中国・新疆ウイグル~カシュガル~

クチャからカシュガルへ
 クチャ発 05時49分→カシュガル着14時49分(予定)の列車N946に乗車。9時間の行程である。時代背景は、2005年である。平均最高気温は30℃と高いが、平均気温は25℃くらい。湿気がないせいか、このエリアにしては比較的過ごしやすい6月である。
 いきなり、ここカシュガルに飛ばずに、北京からウルムチに入り、トルファン、クチャと地球を西進してこの町に入ったので、大きなショックはないが、中国と言う切り口でとらえると、中国の他の都市に比較してやはり、大小はあるが、異質を感じる所である。ここでいう異質とは、違和感とは全く違う。『文化的におい』のことである。私は、1988年のトルコのイスタンブールに始まり、モロッコ(1996年)、トルコ(1997年)、イラン(1997年)、チュニジア(1998年)と、いわゆるイスラム圏を立て続けに旅行していた時期がある。魅せられたのである。
 政治的意味では全くない。長い歴史にわたる歴史的建造物の形状、美的感覚、色使い、幾何学的模様、あるいは植物を描くタッチ、…、そしてバザールなどの生活様式等々、「エキゾチック」と言う言葉では括ることのできない魅力に取り込まれたのである。50歳を過ぎて『イスラムの人々』、『イスラムの文化』、『イスラムの…』に魅了されたのである。
 カシュガルの鉄道駅は東郊外にあり、タクシーやバスで街に向かう。街に近づくにつれてモスクが多く見られ、ミナレットから聞こえるアザーンの響き(呼びかけ)に胸が躍ってくる。先ずホテルへのチェックインである。北京に住む娘があらかじめ予約しておいてくれたホテルは、旧ロシア帝国時代の領事館の建物だったそうだ。私の旅のくせを知っているので、とくに方向音痴対策を考えて、見所にまっすぐ歩いていくことのできるホテルを予約したのだ。パスポートのチェックだけで何事もなくチェックインが済み、あらかじめ用意しておいてくれた街歩きの地図を貰った。要所に赤いペンで印がつけられている。よし、出かけるぞ。

アラブの道づくり
 道路の研究者が使う言葉で、『アラブの道づくり』と言う言葉がある。まっすぐな道がなく、曲がりくねった道路づくり、坂の多い街づくりである。そう、敵からの都市防衛のためである。貰った観光用の地図を見ると、幅員の広い南北に走る解放路(解放北路と解放南路)と東西に走る人民路(人民西路と人民東路)が交差している。まさに、カシュガルの中心地であり、双方の道路はほぼ直線である。縮尺の関係上、そして観光用であるから、おおまかに描いたスケッチ風の地図である。したがって、小道の入り組んだ所まで描かれておらず、『アラブの道づくり』を地図上でチェックすることはできない。街の内部では、細かく曲がりくねっているのであろう。
 この交差点の東側に人民公園があり、巨大な毛沢東像が建てられている。そうそう、ホテルのスタッフによると、古代シルクロード時代に疎勅国(そろこく)と呼ばれたカシュガルは、インドから帰る途中に玄装三蔵が立ち寄り、マルコポーロもここで休養したそうです。二人とも、どこに行ってもせわしなく歩き廻るみたいですね。

