中国・河西回廊~天水~

スケジュールの変更
 2005年に新疆ウィグル地区に広がる『シルクロード・天山北路』、すなわち、大きく括ると『ウルムチ』→『トルファン』→『クチャ』→『カシュガル』を旅し、その後、2015年に『河西回廊』と呼ばれるエリア、すなわち、『西安』→『蘭州』→『武威』→『張掖』→『酒泉』→『嘉峪関』→『敦煌』の旅の印象をまとめて、『河西回廊旅日記』を上梓した。『シルクロード』と称される地域をサーフェィス(鉄道・バス)で旅した印象は、「また訪れたい」であった。魅力の理由は、歴史、観光資源、そして人々である。
 日本出国前の大まかな旅行計画では、この後、『敦煌』から『西安』に飛び、『西安』でトランジットで『九黄空港』に飛び、『黄龍』に移動して『黄龍観光』→『九寨溝』に移動して『九寨溝観光』→『成都』に移動→『約10日間、成都およびその周辺を観光』→『帰国』の予定であったが、途中でお会いした皆さんのアドバイスやご助力により、スケジュールの一部を変更した。具体的には、『敦煌から西安に飛び、トランジットで九黄空港に飛ぶ』のを、『敦煌から天水に列車で移動し、天水および周辺を観光した後、西安に列車で移動して、西安を再度観光』→『西安』から『九黄空港』に飛び→『黄龍観光&九寨溝観光』→『成都に移動して成都および周辺観光』→『帰国』に変更した。要するに、旅行日程に『天水』を加えたのである。

朝早く着きすぎた
 敦煌駅に来るのは、2度目だ。3枚しか残っていない5月30日の敦煌-天水間の乗車券を買うために、背水の陣で来た所である。今日は余裕である。カップラーメン、パン、フルーツ、飲み物、そしてここの駅前でじいちゃん、ばあちゃんが売っているドライフルーツなどの用意はできた。
 敦煌駅 09時30分発(快速寝台列車K592次)→ 走行:1809キロメートル、乗車時間23時間57分、列車座席:二等席、新空調硬臥上段で、料金は377元であった。ところで、自分の簡単な旅行メモを見て、「1日いっぱい乗車、9時半に着く」と勝手に思い込んでいた。約24時間乗車するのは、西安まで行く場合であった。私が行く天水の到着時間は、04時26分であった。
 約17日前に、西安を出発して敦煌まで旅した河西回廊のルートを逆に移動するのが今回の移動である。乗り物好きなので車窓に登場する景色や車内販売の数々も楽しいが、経験した色々な景色、文化、そして一番印象の残る人々との想い出が目くるめくように思い出され、そばにあるグラスも忙しい。
 2015年5月31日、日曜日、朝4時20分頃に車掌に起こされた。天水にほぼ定刻に到着である。まだ、周りは暗く、どこに行くにしても早すぎる時間である。駅構内に用意されている椅子に横たわる人々は警備人に注意されて席を立つか、移動するように指導されている。どうやら、乗車券を持っていなければ利用できないらしい。私も何か言われたが、とっさに「ジャパニーズ」と言ったところ、「横になっても良い」と言われた。「どういう基準なのか、あるいはどこでどう間違ったのか、そんなことはどうでも良い、有難い」と勝手に思うくらい眠かった。ちょっと行儀が悪いかな?
 実は、天水に着いた時に駅前にあるそれ相応のホテルと掛け合い、「5時以降であれば、今日チェックインして、明日以降チェックアウトしても、1日分の宿泊代で良い」と確約を貰ってあったのだ。つまり、今日5時にチェックイン、シャワー、ベッドで仮眠後、すっきりして観光に出かけられるわけだ。今日宿泊、明日1泊分の支払い後、ホテルに荷物を預けて観光し、荷物を受け取って西安に向かうことができる。フロントのお姉さん、私の顔をじっと見て、この決断をしたのだが、まさか、私だけのスペシャル・サービスでは無いだろうな?「寝ぼけるな」。

立派な敦煌駅
全長1000キロメートルを超え、最高峰は6500メートルで、標高4000メートル以上の雪山が連なる祁連山脈(きれんさんみゃく)
早朝、天水駅に到着

天 水
 『天水』とは、高貴にして立派な名前である。ガイドブックなどによると、あくまで伝説であるが、この地の南側に赤い光と同時に雷雨が起こり、大地に入った亀裂に天の河から水が流れ込み湖ができあがった。以来、湖は水位が変わらなかったことから、天の河がこの地に水を注いでいるという『天河注水』の伝説が生まれ、『天水井』と名付けられた。前漢の武帝の元鼎(げんてい)3年(紀元前114年)のことである。その後、武帝は湖畔に城を築き、『天水郡』とした。伝説と笑うなかれ。実際に天水には湧水の泉が多く、味もなかなかのもので、特産物として売られている。女性にはとくににお勧めです。肌に良いそうですよ。但し、長期間の使用が前提です。『フロントのお助けお姉さん』が証明してくれています。

麦積山石窟へ向かう
 朝8時頃に起きてシャワー、朝食、留守宅の娘に「元気だよー」のメール。携帯電話は持ったことはないが、旅行の時だけ孫のタブレット(この言葉が出てくるまで5分間もかかった)を借りてきているので、Wi-Fiを通して家族と状況を伝えあうようにしている。皆元気なようで、安心だ。
 さて、ここに宿泊するに至った『フロントのお助けお姉さん』、流暢な英語で「おはようございます。今日は『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』ですね。そこの駅前から34路のバスで料金は5元です。普通は『麦積山』まで50分くらいで着きますが、今日は日曜日ですので、もう少しかかるかもしれません」。完璧である。そして、ボトルに入った水を「for you」と言って私にくれた with smile。おいしかった。天水の水はおいしい。伝説ではない。私も「ありがとうございます」with 笑顔。
 気持ち良く、天水の東南45㎞の山中にある麦積山石窟へ向かう。麦積山石窟は、渋滞も混雑もなく、1時間弱で到着した。この入口から石窟まで3キロメートルほどであるが、電気自動車による移動も可能である。若い人達は歩いて向かっていた。

麦積山石窟の説明
麦積山入口
麦積山石窟までの電気自動車車内

麦積山石窟
 麦積山石窟は、歴史的には五胡十六国の一つである後秦の時代(西暦384~417年)に創建された。岩壁や断崖をくり抜いて仏像を安置するための場所、つまり石窟は194が現存するが(東崖54窟、西崖140窟)、7000体を超える塑像や石刻像、1300平方メートルにおよぶ壁画も残存している。内部の仏像はそのほとんどが塑像であるが、その理由は岩石の石質が礫岩層で比較的脆く、彫刻には適さないためだと言われている。また、石窟の多くは唐代以前に開かれたものである。
 さて、『麦積山石窟』は、『莫高窟』、『雲崗石窟』、『龍門石窟』に次ぐ中国四大石窟の一つで、2014年には『シルクロード:長安―天山(てんざん)回廊の交易路網』の構成資産として、世界文化遺産に登録されている。料金表を見ると入場料は70元であるが、60歳以上は身分証を見せると半額である。
 私が入場する時に英語で聞いたのであるが、入口のおじさんは言葉が分からず、私の後ろにいたイギリス人が日本語で教えてくれた。『麦積山』とは、農家が刈り取った麦の穂を乾燥するために積み上げた形が、この山に似ていたことから命名されたそうだ。 イギリス人 に「シェイシェイ」。

石窟の入口から石窟を写す
現存する194の石窟に7000体を超える塑像や石刻蔵、壁画が残されている 。中央に見える階段を歩いて見学する
麦積山の巨大な三尊像のレリーフのうちの2つ
石窟までの参道風景
石窟までの参道風景
ポーズをとるラクダ

伏羲廟
 中国では、伏義(ふくぎ、ふっき)、女媧(じょか)、神農(しんのう)を三皇と称して、最初の皇帝であり、民族の祖先として祀られている。その筆頭が伏義であり、天水に生まれたとされている。伏羲を祀る伏羲廟は1490年(明の弘治3年)に創建され、1524年(明の嘉靖3年)に修復された廟である。どの国においても、古い時代には『占い師』や『預言者』が国家の将来を占い、あるいは直接、指導者となる例は、枚挙に暇がない。この伏羲も『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていたと言われている。「当たるも八卦、当たらぬも…」の八卦である。
 私事であるが、小学校に入学する頃の年齢だったと記憶しているが、私が育った家から一里(約4キロメートル)ほど離れた場所に『八掛さん』と言われるご老人一族が住んでいらっしゃった。『八掛さん』と書いたが、『はっきょけ』と言っていたような気がする。一種の方言みたいものである。「しゃっぽをかぶれ」と祖母に言われた「しゃっぽ」が、フランス語シャポー(chapeau帽子)の鈍ったのと同じようなものだ。意識的に、「一里」と表現したが、私にとってはとても郷愁を覚える寒村である。私の祖母が月に一度このご老人を訪ねて、色々なことを占ってもらっていた。年なので、まさかの時のために、私が一緒についていくのである。「9のつく日は、…」など、驚くほどよく当たって、今でも、不思議に思うことがある。長じて、そのご老人が住んでいらっしゃった近くに、「温泉が出る」と彼が占い、本当に温泉が出たことを知った。今は、経営上の理由であろうか、すぐ近くに新しい温泉ができて、古いそれは無くなってしまったが、帰郷し、旧『M温泉』の近くを通る度に思い出すことがある。「占いによって発見された」旨が書かれた書が、額に入れて飾られていたのである。これ、本当の話である。

中国の三皇のひとり伏義を祭る祠廟の入口
顔を入れて中を覗く人もいる
柏の古木
伏義廟の中にある天水市博物館
博物館の展示物
陶製の「舞う馬」(唐)

南郭寺
 南廓寺(なんかくじ) は、1000年を超える古刹で、その美しさは唐の詩人である杜甫が天水(秦州)に滞在した折に「山頭南郭寺、水号北流泉…」と詩を詠んでいることでも有名であり、境内には杜甫を祀った詩史堂が建っている。文献によると、759年(唐の乾元2年)、陝西(せんせい)一帯で大飢饉が発生したため、杜甫は7月に官を辞して、家族全員で定住地を捜して秦州に寓居した。この時、杜甫48歳。しかし、安住の地とはならず、12月には成都に逃れたと言われている。自身の不遇と乱世を悲しみ、秦州雑詩二十首を作詩した。その一首で南廓寺を題材にした詩を掲げる。

  山頭南郭寺,水號北流泉。老樹空庭得,清渠一邑傳。
  秋花危石底,晩景臥鐘邊。俯仰悲身世,溪風為颯然。
 (山頭の南郭寺 水は北流泉と号す 老樹 空庭に得 清渠 一邑に伝う
  秋花 危石の底 晩景 臥鐘の辺 俛仰して身世を悲しめば 溪風も為
  に颯然たり)

 南廓寺の変遷をもう少し続けたい。宋の時代には『妙勝院』とも称し、清代には乾隆帝(1711~1799年)より『護国禅林院』の名を下賜される。現存する建築物は、順治帝(1638~1661年)、乾隆帝(1711~1799年)、光緒帝(1871~1908年)年間の建物である。

杜甫ゆかりの古刹・南郭寺。唐代中期の詩人杜甫の詩に詠まれたことで有名
境内側からパチリ
美しい天井( 南郭寺

中国・河西回廊~敦煌~

敦煌(沙州)
 『西安』から西へ西へと向かってきた『河西回廊の旅』も、いよいよ終点の『敦煌』である。つい先日訪れた『酒泉市』の中にある県級市であるが、人口13万人と少ない町にも関わらず、その知名度は世界級と言って良いであろう。その理由は、ひとえに、古くは沙州と呼ばれていた歴史であり、『莫高窟』をはじめとするその観光資源に依るところが大きいと言えよう。
 嘉峪関のバスターミナルから朝9時発のバスに乗って、384キロメートルを約5時間で敦煌に着いた。高速道路が整備され、バスも最新型の車が導入されているせいか、快適な時間を過ごすことができた。私のように乗り物が好きな者は別として、5時間の乗車時間を長く感じる人達も、砂漠の風景が連続する単調な景色であったにもかかわらず、緊張感をもって車窓からの景色を楽しみ、熱心にガイドブックなどを読んでいた。『敦煌』に対する夢か、期待か?私はと言えば、ガイドブックではなく、ウィスキーの小瓶が横にあった。
 ホテルは、友人から勧められたユースホステルを予約してある。①宿泊者は若者(大学生)が圧倒的に多いこと、②一般的に、彼らは英語が堪能であること、③敦煌のような歴史的都市を訪ねる若い連中は歴史に対する造詣が深いこと、④ドミトリーだけではなく、バス&トイレ付きのシングル・ルームやダブル・ルームもあること、等が理由である。楽しみだ。チェックインの時、いきなり英語で話しかけられて、ニンマリ。
 受付の娘さん(実は新婚さん)は、オーナーの娘だったのだが、まさに百戦錬磨の『コンシェルジュ(コンシェルジェ)』のようであった。それなりのホテルの接客係の、あの『concierge』である。若者の質問や要望に応じて、てきぱきと仕事をこなしている。チップ無しである。私も、随分、お世話になった。

嘉峪関バスターミナル の時刻表
長城 の概略
トールゲイト(黒山湖)
高速道路の補修中
敦煌のトールゲートが近づく
トールゲート(敦煌)

早速お世話になった
 私のこの拙文を継続して読んでくださった皆さんは、あるいは覚えていらっしゃるかもしれませんが。再掲させてください。このブログ&ホームページの『新旅行記・アジア』-『中国・河西回廊~蘭州~』で、とてもお世話になった方々のことを感謝を込めて記しました。その中で、「敦煌に6日間滞在よりも、縮小して、その分、天水(天水)で『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』を見学したらどうか」との貴重なアドバイスをいただいた。
 このことを『お助けコンシェルジュ』に話したところ、自分のホテルへの私の宿泊数が減るのにもかかわらず、気持ち良く対応してくれた。窓口には彼女一人しかいないので、宿泊している若者に「30分で戻るから、君、店番?をしてくれ」、というようなことを言って、私のためにわざわざ近くの列車チケット販売所に同行してくれたのである。彼女がチケット売り場の人と掛け合って、敦煌駅と電話でやり取りをしてくれて、時間がかかったが、結論がでた。「4日後に敦煌から天水まで行く切符は3枚しか残っていない。ここの売り場では予約はできない。今すぐ敦煌駅まで行って切符を買いなさい、急げ」。私の西安で買い求めた切符も敦煌駅で払い戻されたのである。「背水の陣だった」と、思わずつぶやいた。

郊外ツァーのスタートは西路線コース
 今日は朝から忙しい。『お助けコンシェルジュ』の適切なアドバイスによって訪問地が分散している『西千仏洞(にしせんぶつどう)』、『陽関(ようかん)』、『玉門関(ぎょくもんかん)』、『ヤルダン国家地質公園』を巡る『西路線コースツァー』に参加する。四か所を適当な時間で巡る方法で、旗を振りながらの引率&説明員ガイドはいない。合理的でかつ安い。
 最初は、敦煌の中心部から西南へ約35キロメートルの位置にある『西千仏洞』である。敦煌の母なる河、党河(とうが)に面した崖の上にある石窟である。名前の由来は、莫高窟(ばっこうくつ))の西にあることから『西千仏洞』と呼ばれるようになったという。北魏や唐の壁画が狭い空間に残っているが、多くは破損していたり、整理中だったので、ゆっくり鑑賞できなかった。

