中国・四川省 成都市内(2)

昭覚寺
 この禅宗寺院は、唐の貞観年間(627~649年)の創建で、歴史があるだけに由来を列記するだけで大変である。『川西第一禅林』と称される名刹で、創建当初は『建元寺』、後に唐の宣宗に『昭覚寺』」の名を賜った。明末(17世紀初め)に戦災で全焼、清の康煕2年(1663年)に破山和尚により再建された。さらに続く。文化大革命時に破壊され、1985年修建され現在に至る。
 唐の時代より幾多の名僧を輩出しただけに、近隣の仏教国家との関係も深く、書物によると、円悟和尚(1063~1135年)が記した著書『碧厳録』は日本の僧侶に広く読まれ、また『茶禅一味』は日本の茶道に影響を与えたとある。
 交通手段であるが、乗車地点を確認して、1、49、53、71、90路バスで『昭覚寺公交駅』で下車、徒歩5分で着くが、『成都動物園』の隣なので、乗車の際、バスの運転手に「パンダ」と日本語で伝えておけば、バス停が近づくと、「OK」と言って、笑顔で教えてくれる。そう、昭覚寺は成都動物園の隣にあるのです。

『川西第一禅林』と称される名刹、『昭覚寺』
休憩所になっている虔心亭。信者なのだろうか、おじさん、おばさんが、おしゃべりに興じていた
天王殿は、国泰平にして民安らかなこと、そして豊年を願った
金 鐘
大雄宝殿
鼓 楼
蔵経楼
昭覚寺

金沙遺址博物館
  2001年、住宅開発のための下水道工事をしている最中に、偶然、古代四川文明(古蜀文明)の遺跡が発掘され、現在、成都市のシンボルになっている金の太陽神鳥、金のマスク、大量の玉製品、青銅や石製の人物像、マンモスの牙などが出土された。遺跡は、主に大型祭祀場跡をドームで覆った遺跡館と、出土品を展示した陳列館の2棟の建物で構成されている。
 遺跡から一部を切り取ってきた成人や子供の墓も展示されていたが、実にリアルな形で人骨が保存されていた。また、金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーがあって、現代でもアクセサリーや飾り物として十分に通用する、いやむしろ斬新に見えるデザインを施した金や銅の飾りに魅入られた。
 「玉を語らずして中国を語るべからず」。でも、この『宝石』について語る資格は私にはない。あまりにも深くそして広い。以下のように簡単に述べるにとどめたい。ここの『金沙遺址博物館』にも玉はあった。刀の形状をした儀礼用玉器(玉璋)、国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器(玉圭)、そして、武器であると同時に斬首を執行する刑具(玉斧)が展示されていた。外国人はせいぜい写真を撮るぐらいであるが、中国人は『玉』の周りを行ったり来たり、目つきが違うのである。ここまでにしましょう。
 外国人にも中国人にも人気があるのは、『黄金のマスク』と「太陽神鳥金箔」である。後者は、2001年2月25日に発掘され、外径12.5センチメートル、内径5.29センチメートル、厚さ0.02センチメートル、重量20グラム、金の純度94.2%である。制作年代は3000年前の商代と推定されている。書物によると、4羽の神鳥は四季を象徴し、太陽を表す中央の空洞の周りに透かし彫りされた12本の光芒は12カ月を表し、太陽と万物の生命が循環を繰り返す様を象徴していると考えられているそうだ。現在、成都市の市微になっており、本遺跡のシンボル的出土品である。
 私は、この「太陽神鳥金箔」がすっかり気に入って、ショップでイミテーションを購入して、今も飾ってある。ここのショップでもう一つ買い物をした。金糸で刺繍を入れた白い帽子である。2000年に所属ゴルフクラブの「三大トーナメント」の一つで優勝してカップに名前を刻印した後、15年間鳴かず飛ばずの成績が続いていたが、この帽子のおかげでパッティングが冴えて、月例などで好成績が続いたのである。いいですか、成都市の『金沙遺址博物館』のショップで売っている金糸で刺繍した白いキャップ( 帽子)ですよ。かぶり方は、パッティングの時だけ、つばを後ろに回してかぶってください。笑わないでください。このぐらいしないと、ジャックニクラウス設計のゴルフコースでは勝てません。

墓を遺跡から切り取ってきて幾つか展示してあります。これは成人の墓です
金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーにあった銅の飾り
『銅虎』のアップ
アップ
石 虎
『玉璋』。刀の形状をした儀礼用玉器
『玉圭』。国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器
玉斧。斧は武器であると同時に斬首を執行する刑具。_thumb
『太陽神鳥』の金箔
一番人気の『太陽神鳥』の金箔。成都市の市微になっている
国宝級の黄金のマスク(金面具)。金沙遺跡が三星堆文化(約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化)を継承したことが分かる遺物と言われている
黄金のマスク(金面具)
古代の戦争に用いられた戦闘用馬車(戦車)
地形の模型

永陵博物館
 成都永陵博物館は、唐滅亡後の五代十国時代の前蜀(907~925年)の開祖、王建(847~918年)の陵墓『永陵』を博物館としたものである。1942年に発掘され、その後全国重要文化財に指定された。2015年6月、私が訪ねた時は、『永陵博物館』は工事中で閉鎖されていた。入口にある赤い看板がその『お知らせ』である。
 でも、そっと門を押してみると、開くではないか。工事のおじさん達が忙しそうに土木工事をしていた。私は自分を指差して「エンジニア」と言ったが、通じない。ところがである。リーダーらしき人が出てきたではないか。一瞬、ひらめいた。確か日本語の『技術士Professional Engineer』は中国語で『工程士』というはずだ。ここで、『技術士』とは、技術者の国家資格の一つで、特に土木においては最高難度の資格試験と言われている。
 紙を出して、「工程士」と書いて見せたが、反応が無い。「そうか?駄目か、…、そうだ!」、『士』を『師』と置き換えて、『工程師』と書いたところ、ニコッと笑って、私を見るではないか。博物館の閉鎖と技術士は何の関係も無いのであるが、彼は私を中に入れてくれたのである。調子に乗って、さっきの紙に「…士」を追加して書いたところ、握手を求めてきて、すっかりフレンドになってしまった。部下に命じて中を案内させ、帰りにはお茶までご馳走になってしまった。私は、資格について嘘を言っていません。自分の持つ資格などを正直に書いただけです。ハィ。
 私は、中国語を話せないが、改めて漢字の威力を感じた。漢字は表意文字で、簡単に言ってしまうと「絵文字」なので、字を見ただけでそこに何が書かれているか視覚的に分かる。ありがたい。
 このようなことは、遠い昔にもありました。本ブログの『旧写真旅行記』-『古くて新しいアテネの旅』(2007年4月)に載せたので、あるいはお読みになったかもしれませんが、ギリシャの『アテネオリンピック』のオリンピック・スタジアム(メイン・スタジアム)の工事が急ピッチで進められていた頃です。「頃」と言うよりも「時」が当てはまるような緊迫したスケジュールの真っただ中にあり、かつ、テロ対策で厳重警戒態勢下にありました。得体のしれない男が、のこのこと工事現場に入ってきて、「私は土木の研究者です」と勝手にカード(名刺)をお渡ししたところ、なんと建設中のメイン・スタジアムに案内してくれたのです。「グリーク・ホスピタリティ」とはいえ、あの時期、名刺一枚で、…。「私は心臓に竹ぼうきのような毛が生えている男では決してないつもりですが、自分ではむしろ繊細な男だと思っているのですが、…、違うのかな」。
 永陵博物館の工事担当の部下さんに促された。「そうだ、工事の進捗に影響を与えてはいけない」。急ぎ足で、ゆっくりと、この緑多き博物館のさわやかな清涼感を楽しんだ。
 「ありがとうございました」。丁重に皆さんにお礼を言って、お勧めの木製の観光バスで『寛窄巷子』へ向かった。

成都永陵博物館。唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建の陵墓永陵を博物館とした
横から写した永陵博物館入口
「内部の工事中につき閉館」のお知らせ
無理にお願いして中をパチリ
石像が並ぶ
石像の説明
工事中の館内。貴重な1枚である
参道に建つ石人像
王建墓
五代前蜀皇帝・王建の像

寛窄巷子
 寛窄巷子(かんさくこうし)は、旅行ガイドブックで見つけた「行ってみたい場所」であり、とても親切に面倒を見てもらった永陵博物館の工事関係者からも「是非に」と勧められたこともあって、気合が入っている。ここは、清の康煕帝の時代に兵士の駐屯地として造られた「巷子(路地)」の一部を2008年に再開発した場所で、寛巷子(かんこうし)、窄巷子(さくこうし)、井巷子(せいこうし)と名付けられた3つの路地が並行する。これらの路地によって囲まれたようなエリアには、明や清の時代の修復再現された四合院やヨーロッパ風の建物、レストラン、喫茶店などが並ぶ。夜にはモダンでおしゃれなバーが賑わうそうだが、私には“所用”があって、ここには来られない。この後、その“所用“については、書かせていただきます。
 銅像が路地などに設置されていて、面白いのは、突然、それら?が動き出すことである。
 バスが到着したので、ぶらぶら歩きを始めます。

永陵博物館で乗車した木製の観光バスが寛窄巷子に着いた
車夫の銅像 。この像は本物の像ですか?人の変装ですか
「パンダ」というポスト 。単なる郵便局の名前です
ポストと言えば手紙。デコレーションである 手紙と配達員の自転車
壁のデコレーション
観光会社の観光案内。10か所の観光地のうち、9か所を個人で観光していた。頑張りすぎですね。
寛巷子
お土産屋さん
惣菜屋さん
手作り中
チベット人の経営する店。各地で会う彼らの親日的な応対とか、日本に対する好奇心は、並外れている
一見してチベット人だと分かる。チベットのバター茶は、我が家のお好みのお茶である

芙蓉國粹・川劇
 明日は帰国である。ひと月ちょっとの旅は、長いようで、短いようで、…。最後の夜は、オペラである。しかし、ここはヨーロッパでもなけりゃ、サンクトペテルブルグやモスクワでもでもない。ましてやニューヨーク、そしてSPやLPなどの、いわゆるレコードでしか知らないエンリコ・カルーソーやマリア・カラスが歌ったブエノス・アイレス(コロン劇場)でもない。こう列記すると、「いやな性格だな」と思われるかもしれないが、無いものねだりをしているのでは決してない。逆である。ここは、中国四川省の成都市である。そう、かつての『蜀』すなわち『四川』に受け継がれている庶民伝統芸能『川劇 (せんげき)』の中心地・成都である。川劇の故郷と言われ、唐代には「蜀戯冠天下」(川劇は天下を冠する)と称えられた四川なのである。ここの『芙蓉國粹・川劇』に行かないで、「成都を旅した」はあり得ない。
 ところが、この劇場に行くのに戸惑った。今書いている話は、2015年の旅行の話であるが、『芙蓉國粹・川劇』は旅行ガイドブックに載っていない、あるいは情報が古いのか、市内中心部を1時間も振り回された。ホテルに戻って、事情を話したところ、若いスタッフが「すぐそこですよ」と笑顔で答えてくる。旅行ガイドブックを見せたところ、「違います。すぐそこです」と方向を指差す。面倒に思ったのか、「ついて来てください」と歩いて5分もかからない。汗をかきながら表情を変えて走り回った1時間はなんだったのだ。10人には劇場の場所を聞いたぞ、もう(怒)。笑顔のホテルスタッフは、立派な建物を指差して、「友達がいるのです。ちょっと待って下さい」。5分くらい待ったろうか、にこにこしながら、「チケットは1枚でいいのですよね?ホテルが劇場の近所なので2割引きのご近所割引(neighborhood reduction)になりました」。こんな英語があったかどうか定かではないが、2割引は大きい。うれしくてチップをあげるのを忘れてしまった。このホテル、成都伊勢丹百貨やイトーヨーカドーにも近い『i成都春熙路店』である。
 なお、今回の私のようなこともあります。『川劇』のご鑑賞の際には、劇場の場所をご確認のうえ、お楽しみください。

川 劇
 肝心の四川の『川劇』であるが、北京発祥の『京劇』と同時期に完成したと言われているが、北京に行くたびに楽しんでいる京劇とは雰囲気が異なるように感ずる。さほど知識がないのに、そしてここの 川劇は初めて見ただけなのだが、誤解を恐れずに言えば、その趣きが異なるのである。京劇の洗練された様式美に対して、川劇は庶民の伝統芸能といった感じである。
 例えば、瞼譜(れんぷ)は、北京・京劇や日本の歌舞伎における隈取(くまどり)を指すが、この瞼譜を瞬時に変える技巧には「あっ」と驚くであろう。私は、すっかり虜になってしまったが、瞼譜を瞬時に変える変臉(へんれん)と呼ばれるこの技巧は、川劇を川劇たらしめる芸術と言って良いであろう。役者が顔に手を当てる瞬間に瞼譜が変わるのである。書籍によると、この変臉の仕組みについては、「一子相伝」の「秘伝中の秘伝」とされていて、中国では第1級国家秘密として守られていると書かれてあった。

