中国・北京とその周辺

あと何年もつやら
 今は2019年11月である。1979年から始まった協会誌などに寄稿した海外旅行の旅日記は、この旅行記『方向音痴の旅日記』の中の『このHPおよびブログの構成』で既にご案内のように、『旧旅行記』あるいは『旧写真旅行記』としてアップロードしましたが、これから始める未掲載の旅日記は『新旅行記・アジア』あるいは『新旅行記・ヨーロッパ』として進めたいと思います。後者については、既に、クロアチアから始まってブルガリアまで続く『中欧』をアップロードしました。
 そこで、本稿です。『新旅行記・アジア』のスタートとなるのは、中国です。この後、少々時間を空けてから、『毎年1か月間中国旅行』が数年続きます。もちろん、十数億の民、長い長い歴史と文化、広大な国土と都市、…、永遠に続けても、…、それよりも私自身があと何年もつやら、…。
 さて、始めさせてください。よろしくお願いします。

スタートは中国
 約14年前の2005年、私にとって初めての中国旅行である。タイトル『中国・北京とその周辺』とあるように、この稿は北京周辺 、具体的には、北京市内、 万里の長城・八達嶺長城、 そして 明十三陵 であるが、これに続く第2弾は北京から一気に飛んで新疆ウイグルへの一人旅である。「お父さん、大丈夫?高学歴の人達は英語が上手だけれど、普通の人民には英語は全く通用しませんよ」と北京に住む娘に言われる。そう言われりゃ、心配になってくる。私の旅行の目的の1つは普通の人民と接すること、普通の人民の目を通してその国を見ることである。でも、実際に行ってみないことには何事も始まらない。そして、こんな言い方には合理性が全くないのであるが、「今まで、言葉が通じない国々でも英語で何とかなったし、大丈夫だ」。そう言って、今、成田空港経由で北京に来ている。娘と1歳になる孫と久々に会って、短い逢瀬を楽しんでいるというわけである。
 首都北京についてほとんど予備知識を持たずにいきなり訪れたせいか、想像していた以上の高層建築物の多さに驚き、自転車が人民の交通手段だと思っていたのにタクシーも普通に拾えることに驚いた。ここでは娘の通訳が頼りになるので、安心して色々なことを質問できるが、逆に言うと、専属の通訳がいるということは緊張感がなく、集中力が散漫になることが分かった。いつも欧米を中心に一人あるいは家族で旅をしている時は、言葉がそこそこ通じても、ある種の緊張感をもって生活するわけで、新しい発見であった。

天安門付近
 とりあえず、北京の中心であり、どこに行くにも便利な『天安門広場』に行く。天安門広場とその周辺は、あまりにも広く、相当の広角レンズを使っても収まりきらないので、数枚をつないで合成した写真である。実際の見え方とは違いますのでご注意ください。この辺りはあまりにも有名で、TV等にも露出度が高いので、つまり皆さんが日常的に目にする風景なので、列記するにとどめる。毛沢東の巨大な写真を掲げた天安門、天安門広場西側に位置する人民英雄記念碑と人民大会堂が目に入る。人民大会堂は、全国人民代表大会などの議場として用いられ、また外国使節・賓客の接受の場所としても使用されることから世界に向けての露出度の高い建物である。
 そして、観光客のお目当ての『故宮博物院』である。建物の美しさは元より、幾多の歴史の舞台となり、また、映画やTVドラマの舞台『紫禁城』として登場する、まさに主役である。

天安門広場
故宮の南側にある天安門のアップ
人民英雄記念碑と人民大会堂

故宮博物院
 中国の元・明・清の三代の朝廷の中心だった『故宮』は、世界中の観光客を集める北京随一の観光名所である。現存する建造物の多くは清王朝の時代に修復あるいは再建されたものである。笑い話に、「故宮について語ると、永久に終わらない」と言われるほど、その濃密な歴史、広大な空間、多様性、…と、追い込んでいくとフォローできなくなってしまう。そこで簡単で申し訳ないが、ガイドの引率のもとにツァーの人達が見学する見どころの一部を参考にしてご紹介したい。
 故宮は『外朝』と『内廷』に分けられる。観光客に人気があるのは外朝で、正門である南門(午門)から太和門、太和殿、中和殿、保和殿と続く。太和門をくぐると見えてくる太和殿、中和殿、保和殿は三大殿と呼ばれ、紫禁城の中心である。中国人観光客の一番人気は、大和殿にある亀鼎である。人民は、禁止されているのに中に入ってカメに触ろうとしている。この亀鼎は皇帝の長寿を示したものだそうだ。そういうことか。
 私は、十分に生きてきたので、触らなかった。

故宮博物院の案内板
太和門
太和殿
皇帝の長寿を示した亀鼎(大和殿)