西千仏洞
西千仏洞。莫高窟の西にあることからこう呼ばれる
一部撮影

陽 関
 『西千仏洞』からさらに西へ20~30キロメートルの『陽関』に向かう。敦煌の中心部からだと南西へ約70キロメートルの位置にある。バスの中で隣に座ったとびっきりの美しいお嬢さんが、見事な『英語』で色々と教えてくれる。中国のこと、敦煌のこと、等々。ところが、彼女の話す言葉が途中から分からなくなってしまったのだ。私は「えっ」と聞き返した。「そう、私はボーっとしていました。とびっきりの美しいお嬢さんが話す言語が、途中からは『日本語』でした」。てっきり英語で話すものと先入観を持って聞いていた私のボーンヘッド(bonehead)でした。このお嬢さん、日本語を勉強している大学生で、美人でそして所作が美しい、私の世代が憧れる『美しい』女性なのである。『砂漠の風景に佇む美しい女性』私の持つコンパクト・デジカメじゃ、役不足だ。一眼レフを持ってこなかったことを、ここでも、…、残念。
 さて、『陽関』である。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で建設した関所の1つで、 敦煌の急激な発展にともない、従来の玉門関だけでは対応できなくなったために新たに設けられたものと言われている。そして、 その位置が玉門関より南にあるので、 南を意味する『陽』の字を使って 『陽関』と名付けられた。 また、 玉門関と併せて『二関』と呼ばれている。
 よく引用される唐の詩人王維の詩は、この地の関所跡ではないかと言われている。
「西出陽関無故人(西のかた 陽関を出ずれば故人無からん)」

 現在、我々が目にするのは、荒涼とした砂漠で、丘陵の上に残っている烽火台(のろしだい、ほうかだい)の姿だけである。漢代に作られたものと言われている。一種の寂寥感を感じるのは、思い入れのせいか。 

陽関景区
陽関は、唐の詩人王維の詩に『西、陽関を出ずれば故人無からん』と詠われた古代の重要な関所跡と言われている
陽関博物館
漢の時代に、西域への道を切り開いた勇者、張騫
重厚そのもの
関所の向こうに超小さく見えるのは、漢の代に西域への道を切り開いた勇者、張騫
現在では陽関烽燧(烽火台)が高台の上に朽ちた姿で残っているのみである
烽火台 の拡大写真

玉門関
 『陽関』とともに『二関』を構成する古代の関所跡『玉門関』に移動する。『陽関』と『玉門関』は、ほぼ一本の道でつながっているが、位置的には敦煌の西約80キロメートルである。漢代に時代を戻せば、その国家権力が及ぶ西端の国境線である。この『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』にしばしば出てくるが、漢の時代に『汗血馬』を求めて攻め入る西域とは、この玉門関より西側の地域を言う。
 書物に出てくるほど良く知られている話を紹介したい。漢の将軍、李広利(りこうり)が西域における戦いに負けて玉門関に戻ってきた時、武帝は玉門関を閉じて彼らを入れさせなかったという史話である。この時代、将軍や兵士の命をかけるほど、汗血馬の確保は重要だったのである。
 玉門関は、現在、小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれ、約25メートル四方、約10メートル高さの城壁が残っている。また、「『二関』、すなわち『陽関』と『玉門関』の間は、長城で結ばれていた」と言われ、『漢長城遺址』の石碑がある。「ゴビ灘砂漠の中に黄色い土で固められた長方形の土塊があるだけ」と言っては、元も子もない。静かに瞼を閉じ、遠い、遠い昔を偲びましょう。

現在の玉門間は小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれている
玉門関は陽関と並び称される古代の関所跡。漢の時代は国家権力が及ぶ西端だった
麻布(あさぬの)などがここから出土された
漢長城遺址の標示
このフォルム、何に見えますか

ヤルダン国家地質公園
 玉門関からさらに西へ85キロメートルに位置する『ヤルダン国家地質公園』は、私の専門である土木工学の観点からも、力が入る。美女は、依然として私の左側の座席に座って、流暢な日本語で「みかんの皮はむきますか?」。「土木工学の観点からも、力が入る」は、真っ赤な嘘である。
 でも、少しは説明しなくては。ヤルダン地形とは、風、雨などによって地表面の柔らかい部分が風化し、堅い岩部分が残る地形のことを言う。結果的に、東西25キロメートル、南北2キロメートルの砂漠の中に、色々な形の岩が点在して、奇景を構成している。悪魔が住む城、通称、『魔鬼城(まきじょう)』は、『張芸謀(チャン・イーモウ)』監督の映画『英雄(HERO)』のロケ地として、有名になったことは、ご存知の方も多いでしょう。そのいくつかをお見せしましょう。ご自由に名前を付けてください。
 但し、美女とのツーショットは見せない。

ヤルダン国家地質公園の紹介
ライオンがお迎えします
アップ画像
獅身人面
クジャク?
西海船隊

莫高窟への行き方
 莫高窟は、敦煌の東南約25キロメートルに位置する鳴沙山東麓の岩壁に掘られており、『敦煌石窟』、『砂漠の中の大画廊』、『オアシスの中の仏教美術館』などと色々な名前が付けられている。その『莫高窟(ばっこうくつ)』についに辿り着いた。多くの方々に助けられて、『河西回廊』の最後の都市、それもとびっきり著名な莫高窟にいることが信じられないくらいだ。心も体もしびれる興奮である。石窟の長さは約1618メートル、掘削は紀元366年に始まったと言われる。1991年に『世界文化遺産』に指定された。
 ここを見学するには、2015年当時は、「予約が必要だ」とか、「直接莫高窟に行かないで、前もって『莫高窟研究院』という所でチケットを買う」等々、情報が飛び交っていて、敦煌に着くまで心配していたのだが、『お助けコンシェルジェ』の一言で安堵。「当日、ここのホステルの近くから出ているバスで『莫高窟研究院』へ行って、ビデオを観たりの『莫高窟についての学習』を受けた後、そこでチケットを買って、バスで案内される」。気を付けることは一つ、『日本語』と言うだけ。「ありがとう」。
 『莫高窟研究院』でビデオ2本を40分くらい鑑賞した後、チケットを購入した。高齢者割引は無かったが、通訳の関係で外国人はちょっと高かっただけでした。日本語のガイド付きで180元は安いと思いました。
 非常に簡単だった。シャトルバスに乗車後20分くらいで莫高窟対岸の橋の付近で降車。歩いて橋を渡り、莫高窟入り口へすぐでした。入口付近は、この種の観光地がそうであるように、駐車場、土産売り場、食堂などが並んでいる。

莫高窟
 中国語は、所定人数が集まり次第見学スタート、中国語以外は9時、12時、14時の開始だった。9時ジャストに、「今日は寂しい」と言いながら女性ガイドがやってくる。寂しい理由は、日本語ガイドのお客さんが、私一人だったことだ。
 「甘粛省の他の石窟と似ていますが、4世紀の五胡十六国時代から清にかけて作られ、734窟あります」から説明が始まった。ネィティブと言っても過言ではないほど、完璧な日本語であり、説明もとても丁寧であった。たくさんある石窟で、一番大きな大仏がある96窟や敦煌文書が隠されていた17窟などは必ず案内されるようだが、他のどこを見学するかはガイドの一存で決められるようだ。約2時間の見学時間内で、12カ所ぐらいの石窟を案内しているみたいだが、見学者が1か所に集中しないようにお互いの様子を見ながら調整しているようだ。かつて訪ねた新疆ウィグルのクチャ近郊にある『キジル千仏洞』や『クムトラ千仏洞』の管理と同じように、見学の度にガイドが鍵を開けて中に入り、説明が終わるとまた施錠するという管理をしていた。また、石窟は一般窟と特別窟に分けられ、特別窟を観覧するには別料金が必要になる。まあ、これだけの世界的歴史遺産の管理は、保存状態も含めてこのぐらいの厳格さが必要だと思う。
 他に人がいないので、石窟にかなり近づいて丁寧な説明を受けられるが、逆に石窟の周りに人がいないので離れて全体を観ることもできる。なるほど、ガイドの言うとおり、「ここの石窟は、仏像の場合、壁に仏像を彫るのとは違って、まず洞窟を深く掘って、次に中央に台座を作り、その上に仏像を安置している」。なるほど。そして、「台座の周りを回って礼拝するのが作法だ」そうです。なるほど。でも、どっち周りに回るかは、聞かなかった。
 これらの窟が作られた経済的バックは、仏教の功徳を積むために地域の有力者が大金を拠出したり、お坊さんが集まって寄付などの方法で、援助したと言われている。当然のことながら数百年にわたって修復が必要なので、その際に寄進することによって功徳を積むなど、多くの人々の善意によって修復・保存されてきたのである。
 見学が終わった後、ガイドの口から意外な言葉が発せられた。「後は、あなた一人なので、ご自由に見学してください」。私は、もちろん鍵を持っていないのだから、「空いている所(他のグループ)に交じって自由に見学していいよ」と解釈して、ありがたいことに、たっぷりと時間を使って、見学することができました。
 なお、後述する、莫高窟特別窟のレプリカなどを展示する『敦煌石窟保持研究陳列センター』を除いて、『莫高窟』の内部は撮影禁止なので、皆さんには外観しかお見世できないことである。したがって、カメラに収めた写真(外観)のいくつかについて、ご説明を省かせていただきます。申し訳ありません。

シャトルバスを降りてこの橋を渡ると莫高窟である
外観が見えてきた
莫高窟

歴史的発見
 ガイドからの説明で面白かったのは、彼女の愛読書でもある井上靖の小説『敦煌』に関する話である。多くの日本人が興味を持って質問するのは、井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』だそうだ。戦乱から大切な書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である。この窟に入ってすぐ左側の小さな窟に隠されていたのである。横壁の入り口は塗り込められ、さらに壁には絵が描かれていたので、気づかれなかったらしい。発見したのは偶然で、この窟の管理人が壁に入ったキズに気づき、中の5万点もの経典や文書を発見したということである。ガイドが1900年と言ったか、1900年代と言ったか、聞き逃したが、いずれにしても歴史的発見である。
 多くの窟の中で私が好きなのは、頭の上に琵琶をかかげて演奏している『飛天像』である。昨日、知ったことであるが、敦煌市のシンボルである。『敦煌大劇院』による公演『敦煌神女』のチケットを買うために劇場を訪れた時に近くの交差点に立つ『飛天像』を初めて見たのである。でも、やはり『莫高窟の飛天像』である。素材が違うのだから当然であるが、鮮やかなタッチと色使いに圧倒された。

井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』。戦乱から書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である
敦煌莫高窟の象徴である九層楼。当初は大仏が三層の上から顔を出していたのを、清代に台4層から上を増築して室内仏ということになった
敦煌蔵経洞陳列館
大牌坊
飛天像

より道
 時間がたっぷりあるので、帰りのシャトルバスに乗る前に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』に寄る。お世話になった日本語ガイドさんから、「レプリカですけど、写真OKです」と教えてもらったことを思い出す。『莫高窟』は厳格に撮影禁止なので、年寄りの記憶保持のために撮っておくのも良いだろう。「私は自分の鑑識眼については、よく分かりません。しかし、レプリカと断らないでここに掲載するのは、読んでくださった皆さんに無礼だと思います」。
 私は以前にこのブログでこのようなことを書きました。『中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~』の『則天(則天武后)』で、屁理屈を並べて、言い逃れをして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている男。「意気地なし!」。「私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう」と。
 このような凛とした女性に愛された私は、先の文章を「レプリカですので完成度は高いとは言えないと思いますが、私のカメラの質、撮影技術も高くありません」。「そのうえで、参考にしてくださいね」。
 『敦煌石窟保持研究陳列センター』の名誉のために言っておきますが、石窟レプリカのセンターではありません。莫高窟修復の展示など、工夫を凝らした魅力的な展示センターです。
 なお、方向音痴の私の出番ではありませんが、この辺りで迷っている人がおりましたが、降車した場所から『莫高窟研究院』へ戻るシャトルバスが運行していました。そこから敦煌市街へのバスは30分に一本あります。

敦煌石窟保持研究陳列センター
莫高窟 隋代 第419窟のレプリカ
莫高窟 北涼 第275窟のレプリカ

沙州市場界隈
 午後1時半頃、莫高窟から市内に戻って、宿泊しているホステルから近い沙州市場に行く。沙州市場近くの百味街は、その名の通り食堂・屋台街で、賑やかな通りである。若いお母さんが遊びたい盛りの中学生ぐらいの子供に気合を入れている。名物の砂鍋料理は人気があり、元気おばさんに(半分、強制的に?)勧められて2日間続けて食した。おいしかった。
 中学生のはにかんだ様な笑顔と元気おばさんの大サービス大盛り砂鍋料理で腹いっぱいだ。「少し歩かなくちゃ」。さっきから、ミナレットから聞こえてくるアザーン(イスラム教における礼拝への呼び掛け)が気になっている。私はイスラム教徒ではないが、ここの近くのイスラム教寺院、清真寺に向かう。宗教、宗派を問わず、宗教関連施設の建築物の見学は、私の旅行の目的の一つになっている。礼拝中なので中には入れないし、また礼拝に向かう人々にカメラを向けることは厳禁であるが、美しい建物のいくつかをカメラに収めた。

市内に戻って沙州市場へ
この店は人気がありました
沙州市場近くのイスラム寺院・清真寺
清真寺横も夜は賑やかそう
清真寺

雷音寺
 元気おばさんの大盛りも、清真寺界隈の散歩で少しは腹もこなれた。この後の今日の予定は、敦煌から南に約5キロメートルの『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』である。3路バス終点と分かりやすいので安心である。多くの人達が降りたので、終点だと思って私も降りたのだが、終点一つ手前の『雷音寺』前であった。ちょっと焦ったが、鳴沙山まで歩いて5分だと教えられたので、流れに合流して『雷音寺』に入ってみた。久しぶりに出しますが、「神のお告げ」であった。(『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』参照)。そう、 一つ手前で降りたのは無意味ではなかったのだ。『雷音寺』は、市内で一番大きい仏教寺院で、1989年に建造と新しい寺院である。境内には菩薩像や羅漢像などの仏像が納められ、十分に楽しめる見所いっぱいのお寺であった。

鳴沙山へバスで向かう途中、1つ手前の雷音寺前で降りる
天王殿
大雄宝殿

鳴沙山・月牙泉
 『雷音寺』で予期しなかった仏像や展示物をたくさん見ることができて、なにか得をした気分で、シルクロードで最も美しい砂丘が連なる『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』へ軽々とステップを踏んで、そして十数年ぶりに口笛を吹いて向かいました。この後に待ち受けている拷問も知らずに。
 鳴沙山は、東西約40キロメートル、南北50キロメートルに広がる、サラサラの砂が堆積してできた、風が創り上げた砂漠の山である。最高峰は海抜1715メートルで、私の土木工学的センスで言うと、勾配はおおよそ15度くらいだと思う。名前の由来であるが、以前は神沙山と呼ばれていたが、砂山を滑り降りると地響きのような音をたてることがあることから『鳴沙山』の名がついたと言われている。砂の色も色々と混じっているで、太陽の角度、天候などによって多彩な姿を観察できる。
 ところで、よく歌われた名歌『月の砂漠』の歌詞をご存知でしょうか?

