴史の空間』である。
 それにしても疲れた。肉体的にではない。精神的と言うか、文化文明の連続技に圧倒されてしまったようだ。ちょっと休もう。「心の安らぎは子供が一番」と思っていたら、「こんにちは」と挨拶された?「本当に」。

バーニヤ・バシ・ジャーミヤ。1566年、オスマン朝最盛期に建立されたイスラム寺院
バーニヤ・バシ・ジャーミヤの内部
バーニヤ・バシ・ジャーミヤの内部
石造りの聖ネデリャ教会
4世紀にローマ帝国によって建設された聖ゲオルギ教会 。ソフィアに現存する最古の建物である
聖ペトカ地下教会。オスマン朝の治世下にあった14世紀に建てられた
違う角度から見た聖ペトカ地下教会
「今日は(こんにちは)」 。左側の少年に注目

いやされて行動再開
 今日の後半のスタートは、地下鉄工事の際に偶然、発見された地下の『セルディカの遺跡』である。古代都市 『セルディカ』、現在のソフィアである。 遺跡の周りをぶらぶらしていたら、やはり、迷ってしまって、同じ所にたどり着いてしまう。同じような遺跡が連続するために目星になるものが無く、なおさらこんがらかってしまう。方向音痴は空間の幾何学が、前後左右がバラバラになってしまうのだが、このような遺跡に囲まれていると空間の幾何学だけではなく、時間の前後が狂ってしまって、過去に戻ってくれないかなと、考えてしまう。楽しいだろうなぁ。
 お助けマンに助けられて地上に出ることができ、今日の後半の研究室に向かう。国立考古学研究所付属博物館である。途中、旧共産党本部の建物が見えたが、ちらっとやり過ごして、博物館に急ぐ。元々はオスマントルコ時代の1494年建立のモスクだったのだが、1905年から国立考古学研究所の付属博物館となっている。1階の広間はローマ時代の発掘品の展示コーナー、2階は中世ブルガリアの教会文化を主としたコレクションが展示されている。博物館のスタッフはとても親切で、「マダラの騎士像は必見、absolutely recommended」と気合が入っている。「等身大とはいえ、レプリカなのに、何故薦めるか。その理由は、本物は風化しており、これは20世紀初頭に作られたため、いい状態で観ることができるからです」。観るのはここが初めてであるから、両者の違いは分からない。「ありがとう」。
 帰り際に簡単な解説書を貰ったので、翌日に、また観に来ました。いました、「必見、マダラの騎士像」の親切スタッフが。じっくりと、私の専属説明員のように教えてもらいました。それによると、ブルガリア北東部の古都プリスカから南へ約10キロメートル離れた場所にある岩石レリーフが、1979年にユネスコ世界遺産に登録された。作者不明、1000年以上の年月を経た現在でも、手に槍を持った騎士、馬の足元で死んでいくライオン、猟犬の姿を識別できるそうだ。「岩壁の23メートルの高さに掘られた彫物を観ない手はない」と、説教されてしまった。「本当に疲れた」。
 スタッフに言われたわけではないが、この博物館はお勧めです。展示品の多くは、紀元前5~3世紀のトラキア文明黄金期とオドリス王国を紹介していて、宝物室にはトラキアの墳墓から出土したものもあるなど、貴重な展示品に感動すること、間違いありません。宝飾品、黄金のマスク、…、等と、私も気合が入ってきました。

ローマ時代の遺構であるセルディカの遺跡
ローマ時代の遺構であるセルディカの遺跡
ローマ時代の遺構であるセルディカの遺跡
旧共産党本部
国立考古学研究所付属博物館
立考古学研究所付属博物館のマダラの像
古学研究所付属博物館 の展示物
古学研究所付属博物館 の展示物
古学研究所付属博物館 の展示物
宝飾品
黄金のマスク

また気合が入ってきた
 帰り際に、お友達になった国立考古学研究所付属博物館の親切だったスタッフに偶然に出口であったのだが、「次はロシア正教会の聖ニコライ・ロシア教会を薦めるよ。メインストリートのツァル・オスヴォボディテル通りを東に200メートルくらい行けば見えるよ」と教えてくれた。
 さて、教わったとおりにツァル・オスヴォボディテル通りを東に歩くと、ラコフスキー通りとの交差点に、『聖ニコライ・ロシア教会』がある。1882年の露土戦争で、ロシア帝国によってオスマン帝国からブルガリアが解放された後に、破壊されたサライ・モスクの跡地、結果的にはロシア大使館が所有する土地に1907年~1914年までの7年間で建設された。ロシアの外交官セモントフスキ・クリロの命令によって、当時のロシア皇帝で後に聖人に列せられたニコライ2世を祀っている。ロシア人建築家のM.プレオブラジェンスキーの設計で、黄金で彩られた5つのドームとエメラルドの尖塔をもつ美しい建物である。地元の人々は聖ニコライ・ロシア教会を単に『ロシア教会』と呼んでいるみたいだ。

ロシア正教会の聖ニコライ・ロシア教会
違う角度から見た聖ニコライ・ロシア教会

 聖ニコライ・ロシア教会のすぐ近くに、この町の名前『ソフィア』(古代ギリシア語で『知恵』を意味する)の由来になっている『聖ソフィア教会』がある。東ローマ帝国時代の6世紀にユスティニアヌス1世によって創建された教会である。オスマン帝国時代にはイスラム寺院として使われた歴史を持つ。2度の地震で被害を受けたが、20世紀に入ってから修復が進められ、現在に至っている。教会の裏には文豪イヴァン・ヴァゾフ(1850~1921年)の墓、教会の横には無名兵士モニュメントもある。
 ガイドブックによると、『ビザンティン様式』の教会と紹介されているが、私は皆様にうんちくを語るほどのバックボーンはない。『ビザンティン』は長い歴史を持つために、その定義を確定することはとても難しいのだ。確かにかつて複数回訪問したトルコのイスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂やイタリアはラベンナのサン・ビターレ聖堂など、平面にドームや半ドームをかける大規模な聖堂様式の特徴的な美しさは今でも覚えているが、…。

町の名前の由来になっている聖ソフィア教会。レンガ色が青空に映える
聖ソフィア教会の地下博物館の案内
教会内部
教会内部
教会内部

いつまでも覚えていたい
 ソフィアの訪問者にもっとも人気のある見学場所は、聖ソフィア教会の隣にある『アレクサンダル・ネフスキー大聖堂』だそうだ。1877年の露土戦争でオスマン帝国支配を終わらせ、ブルガリアに勝利をもたらしたロシア帝国の20万人の兵士を称えて建設された聖堂である。ロシア人建築家ポランセフの設計で、完成は1912年、バルカン半島で最大の正教会の聖堂である。大きなドームがある聖堂部の高さは45メートル、鐘楼の高さは50.2メートルという高さもさることながら、黄金色のドームの輝きがまぶしい。寺院のファサードは、端正で美しい。ネオ・ビザンティン様式で建てられた寺院の地下には、国中から集められたイコンを展示しており、ブルガリア国立美術館の一部としての機能も担っている。

南側から見たアレクサンダル・ネフスキー寺院
アレクサンダル・ネフスキー寺院のファサード
教会の内部
教会の内部
教会の内部

国立美術館
 外国に住むブルガリア人の基金によってオープンした国立美術館である。古典的で端正な姿の中に華やかさも感じられる外観は、壮麗そのもである。よく言われる『白亜の殿堂』である。つい、最近(2015年5月)にオープンした。周囲の解放感もあってか、また、人気のアレクサンダル・ネフスキー寺院に近いため人通りが多いせいか、テントを張った野外市場が人気を呼んでいる。日用品、上質の衣類、蜂蜜などの食品、バラやヨーグルトを使った化粧品、…、と品揃えもバッチリである。
 個人的には、ソフィアで最も好きな空間で、エントランスの縁石に座ってサンドイッチを食べていたり、行儀が悪いと言うなかれ、最高においしいのである、木陰で昼食を囲んでほのぼのとした雰囲気の家族を見て、ホームシックにかかってしまった。あと2日だ。

『白亜の殿堂』 国立美術館
人気の野外市場
三つ巴のどれが主役か。この空間にぞくぞくしたことを思い出す
George Papazof(1894-1972)  Artist’s Mother(1924)
Auguste RODIN(1840-1917) Eternal Spring(1881)

帰りたい
 今日は疲れた。しかし、スポーツをした後の適度な疲れのように、爽快感がある。作品、建物、空間そして人々、旅をたっぷりと楽しませてもらった。幸い、地下鉄M2の駅も近い。地下鉄でホテルに向かおう。野外市場で買い求めた上質のワィンを冷やしてもらわなくては。
 ゆっくりと風景をかみしめるように歩いていると、立派な建物と騎馬像が目に入った。国会議事堂広場の中央に建つロシア帝国皇帝のアレクサンダル2世(1818~1881)を称えて作られた騎馬像であった。彼は、1877~1878年の露土戦争の勝利によって、オスマン朝支配からブルガリアを解放した英雄なのである。「さらば、ヒーロー」。

国会議事堂広場の中央に建つロシア皇帝アレクサンダル2世の騎馬像

ブルガリアのソフィア(その1)

第一のお助けマン
 ギリシャのテッサロニキからブルガリアのソフィアへの移動である。マケドニアのスコピエからギリシャのテッサロニキに移動した時のバスの到着駅は、市内から遠くて不便なマケドニア・バスターミナル(前に説明したが、マケドニアという名前がついているが、マケドニア国のバスターミナルではなく、テッサロニキのバスターミナルをこう呼ぶ)ではなく、テッサロニキ鉄道駅の横にある駅前バスターミナルであった。この近くからソフィア行きのバスが出ていると聞いた。ここは予約しておいたホテルにも近いので、前もって買っておこうと駅前バスターミナルのチケット売り場に行ったのだが、用をなさない。少し暗くなってきて不安になる。
 ここで、 お助けマンが現れた。さっきまで同じバスでテッサロニキに来た人だった。「コニチワ、ニッポンイキマセタ」。「えっ、えっ?」。「オサカ、フクオカ、…、イキマセタ」。外国人の容貌から年齢を推察するのは難しいが、女性の年齢を当てるほど難しくはないが、いや、女性には年齢がないものと考えたほうが平和であるが、…、(話を元に戻して)、60代に見えた男性だったが、悪い人には見えない。「こっちに来い」と今度は英語で言って、向かい側の方向を指さした。バスターミナルではなく、前の大きな通りを渡って左側にソフィア行きのバスを運営するバス会社があるという。 結論は、「お助けマンを信じて良かった」。
 『ARDA TUR BULGARIA』という会社の事務所で無事にバス・チケットを購入できた。「当日、発車30分前に事務所に来るように」と言われた。事務所の前は、バス通りで駐車場がないためだと言う。この美女、本当に美女でしたが、優しく「ここのトイレットもご自由にお使いください」。思わず、「Could I have your name?」と言うところだった。

第二のお助けマン
 昨日の美女にお会いしたく、アルバニアでおばあちゃんと孫から買った『アルバニアの帽子』できめて、乗客のピックアップ時間よりもかなり早い時間にバス乗り場、いや、美女の事務所に向かった。位置を確認しながら、「よし、駅前バスターミナルに着いた」。「ここから道を横断して左へ」、「あれっ、おかしい、左に何も無い」。「事務所がない」。「落ち着いて、時間はたっぷりある」。「そもそも、駅前バスターミナルのどっちの出口だったのだろう」。「あの時は暗かったからかな、分からなくなってしまった」。汗で帽子を脱いでかぶり直した時に、「アルバニア」と言われた。「うっ、?、アルバニア」。見事な体格のレスラーみたいな男だった。ちょっと怖かったが、「(アルバニア人ではない)ジャパニーズだ」。この男、私の帽子を指さして、「俺はアルバニア人だ」と笑顔を見せた。「ソフィアへ行くのか?こっちだ」。私が思っていた方向とは全く違うところへ向かって5分 on foot。「ここだ」。私はまたしてもアルバニア人に救われた。
 国籍を表すものを身に着けるのは、国によってはある意味で危険なことであり、私も各国を旅する時に注意を払っているのだが、『ALBANIA』には何度も救われた。『帽子の恩返し』だ。本当にありがとう。「ファレミンデリト」で別れた。
 バス乗り場の事務所に向かった。笑顔で「ぐっ、モーニング」。掃除のおばさんが、トイレットをきれいにしている最中だった。ありがとう、おばさん。

いざ、ソフィアへ
 ソフィアに向かうまでに話に時間がかかった。あらためて、ギリシャのテッサロニキからブルガリアのソフィアまでバスで4時間半。座席指定の豪華な『VIPバス』だ。そして、道路整備のおかげで快適かつ短時間で移動できる。出発後に車内サービスが始まって、水と菓子パンが配られる。予期しないサービスはうれしい。
 ギリシャとブルガリアの国境手続き(イミグレーション)もスムーズに行われた。事前の情報では、ブルガリアの国境手続きではパスポートの他に別のID (学生証や運転免許証など)を要求されることもあると言われていたが、実に簡単だった。今日の為替レートも表示されている。写真を撮って、早速、電卓で計算をする人もいる。

テッサロニキからソフィアへ向かうバス
バスの中で水と菓子パンが配られる
本日の為替レート
国境通過
ソフィアが近い

私の旅のくせ
 日本を出て4週間経過。今回の一連の旅行で、ここソフィアは最後の滞在地で、あと1週間で帰国だ。私の旅のくせなんだろうか、この町も遠くと言うか郊外から攻める、そう、今回の最初の訪問先は、ソフィア市内の名所や人々ではなく、『リラの僧院(Rila Monasty)』(あるいは『リラ僧院』)である。バスを乗り継いで、個人的にリラの僧院を訪問できるが、バスの発着時間の関係でそれだけで一日を要してしまって、今回の旅行の目玉である「ボヤナ教会(Boyana Church)』には行くことができない。ところが、無理をせずに1日で両方に行くツァがあったのだ。明日の見学希望をホテルを通じて旅行会社に予約する。€35であった。それなりの料金を払うホテルのせいか、出かけるのがホテルの朝食サービス開始前だったので、ランチボックスを用意してくれた。

ボヤナ教会
 ボヤナ教会は、ソフィアの南西方向に位置するヴィトシャ山麓にある。市内から約8キロメートルと近く、ここだけに行こうとすると車で30分ほどで行けることから、ソフィア市民の週末の憩いの場となっている。10世紀後半から11世紀初頭に王家の礼拝堂として創建されたブルガリア正教会である。後年、2回増築されたため、異なる時代の建築様式が混在している。1階建ての教会の東棟(写真右部分)が創建時のものである聖ニコラウス聖堂、真ん中の2階建ての中央棟は13世紀創建のパンティレイモン聖堂、そして西棟(写真左部分)は19世紀半ばに増築された。これらは通路で結ばれ,全体として一つにまとまっている。
 この教会を有名にしているフレスコ画は、狭い空間に圧倒的迫力で迫ってくる。教会内部は撮影禁止であるため、お見せできないのが残念で申し訳ない。このフレスコ画は、ヨーロッパ・ルネッサンス(Europe Renaissance)の源と言われ、1979年に世界遺産に登録されたことも付記しよう。

ボヤナ教会入口
異なる時代の建築様式が混在している
木を使用した建築構造の一例

リラの僧院
 ブルガリアで最大の、かつ最も著名な正教会(ブルガリア正教会)の修道院である リラの僧院(リラ僧院)に向かう。先ほど巡ったボヤナ教会から2時間半ほどでリラ山脈の心臓部にあるこの僧院に到着する。この修道院であるリラ修道院がユネスコ世界遺産に登録されたのは1983年である。歴史的には、10世紀に創立され、イヴァン・リルスキと言う僧が、隠遁の地としてこの地を選び、小さな寺院を建立したのが始まりである。その後キリスト教、そしてブルガリア教育・文化の重要な拠点として発展し、14世紀に現在の形になったということです。
 オスマン帝国の500年間にわたる支配下でも、この僧院だけはキリスト教の信仰、ブルガリア文化に触れることが許されたということだが、その理由については私には分からない。
 敷地の中央に建っているのが聖母誕生教会。1833年の大火後、再建されて僧院で中心的な建物となっている。アーケードとなっている白黒の縞模様のアーチ内には、壁と天井一面にフレスコ画が描かれている。教会内部の壁は、黄金に輝くたくさんのイコンで飾られ、多くの人達の視線を集めていた。
 僧院内で唯一1833年の火災を免れたのが、石造りのフレリョの塔である。14世紀に建てられたそのままの姿を私達は見せてもらっているわけで、身震いするほどの感動を覚える。塔の外壁に描かれた壁画も見逃さないように。

リラの僧院へ向かう高速道路
リラの僧院の入り口
聖母誕生教会
僧院内部
唯一火災を免れた「フレリョの塔」 。 壁一面がフレスコ画で覆われている
天井画
天井画

ソフィア市内見物開始
 隣接するソフィア中央駅とソフィア中央バスターミナルから南に向かうメインストリートがマリア・ルイザ通りである。ターミナルから歩いて10分ほどでライオンの像が建つライオン橋に着く。予約したホテルはすぐ前にあり、地下鉄駅も目の前だ。この街には東西・南北を走る地下鉄があり、便利な交通システムであるが、行きたい場所への行き方をホテルの従業員に聞くと、「徒歩が一番」という答えが返ってくる。歩いて30分くらいは徒歩圏内と考えているみたいで、「途中で楽しむ観光資源が多いのだから楽しみながら行け」と、言っているのかもしれない。と言うことで、歩きながら由緒あるソフィアの歴史的建造物を楽しみましょう。
 ホテルからマリア・ルイザ通りを南下して5分ほどだったろうか、右側にソフィアのシナゴーグが見えてくる。私は世界の都市で十数か所のシナゴークを見てきたが、一般的には地味な感じの外観が記憶にあるが、ここソフィアのそれは、御覧のとおり、派手とは言わないが明るい感じの美しい建造物である。
 ユダヤ人の勢力図は、南欧系(スペイン系)セファルディムと東欧系アシュケナジムに分けられるが、ソフィアのそれはセファルディムであり、しかもヨーロッパで最大のシナゴーグである。1909年に完成したソフィアで唯一のユダヤ教寺院である。落成式には、ブルガリア王のフェルディナンド1世(在位1887~1918年)とエレオノラ王妃がご臨席席されたという。
 シナゴーグの横には、これまた美しいセントラル・ハリと呼ばれるショッピングセンターがある。1910年に建てられたかつての中央市場で、焼き立てのパンや珍しいものでは水牛のヨーグルトなどの食品、服、コート類のファッション、宝石など、何でもありである。朝早くから夜遅くまでの営業がありがたい。せっかくブルガリアに来たのだから、上質のワインが欲しい。おじさんが一人で店番をしているワインショップを覗いた。身なりを見て貧乏人に見えたのか、私にとっては旅の安全上有難いことなのだが、安い品を並べる。「他のを」と言うと、もっと安いのを出してくる。「違う」と言うと、小瓶を出してくる。結論から言うと、このおじさん、まったく英語ができなかったのだ。私のジェスチャーから推測して対応していたのだ。ユーロは知っているみたいなので、ある数字を紙に書いて見せると、笑っている。冗談だと思っているらしい。でも、私が真剣な顔をすると、奥から出してきました。ボトルの扱い方が違ってきました。余程うれしかったのか、商売になると思ったのか、俄然、元気になった。「バイバイ、私は忙しいのだ」と日本語で言って別れた。

