中国・福建省 永定~福建土楼群~

福建土楼群観光のスタート
 約6日間滞在予定の厦門であるが、半分の3日間はここからバスで2時間半くらいで行ける龍岩市の永定区を訪ねる。永定と言っても「あること」に興味を持っていなければ、ほとんど知られていない地域である。「あることとは?」。ヒントは「客家(はっか)」である。「客家」の定義は多岐にわたり、一言で語るには難しいが、ここでは「黄河中下流域の中原に住んでいた豪族」としておこう。幾度となく戦乱にみまわれ、一族で南に逃れてきた人達である。もったいぶって、もう一つのヒントは「建築物」」である。「客家」+「建築物」= 客家独特の建築として有名な『土楼』である。読んで字のごとく「土で作った大きな住居」のことだ。今様に言えば、「集合住宅」か。
 2008年7月にユネスコの世界遺産に登録されている『福建土楼』への行き方は色々あるが、見所が分散しているので、厦門旅游集散センター発着の土楼ツァーが良いと、ホテルのマネージャーから勧められた。中国人観光客を対象としたツァーではあるが、私の今までの中国国内旅行の経験では観光客の中には英語を話せる人もいるし、旅游集散センターとホテルの間は出迎えがあるツァーなので安心できる。ちょうどよい具合に、Aコース「田螺坑土楼群(でんらこうどろうぐん)ツァー」、Bコース「永定高北土楼群(えいていこうほくどろうぐん)ツァー」、Cコース「永定土楼民族文化村(洪坑土楼群景区(こうこうどろうぐんけいく))ツァー)」と3種類あったので、3日間を予定した「福建土楼群観光」と日程的にもぴったりだ。予約をお願いした。

田螺坑土楼群景区
 福建土楼群観光のスタートは、黄(ホアン)一族の土楼が5つくっついている『田螺坑土楼群景区』である。ここには、『田螺坑土楼群(でんらこうどろうぐん)』、『裕昌楼(ゆうしょうろう)』、『塔下村(とうかむら)』の3ヵ所の観光スポットがあり、景区専用バスが周回している。まず、田螺坑土楼群の下景観台から上景観台へと移動する。ここから見下ろす景色は、「四菜一湯」のニックネームが付けられていて、田螺坑土楼群の中で最も有名な風景である。真ん中に歩雲楼と名付けられた方楼(四角形の要塞型)があり、囲むように3つの円形の和昌楼、振昌楼、瑞雲楼と楕円形の文昌楼が囲んでいる景色は、5つの土楼が梅の花のように見えるのである。もう、お分りですね。和食の献立は、主食・汁物・おかず三品からなる「一汁三菜」に対して、中華料理は、おかず四品にスープ一種類の「四菜一湯」の構成になっていますね。したがって、 『田螺坑土楼群』は「四菜一湯」のニックネームが付けられてい るんですね、ハイ。
 4枚目の写真に見られるように、3階建てであり、ガイドの話によると5楼全体で39世帯数だそうだ。2008年11月に世界文化遺産に登録されている。
  もう一つ。ガイドから聞いた話を紹介させてください。1960年代後半、アメリカはこの『田螺坑土楼群』を核ミサイルのサイロと間違えたそうです。核ミサイルのサイロ自体を見たことがないので、コメントできないが、そう言われると、何となく…。

出入口
展望台から見下ろした『田螺坑土楼群』

 

和昌楼
 和昌楼は、1354年頃(元代の末~明代の初め)に建設された時は方楼だったが、1930年代に戦火で損壊した後1953年に黄氏により円楼として改築されたそうだ。

和昌楼

いずれの土楼も3階建てで、1階部分は土産物屋とレストランになっており、2階以上は住居となっている。5楼全体で39世帯だそうだ

裕昌楼
 『裕昌楼』は『田螺坑土楼群』から北西へ約5キロメートル離れた下版寮村にあり、元朝中期(1308~1338年)に劉氏により建設された南靖最古の円楼である。高さ18.2メートルの5階建て、各階に54部屋、合計(54 x 5 = )270部屋があるというから、現在でも相当大きなマンションに匹敵する。円楼のスケールが大きいばかりではない、側(そば)を川が流れていて、のどかな風景が気持ちを休めてくれる。劉氏一族25代が暮らし、現在でも20世帯暮らしているそうだ。
 この円楼は、「東倒西歪楼」とも言われている。文字通り、1308年の建立中の測量ミスでひずみが生じたため、柱を傾けてその補正をした結果、3階と4階をつなぐ支柱構造がジグザグになってしまい、最大傾斜角は15°に達するという。学生時代に習った「軸応力」、「座屈」、「クリープ」などの専門用語が頭をかすめる。かすめる程度だから、遊びに影響はない。でも、ちょっとだけ。「変形させることによって全体の力学的安定性を保つ技法はさすがである」。
 中庭には祖廟があり、祖先崇拝、祭祀、結婚式、葬式などの集会所となっている。

裕昌楼 。「中華第一奇楼」、「東歪西斜」の表示が見える
裕昌楼入口
裕昌楼近くの橋 。美しく穏やかな風景である
裕昌楼。楼内の廊下部分の柱が傾斜している
観音庁
お茶屋さん

徳遠堂
 『裕昌楼』、別名「東倒西歪楼」の柱が傾斜していながらも倒壊しない(あるいは傾斜させることによって倒壊を防いでいる)力学をまだ考えている。ツァーバスで移動中だったのだが、ボーっとしていて、ツァーメイトに「塔下村だよ」と、降車を促される。『塔下村』に何があるのか知らなかったが、「土楼水郷」、「高山水郷」、「山郷周荘」などと呼ばれる片道2キロメートルほどの渓流沿いの道は、まさにぶらぶら歩きにぴったりの雰囲気である。

川と石橋と黒いカラス(人間でした)。好きな風景なので再登場を願った
せせらぎが聞こえてきそうです 。一人で来て良し、軽く手をつないで二人で来て良し、(私の趣味ですが)
まさに『土楼水郷』である

 そして目に入ったのが、石の旗(石龍旗杵)が立っている奇景で有名な廟『徳遠堂』であった。徳遠堂は客家の一族である張氏の家廟で、20本の『石龍旗杵』は、一族の中から科挙に合格し進氏(役人)と挙人(時代によって定義が異なるが、 進士の試験に応募資格のある者 )になった人が、一本ずつ建てていった結果だそうです。多くは清代のものだそうです。
 この辺りのこと、話を続けると 愛読書である『魯迅』の『 阿Q正伝』に言及したくなるので、暴力的に中断させてください。私の魯迅への傾倒は、本ブログ-新旅行記・アジア-中国・浙江省-紹興にちょっとだけ書きました。 

徳遠堂 。 客家の一族である張氏の家廟
『張氏家廟』(徳遠堂)の入口
徳遠堂に立つ20本の『石龍旗杵』。科挙に合格した張氏の数を示す
徳遠堂
徳遠堂
順昌樓
名称は分かりません。とても存在感を感じました 。先に、「一人で来て良し、軽く手をつないで二人で来て良し」と書きましたが、 「一人で来て良し、軽く手をつないで二人で来て良し、真ん中に幼児を挟んで三人で来てよし」 (私の趣味ですが)

永定高北土楼群
 福建土楼巡りの2日目は、Bコース「永定高北土楼群ツァー」である。厦門など各地から来た交通車両は、まず福建土楼永定景区の『高北旅客センター』に行き、ここから周辺の土楼へバスあるいは徒歩で向かう。多くの人が集まるので、簡単な食べ物、お土産類などが売られている。

福建土楼永定景区の高北旅客センター
『福建土楼・永定景区』と刻まれた石刻をバックに写真を撮る人が多い
人気の酒屋もある 。全種類の酒を買っていたおじさんがいたが、羨ましい。日本には持ってこられない?
『承啓楼』の手前にある『橋福樓』

 ここにある『承啓楼』は、敷地面積は5376平方メートル、直径73メートル、外壁の円周229メートルに達する巨大な土楼で、福建省最大の土楼である。江修正氏によって1709年(清の康煕48年)から3年かけて建造された土楼である。
 構造的には多重の円楼形式になっており、外側の主楼の内側にさらに三重に円楼があり、その中心に祖堂が配置されている。主楼は4階建てで、外円部には、各階に72の部屋がある。1階には台所と食堂、2階は倉庫、3階と4階は寝室になっている。全てを合計すると400室におよぶという巨大な建物である。現在でも江氏一族の60数世帯、400数人が住んでいるという。内円部は平屋建てで、3重目と2重目には合わせて80の部屋があると説明された。主として、家畜小屋やトイレなどに使用されているようだ。
 確認はしていないが、1元切手の図柄にもなっているそうである。また、民宿も可能で50元ほどで1泊できるそうだ。

承啓楼の表玄関
別の角度から撮った承啓楼
土楼内部
土楼内部
祈りを捧げている

振成楼
 「客家土楼」という集合住宅巡り最終日は、Cコース「永定土楼民族文化村(洪坑土楼景区ツァー)」である。厦門旅游集散センター発のバスは、「福建土楼客家民族文化村」と書かれた大きな建物の前に到着。結構な人出である。
 私達の目的は、別名『八卦楼』あるいは『土楼王子』の異名を持つ『振成楼』の見学である。『八卦(はっけ)』が出てきたが、本ブログ“方向音痴の旅日記“に何度か登場した『八卦思想)』に基づいて建てられたためである。気になる方は、例えば、新旅行記・アジア-中国・四川省 成都郊外(1)~青城山・都江堰~の項をご覧ください。
 『振成楼』は、1912年から1917年にかけて作られた4階建ての二重円楼で、その直径57.2メートル、高さ16メートル、敷地面積5000平方メートルである。『八卦思想)』を基本に、『一庁二井三門四梯』の建築構造を持つ。円楼の外側は主楼と呼ばれ、8等分された「掛」(ブロック)x 6室 = 48室、内側も合わせて全部で222室にもなる。注目すべきは、掛と掛の間に防火壁があって延焼を防ぐ工夫がなされ、かつ侵入者対策としても有効だということである。
 この土楼は「林上堅」の孫に当たる「林鴻超」によって築かれたそうである。ガイドの話だと、「林上堅」はタバコ販売業者として成功し、財を成した人物である。洪坑土楼群には彼とその息子によって建てられた総面積7,000平方メートル後方主楼が5階にもおよぶ永定県最大の府第式方楼『福裕楼』がある。

福建土楼客家民族文化村
水尾橋
別名『八卦楼』の異名を持つ振成楼。内部に200を超える部屋があり、観光客が宿泊もできる
振成楼
八卦図を踏襲した外円部
内円部にあった共同井戸
仁寿居
土楼古砲。遊びである。料金は忘れました
福建土楼・光裕楼
洪抗村のはずれにあった巨大な水車。映画だろうか、撮影が行われていた
天后宮

中国・福建省 厦門

厦 門
 福建省泉州の泉州バスターミナルから厦門(アモイ)へは、厦門(鉄道)駅にも近い梧村長距離バスターミナルに向かうのが便利である。約1時間半の行程である。ホテルのチェックインの時に、てこずったのが「アモイ」である。仲良しになった若い支配人が教えてくれたのだが、ここでは「アモイ」と言わずに「シャーメン(Xiamen)」と言うのが一般的だそうだ。中国語の「厦门」を中国語の発音で読めば「シャーメン」なので、そう呼ぶそうです。当たり前のことでした。でも、ここは一つ、漢字(日本語?)の厦門で通させてください。
 1984年、コロンス島を含む厦門全島が経済特区となり、その結果、華僑資本を中心とした外資が進出し、また日本人ビジネスマンも散見される。台湾海峡に開けた美しい港町で、港町ではないが漁村で育ったせいか、潮の香りが懐かしく、日地人の表情や街の雰囲気が、何となく身近に感じられる。

厦門市内から観光開始
 几帳面な性格?なので、今回は市内の南側から北上することにした。スタートは南海岸にある『胡里山砲台』である。1891年(清の光緒17年)から建設が始まり5年後に完成した。ドイツ製のクルップ砲1門が銀で約2.2トン(6万テール)といわれても、 私には 「テールは 、中国の旧制通貨単位の「両 (リャン)」 の英語読み 」 ぐらいの知識しかなく、 にわかには理解できない金額である。教科書によると、日清戦争後に日本に支払われた賠償金は、(後に増額されたが)、中国の通貨で2億テール、当時の国際的な銀価格に換算するとおよそ3億円ということなので、 結局、クルップ砲1門が 概算で9億円になる。当時の日本の国家予算は8000万円という時代ですから御想像下さい。
 砲口直径;280ミリメートル、砲身全長;13.9メートル、射程距離;約16キロメートルの大砲で、当初は2門あったが、今残っているのは1門のみで、現存する世界最大の海岸砲としてギネスにも載っている。
 物珍しいものなので私も含めて皆さん、触っている。