錦江劇場
錦江劇場入場券
フィナーレ 。『西安』から始まるひと月を超える私の旅のフィナーレでもありました。皆様、ありがとうございました

中国・四川省 成都市内(1)

青羊宮へ
 地下鉄『通恵門』駅から『青羊宮』へ歩いて行く時には、古い町並みを再現した『琴台路』を抜けると便利である。途中、『文化公園』があって、そこを通り抜けると20分ほどで北隣にある『青羊宮』に行くことができる。近くの浣花南路と青羊上街の交差点の西南の角に四川博物館があるので、時間のある方はお訪ねを。
 また、青羊宮は人気の場所だけあって、多くの市バスが青羊宮前に停まる。私は、少し歩いてから自分のいる位置が分からなくなってしまったので、英語ができそうな若いご婦人に「琴台路はどこですか」と聞いたところ、「ここです」と答えが返ってきた。よく分からなかったので、もう一度「琴台路はどこですか」と聞いたところ、彼女はちょっと考えてから、私の腕をつかんで立派な門のある所に連れてきてくれた。「ここです」。「…?」。「分かった」私は琴台路にいるのに、「琴台路はどこですか」と聞いたので、スマートな(頭の切れる)彼女は、「琴台路の(美しい)入口はどこですか」と聞かれたのだと解釈したのだ。いるんだよなぁ、こういう予見力があって、スマートな人が。体型も、日本語英語で言う「すまーとダッタ」。「ありがとうございます」。しかし、長さがたかだか900メートルの琴台路で迷うとは、スマートなご婦人にお会いできるとは、「方向音痴万歳」。
 さて、その『青羊宮』であるが、成都最大の道観(道教寺院)である。成都市の『青羊宮』の成り立ちに関する記述は色々ある。大まかには、寺の起源は周代(紀元前1046年頃~紀元前256年)と言われ、三国時代へと続き、唐代に規模を拡張した。その後、明代に戦火で焼失しており、現存する宮殿は清代に再建されたものである。また、名前の『青羊宮』であるが、“青い羊”に乗った道教の始祖、老子がこの地に現れて教えを説いたという伝説によっている。そして、私のような方向音痴には容易には理解できないが、主要な建築物は南北一直線上に並んでいるそうである。

古い町並みを再現した通り・琴台路の美しい入口
琴台故径と書いた立派な門。つまり、「古い町並みを再現した通り(=琴台路)」の入口
古い町並みを再現した通りである琴台路
文化公園
青羊宮の入口にあたる霊祖殿

八卦亭と三清殿(無極殿)
 『青羊宮』の中で、先ずは、著名な『八卦亭』を訪ねる。『八卦』とは『易』の八つの図形を意味し、この組み合わせて吉凶を占うのであるが、その易の八卦を表しているのが『八掛亭』である。一言で、「美しい」。上段と中段の層の色が異なっている姿は珍しく、ある種の気品を漂わせている。また、全部で81匹の龍が彫られている。
 内部には老子が『青い牛』に乗り函谷関を出る場面の像が祀られている。
 そして、三清殿』である。多くの人がカメラを左右に向けている。「皆さん、カメラを左右に振って動画を撮っているのだろうか。それにしても何度も左右に振っている」と不思議だったのだが、左右別々に写真を撮っていたのだ。三清殿前に清代に作られた一対の黄銅製の羊の銅像が並んでいる。『双角の羊』と青羊と言われる『一角の羊』である。『双角の羊』は、1829年(清の道光9年)に雲南の工匠蔯文柄と顧体によって鋳造された銅像である。『一角の羊』は、1723年(清の雍正元年)に大学士張鵬が北京で購入して奉納したものである。
 写真を見ていただいて、両方の銅像とも体の上の部分が光っているのが分かりますか?そうです、共に災厄を祓う神羊と言われ、来訪者が触るせいです。

易の八卦を表した八掛亭
三清殿(無極殿)。前にある一対の黄銅製の羊が特徴的
三清殿の前にある双角の羊。一角の羊と共に災厄を祓う神羊
青羊と言われる一角の羊

杜甫草堂
 『青羊宮』から『杜甫草堂』に向かう。『杜甫草堂』は、1961年に中国国務院から後述する『武候祠』とともに「全国重点文物保護単位」に認定されている。人気の観光場所だけに、19、35、58、82路などの多くの路線につながるバスが停車するので、乗車位置によってこれらのバスの停留所から選択すればよい。
 先に、当ブログ『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』-『中国・河西回廊~天水~』-『南廓寺』の中で、唐の詩人、杜甫(712~770年)が759年に『秦州』から『成都』に居を移した経緯に書いた。その後、成都の西郊外、浣花渓(かんかけい)の畔に有人の助力を得て庵を建て、年令で言うと48~51歳の約4年余り、ここで240首余りの詩を詠んだ。
 創建当時の庵は無く、現在残っている建物群は、1500年(明の弘治13年)と1811年(清の嘉慶16年)に修理再建されたものが元になっている。
 ところで、「詩仙の李白」に対し、「詩聖の杜甫」と言われ、さらに「詩仏の王維」と言われているが、この意味するところと言うか、違いはどこにあるのか、どなたか教えてください。

杜甫草堂
ドラマの撮影中らしい
杜詩書法木刻廟
大雅堂に建つ杜甫像
白居易
王淵明
この景色を見て詩が浮かんだのだろうか

武候祠博物館
 『杜甫草堂』から同じく成都の観光場所として人気の高い『武候祠博物館』へ82路バスで向かう。武候祠博物館(ぶこうしはくぶつかん)は、『三国志』で有名な蜀の丞相(君主を補佐する最高位の官吏)『諸葛亮(しょかつりょう。字を孔明という。181~234年)を祀った祠堂である。西晋時代末期(4世紀初頭)頃から建てられ、明代には主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合された。そして、孔明の贈り名である忠武侯に因んで『武侯祠』と呼ばれる。戦火のため、現存する建物は1672年(清の康熙11年)に再建されたが、その時に祀る建物が分けられた。
 37000平方メートルの広大な敷地には、南北方向の一本の道が(中軸線に沿って)大門、二門、漢昭烈廟(劉備殿)、武侯祠、三義廟を貫いている。順番に簡単に説明すると、
①『大門』から進むと、左右に『明碑』と『唐碑』と呼ばれる石碑
②そのまま進むと、『漢昭烈廟(劉備殿)』;『劉備』、『関羽』、『張飛』が祀られている
③その奥に、『武侯祠』;『諸葛亮』、『その子供』、『その孫』の像が祀られている
④最も奥に『三義廟』;武候祠博物館内に建てられたもので、『劉備』、『関羽』、『張飛』の義兄弟の友情を称えている

明 碑 
唐 碑
劉備像を祀る漢昭烈陵
武侯祠
諸葛亮の像。表情が優しい
三義廟

三義廟
 三義廟の建物に掲げられた『義重桃園』は、桃園の誓いで生まれた義は重いということを指す。劉備、関羽、張飛が義兄弟として生死を共にした生き方は、三国志ファンのみならず、多くの人々の共感を呼び、また、観光客が多いことも頷かれる。
 三義廟には、この三人の像と、『桃園の誓い』後のエピソードを記した10個の石碑がある。そのうち、関羽に関する一つを紹介したい。『関雲長刮骨療毒』とある石碑である。文献などから転記して簡単なあらすじを述べる。関羽が曹操の部下の曹仁の毒矢を腕に受け、すでに骨に毒が回っていたが、名医の華佗が手術をするシーンである。「荒療治なので、身体を縛り、目隠しをしようとする華佗に対して、関羽は華佗の提案を拒否し、馬良と平然と碁を打ちながら手術を受ける」というエピソードである。私なら麻酔薬の注射器を見ただけで気絶する。

『義重桃園』は、桃園の誓いで生まれた「義は重い」ということを指す
劉 備
関 羽
張 飛
『関雲長刮骨療毒』の石碑。「毒矢で侵された骨の手術を受けた時、馬良と平然と碁を打ちながら手術を受けた」というエピソードである

錦里歩行街
 大門を出て東方向に行くと、古い街並みを再現した『錦里歩行街』がある。『錦里』の入口は『武候祠』に隣接して「西蜀第一街」』と呼ばれている。ここで、『錦』とは成都のことを指し、かつて成都は錦の生産が盛んで『錦城』とも呼ばれていたことに由来する。300メートルほどの通りに、お土産屋、レストラン、喫茶店、旅館などがある。
 私が興味を持ったのは、中国の民芸品として有名な『剪紙(切紙)』屋さん。後日、訪ねる成都の『金沙遺址博物館』でその芸術性に立ちすくむ。

古い街並みを再現した『錦里』の入口
錦里の案内図。中国語、韓国語、日本語で表示されている
中国の民芸品として有名な『剪紙(切紙)』屋さん。この卓越した技術は、六朝時代から行われていたという。私も遊び心で数枚買い求めた。
街にある舞台
何でしょう

文殊院
 文殊院は南北朝時代(5世紀初め~6世紀末)に創建された仏教寺院である。古いお寺だけあって、時代の変遷にともなって名前も変わる。ガイドブックによると、唐代に『信相院』、一時『妙園塔院』と変わり、宋代には唐代の『信相院』の『院』が『寺』に変わって『信相寺』と呼ばれた。まだ続く。明代に戦乱で焼失してしまったが、(ここでやっと年号が入るのですが)1681年(清の康煕20年)に再建されて、現在の『文殊院』と名付けられ、現在まで残っている。貴重な文化遺産であり、今も信仰を集めている古刹である。
 山門をくぐると、左右に鐘楼と鼓楼の塔が向かいあって建っているのが見える。緑が多く、静謐な雰囲気が漂う。観音殿、大雄宝殿(本堂)、説法堂そして蔵経殿と続く。

緑あふれる文殊院の茶座 
 ところで、今まで何度かご紹介しましたように、中国には、皆さんが集まる場所、例えば、列車の中とか、駅、バスセンターなどにお湯を無料でサービスする貯湯タンクが備えてある。各自、茶葉をポットに入れて持ち歩いていて、必要な時にお湯を入れてお茶を楽しむわけです。世界的に著名なコーヒーショップ“S”などはおしゃれを売りものに若い人達に人気があるが、圧倒的に『my茶』が多い。そして、ここ文殊院では『茶座』なるものが人気のスポットとしてお客を集めている。由緒ある建物と美しい緑を眺めながらお茶を楽しむのである。茶座「香園」の利用方法は簡単で、入り口の売店で買った茶葉を「取水区」にいるお椀係に見せると、『蓋碗(がいわん)』とお湯の入った大きなポットがもらえる。『蓋碗』とは、蓋(ふた)付きの茶碗、茶托(受け皿)の3点セットのことである。あとは自分の席で思い思いにお茶をいれ、楽しむのである。ここで、「lovely」と言えば、『イングリッシュ・ティ』である。女性の場合?ですが。

文殊院の周囲の文殊坊は古い町並みを再現して観光客で賑わっている
文殊院の阿弥陀仏
鐘 楼
鼓 楼
文殊院大雄宝殿(本堂)
康煕36年(1697年)始建の説法堂
堂内にしつらえられた戒壇の中央壁面に、康熙帝の筆による「空林」の石刻が掲げられている

中国・四川省 楽山

楽山へ
 今日は、ここ成都から『楽山大仏』へ日帰りで出かける。昨日訪ねた『峨眉山』の旅日記で書いたが、『楽山大仏』は『峨眉山』と合わせて、1996年12月にユネスコの世界複合遺産に登録されている。楽山と峨眉山はバスで40分くらいなので、峨眉山観光後に宿泊して楽山に向かう方が効率的だし、経済的であるという考え方もある。私の場合は、荷物を持っての移動が面倒だし、同じ(成都の)ホテルに6泊とか連泊する余裕や安心感を選んで成都からの日帰りを選んだ。但し、片道2時間のバス移動が嫌いな方もいらっしゃるでしょう。お好みで…。
 楽山は港がある旧市街とそれ以外の新市街に分けられる。バスターミナル(バスセンター)も新市街に3か所もあり(乐山客运中心站、肖坝旅游客运站、乐山联运车站)、ここで各々について説明すると、私の説明力ではかえって混乱すると思うので、割愛したい。成都~楽山間のバスは朝7時頃からスタートし、多数あるので当日券で十分である。それぞれのバスターミナル間を結ぶバスも1路、6路とあり、それに楽山に到着してからの移動は行き先によって3路、13路などのバスが利用できるので難しくはない。私は、楽山バスセンターに着いてから大仏に向かう3路バスに乗車した。方向音痴の私でも行き帰り大丈夫だったので、安心してください。
 楽山は、成都の南約170キロメートルに位置し、人口は約354万人、面積は12.827平方メートルの大きな都市である。唐代に『嘉州』、清代に『楽山県』となった。地理的には長江(揚子江)の支流である岷江(みんこう)に大渡河(だいとが)と青衣江(せいいこう)が合流する辺りが市の中心であり、珉江の左岸地点に楽山大仏がある。

