中国・新疆ウイグル~カシュガル~

クチャからカシュガルへ
 クチャ発 05時49分→カシュガル着14時49分(予定)の列車N946に乗車。9時間の行程である。時代背景は、2005年である。平均最高気温は30℃と高いが、平均気温は25℃くらい。湿気がないせいか、このエリアにしては比較的過ごしやすい6月である。
 いきなり、ここカシュガルに飛ばずに、北京からウルムチに入り、トルファン、クチャと地球を西進してこの町に入ったので、大きなショックはないが、中国と言う切り口でとらえると、中国の他の都市に比較してやはり、大小はあるが、異質を感じる所である。ここでいう異質とは、違和感とは全く違う。『文化的におい』のことである。私は、1988年のトルコのイスタンブールに始まり、モロッコ(1996年)、トルコ(1997年)、イラン(1997年)、チュニジア(1998年)と、いわゆるイスラム圏を立て続けに旅行していた時期がある。魅せられたのである。
 政治的意味では全くない。長い歴史にわたる歴史的建造物の形状、美的感覚、色使い、幾何学的模様、あるいは植物を描くタッチ、…、そしてバザールなどの生活様式等々、「エキゾチック」と言う言葉では括ることのできない魅力に取り込まれたのである。50歳を過ぎて『イスラムの人々』、『イスラムの文化』、『イスラムの…』に魅了されたのである。
 カシュガルの鉄道駅は東郊外にあり、タクシーやバスで街に向かう。街に近づくにつれてモスクが多く見られ、ミナレットから聞こえるアザーンの響き(呼びかけ)に胸が躍ってくる。先ずホテルへのチェックインである。北京に住む娘があらかじめ予約しておいてくれたホテルは、旧ロシア帝国時代の領事館の建物だったそうだ。私の旅のくせを知っているので、とくに方向音痴対策を考えて、見所にまっすぐ歩いていくことのできるホテルを予約したのだ。パスポートのチェックだけで何事もなくチェックインが済み、あらかじめ用意しておいてくれた街歩きの地図を貰った。要所に赤いペンで印がつけられている。よし、出かけるぞ。

アラブの道づくり
 道路の研究者が使う言葉で、『アラブの道づくり』と言う言葉がある。まっすぐな道がなく、曲がりくねった道路づくり、坂の多い街づくりである。そう、敵からの都市防衛のためである。貰った観光用の地図を見ると、幅員の広い南北に走る解放路(解放北路と解放南路)と東西に走る人民路(人民西路と人民東路)が交差している。まさに、カシュガルの中心地であり、双方の道路はほぼ直線である。縮尺の関係上、そして観光用であるから、おおまかに描いたスケッチ風の地図である。したがって、小道の入り組んだ所まで描かれておらず、『アラブの道づくり』を地図上でチェックすることはできない。街の内部では、細かく曲がりくねっているのであろう。
 この交差点の東側に人民公園があり、巨大な毛沢東像が建てられている。そうそう、ホテルのスタッフによると、古代シルクロード時代に疎勅国(そろこく)と呼ばれたカシュガルは、インドから帰る途中に玄装三蔵が立ち寄り、マルコポーロもここで休養したそうです。二人とも、どこに行ってもせわしなく歩き廻るみたいですね。

歩き廻る
 最初の目的地は、と言うか、目指すは『エイティガール寺院』である。とりあえず、ホテルからきょろきょろしながら色満路を東側に歩いて行こう。途中で繁華街の前で右折しよう。地図で学習してある。ところが、恋人のささやきではなく、ミナレットから発生される大音声で、びっくりした。心地よいアザーンの呼びかけである。その美しい、心地よい呼びかけに酔ってしまって、「ロスト・マィウエイ(迷った)」。20分の予定が40分もかかってしまった。迷い方にも規則性があって、いつも同じ場所で同じ方向に迷うのである。「迷う」を定義すると、自分で想定している方向(場所)とは違う場所にいるのである。「I found myself …」。「気がついたら、…にいる」のである。道を間違った原因が分からないのであるから、戻る時も当然、「ロスト・マィウエイ」。あーあ。どなたか、ここに規則性を見つけて、『方向音痴』で学位を取ってください。切にお願いします。
 「そのおかげで」というとおかしいが、迷い道でいつも、同じ人達に会うのである。緑色の紐を山羊の首にかけていつもここにいて立ち話をしている白帽のおじさん、すっかり仲良しになった。おじさんに頼んで、紐を持たせてもらって山羊を誘導すると、他の山羊達も一緒に来るではないか。私とは初対面である山羊が私に従うはずがない、とすると、紐を付けられた山羊はリーダーなのだろうか?またまた、知的好奇心が湧いてくる。「何が知的好奇心だ。単なる惰性だ」。そうか、ありがとう。

満路からエイティガール寺院へ向かう途中に迷った小道
迷い道で山羊を引き連れた白帽おじさんと会う
カシュガルの人民公園
エイティガール寺院前の広場
エイティガール寺院前の広場

エイティガール寺院
 ここは、新疆で最大規模を誇る西暦1422年創建のイスラム教寺院、黄色いレンガづくりの『エイティガール寺院』である。イスラム歴846年、明の永楽20年である。その後、数回の修復を重ね、最終的には1872年(清の同治11年)の拡張によって巨大寺院になった。この寺院の信者の大半は、イスラム教スンニ派の信者である。解説書によると、この寺院の成り立ちに、一つの伝説がある。1798年、ウイグル族の女性がパキスタンへ向かう途中、カシュガルで病死した。人々は彼女の死を悼み、彼女が残した多額のお金でこの寺院を建てたそうです。伝説である。
 ペルシャ語で「祭を行う場所」という意味のエイティガール寺院は、金曜日に、導師が朗読するコーランに合わせて、メッカに向い祈りを捧げる。詳細は省略するが、毎週金曜日およびイスラム教の祭日(ローズ祭、クルバン祭)期間中以外は、信者でなくても寺院内に入ることができる。

黄色のレンガでつくられたエイティガール寺院
エイティガール寺院内部
エイテイガール寺院内部の天井の一部
エイテイガール寺院内部
エイテイガール寺院と前の広場

ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓
 『カラハン朝』にご登場願おう。「確証が得られていない部分が多い」と解説書にも書いてあるが、カラハン朝とは、中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840年~1212年)だそうだ。この王朝のベラサグン生まれのウイグル人で、首都カシュガルで大侍従になった人物が、『ユスフ・ハズ・ジャジェブ』である。今、訪ねている陵墓は彼が眠っている場所である。彼は、『クタドゥグ・ビリク(幸福になるために必要な知識)』を上梓したが、その内容よりも、アラビア文字でトルコ語(ウイグル語)を表記したことで有名だそうだ。どちらの言葉も分からないので、頷くしかない。

ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓
ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓の入口
ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓

盤たく城(班超紀念公園)
 ユスフ・ハズ・ジャジェブの陵墓から市内南部にある盤たく城(班超紀念公園)に移動する。盤たく城は、1世紀後半この地にあった疏勒国(そろくこと)の宮殿跡である。歩くにはちょっと距離があるし、それに、やっと念願の公共バスに乗ることができる。16路バスに乗車して20分くらいだろうか、『班超城』で下車してすぐである。まばらな乗客の全員が降りた。
 ここは、西暦73年に後漢の軍人、班超が明帝に匈奴の討伐を命じられ、拠点として西域の大本営を設営した場所である。匈奴を征伐して西域都護として102年まで留まった。当時、都であった洛陽からここカシュガルに至る物語の説明や、一緒に来た部下36人の勇者たちの像がある。皆さんは、この名言を残した名将が班超であったことをご紹介すれば、頷かれるでしょう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。