胡里山砲台入口。1891年(清の光緒17年)から建設が始まり5年後に完成
胡里山砲台指揮所
ドイツ製280ミリメートルのクルップ砲

 『胡里山砲台』から美しい厦門港を左に(南側に)見ながら環島海浜遊歩道を西へ向かうと、『厦門大学』が見えてくる。 文系から理系まで20学院(学部)58学科があり、生徒数約3万人の綜合大学である。マレー半島におけるゴム業で財をなしたシンガポール 華僑 のゴム王 『陳嘉庚(タン・カーキー)』 氏により 、1921年に創設された。校内には 廈門大学創設への貢献を称え、 銅像が建てられている。また、訪ねることはできなかったが、郷里である福建省・厦門の開発事業や教育に多大の功績を残したことを称えて、生まれ故郷の集美村に彼が眠る『陳嘉庚紀念勝地』と名付けられた総面積17万平方メートルに及ぶ公園がある。
  厦門大学の集美楼2階に『魯迅紀念館』がある。魯迅が1926年から5カ月間、厦門大学で教鞭をとっていた部屋を利用して1952年にこの記念館が創設され、直筆原稿などの業績、机、ベッドなどが置かれている。 

『廈門大学』。 1921年に シンガポール 華僑 の実業家 『陳嘉庚(タン・カーキー)』 氏によって創設された
廈門大学の校内に建てられた陳嘉庚の銅像
中国で最も美しい大学と称賛されている 厦門大学 。ここの集美楼2階に『魯迅紀念館』がある

南普陀寺
 厦門大学から500メートルほど北へ向かうと、『鷺島名山』の金文字が記されている山門が見えてくる。唐代に建設された仏教寺院『南普陀寺』の山門である。厦門には白鷺(さぎ)が多く生息していて、かつて、この地は「鷺島」、「鷺山」という名称で呼ばれていたそうで、その名残である。
 『南普陀寺』も初名が『泗州寺(ししゅうじ)』であったが、四大仏教道場の一つ普陀山(浙江省)の南にあることから、清代に「南普陀寺」と名づけられた。
 南普陀寺の色鮮やかな屋根には、『脊獣』または『走獣』と呼ばれる龍のような色彩豊かで繊細な飾りが付いている。 魔除けや火除けの意味を持っている。 建物の格によって数が変わるそうだが、屋根の先端を構造的に保護する役目も果たしている。
 なお、このお寺には、華南地方で唯一の仏教専門の大学が併設されている。

唐代に建設された仏教寺院『南普陀寺』の山門
三門の入口に向かって左手の狛犬。『香港徐水珍女士敬献』の金文字が彫られていた。厦門出身の華僑の方の寄贈だという
『天王殿 』
『天王殿 』 の屋根のアップ 。『脊獣』または『走獣』と呼ばれる色彩豊かな飾りが付いていて、 魔除けや火除けの意味を持っている
韋駄天が持っている独鈷(どっこ)と呼ばれる杖が地面に付いていると、食・住のふるまいはできず、独鈷を担いでいるような韋駄天のお寺は、3食付きで泊めてくれるそうだ
大雄宝殿
捕えた魚類などを放してやるために設けられた『放生池』
南普佗寺多くの名所旧跡がある五老峰の麓に建っている。岩に「五老峰」や「佛」という文字が彫られていて、カメラのフラッシュを浴びていた
高さ4メートル、幅3メートルの大きさの金文字「佛」が刻まれた岩

先人に学ぶ
 さて、次は、11層の南亜仏教建築風の『万寿塔』と呼ばれる細身の石塔である。柵を巡らした基壇も豪華な造りのせいか、石塔自体が一層気品ある姿に見える。私の一種の職業病みたいなもので、地震などの外力 に対する構造的な力学について考えてしまう。技術的情報が得られなかったのでご説明のしようが無いのが 残念である。
 話が飛んでしまいますが、『免振構法』 についてご存知でしょうか?工学的には近年実用化された技術なのですが、建物と地盤との間にクッションの役割をする免震装置を取り付けて、地震による建物の揺れをできるだけ吸収する技術です。色々な免振装置がありますが、 私が 微力ながら研究開発に参加した『免振アイソレータ』については、各種の工学論文は別として、本ブログに『旧旅行記』-『科学エッセイや論説』-『5縁切り 』と題して新聞に掲載した記事があります。
 ここは、『旅のエッセイ』の場なので、技術的考証は避けますが、皆さんへの宿題として、「 免振構法の基本哲学は、『法隆寺五重塔』の建築技法にも見られる」と言ったら驚かれるでしょうか?
  『万寿塔』 から『法隆寺五重塔』 を連想して書いてしまいました。

11層の南亜仏教建築風の見事な 『万寿塔』と呼ばれる細身の石塔。柵を巡らした基壇も豪華な造りである

華僑博物館から中山路
 
最初に、厦門には華僑資本をバックとした経済人が多いと書いた。多くの成功者が寄付を集めて建設した『華僑博物館』は、その歴史について詳しく展示してあり、とても勉強になる

華僑博物館
華僑博物館で展示されていた華僑の人達の航海を示した地図
戦前、華僑の人達がシンガポールに向かう時に乗った舟の模型
北米での金採掘風景
映画の看板「漁光曲」
展示されていたピアノ

 博物館から海岸に沿って歩くと、思明南路から思明北路へと繁華街が続き、最も賑やかな中山路につながる。食堂を中心とした出店が続き、唾を飲み込みながら夜遅くまで楽しむ。ここまで南下すると、中国という国家、南北で食文化が異なることを実感する。今、すぐにでも出かけたい、もちろん、北も、南も。

厦門郊外のコロンス島へ
 日をあらためて、アモイ島からフェリーで約5分、コロンス島(鼓浪嶼)に向かう。1842年の南京条約による厦門港の開港後、1902年にコロンス島は共同租界地に定められ、島内には列強が次々に領事館を開設した。それに伴って多くの外国人もここに住みついたので、当時の欧風建築が現在でも数多く残され、「万国建築の博物館」と呼ばれている。また、その美しい景観から「海上名珠」、単位面積あたりのピアノの 普及率が高く、著名な音楽家が輩出したことなどから「ピアノの島」、「音楽の島」などと呼ばれている。
 面積1.78平方キロメートルと狭いので、島内の主な見どころを歩いて巡ることができる。急ぐ方は、旧アメリカ領事館と旧イギリス領事館近くにコロンス島観光電動カートの発着場があるので利用されると良いと思います。
 もう一つ。コロンス島内にある5つの見どころ(日光岩、菽荘花園、晧月園、コロンス島風琴博物館、国際刻字芸術館)の共通入場券「鼓浪嶼核心景点套票」が個々に入場券を買うよりも35元割引の100元で売られていてお得である。

コロンス島フェリーターミナル
急ぐ方には島内観光用の電動カートが用意されている
大きな通りの表示には方位が付記されている。福州路を南に進むと、『コロンス島風琴博物館』に突き当たる
見どころを限定した100元の割引チケット
コロンス・コンサートホール(音楽庁)音楽庁

コロンス島風琴博物館
 『八卦楼』はコロンス島を代表する洋館である。『鋼琴博物館』のピアノを提供した胡友義氏は、実は『風琴博物館』のオルガンも寄贈している。入口の正面にある高さ6メートルのパイプオルガンは、20世紀に製造されたパイプオルガンの傑作と言われている。1909年製造の英国製である。自動演奏、鏡付きなど珍しいオルガンも展示されている。
 この原稿は、2014年訪問時のコロンス島の印象を2019年に書いているのであるが、私にとってのパイプオルガンの音(演奏)の初体験は、1979年英国の『カンタベリー寺院』で聴いたものであり、演奏会として聴いたのは、1993年パリの『ノートダム大聖堂』で娘二人と聴いたものである。これは、ある研究分野の国際会議で会議の行事として行われたもので、会議の研究論文の発表者やその家族しか参加できず、一般人は参加できない催しものであった。まだ記憶に新しい2019年4月15日から16日にかけて、フランス・パリのノートルダム大聖堂で起きた火災で一部が崩壊したとはいえ、多くの方々は大聖堂の中に入った経験がおありでしょう。あの強大な石の建物がパイプオルガンの重低音で揺れるのである。その凄まじさ、感動については何も語らない方が良いでしょう。日本人がこの世界会議で受賞したことも言わない方が良いでしょう。

八掛楼
コロンス風琴博物館
世界最古の風琴

日光岩
 コロンス島の最高峰(92.68メートル)である『日光岩』は、人気の観光スポットである。この日は曇っていたので海も灰色に見えて残念であるが、『日光岩』から見下ろしたコロンス島と海の景色をお楽しみください。
 遊覧区の北側には美しい洋館『鄭成功記念館』がある。

日光岩
龍頭山の東麓に位置する日光岩寺
頂上まで行く間に刻石がいくつかあるが、「鷺江第一」が有名
円通之門
地蔵院・鐘楼
円通禅寺
竜頭三塞遺跡
『日光岩』から見下ろしたコロンス島と海。曇っていた
鄭成功記念館

菽荘花園
 1913年に台湾の富豪林爾嘉によってコロンス島の南部に造られた庭園で、1956年に所有者から国へ寄付された。藏『蔵海園』と『補山園』という2つのエリアに分かれており、十二洞天、四十四橋などが人気である。明代の建築様式に西洋の色使いを重ねた独特の洋館が海に臨むその姿は、いわゆる中国庭園とは趣を異にするが、独特の美しさを感じる。
 園内にはピアノを専門に展示する中国唯一の『ピアノ博物館』がある。音楽家であり、ピアノの収集家でもあったコロンス島出身の胡友義氏が提供したピアノを中心に、世界各地の有名なピアノが多数展示されていた。我が家の音楽ルーム( or オーディオ・ルーム)の三分の一のスペースを占領している国産のセミコンサートもなかなかいい音を出すが、ここのそれは、音を出すことができないので、眺めるしかない。

菽荘花園
四十四橋
コロンス鋼琴(ピアノ)博物館
コロンス鋼琴(ピアノ)博物館

晧月園
 台湾を占拠していたオランダ人を追放するなど、民族の英雄である「鄭成功」を記念するために作った公園である。本ブログの「中国・福建省 泉州」にも登場した日本人を母とする泉州出身の軍人である。海岸には、高さ15.7メートル、重さ1617トンの花崗岩でできた巨大な彫像がある。陸上からは背中しか映らず、船に乗らなければ巨大な正面の姿はカメラにおさまらない。

鄭成功を記念するために作った彫塑公園
海岸にある高さ15.7メートル、重さ1617トンの花崗岩でできた巨大な「鄭成功」の彫像

中国・福建省 泉州

武夷山から泉州へ
 まだ、ユネスコの世界遺産(文化と自然の複合遺産)の町、武夷山にいる。午前中に9ヶ所の湾曲からできた『九曲渓』9.5キロメートルの筏下りを楽しんだ。天気にも恵まれて、両岸の奇峰を眺めながらの1時間半は至福の時であった。今日は、これからホテルに移動して荷物を受け取り、『泉州(せんしゅう)』に向かう。バスで6時間(177元)のちょっと長い移動時間である。そうは言っても、山が多くて鉄道よりもバス路線が発達している福建省内の移動には、とても便利な移動手段である。バス停は、『福州』からここに来た時に降りた『武夷山度假区バスターミナル』である。チケットもあらかじめ買ってあるので、1時間は遊べる。
 私は、今何をしていると思いますか?しているのではなく、してもらっているのですが。中国語のできない外国人に英語で『筏下り』の説明をしているバイトの女子大生に、無料で奉仕をしてもらっています。素肌美人の多い中国人の中でもとびっきり美人の女子大生は、日本の文化にとても興味を持っていて、私の肩をもみながら私と「三島由紀夫」の話をしているのです。読者の皆さん、難しい質問はなさらないでください。私は、とても忙しいのです。

泉州の歴史
 泉州は、古くからの港町で、南宋から元朝にかけては、ベトナム、インド、アラビア半島などにつながる泉州を起点とした海上交易ルート(海のシルクロード)で栄えた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』でも泉州の繁栄が記録されているそうである。貿易商人を中心とした人々が集まれば、そこに出身地の生活習慣や宗教が持ち込まれて必然的に定着していく。インドやアラビア半島などから来たイスラム教徒が泉州に多く住んでいたことから、モスクや清浄寺のようなイスラム寺院が残っているわけである。
 現在、『陶器の道(海のシルクロード)』と呼ばれるような貿易港は存在しないが、経済都市としての基盤は残っていて、泉州出身の華人や華僑と呼ばれる海外居住者は1600万人を超えると言われている。今回は、このような歴史があり多様な文化を持つ泉州を楽しもうというわけである。