フートンと四合院
 天安門や故旧院辺りの広大なエリアをゆっくりとまわると、相当に時間を費やす。孫もぐずり始めたので、天安門から近いフートン(胡同)に移動した。私は長い間、道路に関する研究に従事してきたが、『胡同』を訪ねる理由は、専門的な興味を覚えたのではなく、北京市の旧城内を中心に点在する細い路地や街並み、庶民が日常生活を送る空間が好きなのである。中国語の簡体字では『胡同』と書くそうで、通称、フートンは、歴史的には、元の統治時代の名残である。
 数年後から中国各地を毎年約1か月間ずつ、旅行するのであるが、路地や通りについての知識が町を理解するのに役に立つことがとても多いので、ここにまとめておこう。道路の規格で言うと、胡同は東西に走る幅員9メートルあまりの道路のことであり、幅員が2倍、4倍となると、それぞれ、『小街』、『大街』と呼ばれる。  
 このような由緒ある、そして風情のある街並みの見学は、『輪タク』と呼ばれる人力三輪車がぴったりだ。青空のもと、広がる空間の空気感ともいえる一種の匂いを感じられる乗り物である。値切られた輪タクの車夫は、心得ていて?孫の世話に一生懸命である。そして、ガイドの言語は当然中国語であるが、街や建物の説明のタイミングも良い。
 このような空間を廻る時は、むしろ説明は蛇足であって、写真を並べたほうがよいであろう。このあたりが、デジカメの無かった昔の旅行記と大きく違うところであろう。もっとも、話の展開によっては、個人旅行で味わえる人との交流や歴史の掘り下げという旅行の醍醐味の一つが欠ける恐れもあるが。
 ここで、もう一つ。古き良き北京の面影をしのばせる『四合院』に御登場願おう。胡同に面して長方形の敷地の四方を壁で囲み、中庭を囲むように四方(東西南北)に建物を配置する建築様式が『四合院』である。華北地方に広く見られる様式だという。私もこの伝統的家屋建築に魅せられて、北京に来る時は、しばしば利用する。旧鼓楼大街の胡同(フートン)にあるホテルであるが、対設備などを考えると経済的なホテルとは言えないが、そこはそれ、求める質が違うのである。それにこっそりお教えしますが、もちろん訪ねる時期によって異なりますが、このホテルの場合は特に1か月以上前に予約することが秘訣です。「当たり前だ。早期予約は安いのは常識だ」と言うなかれ。お試しあれ。

フートンそして市街北部へ
 『輪タクガイドおじさん』が威儀を正して発した言葉は「マオ・ヅドン」(と、聞こえた)、「毛沢東」である。毛沢東の生まれた家であった。敬意を表して頭を下げた。この近くは、古い建物が残されていて、まさに『オールド北京』が続く。左翼的作家、評論家として著名な茅盾(ぼう じゅん、1896–1981)が住んでいた家(茅盾故居)もここにあった。
 そして、人気の国子監街である。元代初期から存在する古き良き時代を思わせるような街並みは、俄然人通りが多くなる。この界隈の中心ともいうべき北京国子監は、元・明・清時代の科挙(官吏登用試験)の試験場、つまり貢院(こういん)の最高峰で、国家の最高学府だった所である。1306年に造られた。隣にある孔子廟は1302年に造られ、現在は、首都博物館として知られている。多くの人が国子監や孔子廟を訪ねるのは、博物館で調べものをするためではない。わが子、わが孫達が、上位の最高学府に入学できることを願って訪れているのであろうか。冗談に、「ここには裏口は無いのですか」とガイドに聞いたが、意味が通じなかった。
 ここから東に向かうと、清代に開かれた北京最大のチベット仏教寺院、雍和宮がある。チベット仏教は、清朝をおこした満州族が伝統的に信仰していた宗教であった。清朝の歴代の皇帝によって変遷があり、清の第4代皇帝・康熙帝(‎1662-‎1722)の時代に親王の座にあった後の第5代皇帝・雍正帝(1678-1735)の邸宅がおかれた。ガイドブックによると、実際には雍正帝の特務機関だったと言われている。その後、第6代皇帝・乾隆帝‎(1736‎-‎1795)の時代の乾隆9‎(1744)年になってチベット仏教の寺院に改修され、全国のチベット仏教教務の中心になった。今見ている雍和宮がそれである。
 雍和宮の北側にある法輪殿は独特の姿のせいか、カメラを向ける観光客が多い。正殿だけあって黄色の瓦の屋根の上に5つの楼閣が造られており、その上に小さなチベット式塔が載っている。
 雍和宮の最も北側にある満福閣の歓喜仏は今でも観光客が多いのだろうか?刺激が強すぎて写真を撮るのを忘れてしまったが、「どうしても」と言われる方は是非、お訪ね下さい。雍和宮の北側ですからね。