岷江、大渡河、青衣江の三江合流地点

凌雲寺
 『楽山大仏』のある『凌雲寺』は、『大仏』の知名度から『大仏寺』の別名で呼ばれる仏教禅宗寺院である。天王殿、弥勒殿、大雄宝殿などの仏閣が陵雲山に点在する。唐代に建立されたが、現在の建物は明および清代に再建されたものである。

兜率宮。布袋尊 。 唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧 。七福神の一人で「大量・度量の広さ」を司る神様
凌雲寺入口。大仏は近いぞ
凌雲寺山門を兼ねた天王殿(弥勒殿)
布袋に化身した弥勒菩薩
四大金剛像
四大金剛像
境内を先へ進むと大雄宝殿が見えてくる
左右の壁には僧侶像
左右の壁には僧侶像
釈尊の背面には、観音菩薩に会う財善童子の物語 。中央が観音菩薩で、左が童女、右で祈りを捧げるのが財善童子である。インドの裕福な家の童子が、文殊菩薩に始まり、53人の出会いで最後に普賢菩薩の導きで、真理の世界に入るという華厳経の中のお話。
6378大雄宝殿の奥は朱塗りの蔵経楼
蔵経楼内部
唐代に建立された13層、高さ38メートルの霊宝塔。航海安全のための仏塔。市内からも見える
霊宝塔内部はここまでで、中に入ることはできない。5つの堂があるそうで、後述する『海師洞』の入口に建つ海通和尚の遺骨が安置されているという

大 仏
 『楽山大仏』は、珉江に面する栖鸞峰(せいらんほう)の岩壁に彫られた石刻座仏で正式名は『凌雲大仏』という。『弥勒菩薩』を象(かたど)って彫られた巨大な磨崖仏(石仏)であり、石窟寺院の一種である。大仏の主なディメンジョンは、高さ71メートル、肩幅28メートル、頭部の高さ4メートル、頭部の直径10メートルで、世界最大の石刻座仏である。巨大な大仏を造った目的は、大渡河と岷江が合流するこの周辺は、古来より水害が多発する地域であったため、西暦713年(唐の玄宗皇帝の時代),凌雲寺の海通和尚は水害を鎮めるために大仏の建立を思いたったのである。完成したのは803年,90年の歳月を要したといわれている。建立当時は、大仏を守る13階建ての楼閣・大像閣が大仏を覆っていたそうである。

大仏の頭
6414大仏の足元へ。173段の下り。誰かが「九曲桟道」と言っていたが、公式な名前かどうかは分からない 
大仏の左手
海師洞。建立した海通和尚(写真左下)の座禅修行の場
大仏の上半身
大仏の顔
大仏の足元から下を見る
大仏の坐像
下から見上げた大仏像。大仏の高さ71メートル
大仏像の前に置かれた線香台。おじさんの頭をトリミングしなかったのは、ロウソクがわり?
『普同塔』;後漢時代(3世紀)の墳墓
凌雲山

漁村へ
 『麻浩崖墓』の近くにある狭いエリアで、近くで採れた魚などが食べられる食堂が続く。私は漁村育ちなので網を修理している漁師さんを見ると故郷を思い出してしんみりする。漁師さんと話をしたいが、言葉が通じなく残念。たばこ1本分、消えるまで手作業を見せてもらって楽しんだ。
 ところで、漁師の皆さんは何故、『くわえタバコ』が多いのだろう。極端な言い方をすると、世界中どこの浜でも、どこの海でも、必ずと言っていいほど、皆さんはタバコを吸っている、日本でもそうです。TVに映る方々を観察してください、くわえタバコが確実に多いですよ。何故だろう。別に、批判をしているのではありませんよ。

『漁村』の入口
『漁村』で網を修理している漁師さん
この親子亀の姿を見ると、私は食せない
この橋を渡ると烏尤寺(うゆうじ)。昔の名前は正覚寺

麻浩崖墓
 1800年以上前の後漢時代に四川で流行っていた『麻浩崖墓』は、地方豪族の陵墓と言われる。凌雲山と烏尤山に挟まれた麻浩湾の岩崖に造られていることから『麻浩崖墓(má hào yá mù)』と呼ばれている。「浩とは、川幅が広く穏やかに水が流れる場所」という意味だそうだ。『麻浩崖墓』の説明プレートによると、「『マー ハオ ヤー ムゥ(英語表記でMahao Tomb Caves)』は、0.1平方キロメートルの範囲に500ほどあって、墓の門は蜂の巣のように見える。墳墓の中は彫刻も施されている」と、記されている
 不鮮明であるが、壁に彫られ着色された『左手にほうき、右手にちりとりを持って掃除をしている門番』が見られるが、「ほうきを抱えてお客を迎えることは礼儀のひとつです」と、説明されていた。
 また、陳列館には馬や人物などの陶器製俑や精緻な彫刻がされた石棺などが展示されている。

『麻浩崖墓』の説明
1800年以上前の後漢時代に造られた陵墓『麻浩崖墓』の入口
入口から入場してすぐの展示
岩肌に彫られた小さな陵墓が蜂の巣のように並んでいる
部曲(かきべ)の俑。部曲とは、私有民や私兵などの身分のことで、日本では民部とも書く
彫刻をされた石棺
陶器で造られた馬
壁に彫られた左手にほうき、右手にちりとりを持った番人
『麻浩崖墓』の表示
人の集まる所、商売人あり

中国・四川省 峨眉山

峨眉山とは
『峨眉山(がびさん)』という名前をご存知ですか?私は名前は知っていたのですが、その名前の由来については知りませんでした。『峨眉』とは、少女の眉のことで、山の形がそのように見えるため、『峨眉山』と呼ばれているそうです。
 今日は、『峨眉山風景区(がびさんふうけいく)』へ成都から日帰りで出かける。成都の南西約160キロメートルに位置し、最高峰3099メートルの『峨眉山』を中心とした景勝地である。植物は約3000種、動物は約2000種が生息していると言われる。
 ここは、『普賢菩薩(ふげんぼさつ)』の山であり、山中には報国寺、伏虎寺、華蔵寺など多くの寺院がある。『普賢菩薩』と『文殊菩薩(もんじゅぼさつ)』は、『釈迦如来(しゃかにょらい)』の脇侍(きょうじ、わきじ)、すなわち、中尊である仏の左右に控え補佐する役割をもつ菩薩であり、『釈迦三尊』として、ここだけではなく、多くの名刹寺院に祀られている。『文殊菩薩』が悟りの知性的側面を象徴しているのに対して、『普賢菩薩』はその実践的側面を象徴している。簡単に言うと「悟りに入らず、衆生のなかで他者に対する慈悲を重視して衆生を救済していく」ことである。
 普賢菩薩が、『釈迦如来』 の右脇侍(向かって左側)として、六つの牙を持った『六牙の白象(ろくげのびゃくぞう)』に乗った姿を見たことがあると思います。あれですよ。今日も見られますよ。この位置関係でも両者を見分けることができますが、一般的には文殊菩薩は獅子に乗っています。
 さて、峨眉山風景区に戻りましょう。ここ『峨眉山』は、道教や中国の仏教で言う聖地であり、『五台山』、『天台山』とともに『中国三大霊山』と呼ばれる。また、『仏教』のキーワードで括ると、『五台山』、『九華山』、『普陀山』とともに『中国四大仏教名山』の一つである。後日訪ねる予定の『楽山大仏』と合わせて、1996年12月にユネスコの世界複合遺産に登録されている。

成都から峨眉山へ、そして風景区内の移動
 成都の新南門バスセンター(成都旅游バスセンター)から約2時間半で峨眉山旅遊バスセンターに到着する。風景区内の入場料は、185元であったが、老人割引が適応された(割引率は覚えていない)。それと、風景区内の移動はバスが使われ、2日間有効の3回乗車券が 90元であった。峨眉山旅遊バスセンターのスタッフは客慣れしているというか、客の要望を素早く察知して、適切なアドバイスをしてくれて、私以外の訪問者も笑顔で「サンキュー」を返していた。
  「サンキュー」 をもう一つ。実は、乗車券のことで、私は大失敗をしてしまった。3回乗車のうち1回分を使って頂上まで行ったはいいが、途中で乗車券を無くしてしまったのだ。頂上で運転手が代わったこともあって、胸がドキドキ、でも「失くしたことを言うしかない」。お助けマンはどこだ。いた、いたのである。ふもとから頂上までバスを運転してきた運転手が他の用事があってバスに戻ってきたのである。私を指差して、OKを出してくれた。あーあ、覚えていてくれたのだ。無事にふもとに帰ることができる。「ありがとうございます」。

さて、こういう風景区は、言葉による景色の説明よりも写真そのものをお見せしたほうが分かりやすいし、面白いと思うので、説明は簡単にします。

峨眉山入口付近
峨眉山旅遊バスセンター

 峨眉山旅遊バスセンターのスタッフの勧めで、バスセンター前から『雷洞坪』へバスで向かう。意外と遠く、1時間ほど途中の変化する景色を楽しめる。雷洞坪からの眺めを楽しむ人は少なく、多くの人達は1キロメートルほど登った所にある金頂行きロープウェー乗り場に向かう。
 「金の頂」とは、上手な命名である。この高さから眼下に見える景色に圧倒される。この辺りを散策する予定なので、『金頂景区』の案内図の概略を頭に入れるが、方向音痴の私にはあまり役に立たない。観光客が多いので、教えてもらいながら歩こうっと。

ロープウェイ
金頂景区案内図
金頂のシンボル・四面十方普賢菩薩金像(十方普賢)、高さ48メートル
金 頂
標高3077メートルの地点にある華蔵寺(大雄宝殿)。弥勒殿、大雄宝殿、普賢殿の三殿で構成
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
金頂銅殿(普賢殿)。後ろは断崖になっている。仏光などの観測ポイントである
四面十方普賢菩薩金像
広々とした金頂だが、その周りを取り囲むのは驚くほど険しい断崖絶壁。おー、怖い
険しい断崖絶壁
『金頂の日の出』の説明。峨眉山は金色の世界に変わるそうだ。それを観るために、朝4時起きで来る人もいるそうだが、“拝められる保証 はない
雲を眼下に見る
凶暴な猿。気を付けろ

中国・四川省 成都郊外(3)~安仁古鎮~

朝から忙しい
 今日は、四川省大邑県にある『安仁古鎮』を訪ねる。その概要であるが、地理的には成都市郊外の西南西約70キロメートルに位置する、バスで約1時間半の行程である。博物館が多いことで知られる古鎮である。街の中心部の通りは『安仁老街』として整備され、店、レストラン、映画館などが立ち並ぶ。
 ここから東側に1キロメートルほど歩くと、観光客が押し寄せる、著名な『大邑劉氏庄園』がある。中華民国時代に勢力を誇った、大地主の劉文彩(1887〜1949年)とその兄弟が1932年に建てた居園である。その後の増改築で、建築面積2万平方メートル以上に発展する。具体的には、『南の老公館(劉文彩公館)』と『北の新公館(弟の劉文輝公館、現川西民俗館)』の建築群が著名である。ここで、『公館』とは、高官の邸宅のことである。
 今日はここ成都市に夕方には戻りたいので、朝7時頃ホテルを出てバス停に向かったところ、面白い風景を見た。ビルの前の歩道でたくさんの新聞を広げて捌いている人達がいた。配達の地域別あるいは新聞の売店別に仕分けているのか、手際よくまとめている。面白いので立ち止まって見ていると、おじさんが一紙を私によこす。「買いなさい」と言っているのか、「あげるよ」と言っているのか言葉が分からないが、「ジャパニーズ」と答えたところ、笑いながら「ニーハオ」と言って、一紙をくれた。「ありがとう」。今日は朝からいいことがあった。しかし、中国語じゃ読めないんだよなあ。この後、すぐにその理由が分かるのだが、実はこのおじさん、今日の『お助けマン第1号』なのである。

朝7時20分、ビルの前の歩道で新聞の仕分けをしている
さあ、配達だ

早速、いいことがあった
 成都市の茶店子バスターミナルから『安仁古鎮』行きのバスに17元を支払って乗車。座席は指定されていない。結構込んでいて、私の横には中年のおじさんが座った。先程貰った中国語新聞の漢字を拾ったが歯が立たない。写真を眺めていると、隣の席のおじさんがにこにこして覗いている。「そうか、この人は読めるんだ」。「どうぞ、…プリーズ」と言って渡すと、「私が一緒に見ようと言っている」と解釈したのか、新聞の片方の端をもって読もうとしている。「ギヴ、ユー」と大きめの声で言ったところ、斜め後ろの若者が英語を理解したらしく、通訳してくれて、新聞は無事、おじさんの手に渡る。「シェイシェイ」と言って、カバンから饅頭を出して私にくれた。私は朝食をとっていなかったので、すぐ食した。御存知、中国のほかほか饅頭、旨い。「早起きは三文の徳」。貰った新聞は、貴重な食事に変わったのである。予定通り約1時間半で終点、下車する。