「月の砂漠をはるばると 旅のらくだがゆきました
金と銀との…」

のあれです。あの歌詞のイメージに近い風景が眼前に広がっている。私は歩いて山を登ったが、商魂たくましい人がいて、観光客を実際にラクダに乗せて稼いでいる。ここまで半月以上にわたって河西回廊を旅してきたが、この鳴沙山のラクダ商法はあるシーンと重なる。 あるシーンとは、『嘉峪関(かよくかん)』の『懸壁長城(けんぺきちょうじょう)』でご紹介した商魂たくましい貸衣装屋さんのことである。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックにその写真を撮っては、儲けている貸衣装屋さん。「帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物?」と私が勝手に想像した、貸衣装屋さんのシーンと重なるのである。
 怪しげな日本語で「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが…」と唄いながらラクダを引き、『砂漠を歩む隊商』になりきったお客さんからチップも貰うおじさん達は、…、いゃ、ちょっと待てよ。 ちょっと待って下さいね。 貸衣装屋さんより、こっちの 『砂漠を歩む隊商(キャラバン)』の方が、言葉がちょっときついが、金儲けの元祖ではないだろうか? 『砂漠を歩む隊商』は、なにか幻想的で、ロマンチックなイメージで捉えられているが、 私もそう思っているし、そう思いたいが、想像を超える困難に打ち勝って 、 『一攫千金を夢見るキャラバンの商人 』 なのである。
 私は好きである。『一攫千金 』のことではなく、はるかに少額のお金を稼ぐために、汗水たらしているおじさん達が好きである。そして、 せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なら、なおさら好きである。 「おかしいかな?」。「私は一生懸命が好き」なのかもしれない。『月の砂漠』を出したことから、もうお分かりだと思いますが、お客さんは、圧倒的に日本人が多いそうだ。

拷問には技術で対抗
 先に「この山の拷問が待っている」と書いたが、それは何か?ここを訪れる楽しみの一つは、この美しい景色を堪能することであるが、もう一つは砂山登りである。急斜面なので、一歩踏み出すと砂が崩れてなかなか上へ登れない。シューズの中に容赦なく砂が入ってくるので、布のオーバーシューズを10元で買う人もいる。砂の上に梯子を置いて登りやすくしている箇所もあるが、それでは面白くない。結局、砂に足を取られて3歩進んで2歩下がる状態の連続である。土木工学的知識を駆使して、頑張る。極細粒の砂は風で吹き飛んでいて残っている砂は極細粒分をあまり含んでいない。つまり、足を踏み入れる部分の砂は同じ粒径の(単一の粒径に近い)砂が多く、したがって、砂と砂の接点面積が少ないことから砂全体としての摩擦抵抗も小さいことになる。難しいかな?うーん。「大きい砂と大きい砂の間を埋める小さい砂が少なく、砂全体として密ではないことから足の圧力に抵抗する力が小さい」の表現ではどうだろうか?そこで考えた。誰かが歩いた跡は砂の粒が移動しあって固まっている(摩擦抵抗が大きい)。楽をしたい場合は誰かの足跡をたどろう。悪戦苦闘が面白いのだが。
 山頂へ登ると、時々風が強くなり、砂をかぶってしまう。予測したとおり、飛んできた砂は、確かに極細粒の砂であった。「良かった?」。飛んでくる砂など「なんのその」、一種の達成感だろうか、知らない者同士が抱き合って「成功」と言いながら祝しあっている。そして、遠くに広がる美しい風景と、下に見える『月牙泉』である。
 『陽関・玉門関・ヤルダン国家地質公園』を訪れた際に、とてもお世話になったお洒落なマルチリンガル美女に教えてもらったのだが、『月牙泉』は「砂漠の第一の泉」と言われ、また、漢の時代から「敦煌八景」の一つと称されているそうです。1970年代のダム建設と農業用灌漑(かんがい)などの大規模開発や地下水の大量汲みあげの影響を受けて、1990年代末には泉の底が干上がったそうだが、現在は各種の対策の効果があって、少しずつ回復している。お見せしている寺院と周辺の緑の写真は2015年5月に撮ったものです。

鳴沙山・月牙泉 の入口
山に挑戦
強力な山登りの助っ人である梯子
月牙泉の横に建つ寺院
頂上到達を称え合う。

敦煌博物館
 明日は、いよいよ敦煌を発って、天水に向かう日である。したがって、今日は実質的に敦煌最終日である。大事に過ごそう。『莫高窟』へ再度行き、その後『敦煌博物館』に行くことも考えたのだが、「せわしない旅ではなく、ゆっくり旅を貫きたい」。それに大好きな博物館だ。未知への興味というか、博物館でなにか新しい発見があるかもしれない。うまい具合に、昨日、『鳴沙山・月牙泉』へ向かった時に乗った『3路』バスが博物館の目の前に停まる。
 2012年5月にリニューアル・オープンした『敦煌博物館』は豪華な建物で、外国人であってもパスポートを提示することによって無料となる。時代区分ごとに歴史的遺物が展示されており、それほど知識が無くても分かりやすい。日本語の説明があることも大サービスである。
 最初に目を引くのは、壁に掲げられた大きな仏教図である。見入っていると、「Could I help you ?」。胸にネームタグをつけた上品なご婦人の申し出に、丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお断りした。丁重に、丁寧にである。そして、「莫高窟のレプリカが色々ございます。写真撮影も可です」の助言に、これまた丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお礼を言いました。バッグからカメラを取り出しながら。
 莫高窟を訪れた際に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』の項で書きましたが、レプリカと言えども、莫高窟の復習になるし、また、見逃した遺物の写真も撮れる。壁に貼られた『敦煌の歴史とシルクロードの文明陳列 序言』を読んで、戦闘開始である。

敦煌博物館
最初に目を引く仏教図
『序言』のプレート
石塔(北魏)
今でいう囲碁をしているのだろうか?隋唐五代時代
唐代のもの
天王俑 唐代
おんどり(磁器)明代
天王像(銅に金メッキ)清代
康煕25年。仏陀の坐像(銅に金メッキ)

白馬塔
 この拙稿の中の『河西回廊』で、何度も登場する鳩摩羅什(くまらじゅう)のことを覚えていらっしゃいますか。現在の新疆ウィグルのクチャ(旧、亀茲国)出身の高僧である。鳩摩羅什が敦煌にいた時、経典を担がせていた白馬が死んだため、その供養のために馬をここに埋葬し、塔を建てたのが白馬塔の始まりと言われている。
 直径7メートル、高さ12メートルの大きさで、基礎部分は八角形、上部は円筒形をした九層建ての塔である。第六層目だけが赤色で、全体として白亜の塔である。西暦(公元)386年に建立された後、何度か改修されているが、現在の塔は清の時代に修復されたものである。

白馬塔
鳩摩羅什三蔵が敦煌にいた時、経典を担がせた白馬が死んでしまい、その供養のために建てられた白馬塔 

敦煌大劇院
 沙州市場界隈をおじさんとおばさんを冷かしながらのんびりと散歩している。職人の腕を眺めるのは、旅の醍醐味の一つである。近くの南北に走る沙州北路(沙州南路)と東西に走る陽関中路(陽関東路)が交差するラウンドアバウト(Round about)は敦煌随一の繁華街であり、郵政局(中国電信のビル)をバックにそこに立つ飛天像は敦煌のシンボルである。左端に琵琶を後ろ手に曲弾きする飛天像の姿は、美しく優雅である。
 ここから歩いて数分。今夜は、敦煌大劇院である。8時20分から開演される甘粛省雑技団によるショー『敦煌神女(とんこうしんにょ)』の鑑賞である。チケットは200元で既に買い求めてある。
 さて、その舞台である。初めて観る出し物であり、予備知識もない。面白かったのは、開演前に役者さん達が劇場前に出てきて皆さんに挨拶をしたことだった。本番用の衣装を身に着けてアップの写真撮影にも応じてくれ、ひいき筋なのだろうか、握手をする人達もいた。
 内容は、敦煌文化や莫高窟壁画のエピソードなどをテーマに構成された舞台である。歌あり、西域の少数民族の舞踊あり、アクロバティックなサーカスあり、中国雑技あり、武術あり、マジックあり、コミカルな演劇ありの、次々と変化する1時間半のショーは観客を驚きと笑いの渦に引き込む。拍手喝采が起きたのは舞台にある動物が登場した時である。何だと思いますか?砂漠で人気の動物とは?そうです、本物の駱駝(らくだ)である。

沙州市場で熱心に仕事に励む職人さん
大劇院近くの沙州北路と陽関中路が交差するラウンドアバウトに立つ飛天像
敦煌大劇院の入口
敦煌大劇院の出し物の紹介「敦煌神女」
スターたちの顔見世
アップの写真にも快く応じてくれる
時間になりました。続々と入場

IMG_4472公演開始

公演開始
「待ってました」と声のかかるところ
アクロバティックな演技が続く
本物の生きたラクダです
「美しい」の言葉以外ない
フィナーレ

中国・河西回廊~嘉峪関・酒泉~

張掖から嘉峪関そして酒泉へ
 張掖バスターミナルから2時間10分で嘉峪関バスターミナルに着く。ホテルは、バスターミナルからほど近い新華南路(中路)と建設東路の交叉近くで、交通の便が良い。今回の旅行目的地は、『嘉峪関』と『酒泉』で、両者の移動はバスで30分と近いので、嘉峪関にホテルを取り、酒泉へは日帰り旅行とした。
 旅行記のブログなどで、ホテルや宿舎の名前を挙げてコメントしたり、推薦する方々がいらっしゃる。これからその町を旅行する方々に有益な情報かもしれないが、私の場合は衣食住に関する評価に全く自信がないので遠慮させていただいております。実は、旅好きの友人に「中国のどこの都市でも良いから『…之星』に泊まってみろ。経済的ホテルであるが、面白い情報がある。中国初のビジネスホテルグループであり、国有企業だそうだ」。「面白いな」ということで、ここ嘉峪関で宿泊してみた。前述した理由で、ホテルに関する評価は避けるが、英語が飛び交っていた。
 さて、酒泉へ行こうと嘉峪関バスターミナルに向かおうとしたら、ホテルのスタッフが「近くからミニバスが出ている」と教えてくれた。おおよその場所を聞いたので、そこを目指したが、うろうろが始まった。子供と散歩していたご婦人が「どうしたのですか」と声をかけてくれたので、事情を説明しているところに高級車が止まった。「パパ」。パパは、私に「車に乗れ」と合図して、乗って2分。「グッドラック」。「今日もまた」というべきか、「グッドラック」なのか?方向音痴はお助けパーソンに助けられて(迷惑をかけて)、今日も行く。

鐘鼓楼
 ミニバスで30分、「どこで降りる?」と聞かれても、行きたい場所の歴史や特徴はそれなりに調べてあるが、地図上の位置(方向)がよく分からないので、ガイドブックに『町の中心的存在』と書かれていたページを見せると、同乗者の全員が同じ場所であった。『鐘鼓楼』は、東晋永楽2年(346)の創建で、1905年(清の光緒31年)に再建されて今に至る。高さは27メートルで、容姿端麗である。さっきまで一緒にいた同乗者たちはアベックが多いせいか、独り者の私にカメラを渡す。御存知だと思いますが、中国人の写真ポーズは大変なものである。とくに、ヒロイン気取りは尋常ではない。私も他の観光客への加害者になりそうなので、カメラを受け取らないように心がけているが。
 さて、鐘鼓楼であるが、東西南北に4つの門があり、「東迎華岳(東に華山を迎える)」をはじめ、各門に文字を記した門額が有名である。基壇の四方に開けられた通路上の門額である。写した4枚の(東西南北の)門額をトリミングして掲載したが、それぞれは酒泉の地理的位置を表している。

酒泉の鐘鼓楼。基檀の四方に開けられた通路の上の門額が有名である
東迎華獄(東には華岳を仰ぐ)
西達伊吾(西はハミに達する)
南望邪連(南は邪連山を望む)
北通沙漠(北は砂漠に続く)

酒泉夜光杯廠
 『酒泉夜光杯廠』は、鐘鼓楼から約200メートルと近く、街並みを楽しみながらゆっくりと歩く。次第に人々の賑わいと出店や屋台などが増えてきて、繁華街らしくなる。ここには、『酒泉夜光杯工場』の直営売店のある場所であり、その製造工程を見学できる。祁連山で産出する玉を原料に酒杯を造っている。光を透過するほど極薄に磨き上げた玉杯に酒を注ぎ、「月光にかざすと光り輝き風味が増す」ので『夜光杯』と命名されたそうである。私が手に取った時は、盃に酒ではなく水を注ぎ、かつ、お昼の自然光の中であったので、風味が増したかどうかは分からないが、おいしい水であった。
 ここの夜光杯が唐の時代のオリジナリティを継いだものかどうかは定かではないらしいが、「人口に膾炙する」ようになったのは、唐代に活躍した『王翰(おう かん)』の唐詩『涼州詞』に詠まれた「葡萄の美酒夜光の杯…」の影響でもあるそうだ。お好きな方もいらっしゃると思いますので、『涼州詞』を掲げたい。

葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催。
酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回。

酒泉夜光杯の直営売店
酒泉夜光杯の直営売店(正面から写す)
この辺りが繁華街で、出店や屋台で賑やかである

酒泉公園
 鐘鼓楼から東に2キロメートルの位置にある酒泉公園は、町の名前の由来となった『酒泉』のある公園で、別名「泉湖公園」あるいは「西漢酒泉勝跡」と呼ばれる。1路あるいは9路バスが運行しており、『酒泉公園』がバス停である。高校生くらいの6人の集団が同じバスから降りたのだが、女子高校生3人に「写真を撮ろう」とせがまれる。老人を挟んだ4人の写真は、今頃どこをうろついているのだろう。ところで、少しローカルな場所に行くと、日本人がまだ珍しいのだろうか、こういうことが、ままある。私は、普通の容姿だと自分では思っているのだが、…、よくあるのである。これが小学生のこともある。どうしてだろう。「まぁ、いいか」。
 前漢代の名将軍『霍去病(かくきょへい)』が匈奴を破って大勝利を収めた。その報告に喜んだ武帝は、霍去病に一本の酒を贈った。霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるために酒を泉に注ぎ込んだ。すると池の水が濃厚な酒の香りを放ち、その美酒は尽きることなく湧き続けたという。「いいねぇ」。霍去病が酒を注ぎ込んだ泉は、古来、名水とされ、かつ飲めば不老長寿などと詩に歌われているという。「いいねぇ」。
 公園内には大きな池があり、さっきの若者達はここに遊びに来ていたのだ。笑顔でパチリと撮られた。

『西漢酒泉勝跡』の入口。町名の由来となった泉がある公園
西漢酒泉勝跡の説明
霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるためにこの手前の泉に酒を注ぎ込んだ
モニュメントのアップ
公園内の大きな池。さっきの若者達はここに遊びに来ていた

嘉峪関へ戻る
 酒泉を楽しんだ。おいしい水も飲んだので、元気で旅を続けられそうだ。そろそろ嘉峪関へ戻る時間だ。嘉峪関からここ酒泉に来た時に降りたバス停は鐘鼓楼であったので、とりあえずそこにバスで向かおう。「鐘鼓楼」と書いたメモを運転手に見せると、「OK」と首を縦に振る。西へ2キロメートルなので、あっという間に着いた。ここへはミニバスで来たので、ここから嘉峪関へ向かうバスを探さなくてはならない。例によってうろうろしていると、高校生みたい男の子達が、じろじろと興味深く私を見ている。「嘉峪関」と言うと乗り場を教えてくれた。でも心配なので、バスの向かう方向がどっちの方向かを確認するために、ディバッグに付けている(方向)磁石でチェックしたところ、OKだ。少年達は、磁石に興味を示している。日本の百均で数個買ってあったので「for all」と言いながら1個くれてやったところ、要求が続く。「写真を撮りたい」だ。バスが来たので、「OK」で、「バイバイ」。
 あーあ、疲れた。