『輪タク』ガイド
毛沢東の生まれた家
オールド北京
國恩家
茅盾故居
北京国子監
北京国子監の隣にある孔子廟
首都博物館の入口。奥に孔子の像が見える
雍和宮(ようわきゅう)
法輪殿

夜も忙しい
 中国雑技ショーは、上海雑技が有名と言うことだが、観ないことには評論はできない。いや、評論などどうでもいい、楽しめればいいのである。よく、「バレエと同じで、雑技はセリフが無いので言葉が分からなくても大丈夫」と言う人がいるが、さんざん楽しんできた私から言わせれば、いや、別に言う必要もないのですが、オペラやシェイクスピア劇だって、プロや研究者でない限り、それほど卓越した言語能力は必要ない。何のことはない、『美男子の恋人がいる若い女性に、権力者や大金持ちの年寄りが言い寄り、…、最後には若きカップルのハッピーエンド』なのである。悲しいデュエットで泣き、ハッピーエンドで抱擁して歌うデュエットに、これまた泣けばいいのである。「何を言っている、オペラにも色々なストーリーがあるし、演出もあるし、…」。そうおっしゃる方々には、「そうですね」でいきましょう。「粋にね」。
 前もって、北京在住の娘にチケットを取ってもらった『朝陽劇場』は、娘のマンションから近いので何となく安心である。1984年に作られ、2年後の1986年に『旅行者向け推薦劇場』として北京市から指定を受けている劇場だそうです。『中国屈指の雑技ショー』と言われるだけあって、訓練を経た肉体の躍動感、柔軟性、出演者の連帯感。天にものぼる感動でした。あーあ、楽しかった。ありがとうございました。

雑技団のショーを観た朝陽劇場 。ショーの開始前
雑技団のショー
雑技団のショー
雑技団のショー

万里の長城にのぼる
 洋の東西を問わず、国の防備には必ずと言っていいほど防壁が築かれる。私も随分多くの防壁、要塞などを見てきたが、「万里」の形容詞で括られるだけあって、ここ中国の『万里の長城』にかなうものはあるまい。東は渤海湾の山海関から西は甘粛の嘉峪関まで、私はもの好きにも双方を訪ねたし、その間にある長城を見学しているが、これらを合わせた規模にかなう防壁は他にあるまい。
 歴史的には、元々、紀元前数世紀に中国が分立していた頃、それぞれが敵に対して築いていた防壁を、秦の始皇帝が中国を統一した後に継ぎ合わせたものである。そして、14世紀の明の時代に蒙古の襲撃を恐れて長城を拡張し、また強化したものが、現在につながっている。
 万里の長城の中で一番人気は、北京から近いこと、美しい姿、歴史等々の理由から『八達嶺長城』であろう。日本人が北京に行くと、その半数以上が万里の長城に向かっているそうだ。八達嶺の入口で入場券を買い、向かって右側が比較的上りやすく、左側がすぐ急な坂になることから、前者は『女坂』、後者は『男坂』と呼ばれているが、この男女の命名者(達)は日本人だそうだ。で、どのくらい勾配が違うか?
 話をちょっと戻して、申し訳ありません。私達は、娘の友達の車で『八達嶺長城』まで送ってもらい、ロープウェイで『万里の八達嶺長城』を登りました。約10分位で山頂に到着したが、スリル満天のロープウェイだった。正面にトンネルが見えるたら『八達嶺長城』の終点駅だ。1歳の孫でも万里の頂上に登れます。ぜひ、お楽しみ下さい。

ロープウェイで頂上に上る
正面に見えるトンネルが『八達嶺長城』の終点駅。頂上近く
万里の長城・八達嶺長城
万里の長城・八達嶺長城
万里の長城・八達嶺長城

明十三陵
 『明十三陵』は、北京の北西郊外の約50キロメートルの天寿山麓にある明代皇帝の陵墓群である。名前の由来は、13人の皇帝とその皇后達、貴妃の陵墓があることから『明十三陵』と名付けられた。陵園部と陵道(神路)の二つに分かれている。1644年の明滅亡まで約200年の長期にわたって造営されたというから、如何にも中国的である。
 現在、我々が見ることのできる場所は、定陵、長陵、そして昭陵の3か所と陵道である神路のみである。「…のみである」と強調したのは、それでも気の遠くなるような数の言葉と写真を必要とするためである。ここでは、簡単に、『明十三陵の定陵』、『明十三陵脱神道遊覧図』、『石像生』、『石像』の一例、『石獣』の一例、動物の後は人物で『将軍』を例として掲げよう。

明十三陵の定陵
明十三陵脱神道遊覧図
石像生(説明)
明十三陵。石像が見える
明十三陵の石獣像
明十三陵の将軍像