ライオン橋
ソフィアのシナゴーグ
シナゴーグに隣接するセントラル・ハリ (中央市場)。 ーニヤ・バシ・ジャーミヤの向かいに 位置する
セントラル・ハリの内部

ギリシアのテッサロニキ

時差に気を付けて
 今日は、2019年6月25日。マケドニアのスコピエからギリシャのテッサロニキに移動する日である。6月1日に日本を出発してからクロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、アルバニア、マケドニアと、いわゆる中央ヨーロッパの南側を時差を気にしないで周遊してきたが、 いわゆる『夏時間(サマー・タイム)』の最中なのでギリシアとの時差は1時間である。 時差について話し始めると、UTCだ、CEST( 中央ヨーロッパ夏時間)だとややこしくなるので、ここでは時計の針を動かすだけにしたい。
 ややこしいことをもう二つ。 テッサロニキ のことを ソルン( COLYH )と言う人がいるが、スラヴ語だそうだ。 そして、これから向かうテッサロニキのバスターミナルはマケドニア・ バスターミナル と呼ばれている。
 マケドニア国のスコピエの バスターミナル から3時間半の行程である。 到着後、市内へは市バスの8番、31番、45番で移動できる。

ギリシアへの入国

 テッサロニキは、ギリシア第二の都市だけあって観光客の遊ばせ方も上手だ。市内の見所8ヶ所を約80分で周遊するバスが、約40分ごとに運行する。 2日間有効 の乗車券は €10 で、現在、博物館として使用されているホワイトタワーが 出発および終着の起点となっている。もちろん、乗車は走行経路の8 ヶ所の好きな所で可能で、 その際に乗車券を購入すればこのサービスを利用することができる 。私は、利便性よりも勝手気ままにぶらぶら歩きが好きなので、いつも通り、歩いて観光することにした。

ホワイトタワー
 ガイドブックによると、ホワイトタワーは12世紀頃のビザンティン時代に建てられたといわれる古い塔の跡に、オスマン帝国時代に港を囲む城壁を造る時に改築されたという。最初は砦として、後に牢獄として使われ、現在はイコンなどを展示した博物館として利用されている。テッサロニキのランドマークとして観光や交通の中心として活躍している。

イコンなどを展示した博物館として利用されているホワイト・タワー
塔から眺めるテルマイコス湾沿いの街
塔から眺めるテルマイコス湾沿いの街

 ホワイトタワーの近くに、テッサロニキ考古学博物館がある。地元や東西マケドニア、ハルキデキ半島などで発掘されたローマ時代の彫刻や装飾品などをテーマを分けて展示している。人気はアレキサンダー大王の父、フィリッポス2世の墓からの出土品である。

テッサロニキ考古学博物館
考古学博物館 の正面入口の両脇に置かれた大理石の石棺

旧所名跡に事欠かない
 さすが、アテネに次ぐギリシャ第二の都市であるテッサロニキは、町の至る所、旧所名跡に事欠かない。メイン・ストリートのエグナティア通りに入ると、私が心待ちにしていた、『ガレリウスの凱旋門』に出会える。古代ローマ皇帝ガレリウスが297年にメソポタミアに遠征し、ササン朝ペルシアとの戦いに勝利したことを記念して303年に建設された凱旋門である。表面のレリーフに、その勝利を称えるシーンが彫られている。
 解説書によると、元々は中央にドームがそびえ、4 本の大きな柱が並んでその両隣りにさらに 2 本の小さな柱が並んでいる構造だったという。街並みに当てはめてみると、凱旋門は街の 2 つの大通りをまたぐように造られ、そのうち 1 本がガレリウスの宮殿まで延びていたということであるから、現在我々が目にするのはその一部にすぎない。いずれにしても、壮大な都市の形成があったことがしのばれる。胸が躍ってきませんか。凱旋門があるエグナティア通りは、世界の歴史に華々しく登場するコンスタンティノープルとローマを結ぶ街道で、…、「旅万歳!」。
 話がそれるが、いゃ、もうそれているが、世界各地、各都市に『凱旋門』があるが、文字通り『(アルク・ド・トリヨーンフ)Arc de triomphe(戦勝のアーチ)』である。したがって、パリの『新凱旋門 グランダルシュ(la Grande Arche)』には、戦勝記念碑ではないので、正式名称に “triomphe” が付いていない。すなわち「凱旋門」ではないことになる。こんなことを考えながら古のテッサロニキに思いをはせていると、車のクラクションを鳴らされる。ウィンクをして謝って、メィンストリートを避けて山側に向かった。

ガレリウスの凱旋門
門があるエグナティア大通りはヴィア・エグナティアと呼ばれ、かっての東西交易の幹線ルートだった
ガレリウスの凱旋門

山側のロトンダ
 ガレリウスの凱旋門から山側(北側)に向かうと、ドーム型ロトンダが見える。ガレリウスの凱旋門と並んでテッサロニキ最古の建築物である。このロトンダは、歴史的には、元々はガレリウス皇帝の霊廟として306年に建設されたのだが、400年頃キリスト教の教会に改造された。そのため、地元の人々はイオルギオス教会と呼ぶ人が多い。そして、オスマントルコの時代にはモスクとして使用された歴史を反映して、名残のミナレット(尖塔)が残っている。ロトンダの見どころの一つは天井のドームであるが、ここでは5世紀頃のモザイク画が描かれ、正面(中央)のフレスコ画は9世紀の作品と言われている。
 我が国の建築構造物のプランナーや、研究者、専門家は、『ロトンダ』を日本語として使うほど、この円形ないしはそれに近い多角形プランの構造物を身近なものとして扱っている。私も個人的には、円形の空間が好きで 居心地(いごこち) の良さを感じる。訪れた時は内部を修理中であり、偶然にも内部構造の一部を見ることができた。詳細は技術的な話題になってしまうので、今日はここまで。
 ところで、『ロトンダ』で著名というか、旅行者にお馴染みなのは、2世紀初めに築かれたローマのパンテオンであろう。その壮大な円形神殿の中に入って上を見上げると、直径9メートルもあるオクルス(目)と呼ばれるクーポラ(ドーム)の天窓から光が注いでいる。 居心地 の良さというよりも、吸い込まれるような、何とも言えない畏怖を覚えたことを記憶している。

テッサロニキのロトンダ。世界遺産。もともとガレリウス皇帝の霊廟として306年に建設された
ロトンダの内部
ロトンダの内部
世界的に著名なロトンダであるローマのパンテオン(内部)

アギオス・ディミトリオス教会
 ここロトンダまで何とか迷わないで来た。逆説的に「こんなに迷わないなんておかしい、そろそろ危ない」。しっかりと地図を見て、次に訪問するアギオス・ディミトリオス教会の位置を確認する。ロトンダからまっすぐ北に数百メートルも歩けば、まさに教会の名前を付けた大通りの『アギウ・ディミトリウ通り』に突き当たる。左折して西に向かって歩けばバッチリだ。ここまでさんざん方向音痴談議に突き合わされた皆様は、「きっと迷うぞ、ロスト・マイ・ウェイだ」とお思いでしょう。「そうです。迷いません?でした、ハィ」。「本当です、ちゃんと行けました」。
 アギオス・ディミトリオス教会は、初期ビザンチン建築の代表例として知られ、1988年に「テッサロニキの初期キリスト教とビザンチン様式の建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。テッサロニキの守護聖人ディミトリオスが殉教した場所に5世紀に建造されたギリシャ最大のギリシャ正教の教会であり、2列の側廊があるバシリカ聖堂様式が際立つ。ガイドブックによると、1916年に火災に遭ったが、燃え残った建築資材を利用して再建されたという。中央の大理石で造られた半円形の水盤の位置は、ディミトリオスが殉教する前に監禁された場所と言われている。

アギオス・ディミトリオス教会
半円形の水盤は、ディミトリオスが殉教する前に監禁された場所と言われている
アギオス・ディミトリオス教会の内部 。初期のバシリカ聖堂の様式を現代に伝えている
アギオス・ディミトリオス教会の内部

ビザンティン様式は続く
 実は、トルコのイスタンブールでその多くが失われてしまったビザンティンの文化がこの町でこんなにも堪能できるとは思っていなかった。アギオス・ディミトリオス教会からすぐ南側にある市内バスターミナルを通り過ぎると、パナギア・ハルケオン教会がある。世界遺産に登録されているビザンティン様式の構造物群のうちの一つで、11世紀に建てられたレンガ造りの教会である。小さな教会にもかかわらず窓が多く、その対比からか余計に窓が気になる。
 パナギアとは、ギリシャ語で「全き聖」を意味する、生神女マリヤ(聖母マリア)の称号の一つだそうだ。

パナギア・ハルケオン教会
違う角度から撮ったパナギア・ハルケオン教会

文明の重圧から解放されて
 パナギア・ハルケオン教会とその周りをうろうろしていると、いつの間にかメインストリートのエグナティア通り、そして南側のエルムー通りにいる。ここに「来た」と言うよりも「いる」という感じである。街が狭いというか、文明の空間が広いというか、本当に豊かな気持ちになる、そして私の性向なのか、エキサイティングな気持ちになってしまう。
 それに加速度的に追い打ちをかけるのが、『中央市場』である。中央市場をミャッピングすると、エルムー通り辺りから南のツィミスキ通りの一帯である。午前中は肉、魚、野菜を求めて市民があふれ、ギリシャらしく甘いものを求めてお菓子屋そして花屋も忙しい。お土産屋も安さで人気である。この辺りだけで、都市の活気を味わうことができ、一日いっぱい楽しい時間を過ごすことができる。『日本語遊び』でよく出てくる『タベルナ(ギリシャ料理を提供する小規模なレストラン)』も新鮮な食材や安さで、地元民だけでなく旅行者にも大人気である。私は、旅行先の食について語らないのを旨としているのだが、『タベルナ』を出してしまったので、つまり、ギリシャで食について語るとしたら、『ギロ(GYRO)』は外せない。ここではポークギロやチキンギロ、ラムギロがメインである。形としては、パンをクルっと巻いてしまうスタイルで、皆さんは丸かじりする。プレートで出すギロプレートもある。いずれも、決め手は「ザジキ(ジャジキ)」ソースだ。ギリシャヨーグルトとガーリック、キュウリで作ったディップである。お試しあれ。

エルムー通り近くにある中央市場
中央市場 にあるお菓子屋
中央市場 にある花屋
安さで人気の土産物屋
中央市場 にある魚屋

腹もふくれたし
 青空、青い海、そよ風、海産物の食、グリーク・ホスピタリティ、決め手は悠久の歴史と文化、去りがたい街の1つである。誰かさんと一緒に訪ねたい街である。その中心は、アリストテレス広場である。古代ギリシャ哲学を代表する『ソクラテス(紀元前469年~前399年)、プラトン(紀元前427年~前347年)、アリストテレス(紀元前384年~前322年)』のアリストテレスである。当時13歳であったマケドニア王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の家庭教師であったアリストテレスである。広場の中心に鎮座され、多くの観光客のカメラのシャッターに応えていらっしゃる。ここから眺める山側・海側の両景色も本当に魅力的で、やはりシャッター音が続く。この美しく清潔感あふれる街を思い思いに楽しみながら散歩する人が多く、とくに、テッサロニキ駅や駅前バスターミナルからテルマイコス湾に沿ってホワイト・タワーまで向かうルートの途中にあるためか、人出が多い。この風景、この空間の雰囲気を言葉にしてしまうと、現実の景色や空間が逃げていきそうなので、今日はこの辺りで…。
 最後に、たくさんあるアリストテレスの名言と世間で言われるものの1つをご紹介したい。「母親は、夫よりも自分の子供の方を好む、何故ならば、彼らは自分のものであることがより確かであるから」。私には、この意味がどうしても理解できない。素直にとればいいのか?素直とは何か?皮肉を込めて言っているのか?男を脅しているのか?皆さんでご議論下さい。それが彼の目的なのかも。

アリストテレスの像
アリストテレス広場から海側を見る
アリストテレス広場から山側を見る

マケドニアのスコピエ

スコピエ
 オフリドから同じくマケドニアのスコピエにバスで移動する。同じ国で、それも首都に向かうのでバスの便数も多く、また、既にオフリドで両替したデナル(DEN)もあるので、ここで両替に気を使わなくてもよく、旅の手続きがスムーズだ。3時間半でスコピエに到着する。この国の周辺国も含めて鉄道よりもバスによる移動が便利であるが、バスターミナルの横に鉄道駅があると聞いて、覗いてみるのは鉄道独特の旅情が好きなせいであろうか?気がついてみると、用事もないのに、時刻表を眺めたりしている。こういう時が危ない。旅行ガイドブックに「安心してると窃盗や引ったくりに遭う。手荷物は自分の体の正面に」と書いてある。手荷物の確認を再度する。大丈夫だ。
 ホテルは、この町の中心であるマケドニア広場から南へ歩いて数分の所にあるマザーテレサ記念館の近くに予約した。ここはマザーテレサの生地なのだ。それに、「銅像が大好きならスコピエへ行け!銅像の数が多いだけでなくデカい!」とも聞いた。目印がたくさんあるのだ。いくら方向音痴でも迷いようがない、かな?

迷わない
 ホテルにチェックインして、さあ、市内見学だ。ここスコピエはマケドニアの首都、通貨は前述したようにオフリドで両替したデナル(DEN≒2円)なので安心だ。と、胸に手を当てて財布を確認して、…、数分歩くと、2009年にオープンしたマザーテレサ記念館である。18歳までここで過ごした彼女のその後の業績を讃えて、2階に展示室、3階に礼拝堂がある。すぐ側の10月11日通りに入ると、「やったぁ、さすがスコピエだ、何か大きな銅像が見える」。この通りは町の中心、マケドニア広場にまっすぐ通じていて見通しが良く、なおかつ広場の中心に建つ馬に乗ったアレキサンダー大王の銅像が大きいため遠くからでも分かるのである。なんと、台座をあわせると約25メートルの高さなのである。うれしい。方向音痴にも歩きやすい『ユニバーサル・デザイン』の町づくり、表彰ものだ。
 この町は、ヴァルダル川を境に旧市街と新市街に分かれている。新市街の中心にあるのがこのマケドニア広場であり、橋を渡って南側が旧市街で、オールド・バザールなどがある。その橋が、オスマン・トルコ時代の15世紀に造られた橋が、旧市街と新市街を結ぶ石橋(カメンモスト)が私を魅了してしまった。色々な国で、オスマントルコ治世下に建設された橋を見てきたが、共通するのは重厚にして洗練されたその姿であり、力学的な安定感である。笑われるかもしれませんが、迷ったのではなく、楽しさに浮き浮きして石橋の上を5往復したのである。5往復。
 この石橋をカメラにおさめようとすると、角度によっては白亜の建物が主役に華を添える。古代ギリシャのパルテノン神殿をモデルにした考古学博物館である。マケドニアを統治した王朝の硬貨や陶器などのコレクション、石器時代の母神像などが展示されている。

マザー・テレサの像
マケドニア広場の中心に建つ馬に乗ったアレキサンダー大王の銅像。台座をあわせると約25メートルという大きな像
マケドニア広場
街の南北を結ぶカメン・モスト。この重厚な石橋はオスマン帝国時代に建設された 。 白亜の建物はマケドニア考古学博物館
違う角度(対岸)から撮ったカメン・モスト
古代ギリシャ・パルテノン神殿をモデルにした白亜の建物、マケドニア考古学博物館

カメラ担当
 石橋を5往復もすると、暇な奴だと思われるのか、「写真を写してくれ」と強制的にカメラを渡される。アジア人の集団に頼まれてしまった。この町で知り合いになったモンゴル人とベトナム人だという。モンゴル男がベトナム女に「ブス来い」と言って、一緒に写真におさまろうとしている。「無礼な奴だな、こいつ」。『 ブス 』の語源は何なのか、こんな侮蔑的な言葉は調べたくもないが、「サイなんとか、ブス来い」とまだ言っている。その意味が分からないのは、日本人の私だけみたいだ。「イングリッシュ、プリーズ」。何度かやり取りして、彼は、「サイハン・ブスクイ」とか言っているのが分かった。「なんだ、それ?」。「ビューティフル・ガール」。「ビューティフル・ガール,イズンネ?」。「イェス、サー」。「なにっ、美しい女性?」。「ブスが何で美しい女性になるんだ」。モンゴル語だそうだ。本当かね。この際だから「ブス、ブス、ブス」と女性3人に言ったが、きょとんとしていた。「皆さん、きれいだったなぁ」。でも、ほめ言葉であってもこのスチュエイションで、言ってはいけない。

