中国・新疆ウイグル~ウルムチ、南山、天池、トルファン~

いざ、ウルムチへ
 中国のウルムチ(烏魯木斉)で開催される、土木に関する国際会議に論文を発表するため、初めての中国訪問である。「会議の方は慣れっこだからいいけど、一人旅で人民とやり取りするのは、言葉ができないのに大丈夫?」と北京に住んでいる娘に心配される。会議が行われる新疆鴻福大飯店はそれなりのホテルであるから英語が通じるだろうし、「会議の公用語は中国語と英語なので、分からないことは参加者に聞けばよい」。「まあ、青い目をしたご婦人に教わりましょう」。「でも、何かあった時のために、この電話を使って下さい」と言われて、携帯電話を渡された。私は携帯電話を持っていないので、使い方をメモして貰った。でも、早速、空港に行く時に、北京のホテルに忘れて、慌てて取りに戻った。先が思いやられる。
 さて、北京からウルムチまでの距離は2,400キロメートル。東西にこれだけの距離があるということは、当然のことながら実生活における時差が生じる。中国では、国内を単一時間にしているが、実態は「新疆時間」あるいは「ウルムチ時間」と呼ばれる北京時間から-2時間のローカル・タイムを併用している。したがって、交通機関を利用する時は、確認が必要である。北京から約4時間ちょっとのフライトでウルムチ地窩鋪国際空港(URC)に到着する。空港から約17キロメートル離れている街の中心に向かうにはエアポートバスが便利で、約30分で着く。私がウルムチを訪ねたのは2005年であって、この時は地下鉄が開通していなく、2014年に1号線が着工されて2018年10月に開業した。中国最西の地下鉄である。

 ウルムチという地名は、『美しい牧場』の意味だそうだが、新疆ウイグル自治区の、日本でいえば、県庁所在地、首府である。漢族、ウイグル族、モンゴル族、カザフ族、回族等、42の民族が暮らしている。人民公園の周りの半径3~4キロメートルの中に、鉄道駅、長距離バスターミナル、ホテル、繁華街がある。『新疆』の意味であるが、清の第6代皇帝である乾隆帝時代(在位:1735年~1796年)に中央アジアのモンゴルとウイグルを平定した後,この地方を「新たに加わった領域」、つまり『新疆』と名づけたことがその起こりである。後年、先の大戦中の 1944年にウイグル族やカザフ族を中心に東トルキスタン共和国を樹立したが,1950年中華人民共和国に加わり,1955年新疆ウイグル自治区となった。
 何事もなく、会議の登録を済ませ、論文を発表し、質問をこなした。やはり、アジア人同士なのか、厳しい中にもフィーリングが合うのに対して、むしろアメリカ人や西洋人の方が緊張感をもって論じ合っていたように思える。しかし、どの国であろうと、学問における激論は厳しく、そして楽しい。

国際会議が行われた新疆鴻福大飯店
黄河路をまたぐ横断歩道橋から人民公園側を写す

楽しもう
 20時という時間をどうとらえますか?夕食を済ませ、早い人だと寝ているかもしれませんね。ところが、20時からのプレゼンテーションなど平気。この国際会議は、早朝から夜まで忙しい。合間を縫って参加者間で情報交換をしたり、コーヒーブレィクに、もちろん英国人だが、ビターを飲んだりと、忙しい、そして楽しい。私が驚いたのは、会場となった新疆鴻福大飯店の朝食である。日本のホテルであるならば、いわゆる洋食と和食が一般的であるが、ここは中国なので、和食が中華に置き換わる。その中華である。なんとお粥だけで十種類を超えるのである。田舎の漁師町で育ったので、結構旨いものを食べて育ったつもりだが、お粥でKOされた。旨いのなんのって、本当に旨い。外国で、「ディナーが楽しみ」と言うのは今までも随分とあったが、それも「ワインの引き立てによって、あるいはワインを引き立てるディッシュに負うところが多い」と思う。「何もいらない、そのお粥だけ」。まるで恋のようだ。私は、この新疆ウイグルで恋をしたようだ。