崇武古城
 泉州市は、1300年の歴史がある開元寺や、これまた歴史あるイスラム寺院の清浄寺、関帝廟などの見所が多いが、私のやり方で先ず郊外の 『崇武古城風景区』に向かうことにする。泉州バスターミナルから11番乗場の『崇武』行きに乗り、終点で下車、約1時間ちょっとの乗車で13元である。ここからが重要である。海岸沿いに10分ほど歩くと古城に着きます。「遠い」などと言って法外な料金を要求するバイクタクシーには乗らないように気を付けてください。歩いても大した距離じゃないです。
 崇武古城(すうぶこじょう)は、泉州湾を囲む崇武半島の先端にあり、台湾海峡に面している城郭である。度々、このエリアを撹乱(かくらん)する『倭寇(わこう)』に対抗するために、明の時代の1387年に築造された城郭都市は、北は山東省から南は広東省まで海岸沿いに沿海防衛施設を築造した。ここで、『倭寇』とは、日本の海賊等とする諸説があるが、ここでは、中国や朝鮮が恐れた外来の海賊としておく。
 明の時代に尖閣諸島に防御線をおいて倭寇と向き合った将軍「威継光」の巨大像が海を睨らんでいた。彼は中国人を父に日本人を母に生まれた人物で、泉州出身でもある。
 600年以上の年月と戦火でこの“海の万里の長城”のほとんどは、破壊されたが、崇武古城だけはほぼ往時のままの姿で海辺に残っている。すべて花崗岩で築造された城壁の内側には、古い街並みである老街が形成されている。旅行記によると、ここには容姿が美しいことで有名な「恵安女(けいあんめ)」と呼ばれる女性達のユニークな習俗が残る“恵安女の民俗風情保育区”があると紹介されていたが、見ることができなかった。そして、彼女達は家事は言うに及ばず、とても勤勉な女性達だというから、かさねがさね残念であった。
 この種の話のついでに、娘と二人でイランを旅行中にテヘランのタクシーの運転手に聞かれた話を思い出した。「イランの男が欲しいものを3つあげよ」。①「イギリスのパスポート」;確かに、ほとんどの国へ行けるな。②「アメリカのドル;うん、どこへ行っても通じる基軸通貨みたいもんだもね」。「納得、そしてもう一つは?」。…、「日本人の嫁さん」。??。娘が横にいたからではない、「そうだね」と、…。

泉州郊外の崇武鎮にある崇武古城風景区入口
崇武石彫工芸博覧園
城壁は1387年(明の洪武20年)に造られた
花崗岩を使用。基礎の幅5メートル、高さ7メートル、全長2455メートル
倭寇の攻撃に対抗し明王朝が築いた「海の長城」とも言われた防御施設の一部
古城南側の彫刻公園に立つ鄭成功(てい せいこう)の象。台湾と中国の共通の英雄として名高い軍人。泉州市出身
海門亭
南門から崇武古城に入る
崇武古城風景区
崇武古城風景区を見学後、街歩きをしていて遭遇した漁船

清浄寺
 泉州市街の南部にある『清浄寺』は、中国最古のイスラム寺院であり、1009年(北宋時代の大中祥符2年 、イスラム教暦400年 ) に創建され、創建者と修復者はみなアラブのイスラム教徒であると言われている。 艾蘇哈子大寺とも呼ばれ、市内の涂門街に位置している。私は訪ねたことはないが、シリアのダマスカスにあるイスラム礼拝堂をモデルに造られたと言われている。高さ約20メートル、幅約45メートルの三階建てのアーチ型に尖った大門は、輝縁石と白い御影石の組み合わせで造られ、アラブ・イスラム建築様式( 西アジアの建築様式 )を取り入れた11世紀初頭の建築である。

清浄寺正門。1009年(北宋の大中祥符2年)に建立された中国を代表するイスラム建築
シリアのダマスカスにあるイスラム礼拝堂をモデルにした清浄寺
モスクの中で礼拝する時、聖地メッカの方角を示すミハラブ(くぼみ)

 『関岳廟』は、清浄寺から100メートルほど離れた場所にある。元々は、関羽(関帝)を祀る『関帝廟』だったが、南宋時代の悲劇の英雄である将軍・岳飛も祀るようになったことから『関岳廟』と名前が変わったそうである。中国はどの地域に行っても『三国志』の人気は高く、観光スポットになっていて参拝客で溢れかえっている。

関帝廟 ( 関岳廟 )
名馬「赤兔馬」と 関羽
雪青騏驥(白馬)と 岳飛
占い師?左手の100元は何を意味するのだろう

開元寺
 開元寺は、泉州市の北西部にある福建省の中でも最大規模を誇る仏教寺院で、1300年の歴史がある。建物は、全国重要文化財に指定されており、泉州の有名観光スポットとなっている。
 「官寺(かんじ)」と言う言葉をご存知かと思います。色々な定義があるかと思いますが、読んで字のごとく、「国家の管理・監督を受ける代わりにその経済的援助を受けていた寺院」のこととしましょう。これから訪ねるここ泉州の『開元寺』は、唐の玄宗の命によって738年(開元 26年) に全国各州に設置された官寺である。裕福な財政をバックに、福建省最大の敷地を誇り、建物の各所に古代インドの神話に基づく彫刻が彫られている。
  実は、掲載した写真のうち、1枚はカメラに入りきらずに、2枚を合成したものであるのでオリジナルとは違った形になっている。写真の対象(被写体)が繊細な芸術作品と言われたら弁解の余地はないが…。そしてもう1枚は、合成ではなく、高さ48メートルの東塔『鎮国塔』と高さ44メートルの西塔『仁寿塔』のいわゆる「双塔」というべき2塔のうちの1塔である。楼閣式石塔で、圧倒的な大きさが感じられると思う。

開元寺にある樹齢300年の榕樹(ガジュマル)
大雄宝殿内に安置されている大日如来像
開元寺の鎮国塔
開元寺の全景 (写真2枚の合成)鎮国塔 (右側)

中国・福建省 武夷山

福州から武夷山へ移動
 福州、武夷山、泉州の3ヵ所を移動する際のルートの選択は悩ましい。福州-泉州間は2時間半で移動できるのであるが、間に武夷山を挟むと、福州→武夷山→泉州の移動が、それぞれ5時間以上もかかってしまう。2014年の情報である。ここを旅行先に選んだのは、「山の上の岩地で採れた武夷山岩茶を飲んでみろ。お土産は大紅袍(だいこうほう)だ」と、のたまう悪友の強迫が引き金である。
 もう一つ、移動に関する情報である。ある旅行ガイドブックには、 武夷山に行き来する場合には武夷山市長距離バスターミナルが良く使用されると書いてあったが、福州や泉州からの長距離バスが止まり、かつ『風景名勝区』にも近い『武夷山度假区バスターミナル』がお勧めである。あらかじめバスの運転手に行きたい所を伝えておくと、覚えていて合図をしてくれる。
 ここのバスターミナルはビルの一階に入っていて、独立した建物ではないので、いつもとちょっと勝手が違うが、運転手もターミナルのスタッフ達も、ホテルや名勝区への行き方を熟知していて、まるでツァリスト・インフォメーションのようである。気持ちが良い。おかげで短時間で旅行計画も決まり、3日後の泉州行のバスチケットも購入した。バスによる長旅の疲れも吹っ飛んで、バスターミナルから歩いて5分くらいのホテルにチェックイン、“エコノミー症候群 ” 対策の運動も兼ねてすぐに周りを散歩した。この旅游度假区を南北に走る『三姑街』を中心に土産物屋、ホテル、レストランが軒を並べて賑わっている。土産物屋と言っても、メインは「お茶、お茶、お茶」である。街の中にお茶以外の店を見つけることが難しいくらい『お茶』の店の連続であった。おかげで、お茶について随分と詳しくなった。『三姑街』の北の突き当たりは、『武夷山美食街』になっていて夜も賑やかである。

福州から武夷山へ向かうバス10時20分出発
龍徳寺隧道。出発から約3時間経過 である
15時35分 に武夷山度假区バスターミナルに到着、 乗車時間5時間15分、 100元。このバスターミナルのスタッフには随分お世話になった

武夷山風景区から水簾洞景区
 (爆睡直前の)熟睡で昨日の長距離バスによる移動の疲れもとれた。今日は、ユネスコの世界複合遺産となっている『武夷山風景区』を歩く予定である。景区への入場は村から数キロ離れた『景区北門』と『景区南門』の2か所があり、どちらへもバスで行くことができる。また、南北のどの入口でも入場後に『武夷山観光専用車』で相互に移動が可能である。但し、風景区の山の中自体では観光客を移送するサービスは少なく、歩くことが主体である。
 小さな地図をとっかえひっかえしている私に気づいて、50代くらいの中国人男性が、「フォロー・ミィ」と言ってくれて、歩を進める。速足の男性で、そしてパチパチとシャッターが忙しい。彼がどこに向かうか、すぐ分かった。「大紅袍」と赤色で書いた大きな石が見えたからだ。

大紅袍景区に入ったぞ
岩茶基地
大紅砲
慧苑は武夷山でも有数な上質岩茶産地の一つだそうだ。近くにあった『慧苑禅寺』は静かなたたずまいのお寺だった
観音殿
大紅袍
水簾洞景区の案内
水簾洞
水簾洞は、武夷山最大の洞窟がある大絶壁。幸運なことに雨が降った後なので小さな滝が見られた
滝の奥に鎮座する『三賢祠』の筒介。せり出した崖の奥にあるので瓦(屋根)が必要ない。「劉子」、「朱熹」、「劉甫(屏山先生)」の『三賢』が祀られている
武夷山水簾洞の三賢祠は一室から成り、中央に朱熹の師匠「劉子」像がある
左に「朱熹」の像
右に朱熹の友人「劉甫(屏山先生)」の像が祭られている
雨霖鈴曲(うりんれいきょく)の石碑がある。唐の玄宗が楊貴妃の死を悼み悲しんで作った楽曲である 。ここで私が時間を取り過ぎて、 「フォロー・ミィ・おじさん」と行き違いになってしまった。きちんとお礼を言いたかったのだが、…。「ありがとう」
『水簾洞景区』からシャトルバスを乗り継いで『武夷宮景区』へ移動する。ここは『九曲渓筏下り』の終着点で、この周辺は明日訪ねる予定なので、今日は、武威宮の社殿のみを訪ねた

一線天景区
 「心臓の弱い人、体の厚さが50センチ以上の人は進入禁止」となっている『一線天景区』である。名霊山とも呼ばれる高さ60メートル余りの岩山に広い所では幅1メートルほど、狭い所では40センチメートルほどの巨大な裂け目ができていて、中へ入ると、裂け目から一直線の陽光が入ってくるように見えるのである。確かにその圧迫感は強烈である。裂け目の地面には石段が敷いあって歩きやすいのであるが、蝙蝠(こうもり)の糞の異臭に耐えられなくて戻ってくるご老人もいらっしゃった。
 体型に問題なし、臭覚に鈍感な私は、ステップを踏んで幻想的で神々しい光を楽しんだ。

一線天景区では、岩の裂け目を通ることから心臓の悪い人や体型によって歩行制限がある 。真面目に提示するところが、最大のユーモア?だ
幻想的で神々しい光を楽しんだ
一線天駅のバス乗り場

天遊峰景区
 ここからの眺めが武夷山で最も美しいと言われる『天遊峰』は人気の景区である。奇峰と清流という最高のコンビネーションが織りなす風景は多くの人々を引き付ける。竹製の筏に乗って曲がりくねった清流下りを楽しむ“九曲渓の筏下り”の景色を自分は観客となって山の上から楽しんだり、季節と時間は限定されるが、雲と霧でまさに墨絵の世界を写し出す『雲窩』など、盛りだくさんの景区である。
 『天遊閣』という建物があって、二階は、あの『宋美齢』の舞庁旧址になっている。1936年、武夷山にあこがれる蒋介石夫妻を迎えるために、ここに宋美齢のダンスホールが作られたが、西安事件が勃発により、結局二人は一度も武夷山に来ることはなかったということです。

天遊峰頂上に到着
上から撮った九曲渓の一部。明日、筏下りで来ますよ。
頂上に立つ天遊閣。二階は宋美齢舞庁旧址
中正公園坊。宋美齢の舞庁(ダンスホール)の他に、蒋介石夫妻のための別荘も作られていて、この辺りは、中正公園と呼ばれている
摩崖石刻 “第一山”
雲窩は、朝晩に雲と霧が立ち込め、武夷山で最も美しい場所の一つだそうだが、お昼だったので残念ながら…。九曲渓の五曲と六曲の北岸に位置する