サイハン・ブスクイたちと別れて
 『サイハン・ブスクイたちに』、じゃない、石橋に未練を残して、ヴァルダル川に沿って南へ向かう。目的は、聖クリメント主教座教会である。そのモダンな外観も魅力的であるが、アーチとドームのみで構成された建築構造に興味があるためである。1972年から1990年の18年をかけて施工された比較的新しい教会である。前の噴水はイスラム教団体から贈られたそうである。
 教会の守護聖人・聖クレメントを祀っている内部空間は見応えがあり、巨大な天井は、不謹慎な言い方になるかもしれないが、フォトジェニックである。宗教施設なので、『写真撮影可能』と言っても、少しは遠慮して一部をお見せしたい。

聖クリメント主教座教会。前の噴水はイスラム教団体から贈られた
聖クリメント主教座教会の内部

旧市街側へ
 聖クリメント主教座教会の近くにあった橋を渡って旧市街側に移動する。川の北岸の小高い丘の上から町を見下ろすようにして、城塞跡がその威容を誇る。11世紀頃に丘を囲むように建造され、城壁は所々で途切れているが、その一部が残っている。城壁のある丘の上には比較的簡単に登ることができ、ここから望むスコピエの町はまさに絶景である。

スコピエの城塞跡
スコピエの城塞跡
スコピエの城塞跡
城塞跡から眺める市内
城塞跡から眺める市内

もう一つ、古い建物
 城塞の跡地でうろうろして景色を楽しんでいると、小学生ぐらいだろうか、小さな子供が犬を連れながら散歩している。私は犬に好かれるほうで、この犬もしっぽを振りながら私をじっと見ている。飼い主のお嬢さん、「ソーリー」と言いながら、私にナンをくれた。よほど、貧しく見えたのだろうか?確かに旅行中の私は、如何にも貧乏くさく見える格好を心掛けている。「心掛けなくても、いつもの通りでいいのでは?」と言うなかれ、「…会」という会議で、「たった一人、いつもスウェーターで出席しているのがいる」と言われるくらい?、結構おしゃれなのです?そしてクレジットカードにも気を付けてください。プラチナやゴールドは、時計で十分。誰かが見ています、普通カードがお勧めです。以上、『旅行の心構え』でした。
 「プラチナやゴールドは、時計で十分」と、言いましたが、旅行中は「正価?3000円の腕時計をネットで1000円で買った時計を持ち歩くようにしています。ある、開発途上国と言われるアジアの国で、同じ時計を持っていた若者が自慢げに「The same」と言って、握手を求められた記憶があります。彼は何を言いたかったのか、「The same」という言葉に含まれた意味を7年ほど経った今でも考えることがある。「お前、暇だな」と言わないでください。気になるんです。旅で覚えていることって、こんなことなのです。私の場合は。
 少女とワンちゃんにお礼を言って、城塞の東側を下りた場所にあるモスクに向かう。オスマン帝国によってスコピエが陥落した直後の1492年に建てられたイスラム寺院である。東西の歴史を、人々の交流を、…を考えながら旅をされる方々には、1492年は象徴的な年でしょう。西洋人の歴史観に立てば、コロンブス(イタリア名;コロンボ)が最初にアメリカ海域へ到達した年である。でも、アメリカにネイティヴが住んでいたはずで、…、まあ、そこは、1000年後?の世界の人々の歴史観にお任せしましょう。
 それにしてもこのモスクは、曲線を利用した実に洗練された美しい姿なのに、写真撮りが不十分で申し訳ありません。

アメリカ合衆国
 日本語によるアメリカ(米国)の正式表記は『アメリカ合衆国』である。でも、独立した各州が集まって、連邦制で国家が形成されているUnited States of AmericaのStatesが州を意味するのであれば、『合州国』が適切ではないかという意見も正しいように聞こえる。もっとも、『合衆国』は共同や協力を意味する『合衆』する国という造語だとすると、それにもうなづける。ものの本によると、この『合衆国』なる造語を最初に作ったのはマカオ在住のドイツ人宣教師達だったそうだ。

ムスタファ・パシナ・ジャミーヤ。オスマン帝国の攻撃でスコピエが陥落した直後の1492年に建てられたモスク
モスクの内部

ミレニアム
 いきなりですが、話が、そして空間が飛びます。スコピエ郊外の高さ1066メートルのボドノ山の山頂に建つ高さ66メートルの十字架、ミレニアム・クロスである。中腹までバス→ロープウェイ→頂上と容易に行けるらしく、シーズンには多くの人々がピクニックに出かけるとのことです。私めはもっと楽に、遠くからズームアップして写真を撮りました。古めかしい写真に見えますが、単にさぼったせいです。

ボドノ山のミレニアム・クロス

旧市街
 ムスタファ・パシナ・ジャミーヤの続きに戻りましょう。いよいよ、オールド・バザールに来た。この一角にマケドニア博物館がある。首都にあり、国名を名のる博物館だけあってマケドニア最大の博物館である。民俗学部門、歴史部門に分かれており、各地の民族衣装、伝統家屋の模型、オスマン・トルコ帝国以降の歴史に関する展示など、多岐にわたっている。
 さて、トルコに行かれたことのある方には、思わず、「懐かしい」と叫んでしまうエリアがオールド・バザールである。この市場の界隈にはトルコ人が多く住むこともあって近くにモスクがあり、イスラム教の雰囲気がたっぷりと漂う。20世紀初頭までの約500年間オスマン・トルコ帝国に支配されていた証である。
 ごめんなさいね、私の言う「うろうろ」して、つまり『そぞろ歩き』をしながら、市場のオヤジを冷かし、つまみ食いをし、ちょっと本気で『魚のスープとパスタ』を食し、(モスレムではないので)なにをちびりちびり飲り、…、庶民の文化を吸収し、…を楽しむ。私は旅をしているのです。

マケドニア博物館
バザールの入り口のひとつ。ビト・バザール付近
オールド・バザール
オールド・バザール
オールド・バザール
鍛冶屋さん

さらに旅を求めてマトカ峡谷へ
 スコピエの市内バスターミナルから60番のバスで1時間15分で終点、そして徒歩15分ほどでマトカ峡谷に着く。1、2時間に一本の運行であるが、通常の気候条件下では 運行 の定時制は守られているようだ。途中まで乗用車やバスで行くことができ、その後舗装道路を歩いて峡谷に向かう。実はこの観光地はダムによって造られた人造湖なのである。 風景を楽しんだり、ハイキングをしたり、ボート遊びを満喫できることからスコピエから気軽に行けるアウトドア・スポットとして人気のエリアなのである。
 ところが、異変が起こった。バスを降車して徒歩で峡谷の中間辺りまで来たところ、歩き始めてから30分後くらいだろうか、いきなり空が暗くなり、雨が降り始めた。渓谷どころか、普通の山の中でもこのような天気の急変は経験したことがない。雨の勢いはさらに強くなり、雷が鳴り始めた。恐怖に怯えた表情で皆さんが先ほど来た道を戻っている。よく理解できないが、戻るしかない、さっき降りたバス停に行って、いつ来るか分からない帰りのバスを待つしかない。濡れながら十人ほどかたまっていたので、その仲間に入れてもらったのだが、雨具を持ち合わせていないので降り続く雨を避けることができない。誰かが、「もう少し戻るとレストランがある」と言ったので、多くの人がそのリーダー?についていって、途中にあったレストランに入れてもらった。
 ここで、第一のお助けマン( リーダー? )に続いて、第2のお助けマンが現れた。このレストランの支配人がバス会社と電話で連絡を取りながら、「スコピエ行きのバスはこちらに向かっている。バス停ではなく、このレストランの前まで来てくれる」。「ブラボー」&拍手喝采。そして感動した。有志のチップを受け取らなかったのだ。「男だね」と言ったら性差別かな?「ヴェリー、ありがとう、お助けマン」。「いや、お助けパーソン」。切れ味が良くないね。

マトカ峡谷へバスで向かう。途中、道路工事中
バスを下車後、峡谷へ歩く 。人々が川遊びをしている
とうきび屋さん もいる
美しい風景が続く
ここはダムによって造られた人造湖なのだ
ボート屋さん
歩き始めて30分後くらい 経ったろうか、15時半頃から雨、雷が始まった

マケドニアのオフリド

ティラナからオフリドへ
 去りがたい『アルバニアのティラナ』から次の訪問地『マケドニアのオフリドへ』へ向かう。このルートのバス移動については、ネット上でも情報が飛び交っている。ティラナからストルーガにバスで移動し、そこからタクシーでオフリドへ向かうという情報が多いが、そして私も、バス会社でそのルートをお願いした。「ストルーガに用事があるのか?」、「ここティラナからオフリドまで直通があるので座ったままで行けるよ」と、教えてくれる。
 今乗車券を見て書いているが、ティラナ発14時00分、18€とある。会社名は『EURO BUS』 で住所はSTRUGA, Tel.046 787 312、Mob.070 940 787である。 2019年6月のことである。親切なティラナの窓口の女性、私との英語の会話に不安を覚えたのか、それと確認のためか、Every dayとメモってくれている。ティラナ発17時00分のバスもある。記憶が定かではないが、14時発のバスで17時頃に国境、18時30分頃にオフリドの町の北東にあるバスターミナルに着いたと思う。時間などについては電話で確認をして下さい。
 バスターミナルから予約しておいたホテルまで歩いて5分ほど、近くにスーパーマーケットなどもある便利な所だ。早速、お助けマンに手伝ってもらってATMを操作してマケドニア通貨デナルDENを引き出す。1DEN=約2円と、掛けるあるいはかけられる数字が一桁なので日本円に換算しやすい。ましてや、2円ならば倍にするだけなので暗算でできる。これが、二けたの場合は掛け算が遅くなるか、不可能になってしまう。「いや、年は…」。
 アルバニアのある意味、素朴で優しい人達を思い浮かべ、そして、これからの旅の安全と楽しいことがあることを祈って、恒例の、そう、今まで書かなかったのですが、恒例の乾杯です。横道にそれます。『こうれい』と打って変換すると『高齢』、『かんぱい』と打つと『完敗』と出る。どうしたんだろう。何か忘れているのかな?そうだ、順調にここまで移動できたので、安心してまだシャワーを浴びていなかった。『神のお告げ』だ。シャワーを浴びて「恒例の」「乾杯」。一人旅のせいもあるのか、これから着替えてホテルのレストランに行くよりも、Tシャツのまま飲るのが私流です。
 文章がくどくなってしまいますが、大事な情報を。マケドニアでは夜7時以降の酒類の販売は禁止になっています。私もあぶなかったです。
 今日はここまで。「お休みなさい」。

アルバニアとマケドニアの国境
これが今日の一本

おはようございます
 昨晩のワィンが効いた。「頭が重いのかな」とお思いでしょうが、逆にすっきりで、『ユネスコ世界遺産』の複合遺産であるオフリドの観光に朝一番に出かけた。一種の習性というか、調子の良い時はホテルから遠い場所から観光を始める。遠い場所というのは、地図上の直線距離である。例えば、ホテルからA地点まで5キロメートル、バスもある。B地点まで1 キロメートル という場合、間違いなくA地点までバスで出かける。近くの場所は、残っていても容易に行けるという戦略的配慮とまでは言わないが、この方法で『方向音痴』をカヴァしているところを考えると、同類の方々にはお勧めですよ。
 その遠い所であるが、今回は空間と同時に時間も遥か遠い古代劇場である。紀元前200年頃に建設され、当時はさらに上階もあったというから相当数の観客を収容できたものと推定される。このアリーナは面白い歴史を持っていて、1980年代に偶然に発見され、その後発掘修復されたそうだ。上からは旧市街を見渡せ、さらに美しいオフリド湖を望むことができることから、写真を撮るには最高のスポットです。
 私は6月に訪れたのだが、この後、夏場に向けてコンサートや各種の催しがあるそうです。お見逃しなく。

古代劇場

見逃されない
 古代劇場から西側に向かって歩くとサミュエル要塞がそびえ立っている。『サミュエル』の名は10世紀から11世紀にかけてこの要塞を築いたブルガリア帝国のサミュエル皇帝の名からとったものである。皇帝はオフリドをブルガリア帝国の首都と定めた人物であり、また、ビザンティンからの独立を守りぬいた人物でもある。
 ここからの眺望は美しいオフリド湖や街の景色を満喫できる場所であり、多くの観光客は要塞や城壁を見るよりも、カメラを構えて湖や町を写している。

城壁には4つの門があったが、現在残っている2つのうちの『上の門(Upper gate)』
旧市街を囲む城壁の一部
サミュエル要塞
サミュエル要塞とオフリドの町

要塞から教会へ
 サミュエル要塞から南へ少しずつ降りていくと、初期キリスト教の遺跡群であるプラオシュニク(plaosnik)がある。その跡地の一部に建つ聖パンテレイモン教会は、どの角度から見ても美しい外観を保っている。10世紀頃に建てられたオフリド最古の教会と言われているらしいが、再建を重ねて古めかしい感じはしない。
 バジリカや洗礼室の床のモザイク画などがフラッシュを浴びていたが、観光客は少なかった。。

聖パンテ レイモン教会の玄関
後方から眺めた聖パンテレイモン教会
プラオシュニク。聖パンテレイモン教会周辺にある初期キリスト教施設の遺跡
床のモザイク

あらためて教会
 聖パンテレイモン教会からオフリド湖岸に向かって下っていくと、岬の先端に13世紀に建てられた小さな教会が見える。14世紀に火災にあったことやオスマン・トルコ時代、その後に続く幾多の歴史をくぐってきた建物は、1968年に現在の姿に修復されたそうである。「アルメニア教会の影響がみられる」との紹介記事もあるが、解説するには私には荷が重すぎるようだ。私も含めて多くの観光客が内部のフレスコ画をあてにして訪れていたが、閉鎖中であった。
 それにしても美しい風景ですね。ピンク色のレンガで建てられたこの教会を引き立たせるのは、何といってもバイカル湖に続いて、世界二番目の澄んだ湖、透明度20メートルを超えるオフリド湖である。重いのが嫌で最近は敬遠しているが、この時ばかりは一眼レフが欲しい。

岬の先端に建つ聖ヨハネカネオ教会。13世紀創建
聖ヨハネカネオ教会から観る岬の先端

また教会
 聖ヨハネカネオ教会の近くに有料のボート乗り場があり、乗船して湖側から湖畔の景色を眺めることができるが、この美しいオフリド湖を眺めながら湖畔沿いに歩かない手はない。木で作った遊歩道があって、自転車で走っている人もいる。どこに向かうのか分からないが、何か教養のありそうなご夫婦が、私には少し速足だが、歩いていたので、その後をついていくことにした。15分も歩いただろうか、立派な建物が見えてきた。後ろに気配を感じたのだろうか、私に向かって笑顔で、「聖ソフィア教会」と教えてくれた。相当な知識人で、久々に緊張感を感じながら、この教会のことを教えていただいた。覚え立てであるが、まとめたい。
 聖ソフィア教会は11世紀初め頃に建てられた教会で、オフリドで一、二を争う大きい建物である。オスマン帝国時代には、約500年にわたって支配され、この教会はイスラム教のモスクとして使用され続けた。「各国各地」で見られるように、異教徒の作品、この場合はビザンティン美術の傑作といわれるフレスコ画は上から塗りつぶされ、長い間眠っていた。キリスト教会に再び戻されたのは、なんと第2次世界大戦後のことである。そして、建物内部に描かれた11世紀から13世紀頃のフレスコ画も復元され、今に至っているとのことです。これを聞いただけで立ち寄ってみたくなるでしょう。天井画も忘れないようにね。
 もう1つ。教わったことで印象的な言葉をご紹介します。「オフリドは、スラブ世界におけるキリスト教文化として栄えた歴史を持ちます。あなたが楽しんでいるこの街並みです」という言葉だ。私が持つ感性とか知識からすると、この街の風景に『スラブ社会』を重ねることは難しく、考え込んでしまう。旅で出会った人たちに聞いてはいけないこと、「あなたはどこの国の人ですか」と思わず聞いてしまいそうだ。「世界は多様で、複雑で、でも優しさにあふれている」を信じて旅を楽しまなくては。続けよう。
 聖ソフィア教会の中庭に行くと、壁に色々な絵が描かれている。触る人がいるのだろう、鉄格子の覆いがかけられているものもある。向かって左側の彫刻に、今日のお助けご夫妻が見入っている。「What’s」。思わず私が「ケンタウロス」と発音すると、「What’s」が何度も発せられる。確かに、英語、フランス語、ギリシャ語、…、と言語だけでなく、微妙に発音が違う「ケンタウロス」である。ざっくり言えば、ドイツ語が近いか?「ギリシア神話の半人半馬の怪物」と説明して、やっと分かってもらえた。確かにケンタウロスに似ているが、真偽のほどは分からない。でも、それ以上は、ご婦人の前では表現しづらいこともある。不正確な英語表現でケンタウロスについて語ると、セクハラになる可能性もある。深読みすぎるかな?とにかく、ひとまず、おしまい。

聖ヨハネカネオ教会付近と聖ソフィア教会方面をつなぐ木製の遊歩道
11世紀初頭に建造された聖ソフィア教会.
教会の中庭
中庭の壁に描かれた絵
中庭の壁に描かれた絵
『ケンタウロス』?