早速、方向音痴
 バスの乗車客全員が降りた。それぞれが思い思いに目的地に向かっていて、地図を持たない私は自分がどこの通りにいるのか分からない。早速、方向音痴である。うろうろしながら歩いていると、小さなトラックが固まって駐車しているエリアが見つかった。露店のおばさんもいるので、直感的に「市場だ」。市場大好き人間の私は、『古鎮』に来たのに『市場』に魅惑されてしまった。入ってみて、びっくり。とても大きな市場だったのだ。ガイドブックにも、ネットにも載っていない、したがって名称が分からない『安仁古鎮市場?』である。
 食材売り場が、調理済(熟食区)、干物(干?区)、生肉(鮮肉区)、水産物(水産区)などと利用しやすく区分されている。ここで、「公斤」=500グラム、したがって、1キログラム=2公斤、写真でお見せした今日の相場(今日行情)で言うと、鮮肉20元/公斤=40元/1キログラムである。2016年6月の情報である。
 因みに、「公里」は1キロメートルの単位である。

安仁古鎮の市場で掲示されていた今日の物価情報
安仁古鎮の市場
調理済みの肉屋さん
果物屋さん
西瓜がいっぱい
食材屋さん
本屋さん
寿司屋さんと揚げ物屋さん
寿司の値段
ごみ収集
ボタンやファスナーを付けている
靴の修理屋さん。とても親切なおじさんでした
魔法の靴修理器

お助けマン第2号
 この村には古鎮の見学に来たのに迷ってしまい、結果として来てしまった市場ですっかり楽しんでしまった。13枚の、皆さんには退屈極まりない写真を掲載させていただきました。最後に載せた『魔法の靴修理器』を使って靴を修理するおじさんの技術は、動画でお見せしたいくらい見事なものした。冗談ではなく、「弟子入りしたい」くらい卓越した技でした。
 数十年前、私の自宅から車で1時間半くらいの所に、季節になると『炭焼き』をしているおじさんがおりました。ゴルフの帰りに、煙を不審に思って近づいてみると、炭焼きでした。二度、三度と訪ねるうちに、「やるか」と言われて5日間ほどお手伝いしたことがある。研究好きが高じて『ドラム缶で焼く炭焼き』によって、炭を作り、上手にできたものは焼肉の炭に、うまくいかなかったものは床下の吸湿材として利用した覚えがある。しかし、今回の靴修理には『魔法の靴修理器』が必要で、日本に送るわけにもいかず、断念した。
 「笑わないでください。私の旅とはこんなものでして…」。良いこともありました。靴の修理屋さんは、修理をお願いに来たお客のおばさんに、「日本人を老街へ連れいってくれ」と、お願いしてくれたのです。10分も歩いたろうか、古鎮風景区に来ることができました。「ありがとう、おじさん。ありがとう、おばさん」。

靴の修理屋にいたおばさんに連れてきて貰った古鎮風景区

安仁老街
 おばさんに連れてきて貰った古鎮風景区(老街)は、いわゆる古き良き時代を彷彿させるぶらぶら歩きには最高の通りである。店、レストラン、映画館などが立ち並ぶ古鎮風景区で、特に説明は要しまい。写真を並べさせて下さい。

中華民国時代に勢力を誇った劉氏の建物が多く残り、町中に公館(高官の邸宅)が多い
太平洋映画館
説明は要しまい
安仁公館茶庁
陽孟高公館
鄭子権公館
劉體中公館

映画の看板から歴史を知る
 もっとも胸を震わせたのは、申影(映画)博物館である。私の世代、「白黒テレビが登場する前に鼻たれ小僧だった世代」は、絵具やペンキで書かれた映画の看板を覚えていらっしゃるでしょう。 おばさん達は看板に描かれた美男子にときめき、はなたれ小僧を卒業した先輩達は洋画の美女たちのミニスカートに興奮した時代である。その看板の中国版が目の前にあるのである。中国映画「風雪大別山」、「桃花扇」などの看板を見ただけで、ストーリーが分ったような気になり、さらに想像を膨らませてしまうのである。
 私をここ『古鎮風景区(老街)』に連れてきてくれたおばさんもここが好きらしく、言葉は通じないが、映画「桃花扇」の看板の前で、漢字(中国文字?)を書いて私に丁寧に説明を試みてくれる。『桃花扇』(とうかせん)は、清の孔尚任(こうしょうじん)による戯曲。明王朝の滅亡を背景に、明末の文人・侯方域と南京の名妓女・李香の恋愛を描いた物語らしい。ここまで10分かかった。それ故に(少しずつ理解が進むので)私の想像力がさらに膨らむ。そして驚いた。彼女は、紙に「孔子」と書いた。「えっ、3週間前に訪ねた武威の武威文廟」。あの「孔子」のことである。『桃花扇』の作者である孔尚任は、孔子の64代目の末裔だったのだ。いやぁ、驚いた。「ありがとう、おばさん」
 孔子と言えば、数えきれないほどの格言、名言があるが、今日は次の格言に頭を下げたい。

「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)をこえず」。

 私のような道草だらけの人生では、コメントできないほど、…?である。150歳まで生きなければ孔子の格言に至らないであろう。
 この『桃花扇』は『長生殿』と並ぶ清朝の伝奇の代表作だそうだ。そうです。私の場合は孔子の格言に違う(たがう)人生で、「…矩(のり)をこえず」どころか、『長生殿』の漢字から「古代ロマンスの舞台である長生殿」をイメージし、華清池の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台に心を躍らせるのである。

申影(映画)博物館 。 撮影に使われた衣装、映像機器、看板のコピーなどが展示されている

映画「風雪大別山」の看板のコピー
映画「桃花扇」の看板のコピー
映写機
『老公館』の西に位置する『有軌電車總站』の駅舎(左)とレトロな路面電車(右)
最後になってしまったが、ツァリスト・インフォメーション・センター。私の場合は、いつも『お助パーソン』がいるので必要なかった

大邑劉氏庄園
 街の中心部の通り『安仁老街』のぶらぶらを楽しんだ後は、この古鎮で最も人気のある『大邑劉氏庄園』へ向かう。交通手段もあるが、ここから東側に1キロメートルほどなので、歩きを楽しむことにする。
 始めに記述したように、中華民国時代を代表する大地主の居園として著名で、1966年に全国重点文物保護単位に指定されている。大邑劉氏庄園博物館(老公館)、庄園珍品書画館、劉氏祖居および劉文淵(文彩長兄)公館の4部に分かれている。入場料は40元であったが、60才以上は半額、70才以上は無料である。

大邑刘氏荘園の説明
老公館大門。右手に荘園文物珍品館(庄園珍品書画館)の大門
居室空間
劉文彩の寝室。9平方メートルを占める寝台室には写真で見るように金張りの龍の柱が豪華である

「龍泉井戸(Dragon Spring Well)」と名付けられた劉家の私的な台所用内井戸
小作料収納の状況を展示している「算帳」の場面
建川博物館聚落。中国最大の私立博物館。時間の関係で入口の写真撮影で終わった  

中国・四川省 成都郊外(2)~黄龍渓~

黄龍溪
 成都の南40キロメートルに位置する『黄龍渓(こうりゅうけい)』を訪ねる。ここは、219年(後漢の建案24年)に『武陽』として築かれ、その後宿場町として発展してきた。黄龍渓(黄龙溪)という名前は宋代の名前で、清代では『永興場』と呼ばれ、『黄龍渓』に戻ったのは、中華人民共和国以降のことだそうだ。いずれにしても、1700年以上の歴史を持っている古鎮である。
 成都の新南門バスセンターから『黄龍溪バスターミナル』行きに乗車して、終点まで約1時間、12元であった。赤色で『黄龍渓』と書かれた大きな石が見えると、観光客に笑顔が広がる。「もうすぐだ」。バスターミナルで降車してから10分ほど歩くと黄龍溪古鎮が見えてきた。
 古鎮の入り口から入ると、すぐに古い民家が続くが、これらは古く見せかけた通りである。ここ『黄龍渓』ばかりでなく、私が訪ねた多くの古鎮に見られるもので、中国の人達は「模倣街」と言うそうである。模倣と聞くと寂しくなるので、急ぎ足で模倣街を抜けると、噴水や小さな遊園地などの人工的というか、今はやりのテーマパークっぽい風景が見えてくる。そうは言っても、古い『蜀』の時代の町並みが残る歴史的街であることには間違いない。
 パンフレットによると、ここ『黄龍渓古鎮』は、1986年に日本でも公開され、ヒットした映画『霊幻道士』のロケ地だそうだ。私はここをロケーションとした中国のTVドラマや映画を観たことはないが、その後も撮影地として使われたそうである。

黄龍渓
黄龍渓入口
双流県黄龍渓古鎮
中央に大きな鼎がある黄龍広場
四川省三都博物館
黄龍大劇院

食堂街
 食堂街という通りがあるわけではない。古鎮と言えば人が集まる。人が集まれば、食事をする、土産物を買う。ということで、料理屋と土産物屋がひしめいている「正街」を歩く。この地のソウルフードである『一根麺』はその名の通り麺を長く伸ばして、ぐるぐる巻きにした麺である。日本では『一本麺』と呼ばれることが多いそうだ。私が覗いた店では数人の分業制で作っており、頼むとすぐにできてくる。いつも通り、食事に関して細かいコメントはしないが、一言。「さすが中国。うまい」としか言いようが無い。日本人が豆腐を好きなことを知っているのだろう、必死に勧める。行きと帰りで2回も食べてしまった。
 気合が入っているおばさんは、大忙し。隣の店の、タライの中で泳いでいた魚がおばさんの声にびっくりしてタライから飛び出した。

地元のソウルフード『一根麺』( 1本のヌードル の店 )
分業制で作っている
人気の豆腐
商売熱心なおばさん
近くの川で採れた魚

鎮江寺
 賑やかな正街には、おばさん達の元気な掛け声を包み込むような静かな三つの古寺が佇んでいる。耳学問であるが、どの寺も水に関連し、航海安全や治水に関わっているそうだ。黄龍橋を渡って左側(北側)に見えるのが、『鎮江寺』である。境内のガジュマルの樹に紅唐辛子がぶら下がっていたのだが、これは信徒の平安無事を祈るためだそうである。

鎮江寺
鎮江寺
鎮江寺内部

古龍寺
 正街の東端に位置する『鎮江寺』に対して、『古龍寺』は、正街の西端に位置する。清代に建てられた300年以上の歴史を持つ、黄龍渓鎮では最大かつ最古の寺院である。境内には石彫りの龍がからみついている柱が目を引く。
 ここで、私も初めて目にした『三県衙門』について説明させてください。古龍寺の隣にあり、黒塗りをベースとした由緒ある木造建築だったので、「おそらく、公的な建物だ」と考えた。そこで、帰属は分からないが、腕章を付けたおじさんがいたので、無礼を承知で質問したところ、丁寧に教えてくれた。
 『三県衙門』とは、『県役所』のことである。『黄龍渓』は、かつて華陽・彭山・仁寿三県の県境に位置していたそうで、そこでこの『県役所』、すなわち『県衙門』は、“三県共用の派出所”とでも言うか、『県衙門』だったのである。ある意味、県の役所の壁もなく、合理的な組織だったのかもしれない。帰国後に調べたのだが、鎮内の紛糾事の調停(民事の管理)、府河に築かれた古仏堰の堤防の水利管理、鎮内外の警察権の遂行などを職務としていたそうである。
 南北両側に生えたガジュマルの大木は、樹齢約1700年におよぶこの街の象徴である。北の大木は根元に『黄葛大仙』を祭祀し、この木に触るだけで病気を祓うことができるという。これには、写真を拡大して見ていただけるとお分かりになると思いますが、『土地堂』と額が掛かっていて、いわゆる土地神様(とちがみさま)信仰の意味をもつようある。
 さすがに舞台にあがりはしなかったが、古戯台の前で歌う真似をして、写真を撮っていた人がいた。昔の人々は、この演台で演じられる踊りや歌を楽しんだのだろうか。

古鎮の趣がある通りの突き当たりが古龍寺
古龍寺の境内
黄葛樹(Ficus virens )。前の柱に石彫りの龍がからみついている
観音堂
ガジュマルの古木の根本には、土地神様が祀られている
大雄宝殿
三縣衛門(さんけんかもん)。かつて華陽・彭山・仁寿の三県の県境にあったことから、“三県共用の派出所”として機能していた
三縣衛門
三縣衛門の執務室
古戯台。宴台
府河(錦江)の船乗場。ここから鹿渓河をのぼって古鎮行船乗場で降りる。群英橋が近い
鹿渓河に掛かる群英橋。この西側に大仏寺がある
鹿渓河を行き来する手漕ぎの遊覧船。他に大仏寺へ往復するエンジン遊覧船もある
大仏寺
大仏寺羅漢堂の内部
大仏寺羅漢堂の内部