武威宮景区(九曲渓)
 今日は、武夷山4日目。午前中に『武威宮景区』を巡る。9ヶ所の湾曲からできた九曲渓9.5キロメートルを1時間半をかけて、両岸の奇峰を眺めながら筏(いかだ)下りを楽しもうという魂胆である。 100元 が高いか、安いか?武夷宮は『九曲渓筏下り』の終着点になっており、筏を降りた後、清代の町並みを再現した『仿宋古街』と名付けられた通りを進むと武威宮に辿り着く。
 食事をすませた後、大事な仕事がある。悪友から頼まれた烏龍茶のトップ「大紅袍」を買わなければならない。「岩肌の狭い所に生えた茶樹の葉でなければ三流品です」と、教えられている。大丈夫だ。
 そして、小さなポットを買ってある。毎日訪れて、すっかり仲良くなったバスセンターのお姉さんからお湯も貰った。これに「大紅袍」の茶葉を入れればOK。自分用のお茶の準備はできた。午後にバスで6時間かけて 『泉州』へ 移動する予定なので、水分補給も大丈夫である。

武夷山九曲渓
武夷山風景名勝区遊覧券(竹筏)
竹製の筏
五 曲
金鶏洞
我々の前を行った筏である。この男女の竿使いは絶妙で会った
筏川下りの到着点
筏を降りた後、清代の町並みを再現した『仿宋古街』を歩く
仿宋古街
武夷シルク博物館
特産品のお土産屋さん
武夷山博物館
博物館の展示物
博物館の展示物
博物館を出たあたりの 武夷山 の風景

中国・福建省 福州

杭州から福州へ
 D377次列車で杭州を08 :05に発ち、福州駅に13 :23に到着する。浙江省から福建省へ5時間余の行程で215元である。私は市街地にホテルを取ったが、駅近くのバス停から市街地まではK2路バスで行くことができる。
 福州は、強力な経済力とネットワークで知られる『福建華僑』の故郷(僑郷)であり、「水の至る所華僑あり」と言われるように、中国における諸外国との交流拠点でもある。3泊する予定であるが、のんびりとブラブラしたい。

三坊七巷
 福州の旧市街地を保存・修復した観光スポット『三坊七巷』は、その名前の通り、3つの通りと7つの路地で構成されている。三坊とは衣綿坊、文儒坊、光禄坊の3つの通りであり、七巷とは揚橋巷、郎官巷、塔巷、黄巷、安民巷、宮巷、古庇巷の7つの路地を言う。このエリアには明や清の時代に建てられた建物が保存され、あるいは修復されているため、旧市街地そのものが観光スポットになっている。

三坊七巷の一部
三坊七巷郵局
福建民俗博物館
福建省非物質文化遺産博覧苑のチケット

林則徐記念館
 林則徐記念館は、1785年ここ福州市に生まれた郷土の英雄、林則徐を称える記念館である。1811年科挙に合格後、順当に出世していく。日本人にとっては、林則徐は、『アヘン』と戦い、英国との『アヘン戦争』敗戦の結果、『南京条約』を結んだ人物として記憶されていよう。後年、欽差大臣(特命全権大使)として広西の『太平天国』の鎮圧に赴く途中で病死する。1850年である。

林則徐記念館
「林則徐的愛国主義…」。江沢民氏の筆による
林則徐記念館の展示物

烏石山(うせきざん)風景区
 『三坊七巷』の南側に位置する南門兜を抜けると、烏石山(うせきざん)風景区と呼ばれるエリアがある。市政府も近くにあるせいか、人出が多く、ブラブラする観光客も多い。

烏山浄慈寺
『三坊七巷』の南側にある『烏石山風景区』
「烏石山花会 」の案内
烏石山の岩肌に200余りの題刻が彫られている烏石山摩崖題刻。古いものには唐代、宋代からの著名な書家によるものがある
烏石山摩崖題刻(一部)
道山亭。ここからの眺望は宋代の36景の一つと言われた
烏石山(うせきざん)

西禅寺と報恩塔
 西禅寺は867年(唐の咸通8年)に創建された大小36の建築物から成る壮大な寺院で、福州五大禅寺の一つである。現存する建物の多くは清の光緒年間(1875~1908年)のものである。
 ひと際目立つ報恩塔は、1990年に建てられた高さ67メートル、15層の仏塔で、ここから寺全体を見渡すことができる。

西禅古寺
報恩塔は1990年に建てられた高さ67メートル、15層の仏塔で福建省最大の仏塔
菩薩像と報恩塔
西禅寺

鼓 山
 今日は、福州のちょっと郊外、町から東に約8キロメートルの『鼓山』に向かう。土地が酸性で、「お茶」、「みかん」、 「馬尾松(ばびしょう) Pinus massoniana 」 などが多く、また花崗岩の多いことでも知られる。植物のお好きな方のために、 種形容語massonianaは、 ロンドン の キューガーデン(Kew Gardens) のプラントハンター であるフランシス・ マッソン(Francis Masson)(1741~1805)に因む。『 キューガーデン』は、私も在英中に家族とともに何度も訪れたものだが、2003年にユネスコ世界遺産に登録されている。
 旅に戻ろう。 『鼓山』 近くにバスターミナルもあり、方向音痴の習性で、ホテルに戻る時のために、鼓山のバス停からの運行経路の看板を写真に撮っておく。
 前もっての情報で、鼓山の海抜は969メートルと徒歩にはきついが、ケーブルカーがあることを確認してあるので、大丈夫だ。ところが、問題が起きた。ケーブルカーは運行停止中で、そして焦ってしまって、ここから鼓山の中腹、自雲峰の麓にある涌泉寺(ゆせんじ)までの直通マイクロバスがあるのを忘れて、古道(2145段)をテクテク歩く羽目になる。大失敗だ。もう、ここまで来たからには、戻るに戻れない、頑張るしかない。何故か、今回はお助けマンがいない。
 折角登場したのだから、『涌泉寺』の昔話をご紹介したい。「涌泉寺の建立前、鼓山には「華厳寺」というお寺があった。ところが、当時、悪竜が住民にさんざん危害を加え、苦しめていた。そこで、当時の地方長官が当時の名僧、霊矯法師を招いてこの地に寺を建てて悪竜退治を依頼した。法師は「華厳経」というお経を唱えて悪竜を倒し、人々を苦しみから救った」というお話である。もう、お分りですね。人々はそれを記念してそのお寺を「華厳寺」と呼ぶようになったのです。
 その後、西暦908年、ビン王・王審知(862~925年)が創建したと伝えられ、明の時代、1407年(永楽5年)に現在の名前に改称したということである。

朝、バスで鼓山に着く。戻る時のために、鼓山のバス停からの運行経路を確認しておく 。方向音痴旅行者の習性である。
ここから頂上にある鼓山涌泉寺までの直通マイクロバスの案内 。写真にまで撮っておいたのに、うっかりして徒歩で頂上に向かった
観音亭
眺望臺
鼓山涌泉寺山門
鼓山涌泉寺
四天王
四天王
鼓山涌泉寺大雄宝殿 。手前に見える小さな橋は、 1082年頃に造られた 「石巻橋」と呼ばれ、橋の下に長方形の池がある。建築物を取り込んで池を造る建築技法は古代建築技術の特徴とも言える
鼓山涌泉寺鐘楼 。写真には入っていないが、 1696年に造られた 鋳物製の「金剛般若鐘」は、重さは約2トンと言われている。鐘の表面には「金剛般若婆羅密経」というお経が全部で6372字も刻まれているそうである。

于山風景区
 三坊七巷の東側に位置する于山(うざん)風景区は、福州市の中心である五一広場のすぐ近くにある。海抜58.6メートル、面積は11.9ヘクタールの小高い于山(旧名は九日山)があり、そこから福州市内を一覧できる最高のビュースポットである。パンフレットによると、春秋戦国時代(475BC-221BC)に『于越族』がここに住んでいたことから、この地を于山と呼ぶようになったとある。また、 定光塔寺( 俗称、 白塔寺)境内にある 定光塔 ( 俗称、白塔)は、904年(唐の天祐元年)に王審が亡母のために建立した7層8角の仏塔 である。清代に再建された 。 現在、福州市博物館になっている。

毘盧殿
定光塔寺( 俗称、 白塔寺)境内にある 定光塔 ( 俗称、白塔
煉丹井

辛亥革命の略記
 日清戦争以後,清(中国)が列強諸国に侵略されて国力を失っていく中で,清に変わる近代国家をつくろうとする革命運動が起きた。その中心となったのは、『民族主義(民族の独立)』『民権主義(政治の民主化)』『民生主義(民衆生活の安定)』の「三民(さんみん)主義」を唱えて,立ち上がった孫文である。1911年,湖北省の武昌で起きた軍隊の反乱をきっかけに革命運動は全国に広がり,多くの省が清からの独立を宣言した。この時の干支(えと)が『辛亥』だったことから、『辛亥革命』と名付けられ、翌年の1912年に、孫文を臨時大総統とし,南京(なんきん)を首都とするアジアで初めての共和制国家『中華民国』が樹立された。私達が学ぶ『世界史』に最初に登場し、古代から続いてきた君主制が終わり、1912年は元号も変更されて『民国紀元』の元年になったのである。

福州辛亥革命記念館

福州西湖公園
 福州西湖公園は福州市の北西にある臥龍山に位置する。敷地面積42.51ヘクタール、陸地面積12.21ヘクタール、水上面積30.3ヘクタールと記録されている。約1700年前に農業潅漑用として造られた人工湖である。現在では市の中心から簡単に訪れることのできる観光スポットとして、多くの市民が集まる場所でもある。
 西湖公園の見どころは庭園で、中国の著名な観光地でよく見られる風景で、小島をつなぐ橋を配置したアレンジメントが際立つ。

西湖公園
西湖公園
西湖遊歩道案内図
見事な盆栽

中国・浙江省 杭州・紹興

紹 興
 昨日、「上海の浦東国際空港に入り、そこから長距離バスで杭州(ハンヂョウ)に移動した。かなりタイトなスケジュールをこなして熟睡、今日は日帰りで紹興(シャオシン)へ向かう。杭州の東駅から和階号(高速鉄道)で居眠りをする暇もなく紹興北駅に到着する。駅でうろうろした後、帽子をかぶった駅員さんに日本語で「魯迅」と聞くと、『魯迅故里』と紙に書いてくれて、バス乗り場の方向を指差してくれる。
 『魯迅故里』とは魯迅ゆかりの見所をまとめた場所で、紹興でも人気の場所だけあって多くの路線バスが行き来している。バスを待っている間にガイドブック「地球…」を見ていると、30歳くらいの知的な感じの女性から「魯迅?」と聞かれる。英語も達者で、「『魯迅故里』の1つ手前で降車すると便利であること、降りるバス停が来たら私が合図してあげます」と、親切に言ってくれる。「お願いします。ありがとうございます」。「紹興は古い町並みがたくさんあるので、ウォーキングが楽しい所ですよ」。「それって、私の旅のスタイルです」。もっとお話を聞きたかったのだが、無情にも「ヒァ」。「本当にありがとうございました」。

杭州東駅。ここから紹興へ高速鉄道で向かう
杭州東駅から紹興北駅への和諧号(高速鉄道)のチケット

 実は、私は『魯迅』のというか、『阿Q正伝(あきゅうせいでん)』の大ファンなのです。最初に読んだのは、中学生の頃でした。「● ● ● 」の表現に不思議な感覚を覚え、言葉で表現できない、本当に不思議な感覚を覚えて、何度も読んでいるうちに、暗記してしまったのです。 「 ● ● ● 」 の表現とは、手元にある『阿Q正伝』(偕成社文庫4067『阿Q正伝・故郷』魯迅=作 小田嶽夫=訳)で言えば、 p.103の最終行の部分です。阿Qが死刑にされたことへの世論を描いた部分ですが、「…。銃殺されたのは彼がわるい証拠で、わるくなければどうして銃殺なんかされるか、と…」の表現です。今読み返してみて、「どうしてこの表現が気になったのか」分からない。人生長く生きると、他の人にとっては愚にもつかないことにこだわり、覚えているものである。分かったような、分からなかったような…。
 さて、『魯迅故里』の観光の始まりである。前述したように、『魯迅故里』とは魯迅ゆかりの見所をまとめた場所で、魯迅祖居(周家老台門は祖父の館)、三味書屋(魯迅が子供時代に学んだ教室)、魯迅故居(周家新台門館。魯迅の実家を利用したもの)などで構成されている。それぞれ一日の入場者数が450人、450人、2000人と制限され、入口に現在の入場者数が表示されている。また、『魯迅故里(魯迅記念館)』では年齢に関係なく、パスポートを提示するだけで無料で入場できる。