盤たく城に向かうバスの中の風景
盤たく城入口
盤たく城の班超たちの像

アパク・ホージャの墓
 カシュガル市内から20番のバスで約30分。16世紀末の新疆イスラム教白帽派の指導者アパク・ホージャとその家族の墓である。ホージャ一族は「マホメットの末裔」と称していたとされるが、真偽のほどは分からない。私が訪ねた時は、ガイドが数人いたが、この墓のスタッフなのか、どこかのパーティのガイドなのか、この種の施設にたまにいるチップ欲しさの、自称“国家資格を持つ説明員”なのかよく分からないが、一生懸命に説明していたので断る理由もない。『アパク・ホージャの墓』は、別名『尊者の墓』、『香妃墓』である。後者の「『香妃墓』の言い方は、清の第6代皇帝、乾隆帝のウィグル人妃子だった伝説の美女、香妃が葬られていると誤って伝えられたためである」と、別のガイドが言っていた。つまり、乾隆帝の妃であった 容妃と混同されたため、ここに葬られたのである。“国家資格を持つ説明員”は、違う客を探しにどこかへ行ってしまった。私にとっては、要するに、カシュガルの歴代の統治者の墓なのである。
 西暦1874年(清の同治13年)の修復で、モスクなどが新しく追加されて、中央アジア式イスラム墓となり、その美しい姿を見せている。隣で、一眼レフで対象を引っ張っていたご婦人は、撮った4つのミナレット(尖塔)のモザイクのアップを私に見せて自慢していた。せっかくなので、「ビューティフル」と発音したところ、何を勘違いしたか、自分のことだと思ったらしい。「おい、“国家資格を持つ説明員”よ、相手をしてやってくれ」。
 アパク・ホージャ廟の西奥にある、清代初めの 17世紀に建設された小モスクが、緑頂礼拝寺である。アパク・ホージャがこのモスクで『コーラン』を読んだという。建物は奥のレンガ造ドーム屋根の棟と、手前の木造陸屋根の棟で構築されており、ドーム状の屋根が アパク・ホージャ廟に合わせた緑色のタイル(瑠璃瓦)で葺かれていることから、この名がついた。
 アパク・ホージャ廟の最も西側に位置する場所に大礼拝寺がある。説明書に「加満清真寺Mosque」と書かれてあったが、Jaman(ジャーミ)は金曜を意味し、中国語で 加満(ジアーマン)と音訳するそうだ。 清真寺とMosque は重複するが、まあ、いいか。このモスクの由来は、19世紀半ばに新疆地方で清朝に対する反乱が起きた際に、『ヤークーブ・ベク』(1820年~1877年)はカシュガル・ホジャ家の末裔であるブズルグ・ハーンの将軍として新疆に侵入した。そして、1865年に自らのイスラーム政権を樹立することに成功し、後に、アパク・ホージャ廟の整備や建物の新設を行った。そのひとつが、この 1873年の大礼拝寺である。

アパク・ホージャの墓の近くで出会ったウィグル人の姉妹 。お姉ちゃんの刺繍の指さばきは見事であった
アパク・ホージャの墓
墓の内部
アパク・ホージャ墓の後ろ正面
アパク・ホージャは、ここ緑頂礼拝寺でコーランを読んだ
1873年にヤークーブ・ベクが建てた大礼拝寺

バザール
 近くまで行ってもじっと我慢して、最終日にとっておいたバザールに出かける。艾孜熱提路の国際バザール付近で開かれているバザールは、ウイグル自治区随一の規模を誇る。お土産コーナーは別として、観光客を相手にするというよりも売り手も買い手もウイグル族で、また、商品も衣類、食品などの生活感のある品物の売り買いである。地元に密着しているバザールなのである。そして、とにかく広い。方向音痴の私は、迷子にならないように気をつけるのだが?
 『バザール』の高揚感を説明するのは、とても難しい。現在の表現手段では、言葉を操る天才を待つか、画像や映像に頼るしかないのだろうか?それにしても私のカメラ術では無理だ。やはり、皆さんに、それぞれに思いがあるでしょうが、「“旅”に出かけてください」と、お誘いするしかないか。
 半世紀以上も前の古い映画で恐縮ですが、フランスで1960年3月公開、日本で1960年6月公開の『太陽がいっぱいPlein Soleil』(仏・伊共同制作)という映画があります。説明は、もちろん省きますが、主演の男がバザール(のような所)を歩くシーンがあります。歴史的名監督ルネ・クレマンが描くあの高揚感、あれです。

監督;ルネ・クレマン 脚本;ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン 原作;                パトリシア・ハイスミス 製作;ロベール・アキム、レイモン・アキム、 出演者;アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ 音楽;ニーノ・ロータ 撮影;アンリ・ドカエ 編集;フランソワーズ・ジャヴェ 製作会社;ロベール・エ・レイモン・アキム、パリタリア 他

艾孜提路。カシュガルのメインストリート
混雑するバザール
バザールから入った中西亜国際貿易市場
肉 屋 
金物類の店
正大ショッピングセンター

フィナーレ
  明日は、ここカシュガルからウルムチ経由で北京へ飛び、1泊して帰国である。 楽しいバザールにたっぷりと時間を取って、思い残すことはない。バザール近くの吐曼路につながる気に入った小道を見つけたので、戻って、今日の1枚を撮る。お気に入りの写真になりそうだ。17時頃に写した写真である。ここを立ち去るには、まだ早い時間である。名残惜しい。ぶらぶらしながら、エイティガールに向かい、無名の皆さんに挨拶してからホテルに戻ろう。ここは本当に安全な町であった。
 その後の中国の旅で、いろいろな町で見たが、ここにも公衆電話があった。個人で各家庭に個別の固定電話をもつ経済的余裕がないのであろうか。でも、今では、携帯電話にとってかわられているのかも。
 もう1つ、私の子供の頃を思い出させる懐かしい風景がホテルへの帰り道にあった。きっと、多くの(お年を召された)皆さんも経験なさったことだと思います。勝手に造語させてもらえれば、「 TV 共同視聴です」。小さな田舎町に数台しかなかったTVを皆で観て楽しんでいた景色をここカシュガルで見ています。最近では、『パブリック・ヴューイング』とか。違うか(笑)。
 日本が貧しかった頃、でも皆が将来に夢を持っていた頃、おにぎりを二つに分けて大きい方を小さな子に与えたり、弱い子を絶対にいじめないガキ大将がいたり、さりげなく優しくしたり、さりげない優しさをさりげなく受けとめたり、…。感傷的になっていません。いい旅でした。皆さん、本当にありがとうございました。「スィー・ユー・アゲィン」。

吐曼路近くの小道
吐曼路近くの小道
店先に貸し電話器が置いてある
共同視聴TV。エイティガール寺院から色満路へつながる通りで
色満路の路上果物屋で。“吉”であるように

中国・新疆ウイグル~クチャ~

ウルムチからクチャへ
 ウルムチからクチャへ列車で向かう。ウルムチ発15時51分、クチャ到着予定時間は翌日の05時43分の夜行寝台列車による移動である。料金は、2005年当時で326元であった。今まで、四半世紀前からヨ-ロッパ各国、各都市間の夜行寝台列車による移動は、何度も経験済みだし、今回の中国人のホスピタリティには随分と世話になった。旅における慎重な行動はとても重要なことは百も承知だし、(「それが危ない」の声あり)、とにかく、「隣人を信じよう」。
 列車の係員にチケットを提示すると、席(部屋)まで案内してくれた。1室に2段寝台を2つ置いた4人部屋であり、ヨーロッパのクシェット(簡易寝台)の1等寝台とほぼ同じような構造である。日本人は私一人で、他は体格の良い中国人3人であった。なんとか意味が通じる英語を話す人もいて、消灯する時間まで色々な話をした。彼らは中国の軍関係の人達だった。三十代後半に見えた。私が「中国人民軍」と言うと、「正確には『中華人民解放軍』という」と訂正された。そして、その立場は「中国共産党が指導する中華人民共和国の軍隊」だという。少し時間がかかったが、何となく理解できそうである。外国で、その国の国家体制のことを話題にするのは注意を要するが、彼らは非常に友好的で、クチャのことを色々と教えてもらった。普段は自分たちのことを「解放軍」と言うそうだ。
 そして、私に袋に入った茶葉をくれた。その後の中国旅行でもいつも感心したことであるが、日本に無い中国の文化的インフラ?である。お湯である。公共の場、例えば、駅、バスステーション、列車の中などに、必ずお湯のサービスがある。タンクを備えているのである。人々は、茶葉を入れた魔法瓶をいつも持ち運び、いつでもどこでもお茶を飲むことができるのである。粉ミルクを入れた赤ちゃんの哺乳瓶を持ち歩くお母さんもいる。これは、是非、我が国にも導入したい慣習、文化である。

ウルムチからクチャへ向かう夜行列車のチケット
夜行列車の寝台の様子。私の寝台は左側の下段である
車内販売の朝食

クチャの歴史
 シルクロードのルート上にあって、長い間重要な地位を占めてきたクチャについて、分かりやすく説明するのは、浅学の私にはとても難しい。最も基本となる中学や高校で習う中国の歴史に現れる時代や地域も多岐にわたり、一筋縄ではいかない。そこで、まず、その地理的位置について概略を説明したい。中心となるのは、天山山脈、ウイグル語で言うテンリ・タグ、すなわち『神の山』である。タクラマカン砂漠の北あるいは中央アジアの国々との国境地帯にある大きな山脈である。シルクロードはこの天山山脈を境に南側を「天山南路」、北側を「天山北路」と呼んで分けている。
 この天山山脈の南麓に位置するクチャに、歴史あるいは時代を当てはめてみる。クチャ側から言うと、次々とやってくる歴史や時代を定点観測する手法である。時代として,よく知られている『前漢』、『後漢』、『唐』に登場してもらおう。前漢時代に登場したのは、『亀茲国(くじこく)』である。水を得て、農耕、牧畜を行ったり、キャラバン隊による中継貿易によって発展した、いわゆるオアシス国家である。後漢時代には西域都護府(せいいきとごふ)が置かれて西域を統括し、次の唐代には安西都護府が置かれた。これらはいずれも統治の形態であるが、歴史をおさらいする時、あるいは時系列に並べる時は、よく使われる手法であり、受験勉強のようで恐縮であるが、お許しください。
 西域は、どうしてもイスラム世界のイメージが強いが、『唐』が出現するからには、おのずから、『仏教』のキー・ワードが頭に浮かぶ。クチャが仏教の歴史に深くかかわる予感がする。そう、クチャには仏教遺跡が多数、存在するのである。ここはまさに、『クチャ』、そう地理的『十字路』であると同時に、宗教・文化の『十字路』であるのだ。