龍と豆鼓に弱い男達
 お寺の近くに、『千年龍風古樹』の標識がある。日本人でも読めそうな、そしてなんとなく由緒ある名前である。中国語なので私には分からないが、古ぼけた様に見せかけた標識に何か書いてある。ところが、何のことはない、木を龍の形に剪定しただけの見世物であった。お寺とは関係なく、近づいていくと、いきなりおばさんが現れて、便乗商売で2元。皆、怒っていた。このおばさん、並みの男では太刀打ちできない。片手をあげながら、「見学料と合わせて5元支払えば…」(と言っているようだ?)、私の横にいたおじさんの腕を引っ張りながら『豆鼓』を扱っている店に連れて行った。このおじさん、『龍』に弱いのか、『豆』に弱いのか、それとも気の好いおやじなのか、指を2本あげて小分けにした『豆鼓』二つで見学料と合わせて7元支払い、一つを私にくれた。計算すると、…、こういう場合は計算ではなく、笑顔で「ありがとう」だ。
 ところで、『豆鼓』であるが、中国では日常的な食べ物らしい。結構、いける。ついでながら、『豆鼓』と並んで写真でお見せしたような店も連なっていました。
 最後の最後に、もう一つ。“気が良すぎる?”のか、“美男?が好き?”なのか、このおばさん、私の『千年龍風古樹』見学料金を取るのを忘れていた。無料で見学はできるは、豆は食べられるは、面白いやり取りは楽しめるは、「あーあ、今日はいい日だ。楽しかった」。

龍の形のような龍樹
龍の形のような龍樹
『豆鼓』を売っていた引き込み食品売り場。おばさん、どうも

中国・四川省 成都郊外(1)~青城山・都江堰~

青城山と都江堰
 昨日は、九寨溝発朝7時半のバスで約9時間半。さすがに疲れた。移動だけで終わった1日であった。成都には、郊外の観光も含めて、というか郊外観光が多いのであるが、約1週間の滞在予定である。例によって、いつも通り郊外観光からスタートの日程を組み、今日は『青城山(せいじょうざん)』と『都江堰(とこうえん)』に出かける。両者に共通するイメージは、一言でいうと「自然」で括られる感じがするのであるが、世界遺産の中でも文化遺産として認定されている。都江堰は古代水利施設であり、分野は異なるが土木工学の研究に従事してきた私には、特に興味を引かれる場所でもある。

青城山へ
 成都の成都旅游バスセンターを朝9時に出発すると、約1時間で終点の『青城山前山』に到着する。距離65キロメートルでバス料金は15元であった。青城山は標高1600メートル、周囲120キロメートルの広大な山で、先程到着した前山と后山に分けられる。とにかく峰が多く、「青城、天下に幽たり」と称えられるように独特の景観を見せている。また、山麓から山頂まで約5キロメートルである。『青城山』の名前の由来であるが、山全体が緑の木々に覆われていて、まるで青い城のように見えるのでこの名前がついたと言われている。

理屈っぽいですが、カンフー映画を楽しむのに役立ちます
 この自然豊かな青城山が世界遺産の中でも文化遺産として認定されている理由は、『道教』にある。『道教』は、『儒教』、『仏教』と並ぶ、中国三大宗教のひとつで、元々は老子や荘子の思想である『老荘思想』を源流とし、古代中国における『神仙信仰』とともに発展してきた宗教である。『神仙信仰』とは、仙人(不老長寿の人間)の実在を信じ,修行によって自らも仙人になることを願う思想である。そのために、肉体的鍛錬とか、薬(医学)の研究が唐代以後にも続けられ,中国の医学や化学が発達したと言われる。
 『陰陽説』と『五行説』にも登場してもらおう。一方の『陰陽説』である。このブログ『方向音痴の旅日記』で、『新旅行記』-『中国・河西回廊~天水~』-『伏羲廟』の中で、「『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていた…」として登場させた古代中国神話に登場する帝王『伏羲(ふくぎ)』が考え出したものである。「全ての事象は、単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」のように相反する形で存在し、それぞれが消長をくりかえす」という考え方である。例えば、明と暗、天と地、吉と凶、善と悪などである。
 他方、「五行説」は『夏(か)』の創始者『禹(う)』が考え出したもので、万物は「木火土金水」の五つの要素から成り立つとする考え方である。後に斉の陰陽家『鄒衍(すうえん)』によって、陰陽説と五行説が統合されて『陰陽五行説』が完成した。
 深読みは避けなければならないが、今日の日本の茶道は千利休が原型を策定したと言われるが、彼は陰陽師の一門で、陰陽五行の「木火土金水」の要素を取り入れていると言われている。

道教の聖山
 『青城山と道教の話』をするために、道教について猛スピードで勉強してきましたが、ここで本命の『張陵(ちょうりょう)』にご登場願う。中国の後漢時代の後期(2世紀後半)に蜀 (四川省)で『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれる宗教を創始した人物である。この宗教は、祈禱(きとう)による治病を主とし、入門の謝礼に米五斗を奉納したので、『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれるようになった。後に道教の正一教(しよういつきよう)となり、道教の源流とも言われている。張陵が晩年に修行のためにこもったと言われるのが青城山である。幽玄で知られる山中に道教の寺院である『道観』が点在しているという。楽しみだ。難しい話はここまでとし、ここからは写真を並べて話を進めましょう。

中国でよくみられる朝の風景・壁新聞。朝7時半である
成都で宿泊したホテル近くにあったバス停

 成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ着く。終点の『青城山前山』である。先を急ぐわけではないが、青城山を観光後、午後に『都江堰』へ向かう予定で、うまい具合にこの近くから101A路バスで『都江堰』へ行くことができる。大丈夫、確認した。
 季節は6月初旬、野草が観光客を出迎える。清涼な空気を吸い込みながらアスファルトで舗装された参道を歩く。周りは緑いっぱいである。『青城山道教学院』、『西蜀第一山の山門』と続き、『建福宮』が見えてくる。

成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ
参道を歩く
途中で見えた青城山道教学院
『西蜀第一山の山門』

建福宮から月城湖
 『青城山前山』の山門の手前にある『建福宮』は、道教の寺院である『道観』の一つである。唐代(西暦618~907年)に建立されたもので、後に増改築が重ねられ、現在は2つの宮殿しか残っていない。『財神殿』や『老君殿』がカメラを引き付けている。

『青城山前山』の山門の手前にある建福宮
建福宮の財神殿
老君殿
建福宮

 建福宮から北へ歩くと、緑に囲まれた美しい『月城湖』に出る。ここから対岸のロープウエイの乗り場までボートが出ているが、湖岸に沿った遊歩道の方が人気があるみたいだ。

例によって貸衣装屋さん 。客が少ないのか、担当おじさん(おばさん)はいなかった
月城湖
湖岸に沿った遊歩道

上清宮
 月城湖から上る前山リフトは、約10分間の乗車時間で上り35元,下り25元であった。下りた所が『慈雲閣』で,ここから10分ぐらい石段を登ると『上清宮』である。パンフレットによると、「『上清宮』は晋代に創建,唐代に再建され,中華民国の時代に拡張された」とある。

青城山の月城湖から上る前山リフト
リフトを下りた所が慈雲閣で,ここから10分間くらい石段を登ると主殿である『上清宮』に辿り着く
悟真閣
慈雲閣
主殿である上清宮
上清宮
上清宮 のアップ
上清宮老君殿
上清宮三清殿
こういうサービスもある

下山そして都江堰へ移動
 『上清宮』辺りをうろうろして、時計を見ると正午である。ここから徒歩で下山した場合に『建福宮』まで戻るのに約2時間かかるという。リフト以外に選択肢はない。山頂の『老君閣』をあっさり諦めて、リフトで『建福宮』に戻る。『都江堰』に向かう先客も多数いて、101A路バスの中は賑わっていた。こういう場合は、必ずと言っていいほど、リーダーが登場する。「『都江堰』で下車後、7路バスで『离推公園』に向かわなくてはならない。20分だ。『都江堰』から『成都』へ最終バスは19時ジャスト」。「ありがとう」。「この人の後をついて行こうっと」。

ヘリテージ(Heritage)
 1979年、初めての外国である英国滞在中に私が受けたカルチュラル・ショック(cultural shock、culture shock)は数えきれないほどあるが、土木(Civil Engineering)に関する構造物や施設が『ヘリテージ(Heritage)』として大事にされていたことがその一つである。このブログでご紹介した記事を2,3あげると、『旧旅行記』-『フェスティバルのことなど』(1979年10月)-『ユニオン・ジャックか星条旗か?』や『旧旅行記』-『続々・フェスティバルのことなど』(1980年6月)-『技術者冥利』の中で書いた『アイアンブリッジ(Iron bridge)』が筆頭にあげられよう。
 バーミンガム(Birmingham)から車で約40分、英国中西部シュロップシャー州(Shropshire)のIronbridge(地名)にあるSevern川をまたぐIron Bridgeのことである。全長約60メートル、世界初の鋳鉄製のアーチ橋であり、エイブラハム・ダービー(Abraham Darby )がコークス用の石炭を使って始めて鉄鉱石を精錬した場所の名をとって、コールブルックデール橋(Coalbrookdale Bridge)とも呼ばれる。競馬の『ダービー』がその名を由来する『ダービー卿(Earl of Derby)とは、関係のない方である。
 1979年は『Iron bridge』が竣工200年を迎えた年であり、各種の記念行事が開催されていた。驚いたことに、あの著名な英国の『ロイヤル・アカデミー・オブ・アート(Royal Academy of Arts, RA)』で『アイアンブリッジ竣工二百年記念行事』が開催され、社会資本およびそれに携わる技術者の社会的評価がきわめて高いことをあらためて実感した。
 蛇足であるが、1979年は英国の『ダービー(Derby』』第200回開催の年であり、海外から多くの競馬ファンを迎えていた。私も家族と一緒に、エプソム競馬場で行われたダービー200回記念レースに出かけ、記念切手などを買ったことを思い出す。簡単であるが、『旧旅行記』-『続々・より道しちゃった』(2004年1月)-『血統』の中でご紹介してあります。
 蛇足の蛇足ですが、ということは2足目の蛇足ですが、第200回ダービーの優勝馬はトロイ(Troy)で、その遺体は私達が住んでいたバークシャー(Berkshire)に葬られている。

英国 Ironbridge(地名)にあるSevern川をまたぐアイアンブリッジIron Bridge)。1779年の竣工 である(1979年撮影)

都江堰と李冰
 さて、長々と『ヘリテージ』について語り、『アイアンブリッジ』や、競馬のヘリテージ?『エプソム・ダービー」まで話が及んでしまったが、今日の本題である土木のヘリテージ『都江堰(とこうえん)』と呼ばれる水利・灌漑施設と、それを成し遂げた人物についてご紹介したい。ここ中国の成都郊外にある『都江堰』は、人気の観光資源になっているのである。
 『李冰(りひよう)』は、紀元前256年(秦の襄王統治期)の時に蜀(四川省)の太守として,岷江(みんこう)の治水事業の指揮をとった。息子の李二郎(りじろう)も大規模工事を受け継いだが、『都江堰)』と呼ばれる水利・灌漑施設が完成するのは数世紀後である。
 書籍を参考にして簡単にまとめる。構造的には、都江堰は『魚嘴(ぎょし)』、『飛沙堤(ひさえん)』および『宝瓶口(ほうへいこう)』の3つの部分に分類される。岷江の川の流れは、人工的に造られた中州によって分けられ、そのまま下流に流れていく外江と、灌漑用水として『宝瓶口』に流れる内江に分けられる。岷江の流れを分ける中州は、竹籠の中に石を入れたものを積み上げて作製され、最上流部は(魚の口のようになっているので)『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる。内江の最下流部の『飛沙堤』は、岷江が基準水量を超えた時にここを通って外江に戻るように調整する機能を持つ。洪水対策である。氾濫の絶えない岷江の洪水を防ぎ、豊富な水を耕作地に引き入れた古代の大事業によって、『蜀(四川省)』は『天賦の国』と呼ばれてきたのである。
 簡単に述べたが、合理的、かつスマートな発想を支える素材の利用方法にも感服する。地元でとれる竹で籠を造り、 中に石を入れて使用したもので、安価かつ工程が簡単で高能率な工法である。また、写真で示した木の組み合わせで造ったテトラポッドの発明など、まさに文化的である。
 このような李親子の業績に対してその徳を称えるために、都江堰の東岸に南北朝時代に『二王廟』が建てられた。