魯迅故里
魯迅故居の訪問時の入場者数
紹興魯迅紀念館
魯迅が子供時代に学んだ教室三味書屋
魯迅祖居

古い町並みをブラブラ
 魯迅故里の場所を教えてくれた妙齢の女性のことを忘れていない。そう、知的な顔立ちはもちろん忘れていないが、「紹興は古い町並みがたくさんあるので、ウォーキングが楽しい所ですよ」である。今、12時ちょっと過ぎなので、軽く食してからにしよう。実は、彼女から「『紹興酒』はご存知でしょうが、『三奇臭豆腐』がお勧めですよ」。と教わっている。漬け汁にさいの目状に切った押し豆腐を一晩漬けた後、油で揚げて辛いたれを付けて食べるあれである。似て非なるものかもしれないが、台湾でよく出てくる煮込の「臭臭鍋」のようなものらしい。

三奇臭豆腐。「軽く食する」どころか、本格的な味であった。すみません&ありがとう
客待ちしている烏篷舟。かまぼこ型の黒い屋根は、雨や日差しを避けるためのもので、その形がカラスの翼に似ていることから「烏」の字を入れ、さらに「篷」とは、日除け、風除け、雨除けの意味から合わせて「烏篷舟」と呼ばれている
年季の入った烏篷舟。船頭が足で櫂を漕いで操船する「足こぎ舟」なので、板がすり減っている
美しい、穏やかなたたずまいの運河
こういうのもあります
紹興古橋群、広寧橋 ?
運河沿いの街並みが美しい。穏やかなたたずまいに魅せられる
『中国大運河 Grand canal of China』の石碑
天主堂 。八字橋のすぐそばにあるカトリックの教会。
周恩来記念館が紹興にある。周恩来は江蘇省淮安の生まれだが、祖父の代までは紹興に住んでいた縁もあって、「自分は紹興人である」と言っていたそうだ

 色々なニックネームを貰っている紹興であるが、「魯迅故里」もさることながら、「紹興古鎮」の名前を是非、加えたい。中国には多くの「…古鎮」があり、一部は「古鎮まがい」と言うか、テーマパークみたいものも見受けられるが、ここ紹興は、水の豊かさや垣間見る人々の生活や表情も含めて、「古鎮」だと思うのだが…。

杭州郊外の龍門古鎮へ
 昨日は、「紹興」への日帰り観光を楽しんだ後、杭州のホテルに戻り、今日は杭州の隣の町、富陽市にある『龍門古鎮』を訪ねる。ここは、三国時代の呉の初代皇帝である孫権の故郷で、現在で第65世代という悠久な歴史と風俗・習慣を持つ。敷地面積は2平方キロメートル、人口が7000人以上、驚くのは住民の90%が孫氏であることである。
 杭州の延安路、龍翔橋のバスターミナルから514bバス→富陽市へ70キロメートルを約1時間→タクシーの相乗りで『龍門古鎮』へ4人で70元。帰りはバスを利用した。
 大きな龍門の碑坊が見えてきて、門の後ろには郷里の英雄である孫権の『孫権故里』の文字が見える。タクシーの相乗りで一緒だったフランス人夫婦は、カメラを2台、交換レンズを4本も持ったフォト・マニアックな感じだったので、別々に行動することにした。
 古い町並みと懐かしさを感じる生活習慣や人々の表情は、優しさにあふれ、…、説明はできるだけ少なく、写真を並べるだけでご容赦願いたい。

龍門。後ろに『孫権故里』の文字が見える
思源堂 。孫権の祖父、孫鐘を祀るお堂である
孫家の家系図。中国の歴史ドラマ鑑賞に必見
懐かしい風景である
水路の流れを石で止めて溜りを作り、洗濯などをする。賢い
 
中国の隋および唐の時代に行われた政治制度は、『三省六部(さんしょうりくぶ)』制であり、六部とその職掌は、吏部 – 官僚の人事、戸部 – 財政と地方行政、礼部 – 礼制と外交、兵部 – 軍事、刑部 – 司法と警察、そして工部 – 公共工事である
義 門
義門と呼ばれる村の中心的な広場。有名な画家であり映画監督の張逸飛が最晩年にここで『理髪師』という映画を撮ったそうです
義門の横の通り
この辺りの建物は、漆喰が剥がれてしまって黒ずんでいるが、むしろ歴史と風情を醸し出している
夜池硯。硯池のほとりで字を書く少年の像
月夜池硯

杭州の西湖
 杭州の『西湖』は、干潟であったので水深は平均1.8メートル、最も深いところでも2.8メートルと非常に浅く、水域面積は6.5平方キロメートルの湖である。『西湖』という名称が用いられるようになったのは唐代に入ってからだが、他に銭源、銭唐湖などとも呼ばれており、西湖の名称が固定したのは宋代に入ってからである。
 西湖にまつわる伝承は多く、西湖十景と呼ばれる観光資源が豊富である。いくつか例をあげると、中国四大美人の一人、『西施入水』にまつわるもので、この故事により西湖の名称が定着したというものや、京劇白蛇伝の白素貞が入水したといわれる白堤、蘇軾の造営によるという蘇堤などが挙げられる。
  私が個人的に好きなのは、 西湖北岸の宝石山に立つ 保俶塔 である。 西湖から観る寂しげで、そして凛とした姿は優雅で美しい。
 この塔は、北宋太平興国元年(紀元976年)に 、呉越王が都へ出発する際、無事を祈る伯父が建立した塔である。 最初はレンガ木造の楼閣式の建物であったが、民国22年(紀元1933年)に再建され、1933年に現在の塔に修復された。
 6面7層からなる、細身で優美な姿は、西湖湖畔に立つ美人にもたとえられ、 雷峰塔 との 南北対比で、 「保俶は美人如く、雷峰は老いた和尚のよう」と言われている。
 2011年世界文化遺産に登録された。

北宋太平興国元年(紀元976年)に 建立され、1933年に現在の塔に修復された保俶塔。寂しげで、そして凛とした姿は優雅で美しい 。雷峰塔 との 南北対比で、「保俶は美人如く、雷峰は老いた和尚のよう」と言われているが…
雷峰塔は、断橋と同じく『白蛇伝』ゆかりの地で、美しい白蛇が閉じ込められたという伝説がある
 
西湖の底に溜まった泥を埋め立てに使って島や堤を作った
浙江省の歴史や文化を展示している博物館
浙江省西湖美術館
西湖で凧揚げ

中国・雲南省 昆明市内

シャングリラから昆明に移動
 昨年(2013年)3月、インドの『コルカタ』からここ中国の『昆明』に飛んで3日間、市内に宿をとって近郊の『西山風景名勝区』、『石林風景名勝区』、『九郷風景名勝区』と、忙しいながらも楽しい3日間を過ごした。中国の歴史、伝統、観光資源に魅せられ、そして何よりも人々の心情、ホスピタリティに感動した。爾来(じらい)、「中国1か月旅行」が毎年のように続いており、本ブログの『新旅行記・アジア』にその一部を公開してきた。直近では、2014年3月に、いわゆる『茶馬古道』と呼ばれるエリアの町である『大理』→『麗江』→『シャングリラ』と巡り、前回のブログで、その一部をご紹介しました。今回は日程的にはこの流れを引き継いだもので、『シャングリラ』から『昆明』に移動した日から始まる。
 シャングリラからここ昆明に空路で移動した。シャングリラ空港へは空港バスが無かったが、タクシーで20元と安い。フライトも、シャングリラ発 08時50分→昆明着09時45分着と約1時間で定刻通りに着いた。
 昨年、『コルカタ』から新設のここ昆明長水国際空港に着陸した際、両替所が開いていない早朝に到着したため、空港で円から元に両替することができず、困っていたところ、タクシーのボスの差配で市内へ移動することができたことを思い出す。ボスを探したが見当たらず、「次の機会に」と、心に念じた。

昆明市内観光
 さて、昆明の中心近くにホテルを取ったので、市内観光は例によって遠くから攻めることにした。先ずは、市の北西約12キロメートルにある『筇竹寺(きょうちくじ)』を訪ねる。碑に記載された記録によれば、大理国(現在の昆明)の役人を辞した高光、高智兄弟によって建立された雲南地方で最初の禅宗寺院である。
 極彩色の五百羅漢像は大変な人気で、観光客でいっぱいである。1883年から1890年にかけて、四川から黎広修と5人の弟子を招き、政策を担当させたそうである。五百羅漢像は壁に沿って3段に配置されていて、段によって像の高さが異なっている。上段が1メートル前後、中・下段が1.2~1.4メートルの高さである。

筇竹寺。宋代に建てられた禅宗寺院
五百羅漢
五百羅漢
五百羅漢
大雄宝殿
筇竹寺

昆明動物園
 『筇竹寺』から『昆明動物園』に移動したのだが、迷ってしまった。方向音痴のせいと言うよりも、動物があまり見当たらないので、探して園内を歩き廻ったわけである。園内で大人が麻雀していたり、カラオケも。一般にイメージされる動物園と言うより、公園といった感じであった。            
 そうそう、小高い所に(対日)抗戦記念碑もありました。

昆明動物園
昆明動物園の案内図
派手なモニュメント

円通寺の歴史
 突然であるが、『南詔国』という国家(地方政権)を覚えていらっしゃいますか?先に、当ブログ『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』-『中国・雲南省 大理(1)』 -『大理古城』の中で書いたのですが、唐の時代に統治されていた6つのグループを統一して、地方政権を樹立したチベット・ビルマ語系部族の王国のことである。
 これから訪ねる円通寺は、この南詔国の異牟尋王の時代(中国の王朝では唐代)に、ここに創建されたことに始まる。創建時の名称は、『補陀羅寺』であり、創建してから1200年以上の歴史を持つという名刹である。1255年に破壊され、1301年(源の大徳5年)の再建時に『円通禅寺』と改称された。現在は、地元では『円通寺』と呼ばれている。昆明で最も古く、最も大きな仏教寺院の一つである。
 円通寺は昆明動物園から坂道の円通街を歩いてすぐの所にあるせいか、そして裏は円通山を中心とする公園になっていて山頂からは昆明市街が一望できるせいか、子供連れも含めて多くの方々が訪れている。面白かったのは、門の前で数人の占い師がいて手相などを観ていたことだ。この種のことは好きな方だが、言葉が分からないので、他の方のやり取りを見て楽しんだ。
 円通寺の山門をくぐると、1668年に平西王の呉三桂によって建てられた『円通勝境』の牌坊が見える。円通寺は天王殿、大雄寶殿などが左右対称に配置され、池に囲まれた八角亭が一際目立つ。円通寺の特徴的な所は、山門から主殿にあたる円通宝殿に向かって坂を下っていくことである。主殿が最も低い場所にある寺院は、滅多に見られない。
 牌坊の先は天王殿で、正面には弥勒菩薩像が座り、背後に韋駄天像、左右に四大天王が安置されている。

円通勝境牌坊。一般に仏教寺は入り口から登っていくのが大半なのだが、ここは下っていく
弥勒菩薩
弥勒菩薩の背後に韋駄天
池の中心にある八角形の八角亭
円通宝殿(えんつうほうでん)

昆明老街
 雲南省昆明市中心近くの文廟直街・文明街・光華街の辺りに昆明老街がある。清の時代などの古い街並みであるが、現在は再開発中であり古い街並を模した新しい老街と言った感じである。土産屋や民芸品、雑貨屋や屋台などの店が立ち並び、食べ歩きや散策を楽しる。  

昆明老街
再開発中

雲南博物館
 雲南省博物館は、1958に東風西路と五一路の交差点に建つ雲南省立の総合博物館で、翠湖公園や金碧広場へは歩いて20分程度である。昆明老街にも近く、昆明老街のぶらぶらの延長でこの辺りまで散歩の距離を延ばす人々も多い。近くに、東風西路バス停があり、バスの利用にも非常に便利である。
 博物館の1階から3階までの展示総面積は約2400平方メートルを誇り、古代雲南省にあった古代滇国の青銅器や美術工芸品、仏教芸術品、少数民族の地方色豊かな衣装などが展示されている。
 最も有名なのは、『牛虎銅案』と呼ばれる青銅の像で、親牛が体の下に子牛を隠して虎からの攻撃を防ぐ迫力あるデザインが人気を呼んでいる。

東風西路バス停
雲南省博物館
雲南省博物館
『牛虎銅案』親牛が体の下に子牛を隠して虎の攻撃に抵抗している
雲南省博物館の端正な横顔は魅力的である
博物館側から見た入り口前の風景