もう一人の三蔵法師
 日本では、西遊記に登場する玄奘はむしろ三蔵法師(さんぞうほうし)として知られているが、三蔵法師というのは一般名詞あるいは尊称であって、固有名詞ではない。『そもそも論』は、旅行記に馴染まないが、三藏法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことである。訳経僧をさす場合もある。したがって、多くの三蔵法師がいるのである。
 実は、前段の文章は伏線であって、ここ亀茲国を生誕地とする最初の三蔵法師を紹介したいためである。仏教普及に貢献した仏典翻訳者・鳩摩羅什(クマラジーバ)である。鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われている。若い皆さんはこれからアジアの仏教国を旅行する時、仏教国でなくてもかつては仏教が盛んであった、そういう都市を旅行する時に、鳩摩羅什のことを知っていると、深い旅を楽しめますよ。

クチャ郊外観光のスタートはキジル千仏洞
 私の旅の定石通り、クチャの中心部より先に周辺に出かけてみよう。「人っ子一人いない」とよく言われるが、クチャの郊外に向かう道路にはたまに観光バスとすれ違うだけで、本当に人通りがない。遠くに見える天山山脈は雪をかぶっている。雲一つない青空で、「青い空」とは、まさにこういう空を言うのであろう。70キロメートルの距離も1時間もかからずに目的地に着く。ここは、亀茲国の仏教文化遺跡『キジル千仏洞』である。『古代シルクロードの真珠』と言われたキジル千仏洞は,後漢から宋代にかけて(3世紀頃から8世紀末頃)、約40メートルの断崖に開削された、新疆で最大の石窟である。
 塑像はほとんど破壊されているが、壁画は比較的保存状態が良かった。案内のガイドは、第8号窟の『伎楽天画』の説明に力が入っていたが、個人的には第48窟の『飛天画』が好みだった。しかし、石窟内部にバッグやカメラを持ち込むことは厳禁であるので、写真は1枚もない。残念ながら壁画などはここでご紹介できない。お許しください。
 ガイドをした好青年、私と波長が合ってきたので、翌日の『クムトラ千仏洞』のガイドとして、個人的に指名することにした。ただ、注意を要するのは、どこの千仏洞でもそうであるが、亀茲石窟研究所で入場料を支払い、ガイド料金を追加で支払うシステムなので、許可無くガイドと勝手に千仏洞に入ることはできない。
 先ずは今日の午後の活動に備えて昼飯だ。

キジル千仏洞に向かう。遠くに見える天山山脈は雪をかぶっている
キジル千仏洞の全景
キジル千仏洞のアップ
近くで遊んでいた七面鳥
キジル千仏洞の敷地にあるレストラン近くにポプラ並木が続く

今日はまだ時間がある
 レストランで食事を済ませた。これから、ここキジル千仏洞から塩水渓谷に寄り、その後、クズルガハ千仏洞へ向かうことにした。塩水渓谷は、文字通り塩が蓄積している渓谷である。チェルターグ山(禿山)から流出する雪解け水は大量に塩分を含んでおり、それが谷間で干あがって塩の結晶が蓄積した結果、白い渓谷ができたわけである。私がこの写真を撮ったのは6月であり、8月の増水期以外はこのように,水が無く川床は乾いた塩で真っ白になるそうだ。そして、当然のことながら、この辺りの山は草木一本生えていない禿山が続く。 ただ、チェルターグ山では鉄や銅がとれるということであった。
 私の撮ったこの場所であるかどうかは定かではないが、玄奘はこのクチャの塩水渓谷を通ったそうである。あの玄奘が、悟空と沙悟浄、猪八戒を引き連れて、…。『西遊記』であれば、孫悟空が乗るきんとうん(觔斗雲)で、一飛びで十万八千里を飛ぶのだが。

乾いた塩で真っ白になる塩水渓谷
チェルターグ山(禿山)と道路

塩水渓谷からクズルガハ千仏洞へ
 塩水渓谷からクズルガハ千仏洞に向かう途中に位置する新疆エリアで最大のクズルガハ烽火台(クズルガハのろしだい)跡に立ち寄ることにした。ガイドによると、この烽火台は前漢時代(今から約2000年前)につくられたものだそうだ。南北4.5メートル、東西6メートルの土台の上に高さ13メートルの土塔が残っている。建設当時は、写真に見られるような烽火台が等間隔に設けられていたそうだから、国土防備もさることながら、さぞかし壮観であったと思われる。
 塩水渓谷の岩壁や谷の上にあるクズルガハ千仏洞に移動する。クズルガハ峰火台から約2キロメートルの近さである。この石窟群は、漢の時代から唐の時代にかけて46窟が開削されたそうだが、残っているものは少なく、それに損傷が著しい。キジル千仏洞の時と同じように、カメラの持ち込みは厳禁なので、写真がありません。申し訳ありません。    

クズルガハ峰火台(クズルガハのろしだい) 

スバシ故城
 チェルターグ山の南麓に広がる仏教遺跡であるスバシ故城に移動する。ガイドの話だと、『大唐西域記』に登場する寺院、『アーシュチャリア寺』だと考えられているという。『大唐西域記』とは、先にトルファンについて記述した際の『いきなり孫悟空』でご紹介した書物である。ガイドにとっては地元だったのか、「魏晋の時代に造られ、唐の時代には亀茲国最大の寺院だった」と誇らしく力説していた。
 スバシ故城は、クチャ河を挟んで東寺区と西寺区に分かれている。私は後者を廻ったが、広いエリアに石窟が点在している。魏晋の時代に造られたものが、21世紀に観られる、世界有数の歴史を誇る、やはりここは中国である。私が日本人であることを知っているガイドは、中部仏塔を指さして、「20世紀初めに日本の大谷探検隊が発見した仏塔ですよ」と笑顔で説明した。
 小さな洞穴の前で「ミイラが見つかった場所」と説明があったが、本当かな?もちろんガイドの説明を疑ったのではなく、この洞穴でミイラが見つかったことがである。それほど、どうってことのない穴だったもんですから。詳細は分からない。
 そうそう、スバシ故城もシルクロード遺跡群として世界遺産に登録されたということです。

チェルターグ山の南麓に広がるスバシ故城西寺大殿
日本の大谷探検隊が発見した中部仏塔
スバシ故城西寺仏塔
スバシ故城西寺仏塔
ミイラが発見された穴

クムトラ千仏洞
 亀茲石窟研究所で所定の手続きと支払いを済ませてから、昨日、約束したガイドと二人で『クムトラ千仏洞』に車で向かう。この名前は、付近のクムトラ村に因んで名付けられたそうだ。千仏洞の4キロメートル手前の入口をカメラに収めたが、肝心の千仏洞の外観を撮るのに失敗した。そして、ここでも千仏洞内へのカメラの持ち込み禁止されているので、お見せするものが無く、申し訳ない。
 クムトラ千仏洞は、5~11世紀(南北朝期~西州ウイグル期)の仏教石窟である。主に仏教的な内容が描かれており、彫刻も見ることができる。唐代に造られたものが多いので、結果的に壁画の人物は漢民族のように見える。玄奘はここにも滞在したと言われている。
 黒っぽく見える壁画が多かったが、ガイドの話だと、イスラム教徒がこの洞の中で肉を焼いたりしたために生ずる煙のせいだという。でも、事の良し悪しは別として、「その煙のおかげで壁画の劣化が守られたのでないか」と、複雑な気持ちになった。その保存状態であるが、1977年と1979年にそれぞれ相次いで発見された新1号窟と新2号窟は、石窟、壁画ともに保存状態が良く、絵葉書の人気も高かった。