世界遺産・都江堰
離堆大門の横の川に架かる南橋。お寺の門構えのように見えるが橋である。すぐそばに都江堰への入り口がある
伏龍観
伏龍観にある李冰(りひよう)の石像
伏龍観に展示してあった明代に作られた飛龍鉄鼎。 清代の1831年に青城山の頂上で発掘された
中州がある内江の最下流部である『飛沙堤(ひさえん)』は、岷江が基準水量を超えた時に外江に戻るように調整する。洪水対策である
都江堰の立体図
最上流部は『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる
都江堰の平面図
吊り橋の安瀾橋(あんらんきょう)。かなり揺れる
安瀾橋のアップ
分江亭
古代のテトラポッド。下部は石を入れた竹籠
都江堰の東岸にある『二王廟』の入口
『二王廟』は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられた

中国・四川省 九寨溝

九寨溝国家級風景名勝区に向かう
 昨日は激動の1日であった。中国の多くの方々の助力によって、楽しくエキサイティングな“黄龍の1日”を過ごすことができた。ぐっすりと睡眠をとることができ、今日の九寨沟観光のため、そして明日の成都への長距離・長時間のバスによる移動に備えた体力を回復できた。昨日の若き技術者の根回しのおかげで、朝からの私のスケジュールがセットされていた。昨日、彼に応対したフロントのお嬢さん、実は英語が話せたのだが、「10分後にタクシーが来て、あなたを『九寨溝口旅游バスセンター』に連れていきます。近いので安いです。そこで、タクシーを待たせておいて、明日の『成都』行きのバスチケットを買って下さい。ここから9時間近くかかるので、朝7時半頃出発のバスがお勧めです」。忘れたら困るのでバスの出発時間をメモする。彼女は私の手元を見ながら続ける。「待たせたタクシーに戻って、そこから『九寨溝国家級風景名勝区』に行ってください、OK ?」。完璧な手配と説明であった。「ありがとう、お嬢さん&若き技術者よ」。
 ここ九寨溝から成都までのバスチケットを購入し、タクシーに戻って、「お待たせ」と日本語で言うと、運転手は、「にこっ」。やはり、ホテルを通してタクシーを予約をすると愛想が良い。再び乗車して、『九寨溝』入口で降車、タクシー代を支払う。中に入ると、平日の朝8時なのにお客さんが多い。

入山チケット(70歳以上は無料)や名勝区内を走るバスのチケットを買う
さあ、『観光専用バス』に乗って出かけるぞ

九寨沟へのイントロダクション
 ガイドブックを参考に、九寨溝についておさらいをしたい。九寨溝は四川省最北部にあるアバチベット族チャン族自治州の北東部にある景勝地である。峡谷沿いにチベット族の暮す集落(山寨)が9つあったことから『九寨溝』と名付けられた。
 約720平方キロメートルの広大な景勝地で、3つの渓谷を中心に、原始森林景区(げんししんりんけいく)、日則景区(にっそくけいく)、樹正景区(じゅせいけいく)、宝鏡崖景区(ほうきょうがいけいく)および長海景区(ちょうかいけいく)の五つのエリアに分けられている。
 私は6月に訪ねたが、湖、滝、湿地が点在し、季節によって、春の緑、夏の強烈な光、秋の木の葉の色づき、冬の純白の雪景色等々、想像しただけで心が震え、体が動いてしまう。この美しい、独特の景観は、氷河による浸食、地殻変動、火山活動などの結果であることは容易に想像できるが、「“美しさを感じさせる素材”を土木や地質の観点から一つあげよ」と言われたら、即座に、「石灰」と答えたい。石灰岩質の岷山山脈(びんざんさんみゃく)から流れ出た水の成分(炭酸カルシウム)が沼底に沈殿し、陽光を浴び、その変化に応じて独特の色で回りを染めよう。そして、本ホーメページで何度か登場させた『カルスト地方』の名を戴くクロアチアの世界遺産『プリトヴィツェ湖群国立公園』、また、昨日訪れたここ四川省の『黄龍』の美しさからも想像できよう。

観光開始は樹正景区から
 『九寨溝国家級風景名勝区』はとても広いので、シャトルバス(観光専用バス)で回る。最も北側にある入口から南側に向かって移動することになる。私のような方向音痴らしき人達は、地図を逆さまにして、つまり進行方向である南を上にして広げている。そうすると、谷というか池がY字状に分岐して見えるのである。笑わないでくださいね。
 Y字の根本(出発点)から『樹正景区』に向かって出発したバスは、20分ほどでバス乗場の1つである『老虎海乗車点』に着く。山肌を湖面に移す『老虎海』は、木々や雲などの周辺の自然条件によっては、虎の文様が湖に映る、ということからこの名前がついたという。下流部分に広がる姿は、端正なたたずまいを見せる静かな海子(湖、池)で、心が洗われるような気持になる。
 最初に降りたバス停( 老虎海乗車点)に戻ったところ、1台のバスが止まっている。よく見ると、観光客を移動させる『観光専用バス』ではなく、前面に『WC』と書いた移動式トイレバスだった。通常、この種の観光地に設置されているトイレは固定式であって、トイレが移動するものは初めて見た。後処理を考えても衛生的かつ合理的であり、先進的な発想に感心した。
 静かな『老虎海』の水を受ける『樹正瀑布』は多くの歓声を受ける人気の瀑布である。その豪快な瀑布は男性的で、荒々しい。写真を撮る時、中国人の女性がポーズをとる時間はとても長く、外国人の不平を買うが、ここでは、男性も長い。老虎海から樹正瀑布へと流れた水は、19の海子 が集まる樹正群海へと流れていく。

老虎海バス停留所
老虎海
老虎海
移動式トイレ
樹正瀑布
樹正瀑布

 『火花海』は、海抜2187メートル、水深9メートルの海子である。太陽の光を受けて湖面がきらめく様子が火花が散っているように見えるので、この名前が付けられたそうだ。私の場合は、残念ながら…。天気次第か? 
 ここの『火花海』の瀑布から流れ落ちた水は、『双龍海』に落ちる。中国人の大好きな『龍』であるが、この名称は、透き通る湖の中にあたかも二匹の龍が隠れているように見えることから付けられたそうだ。そう思い込んで見ると、湖水に沈んだ大木が龍の姿に見えてくる。もっとも、「『龍』なるもの、見たことはないですが」。「それを言っちゃ、おしまいですね」。

火花海の説明
魚が泳いでいる
山の姿が映える湖の美しさ
火花海。今日は火花が見えなかった
双龍海
双龍海

長海景区
 Y字の中心(左右の分岐点)にあたる『老虎海乗車点』から観光専用バスに乗車して、東側の長海景区の『長海』で下車。ここから先には進めないので、『長海』を眺める最終ポイントである。海抜が3060メートル、山に沿って湾曲する長さが約8キロメートル、幅が約600メートル、面積が93万平方メートル、そして湖水の最深部が約100メートルぐらいである。海抜、湖面面積、深さ、全てで九寨溝一を誇る。

九寨溝で最も長い海子(湖、池)である長海
長 海
チベット族の衣装を着て記念撮影
逆さまにしたらどう見えるのだろう?だまされる人がいそうだ
長 海
木製歩道が風景にマッチしている

 五彩湖は、海抜2995メートル、面積が5645平方メートル、最深部が6.6メートルと小さな湖で、長海から徒歩ですぐである。ここの売りは、なんと言っても湖水の底にある石が見えるほどの透明感とあくまで透き通った青、クリアブルーである。お楽しみあれ。

五彩池への案内標示
九寨溝の中でも最も鮮やかな五 彩池
五彩池
五彩池
五彩池 にあった『姓名作画』とは?お客の姓名から連想して絵を描いてくれる 。1枚10元、安い

原始森林景区
 長海の観光専用バスの乗換地点からY字の中心に戻り、Y字の西側に向かった。Y字の中心に近い日則景区を飛ばして原始森林景区の終点『芳草海(Grass Lake)』へ一気に移動した。Y字の中心から見ると遠くに位置する原始森林景区から始めて、近くの日則景区を観る作戦である。海抜2910メートルの地点にある3万平方メートルの海子(湖)。芳草海は文字通り草が多く、餌が豊富なのか、小鳥の鳴き声が耳についた。

原始森林景区の芳草海(Grass Lake)
原始森林景区の芳草海
芳草海
芳草海
天鵝海(白鳥の湖)の説明
天鵝海(白鳥の湖)
天鵝海を教えてくれたお助けパーソン達

日則景区
 九寨溝観光に訪れた人々が描くイメージを最も代表する景区である。流れが生み出す青い海子や滝、緑あふれる木々が光を受けて織りなす色彩豊かな景観である。緑あふれる木々は、秋には色づいて異なった様相を見せることであろう。箭竹海(せんちくかい)、パンダ海、五花海など、ストーリィ性を持った景区でもある。
 箭竹海は、海抜2618メートルの地点にある深さ6メートル、広さ17万平方メートルの海子である。ここには大量の箭竹が生い茂ることから、この名前が付けられたのである。『箭竹』と言えば、『パンダ』の好物。お分りですね。『箭竹海瀑布』から流れ込む海子は『パンダ海』である。実際に、以前はこの海子で水を飲む( 箭竹 を食べる)パンダが目撃されたそうだ。

箭竹海瀑布(せんちくかいばくふ)の説明
箭竹海瀑布
ここの箭竹はパンダの好物
パンダ海

 『日則溝景区』で最も人気のある観光地は、孔雀川の最も上流に位置する『五花海』と言っても良いであろう。標高が2472メートル、水深が平均5メートル、総面積が7.68万平方メートルの湖で、沈んでいる倒木などもはっきり見えるほど透明度が高い。マグネシウムや銅などの鉱物を含んだ石灰質が沈殿し、藻が定着していることから、光によって色彩が変わる摩訶不思議な光景を観ることができる。解説書に「九寨溝一絶(九寨溝にしかない)」とあるが、言いえて妙なり。ちょっと気障ですが、『絵画』で言う「太陽光線が当たって色があらわれる」のです。
 遊歩道を20分ほど行くと、「ビューポイント」みたいな小さな展望台があって、湖全体を観ることができる。エメラルドグリーンのグラディーション、思わず口から出た言葉は、「神秘的」という、なぜか英語だった。

海抜2471メートル地点にある深さ5メートルの五花海
最も人気のある場所で、思い思いに楽しんでいる
五花海

中国・四川省 黄龍

西安から黄龍・九寨溝に移動
 西安咸陽国際空港発08時35分、四川九寨黄龍空港着09時55分と定刻通りのフライトである。『四川九寨黄龍空港(しせんきゅうさいこうりゅうくうこう)』の空港名は長すぎるということで、一般には『九寨黄龍空港』、『九黄空港』と略称されている。今日のホテルは、九寨沟にとってある。
 空港から黄龍へは43キロメートル、九寨溝へは88キロメートルの距離である。また、高い山に登る予定なので、高山病対策のために調べておいたのだが、空港の海抜は約3400メートルと高い。私の希望は、理想と言っても良いが、今日中に『九黄空港』→『黄龍』を観光→『九寨溝』へ移動そして宿泊である。それにしても現地の情報が少ないので、着陸後に空港のツァリスト・インフォメーションに相談するか、仲間?を募って、車をハィヤして『黄龍』観光、そして『九寨溝』に移動、…。「何とかなるさ」。
 私は、後述するように、タクシーをシェァして移動したのだが、これから旅行する方のために、空港で得た情報をまとめておきますね。①空港内にバスチケットの売場がある。②黄龍経由九寨溝行きのバスは、運賃100元で、「10時位までに発車」と漠然としている。③直接、九寨溝行きのバスは、運賃45元で、6人程度集まるまで待たされる。④九寨溝に移動・宿泊して黄龍観光をする場合は、九寨溝発7時→黄龍観光→黄龍観光後黄龍発15時前後のバスで九寨溝に戻る。これらのメモが、読者の旅行計画に少しはお役に立つことを希望します。
 私の場合は、新婚夫婦と若い技術者に声をかけられ、トータル4人でタクシー600元をシェアして、空港→黄龍観光→九寨溝のホテルへと、とても効率よくかつ経済的な選択だった。そして、彼ら、彼女らのホスピタリティに、感謝、感激。旅の楽しさを倍増させてくれた。