はじまり
 ランチを済ませて、午後の始まりは聖ソフィア教会のすぐ近くにあるという国立博物館である。入口が分かりづらく、相も変わらず、うろうろしていたが、近所のおじさんみたい人が「ミュージアム?」と言って教えてくれた。「多くの人が迷う」そうです。そして、この建物は出窓がはみ出た伝統的建築.『オフリド様式』だと教えてくれた。写真を撮るんだった。
 19世紀の貿易豪商ロベヴィRobevciの屋敷を利用した国立博物館と言われても、この人物について全く知らない私は、「そうですか」としか言えない。ギリシア・ローマ時代の発掘物や衣装などが展示されていた。知識を吹き込まれたせいか、博物館というよりもその成り立ちから分かるように、豪勢な屋敷といった感じであった。

おわり
 オフリド旧市街の散歩の終わりは、聖クリメント教会である。元々は聖母マリアに捧げられた教会であったが、聖クリメントが亡くなった時にその遺骸がこの教会におさめられたため、聖クリメント教会と名前を変えた経緯がある。そのクリメントであるが、解説書によると聖キリルと聖メトディウスの弟子で、886年頃にこの地に布教に訪れ、以来30年にわたってキリスト教文化の普及に身を捧げたという。師匠である聖キリルと聖メトディウス兄弟は、当時文字を持たなかったスラヴ語を表記するために工夫を重ね、後にキリル文字となったグラゴール文字を考案したと書かれてあったが、私にはちんぷんかんである。お許しください。
 さらに追い打ちをかけるように、当日は入場禁止となっていて、必見と言われる内部のフレスコ画をご紹介できなく、重ねてお許しください。

言語の話
 インターネットの普及で、英語を話す人が増えたと言われるが、あなたの周りではどうでしょうか?言語を通じて国民性を表す表現がある。「英語は商売をするための言葉」、「ドイツ語は口論をするための言葉」、「フランス語は愛を語るための言葉」、「スペイン語は神と話をするための言葉」。どうですか、ピンときますか?私が知りたいのは、「日本語は?」と「イタリア語は?」です。

国立博物館。旧ロベヴィの邸宅
旧ロベヴィの邸宅を利用した国立博物館の内部
旧ロベヴィの邸宅を利用した国立博物館の内部
聖クリメント教会

まだ終わらない
 オフリドに滞在した目的の一つは、近郊の町ビトラにあるヘラクレアを訪ねることである。早起きして、気合を入れてバスで1時間45分でビトラのバスターミナルに着く。町の南側に位置した鉄道駅と隣接しており、こじんまりとしたバスターミナルである。まず、町の概要をつかもうとうろうろしていると、お助けマン候補が話しかけてくる。鉄道駅、バスターミナルと言えば、普通の町ではタクシーの呼び込みが一般的であるが、「こんなに早い時間にオフリドから来るからには朝食は未だか」と聞いてくる。こちらも旅人の習性で、「食堂のおやじか?」と返す。「ノー」と言いながら、自分も食べている巨大ソーセージを挟んだナンを袋から出して私にくれる。このあたりのやり取り、人品の定めは直観だ。私は信じた、「良いおやじだ」。うまかった。
 町の概要、大きな通り、アレキサンドロス大王の父であるフィリッポス2世のこと、ヘラクレア遺跡への行き方、など、私が見学を期待し、そしてそのために欲しい情報をすべて教えてくれた。
 特別付録もあった。かつてオスマン陸軍士官学校の建物であった現ビトラ博物館である。なんと『近代トルコ建国の父』と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクがこの軍事学校の卒業生であったことを丁寧に、そして自慢しながら教えてくれたのだ。
 浅学の私がトルコのイスタンブールで至る所に掲げられている写真が『アタテュルク』であることを知ったのは、客引きをしているおじさんたちに教えられたのが初めてで、彼等は親しみを含めて『アタテュルク』と呼んでいた。ここビトラでは、『ムスタファ・アタテュルク』と呼び、ものの本によっては『ムスタファ・ケマル・アタテュルク』と書いてある。その理由が少し解けた。ソーセージおじさんによると、「ケマル」というのは「完全な」という意味だそうで、名前の一部では無いそうだ。いずれにしても、是非、行かなくちゃ。「ありがとう、ジャィアント・ソーセージさん」。

まずはヘラクレア遺跡
 ビトラのバスターミナルから南側へ歩いて15分で、ヘラクレア遺跡にたどり着く。紀元前4世紀にフィリップ2世によって創建され、最盛期には人口2、3万人を誇ったというから相当の規模の都市だったと言えよう。その後古代ローマ帝国、…、ビザンティン帝国と覇者が入れ替わり、現在に至っているが、現在、私たちが目にするのは紀元2〜3世紀」の「古代ローマ帝国時代」の遺構だという。まだ、全体の10%程度しか発掘されていないというから、全体像が明らかになるのはまだまだ先のことでしょう。
 入口に管理棟らしき建物があったが、誰もおらず、相当待った末に中に入ることにした。観光後、管理人がいたので「入場料はいくらですか?」と聞いたのだが、言葉が通じない。カメラを指さして指を2本立てたので2ユーロを支払うと「サンキュー」と言ったので、さらに1ユーロをあげると喜んでいた。
 ローマ遺跡につきものの浴場や劇場が遺跡としては比較的良い状態で残っていた。特にモザイクは美しく見事なものであった。私が訪問した時は6月で全てが公開されていたが、冬季にはモザイク保護のために砂で覆うなどの処置がとられるそうで、非常にラッキーだった。

特別に許可をもらって入場し、駅裏(ホーム側)を写す
ヘラクレア遺跡の入り口にある管理棟?
ローマ浴場跡
教会跡
教会の床のモザイク.
幾何学的な模様 のモザイク
動植物を使ったモチーフが多
古代劇場の下は小さな博物館に
古代劇場
古代劇場

次に旧市街
 ヘラクレア遺跡に超満足して、余韻を味わいながら北に向かう。色々とお世話になったバスターミナルで「後で来るよ」と挨拶して、さらに北へ向かう。旧市街である。先ずはビトラ博物館である。朝、Mr.Giant Sausageにたっぷりとご教示願ったムスタファ・アタテュルクに関する展示、ビトラ及びマケドニアの歴史のコーナー、ヘラクレア遺跡のモザイクなど、こじんまりとしているが、充実して展示であった。
 さらに北へ向かって街の中心が近くなると、人々の行き来が忙しなくなってくる。旧市街の中心にはフィリッポス2世像が建つ。子供達が周りを囲んで遊んでいる。どこの国でも、どこの町でも見かける風景だ。この町は歴史の成り立ちからして、モスクが点在するが、どっしりとして貫禄のあるイサク・ジャミーヤをお見せしたい。
 親切でユーモアのある人々に助けられて楽しい時間を過ごせたビトラともお別れの時間が来た。「さらば友よ」。

かつてアタテュルクが学んだという現ビトラ博物館
アタテュルク像の両側にマケドニアとトルコの国旗
ヘラクレア遺跡のモザイク
フィリッポス2世像が建つ旧市街の中心
イサク・ジャミーヤ

アルバニアのティラナ

ティラナへ行く
 今日は、たった2日間の滞在を終えてモンテネグロのコトルからアルバニアの首都であるティラナへ移動する。メモを見ると、08時00分にコトルのバスターミナル出発→08時30分にブドヴァで乗客→10時10分(約2時間後)にボドゴリツィアで乗客→その後居眠りをしたらしい→ティラナに14時頃着いたのであるから約6時間の行程である。
 ガイドブック以外の予備知識がまったくない国に3日間滞在の予定であるが、問題はここの通貨は隣国のマケドニアやモンテネグロでは両替できないという。ただ、単位通貨はレク、1 Lek=約1円なので換算はしやすい。ユーロもかなり流通しているという。両替屋があって、当日の為替レートでレクに両替が可能なのだが、如何せん、ジャパニーズ・イェンは不可能であった。ここで、お助けマンの登場である。銀行の横にあった両替屋さんのスタッフが30メートルほど離れた所にあるATMを教えてくれる。しかし、ここでも問題が…。ATMを日本国内ではまったく使ったことがなく、国外でも数回しか使ったことがないのである。それも銀行員に不審な目で見られながら、助けてもらって。見かねた両替屋お助けマン、私のクレジットカードを使って、必要金額を、と言ってもこの国の物価感覚がまだ分からないので曖昧であるが、5000レクを引き出してくれた。もちろん、シークレットに関することは私に入力させたことは言うまでもない。「助かった。安心した」。と、思いきや、彼は私を彼の両替屋に連れて行って、細かいお札に両替してくれた。手数料なしで。なんという人だ。これが『ヨーロッパ最貧国』といわれる国民のビヘイビァなのか?だとしたら、言葉の定義を変えなくちゃ。素朴だが、なんと誇り高い人たちよ。
 隣にいたおじさんがさらにアドヴァイスをくれた。「レートに関してはレクで支払ったほうが得」、「アルバニアの文字は英語とほぼ同じなのでローマ字読みをすれば伝わる」。私は好きになりました、アルバニア人を。先の戦争で悲惨な目にあったという、アルバニア人を私は好きになりました。単純な奴だと思わないでください。この後に訪れる各国、各地で、アルバニア人に助けられるのである。彼らの人柄だけではなく、実はあることが理由で彼らは私に好意を持ってくれるのである。あることとは?もう少しお待ちください。

コトルのバスターミナルでティラナ行きのバスを待つ

ティラナを楽しむぞ
 この街の中心は、スカンデルベグ広場である。広場の中央には民族的英雄であるスカンデルベグの名を取って命名された像が建っている。周りには、国立歴史博物館、国立オペラ劇場、イスラム寺院のジャーミア・エトヘム・ベウト、時計塔、バンク・アート2などが集中し、歩いて回れる見所、遊び所が多い。朝とかの人通りが少ない時に広場の路面の所々に開けた隙間から水が出てきて、その流れで表面を自動的に清掃している。
 国立歴史博物館は、スカンデルベグ広場の北側に広場に面して建っている。それにしても、建物正面の 巨大なモザイクには驚いた。バルカン最大のモザイクだという。全て武器を手にしたシーンだそうだが、その意味するところは何なのだろう。 展示物として、紀元前4世紀のアルバニア最古のモザイクが展示されて人気を博しているせいだろうか。勝手な想像を巡らせても、巨大モザイクを作成した経緯は分からない。アルバニアの歴史を年代順に展示してあるのも、アルバニアの歴史や成り立ちに疎い私にはありがたい。
 国立オペラ劇場は、オペラやバレエを上演する劇場である。オペラ好きの私である。最初に広場に来た時、白い大きな建物に『OPERA』を見た時は胸が躍ってすぐに駆けつけたが、閉まっている、翌日、訪ねた時はドアは開いていたが、滞在中にオペラもバレエも公演は無し。がっかり。

スカンデルベグの像
国立歴史博物館 。建物正面に巨大なモザイク
国立オペラ劇場
散水(流水)による路面の清掃

気を取り直して
 国立オペラ劇場から出てふと見上げると、白い色の高い塔が2つ見える。イスラム寺院のジャミーア・エトヘム・ベウトと時計塔である。ガイドブックによると、前者は町の創建者スュレイマン・パシャの曾孫であるハッジ・エトヘム・ベイにより1793年から1821年にかけて建てられたということです。また、先の大戦後に政府の無神国家の政策によって、一時期ではあるがジャミーア・エトヘム・ベウトも閉鎖されていたそうです。とくに女性には被り物の着用など簡単な注意が与えられるが、気持ちよく楽しめるイスラム寺院です。中にいた信者が薦めてくれたのは、びっしり描かれた鮮やかなフレスコ画です。寛容な人々でした。
 隣の時計塔である。これもハッジ・エトヘム・ベイによって建設されたのですが、時計が加えられたのは約100年後の1928年だそうです。この時計塔には登ることができるが、約30メートルとそんなに高くないので、というか、周りにも高い建物が無く、高い所から街を見下ろす必要性もないので、私は下から時計塔を見上げて終わりました。

スカンデルベグ沿いに建つジャミーア・エトヘム・ベウトと時計塔
オスマン時代に架けられたタバカヴェ橋

どっちにしよう
 時計塔から近くの『バンク・アート2』に行くつもりが、例によってロスト・マィ・ウェイで、バンク・アート2ではなく郊外の『バンク・アート』行きのバス停に来てしまった。最初から訪ねる計画に入っていた『バンク・アート』だ。こんないいタイミングは無い。と、横を見ると近くに立派な橋が見える。こんな由緒ありそうな橋を見たからには通り過ぎるわけにはいかない。熱心に写真をとっていると、お助けマンが教えてくれた。『オスマン時代に架けられたタバカヴェ橋』と言うそうだ。「運がよかった、ありがとうございます」。このお助けマンにバンク・アートへの行き方を詳しく教わったので大丈夫だ。「サンキュウ、アゲィン」。
 時計塔近くから青色のバスでバンク・アートへ。バス料金40レク、所要25分。バスを乗換えて2駅で降車、徒歩3分。お目当ての『バンクアート』に着いた。この国に来るまでバンク・アートなるものについての知識は皆無だった。そもそも論から勉強しなければならない。『トーチカ』と訳している方もいらっしゃるが、中国の大連市旅順口の二百三高地を訪れた際に、ロシア側の壕をト-チカと説明されたが、あれをもっと頑強に、かつ地下深く築いたものと考えていいのかな?
 ここティラナの郊外にあるバンク・アートは、1975年から1978年にかけて構築され、16万8000作られたものの中で最大のものだそうだ。後で訪ねる予定のティラナ中心部にあるそれと同じように、分厚いコンクリートで囲まれていて、化学兵器や核兵器にも耐えられるという。毒ガスを無害化させるフィルター・ルームもあり、スィッチを押すと、もちろん毒ガスでは無いが、疑似ガスが出てくるなど、凝った演出をする部屋もあった。
 ところで、バンク・アートの入場料は、大人500レク、学生300レクと入口の窓口に書いてあったが、私が窓口に行った時、「パスポート、プリーズ」と言われた。「観光資源になっている施設なのに、IDが必要なのかな」と思いながらパスポートを提示すると、窓口のおばさん、「300レク」というではないか。2度、3度やり取りがあって、老齢者割引だと分かった。ということは、私もそのような年に見られるようになったか、…。こういう場合、私は100%逆らわない。不機嫌にもならない。寛容なのである。「200レク得した」と喜んで300レクを支払うのである。

郊外にあるバンク・アート入口
ぎょっ
内 部
分厚いコンクリートの扉。『頭上注意』

喜んで300レクを支払うか
 郊外の『バンク・アート』から市の中心にある『バンク・アート2』に移動した。あらかじめ300レクを財布から出してパスポートと一緒に窓口で見せたところ、「ノー、パスポート。500レク、プリーズ」。すごく損した気持ちだ。展示の内容も圧倒的に郊外の方がいい。時間のない人で1か所しか行けないならば、バスで30分もあれば移動できるのだから、郊外の方がいい、高齢者は割引になるので郊外の方がいい、と八つ当たりはしないが、お薦めはします。

市中心部に移動してバンク・アート2 へ
犬もいました
発電機だろうか、エンジンだろうか

ティラナのピラミッド
 スカンデルベグ広場から南へ歩いて行くと、子供たちが登って遊んでいる巨大な滑り台というか、ピラミッドのような建物がある。先の大戦後に労働党第一書記として権力をふるったエンヴェル・ホッジャの生誕80年を記念して建設された記念館だった建物である。社会主義国としてアルバニアを無神国家にしたホッジャは、自分の名前を冠した立派な記念館を建てるよう命じたという。自分を神に代わる存在としたかったのだろうか。
 敷地内にある『平和の鐘』は、1997年の紛争の時に出回った銃弾の薬莢を溶かして造られたものだそうだ。後でホテルのスタッフに聞いたのだが、アルバニア語で鐘の表面に刻まれていたのは、『私は銃弾として生まれたが、子供たちの希望を願っている』と記されているそうだ。

アルバニア労働党を設立したエンヴェル・ホッジャの生誕80年を記念して建設された記念館。今や荒れ放題
平和の鐘

立派な建物
 ティラナのピラミッドから南下すると、考古学博物館が見える。とても重厚な建物で、スタッフの対応もよいが、「訪問客が少ない」と嘆いていた。
 考古学博物館と向き合うようにティラナ大学が建っている。その前庭にマザーテレサ像が立ち,学生たちがおしゃべりに興じている。「大学の受付はどこか」と聞くと、ドアを開けて入れてくれて、「どうぞ」。学生と話す方が面白いので、学部や学科の話、マザーテレサの話などをした。英語が上手な学生達だったが、たまたまかもしれないが、イタリア語っぽく聞こえ、帰り際に、「チャオ」と挨拶をして別れた。「バイバイもチャオ」でいんですよね?
 大まかに言えば、考古学博物館とティラナ大学の間がマザーテレサ広場である。私のカメラのポイントがずれてしまって広場というよりも建物を写したように見えるが、いずれにしても、緑が豊富で家族が寛ぐような広場のイメージとは異なる場所である。
 マザーテレサは、生まれはマケドニアのスコピエだがアルバニア人で、両親はアルバニアにある墓地に埋葬されているそうだ。マザーテレサ自身も、無神論を宣言したエンヴェル・ホッジャの死後に墓参で訪れたことがあるという。穏やかな表情の中に不屈の闘志を秘めて貧しい人々のために闘った彼女は、世界的にそうであるが、アルバニアにおいても、広く国民の尊敬を集めているそうだ。以前、インドを周遊した折にコルカタを訪れ、『コルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)』の人気ぶりを実感したことを思い出した。

考古学博物館
マザーテレサ広場
ティラナ大学に入ったすぐの階段

いきなりですが
 一般に、観光客は、『世界遺産』、『美しい風景』、『有名だから』、『おいしいもの』などを求めて、それぞれ旅をしていらっしゃるようだ。私はというと、『芸術』を横に置いておいて、強いて言うと『古いもの』が好きなようである。そして人々だ。市場に行っても物より人々というあれである。たいして目的も持たず勝手にブラブラ散歩する感覚である。我儘なのである。したがって、団体で行動しなければならない『ツァー』は人に迷惑をかけることになるので、参加したことがない。そういう割には人に迷惑をかけて、お助けパーソンのおかげで旅行を続けられるのであるから勝手なものだ。今日のクルヤは、何となく、性に合いそうな感じがする。