クムトラ千仏洞の4キロメートル手前の入口

クチャ市内
 前述したように、亀茲国が栄えた土地クチャは、前漢(オアシス国家)、後漢(西域都護府)、唐(安西都護府)の時代を通して、10世紀頃まで西域支配の中心であった。亀茲国の王族を母とする高僧・鳩摩羅什はここで生まれ、彼と共に二大訳聖と言われる玄奘はインドへ向かう途中、ここに滞在するなど、仏教へのかかわりが深い国であった。仏教が東へ向かって伝来して行く、いわゆる『仏教東進史』の中心であったのだ。
 現在のクチャは、ウイグル族が大半のイスラム教徒の街であるが、丁寧に街を散策すると、『クチャ』、そう地理的にも、宗教・文化的にもその名の通り『十字路』なのである。方向音痴の才能を生かして、気の向くまま、足の向くままに歩いてみよう。
 『亀茲古城』と記された碑に気づかなければ見逃してしまう。荒れ地と言ってもいいであろう姿は、唐代に安西都護府が置かれた城壁の跡である。松尾芭蕉の「つわものどもがゆめのあと」の風情には、もう一つ何かが足りない気がする。なんであろう?いつか、ゆっくりと考えてみたい。
 ここから東に10分ほど歩くと、『モラナ・エシディン・マザール』がある。14世紀中期の著名なイスラム教伝道師エシディンの陵墓である。「モラナ」は、聖者の末裔、「マザール」は、聖者の墓所を意味することから、『聖者の末裔・エシディンを祀った聖なる墓所』である。祖先はチェコのプラハ出身と言われる。

亀茲古城。(唐代の安西都護府跡)唐代の安西都護府跡は亀茲古城として,僅かに城壁が残るだけ
モラナ・エシディン・マザールの入口

横 道
 ちょっと横道にそれる。歴史を整理したいためである。『チンギス・ハーン』について、ちょっとだけ。「『モラナ・エシディン・マザール』と何の関係があるのだ」と言われると、「そうですよね」と言わざるを得ないが、ちょっとだけです。
 『チンギス・ハーン』(1162年~1227年)をご存じですね。12~13世紀のモンゴルに群雄割拠していた周辺諸国を征服し、アジアにまたがる一大帝国、すなわちモンゴル帝国を打ち立てた建国者(太祖)である。このチンギス・ハーンが13世紀にプラハを征服した際にエシディンは捕えられて新疆に流され、そこで布教を始めたのだという。人間の運命とは、不思議なものである。
 チンギス・ハーンの、この国土拡大は子孫達にも受け継がれ、ユーラシア広域を版図に収めた大帝国に発展するのである。この中世モンゴルの英雄の子孫達について、日本人がすぐに思い出すのは、鎌倉時代に日本に攻めてきた(『元寇』)フビライ・ハンであろう。フビライ・ハンはチンギス・ハーンの孫である。そして、もう一人、登場してもらおう。チンギス・ハーンの次男『チャガタイ』である。彼を祖とする遊牧国家が、『チャガタイ・ハン国』であり、その後、子孫が国家の君主として君臨した。その中心となった都市がアルマリクであり、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能していた。しかし、歴史は繰り返す。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂してしまう。それを一時的に再統一したハンとして知られるのが、『トゥグルク・ティムール』(? – 1363年)である。

 勝手ながら、ここで、横道から戻さしていただく。登場人物は、『エシディン』と『トゥグルク・ティムール』である。エシディンは、トゥグルク・ティムールを帰依させ、チャガタイ・ハン国の都アルマリクで16万のモンゴルの王侯、大臣、軍兵士、民衆をイスラームに改宗させたと言われている。歴史に翻弄され、立ち向かい、そして作った『エシディン』と『トゥグルク・ティムール』に、そして、ちょっと戻るが『チンギス・ハーン』も含めて、この登場人物の立ち位置と相互の関係を少しでも理解していただくために、僭越ですが、横道にそれました。お許しを。

まっすぐクチャ大寺へ
 横道で時間を使ってしまったので、まっすぐ、クチャ大寺(金曜モスク)へ向かう。ガイドブックの説明を忠実に再現すると、「16世紀新疆イスラム教依禅派の始祖イスハク・アリがクチャ滞在中に創建したといわれるモスク…」と記されているが、私には、『依禅派』とはどのような宗派なのかよくわからないし、『イスハク・アリ』なる人物は、初めて聞く名前である。したがって、ここではその宗教的意味をご説明できない。現在残っているクチャ大寺は、1927年に焼失した後に再建されたモスクだそうだ。新疆の中で、後日訪問するカシュガルの『エイティガール寺院』に次ぐ規模のモスクで、 青レンガで造られたアーチの高さは18.3メートルということだ。内部の天井をアップで示したが、緻密で装飾的な造作がなされている。

クチャ大寺正門
角度を変えて撮ったクチャ大寺正門
内部の天井は装飾的に造られている

オールド・クチャ
 クチャ大寺辺りから古い時代の街並みが残る、いわゆるオールド・クチャが広がる。“旅”の中で、私の一番好きな雰囲気で、旅の醍醐味を感じる瞬間である。変な日本語になってしまうが、「旅の醍醐味を感じる瞬間が継続する幸せな時間」なのです。写真に見える大きな建物はバスセンターなのだろうか?駐車するバスの前をおばあちゃんを乗せたロバ車がゆっくりと通り過ぎる。近代の乗り物であるバスと延々と歴史をつないできたロバ、時間が許されるならばあなたはどちらを選びますか?
 緻密な造作で造られた銅製品や幾何学模様の宝石箱などを売っているかと思えば、香辛料を量り売りする店、野菜を露店で売るおばさん達、怪しげな栄養補助食品など、いつも私がする表現、「楽しいのなんのって、楽しい」のです。とくに私が惹かれるのは、職人仕事です。世界のあちらこちらで随分多くのバザールを訪ねたが、やはり、職人仕事あるいは職人街に、一番惹かれてしまう。ここの靴の修理屋さんと15分も話して彼の貴重な時間を奪ってしまった。耳学問で英語を覚えたのだろうか。私の汚れたスニーカーを指さして、「お前のスニーカーは修理できない。そのように作られていない」。なるほど、職人の目から見れば、文字通り、ハキステだ。そして、横にあった切り取ったスニーカーの底(ゴムの部分)を私に見せて、「これは他の靴に利用できる」。この職人から多くのことを、技術的なことだけでなく、「人生を学んだ」。ありがとう。
 今日は、日曜日。バザールから日曜日に言葉が飛ぶということは、そう、『日曜バザール』が開かれているのである。場所は、クチャ大寺から500メートルも歩けば、川をまたぐ団結新橋に至る。その辺りである。早い時間から屋台が建ち始め、荷物を満載したロバ車が沿道に行列をつくる。
 写真が無いのは、意地悪ではありません。楽しむのに忙しくて、写真を撮る暇がないのです。それに、明日は05時49分発の列車で今回の一連の中国旅行の最終地、カシュガルに9時間の旅程で向かわなくてはならないのです。それに、クチャのワィンも飲まなくちゃならないし。意地悪ではありません、Again。

オールド・クチャ
バスとロバ車。新旧乗り物の対比。あなたはどっちを選ぶ
心優しい&スマートな靴の修理屋さん
路上の果物屋さん?

中国・新疆ウイグル~ウルムチ、南山、天池、トルファン~

いざ、ウルムチへ
 中国のウルムチ(烏魯木斉)で開催される、土木に関する国際会議に論文を発表するため、初めての中国訪問である。「会議の方は慣れっこだからいいけど、一人旅で人民とやり取りするのは、言葉ができないのに大丈夫?」と北京に住んでいる娘に心配される。会議が行われる新疆鴻福大飯店はそれなりのホテルであるから英語が通じるだろうし、「会議の公用語は中国語と英語なので、分からないことは参加者に聞けばよい」。「まあ、青い目をしたご婦人に教わりましょう」。「でも、何かあった時のために、この電話を使って下さい」と言われて、携帯電話を渡された。私は携帯電話を持っていないので、使い方をメモして貰った。でも、早速、空港に行く時に、北京のホテルに忘れて、慌てて取りに戻った。先が思いやられる。
 さて、北京からウルムチまでの距離は2,400キロメートル。東西にこれだけの距離があるということは、当然のことながら実生活における時差が生じる。中国では、国内を単一時間にしているが、実態は「新疆時間」あるいは「ウルムチ時間」と呼ばれる北京時間から-2時間のローカル・タイムを併用している。したがって、交通機関を利用する時は、確認が必要である。北京から約4時間ちょっとのフライトでウルムチ地窩鋪国際空港(URC)に到着する。空港から約17キロメートル離れている街の中心に向かうにはエアポートバスが便利で、約30分で着く。私がウルムチを訪ねたのは2005年であって、この時は地下鉄が開通していなく、2014年に1号線が着工されて2018年10月に開業した。中国最西の地下鉄である。