雲南民俗村
 時間があったので、『雲南民俗村』に出かけた。以前に訪れた昆明郊外の『西山風景名勝区』から見ると、雲南省最大の湖で面積83ヘクタールの『滇池(てんち)』を挟んで東側に位置するテーマパークである。A1、24、44、73路バスのいずれかに乗り、滇池路にある『雲南民俗村』で降車すれば良い。私は、基本的にはテーマパークはあまり好みではないが、中国の少数民族について学習するには格好の場所である。
 雲南民俗村は、雲南省に住む25の少数民族の文化、風俗を展示、紹介している。敷地内にはそれぞれの少数民族の伝統的な村が作られ、民具や衣装が展示されている。園内では毎日15時00分から30分間、滇池大舞台で民族ショー「紅土郷情」や民族舞踊が演じられ、また、各民族の伝統儀式が紹介されている。学習と言っても深く考える必要はない。展示物などを見て文化の特徴を感じ、各民族(が考える)美女なるものの徳性を感じ、そして食事を味わう、という実に感性的な、ある意味“旅”するだけである。
 ここ雲南省に住む25の少数民族の文化、風俗の中から恣意的にいくつかの写真を抽出して掲載することは不可能であろうし、ある意味で傲慢でもあろう。旅人は、現地を訪ねて、おじさん、おばさん、子供達、そして歴史を重ねてきたじいちゃん、ばあちゃんから直截、話を聞くことが、“民族の真髄に触れる”一つの方法であろう。
 そうは言っても、200枚の写真がもったいないので、民族名を挙げずに、何枚かを列挙したい。

昆明・雲南民俗村入口
最初からこれである
熟練の技が目の前で

雲南、ありがとう
 昨年、インドのコルカタから新設の雲南省昆明の昆明長水国際空港に着陸したのが早朝だったので、空港で円から元に両替できない。持っていた元がタクシー料金に30元足りなかったため、空港から市内に移動できずにいたところ、タクシーのボスの差配で市内へ移動することができ、さらに予約しておいたホテルのスタッフから10元札10枚を貸してもらって、旅の命をつないだ。このあたりのことは、ブログの『昆明郊外(1)~西山風景名勝区~』の中で、『中国人ってこんなに優しいの? 』で記した。
 私は、1979年に家族とともに英国に住み、帰国後40年間ほど仕事で出かけたり、仕事の合間に時間を見つけては諸外国を旅してきた。年を重ねた現在はもっと自由である。中国は、2005年に『新疆ウィグル』を訪ねたのが初めてであるが、2014年頃からは毎年1か月ほどの期間で中国を訪れている。「沸騰するアジア」の代表格である中国の変わり様は目を見張るものがあるが、昆明に来て以来、日本で放映されているTV番組や報道を通して『イメージされている中国人?』に会うこともあるが、圧倒的に、「親切」、「思いやり」、「日本人へのホスピタリティ」、「気前の良さ」などを感じている。私よりも外国暮らしが長く、また、多くの国々を旅している娘達も同じような気持ちを持っている(らしい)。「この巨大で歴史の長い国、一言どころか、千の言葉をもってしても、中国の一部ですら語り尽くすことは難しい」ことは百も承知であるが、そのうえで、中国の人々と楽しく過ごせる私達は幸せ者だ。

幸せ者がもう一人いた
 ホテルのロビーでコーヒーを飲んでいた時、「ボンジュール。カフェ・アヴェック…」と、カップを持った40才くらいの男性に声をかけられた。私を日本人と認識しているらしいが、そして英語を話すフランス人も増えてはいるものの、一般的にはフランス人は、やはり日本語や英語では話しかけてこない。込み入った話でなく通常の会話であれば、自分で言うのもなんだが、フランス語はなんとか、…。彼はボルドーから来た男で、大の漫画好きなのだ。私も学生時代にゼミの助教授(准教授)を漫画好きにしてしまったぐらい熱狂的な漫画好きなのだ。年頃が私の息子と同じくらいに見えたので、『グレンダイザー』、『ガッチャマン』と当てずっぽうに話を振ったところ、彼は飛び上がって喜んだのだ。そして、私も飛び上がるほどびっくりした。な、な、なんと、1978年『ゴールドラッ ク』 (Goldorak)とタイトルを変えた「UFOロボ・グレンダイザー」がフランスのテレビに登場していたのだ。そして、その後、「ハイジ」、「ガッチャマン」と…。二人とも、本当にびっくりして、コーヒーをこぼしてしまった。
 彼の住むボルドーから列車で約1時間の『アングレーム』郊外に『マンガ博物館』があること、毎年1月末に「アングレーム国際漫画フェスティバル」が開催され、過去に、日本の漫画も数多く受賞していることなど、わくわくする話を聞かせてもらった。
 受賞の話で盛り上がってしまって、そして彼の故郷のボルドーが話題になったので、ついつい、1997年9月にボルドーで開催されたある国際会議の第2回会議で私がメダルを受賞したことを口に出してしまった。その4年前の1993年10月にパリで開催された第1回会議に続いて、…と、余計なことまで。あ ーあ。

昆明最後のぶらぶら
 今回泊まったホテルは、金馬碧鶏広場に面する所にあり、メインストリートの金碧路、あるいは金碧公園も近い。金馬碧広場に近い『忠愛坊』という城門が華美な姿を強調するように建つ。この辺りが繁華街である。南側に500メートルも行けば、このブログに何度も登場した南詔国時代(未詳~902年)に建立された西寺塔と東寺塔がある。西寺塔は829年(唐の宝暦3年)に慧光寺(西寺とも呼ばれた)の主要な建築物として建立された高さ31メートル、13層のレンガ造りの仏塔である。1499年(明の弘治12年)の地震による倒壊後再建、1983年に再修復の歴史を持つ。
 東寺塔も西寺塔と同じ年に建立されたが、…、詳細は省かせていただくが、1882年(清の道光13年)の地震で倒壊後、同じ形に再建された。約40メートルの高さである。
 『忠愛坊』近くの繁華街に戻る。明日の移動に備えて、「英気を養うため?」である。「英気を養うって何を言っているのだ?」。「マッサージ」です。この通りは路上に椅子を置いて、全盲のマッサージ師が15分で20元の料金で『路上マッサージ』をしてくれる『マッサージ通り』なのだ。カセットテープで音楽を流してくれるので、「随分サービスが良いな」と思っていたら、実は、全盲なので、時計を見ることができず、歌1曲で時間を計っているのだ。賢い方法だ。そして、指の感触で10元札かどうかを確認していた。体が軽くなってすっきりした。
 「ありがとう」。「ありがとう、昆明、ありがとう、雲南の皆さん」。「またね」。

東寺塔。西寺塔と同じく南詔国時代に建立された十三層のレンガ造りである
『忠愛坊』と名付けられた城門。この辺りが繁華街になっている
路上マッサージ。15分で20元。カセットテープで音楽を流し、歌1曲で時間を計っている。紙幣は指の感触で分かるらしい

中国・雲南省 シャングリラ

シャングリラへ
 昆明→大理→麗江といわゆる『茶馬古道』を旅し、ついに今日は『シャングリラ(香格里拉)』に向かう。この地名については、こういう経緯がある。英国の作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』の舞台になった理想郷シャングリラは、この地域のことであると中国の地方政府が主張し、2002年に中国語で同じ響きになる香格里拉に改名された、という経緯である。元々あった地名の『中甸(ちゅうでん:チベット語でギャルタン)』は、どんな意味だったのだろう?
 康仲路にある麗江バスターミナル発8時20分の高速バスは、4時間をかけて香格里拉バスターミナルに着く。この建塘鎮の北側にあるバスターミナルから街の中心である独克宗古城(どくそんこじょう)へは、2キロメートルちょっとある。南北にほぼまっすぐ伸びる香格里拉大道を走る1路バスか3路バスで南下して、『古城』で降りるとよい。降車する時にバスの運転手から「ドッグ、ウォン、ウォン」と聞こえるような言葉が発せられた。数回言われて分かった。香格里拉は、獰猛な性格で知られるチベット犬の産地だそうだ。

麗江からシャングリラへの高速バスのチケット
麗江発シャングリラ行き高速バスで、約4時間。標高2,000メートルくらいから3,300メートルくらいまで一気に登って行く
終点の香格里拉が近い。険しい山々が見えてくる
バスセンター近くで売っていたヤクの干し肉やドライフルーツ

独克宗古城へ
 独克宗古城(ドゥーコーゾングーチョン)の「古城」の意味は、今までいくつかの町でご説明しましたが、ここシャングリラでも同じ説明をさせていただくことになります。つまり、「独克宗(どくそん)」という古いお城の固有名詞ではなく、「独克宗(どくそん)と名付けられた古い都市(Old Town)」を意味する。ついでみたいで(英語的にはand的表現かな?)申し訳ないが、独克宗とはチベット語で月光城と言う意味だそうだ。ガイドブックによると、この地域に暮らしていたチベット族が家の壁を保護するために白い粘土を塗ったのだが、その壁が月の光に照らされて輝いて見えたため、こう呼ばれているそうだ。
 独克宗古城は、面積が1平方キロメートルにも及ばない狭いエリアである。そのせいか、大亀山公園に立つマニ車(まにぐるま)は鮮やかな金色と相俟ってより巨大に見え、まさにランドマーク的存在である。マニ車とは、チベット仏教で用いる円筒形をした仏具で、マニ車を回すことで功徳が得られると言われている。ここのマニ車は超重くて、大人3人で挑戦したが、静止状態から回り始めるまでてこずった。慣性力ゼロの状態から始めるのであるから、力学的には当たり前のことだが、まぁ、神聖な気持ちで力を合わせているのだから理屈はこねない。

独克宗古城の中心・四方街近くの門
古城内の中心部でもある大亀山公園に立つ巨大マニ車
大亀山公園に立つ巨大マニ車のアップ

古城の四方街
 独克宗古城の中心は、四方街である。ヤクを引いてお客さんを乗せたり、赤いテントを張った露店でヤクの干し肉やヨーグルト、バター茶などを量り売りで売っている。バスセンターまでの一路バスのバス停も近くにあり、また、小さいながらも旅行会社もあり、郊外への日帰り旅行などの出発点となっている。200メートルも歩けば、ランドマークのマニ車がある大亀山公園にも行くことができる。また、この大亀山公園には、『紅軍長征博物館』と『中心鎮公堂』が近接して建っている。
 紅軍長征博物館は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、江西省瑞金を放棄して、国民党軍と交戦しながら、金沙江を渡って迪慶州に到達したことを記念した博物館である。薬草などのチベット医学に関する展示がされていた。
 説明員はユーモアのある青年で、英語で薬草のご利益について説明してくれた後、「四方街の露店へ行けば、薬草を売っているので、シャワーを浴びる時に使ったらいいよ」と教えてくれた。日本なら、さしずめ入浴剤としての利用が良いということであろう。「効能は?」と聞いたところ、「バック・トゥ・トゥエンティ(20歳に戻れる)」と即答された。「その3倍のスィックスティで十分だ、イナッフ」と答えたところ、返ってきた「ユー、ノー、ニード、ハーブ」で会話が混乱した。「You, No need Herbs」ととれば「ハーブは必要ない」にもとれるし、ネイティブがよく使う、会話のつなぎに使う「you know」であるならば「You know, need Herdsハーブは必要だ」にもとれるし、そうでないようにもとれるし、…。英語を母国語としない人同士が話す時は、このようなことをよく経験する。日本語で話す時は日本人の思考で、英語で話す時は英語で発想するので、ましてや英国人は、ひとひねりを入れてくるので、随分と訓練させられた経験がある。
 この話の顛末であるが、このユーモアのある説明員が、彼の名刺の裏に何かを書いて「これを四方街の露店でヤクのヨーグルトを売っているおばさんに見せてください」と私に名刺をくれた。その名刺のおかげで、とてもおいしいヤクのヨーグルトをいただいた。「ありがとう」。
 地元の人達に「蔵経院」と呼ばれる中心鎮公堂は、1724年(清の雍正2年)に建てられた建物で、古城のかつての中心地であった。屋根の宝塔に見られるチベット式の建築様式と、反り返った屋根などに見られる中国式建築様式を合体させたというか、折衷して3層の建築物に仕上げているあたり、まさに才能の豊かな人達の共同作業の成果を目のあたりにしているのである。内部の壁には仏画が描かれているが、“撮影禁止”で皆さんにお見せすることができない。申し訳ありません。
 また、ここには共産党の司令部が置かれたこともあったそうだが、確認できなかった。

四方街から大亀山公園方向を写す
四方街でヤク乗り遊び。奥に見える赤いテントの露店では、ヤクの干し肉やヨーグルト、バター茶などを売っている
紅軍長征博物館
古城のかつての中心地、中心鎮公堂
共産党本部が置かれたこともあった