黄龍観光
 空港から4人でタクシーをシェァして、いきなり黄龍(こうりゅう)、正式には黄龍国家級風景名勝区に来たが、地理的には四川省松潘(しせんしょうしょうはん)の郊外に位置する。松潘は、唐の時代に交易路の中継地として栄えた、城壁に囲まれた伝統ある町だと教えられた。今回は、諦めるしかない。
 さて、黄龍である。全長約7.5キロメートル、幅300メートルの峡谷沿いに広がる中国有数の景勝地である。約600平方メートルの面積に、池と森林が広がる高原湿原であり、金絲猴(きんしこう。別名ゴールデンモンキー)やジャイアントパンダなどの希少動物が生息している。1992年に『九寨溝』とともに『黄龍風景区』として世界自然遺産に登録された。
 特筆すべきは、土木&地質技術の観点から見ても、世界有数の『カルスト地形』であることだ。『カルスト地形』の名称は、地中海に面した旧ユーゴスラビアの北西部、スロベニアやクロアチアの『カルスト地方』の地形に多く見られることから、カルスト地形(ドイツ語で Karst)と呼ばれるようになった。この地形は、一般的には石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水や地下水などによって侵食されてできた地形である。専門的説明は省略するが、ここの地下水は大量の石灰質を含むため、その成分が結晶として土に付着して、気の遠くなるような年月を経て、現在の畔のようになったのである。春になると高山からの雪解け水が流れ込み、天然の『棚田(ライステラス、rice terraces)』ができたというわけだ。
 賢明な読者諸氏は、もう、思い出されたことでしょう。私のブログの中の、『新旅行記・ヨーロッパ』→『スロヴェニアのリュブリャーナ』→『ポストイナ鍾乳洞は迷っても楽しい』でご紹介した、スロヴェニアが誇るヨーロッパ最大級の『ポストイナ鍾乳洞』は、まさにこのカルスト地形の典型なのである。
 日本では山口県秋吉台のカルスト台地が有名である。時期になると贈られてくる「秋芳梨(しゅうほうなし)」を思い出して、よだれを拭く。
 一緒になった若者は、中国のエレクトロニクス関連の会社に勤務する技術者であった。彼は、韓国の世界的に著名なS社に仕事の関係でよく行くそうである。「日本にも行きたいが、我々の仕事で『三国同盟』は難しい。組む相手は一つだ」そうだ。「観光旅行に行きたい。多くの友人が日本に遊びに出かけている」。「ウェルカム」である。この青年によると、「黄龍は、龍が天に向かって舞い上がっていく姿に例えられることから、その名が付けられた」という。そう言われると、長い年数をかけて作られた黄金色の岩肌は、絵画やTVプログラムなどで見る想像上の動物、龍の鱗のように輝いて見える。
 さて、観光開始である。「旅は道ずれ」。撮ったり撮られたり、いつもよりは圧倒的に私が被写体になった写真が多かった。

山頂駅へロープウェイ
 入口付近に『雪山梁』の石碑。雪だるまでした。遠目には何か由緒あるものかと想像したのだが、展示物ではありませんでした。
 高地なので、いきなりロープウェイ(黄龍索道)を使って山頂付近に登る。写真を撮る暇がない、5分間、80元だった。下りは半額の40元だったが、5分間ではせっかくの景色がもったいない。ゆっくりと、だべりながら、歩いた。
 まさに、『黄龍の森』である。天然植物資源の宝庫である。植木の被覆率は、88.9パーセント、森の被覆率は65.8パーセント、区内には高山植物1500と表示されている。高地に咲く花々、果実を食べながら登山者を迎えるリスなど、自然いっぱいの黄龍高原湿原である。

入口から近い雪山梁。雪だるまは展示物ではありません
雪山梁の標示
木道が整備されていて歩きやすい
険しい山
ロープウェイ(黄龍索道)
ロープウェイから写したつづら折りの道
ロープウェイから写した 黄龍の森林
美しい風景を夢中で写している仲間達
厳しい環境に咲く花
観光客を眺めに来たリス 。餌を持ったポーズが決まっている。お礼に近くで拾った実をあげたところ、手渡しで受け取った。周りで歓声があがった
池の景色が見え始めた
標高3553メートルの五彩池まで100 メートル の説明
お寺の上部だけ見えた

五彩池
 黄龍随一の見所と言われる『五彩池』である。総面積21000平方メートルに700にも及ばんとする池が広がっている。池が蓮の花のように連なり、光の変化や角度によって赤、紫、青、黄色、白といった様々な色で彩られ、旅人の歓声を誘う。1997年に娘と一緒に訪ねたトルコのパムッカレを思い出す。
 同伴者たちは、「五彩池は3700メートルの高さにある。大丈夫か?」と気遣ってくれる。めまいも息切れもしないし、「オーケー、サンキュー」と笑顔で返す。所々でこのような健康チェックが入るので、安心して?旅を続けられる。「ありがとう」。

五彩池
五彩池

黄龍寺
 黄龍は、中国古代の皇帝が治水工事を行った際に協力した龍がこの地に住みついたという伝説の地である。黄龍古寺はその龍の化身を祀った寺院だと言われている。そのせいか、この寺院は龍の装飾が多く施されている。『松潘(しょうはん)県志』によると、「黄龍寺は明朝の兵馬使『馬朝観』が修築した」と記載されている。蛇足だが、黄龍は松潘(しょうはん)の郊外である。現在は、黄龍古寺(チベット仏教)と黄龍中寺(道教)を合わせて『黄龍寺』と呼ばれている。
 写真で示した黄龍古寺の山門から10メートルほどの場所に位置する黄龍洞は、『帰真洞』、『仏爺洞』とも呼ばれる。伝説によると、黄龍の神・黄龍真人がここの洞穴(ほらあな)で修行したと言われている。

黄龍古寺の山門
チベット族の女性たち
黄龍古寺内部
黄龍古寺内部
黄龍古寺内部
龍の彫り物が目につく
黄龍祠の説明

争艶池、金沙舗池、洗身洞など
 『争艶池(そうえんち)』は、約650の池が集まって、その美しさを競いあっているように見えることから『争艶池』あるいは『争艶彩池』と呼ばれている。彩池とは、石灰華の段丘に水がたまってできた池のことを言うそうだが、『五彩池』と並んで最大規模の彩池群である。標高3460メートルとあった。
 「文字どおり水面を艶やかに彩る美しい景観」と言われているが、御存知のように、光によって色のトーンが刻々変化する。私が訪ねた時は翡翠のような深い緑色が印象的であった。
 『金沙舗池(きんさほち)』は、長さ1300メートル、幅40~122メートルで、珍しく急勾配になっている。水の中の炭酸ナトリウムも凝結していない。現在、枯渇(こかつ)状態で水流が無いため、黄金色の石灰が沈着した底がむき出しになっているので金沙鋪池と呼ばれている。
 『洗身洞(せんしんどう)』は、海抜約3280メートル、高さ約10メートル、幅約40メートルの石灰岩が沈着した茶色の壁が流れる水を黄金色に輝かせることから『黄金の滝』の別名を持つ。中央に高さ1メートル、長さ1.5メートルの鍾乳洞があり、ここで、仙人が修行したということである。説明書によると、6月から10月が見ごろだということである。

争艶池 。五彩池と並んで最大規模の彩池群である
金沙舗池。現在、水流が無いため、黄金色の石灰が沈着している底がむき出しになっていた
洗身洞。写真撮影時は渇水期だったので、地肌がむきだしになっていた

寂しい別れ
 西安咸陽国際空港発08時35分→四川九寨黄龍空港(九黄空港)着09時55分→新婚夫婦と若い技術者のトータル4人でタクシーをシェア→10時20分頃に黄龍観光開始→ の予定を楽しく過ごして、今は午後3時30分、黄龍旅客センターの出口にいる。仲間に頼りきりであったので、まったく考えていなかったが、これから待たせてあったタクシーで九寨溝のホテルに向かうことになる。若き技術者が見知らぬ男に近づいて、何か話している。戻ってきて笑顔で「OK」。こういうことである。九黄空港からここ黄龍まで送ってくれたタクシー運転手は既に空港に戻り、引継ぎの運転手が違う車で私達を九寨沟まで送ってくれる、という方法であったのだ。ここから空港までの客がいれば、タクシーの遊び時間というか、空車状態は無くなるし、運転手も地域の地理などで得手不得手があるだろうから、ある意味で非常に合理的である。
 この方法は、九寨沟の街でも取られた。黄龍からおおよそ3時間で九寨溝の街に着いた。広場みたい所で停車して、車と運転手が変わったのである。そして一人あたり150元の支払いを求められた。約束通りトータル600元であった。運転手二人の間でお金のやり取りがあったが、私達には関係の無いことである。そして、新しい運転手が私達のホテルを聞いてメモをしている。ここから宿泊ホテルまで近い順に並べると、新婚さん夫婦、若き技術者、私の順番であったが、若き技術者の申し出で、彼が最後に降りることになった。言葉が通じない私と運転手のコミュニケーションに危惧を感じただけではない。今後の私の行動に助言をくれるためであった。
 新婚さん夫婦に丁重にお礼を述べて、次に私の予約したホテルに向かったが、なかなか見つからない。ガイドブックやネット予約にも載っているホテルなのだが、気の短い運転手はいらいらしている。5分ほどかかって、やっとホテルが見つかった。若き技術者は、私の荷物を持ってくれて、大事なものの確認をして、チェックインである。ここで時間がかかった、というか、かけた。「彼は、中国語ができない」、「2泊で、明日は『九寨溝国家級風景名勝区』に日帰りで出かける」、「明後日は朝一番のバスで『成都』に向かう」。「『九寨溝口旅游バスセンター』の場所や切符の買い方を教えてやってくれ」などとスタッフに中国語で話し、同時に、私に英語で同時通訳してくれた。途中、タクシー運転手がしびれを切らして、フロントに来て、怒っていた。
 激動の、そして最上級の1日であった。「ありがとう、皆さん。皆さんも、ボン、ボワィヤージュ」。「心の底から、ありがとう」。

黄龍旅客センター出口
標高3700メートル を超える高山の気圧でペットボトルがへこんでいた。一瞬、物理の公式を思い出そうとしたが、睡魔に負けた

中国・河西回廊~西安再び~

天水から西安へ
 天水で『麦積山石窟』などを見学し、ここ西安に移動した。5月13日に西安に入って、6月1日に戻ってきたということは、15日間ほど、いわゆる『河西回廊』を巡ってきたわけである。仕事ではないのだから、前回、回りきれなかった所を回るという手法は取らない。行きたい所に向かうのである。今日と明日、西安をぶらぶらし、明日の夕方に『西安威陽国際空港』近くの、いわゆるトランジットホテルみたい所に宿泊、明後日朝早くシャトルバスで空港に送ってもらって、『四川九寨黄龍空港(しせんきゅうさいこうりゅうくうこう)』に飛ぶ。
 いずれにしても、今回の『中国・河西回廊の旅』は、「西安から始まって西安で終わる」シリーズなので、『黄龍』、『九寨溝』そして『成都』へと続く旅は、別稿としたい。お許し下さい。

玄宗と楊貴妃・再び
 「何々を見たい」という希望から、「何々を見なきゃ」というある種の強迫観念にとらわれて旅をしている若者に出会うことがある。昔の若かりし頃の私もそうであったかもしれない。ところが、この年になると、そのバイタリティはもう無く、淡々と歩むようになる。「年だな、お前」と言われるかも知れないが、「脅迫の旅から解放される旅は、一人旅の中でも王道中の王道である」と思うようになる。ただ共通するのは、双方とも以前に訪れた所を再訪すると、「懐かしい」と思う心である。人と会ってお互いに懐かしむのも同じ心境であろう。
 西安駅は、初めて西安に来た時に最初に訪ねた場所であり、観光客を誘うおばさん、人々の雑踏、飛び交う色々な言語、…、「懐かしい」。引き込まれるように駅に入り、広い構内をうろうろ。駅をくぐった北側には、『大明宮国家遺址公園』がある。とてつもなく広い公園である。「こんな所を歩くのは大変だ」とばかりに、行先も確認せずにバスに飛び乗った。バスが一度角を曲がっただけで、方向音痴の私は、もう方向が分からなくなっている。20分くらい経っただろうか、水をたたえた緑の豊かな公園が見える。「よし、降りてみよう」。
 なんと幸運なことだろう。唐代三大宮殿のひとつである興慶宮(こうけいきゅう)の跡地に、造られた約50万平方メートルの『興慶宮公園』だったのだ。現在は、市民の憩いの場となっているが、元々は唐の長安城の隆慶坊の一部で、玄宗皇帝が皇太子の時に住んでいた所だという。「玄宗皇帝と言えば、そう、楊貴妃です」。覚えていらっしゃいますか?私は、5月16日に玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』を訪ねています。その二人が遊んだ『沈香亭』がここに再建されているのである。沈香という香木で作り、周りには楊貴妃が様々な牡丹、芍薬を植え、愛でたという。
 玄宗と楊貴妃は、詩人の李白を参内させて、満開の牡丹を詩に詠ませたこともある。その一首をご紹介したい。

「名花傾国両相歓 長得君王帯笑看 
 解釋春風無限恨 沈香亭北倚欄干」

(名花傾国両つながら相歓ぶ 常に君王の笑いを見るを得たり
 春風無限の憎みを解釈し 沈香亭の北欄干に倚る)