性に合う
 いきなりであるが、今日のお助けマンが登場である。ガイドブックによると、ティラナからクルヤに直通のバスがあると書いてあったが、このお助けマンは断固として譲らない。ティラナの乗り場が違ったのだろうか、「ティラナからバスでクルヤに行くには、フシ・クルヤを経由しなければ行かれない」、「確かに、ガイドブックにもフシ・クルヤ経由のミニバスがあると書いてあるが、直通便のバスの方が早いはずだ」、「違う、とにかくこれに乗れ」。人にものをたずねていながら、今日の私はちょっと…、戦闘的だ。結局、お勧めのミニバスに乗って、フシ・クルヤへ。「よしっ、ここで乗り換えだ」。乗客を待っていたミニバスにスムーズに乗り換え、半信半疑ながらもほっと一息ついたところで、お助けマンが「ユァ、キャメラ?」。「えっ、あっ、乗ってきたミニバスに忘れてきたのかな?」。まだそこにいたミニバスに無理やり乗せてもらって、親切な運転手も手伝ってくれて「カメラ、カメラ」を連発したが、見つからない。絶望、…。クルヤ行きのバスをそんなに待たせるわけにもいかないので、「ソーリー」と言って、もう一度ディバッグの中を探したが、無い。…。どうして俺は。…。絶望。(10秒はここで読まないで止まってください)。「間違った!あった」。バッグのいつもと違うポケットにカメラを入れていたのだ。さっきチェックしたのに、焦っているんだろうな。周りの同乗者の皆さんは、「ヴェリー・グッド」。私のドジでバスの出発が遅れたのに、なんという寛容な人達なんだろう、汗びっしょりで、一人一人に握手を求めて、「ありがとう」。すっかり仲良くなったお助けマンも、皆さんに「ファレミンデ…?」と笑顔を振りまいている。たった一つ、覚えたアルバニア語「ファレミンデリト」=「ありがとう」である。また、アルバニア人が好きになった。「グラッツイェ・タント」。

追伸 P.S.
 前節の『性に合う』で挿入した『絶望。(10秒はここで読まないで止まってください)』を私は思いつきで、文章の流れ&感情の流れで書いたが、小説などを書く執筆家と称される人には役に立つかもしれない。脚本などでは一般的かもしれないが。例えば、伸ばすところはフェルマータを挿入するとか、感情の表現をイントネーションによって、もっと具体的には、文中の言葉あるいは一語、一語を音符にのせるとか、勝手に言わせていただけるなら、『前衛小説家』をお待ちしています。オペラに似ているかもしれませんが、本質的に『似て非なるものです』。

本文に戻って
 色々助けてもらって1時間15分ぐらいでクルヤに到着した。見上げると、小高い丘のような所に城のような建物が見える。多分、クルヤ城であろう。道順に上っていくと直ぐにスカンデルベクの馬にまたがった像がある。他に道がないから分かりやすいので道なりに南に向かって進むと、大きなPホテルがある。もう大丈夫だ。石畳の両側に土産物屋が並ぶ。この辺りはバザールである。民族楽器、民族衣装、テーブルクロス、銅細工品などが置かれ、他にアルバニアの刺繍が入った帽子、民芸品などたわいのないものが売られている。『たわいのないもの』が観光地の訪問者にとっては懐具合に合うし、『かわいいもの』なのだ。私のバザール好きは半端でないので、ここでバザール遊びに時間をとってしまえばクルヤ城の城跡や博物館を観る時間を逸してしまうかもしれない。「わたしごときの観光客にこんなに親切にしてくれたり、国家の英雄が戦った城を観ないでは、この国の皆さんに敬意を表することにはならない」と、威儀を正し、先にお城に行き、ティラナに戻るバスの時間まで残った時間をバザール遊びに使うことにした。

アルバニア人が尊敬する英雄
 さて、クルヤである。この地は、中世の頃のアルバニアの首都でオスマン帝国に支配されていた。そこに祖国を守るために立ち向かったのが、スカンデルベルクであり、中世15世紀のオスマントルコに四半世紀にわたって抵抗し続けた民族抵抗の地なのである。独立を勝ち取った国家の英雄スカンデルベルクが戦ったクルヤ城の城跡が現在の博物館なのである。この博物館は、スカンデルベク博物館と国立博物館で構成され、スカンデルベルクの生涯が年代順に見られたり、オスマン様式の美しい建築を鑑賞できる。
 この城の高台からもう一つ楽しむことができるのは、眼下に広がる街である。雲の具合によるが、アドレア海も見渡せるのである。

バザール
 バザールを楽しむなどと大上段に振りかぶったので、何が始まるかと思われるでしょう。個人的な楽しみだし、『たわいないもの』と言ったように、どうってことないのです。この魅力は、深く考えたこともないし、分析したこともないのですが、思いつくままに無責任に列挙すると、『商品そのもののお国柄』、『珍しいもの』、『食べ物ならば料理方法も含めてその食べ方』、『売り買いの駆け引きに現れる民族性』、そして一番興味を持つのは『その場に流れる空気』等々です。まだまだあると思いますが、疲れたので止めます。括ってしまうと、『旅なんです。旅そのものなんです』。
 私なんか、初心者みたいもので、今でも覚えているのは、2012年2月末にミャンマーのインレー湖で会った30代のフランス人のことです。何人かでボートをチャーターして島巡りをするのですが、それぞれの島の『バザール開催日』の日程表があって、それに合わせてボート一艘をチャーターしで行くわけですから、人数が多いほど安く上がるわけです。彼は礼儀正しい男でしたが、私が「午後にはバスで移動しなければならない。ボートの帰りが遅れたら私の旅のスケジュールが狂う」と断っても、3度も私を誘いました。私は彼のような旅人が大好きです。彼は基本的には旅そして文化が好きな男なのです。「1回一人でボートを雇うより二人なら半額で済む」という合理的な考えよりも、「もう一つ別の島に行ってバザールを楽しめる」と考えるわけです。
 この拙文を我慢して読んでくれている人の中に、『バックパッカー』と称される人がいらっしゃると思いますが、各地でお会いする若いバックパッカーの皆さんは、若いですから「お金をかけたくない」と思うのは当然だとしても、旅や文化、人々にとても関心を持っていて、先にご紹介したフランス人を思い出します。「頑張れよ、若い旅人たちよ!」
 何故かこの節は、『ですます』調でした。別に意識したわけではありません。流れに任せているわけで、文章もチェックしていません。お付き合い、ありがとうございます。

感謝の真意
 アルバニアの最初の節『ティラナへ行く』の最後の方で、『…アルバニア人を私は好きになりました。単純な奴だと思わないでください。この後に訪れる各国、各地で、アルバニア人に助けられるのである。彼らの人柄だけではなく、実はあることが理由で彼らは私に好意を持ってくれるのである。あることとは?もう少しお待ちください。』と書いた。
 答えは簡単、先に私のカメラで、すっかりお世話になったし、そして、次は、これからお話しするここのバザールで買った帽子のことである。「なにっ、いい加減にしろ、こんなに待たせてバザール?バザールの帽子が理由で、アルバニア人がお前に好意を持ってくれるだと」。
 おばあちゃんと孫の二人で店番をしている民芸品屋さん。売れても大して利益にならないものが多い。周りの店と品揃えがあまり変わらないので、元気のよいおばさんの店の方が客を集めている。私は天邪鬼である。何でもよい、このおばあちゃんと孫の店で何か買ってあげたい。おばあちゃんが売りたいものは?孫が掴んだものは『ALBANIA』と刺繍された帽子であった。ちょうど、日本から持ってきた帽子を失くしたので、丁度良い。安いものなので、言い値で買った。随分と喜ばれた。買い物に一生懸命なのは私の方である。「あった」。4歳の孫娘に良いだろうと勝手に想像して、片手で持てるような民族人形を買った。私は、トータル500円で、アルバニアのおばあちゃんと孫に笑顔をプレゼントできたのだ。涙が出るほど嬉しかった。

帽子の恩返し
 早速、この帽子をかぶってティラナ行きのバスに乗った、中年のおじさんが帽子を指差して、「アルバニア」と喜んでくれる。多分、奥さんだと思うが横にいたおばさんは、私の帽子を取り上げてアルファベットというのだろうか、帽子に刺繍された文字を指でなぞって「A L B A N I A」と発音して教えてくれる。持っていたリンゴの半分を皮をむいて私にくれた。『半分』に泣いた。「何かお返しを」と思っても日本を象徴するお土産は持っていない。現金しか持ち合していない。絶対にやっちゃいけないことだ。彼ら彼女らに私の真心が通じることと言えば、ここに来る時にバスの中で教わった「ファレミンデリト」=「ありがとう」しかない。帽子を脱いでもう一度「ファレミンデリト」。皆さんの笑顔。今思い出しても、涙ぐみながらも、すがすがしい気持ちになります。ヨーロッパ最貧国とは、ヨーロッパで一番、心の豊かな国民の国でした。「ありがとう」。

クルヤに着いた。上に見えるのはクルヤ城か
スカンデルベグ の像
博物館になっているクルヤ城
クルヤの博物館にはスカンデルベグ博物館(英語版)と国立博物館が含まれる
博物館の高台から見た街
バザールの一角
バザールの一角
バザールの一角

モンテネグロのコトル

コトル
 クロアチアのドゥブロヴニク発8時15分に出発しモンテネグロのコトル着10時45分、2時間半の行程であった。進行方向に向かって右側の座席は美しい海側で、眺めがよく、退屈しない。途中、約1時間経過で国境、警察官がバスに乗り込んできて乗客のパスポートを集め、事務所みたい所に行く。20分くらい経ったろうか、 パスポート が返却される。10時20分頃フェリーに乗船、10時50分頃コトルのメィンバスターミナルに到着。ここから観光の目玉である北側の旧市街まで歩いて10分ほどだ。街そのものは一辺はコトル海、一辺はシュクルダ川、一辺は海に囲まれた三角形の小さい要塞都市であり、世界遺産に指定されている。

クロアチアとモンテネグロの国境
コトルの城壁が見えてきた
コトルが近づいてきた

 私にしては珍しい一泊だけ(二日にちょっと足りない)の滞在なので、町の概略を急いで頭に入れたが、すぐに忘れてしまうので、そこはいきあたりばったりで。どうなることやら。
 城塞内の西側にある正門から入ると、中心広場があって、観光客が一斉にカメラのシャッターを切っている。目的は1602年に建てられた時計塔である。こちらもかつてはお城であり、頑強な姿は存在感を感じさせる。想像される国名は言わないが、被写体になっている安定感のあるおばさんの立ち姿が往年の名女優、マレーネ・ディートリッヒに見えるくらいがっしりした建物であった。何故か、私の口からマレーネ・ディートリッヒが出てきた。

城塞都市コトルの旧市街への正門
中心広場に建つ時計塔

マレーネ・ディートリッヒ
 その理由は、実は、ブルー・レイで1957年制作の米国映画『情婦』を観ながらというか聴きながら、この原稿を書いている。アガサ・クリスティ自身の短編小説をベースに著した戯曲『検察側の証人』を原作とする、法廷ミステリーと言われる映画である。ビリー・ワィルダー監督、チャールズ・ローストン、タイロンパワー、マレーネ・ディートリッヒ出演の米国映画である。米国映画と言いながらも、そしてアガサ・クリスティの作品だとは知らなくても、『旅をこよなく愛する読者』なら英国を随所に感じられることでしょう。私は随所で笑ってしまったが、弁護士が葉巻をかけるシーンで、「ベッティング」と声を上げて大笑いしてしまった。法廷弁護士が、裁判中に自分の担当する被告人が『有罪 or 無罪』で賭けをするシーンである。まさに英国的だ。
 『銀幕の女王』、『脚線美のマドンナ』、『ハリウッドの妖精』、『パラマウントの女王』等々、色々な『name』を与えられたディートリッヒ。時計塔の前に立つと、あのおばさんが、あの世界一美しい曲線美のディートリッヒに「みえてしまった」いや、「見えた」のだ。誤解無きよう。私は細身が好みとは言っていない。ハラスメントではない。
 それにしても、よほどの映画好きでなければ、若い人にはこの映画のことなど知らないだろうね。旅をより深く楽しむために、是非、ご覧になってください。『老婆心』ながら。えっ、『老婆心』は禁句なのかなぁ。『老爺心』ながら。

まだ続くマレーネ・ディートリッヒ
 キューバのハバナを訪ねて折に、『老人と海』の著者、アーネスト・ヘミングウェイがこよなく愛したという由緒あるレストラン『ボデキータ』に行ったが、予約が必要だということで、諦めざるを得なかったことは、別紙?に書いたが、実はこの話には続きがある。食事を終えた男性が、ハバナ大学の教授だったのだが、日本人が珍しかったのか私に話しかけてきて、レストランの外でお茶をしたのだ。研究対象ではないが、アーネスト・ヘミングウェイに陶酔しているという。『キューバで映画祭』が行われていたこともあって、ヘミングウェイとマレーネ・ディートリッヒの話になった。そして、『謎の言葉』が発せられた。ヘミングウェイがディートリッヒに宛てた手紙で書いた言葉だ。「心臓の鼓動を忘れるように、私は君のことを忘れているようだ」。参ったぁ。

名ゼリフにまいって
 「心臓の鼓動を忘れるように、私は君のことを忘れているようだ」の名ゼリフに参ったのか、時計塔から迷って30分もかかってしまってスヴェタ・ニコル広場に来た。ここには聖ルカ教会と聖二コラ教会の2つのセルビア正教会の教会がある。聖ニコラ教会の創建が1909年に対して、聖ルカ教会は1195年創建の小さな、古びた外観のせいか、むしろ存在感を感じさせる。信者さんだろうか、熱心に礼拝している。

1195年に建造されたセルビア正教会の聖ルカ教会。ロマネスク様式の建物
内部には金色に輝く多くのイコン(聖画)が飾られている。半分しか残されていないフレスコ画も

 もう一つ、是非、訪れたい教会がある。岩礁の聖母教会である。そこに行くには、まずコトル湾沿いの町ペラストに行かなければならない。コトルからバスでわずか20~30分である。立派な聖ニコラ教会の鐘楼が見える。この町では、唯一、高い建物なので ペラスト に着いたことがすぐ分かる。実は、これから訪れようとしている『聖母マリア』の本物のイコンは、岩礁の聖母教会ではなく、この教会にあるということだ。

ぺラストの町にある聖ニコラ教会の鐘楼

岩礁の聖母教会
 説明書を要約するとこうなる。聖母マリアのイコンが発見されたという伝説に因んで、航海を無事終えた船乗りがそこを通る度に岩を埋めて、積もり積もって小島になったという話である。
 ペラストからボートに乗って、岩礁の聖母教会に向かうのだが、乗客が一定数集まったところで出発のはずが、この気のいい若い船頭、私は「キャプテン」と呼んでヨイショしたが、私以外にお客がいなくても出発だ。「大丈夫だろうか?」、大丈夫、こいつ、彼女と携帯電話で遊んでいるのだ、ずうーっと。「上陸後30分で戻る」とチケット売り場のお姉さんに言われたが、降り際にキャプテンは、教会を指差して「インサイド、パーティ。リターン、パーティ」。「帰りはこのボートではなくて、団体のボートに乗れ」らしいことは何となく分かるのだが、「インサイド…」は分からない。とにかく、「サンキュー」だ。
 聖母マリア教会の祭壇には聖母子像が飾られ、また、中には博物館もあるせいか、内部の狭い空間が団体の観光客で混雑していた。突然、「パーティ?」の声。「パーティ?おっ、あっ、パーティ、パーティ・イェス」。何かわかりますか?そうです、団体なので、入場料はとられませんでした。「マリア様、ごめんなさい。告解します」。
 今夜の夕食は、久々にアドリア海の手長エビ(イタリアではスカンピ)料理を予定していたのですが、反省して、諦めます。

聖母島へのチケット
聖母島が見えてきた
島は岩を積んで造った人工島
岩礁の聖母マリア教会の祭壇には聖母子像

クロアチアのドゥブロヴニク

クロアチアのドゥブロヴニク
 サラエヴォ発7時15分のバスで出発、11時半頃パスポートチェック、13時15分頃にクロアチアのドゥブロヴニクの長距離バスターミナルに着いた。6時間の乗車時間で2000円(47マルク)の乗車料金、1.5€の荷物料金であった。すぐ近くに路線バスのバス停があり、1A, 1B, 3番のバスで 10分ほどで旧市街のピレ門に行くことができる。乗車券は車内で買って30クーナであった。
 私の観光地の攻略方法は、遠くから攻めるというか、例えば、ある著名な街とその近郊都市があったとすると、まず、近郊都市というか外堀を攻めて、その後に街あるいは街の中心部を攻めるのである。これは攻略方法という戦略的なものではなく、一種の癖みたいなものである。ということで、元々坂の多いドゥブロヴニクではあるが旧市街ではなく、旧市街から城門の外に出て一気にスルジ山に登ることにした。ガイドブックによると、ロープウェイがあって登ることができ、ドゥブロヴニク随一の絶景ポイント、ビューポイントであると解説してある。旧市街の西側のピレ門近くにいたのだが、東側の『プロチェ門』から出るとロープウェイへの近道だということで東側に移動したのだが、「スルジ山のロープウェイは止まっていますよ」の日本語。「えっ、ここまで来たのに」。怒っても仕方が無いので、「あーあ」とため息で自分をなだめる。ところで、なぜ日本語?簡単な話で、クロアチアは日本人観光客が多く、とくにドゥブロヴニクはとても人気があるそうだ。
 実は、私が「heritage」なる英単語を知ったのも、そして「世界遺産」なるものがあることを知ったのも1979年英国にいた時だ。ドゥブロヴニクの旧市街が世界遺産に登録された年なのである。イランのいわゆる『ホメイニ革命』が起きた年で、イランから英国に来た日本人にイランのイスファハーンにある『イマーム広場』が世界遺産に選ばれたということを聞いた覚えがある。日常性を離れたというか、私にとっては特別な年なので記憶に残っているみたいだ。あれから40年、『アドリア海の真珠』は紆余曲折はあったが、世界中から観光客をひきつけ、今も働き続けている。