今日は嘉峪関見学
 朝8時頃、ホテルを出て近くの市場で小さな饅頭一袋(6個で4元/約60円)を買い、4路のバスで『嘉峪関』へ向かう。運賃は1元だ。8時半頃、嘉峪関のある終点の関城景区で下車する。嘉峪関は世界文化遺産に登録されており、入場料は繁忙期は120元だが、閑散期のため60元であった。
 河北省から始まる『万里の長城』は、北京郊外の『八達嶺』→いわゆる『黄土高原』→そして、ここ嘉峪関につながる。つまり、これから訪ねる嘉峪関は万里の長城の最西端にある要塞で、1372年(明の洪武5年)に建設が始まった。『嘉峪山』の西麓に建設されたことから嘉峪関と命名された。東の『山海関』より9年早い建設であった。因みに、山海関は、北に燕を臨み、南に渤が続くので、これらのを取って『山海関』と名づけられたという。明代長城の東端要塞であり、「天下第一関」と称されている。これに対して、嘉峪関は「天下第一雄関」と言われている。
 明の征西大将軍『馮勝(ふう しょう。? – 1395年)』が河西回廊を支配下に置いた後に関(要塞)の建設が始まり、168年の時を経てシルクロードの重要拠点に強固な要塞が完成したのである。
 嘉峪関は、内城(ないじょう)、瓮城(おうじょう)、羅城(らじょう)、外城(がいじょう)、城壕(じょうごう)の部分からなる。周囲733メートルを高さ11メートルの城壁に囲まれ、内域は33,500平方メートル以上である。構造的には、壁や基礎を作る場所に両側から板などを当てて型枠を作り、その中に黄土などを詰めて突き固める版築法(はんちくほう)で城壁を構築し、西側は煉瓦を積み重ねて作っている。
 東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門(こうかもん)、西を柔遠門(じゅうおうもん)と言う。光化門の入り口の広場には文昌閣、関帝廟、劇台などの建物が並んでいる。また内城を通り西門である柔遠門を出るとその外に荒涼とした大地が続いている。
 この2つの門の上に高さ17メートルの3層の楼閣が建ち、嘉峪関のシンボルとなっている。2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路がある。旅人達は、ここに登って、万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物に思いを寄せるのである。
 旅人の一人である私目も、西安(せいあん)を発ち、蘭州(らんしゅう)、武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、嘉峪関(かよくかん)と、河西回廊に沿って砂漠の中に栄えたオアシス都市を巡り、人々の生活、歴史、文化、宗教などに一端ではあるが触れてきた。後は、これから数日後に向かう『敦煌』を残すのみである。城壁の上に立って辺りを眺めると、旅人が感ずるロマンチックで、ちょっと感傷的な気持ちになってしまう。南には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続き、北には黒山と呼ばれる小高い岩山がそびえ、西には遠く砂漠が広がる。

嘉峪関長城文化旅遊景区の黒山石窟群
林則徐の像。日本では、広州でアヘン取り締まりを強化した人物として知られている
関城に入る主要通路である東門。「天下雄関」の額が掛かっている(左上の黒い部分)
東門の説明
文昌閣。後ろの戯台(ぎだい。 劇場の舞台) には「天下第一雄関」の額が掲げられている
文昌閣の説明
舞台。明清時代は文人墨客が集い、詩作、作画、読書をした場所
関帝廟
東の城門、光化門
光化門の説明
演舞場が見える
西の城門、 柔遠門 (じゅうおうもん)
柔遠門の説明。西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。ここを出るとそこは荒涼とした大地が口をあけている。観光の駱駝が客を待っている
馬道。将士が馬に乗って城に上がることで名付けられた。主な機能は、兵力を運送し、物資と武器を運ぶことである。馬道の上に見えているのが光化楼
嘉峪関楼
嘉峪関楼の説明
嘉峪関 から望む 南側には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続く
ここまで嘉峪関

懸壁長城
 嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口に向かう。チケットは嘉峪関と共通である。急勾配の山道は、「行きは良いよい、帰りは恐い」ので断念する。『懸壁長城』の名は、「あたかも鉄壁を空に引っ掛けた様に見える」のでつけられたそうだ。当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあったそうだが、1987年に改修したのは500メートル、うち勾配約45度の道231メートルを斜面に作ったという。頂上まで30分。ショーマン・シップにあふれた人物が担当したのだろうか?
 この見事な懸壁長城をバックに『シルクロードの彫塑群』の彫刻が鮮やかで、そして美しい。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した像である。7名の人物とは、張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である。ここで、この旅行記に初めて出てきた『左宗』とは、『太平天国の乱』の鎮圧に活躍し、「清代最後の大黒柱」と言われている人物である。
 大人物はともかくも、今日しか会えず、これからも話題にのぼることは多分無いだろう市井の人物に、私は興味を覚える。どこの街へ行ってもこの種の人物には、何故か好感を覚える。ここでは、商魂たくましい貸衣装屋さんである。熱心である。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックに写真を撮っては、儲けている。誠に勝手な想像であるが、帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なのである。「どこから来るんだよ、その発想?」。私もそう思う。

嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口
当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあった
シルクロードの彫塑群
シルクロードの彫塑群の説明。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した。この7名の人物は張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である
懸壁長城(けんぺきちょうじょう)     
山の斜面の傾斜角は45度
商魂たくましい貸衣装屋さん

万里長城第一墩へ向かうのだが
 嘉峪関からチャーターしたタクシーのおばさんは、とても乱暴な運転手で、こんな表現があるかどうか分からないが、手に冷や汗を握るほど怖かった。『万里長城第一墩(ばんりちょうじょうだいいちとん)』に向かう途中、狭い一本道に重機が入っていて、こちらは動くことができない。想像するに、稼ぎに影響するのだろうか、この運転手、かなり大きい岩のような石が堆積している河原へ無理やり突っ込むではないか。プロペラシャフトがあったかどうか定かではないが、車の底が音を立てて石を引きずっているのだ。言葉が通じないので「ストップ」しか言えないが、今更戻るわけにもいかない。運転手は悪戦苦闘、こちらは肝を冷やして15分間。「ふー」。やっと、道に戻った。私の額の冷や汗を見て、自分のお昼弁当なのかパンを出して私にひとつくれて、自分も食べ始めた。もう一度。「ふー」。
 そうこう言いながらも、舗装道路を走る車から眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、美しい。そして嫌なことを忘れさせてくれる。

峪関から『万里長城第一墩』に向かう途中、工事による通行止め。雇ったタクシードライバーはこの岩道に車を突っ込んで近道を試みたが 。
黄土の渓谷を挟んで眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、気高い

万里長城第一墩
 『万里長城第一墩』は、明代長城の中では西から東に向かう最初の物見台で、したがって長城の最西端にある。『墩(とん)』とは物見台のことである。討賴河の高さ56メートルの崖の上にあり、ここ長城第一墩から嘉峪関関城までは7.5キロメートルの壁が続いている。換言するならば、嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶えることになる。
 兵士や将軍の休憩テントが見えてくる。現在、実際に軍が駐屯しているわけではなく、観光客向けの展示であり、写真撮影5元などと書いたスタンドが入口に置かれている。担当者がいて説明があるわけではないが、容易に想像できる展示物でもある。
 ここからの階段を上がって行くと、断崖絶壁と吊り橋が見えてくる。思い入れを持って見ないと、単なる険しい地形が見えるだけである。しかし、「嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える」、「ここが長城の正真正銘の終点(出発地)」と考え、さらには、『北京の八達嶺』の長城まで思いを致すと、こみあげるものがあるのであろう。噂には聞いていたが、『長城マニア』と思しき人達が、抱き合い、涙を流して、「???」と叫んでいる。
 2016年9月に北朝鮮との国境の町として有名な遼寧省丹東市を訪ねた折に、虎山村にある明代の長城、虎山長城(こざんちょうじょう)の遺構を訪ねたぐらいの長城好きであることは白状するが(結果的に管理側の都合で、虎山に入山できなかった)、涙を流す、ここまではどうも。私は皮肉っているのではない、羨ましいのである。
 『長城第一墩歴史文化体験館』に移動する。写真で示した展示物は実物ではありません。

兵士や将軍の休憩テントが見えてくる
テントの内部
嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える
こが長城の正真正銘の終点(出発地)
ここにある墩(物見台)は天下第一墩(てんかだいいちとん)とも呼ばれている
吊り橋のアップ
長城第一墩歴史文化体験館に移動
展示物
展示物

魏晋壁画墓
 今日の最後の訪問予定地である『魏晋壁画墓』へ向かう。『魏晋…』と名付けられているからには、少しは知識を得ようと、にわか勉強をしたのだが、にわかに覚えたことは忘れるのも早いので、特に年を取ると忘れる速度も速いので、ここに超簡単にキー・ワードをメモする。『黄巾の乱』、『三国志』、『隋が中国を再び統一する間の群雄割拠時代』と並べた。うまい具合に、最近凝っている、日本のTV番組で放映されている中国ドラマの時代背景が重なっているので,覚えやすい。その後漢末期からの激動の時代と言うか、分裂の時代の380年くらいを生き延びた国家である。
 魏晋壁画墓群(ぎしんへぎがぼぐん)は、嘉峪関市の北東約15キロメートルのゴビ灘にある古墓群である。20キロメートルほどに広がっており、1972~1979年の7年間に13基が発掘され、660点の壁画が部分的に保存されている。壁画から埋葬された人の日常生活、道具、動物などを描いたレンガがはめ込まれている。具体的にその姿のいくつかを列記する。果実の収穫、料理をしている、駱駝を引く、ヤク?を引く、牛を使って農作業、楽器を奏でる、戦う将兵、狩りをしている、豚の料理、等々 がシンプルに描かれているのである。但し、撮影禁止である。
 これらの鮮やかな色彩の絵が1600年ほど前に描かれたものとは思えないくらい保存状態が良く、感動しますよ。おすすめです、お訪ねを。 

ここから魏晋壁画墓
果园--新城墓群

中国・河西回廊~張掖~

張掖の歴史をレビューしてみよう
 旅については、往復のフライトと日程などを大まかに決めておいて、後は行き当たりばったりというか、音楽用語で使われる『アドリブ(ラテン語の「ad libitum」の略)』とでもいうか、『勝手気ままに』が基本であるが、『マルコ・ポーロ』に子供の頃から興味があったので、今回は、彼が一年間も滞在したという『張掖』を訪れるにつき、短時間ではあるがその歴史を勉強した。せっかくなので、最初にここにまとめてみたい。
 漢の武帝が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地、すなわち、武威、張掖、酒泉、敦煌を建設した。オアシス都市として栄える張掖は、邪連山脈( 祁連山脈、きれんさんみゃく) の雪解け水を源流とする黒河の流域に位置するため肥沃な土地に恵まれ、農業が栄えた。また、その位置(ゴビ砂漠の東端)からして、西域との貿易の中継地として市がたち、多くの商人達で賑わっていた。文献によると、「金の張掖、銀の武威」と言われるほど繁栄を享受した歴史を持つ。匈奴の渾邪王(こんやおう)を降伏させ、この地を奪取したのは、霍去病(かくきょへい)である。屯田兵や、治水を行う水利兵を派遣し、組織だった地域というか、国家の出先を作り上げた。
 その後、隋、唐、チベット系、トルコ系の民族の支配を受けたことから、当然のことながら民族やそれに伴う文化が交差する歴史を持つことになる。そして、しかし(and/or)、現在でも多民族都市として繁栄し、河西回廊に位置する都市の中でも豊かなオアシス都市としてその地位を保ち続けている。
 最後に、この都市の歴史を語るうえで、はずされないのは、『東方見聞録』のマルコ・ポーロである。イタリアのヴェニスを発ってから3年半の中央アジアの旅を経て酒泉に、そして張掖に1年間滞在している。13世紀半ば、中国の元の一朝支配、言うなれば、比較的安定していた時代である。それ故に、張掖を出てからモンゴルでフビライ・ハンに仕え、結果的に中国に17年間も滞在したのであろう。この辺りのことは、興味津々であるが、語るには私の能力と勉強の深さが足りない。申し訳ありません。

早速、出かける
 武威を出発してから3時間半で張掖バスターミナルに到着した。通常は、ホテルにチェックインした後に、目的の場所にバスで移動するのであるが、今回は違う。武威から乗ってきたバスの運転手がとても親切な男で、『今日のお助けマン第1号』である。アジアを旅行された経験のある方はご存知だと思いますが、事の良し悪しは別として、多くの都市で、乗客が運転手に話しかけることに寛容である。私もそれに倣って、運転手に尋ねた。観光客はもちろん、地元民にもあまり知られていないらしい『黒水国城堡遺址(Hei Shui Guo Han Tombs』について尋ねた。「行きたいのか?」。「行きたい」。「よしっ、任せなさい」と胸を叩いた。何を聞いても「任せなさい」である。任せるしかしようの無い私は、「プリーズ」である。「駄目で元々さ」と居直っていた。
 顛末はこうである。張掖バスターミナルに到着して、乗客が皆降りたのを確認して、私の荷物を持ってくれて、「ついてこい」。バスターミナルの建物のコーナーにある荷物預かり、と言っても雑貨売り場のおばさんがいるだけであるが、彼女に私の荷物を預けて、「6元を支払え」。そして、「ついてこい」である。バスが多数集合しているブースに行って、他の運転手達と何か話しているが、中国語なので私にはさっぱり分からない。「OK、10分後」みたいなことを言って、「このバスに乗れ」と、案内してくれた。そのバスの運転手に「マイ・フレンド、ユー・フレンド」とか言って、「黒水国城堡遺址、OK」のOK指マーク。お助けマン第1号に、なにか、お礼をしようと思ったのだが、毅然とした態度で「ノー」。感動で体が震えたね。
 この話は、まだ続く。何もない牧草地のような風景が続く道をバスはひた走る。少し心配になってきたが、20分くらい時間が経ってから、(お助けマン第1号から私を託された?)ユー・フレンド(今はマイ・フレンド)が停留所の無い場所でバスを止めた。こんな所で公共のバスを止めるなんて、バスにトラブルでも起きたのかと思っていたら、私に「降りなさい」といって、行き先を指で指示してくれた。停留所はないが、『黒水国城堡遺址』の入口を示す看板が道路脇にあった。乗車時に運転手に降りる場所を言っておくと、途中で降ろしてくれるやり方らしい。お助けマン第1号の指令らしい。助かった。そうは言っても、遺跡まで20分近く歩いた。

黒水国遺址の標示。バス停留所の役目をしていた

お助けマン第2号
 歩き疲れて途方に暮れていると、それらしき風化した城壁みたいなものがやっと見えてくる。ガイドブックには、張掖市街の西北13キロメートル、黒水河のほとりに残っている漢代の城壁跡で、黄土を盛り固めた簡素な造りであると説明されているが、初めて訪ねる人は、方向音痴でなくても迷うと思う。案内の掲示が無く、故城跡も砂に埋もれていて判りづらい。平屋建てが3棟ほどあって、小型トラックも止まっていた。黒水国古城の管理人の住居兼官舎なのだろうか?不法侵入を覚悟で建物の裏に行ってみると、若い女性二人と男性三人がテーブルというか、台の上に板を横にした即席食卓に食べ物を並べて食べていた。見知らぬ人達の食卓に勝手に入り込んで、「こんにちは、ジャパニーズ」から始まって、私の勝手な自己紹介。随分無礼な奴だと思うのが当たり前なのに、この若者達は笑顔で「ニーハオ」。直観的に「大学生だ」。この『黒水国城堡遺址』の研究がテーマで、指導教授も奥まった部屋にいるという。となれば、きちんと挨拶をするのが礼儀であろう。彼の部屋にある棚にはウィスキーが数本並べてあった。趣味が合うらしい。10分ほど歓談して、邪魔をしただけだが、部門が違っても研究者のお話を聞くことは、とても有意義で楽しい。お礼を述べたところに、大学院に所属する学生がフィールドから戻ってきた。可哀そうに、「この方は、誰々です。案内を頼む」と命じられ、私のガイド役を務めることになってしまった。
 考古学の知識は無きに等しく、ましてやここの遺址については文献すら読んだこともない。でも、彼はここのフィールドで研究をしたくて、地元の大学に入り、大学院に残ったという。彼と歩き廻ったのだが、『黒水国城堡遺址』は、彼は『黒水国漢墓』と言っていたが、その名のように漢代に造られたと推定される古墓群で、城、城壁、城門の跡が約2キロメートル四方に点在している。誰が造ったかも分からないそうで、そもそも論になるが、『黒水国』という国の存在自体が謎に包まれているそうだ。学究の徒らしく、「通説ではないが」と断ったうえで、「匈奴の一部がこの地域に住んでいたことがあり、建国した『小月氏国』の中心が黒水国だった」という言い伝えがあるそうです。「言い伝えです」。ガイドブックなどに載っている、『一部ではあるが、陶壺や古銭などが出土したらしい』については、答えが無かった、というよりも、彼も疲れているようだ。「ごめんなさいね」。
 メール・アドレスのやり取りをして、戻ることにしたが、近くの砂利道まで送ってくれて、「ここを真っ直ぐ行くと、来る時にバスが止まった所に着きます」と教えてくれた。彼は、私の「方向音痴」を見抜いたのだろうか?今日最後のお助けマン(の皆さん)、「ありがとう」。…。真っ黒になって頑張っているだろうなぁ。「頑張れ」。

黒水国南城遺祉(明)の石碑
東城門の左側
ここまで黒水国??