 ウルムチという地名は、『美しい牧場』の意味だそうだが、新疆ウイグル自治区の、日本でいえば、県庁所在地、首府である。漢族、ウイグル族、モンゴル族、カザフ族、回族等、42の民族が暮らしている。人民公園の周りの半径3~4キロメートルの中に、鉄道駅、長距離バスターミナル、ホテル、繁華街がある。『新疆』の意味であるが、清の第6代皇帝である乾隆帝時代(在位:1735年~1796年)に中央アジアのモンゴルとウイグルを平定した後,この地方を「新たに加わった領域」、つまり『新疆』と名づけたことがその起こりである。後年、先の大戦中の 1944年にウイグル族やカザフ族を中心に東トルキスタン共和国を樹立したが,1950年中華人民共和国に加わり,1955年新疆ウイグル自治区となった。
 何事もなく、会議の登録を済ませ、論文を発表し、質問をこなした。やはり、アジア人同士なのか、厳しい中にもフィーリングが合うのに対して、むしろアメリカ人や西洋人の方が緊張感をもって論じ合っていたように思える。しかし、どの国であろうと、学問における激論は厳しく、そして楽しい。

国際会議が行われた新疆鴻福大飯店
黄河路をまたぐ横断歩道橋から人民公園側を写す

楽しもう
 20時という時間をどうとらえますか?夕食を済ませ、早い人だと寝ているかもしれませんね。ところが、20時からのプレゼンテーションなど平気。この国際会議は、早朝から夜まで忙しい。合間を縫って参加者間で情報交換をしたり、コーヒーブレィクに、もちろん英国人だが、ビターを飲んだりと、忙しい、そして楽しい。私が驚いたのは、会場となった新疆鴻福大飯店の朝食である。日本のホテルであるならば、いわゆる洋食と和食が一般的であるが、ここは中国なので、和食が中華に置き換わる。その中華である。なんとお粥だけで十種類を超えるのである。田舎の漁師町で育ったので、結構旨いものを食べて育ったつもりだが、お粥でKOされた。旨いのなんのって、本当に旨い。外国で、「ディナーが楽しみ」と言うのは今までも随分とあったが、それも「ワインの引き立てによって、あるいはワインを引き立てるディッシュに負うところが多い」と思う。「何もいらない、そのお粥だけ」。まるで恋のようだ。私は、この新疆ウイグルで恋をしたようだ。

お粥も時間もたっぷり
 今日は空き時間がたっぷりとあるので、お粥を何種類か食べた後、会議で知り合ったアメリカ人数人と南山牧場へ行く。威勢の良い若者が覚えたての知識を披露する。ちょっと怪しいが、中国語も書けるらしく、日本の漢字?に置き換えると「天山」と読めるような字を書いて、「ウイグル語でテンリ・タグ。神の山を意味する」と英語で説明する。このような元気の良いのがグループにいると、寡黙な日本人?としては大いに助かる。
 この神の山の北麗に広がる南山牧場は一種の観光牧場で、東白楊溝(とうはくようこう)、 西白楊溝 (せいはくようこう) 、后狭(こうきょう) 等が有名である。そして、この高山には、主にカザフ族やモンゴル族が住んでいる。ここで体験できるイヴェントは二つあって、一つは乗馬体験、もう一つはパオと呼ばれる遊牧民族の住居で軽食をとりながら民族衣装を着た女性の踊りを鑑賞するものである。私たちは欲張って、双方を体験することにした。
 最初は、乗馬体験である。時間制だったので90分コースを若きリーダーが選んだ。たくましい中年の女性からルートマップに印をつけてもらった。ここでリターンすれば90分コースに間に合うということらしい。先述したように、私は漁師町で育ったが、馬産地でもあり、ギネスブックに乗っている競走馬シンザンやその他の名馬を産出した町の出身である。でも、乗馬は…。

シンザン
 話はそれるが、「オペラを一緒に観よう」とウィーンの友人、E博士に誘われ、急遽出かけて彼の家族と一緒に例の甘いケーキとウィンナ・コーヒーで茶をしていた時、「ザ」にアクセントのある「シンン!」が彼の口から出た。「シンン?」。「ウィ、シンン」。彼はヨーロッパの数ヶ国をつり、音楽はもちろん、博学多才な男である。蛇足ながら、当時、息子さんは1812年に設置された某総合芸術大学で舞台芸術を勉強していたので、私にとっては貴重な音楽情報、とくにオペラやミュージカルの情報源であった。
 シンザンとウィーンにどんな共通点があるのだろうか?ヒントは、彼特有の、『日本で言えば京風』、『英国風』に表現する『スペイン』と『乗馬学校』という示唆であった。そう、ウィーンのスペイン式宮廷馬術学校、つまり、ここウィーンでは、「馬」は誰でも知っている貴重なキー・ワードなのである。ルネサンス時代に集大成された古典馬術の最高技術を現在観ることのできる、世界で唯一の施設がここにあるのだ。バロック様式の豪華な屋内の馬場で、ウィーンらしく華麗な音楽に合わせて演じられる優雅なテクニックは、乗馬愛好者だけでなくても拍手喝采であろう。
 なお、後付けになるが、このスペイン乗馬学校の古典馬術の伝統は、2015年にUNESCO無形文化遺産に登録されたそうです。

優雅とは言えないが 
 話を元に戻しましょう。ウィーンのリピッツァー種の白馬のように優雅ではないが、ここ南山牧場でたくましい中年の女性が差配する馬も?たくましく、何かほのぼのとした感じである。リーダーを先頭に、ルートマップにつけてもらった印を頼りに乗馬体験90分コースに出発だ。しかし、乗馬を習った経験が無い。「馬は乗り手の技量を判断できる」ためか、乗り手を適当にあしらっていたが、この馬、なかなかの商売上手でもある。私を振り落とさずに、何とか他の仲間についていく。四苦八苦しながらも、羊がのどかに草を食む広い牧草地を往復したのである。行きは馬にしがみついていたが、帰りは胸を張って前をしっかり見つめる姿勢になった。
 戻ってきたところで、リーダーとおばさんの間で問題が起きた。時間を15分間超過しているということで、超過分を支払えというわけだ。おばさんも拙い英語で反論していたが、このような状況で、一般論であるが、アメリカ人は絶対に引かない。「お前が地図上に印をつけた場所を往復すると、絶対に90分以内では戻れない。ズルだ」。色々とやり取りがあって、結論から言うと、払う人と払わない人に分かれてしまったが、分かったような、そうでないような、…。私の場合は、貧しそうな人に訴えられると、ほとんど相手の言うことを聞いてしまう。

 もう一つのイヴェントである民族舞踊の方である。テーブルが敷いてあり、飲み物と簡単な食事が出される。飲み物であるが、「えっ、ここでティ?」。そうです、カザフ族が毎日飲んでいるという塩味のミルクティでした。日本で昔から子供向けに売っている塩味のキャラメルのような味でした。
 パフォーマンスとして、録音された音楽に合わせて舞う美少女の踊りがある。客に媚びない一途さは美しさとともに感動を覚えた。宿泊も可能だそうだが、明日は討論会があるので残念ながらホテルに戻らなければならない。
 偶然、韓国の大学生二人と一緒のパオになった。まさに好青年といった感じで、彼らが以前に訪ねた京都の話になると、私より詳しく、私が訪ねた韓国各地の話になっても彼らの方が当然、詳しかった。これから数日後に訪ねるクチャやその周辺で無事に再会することを誓って、「さらば」。

草をはむ羊たち。馬に乗ってこの高原を駆ける
乗馬中?
点在するパオ
踊るカザフ人女性
パオの中で韓国人学生と

会議は続く
 国際会議の行事の一つである『Technical visit』で、ユネスコ世界遺産である『天池』を訪れる。論文を発表する人の奥様が参加されることもあるので(ご婦人が発表する場合は、その夫が参加することもあるので)、観光と間違われるが、そうではない。費用は自分で出すし、『天池』を題材に土木工学的なかなり専門的なやり取りが続く。そして、これも重要な目的の一つであるが、技術的情報交換と人的交流の機会が得られるのである。隣国でありながら国交の無いアメリカ人とキューバ人が話し合う機会が得られるのです。懐かしい英国のコックニーを聞けるのです(これは余計か)。「私は隣人です。日本の隣のサッカリン(サハリン)から来ました」とロシア人研究者に自己紹介をされるのです。通信手段を通しての意見交換ではなく、肉声で直接顔を見合わせて、技術課題を目の前にして、天池に関するいろいろな専門家の助言をいただきながら、…。