「名花と傾国(美女)を…」、下手な解釈、コメントは止めた方が良い。

 もう一つ、詩(歌)を。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」

 教科書にも載っている『阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)』の詩である。御存知のように、716年に遣唐使に選ばれた仲麻呂(696~770年)は、翌年に唐に渡る。科挙にも合格し、玄宗皇帝に可愛がられて政府の要職を歴任する。帰国しようとしたが、台風のために南海に漂流、再び長安(西安)に戻る。そして、結局、仲麻呂は中国で53年間暮らし、逝去した。
 公園には、1979年に入唐1200年を記念して建てられた阿倍仲麻呂の記念碑が建っているのである。その脇に上に掲げた歌が刻まれているのである。ところがである。1時間も駆け巡っても、公園の東南にあると教えられた阿倍仲麻呂記念碑は見つけることができなかった。いつものことである。

唐代三大宮殿のひとつである興慶宮跡地に建てられた興慶宮公園の入口
興慶宮公園
興慶宮公園
玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ沈香亭

西安駅・再び
 今日、最初に訪れた西安駅に戻る。手軽な格好で街をふらついているせいか、荷物を持っている人々を見ると、なんとなく「あの人は旅行客だな」と分かる。駅をくぐった北側にある広大な『大明宮国家遺址公園』に再度、向かう。
 唐代の大明宮は、太宗の李世民が634年(太宗貞観8年)に父親の夏の宮殿を建てたのが初めで、永安宮と名付け、翌年、大明宮と改名した。唐代歴代の皇帝21人中17人がここに住み、国務処理を行った。
 さて、移動である。簡単な市内地図を見ながら「この近くのバス停から飛び乗ってたどり着いたのが南東方向にある『興慶宮公園』だったのだから、…、反対方向に向かうバスに乗って行けば北西に位置する『広仁寺(こうじんじ)』に行ける」と、ぶつぶつ言いながら考えているうちにバスが来た。西安城壁の外の『環状北路』を西に向かい、『環状西路』で左折して南に向かった所で降りればOKだ。その通りだったのだが、南に向かった所の『広仁寺』をちょっと乗り越して『玉祥門』で降車した。どっちみち訪ねる予定の所なので「まぁ、いいか」。私でも来れたのですから、皆さんは大丈夫です。細かくは、「西安城壁の西側の北馬道巷にある玉祥門」です。ここから北へ向かえば『広仁寺』、南に向かえば『安定門(西門)』があります。とりあえず、玉祥門をパチリ。

大明宮国家遺址公園
西安城壁の西側の北馬道巷にある玉祥門

広仁寺
 西安城壁(西安城檣)の西北の隅に『西安城檣』と書かれた小さな建物を見つけた。心配ない、間違いなく、広仁寺、俗称、喇嘛寺(らまでら)に向かっている。数分歩くと、チベット仏教の象徴でもある空に舞う五色のタルチョ(祈祷旗)が見えてきた。黄・緑・赤・白・青の五色で、物質の5元素を表している。その意味は、黄(地)・緑(水)・赤(火)・白(風)・青(空)である。チベット仏教独特の祈りの旗で、経文が書かれており、タルチョ(祈祷旗)が一回風になびけば一回読経したことになると、お坊さんに教えられた。
 清の康熙44年(1705年)に、皇帝であった康熙帝によって建てられ、300年以上の歴史を持つ。寺院内には、装飾が美しい白い仏塔、福を祈る郵便局、仏像等々、見応え十分である。

『西安城檣』とかかれていた。『西安城壁』のことである。
陜西省で唯一のチベット仏教寺院
装飾が美しい白い仏塔
福を祈る郵便局なんてすばらしい
宗派はチベット仏教最大宗派のゲルク派(黄帽派)だと教えられた
寺院内部
関公

西安最終日
「実質、西安最終日になる今日は何をすべきか」などという考えは微塵も浮かばない。明日の朝出発のフライト時間が早いので、今日は、ホテルに荷物を預ける→足の向くまま気の向くまま→夕方、荷物を受け取って空港へ→フライトの状況を確認→予約してあるホテルのシャトルバスでホテルへ→? 
 朝10時過ぎに近くの散歩から始まる。『西安革命公園』とあった。『八路軍西安事務所記念館』が近くにあることは知っていたが、『西安革命公園』なるものは知らなかった。人の集まる所、食の提供あり。ここに、私の大好きな、勝手に名付けた『中国風ビュッフェ?』があったのだ。最初に西安に来て訪れた『陝西歴史博物館』の目の前にあった屋台式弁当屋さんを思い出した。以前のブログで書いたので、さぼって再掲する。
 「10種類を超える具材から好きなものを選んでトレイにとり、簡単な椅子に座って食べる方法である。無理にこじつけると、メインテーブルや棚に並べられた料理を各自が好きなように取り分けて食べる『ビュッフェ(フランス語でbuffet)』に似ているところがある。ビュッフェが立食形式なのに対して、簡単ではあるが椅子がついているので、より進化しているとも言える」。
 幸いなことに、今日は珍しく朝食を食べていない。『神のお告げ』である。私の言う「神のお告げ」とは、このブログ『方向音痴の旅日記』で何度か使っているが、例えば、『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』を見ていただけると幸いです。「そんなの面倒だ」と言われそうなので、ここでも再掲しますね。
 「神のお告げ;車のエンジンがかからない。「うっ、あれ?」。ポケットに手をやる。ポケットにキィが入っていなかったのだ。家に戻ってキィをとってきて、「改めてエンジンをかける」、にはならない。私の場合は、『神のお告げ』になるのである。例を挙げて説明しましょう。何かを忘れる→忘れ物を取りに行く→最初の忘れ物ではない財布がそこにある→なのである。神様は、「家に戻るにはそれなりの他の理由がある」と教えてくれたのである。人生の生き方の参考にしてください。余計なことですが」。
 『西安・再び』が『ブログ・再掲』になってしまった。腹もふくれたし、公園を散歩しよう。大学入試にも出てくる『張学良(ちょうがくりょう』とともに西安事件を主導した『楊虎城』(よう こじょう)の像もある。 数百メートルも歩いただろうか、西安人民体育場が見えてくる。多目的スタジアムである。
 西五路を西へ1キロメートルほど歩くと、北大街にぶつかる。目的は、この交差点にある地下鉄2号線の『北大街駅』である。何故か、地下鉄に乗りたくなったのだ。何故か分からない。ここから南へ一駅で『鐘楼駅』である。

西安革命公園
楊 虎城(よう こじょう)の像
革命亭
西安人民体育場。多目的スタジアムである。

鐘楼・再び
 『北大街駅』から地下鉄2号線で一駅、『鐘楼駅』である。「何故、地下鉄か?」。答は地下鉄2号線『鐘楼駅』であった。私は、『鐘楼』と近くにある『鼓楼』の外観を見ただけで、中に入っていなかったのだ。「中に歴史と文化の宝がある。見逃すな」と呼んでいたのだった。そして、もっと驚いたことがある。実は、すっかり忘れていたが、前回ここへは、地下鉄で移動していたのである。まさに、「神のお告げ」だ。

前回はこう書いたのだった。「鐘楼と鼓楼 小雁塔近くの地下鉄駅『南稍門』乗車→『永寧門』駅→『鐘楼』駅降車、まさに暴力的にあっさりと市内の交通の中心部に建つ『鐘楼』が目の前である」と。

 大先輩から、こう言われそうだ。「記憶力の低下とはそんなもんじゃない。前に書いたと思い出すうちは、まだまだ、序の口だ」と。
 さて、鐘楼である。高さ36メートル、楼閣は『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建てである。継ぎ目のない一本柱様式の木造建築である。1384年(明の洪武17年)創建、1582年(明の万歴10年)にここに移された。東大街、西大街、南大街、北大街、つまり東西南北の大通りが交差する場所に建つ鐘楼から撮った写真を掲載するのでお楽しみください。

鐘楼。高さ36メートル、『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建
銅鏡の展示
鏡を使う美女
鐘楼から四方を眺める
鐘楼から四方を眺める
鐘楼から四方を眺める
簡便カメラではボカシが難しいので、工夫して撮った1枚です

鼓楼・再び
 鼓楼が建てられたのは鐘楼の創建よりも4年早い1380年(明の洪武13年)である。大太鼓が吊るされていて、かつては太鼓をたたいて時刻を知らせていたという。楼閣の周囲は鐘鼓楼広場になっていて、市民の憩いの場となっている。
 鼓楼内の展示物で私がとくに興味を持ったのは、各種の『鼓』の展示である。夜警の太鼓、石鼓八角鼓、青銅鼓、石鼓、陶鼓、等々である。周りにいた人も言っていたが、「叩いてみたい」。音響関連の測定器を持ち込んで、周波数分析をしてみたい。新しい音楽が生まれるかもしれない。
 『清朝の家具の展示』も人気を集めていた。高級感があり、気品がある家具を久々に見ることができた。『特製の置物』もユーモアがあって、大声で笑ってしまった。「周りの皆さん、ごめんなさい」。『獅子の置物』、『鼠の置物』をお見せしますので、これまたお楽しみください。
 最後に、鼓楼から撮った美しい景色を追加しました。

鐘楼から写した鼓楼
鼓楼の入口
鼓楼にある『夜警の太鼓』。唐の時代には2時間おきに叩いて、人々に時間を知らせていた
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている石鼓八角鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている青銅鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている石鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている陶鼓
鼓楼内にある清朝の家具の展示 。右にある置物はなんだろう?
鼓楼内にある清朝の家具の展示
特製の獅子の置物
特製の鼠の置物
鼓楼から見えた美しい景色

回坊風情街
 鼓楼からの景色に満足して、近くの回族の食堂が集まる回坊風情街や骨董品は並ぶ化覚巷をぶらぶらする。とくに回族の回民街の中心である北院門の近くは縁日のように人であふれかえっている。近くにある清真大寺の名前から分かるように、回教(イスラム教)の寺院は『清真寺』の名前が付けられている。そして、イスラム教徒が経営しているレストランの前には、”清真”と書いてあることが多いのだが、これはイスラム教の教えに則って処理した料理のことを意味する。色々なバリエーションがあるが、共通点としては、豚肉や一部の魚を使わない、酒で味の下ごしらえをしないなど、ハラールが遵守されている料理を指す。御存知のように、イスラムの教えで『ハラール(ハラル)』とは、『許されている』という意味ですあり、他方、『ハラム』とは『禁じられている』という意味である。イスラム教徒ではない私には、その具体的な違いが正確には分からないのであるが、ここまでシルクロードと称される地域を旅行してきた私には、やはり新疆ウイグル自治区のウイグル料理が最も印象に残っている。「口に合う」のである。
 人気のエリアである鼓楼から近い通りは、地元民の生活必需品や食料品を売るイスラム人街というよりも、観光客向けのB級グルメ屋台街の雰囲気が漂う。よく分からなかったのは、北院門の前で記念撮影していたイスラム教徒の女性達である。うろ覚えで軽々に論じられないが、『偶像禁止』の社会で、写真は良いのであろうか?テヘラン在住のイラン人の友人は、「絶対に女性にカメラを向けるな」と教えてくれたが、彼女らが自分達で撮り合う場合は問題が無いのであろうか?もちろん、イスラム教と言っても、国や宗派で異なることにも留意する必要がある。
 テヘランの友人を登場させたので、彼が教えてくれたイスラム教徒の『五行』と呼ばれる信仰行為について列記する。

1.信仰告白(シャハーダ)アッラーを唯一の神として信仰すること
2.礼拝(サラート)一日5回お祈りをすること
3.喜捨(ザカート)貧しい者に施しをすること
4.断食(サウム)ラマダン月の日中の飲食をしないこと
5.巡礼(ハッジ)聖地メッカに巡礼をすること

西安の回民街・北院門

清真西寺・再び
 イスラム教の話になったので急に思い出したのではない。「もし、時間の都合がついたら再度訪れたい」と決めていた『清真西寺』にいる。さっきまでいた化覚巷にある西安最大のイスラム寺院『清真大寺』ではなく、『清真西寺』である。覚えていらっしゃいますか?このブログの『中国・河西回廊~西安~』で記した、西安の市内観光初日のすったもんだ『清真大寺後日談』に登場した『清真西寺』である。パンを貰った『清真西寺』である。何故か、忍び足で入って行ったので、「怪しい奴」と思われたかもしれない。「あった」。普通は「いた」と言いますよね、人の場合は。あったのです。私が貰ったパンが入っていた『かご』があったのです。私にパンをくれたおじさんはいなかったのですが、いきさつを話して、皆さんと笑顔で握手を交わしました。ちょっと、…、ぐっと来て、西安最後の日にふさわしい、温かく、優しく、和やかな時間をおくれました。「本当に、本当に、ありがとうございました」。帰り際に、「ちょっと待て、忘れものだ」。みんなで大笑い。パン二つが私のバッグに入った。「Thank you very much, again」。

イスラム寺院の清真西寺
清真西寺入口
このかごに入っていたパンを2つ貰った