私も頑張って市内見物へ
 人の親切とやさしさに恵まれて、思いがけない充実した『黒水国城堡遺址』観光であった。張掖の市内に戻って、市内観光のスタートだ。まずは前から興味のあった大仏寺(宏仁寺)である。行き方は1路バスで向かい、バス停『広場』で降車して、…、「バス?あれっ、あれっ?」、「なんか変だ」。「あっ、荷物が無い」、「そうだ、武威を出発して張掖バスターミナルに着いた時、運転手さん、そう『今日のお助けマン第1号』が荷物預かり所に私の荷物を預けて、…。結局、私は未だホテルにチェックインしていなかったのだ(笑)。
 ということで、色々用事を済ませて、今は大仏寺にいる。

大仏寺
 大仏寺は1098年(西夏の崇宗永安元年)に創建された。面積は60000平方メートル以上あり、中国最大規模を誇る。元の名称は『迦叶如来寺』であり、その後、明の宣徳帝に『宝覚寺』、清の康煕帝に『宏仁寺』の名をそれぞれ賜るが、寺に釈迦牟尼の涅槃像が横たわっていることから『大仏寺』、あるいは『臥仏寺』とも呼ばれるようになったという。大仏殿の中に横たわる釈迦仏(釈迦牟尼涅槃像)は、体長34.5メートル、肩の幅7.5メートルと大きく、撮影距離も近いため、一枚の写真には収まらない。頭部と下半身を別々に写したが、全体像についてはご想像願うしかない。
 先に書きましたが、イタリアのフィレンツェ出身の旅行家、マルコ・ポーロについて、もう一言。子供の頃、インド、中国、日本などのアジア諸国のことを書いた旅行記『東方見聞録』(児童向け)を読んで、外国を夢見たことを覚えている。後年、マルコ・ポーロ自体は日本へ行っていないことを知り、「ジパングに関する記事は伝聞だったのか」と、少しがっかりしたが、『マルコ・ポーロ』と聞くと、ついつい興味を持ってしまう。ここ大仏寺の記述で急にマルコ・ポーロを持ち出したのは、寺のことが東方見聞録に書かれていることを知ったためである。さらに、歴史上の人物として私が個人的に興味を持っている、元の『世祖フビライ』が生まれた寺院であると、ガイドブックで知ったことである。歴史家のさらなる研究成果に期待したい。
 涅槃大仏寺の裏手に高さ33メートルの大きな仏塔がそびえるように建っている。チベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)である。安定感のある姿に多くのカメラが向いていた。

間口約50メートル、奥行き約25 メートル 、高さ約20 メートル の大仏殿
大仏殿の中に横たわる釈迦仏の頭部。体長34.5 メートル 、肩の幅7.5 メートル の釈迦仏
釈迦仏の下半身
大仏殿背後に高さ33 メートル のチベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)が建っている
土塔の内部
土塔の内部

大仏寺から万寿寺木塔へ
 中国では珍しい外回りを木で組んであるという『万寿寺木塔(まんじゅじもくとう)』に向かう。通行人に聞いたところ、大仏寺からは、大仏寺巷→中心広場→張掖中学校と歩くと、5~10分で木塔に着くという。教えられたとおりに中学校に着いたが、どこでどう間違ったのか、中学校の裏側の校庭に来てしまった。校庭だから当然のことかもしれないが、金網が張ってあって目的の木塔が見えるのにそれがバリアになっていて移動できない。逆に校庭側から見ると中学校に怪しい奴が忍び込んで来たと見えるかもしれない。困った。うろうろしていると、用務員みたいなおじさんが目ざとく私を見つけて、近づいてきた。「やばい、俺は不法侵入だ、それも中学校に」。ところが、このおじさん、笑いながら金網の入り口を開けてくれた。私のようなのが、時々いるのかもしれない。「あーあ、良かった」。とにかく、「ありがとう」。中学校の校庭に無断侵入したのに、『お助け公務員』のおかげで、私は、無事に 『 万寿寺木塔』に着きました。
 万寿寺木塔は、582年(隋の開皇2年)に創建された寺で、創建当時は『万寿寺』と呼ばれていた。次の唐以降、歴代王朝で修復が続けられてきたが、1926年(民国15年)に再建され、現在に至っている。繰り返しになるが、元々は万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものは既に失われている。塔は、高さ1メートル、一辺15メートルの基壇の上に建つ。塔の高さは32.8メートル、八角9層の塔で、1層から7層までの塔身の内壁はレンガ積み、外回りは木組で造られている。8層と9層は、釘やリベット(鋲、rivet)などを1本も使わず、すべて木造で壁も無い構造である。
 この中国全土でも珍しい貴重な建築様式の万寿寺木塔は、最上層まで登って市内の風景を一望でき、そして、現在は張掖市の民俗博物館になっている。

万寿寺木塔は高さ約32.8メートルの八角9層の木塔
とても貴重な木塔のアップ

鎮遠楼(鐘鼓楼)から甘泉公園
 万寿寺木塔から歩いて10分もかからないで『鎮遠楼』に着く。ここは、まさに張掖市の中心部であり、市民には『鐘鼓楼(しょうころう)』と呼ばれ、張掖のシンボルとして親しまれている。古く1507年(明の正徳2年)に建創建され、現在目にするものは1668年(清の康煕7年)に修築された姿である。基壇も大きく、高さ9メートル、一片の長さ32メートルである。その上に2層の楼閣が建つ。重量感、安定感のある鎮遠楼であった。
 ここから西へ100メートルも歩かないうちに明清街にぶつかる。右折して甘泉公園近くまで、ゆっくりと古い町並みを再現したこの明清街を楽しむ。古い建物が並び、飲食店や屋台でにぎわっていた。
 甘泉公園では、遊園地を兼ねているせいか、多くの家族連れやアベックが楽しんでいる。孫を思い出しているうちに、近くにあるマルコ・ポーロ像をカメラにおさめるのを忘れてしまった。大失敗。

張掖のシンボルである鎮遠楼。どっしりとした姿が印象的である
古い町並みを再現した明清街
甘泉公園近くまで続く活気あふれる明清街
甘泉公園入口
このおばさんのちょっと辛い焼き鳥はいけた。「ごちそうさま」

中国・河西回廊~武威~

楽しい思い出を貰って
 西安から蘭州に向かう時、「西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう」と、書いた。同じ文章を続ける書き方は私の趣味ではないが、ここは次の文章で始めたい。「蘭州と蘭州郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、蘭州発07時出発のバスで武威へ向かう」。武威バスターミナルまで約3時間半で移動だ。
 ここ武威は、前漢の武帝(紀元前159~紀元前87年)が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地を建設したうちの東端にある町で、以前は『涼州』と呼ばれた。現在の人口は190万人ほどと比較的小さな町で、武威の見所にはちょっと頑張れば歩いていくことが可能である。いつもは郊外から始める観光であるが、主要道路である北関東路と北大街の交叉近くにホテルを取ったので、すぐ近くに見所があり、今回は市内から観光を始めることにした。

鳩摩羅什寺
 最初の訪問はホテルの近くにある鳩摩羅什寺(くまらじゅうじ)である。今までも仏教関連で何度か出てきたクチャの高僧『鳩摩羅什』については、このホームページの構成で言うと、『新旅行記アジア』‐『タイトル:中国・新疆ウイグル~クチャ~』-『もう一人の三蔵法師』の中で述べた。「多くの三蔵法師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる」と表現した、あの鳩摩羅什である。ここで、さらに加筆するならば、彼はインドの高僧と亀茲国の王族を父母にもち、また、少年時代から諸国を歴訪してあらゆる言語を身につけていた。
 鳩摩羅什と武威の関係を理解するために、鳩摩羅什が武威に滞在するに至った経緯を簡単に示す。385年、亀茲国(きじこく、現在のクチャ県付近)を攻撃した前秦の将軍呂光は鳩摩羅什を拉致したが、帰国途中で母国の前秦が滅びてしまったため、『涼州』(武威の旧名)に『後涼』という地方政権を建てた。必然的に鳩摩羅什も涼州にいることになり、401年に長安(西安)に移動するまで16年間の長きにわたって武威に滞在したのである。
 著名な鳩摩羅什塔は、鳩摩羅什が経典を講じたり、経典の翻訳に従事した場所であり、そこから『鳩摩羅什塔』と呼ばれるようになったと言われる。八角12層の中空の塔であり、高さが32メートルである。唐代の創建という説もあるが、創建不明説もあり、確定はできていない。現在、我々が目にする塔は1927年の地震で倒壊した後に大修理したものである。
 なお、この国では高齢者や軍人などが優遇され、多くの見所が無料であるが、ここ鳩摩羅什寺では全ての参観者に対して入場料無料であった。

鳩摩羅什寺
羅什塔院内部の像
八 角12層の羅什寺塔
羅什法師記念堂

武夷文廟
 中国には、『孔子』に関係する博物館、建物などが数多く存在するが、ここのそれは明代の1439年創建、その後の数度の改修を経て現在に至る建物である。約25000平方メートルの敷地に、東の文昌宮、中央の孔子廟、西の儒学院と3つの部分から構成される。甘粛省最大、中国でも第三の規模を誇る孔子廟である。
 私のお目当ての一つは、表に西夏文字、裏にその訳文である漢字で刻まれている西夏碑である。正式には『重修護国寺感応塔碑(ちょうしゅうごこくじかんのうとうひ)』というそうだ。解説書によると、中国の『ロゼッタストーン』と言われるほど、西夏文字の研究には必須かつ重要な資料だそうだ。
 話が飛ぶが、ロゼッタストーンは、古代エジプトの象形文字である『ヒエログリフ(神聖文字)』を解読するのに重要な手がかりとなった、あの石碑である。1799年、ナポレオンのエジプト遠征の際に、アレクサンドリア近郊のラーシード(ヨーロッパ人はロゼッタと呼んでいた)という町で発見されたもので、町の名前を取ってロゼッタストーン(Rosetta Stone)と言われるようになった。1801年アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したためイギリスに引き渡されて、現在は大英博物館の収蔵品となっている。私は、1979年に大英博物館で初めて見る機会を得た。その後、十数人の日本人を案内したことを考えると、それほど日本人はロゼッタストーンに興味があるようだ。
 話を戻したい。門前の広場にある『西夏博物館』に入館する。西夏碑を表裏、何度もぐるぐる回って見させてもらった。元々、西夏文字も漢字も良く理解できないのであるが、長く眺めていると絵を見ているような不思議な気持になってきた。
 また、私は全く知らなかったが、李徳明(981 – 1032年)と書かれた像が訪問客の視線を浴びていた。西夏王朝の実質的な建国者だそうだ。敬意を表して、写さなくちゃ。

武夷文廟。甘粛省最大、中国で第三の規模を誇る孔子廟
武威文廟入口
門前の広場にある武夷西夏博物館全景
表に西夏文字、裏にその訳文を漢字で刻んだ西夏碑(正式には重修護国寺感応塔碑)。中国のロゼッタストーンと呼ばれる
西夏文字アップ
漢字アップ
李 徳明(981 – 1032年)の像。西夏王朝の実質的な建国者

やはり孔子は学問の神様
 やはり孔子は学問の神様である。多くの訪問客、とくに若い人達が孔子の像を取り囲んでいる。赤い布を孔子の像に結びつけ、線香をあげて手を合わせている。もちろん、お願いである。天神さま(菅原道真公)をお祀りする太宰府天満宮へお詣りし、合格祈願をするあれである。
 櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は大変な数である。帰りに階段で転んだ女性がいたが、ご利益は変わらないのだろうか?縁起を担いで、もう一度行った方が良いのかなと思っていたら、この女性、本当に戻っていった。今度は、大丈夫だ。

孔子行教像
櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は合格祈願

大雲寺(鐘楼)
 文廟から700メートルほど北にある大雲寺に向かう。西夏王国の護国寺であったと聞いて訪ねたが、私が訪ねた時は人(僧侶)がいなくて、明代に建てたという鐘楼(建物の外観)だけが残っていた、ただし、扉が閉まっていて、中にある肝心の唐代の鐘は観ることができなかった。

大雲寺
大雲寺鐘楼

海藏寺
 武威市の西北2.5キロメートルの海藏寺公園に向かう。ここにある海藏寺は、泉が湧く池と林に囲まれた環境から、「まるで海の中に隠された寺のようである」と言われ、この名がつけられた。創建は晋代と言われているが、確証はない。この古刹は修復が繰り返されてきたが、現存する建物の大部分は清代のものである。
 公園の北口を出ると、シンメトリーが美しい木造の山門がある。あまりにも緻密で複雑な木造の組物を見ていただきたく、その中央部分をアップした写真を載せたい。私の魂が震える。「可能であるならば、このような緻密で美しい組物の建築現場で作業を見学させていただきたい」。
 ガイドブックによると、元の時代にチベット仏教サキャ派のサキャ・パンディタが涼州を訪れた時に海藏寺など涼州四大寺に修繕資金を寄付したことから、チベット仏教寺院になったが、現在は仏教寺院のようだ。

対称形の美しい山門
複雑な組物が特徴の山門 のアップ 。緻密で複雑な木造の組物に圧倒される
海藏公園の北門を出て海藏寺に到着
美しいアクセス
海藏寺三星殿内部
勇ましい
勇ましい

中国・河西回廊~蘭州~

蘭州へ
 2015年5月19日07時59分、西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう。あらかじめ予約しておいたので予約番号を記した『列車予約票』とパスポートを窓口で提示すると、プラットフォーム番号と列車番号をメモ用紙に書き、方向を指差してくれる。簡単なことのように思えるが、豪華で合理的な駅舎や近代的な施設も大事だが、こういう対応は旅人の不安を解消し、旅人の心をうち、癒してくれる。旅人も街を好きになり、中国の人々を好きになる。そう、旅人の心は、単純にして素直なのである。 
 中国の大きい鉄道駅の待合室は、大抵そうであるが、行先別にブースがあって、そこ(目的地)に向かう人々が固まって座っている。見知らぬ人から「お前は、A市に行くのか」、「B州に行くのか」などと聞かれ、「俺も、私もそこに行く」、「俺の故郷だ」と話がはずむ。「食事はすんだのか」と聞かれ、『未だだ』と答えると、カバンからインスタントラーメンを出して、どこの駅にでもある(「例の」、と言っていいだろう)給湯器からお湯を入れてくれて、私に「どうぞ」。各種のメディアを通して日本国で報道されている“中国社会&人々”の実像は、私が旅先で経験するものとはかなり異なるのである。多くの場所で、多くの年齢層で、多くの状況で違うのである。「どこの国でも良い奴もいれば、悪い奴もいるさ」と、一言で割り切れないのである。
 西安から8時間弱で蘭州駅に着く。よく聞かれる。「列車の8時間って、退屈しないのか?」。確かに街から街への移動を単に点から点への移動だとしたら、「早く目的地に着け」とだけ思っているとしたら、それは苦痛だろうなぁ。列車の中で本を読めるし、人々を観光?したり、親切にされたり、地元の旨いものを売りに来るし、車窓の景色を楽しめるし、…等々、私にとって列車の8時間は体と心を癒す、とても大切な時間なのである。したがって、そんなに長く感じたことはない。
 蘭州駅(火車站…鉄道駅のこと)に比較的近い場所に蘭州大学があり、そこから歩いてすぐの所にホテルを取った。例によって道に迷っても住民に『蘭州大学』と聞くとすぐ分かるので、方向音痴の私向きの場所である。さらに良いことに、蘭州駅の斜向いに蘭州バスセンター(蘭州客運站)があるので、蘭州の観光後に訪ねる予定の『武威』へバスで移動するのにも便利なのである。
 明日は、蘭州郊外の『炳霊寺石窟』を訪ねる予定なので、今日は、早寝しよう。