松賛林寺
 『松賛林寺』は、街の中心部から北へ5キロメートルほど離れた小高い丘の斜面に建つ雲南省最大かつ最古のチベット仏教寺院である。 清乾隆帝60歳と皇太后80歳を祝い、少数民族の王侯貴族を招くために4年の月日をかけて建造された。 寺院のチベット名『ソンツェンリン・ゴンパ』の漢訳が『松賛林寺』であり、『帰化寺』と呼ばれることもある。『松賛林』とは「天界の神様が遊ぶ地」を意味している。また、ラサにあるポタラ宮を モデル にして作ったため、『小布達拉宮』、『雲南のポタラ宮』とも呼ばれている。
 街から3路バスが運行しており(一元)、『松賛林寺』で降車すると、すぐ寺のチケット売り場である。壮大かつ美しい建物が目に入る。標高3000メートルを越す高地特有の高山病を意識しているためか、酸素ボンベを持参している人もいた。私は、昆明から大理、麗江そして香格里拉(シャングリラ)と少しずつ体を慣らしてきたので、呼吸が苦しいなどの体の違和感は感じられない。
 メインとなるのはツォンカパ宮殿で、チベット様式の巨大な仏像が安置され、僧侶達が百人近く座れる席が用意されていた。しかし、中は写真撮影禁止なのでお見せすることはできません。これまた、申し訳ない。

チベット仏教寺院・松賛林寺(ソンツェリン寺)。ポタラ宮にも例えられる
メインとなるツォンカパ宮殿の中にはチベット様式の巨大な仏像が安置されていた
ツオンカパ宮殿の正面のアップ
山肌に「香松賛林寺」の文字が書かれていた

普達措国家公園
 中国で最初の国立公園をご存知ですか?そうです、ここシャングリラから東に22キロメートル離れた『普達措国家公園』です。私もここに来て、初めて知りました。四方街にある旅行会社が主催している日帰りツァーに参加した。四方街でピックアップされて公園の入口まで行き、そこから見所にシャトルバスで案内され、遊歩道を歩き、また移動するという方法であった。
 標高3500メートルの高山湖である属都湖、属都湖と碧塘海の間にある高台で標高3700メートルの弥里塘、そして4.5キロメートルと長い遊歩道を持つ碧塘海の3か所が見所と説明された。碧塘海の長い遊歩道を歩くのが大変な場合は、駐車場から300メートルほど離れた位置にある船着場から船が出ていると説明された。いずれにしても、季節は3月末、緑にはまだまだ早く、春の花々も見られない。

小動物が人気を集める
碧塔海
普達措国家公園のスタッフ(チベット族)
普達措国家公園のスタッフ(チベット族)

シャングリラ雑感
 香格里拉の皆さんの生活を覗きたいので、民宿みたいな宿に泊まったのだが、支配しているおばあさんも、お姉さんも、孫もまったく英語が通じない。「寒いので、ヒーター無いですか?」と、口と手と足を使って説明?しても駄目。このおばあさん怒ってしまったのか、私の腕をつかんで外に出そうとする。抵抗したが、結構強く引っ張られ、隣の立派な(星付きの)ホテルに連れていかれる。支配人(オーナー)に中国語で何か言っているので、様子から「私がここに泊まる」と言っているんだろうと当たりを付けたが、全然違った。突然、流暢なそして上品な英語が飛び出した。私もカームダゥン。星付きオーナーを通訳代わりに使ったおばあさんは、意気揚々と我が家に戻り、ヒートプレートを出してきて、「OK?」。思わず「はいっ」。一件落着というわけにはいかない。隣に伺って、「ありがとうございました」。「いぇいぇ、今度は当ホテルにお泊り下さい」。今日2度目の「はいっ」。
 この一件のおかげで、「香格里拉の皆さんの生活を覗きたい」という目的の少しは達成できた。これだけの自然資産、親日的なフレンドシップに出会ったからには、季節を改めて訪れない手はない。

中国・雲南省 麗江市内(2)

麗江古城
 中国語は、いわゆる「ネィティヴ」が身近にいることから努力を怠っていて、私は「読み書き」がまったくできないが、中国では、「古城」とは、「古い都市」と言う意味で使うことが多いようだ。ここ『麗江(の)古城』は、大まかに言うと、民主路、長水路、祥和路、金虹路に囲まれている。民主路は、先日『毛沢東の像』が建つ『紅太陽広場』から『黒龍潭景区』に移動した時に通った南北に走る通りである。古城の南側でそれに交差するように西から東に走る長水路、それにつながる祥和路、そして古城の北側で民主路と交差する金虹路といった具合である。古城の中には車はもちろんバイクも入れないので、近くまでバイクに乗ってきて、そこから古城に向かうためか、駐輪場はいつもいっぱいである。
 私は今、古城の北側にいるのであるが、これから南に向かってぶらりぶらりする予定である。古城の北側に『麗江古城』と書かれた大きな石のある『玉河広場』がある。ツァーの皆さんは、ここに集合して、それから見学に入るらしい。誰に拘束されないで気軽な私は、自由に行動できる。最初はズバリ、『古城水車』である。紅太陽広場から麗江古城入口の大水車や玉龍橋があるあたりまで徒歩10分足らずである。
 玉河広場の大水車の脇には、江沢民氏の筆による「世界文化遺産 麗江古城」と揮毫した石碑も建っている。先日、訪ねた『黒龍潭』から湧き出た水を水路で引いて、この水車に辿り着いたかと思うと、感慨もひとしおである。この水の流れは、古城入り口の 『玉龍橋』で 「中河」、「西河」、「東河」の 3 方向の水路に分流され、街を潤すのである。

玉龍橋の向こうに見える古城水車。白壁に江沢民氏が揮毫した碑
古城水車
古城水車
玉龍橋。シンプルで美しい石橋である
おびただしい数の風鈴がぶら下がっている。願い事を書いて吊り下げる
麗江古城の北側にある玉河広場。ツァー客の集合場所となっている
自転車ポーター。単なる運び屋さんではない。気脈の通じたホテルへ案内して…。
多くの観光客がカメラに収めるトンパ文字の壁

四方街
 『玉河広場』から古城の真ん中を南北に走る『東大街』を南へ向かう。500メートルほど歩くと、古城の中心部にある長方形の広場『四方街』に着く。ここから四方に道が広がっているので『四方街』と言うそうだが、実際には四方八方に広がっていて私のような方向音痴にとっては、まさに迷路である。時間になるとナシ族のおばさんたちが出てきて、石畳の広場でスピーカーから流れる音楽に合わせて踊りを始める。おじさんも出てきて笛を吹くこともある。古城一の賑やかな四方街であり、人が集まり、したがって広場の周りは土産物屋で囲まれている。
 先に書いたように、『麗江古城』は南宋時代(12〜13世紀)に形を成し、明代に木氏が統治、さらに時代が進んで清代に『茶馬古道』の物流拠点として繁栄した。繰り返しになるが、ここは約800年の歴史を持つナシ族の街だったのである。
 四方街の西側に『科貢坊』がある。1994年に火災に遭い、現在のそれはその後に再建された建物である。中国語、英語、日本語および仏語で書かれた立派な看板が前に設置されていたので、「?」と思われる表現もあるが日本語で書かれた文章を転記する。「『科貢坊 Ke Gong Memorial Arch』 清朝の嘉慶年間の巷内の楊兆蘭、楊兆栄の兄弟及び道光年間の楊兆栄の息子楊碩臣が挙人になることにより、官庁が一家三挙人を表評して建てた二階の鳥居です。光緒年間、巷内の和庚吉が進士になったことにより、また鳥居に彩を添えています。」
 夜になると、大音量で音楽を流し、飲みながら踊る中国人のディスコ通りになるそうである。
 四方街から東に向かう五一街には歴史を感じる『大石橋』、『小石橋』がカメラの視線を浴びていた。四方街に戻って、そこから南東に向かう新義街は『官門口』までの数百メートルが観光客であふれていた。

千里走単騎。張芸謀監督、高倉健主演の「単騎、千里を走る」のロケ地の一つ
東巴宮(トンパ宮)
四方街の西側に建つ科貢坊
四方街から東に向かう五一街にある大石橋
官門口

木 府
 麗江古城で由緒ある建物と言えば、多くの方々は、木氏の館「木府(もくふ)」、正式には「土司木氏衙署」を挙げられるであろう。元の時代の1253年より麗江の府知事に任命されて以来、世襲で元、明、清の3王朝にわたって22世代470年にわたって麗江地域の統治を任されてきた。時の朝廷に対してひたすら恭順の姿勢を保って、信頼を得、他方で茶馬の交易によって富豪になった。
 五層の木造建築である木府は、土司木氏の役所であり、明朝の洪武15年 (1382年)に創建されたが、1998年再建された後、『博物院』に改名された。木府の敷地面積は約3ヘクタール、大小の部屋が162あると言う。
 そして、明代に時の支配者である万暦帝が「忠義」の二字を下賜して勅令により建造されたのが『忠義坊』である。先に、『科貢坊 Ke Gong Memorial Arch』の説明をした看板の日本語部分を転記したが、ここ『忠義坊』でも中国語、英語、日本語および仏語で書かれた立派な看板が設置されていたので、その日本語部分を転記する。「『忠義坊(Zhongyi )Memorial Arch』』 忠義坊は明の万歴48年(1620年)に木氏土司が建てたものです。何度も朝廷に金と物を献上して、万歴皇帝が“忠義”の二字を恩賜して勅令により鳥居を建造しました」。
 “木府”は、まさに国家を形成している。国家と言えば。知の中枢を構成する一つは図書である。『萬巻楼』は、山東省曲阜市にある『公廟』を参考に建てられた書庫なのである。『公廟』は言うまでも無く、孔子(紀元前551-前479年)とその末裔を祀った『孔子廟』であることは言うまでも無い。
 木府の入口である『忠義坊』から入って、一番奥まで来てしまった。木府の最後は、道教の最高神を祭った『三清殿』である。“三”の意味は、道教の創始者とされる三人を祀ったことを意味している。写真の建物は、世界遺産申請時に修復、再建された建物である。

木府の本殿である木府議事庁。木氏が政事を行った建物です
木府の入口にあたる忠義坊。4本の石柱で作られた
木府の中の萬巻楼。曲阜の公廟を参考にして建てられた書庫
歌舞を鑑賞した玉音楼
三清殿

獅子山公園
 まさに国家の構築である。現代であるならば、文化的生活をおくるための必要最小限の施設を並べて都市を構成する手法とでも言うか、それを達成するための、卓越した能力を持つスタッフを要求される街づくりである。
 木氏の屋敷は『獅子山』を背景に建てられている。山には柏の木が茂っており、現在、獅子山に残っている古い柏林は『麗江十二景』の一つになっている。獅子山の頂上に建つ萬古楼は1997年建立と新しいが、最上階からの玉龍雪山や麗江古城の眺めが多くの観光客を呼んでいる。

獅子山
万古楼横の店から眺めた麗江市内。瓦屋根が広がる古城市内

庶民の知恵
 一般の観光客は、ここでパチパチやって四方街に戻るが、私のような『道草好き』はこれからが旅だ。あまり知られていないが、古い町並みの忠義巷を楽しみつつ『忠義市場』を目指す。ところが、『忠義巷』に入った途端に道草をしてしまった。道草の道草である。『三眼井』が原因だ。『四方街』で既に説明したが、『三眼井』とは、連続する三か所に水を溜めて、一番上から飲用水、二番目は食品を洗い、最後に洗濯用に使用するという井戸の利用システムである。それが、ここ『忠義巷』でまた見つけたのだ。そして「三眼井用水公約」の立札まで見ることができた。古典的にして合理的な水を利用した街作り、それも庶民レベルの「使い方のルール」まで決める先進的なアイディアに敬服である。
 庶民の集まる場所、そうです、次は市場です。名物の麗江バーバをかじりながらブラブラ、ブラブラ。麗江バーバとは、真ん中の平たいホットケーキというか、丸いパンケーキのようなもので、中に甘いあんが入っている。物好きな(私のような)観光客もいるが、日用品や食料品などを求める地元民みたいな人々が圧倒的に多い。

三眼井
三眼井用水公約
忠義巷
忠義市場
名物の麗江バーバ
忠義市場

 十分に楽しんだので、忠義市場から四方街に戻ろうと、忠義巷→官院巷→関門口→(左折して)新義街→『四方街』の道を選んだつもりが、最初に選んだのは予定の官院巷ではなく、いつの間にか一つ東側の道に入り、結局、崇仁巷に向かっていた。これが幸いした。予期していなかった“良い事”が二つもあったのだ。
 一つは、七一街と崇仁巷をつなぐ橋『万子橋』を観ることができたのだ。万古橋の説明には、おおよそ次のように書いてあった。明代の金持ちが寄付をして建てた石橋で、石材の精選された砂の粒子から“子孫万千”の寓意を得て、後継者を願ったとのことである。良いものを観た、そして、付録も付いた。この万子橋の近くに、ナシ族の伝統的手漉き紙「トンパ紙」を利用した商品を販売している店があった。日本の旅行ガイドブックにも載っている店であり、商品を手に取ってみることができた。トンパ紙には沈丁花の成分が虫よけに入っているということだが、香りに鈍感な私には分からない。
 もう一つの“良い事”は、まさに迷って入った崇仁巷に『普賢寺』があったことだ。「仏光普照」の意味は、「仏法は人々の世界をあまねく照らす力がある」という意味である。