お粥も時間もたっぷり
 今日は空き時間がたっぷりとあるので、お粥を何種類か食べた後、会議で知り合ったアメリカ人数人と南山牧場へ行く。威勢の良い若者が覚えたての知識を披露する。ちょっと怪しいが、中国語も書けるらしく、日本の漢字?に置き換えると「天山」と読めるような字を書いて、「ウイグル語でテンリ・タグ。神の山を意味する」と英語で説明する。このような元気の良いのがグループにいると、寡黙な日本人?としては大いに助かる。
 この神の山の北麗に広がる南山牧場は一種の観光牧場で、東白楊溝(とうはくようこう)、 西白楊溝 (せいはくようこう) 、后狭(こうきょう) 等が有名である。そして、この高山には、主にカザフ族やモンゴル族が住んでいる。ここで体験できるイヴェントは二つあって、一つは乗馬体験、もう一つはパオと呼ばれる遊牧民族の住居で軽食をとりながら民族衣装を着た女性の踊りを鑑賞するものである。私たちは欲張って、双方を体験することにした。
 最初は、乗馬体験である。時間制だったので90分コースを若きリーダーが選んだ。たくましい中年の女性からルートマップに印をつけてもらった。ここでリターンすれば90分コースに間に合うということらしい。先述したように、私は漁師町で育ったが、馬産地でもあり、ギネスブックに乗っている競走馬シンザンやその他の名馬を産出した町の出身である。でも、乗馬は…。

シンザン
 話はそれるが、「オペラを一緒に観よう」とウィーンの友人、E博士に誘われ、急遽出かけて彼の家族と一緒に例の甘いケーキとウィンナ・コーヒーで茶をしていた時、「ザ」にアクセントのある「シンン!」が彼の口から出た。「シンン?」。「ウィ、シンン」。彼はヨーロッパの数ヶ国をつり、音楽はもちろん、博学多才な男である。蛇足ながら、当時、息子さんは1812年に設置された某総合芸術大学で舞台芸術を勉強していたので、私にとっては貴重な音楽情報、とくにオペラやミュージカルの情報源であった。
 シンザンとウィーンにどんな共通点があるのだろうか?ヒントは、彼特有の、『日本で言えば京風』、『英国風』に表現する『スペイン』と『乗馬学校』という示唆であった。そう、ウィーンのスペイン式宮廷馬術学校、つまり、ここウィーンでは、「馬」は誰でも知っている貴重なキー・ワードなのである。ルネサンス時代に集大成された古典馬術の最高技術を現在観ることのできる、世界で唯一の施設がここにあるのだ。バロック様式の豪華な屋内の馬場で、ウィーンらしく華麗な音楽に合わせて演じられる優雅なテクニックは、乗馬愛好者だけでなくても拍手喝采であろう。
 なお、後付けになるが、このスペイン乗馬学校の古典馬術の伝統は、2015年にUNESCO無形文化遺産に登録されたそうです。

優雅とは言えないが 
 話を元に戻しましょう。ウィーンのリピッツァー種の白馬のように優雅ではないが、ここ南山牧場でたくましい中年の女性が差配する馬も?たくましく、何かほのぼのとした感じである。リーダーを先頭に、ルートマップにつけてもらった印を頼りに乗馬体験90分コースに出発だ。しかし、乗馬を習った経験が無い。「馬は乗り手の技量を判断できる」ためか、乗り手を適当にあしらっていたが、この馬、なかなかの商売上手でもある。私を振り落とさずに、何とか他の仲間についていく。四苦八苦しながらも、羊がのどかに草を食む広い牧草地を往復したのである。行きは馬にしがみついていたが、帰りは胸を張って前をしっかり見つめる姿勢になった。
 戻ってきたところで、リーダーとおばさんの間で問題が起きた。時間を15分間超過しているということで、超過分を支払えというわけだ。おばさんも拙い英語で反論していたが、このような状況で、一般論であるが、アメリカ人は絶対に引かない。「お前が地図上に印をつけた場所を往復すると、絶対に90分以内では戻れない。ズルだ」。色々とやり取りがあって、結論から言うと、払う人と払わない人に分かれてしまったが、分かったような、そうでないような、…。私の場合は、貧しそうな人に訴えられると、ほとんど相手の言うことを聞いてしまう。

 もう一つのイヴェントである民族舞踊の方である。テーブルが敷いてあり、飲み物と簡単な食事が出される。飲み物であるが、「えっ、ここでティ?」。そうです、カザフ族が毎日飲んでいるという塩味のミルクティでした。日本で昔から子供向けに売っている塩味のキャラメルのような味でした。
 パフォーマンスとして、録音された音楽に合わせて舞う美少女の踊りがある。客に媚びない一途さは美しさとともに感動を覚えた。宿泊も可能だそうだが、明日は討論会があるので残念ながらホテルに戻らなければならない。
 偶然、韓国の大学生二人と一緒のパオになった。まさに好青年といった感じで、彼らが以前に訪ねた京都の話になると、私より詳しく、私が訪ねた韓国各地の話になっても彼らの方が当然、詳しかった。これから数日後に訪ねるクチャやその周辺で無事に再会することを誓って、「さらば」。