列車時刻掲示板
蘭州行きT117の待合席

炳霊寺に向かう
 例によって、近場の蘭州市内観光よりも、郊外から攻める方法で今回も旅をする。蘭州から約100キロメートル、私のような土木工学の研究に携わる(携わった)者で、とくに河川やダム関係に携わる人が一度は訪ねたい場所がある。黄河とその支流である洮河(とうが)をせき止めて建設された中国有数の発電所、劉家峡ダムである。総水量57億立 方 メートル、ダム湖の面積130平方キロメートルの巨大な人造湖である。いわゆる、『大躍進時代』に建設されたダムである。
 そして、その上流に現存する、位置的には黄河の北岸側の峡谷の中にあるわけだが、中国最古の石窟であり、壁画で有名な炳霊寺(へいれいじ)石窟がある。今日の目的は、その石窟群を訪ねることである。
 蘭州西バスターミナルから劉家峡行きのバスに乗り、降車駅を運転手に告げて降りなければならないのだが、難しい中国語で書くことも読むこともできないので、『炳霊寺』と日本語(漢字)で書いたメモを示すと、「OK」の返事。降車場所が来ると合図をしてくれ、方向を指で示して、腕時計を抑えながら「ファイヴ、ファイヴ、ボート」と、歩くジェスチャーをしながら丁寧に教えてくれる。つまり、ここから歩いて5分で、炳霊寺までのボート乗り場があると教えてくれたのです。「ありがとう、運転手さん」。
 ボート乗り場(埠頭)には、ボートも来ていないし、人もいない。雨も降ってきて少し不安になるが、待つしか方法がない。20分くらい経ったであろうか、仲間が5~6人になり、さらに10人ほどのパーティがやってきた。そしてボート(快速艇)も。どうやら、所定の人数が集まると出発する仕組みらしい。片道約1時間で炳霊寺に到着→石窟の見学時間90分が目安→快速艇で戻る、というスケジュールらしい。往復で110元の料金が徴収された。3人ほどのパーティでやってきた中国人の話だと、以前は大型遊覧船で数時間かけての移動だったが、黄河の水量が減少したため運航中止になって、快速艇になったそうだ。

船中の楽しい空間
 1時間も同じ空間にいれば、ましてや石窟見学という同じ目的を持つ旅行者同士であれば、何となく言葉を交わす。この場の主役は、10人ほどのパーティの一行である。日本人が私一人だったせいもあって、気を使ってくれて、次第に打ち解けてくると、身分を明かし始める。用心深い感じだったが、その理由が分かった。検察官とその職場の仲間達だという。この人達の知性のレベルは相当なもので、リーダーらしき人は癖のある英語を流暢に話す。英国のマンチェスター留学らしい。「道理で」。
 私の英国の友人を引きあいに出して恐縮であるが、彼の息子が日本の我が家を訪れた時に聞いた話である。彼は『バークシャー(Berkshire)訛りの正統派国語?』だったのが、マンチェスター大学に進学しで数学を学んでいるうちに、「父親と言葉の断絶ができた」、「違う言語になってしまった」と笑っていた。この際、専攻した数学は関係ない。彼が笑いながら私に言う「父親と言葉の断絶ができた」という英語を理解するのに、私は3回は聞き直したのである。「ジャパニーズ・ラングェッジ?」と、まぜっかえしてやったが、「あなたの英語は理解できる」と、懐かしい『バークス・アクセント』で返された。これ以上書くと、「気障」とか、「衒学的」とか、…、止めましょう。

中国のインテリはレベルが高いぞ 
 さて、検察官の話である。彼の職場がある地元に対する愛着は深く、著名な思想家の話などは、私は相当昔の知識しか持っていないので、したがって忘れてしまっているので、ついていけない。彼は、思想家に傾倒しているのではない、歴史的事実を理路整然と話すのである。
 一行の中では最も若い30代半ばの青年の口から「みしま」と聞こえる音が発せられた。「うっ?」。「三島由紀夫です」と明確に発せられた。日本文学が大好きで、謙遜しながらも「なんとか、原文で読める」という。一行の仲間内では「一番の日本通」ということであった。相当数の本を読んでいるらしく、「もう少し日本語が理解できるようになったらT大の大学院に留学して、日本文学について勉強したい」と、目を輝かせていた。私の母校ではないが、大歓迎だ。私から握手を求めて、彼を励ました。
 激励しただけなのだが、お礼に、彼はこんなことを教えてくれた。中国の前国家主席の胡錦涛氏は、清華大学水利工程学部卒の水力発電技術者で、在学中に共産党に入党したそうだ。驚いたことに、彼の最初の赴任地がこの劉家峡ダムを管轄する機関だったという。部門は違うが、土木工学の研究者として、襟を正して、先達に深く敬意を表したい。
 そうこうしているうちに、1時間くらいで炳霊寺石窟に着いた。石窟でボートを降りてから、「一緒に行きませんか?」と皆さんの笑顔で誘われた。もちろん、願ってもないことです。二つ返事で「プリーズ」でした。石窟についてきちんと勉強をしてこなかったのが恥ずかしいくらい、インテリジェンスの高さを感じさせる内容の説明と表現方法に、感謝感激でした。

中国有数の発電所劉家峡ダムダムの上流約50キロメートルにある石窟群へ快速艇で向かう
快速艇が船着場に近づいている

炳霊寺石窟
 その『炳霊寺石窟』である。『炳霊』とはチベット語で「十万仏」の意味だそうだ。周囲は、土林と呼ばれる岩が連なっている。その奇岩とも表現すべきそりたつ岩が続く、山水画のような風景の黄河北岸の崖に、長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所である。唐代の物が多いが、西秦(385~431年)から清(1636~1912年)にかけて刻まれた仏像や石窟が多数残っている。
 まず、山門をくぐり、コンクリートでできた通路を進む。玄奘三蔵がこの辺りから、シルクロードの旅に出たと言われているそうだ。
 幸いなことに写真が残っているので、詳細な説明は割愛させてください(さぼらせてください)。この炳霊寺石窟では、目玉である『大仏像』が人気であるが、石窟の他に陶器や銅器なども展示されており、それらも拾遺させていただいたので写真でお楽しみください。
 個人的に最も気に入ったのは、北魏時代に制作された第16窟の涅槃(ねはん)塑像である。全長9メートルと、中国国内に残る最大・最古の涅槃像で、かつ完全な形で残る非常に重要な塑像である。書籍によると、1960年代のダム建設にともない水没の危機に瀕したため、9分割にして水没窟内から搬出し、安全に収蔵されたということである。この搬出などの作業には日本の専門家の助力も大きかったそうである。

今後の予定
 おおよそ石窟を廻ってから、船着き場近くにあるレストランでランチをご馳走になった。この食堂のメニューを写真に掲げておきましたが、三島ファンは、「ここ蘭州は、ラーメンが生まれた町。ラーメンは元々、回族が生み出したイスラム料理の一つです」。これまた知識が増えた。
 食事の最中に、「ここの炳霊寺石窟は、敦煌の莫高窟、天水の麦積山石窟と並び、中国甘粛省三大石窟と呼ばれている。すべてを訪ねる価値がある」と教えられた。西安からここ蘭州に(天水に寄らずに)まっすぐ来たことを説明し、今後、『河西回廊』を西に向かって、最終地の敦煌に6日間滞在後、西安に戻る予定であることを説明した。「余計なことかもしれないが、多分、敦煌で飽きてしまうでしょう。敦煌を3日間くらいにして、列車が好きみたいだから、敦煌から夜行列車で一気に天水に移動したらどうですか」とアドヴァイスを受けた。「天水で『麦積山石窟』を見学後、隣町の西安へは列車でもバスでも、いくらでもある」。細やかな交通手段まで教えてもらって大恐縮。敦煌に着いたらホテルのスタッフに相談して、予約しておいた列車のキャンセルや、新しいチケットの予約を決めることにした。

裁 定
 夢のような90分が過ぎた。帰りの準備をしなくては行けない。来た道を戻ればよい。ボートで戻り、バスの親切運転手に教えられたとおりに、5分ほど歩いて、蘭州市内行きのバスを待とう。暗くなり、雨の勢いが強くなってきた。お助けマンたちは、私の不安げな表情を察知して、彼らのマイクロバスに私を乗せて、バス会社の世話役みたいなお嬢さんに「日本人、一人」と掛け合った。契約違反である。気の弱い私めは財布を出したが、検察官は「(ノーではなく、ドイツ語っぽい発音で)ナー!お嬢さん、良いですよね」。裁定がくだった。私は温かいバスの中で、温かい人たちに囲まれて、無事、蘭州の市内に到着したのである。それも、蘭州大学近くのホテルに、である。
 「ありがとう、皆さん」。

炳霊寺石窟の標示
炳霊寺の山門をくぐる
長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所
険しい岩肌に咲いている
なにか名前を付けたくなりますね。
彩色が残っている
ここも鮮やかに見分けられる
第11窟の釈迦坐像。菩提樹がヤシの木になっている
第82窟 北周。緑の彩色が鮮やか
第86窟
元代に掘られたと見られる舎利塔
大仏。全高27メートル
対岸へ渡る
北魏時代に制作された16窟の涅槃塑像。ダム建設にともない水没の危機に瀕したため9個に分割して移転
涅槃塑像の近くにある炳霊寺文物陳列館。仏像など展示されている
天王 第10窟南壁・唐
法の番人の立像
騾馬の像(銅製)
ご馳走になった食堂のメニュー

蘭州市内観光のスタート
 今日は蘭州市内の観光である。何度も繰り返すようで恐縮であるが、「蘭州と言えば黄河」である。その関係で言えば、『中山橋』である。この中山、すなわち『孫文』の名を関した橋は、100年以上前にアメリカ人の設計、ドイツ企業が施工した鋼橋で、『黄河第一橋』の名を持つほど有名である。蘭州駅から北に向かう天水路と、それに交差する東崗西路(とうがんせいろ)が主要道路となっており、さらに黄河が東西に流れているので、とても分かりやすい。例によって、道に迷った時には「黄河」と言って道を尋ねれば、とりあえず川岸に行くことができるので、後は何とかなる。おさらいしてみる。私のホテルは、駅から天水路を北に向かい、蘭州大学で右折すると東崗西路、そこから100メートル歩いて右側に、…「あったぁ、大丈夫だ」。

黄河第一橋
黄河に架かる中山橋
中山橋を歩く 。私の習性である。美しい橋を見れば、歩きたくなってしまう

白塔山公園
 中山橋の西側に、黄河をまたぐ形で建設されたロープウェイに搭乗して、『白塔山公園』に登ることができる。白塔山の名前の由来は、山頂の寺院に白塔があることから来ている。寺院は、チンギス・ハーンに謁見するために、チベットから派遣されたチベット仏教の僧職者僧が病死したため、その供養のために元代に建立されたものだが、その後、明代に改修されたものが現在の姿である。
 元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓、清の康煕57年(西暦1718年)に青銅で造られた鐘などが、その存在感を感じさせていた。建築関連の人達だろうか、専門用語が飛び交っていたが、1958年に建立、2013年に改修されたシャクヤク亭は、その二層八角形の僧帽屋根を持つ特異な形からカメラのシャッターを浴びていた。
 ロープウェイの山頂駅から10分程歩いた所に、『蘭州碑林』と刻字された立派な門が建っている。入場すると、日本のお城を派手にしたような建築物と美しい庭園がある。碑林は、回廊や建物の中に、黄河文明、シルクロード文明、西部文明の碑文を中心に展示している。ある意味、とてもマニアックというか、書道芸術の切り口から展開する、それに特化した空間を提供している。ここの庭園、そして、ここからの眺めは特筆に値する。

山頂に建つ白塔
元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓
清の康煕57年(西暦1718年)青銅で造られた鐘
二層八角形の僧帽屋根を持つシャクヤク亭。1958年建立、2013年改修
蘭州碑林の美しい建物と庭園

 ここは蘭州である。したがって、白搭山の最後も、やはり黄河である。近代的なビルを従えて悠然と流れる黄河は、悠久数千年の中国のエースである

白搭山から見た悠久数千年の中国のエース ・黄河

甘粛省博物館
 ここ蘭州にある甘粛省博物館は、甘粛省内各地からの文化財や化石などを展示する著名な博物館であり、また、外国人であってもパスポートを提示すると免費(無料)のチケットを貰えるためか、多くの人々が訪れる。バスによる交通の便も良く、近くのバス停『七里河橋』で乗降できる。
 地下1階、地上3階建ての建物を、「甘粛シルクロード文明」「甘粛の彩陶展」「甘粛古生物化石展」の三つの部門に分けて、それぞれ特色ある展示物を公開している。黄河上流域で出土した彩陶や漢代の木簡、青銅像、マンモスの化石等々、膨大な出土品が展示されているが、その中から著名なものをいくつかご紹介したい。
 子供達にも人気があるのは、化石展のマンモスの化石で、実物骨格も展示しているので、その迫力に圧倒される。子供達は、横目でまわりを見ながら、幼い仕草で マンモス に恐るおそる触ろうとしては失敗している。「可愛いですね」。「駄目か?」。

甘粛省博物館 は、甘粛シルクロード文明(2階)、甘粛の彩陶展(3階)、甘粛古生物化石展(2階)の3つのコーナーに分かれている
マンモスの化石
マンモスの化石

馬踏飛燕像
 次に、登場させるのは、この博物館で一番人気と言って良いでしょうから、時間を割いてご説明しましょう。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から、多くの文物とともに発掘された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像(ばとうひえんぞう)』である。走る馬をかたどった青銅像で、高さ35センチメートル、頭から尾先まで45センチメートルである。馬が三本の脚で宙を蹴りながら天翔けるさまを表現し、残る一本の脚が踏みつけているのは燕であると言われている。他方で、『燕』ではなく、『龍雀』という空想上の鳥という説もあるそうだ。また、この奔馬は西域から入ってきた「『汗血馬』がモデルではないかという見方が多いそうだ。先に、西安近郊の『茂陵』の項で述べたが、“武帝が作らせた像・『馬踏匈奴』に出てくる伝説の名馬『汗血馬』”のことである。いずれにしても、空を飛ぶ燕を踏みつけながら天に舞う馬の姿は、まさに“ダイナミック”の一言である。一説によると、日本とも因縁の深いあの『郭沫若』が『馬踏飛燕』と名づけたそうだが、確認はしていない。
 古来、この国にとって馬は重要な兵器。どの為政者も“強い馬”を求めて西方に向かった。万里の長城も、馬が乗り越えられない高さに築かれていることは、ご承知の通りである。
 ジョークに聞こえるかもしれないが、現在でも“良血馬”を求めて、世界の金が動いているとも言える。

1969年、武威の雷台廟で発見された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像』。高さ34.5センチメートル、長さ45センチメートル
馬の頭の飾り。西周(紀元前1046-771年)
唄う俑の置物 春秋(紀元前770-476年)
張弿。武帝の命により匈奴に対する大月氏との同盟には失敗したが、漢に西域の多くの情報をもたらした
馬を引く三彩胡人俑
駱駝を引く三彩胡人俑