アドリア海の真珠
 スルジ山のロープウェイが稼働していないことで計画が大きく崩れてしまった。でも、予めとっておいた予備の時間はまだ数日間ある。ここは、気の向くまま、手に入れた大きな観光地図を両手に?、ブラブラしよう。旧市街を囲む城壁はゆっくり歩いて1時間半だそうだが、私の場合は、寄り道、道草、方向音痴を考えて3時間は見なくちゃ駄目だ。城壁は、全長1940メートル、高さは高い所で25 メートル 、 所々に要塞、見張り塔、稜堡が造られている。遊歩道の入口はピレ門の横、聖イヴァン要塞および聖ルカ要塞にあり、それぞれ近くにチケット売り場がある。もう1つ大事なこと。城壁巡りは反時計回りの一方通行である。
 ホテルから旧市街にバスで来た時に、最初に降りたのがピレ門だったので、山に登った後はピレ門からスタートという先入観があったのだろうか、この時点で地図上の自分の位置情報というか座標がずれている。ロープウェイに乗るために東側のプロチェ門(聖ルカ要塞の近く)にいるのだから、そこから城壁の遊歩道に上って反時計回りに歩けば、最初に絶景スポットとして皆さんがカメラのシャッターを切るミンチェタ要塞、そこを直角に回って進めばピレ門に行けるのである。時間ロスの始まりであった。
 でも、人生に無駄はない。失敗は成功のもと。苦労した結果、後で分かったことだが、西の『ピレ門』と東の聖ルカ要塞近くの『ルジャ広場』を結ぶブラツァ通りは、ドゥブロヴニク旧市街の目抜き通りであったのだ。この約300 メートル の大通りに沿ってレストラン、カフェ、お土産屋などが集中的に建ち並び、観光客も多いので、人々の観察や店の覗きなど、ブラブラには最高の通りでした。
 城壁巡りをしながら目に入る旧市街の建造物、オレンジ色で統一された屋根、アドリア海の美しさを楽しみ、一周した後に城壁を降りて旧市街の由緒ある施設などを巡ることにした。その説明や感想の順番は、目に入った順番とは異なることを、つまり、順不同になることをお許しください。口を滑らすと、ここで出会う人々は地元のクロアチア人よりも色々な国から来る外国人が圧倒的に多いので、その表情を伝えることが結構難しいし、この美しい街や海の風景は、私の下手な説明はむしろ余計なのではないかと思うのですが、…。
 続けます。ピレ門から城壁に上ると、ブラツァ通りの突き当たりにフランシスコ会修道院が見える。欧州で3番目に古い薬局が併設され、回廊が美しいと案内書に書いてあったが、迷ってしまって薬局には行けなかった。
 修道院の前に人気のオノフリオの大噴水が見える。イタリアの建築家のオノフリオ・ジョルダーノ・デラ・カヴァによって1340 年代に建設されたもので、噴水と言われているが天然水が湧き出る水の供給場である。いずれにしても、12キロ メートル 離れたスルジ山の源泉から市内のこの噴水まで水を供給する、水道建設のプロジェクトの成功は大変なものである。「源水はおいしい」などと言って飲んでいらっしゃる方が多いですが、現在供給されているこれって水道水だったはずだが、違ったかな。いずれにしても硬水だと思うので、慣れない方は用心したほうがいいですよ。
 

ミンチェタ要塞
フランシスコ会修道院の内部
ピレ門をくぐるとすぐ目に入ってくる「オノフリオの大噴水」。源泉は、12キロメートルほど離れたスルジ山にある
ピレ門から城壁に入った所のプラツァ通りに面して聖救世主教会がある

用心して
 城壁の西側のボカール要塞で左に曲がって右側(南側)に広がる美しい海を眺めながらゆっくりと歩く。ここで気が付いた。一方通行ということは、私が追い抜かれるか、追い抜くかしかなく、常に他の歩行者の背中を見て歩く、つまり人の顔を見ないで歩いているということだ。旅行者がすれ違う時は「ハロー」とか「こんにちは」とか「チャオ」とか、笑顔で挨拶に慣れていたせいか、とても違和感を感じた。たまに靴紐を結び直している人に出会うとホッとして「こんにちは」と出てしまった。
 美しいものを観た時は、それを独占したいと思いますか、共有したいと思いますか、それもその場で共有だけではなく、自分を待っていてくれる人と共有したいと思いますか、あなたはどちらですか?旅は、旅というものは、気障な言い方ですが、「愛情というお土産を心に…」。ちょっとほほを濡らして、静かに、止めます。赤面です。
 胸に手を当てながら、何故か、本当に何故か、ヨハン・セバスチャン・バッハ(J.S.Bach)のBWV 147カンタータ『心と口と行いと命もて』の中のコラール『主よ、人の望みの喜びよ』の一節を口ずさんでいたのです。因みに、私はキリスト教信者ではありません。ただ、熱烈なバッハ信者ですが。「こんなところでカンタータ?お前大丈夫か?それとも…」。いや、気障で言っているのではありません。でも、とりようによってはキザ…。またしても、赤面です。

神のお告げ
 車のエンジンがかからない。「うっ、あれ?」。ポケットに手をやる。ポケットにキィが入っていなかったのだ。家に戻ってキィをとってきて、「改めてエンジンをかける」にはならない。私の場合は、『神のお告げ』になるのである。分かりにくいと思うので、例を挙げて説明しましょう。何かを忘れる→忘れ物を取りに行く→最初の忘れ物ではない財布がそこにある→なのである。神様は、「家に戻るにはそれなりの他の理由がある」と教えてくれたのである。人生の生き方の参考にしてください。余計なことですが。
 バッハのBWV 147が口に出たことに対する『お告げ』は分からないままですが、代わって皆様、お告げをお願いします。私は、旅を続けます。
 右側に続く海を眺めながら、ふと左に目をやると、バロック様式の聖イグナチオ教会が見える。ローマの聖イグナチオ教会を模して1699~1725年に建設されたそうだ。圧巻は内部の豪華な大理石造りの祭壇である。その奥の画家ガエタノ・ガルシアによって描かれた聖イグナシオ達の人生の一幕を描いた大作とともに圧倒される。
 少し元気が出たので、一気に東の海洋博物館まで歩く。ここで、大失敗。間違って、遊歩道入口から出てしまったのだ。戻ると再入場になってしまって、チケットを新たに買わなければならないのである。「駄目なものは駄目』。楽しい旅だ、守衛と争う気はない。城壁からの景色は見飽きたし、旧市街を歩いて楽しめという『神のお告げ』だ。
 そこで、いきなり聖母被昇天大聖堂、通称、ドゥブロヴニク大聖堂である。英国のリチャード王(リチャード一世)が1192年に創建したと言われているが、17世紀にバロック様式で再建された。英国にいた頃、『獅子心王』として知られるリチャード王の話は、パブで仲間から何度も聞かされた。とくに、アラブの歴史上の大英雄で、シリアの稲妻と称され、クルド人であるサラディン大王との戦いは、彼らには血沸き肉躍る話なのだ。在位10年間のうち、英国(イングランド)に滞在することわずか6か月というから、闘いの日々だったのだ。
 話を戻して、この大聖堂では見る機会がなかったが、金銀財宝や守護聖人である『聖ヴラホ』の聖遺物などが保管されているという。そして、私が興奮したのは、大理石で作られた祭壇の奥に、あのティツィアーノ・ヴェチェッリオの『聖母被昇天』が飾られていたことだ。16世紀に描いたものだという。心臓の鼓動が分かるほど、びっくりし、そして興奮した。ティツィアーノの『聖母被昇天』を最初に見たのは、ヴェニス(ヴェネツィア)のサンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フラーリ聖堂である。いつだったろう。私はヴェニスには、最初は妻と1988年に、次は娘達と1993年に、そして3年前の2016年に孫と3度訪れているが、記憶にあるのは3年前には『聖母被昇天』を見ていないことだ。3年前のことなら何とか思い出せるが、それ以前はどうも。忘れっぽくなったと言えば聞こえはよいが、要するに、どんどん老化しているということだ。年をとって大事なことの一つは、「年をとったということを認識することだ」。「それをできないのが年をとったということだ」。堂々巡りだ。「理屈はともかく、ティツィアーノに魅せられたということだ」と簡単に括るあたり、老化した証拠だ。
 先日、いつも通っているトレーニングジムの大先輩にこう言われた。「車の免許証を返納したことを忘れて車を運転してしまった」。笑えない話である。

1725年に建設されたバロック様式の聖イグナチオ教会
聖イグナチオ教会の石造りの祭壇が素晴らしい
聖母被昇天大聖堂
ティツィアーノの聖母被昇天

笑えない話
 2004年の私の年賀状から抜粋して掲載します。15年前の年賀状の文面の一部です。
「…、近くまで行きながら不思議と訪れる機会の無かったアイルランドにやっと行ってきました。「高校時代に『ユリシーズ』の言葉遣いに衝撃を受け、大学生の頃に凝りに凝ったジェームズ・ジョイスやバーナード・ショーが生まれた空間に立ってみたい」と、ずーっと心に秘めてきた国でした。御存知ギネス・ビールやアイリッシュ・ウィスキーに酔い、ダブリン近郊の世界遺産ニューグレンジの神秘さに触れてきました。「情報化時代だ」、「グローバリゼーションだ」と、荒々しい時代が声高に発している『まさに言葉の砂漠化』に渇きを覚えていたのですが、しっとりとした詩心を取り戻しました。アラン諸島のイニシュモア島に渡り、石塁に囲まれた四千年以上も前の遺跡ドン・エンガスの絶壁で目を回しながらもケルトの頑固さと純粋さをしっかりと確認してきました、…」。
 このところ、信じられないような事件が毎日のように起こり、もはや社会現象と言ってもよい惨状がこの国を襲っている。そして、片や、許容度の少ない『窮屈な世間』が大威張りで闊歩している。「餓鬼大将のお前は今だったら大変だな」と、かつての手下に言われる。「そうだな、よく叱られていたな」。寒村ではあったが、今は泉下にある大人たちが立派だったのだ。
「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」。よく知られた言葉である。そして、「来た道 行く道 二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」と続くそうです。ある宗教の信者が言ったとか言われているが、このシンプルな言葉、噛み締めましょう。

ちょっと複雑
 かつて『ラグーサ共和国』として栄えた歴史を持つドゥブロヴニク。ここに、前出の建築家、オノフリオによって15世紀の初めに建てられた『総督邸』がある。当時、最高権力者の総督の邸宅、元老院、評議会、裁判所など行政を司る色々な機関が置かれた、まさに政治のど真ん中としての役割を果たした場所で、現在は「歴史文化博物館」として使用されている。
 最初は、前出のオノフリオによって15世紀にゴシック様式で建てられ、その後、近くで火薬の爆発があって、ルネッサンス様式で補修されたために様々な時代の建築様式が融合したユニークな建物になった。
 総督邸の北側のルジャ広場に面して美女がたたずんでいる。「ドゥブロヴニクで最も美しい美女のひとつ」と称される、…、「待てっ、美女のひとつはないだろう、美女なら一人だろう」、「えっ?」、…、「あっ、やり直し。ドブロブニクで最も美しい教会のひとつ」と称される『聖ヴラホ教会』。もともと、この場所にはロマネスク様式で14世紀に建てられた古い教会が建っていたが、地震で焼失したため、18世紀前半にヴェニスから招致された建築家によって建て替えられ、1715年に今の教会になったそうだ。街の守護聖人『聖ヴラホ』が祭られている。聖ヴラホは、972年、聖職者の夢に現れてヴェニスの襲撃を知らせて人々を危機から救ったと言われている。
 教会内部は荘厳な雰囲気で、大理石の主祭壇には天子を象った彫刻があり、その天使に支えられる様に聖ヴラホの像が建っている。

かつて『ラグーサ共和国』として栄えたドゥブロヴニクで、建築家のオノフリオによって15世紀の初めに建てられた 総督邸(現在、文化歴史博物館)
ドブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの名を冠した教会。ファサードの頂上には聖ヴラホの像が立っている
聖ヴラホ 教会内部。大理石の主祭壇に2人の天使を象った彫刻があり、支えられるように聖ヴラホの像が建つ

ここにも像が建っていた
 人々の流れに任せてルジャ広場へと向かう。ピレ門とここを結ぶドゥブロヴニク随一のメィンストリートのプラツァ通りは何度も行き来したので、さすがにおなじみになってしまった。用があってきたのではありません、道に迷って来てしまったのです。広場の真ん中には、サラセン人のイベリア半島侵略に対抗して戦った騎士『聖ローラント』の象が建っている。ドゥブロヴニク市の自由と独立の象徴とされている。
 説明書によると、騎士像の右手の肘から手までの長さ51.2センチメートルが当時の商取引に使う長さのユニットになっていて、像の土台部分にもこの長さがメジャーのように刻み込まれている。公正な取引を目指し、公共の広場にある像の肘をあえて長さのユニットに使ったのでしょう。
 ルジャ広場の北側に広場に面して1516年に建てられた『スポンザ宮殿』がある。ゴシックとルネサンスの建築様式が美しく融合した宮殿である。貿易で多大な利益を上げて、自由な都市として発展してきたドゥブロヴニクにおいて、一種の輸出入される物資や財の管理所だったことを考えると、極めて重要な役目を担っていたのであろう。その後17世紀に、税関の役目から学者や知識人の集まるサロンへ、そして現在は、1667年に起きた地震で奇跡的に焼失されないで残った裁判記録や歴史文書などを保管する古文書館としてその機能を果たしている。この書庫は一般公開されていないが、古いものは 1,000 年以上前のものもあるそうだ。
 さて、ドゥブロヴニクの旧市街観光も終わりに近づいている。聖ルカ要塞の側に城壁の遊歩道の入口があるせいか、人々の往来が多くなり、そしてドミニコ会修道院の入口に向かっている。大きな建物である。1228年にここに来たドミニコ会によって15世紀に建てられた修道院であるが、訪れた時は工事中で近づくのを禁じられる部分もあり、肝心の宗教美術館には入場できなかった。関係者もこの暑さの中で懸命に働いているのだ、汗だくで。

ルジャ広場の真ん中に建つ聖ローラントの騎士象
聖ローラントの騎士象
スポンザ宮殿
ドミニコ会修道院
ドミニコ会修道院美術館

汗だく
 6月なのに?毎日気温が高く、拭っても拭っても汗が噴き出る。海に面した美しい街に来ているのに、実は、ドゥブロヴニクは海水浴場が少なく、皆さんは近場の島へフェリーやボートで出かけるのである。一番近いロクルム島へドゥブロヴニクの旧港からフェリーで出かけた。20分もかからない、まさに近場の海水浴場というか避暑地である。ここの出迎えは人間ではなく、野生のクジャクである。サービス精神が旺盛で、お客さんが来ると美しい羽を目いっぱい広げてポーズをとるが、「Welcome」とは言わない。「こんにちは」と言うと、残念、やはり羽を広げるだけである。
 ヌーディスト ( Nudist) or ナチュリスト(Naturist)の場所もあり、それなりの数の人々が泳いだり、日光浴をしていた。

ドゥブロヴニクの旧港からロクルム島へ出発
ロクルムへようこそ
出迎えは野生のクジャク
ポーズをとる野生のクジャク
海水浴を楽しむ観光客
ドゥブロヴニクに戻ってきました

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルからサラエボ

さらなる刺激を求めて
  真面目に考えたことはないが、私の旅行スタイルは、スタイルというほど洗練されたものではないが、すれ違うおじさん、おばさん、若い人達に仲良くしてもらって、色々教わって、そこにあるものを食べたり、歴史を感じたり、まぁ、言ってみれば、生活を感じることにある。それには、もう少し勉強して、皆さんのことを知りたい。そして仲間に入れてもらいたい。
 私は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国について余りにも疎く、せいぜいサラエボ事件くらいしか知らない。イスラム教を信仰するモスリム(ムスリム)の人々の割合が4割以上だそうです。単一国家でありながらボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国(スルプスカ共和国)とに分かれている。国内の鉄道も連邦側のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦鉄道と、共和国側のセルビア人共和国鉄道とに分離されて運行されている。それで、私は今回は便利なバスを利用することにして、クロアチアのスプリットからバスで4時間30分の旅程で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルに来た。モスタルは、ボスニア語で『橋の守り人』という意味があるそうだ。町の象徴的存在である橋『スターリ・モスト』を中心に発展してきた町であるが、1992年から1995年まで続いた民族(宗教)間の紛争で、1993年11月に橋も破壊されてしまう。その後、ユネスコの協力で創建当時の姿に復元され、2005年にはこのスターリ・モストと旧市街が世界遺産に登録された。
 通貨はコンベルティビルナ・マルカ, KMであるが、私は次の訪問地であるサラエボも含めて、最後までこの通貨の発音ができなかった。でも、多くの店でクレジット・カードが使えたので現金を使うことが少なかったし、KM(マルカ)の発音で用事が足りたので、問題は生じなかった。ユーロに慣れている皆さんは、1KM=€0.5で換算して価格をつかんでいたようです。
 スターリ・モストの説明が先になったが、モスタルをゆっくりと歩いてみよう。モスタルのバスターミナルは北側に位置しており、そこからマーシャル・チトー通りを700メートルほど南下すると右側に1557年に建てられた白いカラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤが見えてくる。イスラム教の学校であるメドレッサも併設されている。
 さらに南に進むと、ネレトヴァ川に沿って17世紀に建てられたオスマン帝国時代の伝統家屋であるトルコの家が見えてくる。川に突き出るように建てられている2階の応接間が気になる。
 そして、1618年に建てられたイスラム寺院であるコスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤがある。観光客でも気軽に入場可能なモスクで、ここの中庭や尖塔からの眺めは良く、中庭からスターリ・モストを写そうとする観光客で混みあっている。例によって、ポーズをとり時間がかかる国の人達は西洋人にやじられていた。最近の西洋人は動きや表情ではなく、口に出すようになったようだ。
 そのスターリ・モストである。市内を分けてネレトヴァ川に架かるスターリ・モストは、オスマン帝国時代の1566年に創建されたモスタルを象徴する橋である。土木を研究してきた私はついつい説明が専門的になってしまうが、橋の両端で橋を支えている基礎のような構造物を橋台と言い、橋の中ほどで橋を支えている脚のようなものを橋脚と言う。橋そのものや交通によって生じる荷重はこの橋台や橋脚によって支えられるが、この橋は橋台を用いないで両岸からアーチ状に橋を架けており、その技術レベルはかなり高いといわれている。橋の両端に塔が建ち、東側の塔は『スターリ・モスト博物館』になっていて橋の構造や橋の遺跡などについて解説されていた。
 この橋を使って行われるパフォーマンスに『名物』と言われるものがある。地元のダイビング・クラブのメンバーによる橋の上から水面までの24メートルの飛び込みである。どんな人かと近くで見たいのか、橋の中央まで行く人がいるが、お金を払う状況になるらしい。「早く飛び込め」と、声がかかるが、強制してはいけない。私は、この橋を中心とした旧市街が好きで数時間ではあるが、2日間ぶらぶらしていたが、飛び込んだのを見たことがない。もちろん、期待もしていない。この種のことは、単なるショーだと思えばいいのだ。そう言っちゃ、おしまいだが。