 その天池であるが、ウルムチの北東約90キロメートルにボコダ峰(モンゴル語で『聖なる山』)が連なる。標高5455メートルと高いので、どの位置からも見え、神々しい姿が美しい。その中腹、標高で1980メートルに位置する湖が天池である。専門家によると、天池の美しさが際立つのには色々と理由があるが、その一つに深さがあるという。最大深度が105メートルにも達するそうだ。景色の美しさを表現するのに、例えば「…のアルプス」、「…のスイス」などと表現されるが、ここ天池は「中国のスイス」と呼ばれるそうだ。スイスも何度か尋ねたが、湖で言えば、この天池のエメラルドグリーンは本当に美しい。
 蛇足かもしれないが、ウルムチからここに向かう途中に舗装現場があった。バスの中から見ただけなので、正確な距離は分からないが、その施工の進捗具合には驚いた。周りに何もない環境で、直線道路を淡々と舗装する作業は、「楽だろうな」と、勝手に思った。そう言えば、『Technical visit』に出発する時にもらった赤い帽子には、今現場を施工している西武建設のマークが入っていたな。おわり。

天池入口付近の建設中の建物
天池索道
上昇中の索道から写したつづら折りの道路
天池でパチリ
天池
快速艇の乗降場所
説明は要しまい

終わっていない
 「非常に」という修飾語をいくつもつけたいくらい有意義で楽しい『Technical visit』であった。「これからホテルに戻ってゆっくりしよう」と考えていたのだが、バスはなにやら賑やかな場所で停車した。イスラム教のモスクとそれに付随する大きなミナレット(尖塔)が目に入る。「これだけ高いミナレットであれば、礼拝の呼びかけを行う『アザーン』も遠くまで響くだろうな」などと考えていると、15分後に『レストラン国際大バザール小吃城』に集まるようにアナウンスメントがある。すぐ近くだという。やっと、状況を理解した。『Technical visit』は天地を訪れた後、ここでディナーをいただいて、解散と言う段取りだったのだ。 15分を利用して、二道橋を見て、二道橋市場(二道橋バザール)を覗いて、…、無理ですよね。明日、時間を見つけて、…。

 ディナー会場の『国際大バザール小吃城』は、二道橋のすぐ近くで、その名前の通り、国際大バザールの中にある。国際大バザールのとてつもない広さを歩き廻るには、日を改めなければならない、確実に。実は、翌日、再度、ここに来たのだが、その印象を述べると、とにかく広い。やはり、ここは中国だ。買い物はもちろん、言ってしまえば、総合的な商業中心地と表現したほうが適切であろう。再度、ここは中国だ。そして、新疆ウイグル自治区だ。多様な民族のあらゆる商品が売られているのだ。カンファレンス・ディナーの時に地元の大学の教授に聞いたのだが、世界一の大バザールだそうだ。家族が使用する絹織物のスカーフを買った。

まだ、終わっていない
 きょろきょろ、うろうろしながらも時間にうるさい日本人である。方向音痴といえども、ここはバザールの中心のレストランである。時間通りに会場に入った。「ここは…の会場ですか?」と入口に立っている守衛に尋ねたが、前を真っ直ぐ見たまま、じっとして動かない。言葉を重ねたが、答えがない。後ろの客に背中をポンと叩かれた。びっくりして振り向くと、ウィンクをしている。…、…。そうか、人形だったのだ。
 コンサートホールとまでは言わないが、大会場である。国際会議関係者以外の他のグループも一緒になっているようで、盛り上がっている。そしてショーもあるのだ。日本では普段聞きなれないメロディーやリズムに合わせて、民族衣装を着た男女が踊る。華麗、優雅、しなやか、躍動感、…等々、拍手、拍手である。ソロになると声もかかるので、常連客やひいき筋が来ているのかもしれない。

 宴会の終わりが近づいたところで?、踊りや演奏が止み、スタッフ数人が何やら大事そうに包装された物を持ち出して、客(観衆に)良く見えるように動いている。簡単な説明があって、それに客が値段をつけていく。そうか、オークションか?言葉が分からない私めは、酒を飲みながら見ているだけだが、次第に興奮していく客同士のやり取りは、それなりに面白い。
 そろそろ解散のようだ。時計を見ると夜中の11時であった。皆様、ご苦労様でした。この辺りは安全と聞いたので、写真を数枚とってホテルに戻った。

二道橋市場近くのモスク
木製の橋・二道橋
二道橋市場(二道橋バザール)
国際大バザール
国際大バザール小吃城の入口の人形
レストラン国際大バザール小吃城
レストランで行なわれるショー
レストランで行なわれるショー
オークション
夜11:30に撮ったモスク

新しい始まり
 会議の最終日まで頑張った。欧米の都市で開催される国際会議とは一味違った趣があり、貴重な体験をした。全ての行事がつつがなく終わり、いただいた多くの文献を別送で日本に送ってくれるなど、ホスピタリティにあふれた会議の運営であった。とても感謝します。街角で出会う人々の素朴で親切な応対、やさしさにも深く感謝します。
 折角、めったに来られないエリアに来たのだから、あらかじめ取っておいた休暇を利用して、先ずはウルムチから日帰りで行けるトルファンを訪ね、その後、少しずつ西へ向かってシルクロードの一部を訪ねてみようと思う。

シルクロード
 日本人が、『シルクロード(絹の道、Silk Road、絲綢之路)』からイメージする地域は、NHKの大傑作TVプログラム『シルクロード』にあらわれた地域であろう。喜多郎の音楽とともに、日本人の心に訴えかけたシルクロードの映像と報道内容はあまりにも衝撃的であった。このロマンをかき立てるプログラムは、放送開始当時ほどではないにしても、多くの日本人は今でも心に留めている。このシリーズ化したプログラムを切り口を変えて放送すると、今でも高い視聴率を誇ることが、その証左である。
 国際会議のディナー(カンファレンス・ディナー)の時に、私に『国際大バザール』のことを説明してくれた地元の大学の教授のことを思い出していただけるだろうか?私のこれからの旅行日程を話すと、『シルクロード』のことを丁寧に教えてくれた。この名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』で、使用したのが最初だという。現在、明らかになっている『シルクロード』全域を含んでいないが、その先鞭をつけた功績は偉大であろう。地元の大学の教授の説明によると、これは学者特有の表現方法であるが、リヒトホーフェンの偉大さは、後に、1900年に『楼蘭の遺跡』を発見したスウェーデンの地理学者 スウェン・ヘディン(1868年~1962年)の師匠であったことだという。さらに、教授から、地理学者スウェン・ヘディンは、ウルムチに到着した際に新疆省総督の楊増新の手厚い歓迎を受け、新疆における科学調査の許可をもらったことなどを教えてもらった。後に、楊増新が暗殺されたことをストックホルムで新聞で知り、涙したという。この一件は、私の所蔵する一連のVTR『シルクロード』を検索したところ、NHKの1980年放送の『もう一つのシルクロード「オアシス点描(3)草原の道~現代天山北路~から」でも取り上げられていた。
 さて、ここは、シルクロードという大きなテーマについて詳細に語るところではない。これから訪ねるトルファンに話を戻そう。

トルファンに向かう
 時代背景は、2005年である。一昨日の国際会議で話題になったが、新疆ウイグルは高地にあるようなイメージがあるが、トルファンは中国の中でもと言うより、世界有数の低地にあるのである。夏の酷暑は強烈で、火州と呼ばれているほどである。ウルムチからはバスの利用が便利で、また、観光バスによるツアーが充実している。私は、ツアーを利用した。
 トルファンに向かって高速道路をひた走る。ただ、ただ空と山が続く風景である。何もない殺風景な風景と言われるが、このシンプルな景色を私はむしろ好きである。本を読んだり、景色を観たり、人民を観たり、「ニーハオ」と笑顔で言われたり、 場合によってはグラスを片手に、結構、忙しいのである。やがて、膨大な数の風力発電用の風車が見えてくる。このほうが殺風景な感じがする。

トルファンへ向う途中の高速道路と風力発電
風力発電プラントの看板

いきなり孫悟空
 トルファンから東に約40キロメートル離れた場所にある城址遺跡、『高昌故城』にいる。広大な面積なので徒歩で廻るのは大変で、馬ではなくロバに引かせた荷台、ロバ車と言うのだろうか、それに乗ってガタゴト揺られながら苦労してシャッターを切ったことを覚えている。この城址遺跡は、かつて外城、内城および宮城の3つから構成されていたと言われるが、これらの損壊は著しい。敷地が広大な故に、なお一層、その遺構が際立つ。