中国・河西回廊 西安郊外(4)~崋山~ 

西安郊外最後の訪問地・崋山
 『登山の愛好者』と言われる方々を引き付けるものは何なのだろう。目的地に辿り着く達成感、自然との触れ合い、ストレートに健康増進、高所から見る折々の景色、…等々、色々あると思われるが、特別『登山の愛好者』とは言えない私にはよく分からない。私が観光地としてガイドブックに載っているような山に登ったのは、2013年に訪れた中国・昆明の『西山森林公園』である。『登山の愛好者』の方々には、お叱りを受けるかもしれませんが、時間があったので、「いってみようか」といった程度であった。詳しくは、改めて別稿として書く予定であるが、動機が動機なので、達成感は無かったが、中国人の親切さ、自然との触れ合い、景色の美しさを楽しんだ記憶がある。もちろん、それらを楽しんだだけでも、十二分なのだが。
 今回の西安から出かける『崋山観光』は、「多くの人達が勧める著名な崋山を楽しんでやろう」と、少しは気合が入っている。2ページの記事が載っているガイドブックからの情報しか持っていない、「親切な中国人に期待して」出かけることにした。

崋山のお助けお嬢さん達
 西安駅前東広場の観光専用バス『游1路』に朝7:00に乗車して約2時間でバスセンターみたいな所に着く。一緒のバスに乗ってきた中国人達の流れについていくと、小さな建物に入っていく。どうやらここは崋山全体を概略的に説明し、頂上までの行き方、交通手段などについてガイダンスをしてくれる場所のようだ。大まかな説明の後、壁に貼ってあった詳しい地図を眺めても、もう一つ、合点がいかない。他の人達は思い思いに目的地に散らばっていく。とりあえず建物を出て、うろうろしていると、20代と思われる若い女性の3人組が私の方を見ている。「英語を話せますか?」と、聞かれる。『今日のお助けお嬢さん達』の登場である。私の希望に配慮しながら色々なアドバイスをくれる。しかし、私自身、崋山のことをよく分かっていないので、「希望を伝える」には動機も知識も不足している。相当に英語が上手なお嬢さん達だったので、微妙な意思疎通もできそうなので、「西安も崋山も初心者である」ことを伝えると、「では、一緒に行きましょう」と言ってくれる。日本語で、 心の底から 「ありがとう。よろしくお願いします」と、頭を下げた。

一緒に行きたい
 早速、アドバイスである。「山の上は風が強く寒いので帽子を買った方が良い。私も買うので一緒に行きますか?」。「えっ、えつ、アヴェック・シャッポウ?」と、和風フランス語が出てしまった。彼女は白、私は黒を選んだが、「こちらの方が良い」と違うのを勧められた。迷っていると、あご紐の有無だった。風で飛ばされないようにという配慮だった。もちろん「サンキュー」だ。
 バスに乗って旅客センター(遊客中心)に行く。そこで、①景区の入場チケット、②西峰の太華索道のチケット、③ロープウェイの山麓駅までのシャトルバスのチケットを購入する。「私達」、(彼女達の気遣いで、いつのまにか「私達」と甘えている)、私達はロープウェイを降りた後の移動が楽だという『西側の太華索道』を選んだ。2013年に開業した全長4,211メートルの世界最長クラスのロープウェイで、ロープウェイの頂上まで約22分で一気に登ることができるそうだ。ここで、私は仲間のお嬢さんに年齢を聞かれた。そして「パスポートを出して下さい」と言われた。急峻な場所なので、「登山日誌にでも記入を求められるのかな」と思いつつ、パスポートを見せると、「フリー」と言われた。お嬢さんは、にこにこ、可愛い笑顔で「免費!」。私の年齢では、『入山料』というか、『景区の入場料金』は無料だったのだ。「ありがとうございます」。

崋山景区の全体説明。この後、各自が登山ルートを選ぶ
バスチケット
入山チケット(免票)
ロープウェイの片道チケット(西峰索道)

崋 山
 仲間のお嬢さんが、デイバッグから崋山について英語で説明したA4判1枚の紙を取り出して私にくれた。これ幸いと、ここに転記させてもらう。『華山は最高峰である南峰(落雁峰2,154メートル)、それに北峰(雲台峰1,614メートル)、中峰(玉女峰2,037メートル)、東峰(朝暘峰2,096メートル)、西峰(蓮華峰2,082メートル)の5つから構成される。山頂の道教の寺院は、建立してから1000年以上も経つ』。ほぼ、こんな内容だ。あっ、そうそう、崋山全体の簡単なルート図も載っていました。
 「さあ、出発だ」。シャトルバスに乗ってロープウェイの山麓駅まで移動する。高山病対策なのか、吸入器のセットが売られていたが、高齢の方々は、最初から携帯していた人達もいた。山を見上げると、本当に高い山だ。立派なロープウェイであるが、花崗岩が露出した険しい山肌が続く景色は、最初のうちは恐怖の連続であった。さすがに慣れてくると、まさに著名な景勝地として知られているだけあって、可愛いお嬢さん達の恐怖の声は歓声に変わる。20数分で太華索道の頂上に着く。外へ出ると。急峻で美しい景色に改めて歓声が上がる。
 西峰の頂に建つ翠雲宮も人気である。前にある石が蓮の花の形をしていることから蓮華峰と呼ばれているが、この近くにあるコーヒーショップの“華山珈琲”の“今日のおすすめ”の看板はユーモアたっぷりで、笑いを誘っていた。今、12時30分である。頂上付近なので最高の眺めが得られるせいか、多くの人達が店の中ではなく、外に適当な場所を見つけて思い思いに昼食を取っている。
 さて、私である。急峻で、切れの良い景色、そして、明るく可愛いお嬢さん達に囲まれて、私はおいしいサンドイッチとチョコレートと、…をいただいている。お嬢さん達に分けてもらった貴重な食糧&デザートである。2015年5月18日、このところ悲しいこともあった私には、忘れられない楽しい、そして美しい心に触れられた『崋山』であった。「ありがとう、崋山」、「ありがとう、皆さん」。

皆で出発
入  口
西峰索道(ケーブルカー)乗場
西峰索道
花崗岩が露出した険しい山肌が続く
西峰索道(太華索道)の頂上
西峰の頂に建つ翠雲宮。前にある石が蓮の花の形をしていることから蓮華峰と呼ばれる
翠雲宮のアップ
翠雲宮近くにある“華山珈琲”の“今日のおすすめ”はユーモアたっぷり
怖い
このような所もあります 。下を向いて座り込む人もいた
子供を授かるように 。同行のお嬢さん達は顔を見合わせて、「きゃっ、きゃっ」と…。
「何とも言いようが無い 美しさ」を感じるのは、世界共通の美意識なのだろうか?
鐘 楼
色々なご利益がある金鎖閣
北峰索道

中国・河西回廊 西安郊外(3) ~半坡・香積寺~

導入部
 西安郊外の旅のうち、昨日は、兵馬俑→華清池→半坡辺りをうろうろしていたのだが、素晴らしい旅だったせいか写真が多くなり、(私の考える読者諸氏の)一回の読み切り量をオーバーしてしまいそうなので、前回は兵馬俑と華清池を一つにまとめた。今回は、前回入れられなかった『半坡博物館(はんぱはくぶつかん)』と、新たに宗教関係の史跡が多い南線ルートの中から浄土宗発祥の地として著名な『香積寺(こうしゃくじ)』を加えて一つにして、まとめたい。
 兵馬俑博物館のガイドのお嬢さん達はとても親切で、自分たちの守備範囲ではないのに、華清池から半坡博物館への行き方を中国語でメモしてくれた。このメモを運転手に渡せば、目的地の近くで降車の合図をくれる仕掛けである。45路バスの『半坡博物館』で降車、あるいは、11、42、307路バスで『半坡』へ向かえばよいとのことである。運転手さんに渡す中国語のメモのおかげで、スムーズに『華清池』から『半坡博物館』に来ることができた。若いお嬢さん達に親切にされることは、まっこと、気持ちがよく、健康に良い。ありがとう。(「お前は正直すぎる」の声が聞こえる)。

半坡博物館
 ここは、約6000年前の母系氏族社会の遺跡『半坡博物館』である。時代的には新石器時代に属するが、耕作中の農民により発掘されたのは1953年と比較的新しい。中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、いわゆる『仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)』の代表的遺跡である。中国で唯一完全な形で現存する原始人社会遺跡である。規模的には約5万平方メートル、最盛期で500~600人程の規模の集落であったと推定されている。 
 『半坡博物館』は、遺跡の一部を体育館のような大きなドーム型の建屋で覆って、そのまま保護展示した博物館であり、このドームで保存するという試みは、中国で初めて行われた博物館だそうである。この村落遺跡は、おおまかには、居住地、公共墓地、陶器製造場に分けられ、それぞれに説明が加えられている。
 そもそも、 私には基本的に考古学の知識が無く、半可 通 な知識で語っては、せっかくここを訪れた方々に、申し訳なく、また失礼になってしまう。
 ここでは写真を中心にご紹介したい。

西安半坡博物館の案内図
半坡遺跡の出土文物展(陳列室)
半坡人と現代中国人の体質人類学の比較
尖底瓶。描かれた文様も独特
半坡遺跡
遺跡の北側にある公共墓地区の遺跡
集落の様子が分かる遺跡

今日のお助けマン
 今日は、西安郊外の南線ルートと呼ばれている、宗教関係の史跡が多い中でも、特に著名な『香積寺』に向かう。いつものことであるが、日本で使っている数珠を携帯している。
 『私は、旅行先にそれなりのお寺がある時は、宗派を問わずにお参りあるいは見学することにしている。ましてや、これからお参りする香積寺(こうしゃくじ、こうせきじ)は、浄土宗発祥の地である。ゆっくりと一人旅である。金花北路から遊9路バスに乗り、1時間15分くらいでバス停『香積寺村』に着く。あらかじめメモ用紙に『香積寺村』と日本語(漢字)で書いて運転手さんに見せてあったのだが、中国語と似たような字なので理解してくれたのだろう。運転手さんが親指を下に向けて「降りろ」と合図している。そして、渡したメモの『香積寺村』の『村』に丸印をつけて、バスの右側を指さしている。止まった所は大きな通り(子午大道?)にあるバス停で、降車口の右側には何も無い。首をかしげると、もう一度、マークした「村」を私に見せて、右側を指差す。指さした右側には、…?…、「村?」、…、「あった!」の大声は私の日本語である。。大きな通りの右側に並行するように小さな道があり、『村道』と書いた小さな青い看板が立っていたのだ。バスの運転手さんは、それを知らせようとして、メモに書かれた『村』に丸印をつけてくれたのだ。賢くそして親切な『お助けマン』に今日もお世話になった。ありがとう、西安のお助けマン。

『香釈寺村』で降車後、『村道』を歩いて香積寺に向かう

香積寺
 村道を歩いて10分。見えてきました。706年(唐の中宗の神龍2年)、浄土宗の門徒達が第2代祖師善導和尚を記念して建立した仏教寺院、浄土宗発祥の地『香積寺』についにやってきました。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承から「香積寺」と名付けられたそうである。善導和尚(613~681年)は、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家した。一生涯を浄土念仏の布教活動に費やし、 善導和尚が書き上げた『観経四帖疏』は、我が国の浄土宗の開祖・法然に大きな影響を与えたことはよく知られている。 
 日本の浄土宗信者も善導の墓所である香積寺を『祖庭』としており、1980年には善導和尚の円寂1300年を記念して善導太子像を寄贈している。仏教における『祖庭』とは、各宗派の開祖が在住、宣教もしくは埋葬された寺のことを言う。また、耳学問であるが、ここで言う『円寂』とは、「涅槃寂静 円満成就」を略した言葉で、悟りの意が転じて僧侶の死を意味する語となったそうである。
 ひときわ目立つのは、創建当時の建物で、現在、唯一残っている 『善導塔』である。 唐代680年に建てられた高さ33メートルの善導法師の舎利塔である。13階建てであったが、現在は11階まで残っている。文化大革命で大きな被害を受けて、現在の建築は『善導塔』以外は1980年以降に修繕・再建されたものである。
 唐代の詩人王維が『過香積寺』という詩を詠んだことでも有名である。引用で恐縮ですが、訳文とともに掲載させていただきます。
「不知香積寺,數里入雲峰。古木無人徑,深山何處鐘。泉聲咽危石,日色冷青松。薄暮空潭曲,安禪制毒龍」。
「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」

浄土宗発祥の地・香積寺 の大きな門
香積寺
ここは立ち入り禁止
仏 像
天王殿に安置された布袋様
鼓 楼
香積寺善導塔
華やかな内部
大雄宝殿
大雄宝殿に安置されている善導大師座像

中国・河西回廊 西安郊外(2) ~兵馬俑・華清池~

今日の日程
 今日は、2015年5月16日。西安郊外の観光で最も人気のある東ルートと呼ばれる地域を一人旅である。訪れる場所を簡単に記すと、西安駅東広場前の遊バス(306路あるいは遊5路バス)に乗車→次の停留所(バスストップ)である『華清池』で降りずに→終点の『兵馬俑』で降車→『秦始皇帝兵馬俑博物館』見学→(戻って)『華清池』で降車→楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』見学→45路バスで『半坡博物館』、あるいは11, 42, 307路バスで『半坡』へ→母系氏族社会の遺跡『半坡博物館』見学、といった旅程である。
 ただし、上記の旅程を一つにまとめて、『兵馬俑・華清池・ 半坡博物館』 とするには物理的に量が多すぎるので、 ここで は 『兵馬俑・華清池 』 としてまとめ、『 半坡博物館 』は次の項に譲りたい。 

兵馬俑 は人気がありすぎる
 言わずと知れた『秦始皇帝兵馬俑博物館』である。毎年500万人以上が訪れ、その数字は年ごとに伸びているという。祝日が続く10月の中秋節の週では、なんと40万人を超える人々が訪れたそうだ。この博物館について説明を試みても、入場者が多いことと比例して、インターネットへの投稿数が圧倒的に多いため、どこかで似た文章になってしまう。屋外と違って狭い館内を写すことから、写真自体も「どこかで見た写真」になってしまう。デジカメが普及していない、いわゆるフィルムカメラの時代であれば、フィルムの供給が追い付かなかったであろうと思われる。

秦始皇帝兵馬俑博物館
 館内には多くの情報がパネルで示されているが、その一つ、一号坑の解説パネルに『打井位置』と題してこの兵馬俑が発見された経緯が記されていた。簡単に言うと、「1974年、地元の農民が水を探して井戸を掘っていた時、いくつかの陶器の破片がここで発見された」。兵馬俑坑発見のきっかけである。この総面積約1万4260平方メートルの1号俑坑を皮切りに、北側に2号坑俑(第1号俑坑のほぼ半分の広さ)、3号俑坑が発掘されて、3つの俑坑の規模は2万平方メートルと言われている。そこに8,000点を超えると言われる陶製の兵馬が、地下に整然と並んでいる。死後の秦始皇帝を守るためである。
 70万人を動員して造られた兵馬俑であるが、兵力100万、戦車千両、騎馬1万、そして兵士の平均身長180センチメートル、馬の体長2メートルと、『史記』に記載されているという。第2号兵馬俑の広さは、第1号兵馬俑のほぼ半分であり、兵士には、歩兵、弓の射手、騎馬兵が含まれている。4頭の馬に引かれた戦車が全面積の半分を占めており、秦の時代の戦争は戦車中心であったことが分かる。前後を戦車と歩兵に守られた将軍の俑が全軍を叱咤するように立っている。身長約2メートルのひときわ高い一隊である。個人的に特に興味を持ったのは、小さな金属片を鋲でつづった兵士の甲冑(かっちゅう)である。その機能性と同時に、日本の武将の纏う鎧の美しさを想起させるものであった。
 秦はわずか2代、10年余りで滅び、続いて項羽に勝った劉邦の漢王朝が成立する。この辺りの歴史はダイナミズムにあふれ、『血沸き肉踊る』が、ここは、『秦始皇帝兵馬俑博物館』の舞台であるので、咸陽(かんよう)で出土された『漢の兵馬三千俑』があることを述べるにとどめ、詳細についてはここでは割愛する。
 説明が前後したが、『俑』とは権力者や為政者の死を追って、臣下がその死に殉じる代わりに埋葬された人形(ひとがた)のことである。ここでは、兵士俑は隊列を組んで東向きに並んでいるが、その方向とは敵国のある方向である。8,000点を超える俑を比較することは私には不可能であるが、ガイドブックによると、陶製の兵馬は、表情、髪形、衣服はどれひとつとして同じ形のものはないという。これは、始皇帝の軍団が多様な民族の混成部隊であったということであろう。