言っちゃおう
 言いたくてしようがないのであるが、悪友から「止めろ」という声が聞こえてくるが、それに逆らって、「ちょっとだけ時間を下さい」。
 16世紀のオスマントルコを現在のトルコに単純に置き換えるには無理があるが、トルコは土木技術のレベルが高い国家として知られている。日本で本州四国連絡橋の瀬戸大橋が話題になった1988年、トルコのイスタンブールのボスポラス海峡に架かるファーティフ・スルタン・メフメト橋が竣工された。通称、第二ボスポラス橋と呼ばれ、その開通によって、ヨーロッパとアジアが結ばれ、アジアハイウェイ1号線(A1)および欧州自動車道80号線(E80)が通ったのである。この橋の建設については、誤解を恐れずに言えば、日本が関係している。我が国の政府開発援助(Official Development Assistance, ODA)、そして多くの土木技術、舗装技術が寄与しているのである。
 「普通の文章だと思うが、どうして遠慮するのか」、「アジアハイウェイ、おもしろそう」と言われると、なおさら、ためらってしまうのだが、実は、実は、竣工日の約二か月前の1988年5月4日,第2ボスポラス橋の舗装(マスチック工法)が打ち上がった直後,まさに直後に,家内と二人で美しい橋の上に立たせていただいたのです。これ,本当の話で、工事関係者以外では私達が世界で最初に舗装後の橋の上を歩いたのです。他誌に書いたのですが、舗装表面の温度がまだ下がっておらず,そのせいでイスタンブールで新しく靴を買う羽目になりましたが。

ヘルツェゴヴィナを代表する建築物、カラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤ
市内を分けてネレトヴァ川に架かるスターリ・モスト
地元のダイビングクラブのメンバーによる水面までの24メートルの飛び込み
オスマン帝国時代の伝統家屋であるトルコの家
スターリ・モスト博物館

ほのぼのとした一日でした
 今日は、モスタル近郊に出掛ける予定だ。ガイドブックによると、モスタルを起点にしてバスを利用するとブラガイに約30分、メジュゴーリエとポチテリにそれぞれ約1時間20分となっているが、これらの都市(町)間の運行時間については情報がない。「まあ、何とかなるさ」精神で、精神でと言うと何か強く響くので、「最悪一つでもいいや」の思い込みで、ブラガイに来た。早く目が覚めたので、モスタル発06:00のバスで出発、40分で到着した。村なのでバスターミナルといったものはなく、写真に見るバス停留所一つと分かりやすい。そもそも訪ねるところがあまり無いので、ここさえ押さえておけば私のような方向音痴でも、最悪、モスタルのホテルに戻れる。お笑いなさるな、本人にとっては大問題なのである。
 すぐ近くに、今は廃墟となっている丘の上に建つ城塞スターリ・グラッドへの方向指示の看板が見える。行ってみると、他に何もないが、このような小さな村にも無人であるがツァリスト・インフォメイションなるものがあって、観光案内地図が貼りだされていた。左下に小さな日本の国旗が印刷されていて、後で聞いたのだが、この案内板は日本のJICA(Japan International Cooperation Agency、独立行政法人国際協力機構)の支援のようだ。
 ここまで来たからには城塞スターリ・グラッドを目指して丘を登るしかない。とにかく向かおう。ゆっくり歩を進めると、いつのまにか友好のサインである尾を振りながら犬が近づいてくる。犬大好き人間であることが分かるのだろうか、私に何か話そうとしているが、「わん、わん」と話しかけてみても「わん」はなかったので「ウヮン」と試みたが、やはり返事がない。色々な発音で話しかけたが、言語が違うのか、無口なのか返事がなかった。でも、最初は私についてき、次に横に並び、そのうち前に出て何か私を誘っているみたいだ。この賢い犬、『ブラガイ』と名付けたが、私が方向音痴であることを察知してガイドを買って出たのだ。写真でお見せすると怖いので省略しますが、長さ2メートルは超える細い蛇の死体に出会っても、平然として動じない。ガイドどころかガードの役目も果たす。
 途中、畑仕事の準備をしているピンクの上着がかわいいおばあちゃんに会った。お孫さんにここまで畑用の水と飲料水を車で送ってもらって、また、迎えに来るそうだ。飲料水をすすめられたが、丁重にお礼を言って遠慮した。その間も、我が忠犬『ブラガイ』はじっと待っている。「お待たせ」と言いながらスターリ・グラッドに向かう。5分くらい歩いたところでブラガイが止まって動かない。じっと茶色の看板を見ている。そこには、ボスニア・ヘルツェゴビナ語、英語、ドイツ語、イタリア語およびトルコ語で「壁に近づくな」というようなことが書かれていた。「ありがとう、ブラガイ」。
 いよいよ、スターリ・グラッドへの急勾配の始まり、登り口である。整備された歩道ではなく、一部、危険と思われる場所には道にポールを立ててロープが付いているが、どちらかというといわゆる獣道(けものみち)のような道である。来る途中に見た長い蛇を連想する。そして一番の問題は『忠犬ブラガイ』がじっとしていて登って来ないのである。いくら急かしても応じず、「お前ひとりで行け」と言っているようだ。他に誰もおらず、私一人だ。しようがない、年相応にあちこち痛いが普段からジムでトレーニングをしている体だ。頑張った。思いもかけず20分で登り切った。
古代から中世末まで改築を繰り返しながらも町の守備を担ってきた城塞だけあって、廃墟となっていてもその頑強さは想像できる。しっかりとカメラに収めて、そうそう、ここからの町の景色は、…言うまでもありません。

言うまでもありません
 急いで丘を下った。でも、5か国語で書いた注意書きの看板の所には『ブラガイ』はいませんでした。私がスターリ・グラッドの写真撮りに時間をかけ、待たせたせいではありません。忠犬は、ここまで私を送って、安心して帰ったのだと思います。涙。
 丘を下ってバス停留所まで戻る途中に、来る途中でお会いしたピンクのかわいいおばあちゃんが、のどを乾かして苦労をしている私に水をくれた。泣きっぱなしだよ。

のどを潤す
 バス停留所に向かった。バスはいつか来るだろうと思って待っていたところ、停留所の向かいにある小さな店で、お茶を飲んでいた4人組のお年寄りのうちの一人が近寄ってきた。英語の上手な紳士で、「ジャパニーズ?どこへ行きますか?」と「Could」を入れた英語で問いかけてきた。問答の中身を簡単にまとめるとこうだ。「あっ、ありがとうございます。この後、カトリック教徒にとっては奇跡の地であるメジュゴーリエに行きます」。「…?」。「ワィンの産地だとガイドブックにも書いてあったし」と言ってから、「しまった、この人たちはモスレムだった。カトリック教徒やワィンの話は禁句だった」。機転を利かせて、というか本当に観たかったので今日のスケジュールに入れておいた「時間があったらポチテリに行きたいです。オスマン帝国時代の建築物が斜面に沿って建ち並んでいるとか。私は土木技術者なので」。「うーん、ポチテリはいいが、あそこに行くにはチャプリナ行きのバスに乗り、途中下車しなければ駄目だ。まず、ここからチャプリナに行くのが難しい。モスタルからでも一日数本しかバスがない」
 状況として、モスタルに戻るしかないみたいだ。無いものはない。とりあえず、バスの時間までここで時間をつぶすしかない。「まあ、座りなさい。私も土木技術者だ」。お茶をごちそうになることになった。さらに、話が弾んで食事をすることになった。「丘に登ったのだから腹がすいているだろう。チェバプチナはどうだ。ボスニアの名物料理、挽肉ソーセージサンドだ」。
 そして、必然的にイスラム教のハラルの話になった。大まかな知識はあったが、宗教上のことなので詳細は分からない。この名士によると、『ハラル』とは、『(イスラムの教えで)許されている』を意味するアラビア語だそうで、食べてよいとされている食べ物を『ハラルフード』と呼ぶそうだ。「君達異教徒はハラル(許されているもの)ではなく、ハラム(禁じられているもの)』を覚えていた方が、便利じゃないか?豚肉とかアルコール」。「豚だって豚肉だけではなく、豚から抽出されたエキスを含む調味料や出汁の入ったスープも駄目だ」。話が長くなりそうなので、「私はモスレムではないので、何でも食べられます」。ストレート過ぎたかな?

便利じゃない
 話は楽しいが、バスはなかなか来ない。紳士殿は「どうしたんだろう、事故でも起きたのかな。この時間のバスが来ないとなると、次は…」。悠長である。「まだ時間がある。すぐそこにスターラ・デルヴィシュカ・テキヤがある。オスマン帝国時代に建造されたイスラム神秘主義教団の修道場だ。何よりも水が飲めることで有名だ」と教えてくれた。地元民の情報は貴重だ。バスの時間を気にしながらも行ってみると、本当に透明度の高いきれいな水で、思わず口にした。途中に、閑散としていたが、ハラルフードのレストランもありました。
 そういうことで、訪問したいところが色々あったのですが、結局、本日は『ブラガイの旅』でした。ワンちゃん、皆さん、ありがとう。本当にありがとう、again。私の大好きな形の一人旅の一日でした。

蛇足・水の味
 思わず口にした水はおいしかったか?おいしかったです。あの景色をバックに、あの透明度を誇る水です。おいしくないと思えないですよね。
 我が国のパソコンの出始めの頃、トップを誇ったN社とあるテーマで共同研究を行ったことがある。詳細は言えないが、コンピュータ関連ではなく、資源環境技術に関する研究である。突然、話が飛ぶが、遊びで、研究ではなく遊びで、ブランデーなどの成分分析を行った。私も含めて、好きな連中が揃っていたのだ。「旨いと感ずる理由、要素とは?」というほど真剣ではないことをお断りしておきたい。その結果、超純水よりも色々な成分、超純水から見れば不純物の多いものほど、高級品であった。高級品がよりうまいかどうかは個人差があるので皆様の想像にお任せしたい。「閑話休題」、「研究余滴」でした。

ラガイのバスストップ
Castle of herceg Stjepanへの方向表示
ⓘの観光案内地図。左下に日本の国旗

途中までついてきて案内してくれたワンコ
スターリ・グラッドに登る途中でお会いしたピンクの上着がかわいいおばあちゃんとお孫さん
畑用の水
城塞スターリ・グラッドの登り口にあった注意事項の看板
一部は道にガードロープが付いている
城塞スターリ・グラッドの入り口付近
まさに廃墟である
外壁
城塞スターリ・グラッドの内側
比較的形を保っている城塞スターリ・グラッドの一部
スターリ・グラッドから見下ろす町
スターリ・グラッドから見下ろす町
厳しい環境で咲く白い花
ここの水の透明度は抜群で、飲めるそうです
ハラルフードのレストラン

同じくボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォ
 最近は面倒になってあまり書いていないが、旅のちょっとしたメモをするB5版の手帳を持ち歩いている。モスタルの長距離バスターミナル07:00発→サラエヴォのバスターミナル09:45着。そのバスターミナル横にサラエヴォ中央駅があり、さらに目立つのは目の前に建物をねじった形のビル、その名も『アヴァズ・ツイスト・タワー(Avaz Twist Tower)』がそびえる。高い所を見上げている時は、ポケットに気を付けて。「142メーターね」と怪しげな目つきで男が話しかけてくる。欧州でアメリカ人以外の「メーター」の発音は珍しい。「meter? metre?…」とからかってやって、「グッバイ」。かかわらないのが一番。駅前にある、かねて調べておいたトラム1番に乗る。「ラテン橋(Latinskacuprija)」と運転手に告げて料金を支払って切符を受け取ると、横にいたご婦人がトラムの改札機に入れてガチャン。ラテン橋で「ヒァ」。乗車してから降車まで20分は経っていない。「ありがとうございました」。順調に来た、荷物も大丈夫だ。そしてどういうわけか?ここから徒歩5分の、予約しておいたホテルにも、そんなに迷わずにチェック・イン。珍しい。

サラエヴォのアヴァズ・ツイスト・タワー。アンテナを含まないで高さ142メートル

ラテン橋
 1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇嗣がセルビア人青年に暗殺され、これが契機となってオーストリア=ハンガリー帝国が宣戦布告、ドイツ、オスマン帝国、ブルガリアの同盟国陣営と、セルビア、ロシア、フランス、イギリスを中心とする連合国陣営による第1次世界大戦の始まりである。暗殺現場がミリャッカ川に架かるラテン橋の近くであるせいか、ラテン橋の写真を撮る人が多い。
 ホテルはラテン橋から南に向かうのだが、途中に止まっているバスをよく見かけた。そこは東サラエヴォ・バスターミナルに向かう103番のトロリーバスのバス停だった。道理でトロリーバス用の架線が空間に張られている。私は、ホテルから数分と近いのにもかかわらず、同じくトラムのラテン橋駅も近かったのでそちらを利用したが、103番のトロリーバスは朝の出勤時間や夕方など、結構混んでいた。日本大使館もすぐ近くなので、それに次に説明する北側の旧市街の中心『バシチャルシア』もこれまたすぐ近くなので、この辺りのホテルはお勧めだ。

1914年6月28日に起こった『サラエヴォ事件』の現場に近いラテン橋
サラエヴォ博物館。 周囲を工事中 だった

バシチャルシア
 ラテン橋を渡ってすぐ北側に広がるバシチャルシアは、徒歩で回れる広さの観光エリアである。橋の北側のサラエヴォ事件現場を越えた所にサラエヴォ博物館があるのだが、その周りが工事中のため閉館中であった。そこから100メートルも進むと、かつて絹取引所として重要な建物だったブルサ・ベジスタンが見える。オスマン帝国の大宰相リュステム・パシャによって16世紀に建てられたそうだ。現在は歴史博物館として使われているそうだが、確認はしていない。
 ブルサ・ベジスタンから東に歩くと、1531年に建てられたイスラム寺院、ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤがある。当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナの総督であったガジ・フスレヴ・ベイが建てたものである。敷地内にはこのモスクの他にメドレサ、ハマム、商取引所などが建てられており、一種のコンプレックスをなしている。
 モスクの西隣に建つ時計塔は、17世紀にイスラム教の習慣である1 日5回の礼拝の時刻を知らせるために建てられたそうだが、この高い建物は私にとっては時を知らせるのではなく、バシチャルシァで迷った時の道案内でした。偶然、知り合いになった英国マージーサイド州リヴァプール出身の私よりちょっと若いご老人が言うには、後に19世紀に新しい時計がロンドンから来たそうだが、真偽のほどはお確かめ下さい。

絹取引所として重要な建物だったブルサ・ベジスタン
1531年に建てられたイスラム寺院・ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ
クロック・タワー

マージーサイド州リヴァプール
 どこかの雑誌に書いた記憶があるが、仲間内でやると(飲むと)「私はプレスリーには遅く、ビートルズには早く生まれすぎた」が口癖だ。「それでお前は、クラシック、バッハ、オペラ、グレン・グールド、ポリーニ、…、か?」。「ビートルズの音楽は、まさにウェールズのパブで聞く庶民のウェールズ弁だ」。「でも、あのグループの多様性はどこから来るのだろう?」。「繰り返しになるが、私達はスーパースターの合間に生まれたのだ」。
 先に、ロンドンの時計でご登場願った私よりちょっと若いご老人、まさにザ・ビートルズのど真ん中の世代、それもマージーサイド州リヴァプール出身者だった。リヴァプール出身者に単に「リヴァプール」と言わずに「マージーサイド州リヴァプール」と言うと、飛び上がって喜ぶのだ。その理由は色々と憶測はできるが、私の浅薄な知識ではよく分からない。そして、「バッハとビートルズの類似性」、「ビートルズに見るバロック音楽の 対位法的表現」などと衒学的なことを言うと目を輝かす奴は、「友達だ。ハィ、マイト」。
 止めよう、眠られなくなる。

多様性
 時計塔の北側にあるユダヤ人博物館は、ユダヤ人の集会所(会堂)であるシナゴーグを利用した博物館である。ご存知のように、オスマン帝国は、政治に関しても文化に関しても多様な対応をする国で、その手法は統治に関しても見受けられる。典型的な例が『ミレット』制である。帝国内に設けられていた非イスラム系、非トルコ系住民を保護し、そして支配する、ある意味で宗教自治体を指す言葉と言ってもよいであろう。ギリシア正教やアルメニア教会派の人々は、納税を義務にその習慣と自治を認められたのである。このユダヤ人博物館も15世紀にイベリア半島を追われたユダヤ人を受け入れた象徴的な施設である。彼らの生活や薬師の店に関する展示が訪問者を集めていた。

ユダヤ人博物館

違う宗教も
 サラエヴォ大聖堂とも通称されるイエスの聖心大聖堂は、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会の大聖堂であり、カトリック教会のヴルフボスナ大司教座の大聖堂である。建築家のヨシップ・ヴァンツァシュがパリのノートルダム大聖堂をモデルにデザインしたそうだ。解説書によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に全壊は免れたものの損害を受け、終戦後に修復されている。入り口にある窓のデザインは、サラエヴォ県の県旗と県章のデザインに、ロマネスク調の2本の塔はサラエヴォの市旗と市章のデザインにそれぞれ使われているそうです。

ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会のイエスの聖心大聖堂
イエスの聖心大聖堂 の前に建つ、かつてサラエヴォを訪れ、平和を訴えたローマ教皇の故ヨハネ・パウロ二世の像