 玄奘(三蔵法師)が仏典を求めて天竺(てんじく。インドの旧名)に向かう途中に、ここで高昌国の王、麹文泰(きくぶんたい)に迎えられて2カ月ほど滞在して、1カ月間ほど説法をしたと伝えられている。玄奘とは、仏の教えや悟りの道を求め、そして経典を取りに天竺まで出かける、あの『西遊記』の玄奘である。玄奘は戒名、三蔵あるいは法師は尊称である。
 その西遊記にはその元となった書物、『大唐西域記(だいとうさいいきき)』が存在する。私は手にしたことがないが、帰国直後に太宗(唐朝第2代皇帝(在位626年―649年))の諮問に答えるかたちで西域やインドの地理、風俗習慣、言語、仏教事情等について、見聞きし、語ったものを弟子の弁機(べんき)が記した書物である。
 我が国では、西遊記は身近な物語として映画、TVプログラムなどで子供から大人まで広くいきわたっている。その一場面がここ火焔山なのである。本当か、フィクションか、孫悟空(そんごくう)と沙悟浄(しゃごじょう)、猪八戒(ちよはつかい)を引き連れて経典を取りにいく途中で、燃え盛る『火焔山』に行く手を阻まれた玄奘一行が、孫悟空の活躍によって『芭蕉扇』を手に入れ、その火を消して無事に脱出した、という『西遊記』の物語を覚えておいででしょう。『火焔山』を目のあたりにすると、赤い山肌に炎を思わせる深い縦皺が刻まれているせいか、実際に燃えているように見える。確かに、トルファン観光の目玉には違いない。天気が良く、気温が高かったせいもあって、ガイドも興奮していた。火焔山をバックに玄奘一行の像が建っており、記念写真を撮る観光客の皆さんも興奮していた。    

高昌故城の一部
寺院地区に残る仏塔跡
“芭蕉扇”をめぐって悟空が活躍した火焔山
右側に 火焔山と玄奘一行の像が建っている。皆さん、興奮して記念写真を撮っている

トルファン博物館
 最近、ここを訪れた方々は、このトルファン博物館の写真を見ると、「間違いではないか」と思われるでしょう。私も最近知ったのですが、トルファン博物館は2010年に市内の木納爾路という場所にリニューアル・オープンしたそうです。ここに掲載した写真は2005年に撮ったものです。したがって、逆に歴史的意味をもった写真になったと自嘲しています。

おいしい水は今も流れている
 灼熱の火焔山を見学したせいか、のどが渇いた。冷たい水が欲しい。「トルファンに水?」。多くの観光客はそう思うらしいです。ところが、トルファンには、市内から11キロメートルぐらいしか離れていないこの場所に『葡萄溝』と呼ばれる葡萄畑が広がっている。『ウマの乳房』の別名を持つここの種なしの白ブドウは、高級品として非常に有名で、そのおいしい理由は、日差しが強く、日中の寒暖差が大きいことにあるらしい。そして水である。ここは、いわゆるオアシス都市なのである。葡萄棚の下をくぐって奥に向かうと、水の流れを観ることができ、飲むことができる。そのおいしいこと、まさに、「神奇的」である。
 小学生の頃、学校の近くに湧水が出ていて、遊んでのどが渇くと、帰りにこのおいしい水を飲んで帰宅したこと、いや、“山かかり”(山道を通って葡萄や栗を採りながら)や“浜かかり”(泳いだり、釣りをしながら)をしながら、夕飯に間に合うように?帰宅したことを今でも覚えている。 学校は勉強する所ではなく、遊ぶ所だったのだ。この水が出っぱなしの給水管は、今はもう潰れていて、それに半世紀以上も前の話であるので(笑っては駄目です。こんな思い出を持つ子供は、最高に幸せなのです)、比較することが難しいが、それに勝るとも劣らないおいしさなのです。火焔山から移動してきたので、なおさら水がおいしく感じられたのかもしれませんが…。

トルファン博物館
トルファンの避暑地・葡萄園の中の水路
まさに神業・新疆の井戸水

中国・北京とその周辺

あと何年もつやら
 今は2019年11月である。1979年から始まった協会誌などに寄稿した海外旅行の旅日記は、この旅行記『方向音痴の旅日記』の中の『このHPおよびブログの構成』で既にご案内のように、『旧旅行記』あるいは『旧写真旅行記』としてアップロードしましたが、これから始める未掲載の旅日記は『新旅行記・アジア』あるいは『新旅行記・ヨーロッパ』として進めたいと思います。後者については、既に、クロアチアから始まってブルガリアまで続く『中欧』をアップロードしました。
 そこで、本稿です。『新旅行記・アジア』のスタートとなるのは、中国です。この後、少々時間を空けてから、『毎年1か月間中国旅行』が数年続きます。もちろん、十数億の民、長い長い歴史と文化、広大な国土と都市、…、永遠に続けても、…、それよりも私自身があと何年もつやら、…。
 さて、始めさせてください。よろしくお願いします。

スタートは中国
 約14年前の2005年、私にとって初めての中国旅行である。タイトル『中国・北京とその周辺』とあるように、この稿は北京周辺 、具体的には、北京市内、 万里の長城・八達嶺長城、 そして 明十三陵 であるが、これに続く第2弾は北京から一気に飛んで新疆ウイグルへの一人旅である。「お父さん、大丈夫?高学歴の人達は英語が上手だけれど、普通の人民には英語は全く通用しませんよ」と北京に住む娘に言われる。そう言われりゃ、心配になってくる。私の旅行の目的の1つは普通の人民と接すること、普通の人民の目を通してその国を見ることである。でも、実際に行ってみないことには何事も始まらない。そして、こんな言い方には合理性が全くないのであるが、「今まで、言葉が通じない国々でも英語で何とかなったし、大丈夫だ」。そう言って、今、成田空港経由で北京に来ている。娘と1歳になる孫と久々に会って、短い逢瀬を楽しんでいるというわけである。
 首都北京についてほとんど予備知識を持たずにいきなり訪れたせいか、想像していた以上の高層建築物の多さに驚き、自転車が人民の交通手段だと思っていたのにタクシーも普通に拾えることに驚いた。ここでは娘の通訳が頼りになるので、安心して色々なことを質問できるが、逆に言うと、専属の通訳がいるということは緊張感がなく、集中力が散漫になることが分かった。いつも欧米を中心に一人あるいは家族で旅をしている時は、言葉がそこそこ通じても、ある種の緊張感をもって生活するわけで、新しい発見であった。

天安門付近
 とりあえず、北京の中心であり、どこに行くにも便利な『天安門広場』に行く。天安門広場とその周辺は、あまりにも広く、相当の広角レンズを使っても収まりきらないので、数枚をつないで合成した写真である。実際の見え方とは違いますのでご注意ください。この辺りはあまりにも有名で、TV等にも露出度が高いので、つまり皆さんが日常的に目にする風景なので、列記するにとどめる。毛沢東の巨大な写真を掲げた天安門、天安門広場西側に位置する人民英雄記念碑と人民大会堂が目に入る。人民大会堂は、全国人民代表大会などの議場として用いられ、また外国使節・賓客の接受の場所としても使用されることから世界に向けての露出度の高い建物である。
 そして、観光客のお目当ての『故宮博物院』である。建物の美しさは元より、幾多の歴史の舞台となり、また、映画やTVドラマの舞台『紫禁城』として登場する、まさに主役である。

天安門広場
故宮の南側にある天安門のアップ
人民英雄記念碑と人民大会堂

故宮博物院
 中国の元・明・清の三代の朝廷の中心だった『故宮』は、世界中の観光客を集める北京随一の観光名所である。現存する建造物の多くは清王朝の時代に修復あるいは再建されたものである。笑い話に、「故宮について語ると、永久に終わらない」と言われるほど、その濃密な歴史、広大な空間、多様性、…と、追い込んでいくとフォローできなくなってしまう。そこで簡単で申し訳ないが、ガイドの引率のもとにツァーの人達が見学する見どころの一部を参考にしてご紹介したい。
 故宮は『外朝』と『内廷』に分けられる。観光客に人気があるのは外朝で、正門である南門(午門)から太和門、太和殿、中和殿、保和殿と続く。太和門をくぐると見えてくる太和殿、中和殿、保和殿は三大殿と呼ばれ、紫禁城の中心である。中国人観光客の一番人気は、大和殿にある亀鼎である。人民は、禁止されているのに中に入ってカメに触ろうとしている。この亀鼎は皇帝の長寿を示したものだそうだ。そういうことか。
 私は、十分に生きてきたので、触らなかった。

故宮博物院の案内板
太和門
太和殿
皇帝の長寿を示した亀鼎(大和殿)