子々孫々の繁栄を願って個人の寄付で建てられた万子橋
崇仁巷にある普賢寺
「仏光普照」。仏法は人々の世界をあまねく照らす

中国・雲南省 麗江市内(1)

麗江への導入部
 『束河古鎮』で会った若い日本人女性達に誘われて、乗り合いタクシーで麗江市内に戻ってきた。降車場所は、メインストリートの香格里拉大道と福彗路の交差から少し北側にある雲南航空麗江観光ホテルの近くである。『麗江古城』内へのタクシーの乗り入れは禁じられているので、古城外にあって、かつ古城に近いこの辺りは、エアポートバスや麗江高速バスターミナルの発着地点であり、郊外も含んだ交通ネットワークの中心的存在でもある。ここまで乗り合いタクシーで一緒に来た若い日本人女性達に聞いたのだが、「麗江は日本人にとても人気がある街だ」そうだ。そこで、麗江、とくに『麗江古城』について、少しまとめてみたい。
 麗江は、地形的にみると中国の西側に位置し、高度は市街地でも海抜2,400メートルと高い。周りに山が多いせいか水が豊富で、緑が多い町の構成に寄与しているばかりでなく、街の中を縦横に走る路地に沿って水路に水を供給し、橋を架け、井戸を整備して、美しい街並みの景色を醸し出している。
 歴史的には、木氏一族を抜きにしては語ることができない。雲南省北部を支配していた木氏一族が、南宋末(800年ほど前)に、支配の拠点をここに移し、それ以来、清の末までチベットと雲南を結ぶ『茶馬古道』の要衝として繁栄してきたのである。先に簡単に述べたように、土木や都市計画の手法を駆使して、「生活と美観」を統合させて、今に至っているのである。
 歴史を振り返ると『麗江古城』は、かつて少数民族のナシ族の王都であり、現在でもナシ族の人々が多く居住している。ナシ族の他にリス族、プミ族、ペー族、イ族などが居住していて、漢族より少数民族の人口の方が多い地域となっている。そのせいか『』で括る著名な建物の美しさもさることながら、地域によっては民族性を表して微妙にニュアンスの異なる家屋も散在する。旧市街の建築物のほとんどが木造であるせいか、細やかな造作がされ、建物の個性が一層際立っていて、気になるのである。
 そして、ここを歩く時は、一点の著名な建物だけを探さないで下さい。たまには足元を見てください。木造の建物が連なる風情たっぷりの小道です。きっとあなた好みのワンショットを見つけられますよ。すり減った石畳の路地は、一人で急ぎ足で歩くには、もったいない。よく、「一人で食事をするのは侘しい」などと言われますが、私の場合は、こういう美しい路地を歩く時に「一人で…は、(ちょっと)寂しい」。「わんこが脇にいてくれたら…」。そう、ここ麗江は犬の多い街です。ここの人達と同じように、非常に穏やかでのんびりとしたわんこ達です。

移動再開
 麗江の地理と歴史と人々とわんこ達を大急ぎでご紹介しました。『束河古鎮』から乗り合いタクシーに乗って麗江に着いたところで、道草をしてしまいました。市内観光を始めましょう。乗り合いタクシーを降りた所から、東の方向へ1キロメートルちょっと歩くと、『毛沢東の像』が建つ『紅太陽広場』や『人民広場』が見えてくる。パチリと1枚撮って、目的の『黒龍潭景区』を訪ねるために北へ向かう。時間は午後6時半であるが、本ブログの麗江郊外(2)~虎跳峡~の「虎跳峡に向かう」で述べたように、東西に国土の広い中国では北京時間(中国標準時)と西側に位置するここ麗江の時間(時計の針)では、生活感覚が異なるのである。ここは、頻繁にバスが往来しているし、5分間も乗っていれば、『黒龍潭」の南側に着いてしまうので、まだたっぷりと2時間は遊べる。後で確認すると、3、6、8、9路バスが走っていた。

紅太陽広場に立つ毛沢東像
人民広場

黑龍潭景区
 黑龍潭景区の特徴を書き始めると、どう言葉を選んでも、どこかで使われている表現のコピーになってしまう。それほど、「人口に膾炙した」街、そして地域なのである。そこで、旅行ガイドブック数冊を読んでみた。予想通り、似た表現が羅列されていた。仕様がないので、思いつくままに書くしかない。
 毛沢東の像が建つ紅太陽広場から民主路を北に向かって700メートルほど歩くと大きな池が見えてくる。この公園は、1737年(清の乾隆2年)に『玉泉龍王廟』として造成されたものである。公園内の池にはたくさんの黒い鯉が泳いでいるが、そこはそれ、龍の好きな中国人は鯉と呼ばずに黒龍と呼ぶことから、この公園(池)は「黒龍潭」と呼ばれている。そうなれば、『玉』が好きな中国の人々は、池の水が玉(宝石)のように碧い(透き通っている)ので、『玉泉公園』と別名で呼ぶ。お好きにどうぞ。
 この周囲4キロメートルの大きな泉は、街の北側にそびえる玉龍雪山の雪解け水が、山麓の岩間から湧き出てできたもので、石灰岩が連なっているため良質の水に恵まれ、古くから麗江古城の水源にもなってきた。流れに沿って歩くと『鎖翠橋』と名付けられた長さ十数メートルの小さな橋があり、手前は滝になっているので分かりやすい。その横には『古城源』と刻まれた石碑が設置され、周りに小休止のための長椅子が置かれている。この辺りの雰囲気は、「幽玄な景色」、「静かな水の音」など、「黒龍潭ビューポイント」と言われる所である。いつもは賑やかな中国人観光客も静かで、被写体のポーズの時間も短い。私も仲間に入れてもらって、パチパチと忙しい。

水路沿いの道を黒龍潭へと歩く
黒龍潭を訪れる観光客
観光客が足を止める景色
「古城源」と刻まれた石碑

東巴(トンパ)文化
 ここは、『トンパ文化』の本質について語る場ではないし、元々、私にはその能力、見識もない。中国のいくつかの訪問先で、『トンパ文化』として紹介される文物に触れ、目にする程度であって、約1400とも言われる絵画のような象形文字を見ても読むことも、ましてや書くこともできない。古来、文字には“美しさ”があり、芸術的側面を持つと言われるが、トンパ文字には一種の造形美ともいえる“美しさ”を感じる。
 「トンパの文化は、ナシ族固有の宗教であるトンパ教(7世紀頃成立)を中心に発達した民族文化で、自然崇拝に基づいた民間信仰である。その経典は、シャーマンの“トンパ”によって“トンパ文字”で描かれる」と、教えられた。教えてくれたのは、ラオスの大学生で宗教(仏教)を勉強している英語の上手な学生である。つい先程、『古城源』の石碑の横で長椅子に寝転がっていた青年である。「ナシ族は、雲南省西北部の盆地や丘陵部などの高度地域に居住する人達で、その多くの人達は“トンパ文字”の読み書きができない」ということです。とても勉強になった。
 1時間ほど時間の余裕があるということなので、一緒に歩くことになった。私が、たまたま、仏陀の顔を描いたTシャツを着ていたので、仏教国出身者を連想し、日本人だと思ったそうだ。ラオスは、2012年に『ビエンチャン』と『ルアンパバーン』へ旅行した程度で深い知見は無いが、今でも思い出すことが二つある。
①全くの私見であるが、(敬虔な仏教徒が多いせいか)“沸騰するアジア”の中で、比較的穏やかな人々であり、そして外国人であっても仏教徒に親密感を持っていた。
②ビエンチャンのお寺にお詣りした時に、高校生くらいの男女が仲良くデートをしていた。「お寺でイチャイチャしている」と、はやとちりした。実は、かなり高度な数学を教え合っていたのだ。教えてやったら、鼻の下に塗ると鼻の通りがよくなる(スースーする)薬をケースごとくれた。鼻の通りが良くなって、「ハックショーン」。「かつての高校生達、俺の噂をしているな」。
 さて、現在の大学生と一緒に行動開始。細やかでエレガントな造りが特徴の『解脱林』に入る。名前は『解脱林』であるが、建物の名前である。かつてこの地の豪族であった『木氏』によって建てられ、70年代に麗江古城北西の芝山から移設されたものである。現在は『トンパ芸術館』として、トンパ文字を使ったさまざまな民芸品が展示されている。この『解脱林』からすぐの所にあるのが、麗江市トンパ文化研究所(研究院)である。文化大革命の時に、多くの教典が処分され、消滅の危機にあったが、一部はそれを免れ、現在ではここで研究が進められているそうだ。
 実は、玉泉公園(黒龍潭)の中には麗江市トンパ文化研究所の他に、もう一つトンパに関する展示を行う『麗江市博物館』がある。今度は公園の北側に建つ建物で、別名「トンパ博物館」というだけあって、約1000年の歴史をもつナシ族の起源、文化、トンパ文字などに関する展示が多い。
 ここで、ラオスの相棒が長い時間を取った。トンパ文字の経典をたっぷりと時間をかけて見ていた。そして「象形文字」と言う言葉を何度も発していた。
 そうそう、ショップに、偶然にも?トンパ文字の権威者と言われる人が来ていて、観光客(お客さん)の名前をトンパ文字で入れてもらったトンパ紙は200元だそうで、…。

かつてこの地の豪族であった木氏によって建てられた解脱林。70年代に麗江古城北西の芝山からここに移設された
トンパ文化研究所の石塚
トンパ文化研究院
トンパ文化研究所の内部の見事な庭
麗江市博物院。別名「トンパ博物館」というだけあって、トンパ文字に関する展示が多数あった
麗江市博物院の展示物
テンパ文字の展示物
くるくる回して止まった位置によって運勢を占うものである。その内容はトンパ文字の継承者『トンパさん』が読み解いてくれる

五孔橋と得月楼
 『鎖翠橋』近くの「黒龍潭ビューポイント」で時間を費やしたが、個人的にはこちらの景色の方が好きです。それがこれからお見せする『五孔橋と得月楼』です。「なんだ、その程度か」と言われたら、「はい、この程度です」と頭を下げるしかない。
 ご覧の写真は、5つのアーチを持った大理石製の『五孔橋(玉帯拱橋)』と、その傍らに立つ『得月楼』である。彫刻が美しい3層の得月楼は、元は1876年に清の光緒帝が建てた楼閣で、現在のそれは1960年代に修復されたものである。五孔橋と得月楼の景観が澄んだ水面に映りこみ、自然が豊かな雲南省らしい風景を味わえる。

5つのアーチを持った大理石製の五孔橋(玉帯拱橋)と得月楼
池に映った五孔橋と得月楼の姿はめったに見られない
得月楼のアップ

龍神祠
 龍神祠は1737年に龍神を祭って雨を願うために建てられた建物である。1812年と1889年の2度、嘉慶帝と光緒帝から「龍神」の号を下賜された。「龍」の名前が付くだけあって、守護人の姿は迫力があった。
 龍神祠のすぐ前の建物で、ナシ族の伝統楽器の演奏を聴くことができたのだが、建物と一緒に写真を撮ることに失敗した。ごめんなさい。

「龍の神」を祀る龍神祠(守護人)
右側にトンパ文字が見える

最後に五鳳楼、そして水入り
 『法雲閣』とも言われる「『五鳳楼』は明万歴29年(1601年)に創建され、1979年福国寺から移設されてきた。説明によると、3層からなる八角形の楼閣で、高さ20メートル、弓状に反り上がる庇(ひさし)が20ヶ所と記されている。下から見上げているせいか雄大で、それでいて装飾的な形状は、まさにフォトジェニックであり、建築関係の人ばかりでなく、写真好きにはたまらない景色であろう。
 「四方向どこから見ても、屋根の形が五つの羽を広げている鳳凰のように見えることから『五鳳楼』と呼ばれる」。「楼の形が飛んできた5羽の鳳凰とよく似ていることから『五鳳楼』の名前が付いた」。どちらも、分かりやすい説明だが、確証は無い。中央の馬上の武人は、ナシ族の伝説上の救世主と言われている神『三多神』である。これは本当である。現在は『トンパ文化博物館』として利用されているが、内部は撮影禁止である。
 最後に、本ブログ「中国・雲南省 麗江市内(1)」は、主として『黒龍潭(池)』について紹介したが、続く「麗江市内(2)」は、『麗江古城』を主眼に『水車』からスタートする予定である。「水から水へと繋がる」というか、「水が入る」というか、…。ここは、「まさに麗江」なのである。意図したわけではなく、今、私が佇んでいる場所は偶然にも麗江に水を供給する水源地の側であり、「黒龍潭飲用水水源」の表示が立っている。

1601年に創建された五鳳楼。中央の馬上の武人はナシ族の伝説上の救世主『三多神』
水源地に近い河
黒龍潭飲用水水源の表示