草をはむ羊たち。馬に乗ってこの高原を駆ける
乗馬中?
点在するパオ
踊るカザフ人女性
パオの中で韓国人学生と

会議は続く
 国際会議の行事の一つである『Technical visit』で、ユネスコ世界遺産である『天池』を訪れる。論文を発表する人の奥様が参加されることもあるので(ご婦人が発表する場合は、その夫が参加することもあるので)、観光と間違われるが、そうではない。費用は自分で出すし、『天池』を題材に土木工学的なかなり専門的なやり取りが続く。そして、これも重要な目的の一つであるが、技術的情報交換と人的交流の機会が得られるのである。隣国でありながら国交の無いアメリカ人とキューバ人が話し合う機会が得られるのです。懐かしい英国のコックニーを聞けるのです(これは余計か)。「私は隣人です。日本の隣のサッカリン(サハリン)から来ました」とロシア人研究者に自己紹介をされるのです。通信手段を通しての意見交換ではなく、肉声で直接顔を見合わせて、技術課題を目の前にして、天池に関するいろいろな専門家の助言をいただきながら、…。

 その天池であるが、ウルムチの北東約90キロメートルにボコダ峰(モンゴル語で『聖なる山』)が連なる。標高5455メートルと高いので、どの位置からも見え、神々しい姿が美しい。その中腹、標高で1980メートルに位置する湖が天池である。専門家によると、天池の美しさが際立つのには色々と理由があるが、その一つに深さがあるという。最大深度が105メートルにも達するそうだ。景色の美しさを表現するのに、例えば「…のアルプス」、「…のスイス」などと表現されるが、ここ天池は「中国のスイス」と呼ばれるそうだ。スイスも何度か尋ねたが、湖で言えば、この天池のエメラルドグリーンは本当に美しい。
 蛇足かもしれないが、ウルムチからここに向かう途中に舗装現場があった。バスの中から見ただけなので、正確な距離は分からないが、その施工の進捗具合には驚いた。周りに何もない環境で、直線道路を淡々と舗装する作業は、「楽だろうな」と、勝手に思った。そう言えば、『Technical visit』に出発する時にもらった赤い帽子には、今現場を施工している西武建設のマークが入っていたな。おわり。

天池入口付近の建設中の建物
天池索道
上昇中の索道から写したつづら折りの道路
天池でパチリ
天池
快速艇の乗降場所
説明は要しまい

終わっていない
 「非常に」という修飾語をいくつもつけたいくらい有意義で楽しい『Technical visit』であった。「これからホテルに戻ってゆっくりしよう」と考えていたのだが、バスはなにやら賑やかな場所で停車した。イスラム教のモスクとそれに付随する大きなミナレット(尖塔)が目に入る。「これだけ高いミナレットであれば、礼拝の呼びかけを行う『アザーン』も遠くまで響くだろうな」などと考えていると、15分後に『レストラン国際大バザール小吃城』に集まるようにアナウンスメントがある。すぐ近くだという。やっと、状況を理解した。『Technical visit』は天地を訪れた後、ここでディナーをいただいて、解散と言う段取りだったのだ。 15分を利用して、二道橋を見て、二道橋市場(二道橋バザール)を覗いて、…、無理ですよね。明日、時間を見つけて、…。

 ディナー会場の『国際大バザール小吃城』は、二道橋のすぐ近くで、その名前の通り、国際大バザールの中にある。国際大バザールのとてつもない広さを歩き廻るには、日を改めなければならない、確実に。実は、翌日、再度、ここに来たのだが、その印象を述べると、とにかく広い。やはり、ここは中国だ。買い物はもちろん、言ってしまえば、総合的な商業中心地と表現したほうが適切であろう。再度、ここは中国だ。そして、新疆ウイグル自治区だ。多様な民族のあらゆる商品が売られているのだ。カンファレンス・ディナーの時に地元の大学の教授に聞いたのだが、世界一の大バザールだそうだ。家族が使用する絹織物のスカーフを買った。

まだ、終わっていない
 きょろきょろ、うろうろしながらも時間にうるさい日本人である。方向音痴といえども、ここはバザールの中心のレストランである。時間通りに会場に入った。「ここは…の会場ですか?」と入口に立っている守衛に尋ねたが、前を真っ直ぐ見たまま、じっとして動かない。言葉を重ねたが、答えがない。後ろの客に背中をポンと叩かれた。びっくりして振り向くと、ウィンクをしている。…、…。そうか、人形だったのだ。
 コンサートホールとまでは言わないが、大会場である。国際会議関係者以外の他のグループも一緒になっているようで、盛り上がっている。そしてショーもあるのだ。日本では普段聞きなれないメロディーやリズムに合わせて、民族衣装を着た男女が踊る。華麗、優雅、しなやか、躍動感、…等々、拍手、拍手である。ソロになると声もかかるので、常連客やひいき筋が来ているのかもしれない。