フートンと四合院
 天安門や故旧院辺りの広大なエリアをゆっくりとまわると、相当に時間を費やす。孫もぐずり始めたので、天安門から近いフートン(胡同)に移動した。私は長い間、道路に関する研究に従事してきたが、『胡同』を訪ねる理由は、専門的な興味を覚えたのではなく、北京市の旧城内を中心に点在する細い路地や街並み、庶民が日常生活を送る空間が好きなのである。中国語の簡体字では『胡同』と書くそうで、通称、フートンは、歴史的には、元の統治時代の名残である。
 数年後から中国各地を毎年約1か月間ずつ、旅行するのであるが、路地や通りについての知識が町を理解するのに役に立つことがとても多いので、ここにまとめておこう。道路の規格で言うと、胡同は東西に走る幅員9メートルあまりの道路のことであり、幅員が2倍、4倍となると、それぞれ、『小街』、『大街』と呼ばれる。  
 このような由緒ある、そして風情のある街並みの見学は、『輪タク』と呼ばれる人力三輪車がぴったりだ。青空のもと、広がる空間の空気感ともいえる一種の匂いを感じられる乗り物である。値切られた輪タクの車夫は、心得ていて?孫の世話に一生懸命である。そして、ガイドの言語は当然中国語であるが、街や建物の説明のタイミングも良い。
 このような空間を廻る時は、むしろ説明は蛇足であって、写真を並べたほうがよいであろう。このあたりが、デジカメの無かった昔の旅行記と大きく違うところであろう。もっとも、話の展開によっては、個人旅行で味わえる人との交流や歴史の掘り下げという旅行の醍醐味の一つが欠ける恐れもあるが。
 ここで、もう一つ。古き良き北京の面影をしのばせる『四合院』に御登場願おう。胡同に面して長方形の敷地の四方を壁で囲み、中庭を囲むように四方(東西南北)に建物を配置する建築様式が『四合院』である。華北地方に広く見られる様式だという。私もこの伝統的家屋建築に魅せられて、北京に来る時は、しばしば利用する。旧鼓楼大街の胡同(フートン)にあるホテルであるが、対設備などを考えると経済的なホテルとは言えないが、そこはそれ、求める質が違うのである。それにこっそりお教えしますが、もちろん訪ねる時期によって異なりますが、このホテルの場合は特に1か月以上前に予約することが秘訣です。「当たり前だ。早期予約は安いのは常識だ」と言うなかれ。お試しあれ。

フートンそして市街北部へ
 『輪タクガイドおじさん』が威儀を正して発した言葉は「マオ・ヅドン」(と、聞こえた)、「毛沢東」である。毛沢東の生まれた家であった。敬意を表して頭を下げた。この近くは、古い建物が残されていて、まさに『オールド北京』が続く。左翼的作家、評論家として著名な茅盾(ぼう じゅん、1896–1981)が住んでいた家(茅盾故居)もここにあった。
 そして、人気の国子監街である。元代初期から存在する古き良き時代を思わせるような街並みは、俄然人通りが多くなる。この界隈の中心ともいうべき北京国子監は、元・明・清時代の科挙(官吏登用試験)の試験場、つまり貢院(こういん)の最高峰で、国家の最高学府だった所である。1306年に造られた。隣にある孔子廟は1302年に造られ、現在は、首都博物館として知られている。多くの人が国子監や孔子廟を訪ねるのは、博物館で調べものをするためではない。わが子、わが孫達が、上位の最高学府に入学できることを願って訪れているのであろうか。冗談に、「ここには裏口は無いのですか」とガイドに聞いたが、意味が通じなかった。
 ここから東に向かうと、清代に開かれた北京最大のチベット仏教寺院、雍和宮がある。チベット仏教は、清朝をおこした満州族が伝統的に信仰していた宗教であった。清朝の歴代の皇帝によって変遷があり、清の第4代皇帝・康熙帝(‎1662-‎1722)の時代に親王の座にあった後の第5代皇帝・雍正帝(1678-1735)の邸宅がおかれた。ガイドブックによると、実際には雍正帝の特務機関だったと言われている。その後、第6代皇帝・乾隆帝‎(1736‎-‎1795)の時代の乾隆9‎(1744)年になってチベット仏教の寺院に改修され、全国のチベット仏教教務の中心になった。今見ている雍和宮がそれである。
 雍和宮の北側にある法輪殿は独特の姿のせいか、カメラを向ける観光客が多い。正殿だけあって黄色の瓦の屋根の上に5つの楼閣が造られており、その上に小さなチベット式塔が載っている。
 雍和宮の最も北側にある満福閣の歓喜仏は今でも観光客が多いのだろうか?刺激が強すぎて写真を撮るのを忘れてしまったが、「どうしても」と言われる方は是非、お訪ね下さい。雍和宮の北側ですからね。

『輪タク』ガイド
毛沢東の生まれた家
オールド北京
國恩家
茅盾故居
北京国子監
北京国子監の隣にある孔子廟
首都博物館の入口。奥に孔子の像が見える
雍和宮(ようわきゅう)
法輪殿

夜も忙しい
 中国雑技ショーは、上海雑技が有名と言うことだが、観ないことには評論はできない。いや、評論などどうでもいい、楽しめればいいのである。よく、「バレエと同じで、雑技はセリフが無いので言葉が分からなくても大丈夫」と言う人がいるが、さんざん楽しんできた私から言わせれば、いや、別に言う必要もないのですが、オペラやシェイクスピア劇だって、プロや研究者でない限り、それほど卓越した言語能力は必要ない。何のことはない、『美男子の恋人がいる若い女性に、権力者や大金持ちの年寄りが言い寄り、…、最後には若きカップルのハッピーエンド』なのである。悲しいデュエットで泣き、ハッピーエンドで抱擁して歌うデュエットに、これまた泣けばいいのである。「何を言っている、オペラにも色々なストーリーがあるし、演出もあるし、…」。そうおっしゃる方々には、「そうですね」でいきましょう。「粋にね」。
 前もって、北京在住の娘にチケットを取ってもらった『朝陽劇場』は、娘のマンションから近いので何となく安心である。1984年に作られ、2年後の1986年に『旅行者向け推薦劇場』として北京市から指定を受けている劇場だそうです。『中国屈指の雑技ショー』と言われるだけあって、訓練を経た肉体の躍動感、柔軟性、出演者の連帯感。天にものぼる感動でした。あーあ、楽しかった。ありがとうございました。

雑技団のショーを観た朝陽劇場 。ショーの開始前
雑技団のショー
雑技団のショー
雑技団のショー

万里の長城にのぼる
 洋の東西を問わず、国の防備には必ずと言っていいほど防壁が築かれる。私も随分多くの防壁、要塞などを見てきたが、「万里」の形容詞で括られるだけあって、ここ中国の『万里の長城』にかなうものはあるまい。東は渤海湾の山海関から西は甘粛の嘉峪関まで、私はもの好きにも双方を訪ねたし、その間にある長城を見学しているが、これらを合わせた規模にかなう防壁は他にあるまい。
 歴史的には、元々、紀元前数世紀に中国が分立していた頃、それぞれが敵に対して築いていた防壁を、秦の始皇帝が中国を統一した後に継ぎ合わせたものである。そして、14世紀の明の時代に蒙古の襲撃を恐れて長城を拡張し、また強化したものが、現在につながっている。
 万里の長城の中で一番人気は、北京から近いこと、美しい姿、歴史等々の理由から『八達嶺長城』であろう。日本人が北京に行くと、その半数以上が万里の長城に向かっているそうだ。八達嶺の入口で入場券を買い、向かって右側が比較的上りやすく、左側がすぐ急な坂になることから、前者は『女坂』、後者は『男坂』と呼ばれているが、この男女の命名者(達)は日本人だそうだ。で、どのくらい勾配が違うか?
 話をちょっと戻して、申し訳ありません。私達は、娘の友達の車で『八達嶺長城』まで送ってもらい、ロープウェイで『万里の八達嶺長城』を登りました。約10分位で山頂に到着したが、スリル満天のロープウェイだった。正面にトンネルが見えるたら『八達嶺長城』の終点駅だ。1歳の孫でも万里の頂上に登れます。ぜひ、お楽しみ下さい。

ロープウェイで頂上に上る
正面に見えるトンネルが『八達嶺長城』の終点駅。頂上近く
万里の長城・八達嶺長城
万里の長城・八達嶺長城
万里の長城・八達嶺長城

明十三陵
 『明十三陵』は、北京の北西郊外の約50キロメートルの天寿山麓にある明代皇帝の陵墓群である。名前の由来は、13人の皇帝とその皇后達、貴妃の陵墓があることから『明十三陵』と名付けられた。陵園部と陵道(神路)の二つに分かれている。1644年の明滅亡まで約200年の長期にわたって造営されたというから、如何にも中国的である。
 現在、我々が見ることのできる場所は、定陵、長陵、そして昭陵の3か所と陵道である神路のみである。「…のみである」と強調したのは、それでも気の遠くなるような数の言葉と写真を必要とするためである。ここでは、簡単に、『明十三陵の定陵』、『明十三陵脱神道遊覧図』、『石像生』、『石像』の一例、『石獣』の一例、動物の後は人物で『将軍』を例として掲げよう。

明十三陵の定陵
明十三陵脱神道遊覧図
石像生(説明)
明十三陵。石像が見える
明十三陵の石獣像
明十三陵の将軍像