始皇帝兵馬俑博物館入口
一号坑の内部。整然と隊列を組む兵馬俑
銅製馬車のうち先導車
整然と並ぶ俑
整然と並ぶ俑
その数に圧倒される
農民の楊さんが井戸を掘削中に陶器(兵馬俑)の破片を発見した場所
整然と並んでいる
跪射俑
棚木遺跡
二号坑で発見された騎兵
立射俑
銅 剣
7人の将軍の一人。あごひげがあって威厳がある
兵馬俑坑、三号坑入口
兵馬俑坑の三号坑の様子。土中の兵傭を見ることができる

華清池
  西安駅東広場前から遊バス に乗って、ここ『兵馬俑』に一気に来たのであるが、ここに来る時に途中下車しなかった『華清池』に、戻りのバスで向かう。玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』である。気のせいか、女性の観光客が多いように感じる。
 『驪山』。私はこの字、『りざん』を読むことができなかった。辞書によると、『驪』には『黒色の馬』、『黒い』などの意味がある。海抜、約1300メートルの『驪山』は秦始皇陵や兵馬俑博物館まで見渡せる山で、これから訪ねる予定の『華清池』からロープウェイもあるが、そこからさらに歩かなければならないそうで、止めることにした。というか、温泉とロマンスの場を早く観たかったのである。
 その驪山の北麓に位置する華清池は、風景に加えて温泉が魅力の観光地である。でも、観光客の目的は、温泉に入る一部の女性?もいらっしゃるが、その大半は『楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス』の場を観るためである。楊貴妃(姓は楊、名は玉環719~756年)は、中国四大美女の一人、西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の、あの楊貴妃である。

楊貴妃
 歴代の王朝がこの場所に離宮を造ったが、唐の天宝年間(742~756年)には、華清宮そして池ほどの大きさの温泉が造られ、玄宗皇帝は寒い季節には自分の養生のため毎年訪れたそうである。
 本当であろうか?私は違うと思う。愛した、好きになった、美しく聡明な女性が「より美しくなりたい」と懇願したとしたら、いや、「楊がそう思っている」と気づいたら、『男たるもの』は、口に出さずに、「レッツ・ゴー」なのである。それほど、玄宗が惚れていたというか、楊が惚れさせたというか、「この色男と色女めっ」。その楊貴妃が使ったという温泉の跡を丁寧に写真で巡る。

驪山の北麗に位置する温泉と風景の美しさが有名な華清池
華清池入口にある玄宗皇帝と楊貴妃の像
玄宗皇帝と楊貴妃の像。噴水で雰囲気を出している
騨山を背景にした古代ロマンスの舞台である長生殿
華清御湯
楊貴妃専用の『海棠の湯』に入っているこの姿を想像したら世の淑女たちに叱られるでしょうか?
楊貴妃像の奥にある温泉古源(温泉の源泉)。横に『泉無料体験』の表示あり
美人湯で顔を洗うのは、洋の東西を問わず女心。蓮の花の中心から、手で触ると少し温かく感じるお湯が出ていた。ということは私も顔を洗った。必要ないのだが
尚食湯。唐の時代、食事を作ったり、皇帝の世話をする人々が入る湯である
玄宗皇帝専用の湯、蓮花湯。10.6メートル × 6メートルと大きい
楊貴妃が入浴した『海棠(かいどう)の湯』。海棠の花の形をしていて、3.6メートル x 2.7メートルのサイズ
唐の太宗である李世民の時代に皇帝用の温泉として作られた星辰湯。18.2 メートル x 5 メートルとかなりの大きさ

あなたの好みは
 最後に、楊貴妃のボディ・サイズは?出典不明であるが、身長167センチメートル、体重64キログラム、…、後は教えない。写真を載せましたので、御自分の好みで造形してください。どうでも良いことですが、ジムで鍛えている私より1センチメートル低く、2キログラム重い、どちらかと言うと豊満で?…、あなたの好みで書き足してください。音楽や踊りの才能に恵まれた女性であったということですが、白居易(はくきょい)の『長恨歌』に描かれるとは、歴史のなせるわざか。華清池では毎日『長恨歌』と題した歌と踊りのショーが演じられている。(純な私めは)涙。ところで、『長恨歌』の英訳が、 『The story of everlasting』とあった。「単なる言葉遊びと笑われるかもしれないが、イメージとしてはこっちのほうが好きだな」。

一転、政治的事件
 ここは1936年に『西安事件』の起きた場所でもある。国民党と共産党の内戦のさなか、張学良、楊虎城が国民党の蒋介石を捕らえ、内戦終結と一致抗日を訴えた事件である。当時、滞在した五間庁のガラスには弾痕が残っている。最後に、この事件は、日本と中国にとってその将来を左右する大事件(大事変)であるが、ここでは数行で終わらせたい。政治的意図を持って訪れる人は別として、私を含めて多くの観光客にとっては、ここ華清池は『玄宗と楊貴妃のロマンスの地・華清池』なのである。バック・ミュージックに、フランシス・レイの『…』を入れてみたが、あなたはどんな曲を挿入しますか?

長恨歌芸術館
楊貴妃の衣装
歌と踊りのショー『長恨歌』が演じられる
望湖楼
1936年の西安事件の時 、蒋介石 が滞在した五間庁のガラスには弾痕が残っている

中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~

茂 陵
 先述したように、西線ルートは、市区中心部から離れて散在しているので、旅行会社の西線一日ツアーに参加することにした。西安鉄道駅に向かって右側にある西安バスターミナルの東広場を朝8:00に出発した。最初の訪問先は、前漢時代の陵墓群である。余計なことかもしれませんが、前漢時代とは大まかに言って、劉邦(りゅうほう)が中華を統一した時代を言う。前漢の11皇帝のうち、文帝,宣帝を除く前漢9帝の陵墓が東西50キロメートルにわたって、ほぼ真っ直ぐ並んでいる。最も大きい陵墓は第7代皇帝武帝(紀元前156~紀元前87年)の『茂陵(もりょう)』で、高さ46.5 x 東西39.5 x 南北35.5メートルで、基底部の四辺は240メートルと大きい。茂陵の築造は武帝17歳の時に始められた。完成後間もなく71歳で逝去。栄華を極めた人生だった。
 武帝には色々な逸話があるが、その一つは、宿敵『匈奴』との戦いであろう。前漢時代には、匈奴を野蛮な『夷狄』と呼んで恐れ、歴代の皇帝は、匈奴を兄、漢を弟と呼んで、貢物を届けていた。これに反旗を翻したのが武帝である。甘粛省西部にある山丹軍馬場は、2100年前の武帝の時代から続く軍馬繁殖場である。武帝は、はるか中央アジアから手に入れたと言われる優秀な馬の繁殖に力を注いで強力な騎馬軍団を作ったと言われる。一説には、40万頭に膨れ上がったという。そして、ついに匈奴を北方へと追い払うのである。匈奴に対する戦勝を祝して武帝が作らせた像が、『馬踏匈奴』である。昼間には千里、夜には800里走ることができると言われる伝説の名馬『汗血馬』は、馬が走る時に血のような汗をかくことから汗血馬と名付けられたそうだ。
 先に『歴史のおさらい』の中で登場させた人物の中に、『霍去病(かくきょへい)』を加えたことを覚えていらっしゃいますか?武帝が寵愛した武将で、紀元前 123年、18歳の時に叔父の大将軍、衛青と共に初めて、北方の異民族である匈奴征伐に従軍した。その後,匈奴征伐に5回赴き、この時代、最大の敵であった匈奴討伐に尽力した。紀元前 117年頃,病により 24歳で祁連山(きれんざん)で夭折した霍去病を悼んだ武帝は,彼の功績を讃えて手厚く葬った。墓は武帝の茂陵の近くに、叔父の衛青のそれと隣り合わせにある。

西安バスターミナル
霍去病の陵墓
匈奴を踏みつける馬(国宝)
去病石

懿(い)徳太子墓
 『懿(い)徳太子墓(博物館)』に向かう。懿徳太子は、唐の第3代皇帝高宗(628~683年)と則天武后(624~705年)の孫で、唐の第4代皇帝中宗(656~710年)の長男である。永秦公主の事件(高宗と則天武后の孫にあたる永秦公主が17歳の時に則天武后の情夫の批判をしたため、則天武后によって殺された事件)で、懿徳太子も則天武后によって殺された。
 参道と前後の墓室から成る全長100.8メートルの墓で、墓道から墓室につながる地下施設の壁面には彩色画が残っている。解説書によると、『闕楼儀仗図(けつろうぎじょうず)』は、当時の様子が表現されている貴重な壁画ということだが、乾陵博物館に移されたそうである。

懿(い)徳太子墓博物館
壁 画

武則天(則天武后)
 武則天について詳しく述べ始めると、漢の高祖劉邦の皇后『呂雉』、清代の『西太后』、そして唐代の『武則天(則天武后)』を“中国三大悪女”として述べなければ、「あれっ」ということになろう。小説、映画、TVドラマ等々、世界的に、そして歴史的に有名なのであるが、違う表現をすると、その本質はともかくも、そして真摯に歴史と向かい合って研究されている方々は別として、あの手この手を使って、面白おかしく登場させているとも言えよう。
 しかし、もし、私がこの種の女性にお会いしたら、どうするか?どうするも何も、目をそらしてすぐに逃げ出してしまうでしょうね、多分。「過去の歴史に現れた女性、それもとびっきりの魅惑的なというか、個性的な美女をとらえて悪態をつくのは、この場の役目ではない。ということで、ここでは、武則天について簡単に述べる」、と言い逃れしながら…。「意気地なし!」。私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう。
 則天武后は第2代皇帝太宗の後宮に入り、太宗の死後に尼になっていたが、高宗の第三代皇帝への即位により再度後宮入りして高宗の寵愛を得た。高宗が病気がちになると、その持前の能力を発揮して朝廷の政務を済決するようになり、高宗の死後は、皇太后、そして聖神皇帝として即位し、周をおこした。簡単すぎますか?では、もう一つ付け加えます。先に、『懿徳太子墓』の欄で述べた『永秦公主の事件』の繰り返しですが、則天武后は、自分の情夫の批判をしたことを理由に、17歳の孫娘を殺したのです。こんなことを改めて言うなんて、卑怯ですね。なんか、則天武后を悪者にして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている。言い逃れみたいですね。「私は。やはり、意気地なし!」みたいですね。
 なぜか、急に『つかこうへい』を思い出した。「今、義理人情は、女がやっているのです」のような名ゼリフがあったと思います。

乾 陵
 乾陵は、唐王朝第三代の皇帝高宗(628-683年)と中国の歴史上唯一の女帝武則天(624-705年)の合葬墓である。梁山の主峰と南の峰を利用し、唐長安城を模倣して建築したもので、正面の山(陵墓)に至る道(神道)が美しい。道の景観的には、神道に通じる526段の石段と18の踊り場(平台)が幾何学的な造形美を醸し出している。18座の平台は、唐の時代の皇帝の陵墓が18であることを意味し、また、2番目の21段の階段は、則天武后が政務をとった期間が21年であることを意味している。
 大型の石の彫刻が100件あまり現存していて、とりわけ乾陵司馬道の両側に分布する翼馬、無字碑、61蕃臣の石像などが存在感を示すように建っている。
 『無字碑』、つまり碑に何も記されていないのは、「自分の功績は文字で表現できない」という説や、功績は後の人々が決めるという説など、諸説があるそうだ。
 私が興味を持ったのは、首を切られた『61蕃臣の石像』である。彼らは、少数民族の指導者であり、また、唐王朝政府の官吏だったと言われている。こういう時代だったのですね。

乾陵参道。正面の山が陵墓。石段は575.8メートル
石像が続く
無字碑。「自分の功績は文字で表すことはできない」という説
参道脇にある無字碑
首を切り落とされた六十一蕃臣。彼らは少数民族のリーダーかつ唐王朝の政府の官吏だった
ド迫力

私の旅のスタイル
 旅行会社の主催する西線一日ツアーに参加し、午前の部は無事に終了した。西安バスターミナルの東広場から朝8時のバスで出発し、まず『茂陵』を見学し、次に『懿(い)徳太子墓』、そして『乾陵』で終わった。ツアーに参加すると、慣れていないせいか、ちょっと勝手が違うというか、戸惑うこともあるが、行先への交通機関の検索、乗り換え場所を間違わないようにする配慮等々から解放される。とても楽である。でも、何か、自分という物体が点から点に運ばれている感じがして、時間の余裕ができたのに人との接点が無いような感じがする。西安のような大都会では無理かもしれないが、もっと小さな町であれば、前もって運転手に中国語もどきの漢字のメモを見せながら「日本人です。どこどこに…」と言えば、その近くの停留所に近づくと、大抵の場合、「降りろ」と合図をくれる。そして、降りた場所から目的の場所への行き方を教えてくれる。もっと田舎になると、停留所でもないのに目的の場所で停車してくれる。あるいは周りのおじさん、おばさんが教えてくれる。これまでに相当数の国や都市を旅行したつもりだが、中国人は、本当に親切である。このことがらについては、これから何度も口にすると思う。
 ついでで恐縮ですが、イタリアのナポリあたりでも、周りのおじさん、おばさんが超親切に?教えてくれる。意見が違うと、おじさん、おばさん同士が喧嘩をしている。そうこうしているうちに、目的の場所を行き過ぎたこともある。「ありがとう、グラッツィエ・タンテ」。要するに、私の旅のスタイルは、『出会い』みたいです。『自由』みたいです。

法門寺
 午後は、1,800年以上の歴史を持つ古刹、『法門寺』を訪ねる。後漢の第11代皇帝桓帝(在位期間‎: ‎146~‎168年)から第12代皇帝霊帝(在位期間‎: ‎168~‎189年‎)にかけて建立されたお寺である。
 ガイドブックによると、言い伝えであるが、約2000年前、古代インドのマウリヤ朝の国王であるアショカ王(中国語で阿育王)が仏法を広めるために、仏舎利(釈迦牟尼の遺骨)を八萬八千四百に分骨して世界各地に送り、そこに塔を建てて、その中に仏舎利を安置したという。中国では19基の仏舎利塔が建立され、法門寺塔はその中で第五基といわれている。その経緯から、創建当時は阿育王寺と呼ばれていたが、西暦624年(唐の高祖・武徳7年)に法門寺と名付けられた。
 仏法のことを話しているのに、このような表現は不謹慎かもしれないが、1987年に信じられないことが起こった。1981年の大雨で法門寺の塔が半壊した結果、1987年から基礎部分を含めた修理が始まった。その時に、1100年あまり密閉されていた地下宮殿が発見され、調査の結果、なんと、『指の仏舎利』と貴重な仏教文物が発見されたのである。発掘物、文献、碑文等についての専門家による分析の結果、本物の仏舎利であると実証されており、現時点では仏教界の最高の聖物であると言えよう。地下宮殿の後方にある八重宝函には、仏舎利を入れるために金銀、真珠、宝石、玉石、象牙で作られた『入れ子細工』の箱が陳列されている。御存知のように、『入れ子細工』とは、同じような形状で大きさが異なる容器などを順番に中に入れたもので、ロシアの『マトリョーシカ人形』が有名である。
 この地下宮殿内に納められている『指の仏舎利』を見たくて、我々観光客はここに来るわけである。仏教界最高の聖物と言っても過言ではない『指の仏舎利』の価値もさることながら、とにかく巨大な寺院である。

法門寺
再建された明代の仏塔。仏舎利はこの塔の地下に納められていた
法門寺珍宝館。ここに『八重宝函』がある
仏舎利を納めた八重の宝箱『八十宝函』
仏舎利を納めた八重の宝箱『八重宝函』・第一重
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