 宴会の終わりが近づいたところで?、踊りや演奏が止み、スタッフ数人が何やら大事そうに包装された物を持ち出して、客(観衆に)良く見えるように動いている。簡単な説明があって、それに客が値段をつけていく。そうか、オークションか?言葉が分からない私めは、酒を飲みながら見ているだけだが、次第に興奮していく客同士のやり取りは、それなりに面白い。
 そろそろ解散のようだ。時計を見ると夜中の11時であった。皆様、ご苦労様でした。この辺りは安全と聞いたので、写真を数枚とってホテルに戻った。

二道橋市場近くのモスク
木製の橋・二道橋
二道橋市場(二道橋バザール)
国際大バザール
国際大バザール小吃城の入口の人形
レストラン国際大バザール小吃城
レストランで行なわれるショー
レストランで行なわれるショー
オークション
夜11:30に撮ったモスク

新しい始まり
 会議の最終日まで頑張った。欧米の都市で開催される国際会議とは一味違った趣があり、貴重な体験をした。全ての行事がつつがなく終わり、いただいた多くの文献を別送で日本に送ってくれるなど、ホスピタリティにあふれた会議の運営であった。とても感謝します。街角で出会う人々の素朴で親切な応対、やさしさにも深く感謝します。
 折角、めったに来られないエリアに来たのだから、あらかじめ取っておいた休暇を利用して、先ずはウルムチから日帰りで行けるトルファンを訪ね、その後、少しずつ西へ向かってシルクロードの一部を訪ねてみようと思う。

シルクロード
 日本人が、『シルクロード(絹の道、Silk Road、絲綢之路)』からイメージする地域は、NHKの大傑作TVプログラム『シルクロード』にあらわれた地域であろう。喜多郎の音楽とともに、日本人の心に訴えかけたシルクロードの映像と報道内容はあまりにも衝撃的であった。このロマンをかき立てるプログラムは、放送開始当時ほどではないにしても、多くの日本人は今でも心に留めている。このシリーズ化したプログラムを切り口を変えて放送すると、今でも高い視聴率を誇ることが、その証左である。
 国際会議のディナー(カンファレンス・ディナー)の時に、私に『国際大バザール』のことを説明してくれた地元の大学の教授のことを思い出していただけるだろうか?私のこれからの旅行日程を話すと、『シルクロード』のことを丁寧に教えてくれた。この名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』で、使用したのが最初だという。現在、明らかになっている『シルクロード』全域を含んでいないが、その先鞭をつけた功績は偉大であろう。地元の大学の教授の説明によると、これは学者特有の表現方法であるが、リヒトホーフェンの偉大さは、後に、1900年に『楼蘭の遺跡』を発見したスウェーデンの地理学者 スウェン・ヘディン(1868年~1962年)の師匠であったことだという。さらに、教授から、地理学者スウェン・ヘディンは、ウルムチに到着した際に新疆省総督の楊増新の手厚い歓迎を受け、新疆における科学調査の許可をもらったことなどを教えてもらった。後に、楊増新が暗殺されたことをストックホルムで新聞で知り、涙したという。この一件は、私の所蔵する一連のVTR『シルクロード』を検索したところ、NHKの1980年放送の『もう一つのシルクロード「オアシス点描(3)草原の道~現代天山北路~から」でも取り上げられていた。
 さて、ここは、シルクロードという大きなテーマについて詳細に語るところではない。これから訪ねるトルファンに話を戻そう。

トルファンに向かう
 時代背景は、2005年である。一昨日の国際会議で話題になったが、新疆ウイグルは高地にあるようなイメージがあるが、トルファンは中国の中でもと言うより、世界有数の低地にあるのである。夏の酷暑は強烈で、火州と呼ばれているほどである。ウルムチからはバスの利用が便利で、また、観光バスによるツアーが充実している。私は、ツアーを利用した。
 トルファンに向かって高速道路をひた走る。ただ、ただ空と山が続く風景である。何もない殺風景な風景と言われるが、このシンプルな景色を私はむしろ好きである。本を読んだり、景色を観たり、人民を観たり、「ニーハオ」と笑顔で言われたり、 場合によってはグラスを片手に、結構、忙しいのである。やがて、膨大な数の風力発電用の風車が見えてくる。このほうが殺風景な感じがする。