戦争の愚かしさ
 日を改めてバシチャルシアを散歩する。ラテン橋からミリャツカ川に沿って東に200メートルほど進むと、旧市庁舎に突き当たる。美しい建物である。案内書によると、帝国時代に市庁舎として建てられ、その後国立図書館となったが、1992年の砲撃で外壁を残して全焼、2014年に修復されたそうだ。それにしても、灰になった貴重な大学や国家の蔵書200万冊は戻らない。永久に戻らないのだ、永久に。なんと言っていいのか。書かないことが抗議だ。
 無性にやるせない気持ちになって、目的もなく西に向かって懸命に歩いた。テラリ通りとかいう通りだった。喉がカラカラだ。どのくらい歩いたのだろう、人々の動きがある左側に曲がってみた。それから5分も歩いたのだろうか、人出の多いバシチャルシァ広場にある「セビリ」と呼ばれる水飲み場だった。サラエヴォに来たら観光客が必ず訪れる場所に、図らずも来たのだ。鳩に交じって?多くの人が水を飲んでいる。旧市庁舎を観て、カラカラになった喉を潤すのにちょうどよい。オスマン式建築物である木製の水飲み場は現役で、カメラもパチパチ忙しそうだ。喉を潤した満足感か、写真を撮るのを忘れた。もっともフォトジェニックな場所なのに、申し訳ありません。
 近くのセルビア正教の旧正教会も写真を撮るのを忘れてしまった。重ねて申し訳ありません。穴があったら入りたいです。

旧市庁舎。かつては国立図書館だった
違う角度から見た旧市庁舎
この英文を訳すのが怖い、悔しい。200万冊が焼失したのですよ

トンネル博物館
 1993年の戦争時に造られたトンネルの一部を公開しているトンネル博物館に行く。「ツァー料金はとても高い、誰でも簡単に行ける」とのホテルの若い従業員の一言で、つまり、「誰でも」の言葉に動かされた。方向音痴の私が「誰でも」に入るかどうかは分からないが、メモを貰ったので大丈夫だろう。例によって、近くのラテン橋から3番のトラム(トランバイ)で終点まで行く。すぐ近くのバスターミナルでメモに書いてあった32番のバスを探す。ここで、今日のお助けマン登場、「私もトンネル博物館に行く」。15分待ちぐらいでバスが来た。乗車15分間くらいでバスターミナルというか小さな折り返し点で降車。『Tunel spasa 800m』の看板を見つけるが、お助けマンは小さな橋を渡ってどんどん歩いていく。脇見もしない。この人、「私もトンネル博物館に行く」と言っていたが、「初めて来たとは思えない、大丈夫だろうか」、と思った時、急停止。「ここからまっすぐ行けば50メートルでトンネル博物館だ」、にこっ。「えっ?、えっ?」、地元の人だったのだ。道理で。バスを降りてから1km on foot。「ありがとう」。
 トンネル博物館の建物には未だに弾痕が残っている。この銃弾の跡を観るだけで怖くなってしまう。全長800 メートル のうち戦後ふさがれて25 メートル だけ公開されている。旧ユーゴスラヴィア連邦軍に包囲されて孤立していたサラエヴォは、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と物資の輸送が可能になったそうである。軍服、物資、武器等が展示されていた。ビデオも上映されていた。博物館と言っても、やはり生々しい。

トンネル博物館へ
トンネル博物館。建物には未だに弾痕が残る
展示物

ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館
 トンネル博物館を見学した後トラム2番で街に戻る途中、ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館および隣接する歴史博物館前で降りた。近くにサラエヴォ大学があり、この辺りは文化の薫りするエリアである。旧市街の中心であるバシチャルシアに向かって左側に行くと鉄道駅とバスターミナルである。
 オーストリア領だった1888年に建てられたという厳かな外見の博物館に入る。ここの中庭を囲むように建っているのが4棟の建物からなるボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館である。それぞれ、考古学、民族史、自然史、図書館の部門に分かれている。随所に英語の説明があり、『インターナショナル』を意識した先進の博物館である。一日で観て回るのは無理なほど展示物の充実した博物館で、興味のあるものを選んで見学して、中庭に出た。お昼のせいか、結構多くの人が植物園で楽しそうに話している。その中庭の木陰にテーブルがセットされ、たくさんのごちそうや飲み物が並べられて、思い思いにとって食べながら歓談しているのだ。何か見慣れた風景なので気になっていた美女に聞いたところ、農業関係の国際会議のランチタイムだったのだ。専門は違うが楽しい話題だったので聞いていると、「あっ、ごめんなさい」と言って、私によそおってくれる。「ワィン、オァ、…」。美女のホスピタリティを断ったことのない私である。
 後で知ったのだが、というか、やはりというか、ランチは会議費に含まれていたそうだ。「ごめんなさい、そしてごちそう様」。

植物園の入り口
1888年に建てられたボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館

たまたま農業関係の国際会議のランチタイムだった
考古学部門の展示物
考古学部門の展示物

クロアチアのプリトヴィッツェ湖群国立公園からスプリット

クロアチアのプリトヴィッツェ湖群国立公園
 ザグレブからバスで2時間25分で大小16の湖と92の滝からなる世界遺産のプリトヴィッツェ湖群に着く。比較的短時間で行き来でき、また8便/日と便数も多いせいか、ザグレブからの日帰り観光の人達も多い。北寄りの入り口1と南寄りの入り口2の2つのバス停があるが、バス停入口2は公園入口2(ST2)に極めて近くすぐ観光が開始できる。バスの道順であるが、ザグレブからは入り口1、入り口2の順番に停車する。逆に、プリトヴィッツェ湖群からザグレブに戻る時は入り口2、入り口1の順番にバスが停車し、湖から見た場合ザグレブと反対方向の南側のスプリット方面に向かう場合は入り口1、入り口2の順番に停車する。
 私は、プリトヴィッツェ湖群の観光後一泊してからスプリット方面に向かう予定なので、バス停から近い(結果的には公園入口から近い)場所にホテルをとった。好み、シングルベッドの料金、公共交通機関へのアクセス、キャンセルの可否、英語可、携帯を持っていないのでWiFi設備の有無などと選択条件が多岐にわたるだろうから軽々に書けるものではないが、朝食付きで宿泊翌日の入園料が無料となるホテルを選んだ。早い時期に予約がいっぱいになるが、私も経験したことであるが、まじかに迫った数週間前に意外と空室が出るとの噂である。あきらめないで。
 とにかく、この種の観光地は理屈抜きにぶらぶらと歩き、船に乗り、ダイナミックな大自然の芸術を堪能すればよいのである。余計な解説は無視して、笑顔、笑顔。ただし、野暮を承知の助で言うが、人ごみの中では「たまにはデイバッグのファスナーに気を付けて」。

園内の案内図
ヴェリキ・プルシュタヴツィ(水がベールのように美しく流れ落ちる)

 

プリトヴィッツェ湖群国立公園からスプリットへ移動
 プリトヴィッツェ湖群の入り口2でスプリット行きのバスを待っている。出国してから1週間経つが、周りから聞こえる言語は今朝は日本語が優勢だ。スプリット行きではないが、同じ方向に行くバスを待っているようだ。「最近、日本人の間ではクロアチアが人気」だそうだ。昔のお嬢様方は実によく調べていて、昔のおぼっちゃまに色々な情報やお菓子までくれる。「ありがとう」。お返しするものが無いので、「外国でお会いするご婦人で、日本人が一番エレガントですね」。にこっ。…。あっ、余計なことを言ってしまった。昔のお嬢様方はすっかり勢いがついてしまって、お互いに他の人の言うことを聞かず、各自勝手にしゃべっている。携帯を鏡の代わりに使うおばさんもいる。困っておろおろしていると、神の助けか、バスが来た。「ボン、ボワィヤージュ」。4時間の行程に出発だ。

良い旅のスタート
 スプリットの長距離バスターミナルは、国内各地や近隣各国からの国際便が発着する大きなバスターミナルで、5分も歩けば鉄道駅やスプリット港に臨むフェリーターミナルに行くことができる、まさに至便の位置にある。ガイドブックによると、7世紀にローマ帝国が滅亡し、追われた人々が城壁に囲まれた皇帝ディオクレティアヌスの宮殿内に逃げ込んだのが入植の始まりだという。優秀な土木工学のセンスや技術を持った人がいたのだろうか。宮殿の基礎の上に建造物を増やす手法で施工したので、結果的には古代と中世の史跡が複層的に混在する街並みが構成され、さらに現在も人々が生活を営むという珍しい町だ。この『スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿』は、1979年に文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録されている。

ディオクレティアヌス宮殿
 305年に退位した古代ローマ帝国のディオクレティアヌス皇帝が、生まれ故郷のサロナに近いスプリットに終の住処として造ったのがディオクレティアヌス宮殿である。彼は貧困層の出身であったが、その優れた政治手腕で皇帝にまでなり、他方で、当時広がりつつあった一神教のキリスト教を危惧して、積極的に弾圧を行った人物だそうだ。
 7世紀に入ってスラブ人などの侵攻によりサロナが廃墟となると、行き場を失った人々はこの強固な城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿に逃げ込み、その後宮殿の石材を利用して新しく町を造り始めた。城壁で囲まれたというか、張り巡らされているスプリット旧市街は、東西南北の4箇所に主な入り口がある。それぞれが『銀の門』『金の門』『青銅の門』『鉄の門』と呼ばれている。どの門から直進しても旧市街の中心部であるペリスティルと呼ばれる広場に着き、ここを中心に北が兵舎、南が皇帝の私邸になっている。
既にご紹介した長距離バスターミナルや鉄道駅の近くにホテルをとったので、結果的に東の『銀の門』からディオクレティアヌス宮殿に入ることになった。この周辺には、青空市場や露店がひしめき合っていて、相変わらずの方向音痴の私目はロスト・マイウェイだ。でも、焦ることはない、スプリットのランドマークともいえる大聖堂がすぐ側だ。迷ったら大聖堂である。
 ぶらぶらしていて偶然見つけたのが、旧市街西側にある1702年建設のサン・ジャン・バプティスト教会(Baptistery of Sy. John)。中には入れてもらえなかったが、関係者によると、ここでセザンヌが1886年4月29日に結婚式を挙げたそうだ。そして、セザンヌの父親の葬儀もここで行われたそうだ。びっくりしました。
 そうそう、私は昔の専門を引きずって、どうしても土木や道路の視点で景色を見てしまうが、宮殿前の道は海岸を埋め立てて造られたそうで、レストランやカフェが並ぶ、いい感じの所ですよ。一人じゃ、ちょっと寂しいくらいに。

宮殿の中庭・ペリスティル
ディオクレティアヌス宮殿の中でもひときわ目立つ大聖堂。スプリットのランドマークとなっている
円形の形をした広間が前庭で、皇帝の私邸の玄関の役目をしていた
ポール・セザンヌが結婚式を挙げたサン・ジャン・バティスト教会

一人でリゾート地のフヴァールへ
 『アドリア海の島めぐり』と称して、スプリットから出港する色々な日帰りツァーが催されているが、一人旅のせいかリゾートなるものにあまり興味がない。昔々、妻と二人でギリシャのピレウスから出る島めぐりを楽しんだり、一人でロードス島やクレタ島に行ったことが懐かしい思い出としてあるが、それも、一人の時はとくに、一言で括ると『文明への興味』であった。旅を愛する人々にはいろいろな動機や理由があると思うが、 『文明への興味』 は多くの人に共通する重要な要素であろう。そして風景も…。
 あっ、そうそう、ナポリにオペラを観に行ったついでに、青の洞窟見学は、ラッキーにも一発で天候に恵まれたこともありました。娘達は1日違いで2日間も挑戦して駄目でしたが。
 ここ スプリット からも、青い洞窟ツアー、…、とあったが、私は歴史的建造物があるというフヴァール島を選択した。スプリットからフェリーでスターリ・グラードへ、スターリ・グラードからファブールまではバス、そして帰りはフェリーでスプリットへのプランである。ところが大きな間違いをしでかした。フェリーでスターリ・グラードへ着いた後は、ここでそれなりに街を見学して、それからバスでファブールに行くつもりだったのだが、バスは「フェリーの到着に合わせて」運行されていたのだ。つまり、フェリーを降りてすぐ、バスに乗り換えてスターリ・グラードに向かわなければならなかったのだ。次のバスの出発(フェリーの到着)まで数時間、私目は、することもなくぶらぶらでした。美しいアドリア海と言っても、30℃を超える炎天下である。サングラスもスプリットのホテルに置いてきた。あーあ。

「美しい」は怖い
 写真の撮影時間から類推すると、スプリットを出港したフェリーから下船してフヴァール島へのスターリ・グラードに上陸したの10時20分。バスからフヴァールの町が見えたのが13時30分。差し引き3時間10分ほどイライラしていたわけだ。でも、正直なものだ。この白っぽい石で造られた美しいフヴァールの街並み、言葉で表現できない独特の色彩を放つフヴァール港の風景に接し、いつの間にか私の表情が和らいでいる。景色であれ、ものであれ、人であれ、「美しい」は怖い。妻を思い出した。

スプリット港で乗船を待つフェリ
フェリーから下船してフヴァール島へのスターリ・グラードに上陸
フヴァールの町が見えてきた
フヴァールの 旧市街
フヴァールの 旧市街
フヴァールの 旧市街
美しいフヴァール港
美しいフヴァール港
美しいフヴァール港

美しい古都トロギールへ行
 クロアチアの古都トロギールは、元々は紀元前3世紀に古代ギリシャ人によりつくられた植民都市である。ここは歴史そのものを論ずる場ではないのでクロニクル(chronicle)というか、歴代記あるいは年代記でこの町の歴史を書くのは割愛させていただいて、ざっくりと、「古代ローマ、…、その後幾多の支配者が変わり、自治権をもったのが12世紀。さらに変遷を繰り返して、1991年に独立したクロアチアの一部となった」のである。ざっくり過ぎるかな?
 トロギールに出掛けよう。トロギールはクロアチア本土とチオヴォ島の間にある南北500メートル、東西1キロメートルほどの小さな島にある。スプリットの長距離バスターミナルから約40分で本土側にあるバスターミナルに到着する。ここから橋を渡って島に渡ると、旧市街入り口となる北門、その先にトロギール博物館、そして観光の中心地であるイヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場にたどり着く。旧市街は世界遺産に指定されているだけに、広場に面して多くの歴史的建造物が並んでおり、多くの観光客でにぎわっている。

重厚な橋を渡って旧市街へ向かう
ルネサンス時代に造られた城壁に設けられた北門。旧市街への入り口となる

観光の中心イヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場
 どこから始めようかと迷うことはない。誰もが聖ロヴロ大聖堂に向かうのに異論はあるまい。13世紀に着手され、その完成を見たのは15世紀とも17世紀とも言われているこの大聖堂は、まさにそれぞれの時代の時間や空間を彩った多様な建築様式が混在している。人々はそれぞれがその時代の空気をせいいっぱい吸って生きているわけだが、その努力が後の世に『ロマネスク』、『ゴシック』、『ルネッサンス』などと名付けられて新しい時代からの来訪者に感動を与える。我々、新しい時代の来訪者は、それ相応の覚悟と敬意をもって過去からの遺産に接しなければなるまい。
 さて、聖ロヴロ大聖堂である。背の高い位置にあるので余計に目立つのであるが、確かに鐘楼の窓の様式が階層ごとに異なり、この建物の特徴を表している。解説本によると、ヴェネツィア共和国の攻撃で破壊された後、14世紀から17世紀にかけて時間をかけて少しずつ修復されたためで、高さ47メートルの鐘楼は、1階がゴシック様式、2階がヴェネツィアン・ゴシック様式、3階が後期ルネッサンス様式になっている。
そして、ロマネスク様式の門である。言い訳がましいが、カメラも悪ければ腕も悪いせいでフレーミングが下手で、1枚の画像に門の両端に彫られたアダムとイヴの像を入れられないヘマをやっている。申し訳ありません。そして、結果として左右に配置されたライオンも対称の姿をお見せできませんが、かつてトロギールを支配していたヴェネツィア共和国のシンボルだったそうです。唯一、門のすぐ上に施された彫刻はイエス生誕の場面、さらに上の彫刻はイエスの生涯を表していることはご理解していただけるようです。いゃ、苦しい。ご理解を。
 広場の南側には14世紀に造られた聖セバスチャンの時計塔があり、今も正確な時を刻み続けている。そして、大聖堂と時計塔に挟まれている市庁舎の辺りが賑やかである。中庭には、ヴェネチアン・ゴシック様式の階段や窓があり、皆さんがパチパチやっていたのでした。

多くの観光客が訪れる聖ロヴロ大聖堂
アダムとイヴの像が両端に彫られたロマネスク様式の門は、13世紀のクロアチア中世美術の傑作
アダムの像
イヴの像
ライオンは、かつてトロギールを支配していたヴェネツィア共和国のシンボル
門のすぐ上に施された彫刻はイエス生誕の場面、さらに上の彫刻はイエスの生涯を表している
広場南側に面して建つ14世紀に建てられた時計塔。今も正確な時を刻み続けている
市庁舎の中庭のヴェネチアン・ゴシック様式の階段や窓が美しい

 聖ロヴロ大聖堂の建物自体はシンプルで飾り気がなく、観る角度にもよるが端正な外観であるが、是非、中に入って内部をご覧ください。華やか、かつ緻密な細部の装飾は実にエレガントで、宗教施設の表現に不適切かもしれないが、ある種ソフィスティケイテッド(sophisticated)というか、非常に洗練された内部である。私は教会について、宗教的意味を解説するほど、つまびらか(詳らか or 審らか)ではないが、色々な意味で刺激を与えられる教会である。

美しい聖ロヴロ大聖堂内部
主祭壇。右手前に見えるのはゴシック様式の聖歌隊席で、15世紀の傑作。
主祭壇手前のゴシック様式の聖歌隊席
聖イヴァン礼拝堂
シンプルなパイプオルガン