トルファンへ向う途中の高速道路と風力発電
風力発電プラントの看板

いきなり孫悟空
 トルファンから東に約40キロメートル離れた場所にある城址遺跡、『高昌故城』にいる。広大な面積なので徒歩で廻るのは大変で、馬ではなくロバに引かせた荷台、ロバ車と言うのだろうか、それに乗ってガタゴト揺られながら苦労してシャッターを切ったことを覚えている。この城址遺跡は、かつて外城、内城および宮城の3つから構成されていたと言われるが、これらの損壊は著しい。敷地が広大な故に、なお一層、その遺構が際立つ。

 玄奘(三蔵法師)が仏典を求めて天竺(てんじく。インドの旧名)に向かう途中に、ここで高昌国の王、麹文泰(きくぶんたい)に迎えられて2カ月ほど滞在して、1カ月間ほど説法をしたと伝えられている。玄奘とは、仏の教えや悟りの道を求め、そして経典を取りに天竺まで出かける、あの『西遊記』の玄奘である。玄奘は戒名、三蔵あるいは法師は尊称である。
 その西遊記にはその元となった書物、『大唐西域記(だいとうさいいきき)』が存在する。私は手にしたことがないが、帰国直後に太宗(唐朝第2代皇帝(在位626年―649年))の諮問に答えるかたちで西域やインドの地理、風俗習慣、言語、仏教事情等について、見聞きし、語ったものを弟子の弁機(べんき)が記した書物である。
 我が国では、西遊記は身近な物語として映画、TVプログラムなどで子供から大人まで広くいきわたっている。その一場面がここ火焔山なのである。本当か、フィクションか、孫悟空(そんごくう)と沙悟浄(しゃごじょう)、猪八戒(ちよはつかい)を引き連れて経典を取りにいく途中で、燃え盛る『火焔山』に行く手を阻まれた玄奘一行が、孫悟空の活躍によって『芭蕉扇』を手に入れ、その火を消して無事に脱出した、という『西遊記』の物語を覚えておいででしょう。『火焔山』を目のあたりにすると、赤い山肌に炎を思わせる深い縦皺が刻まれているせいか、実際に燃えているように見える。確かに、トルファン観光の目玉には違いない。天気が良く、気温が高かったせいもあって、ガイドも興奮していた。火焔山をバックに玄奘一行の像が建っており、記念写真を撮る観光客の皆さんも興奮していた。    

高昌故城の一部
寺院地区に残る仏塔跡
“芭蕉扇”をめぐって悟空が活躍した火焔山
右側に 火焔山と玄奘一行の像が建っている。皆さん、興奮して記念写真を撮っている

トルファン博物館
 最近、ここを訪れた方々は、このトルファン博物館の写真を見ると、「間違いではないか」と思われるでしょう。私も最近知ったのですが、トルファン博物館は2010年に市内の木納爾路という場所にリニューアル・オープンしたそうです。ここに掲載した写真は2005年に撮ったものです。したがって、逆に歴史的意味をもった写真になったと自嘲しています。

おいしい水は今も流れている
 灼熱の火焔山を見学したせいか、のどが渇いた。冷たい水が欲しい。「トルファンに水?」。多くの観光客はそう思うらしいです。ところが、トルファンには、市内から11キロメートルぐらいしか離れていないこの場所に『葡萄溝』と呼ばれる葡萄畑が広がっている。『ウマの乳房』の別名を持つここの種なしの白ブドウは、高級品として非常に有名で、そのおいしい理由は、日差しが強く、日中の寒暖差が大きいことにあるらしい。そして水である。ここは、いわゆるオアシス都市なのである。葡萄棚の下をくぐって奥に向かうと、水の流れを観ることができ、飲むことができる。そのおいしいこと、まさに、「神奇的」である。
 小学生の頃、学校の近くに湧水が出ていて、遊んでのどが渇くと、帰りにこのおいしい水を飲んで帰宅したこと、いや、“山かかり”(山道を通って葡萄や栗を採りながら)や“浜かかり”(泳いだり、釣りをしながら)をしながら、夕飯に間に合うように?帰宅したことを今でも覚えている。 学校は勉強する所ではなく、遊ぶ所だったのだ。この水が出っぱなしの給水管は、今はもう潰れていて、それに半世紀以上も前の話であるので(笑っては駄目です。こんな思い出を持つ子供は、最高に幸せなのです)、比較することが難しいが、それに勝るとも劣らないおいしさなのです。火焔山から移動してきたので、なおさら水がおいしく感じられたのかもしれませんが…。

トルファン博物館
トルファンの避暑地・葡萄園の中の水路
まさに神業・新疆の井戸水