歩き廻る
 最初の目的地は、と言うか、目指すは『エイティガール寺院』である。とりあえず、ホテルからきょろきょろしながら色満路を東側に歩いて行こう。途中で繁華街の前で右折しよう。地図で学習してある。ところが、恋人のささやきではなく、ミナレットから発生される大音声で、びっくりした。心地よいアザーンの呼びかけである。その美しい、心地よい呼びかけに酔ってしまって、「ロスト・マィウエイ(迷った)」。20分の予定が40分もかかってしまった。迷い方にも規則性があって、いつも同じ場所で同じ方向に迷うのである。「迷う」を定義すると、自分で想定している方向(場所)とは違う場所にいるのである。「I found myself …」。「気がついたら、…にいる」のである。道を間違った原因が分からないのであるから、戻る時も当然、「ロスト・マィウエイ」。あーあ。どなたか、ここに規則性を見つけて、『方向音痴』で学位を取ってください。切にお願いします。
 「そのおかげで」というとおかしいが、迷い道でいつも、同じ人達に会うのである。緑色の紐を山羊の首にかけていつもここにいて立ち話をしている白帽のおじさん、すっかり仲良しになった。おじさんに頼んで、紐を持たせてもらって山羊を誘導すると、他の山羊達も一緒に来るではないか。私とは初対面である山羊が私に従うはずがない、とすると、紐を付けられた山羊はリーダーなのだろうか?またまた、知的好奇心が湧いてくる。「何が知的好奇心だ。単なる惰性だ」。そうか、ありがとう。

満路からエイティガール寺院へ向かう途中に迷った小道
迷い道で山羊を引き連れた白帽おじさんと会う
カシュガルの人民公園
エイティガール寺院前の広場
エイティガール寺院前の広場

エイティガール寺院
 ここは、新疆で最大規模を誇る西暦1422年創建のイスラム教寺院、黄色いレンガづくりの『エイティガール寺院』である。イスラム歴846年、明の永楽20年である。その後、数回の修復を重ね、最終的には1872年(清の同治11年)の拡張によって巨大寺院になった。この寺院の信者の大半は、イスラム教スンニ派の信者である。解説書によると、この寺院の成り立ちに、一つの伝説がある。1798年、ウイグル族の女性がパキスタンへ向かう途中、カシュガルで病死した。人々は彼女の死を悼み、彼女が残した多額のお金でこの寺院を建てたそうです。伝説である。
 ペルシャ語で「祭を行う場所」という意味のエイティガール寺院は、金曜日に、導師が朗読するコーランに合わせて、メッカに向い祈りを捧げる。詳細は省略するが、毎週金曜日およびイスラム教の祭日(ローズ祭、クルバン祭)期間中以外は、信者でなくても寺院内に入ることができる。

黄色のレンガでつくられたエイティガール寺院
エイティガール寺院内部
エイテイガール寺院内部の天井の一部
エイテイガール寺院内部
エイテイガール寺院と前の広場

ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓
 『カラハン朝』にご登場願おう。「確証が得られていない部分が多い」と解説書にも書いてあるが、カラハン朝とは、中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840年~1212年)だそうだ。この王朝のベラサグン生まれのウイグル人で、首都カシュガルで大侍従になった人物が、『ユスフ・ハズ・ジャジェブ』である。今、訪ねている陵墓は彼が眠っている場所である。彼は、『クタドゥグ・ビリク(幸福になるために必要な知識)』を上梓したが、その内容よりも、アラビア文字でトルコ語(ウイグル語)を表記したことで有名だそうだ。どちらの言葉も分からないので、頷くしかない。

ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓
ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓の入口
ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓

盤たく城(班超紀念公園)
 ユスフ・ハズ・ジャジェブの陵墓から市内南部にある盤たく城(班超紀念公園)に移動する。盤たく城は、1世紀後半この地にあった疏勒国(そろくこと)の宮殿跡である。歩くにはちょっと距離があるし、それに、やっと念願の公共バスに乗ることができる。16路バスに乗車して20分くらいだろうか、『班超城』で下車してすぐである。まばらな乗客の全員が降りた。
 ここは、西暦73年に後漢の軍人、班超が明帝に匈奴の討伐を命じられ、拠点として西域の大本営を設営した場所である。匈奴を征伐して西域都護として102年まで留まった。当時、都であった洛陽からここカシュガルに至る物語の説明や、一緒に来た部下36人の勇者たちの像がある。皆さんは、この名言を残した名将が班超であったことをご紹介すれば、頷かれるでしょう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。

盤たく城に向かうバスの中の風景
盤たく城入口
盤たく城の班超たちの像

アパク・ホージャの墓
 カシュガル市内から20番のバスで約30分。16世紀末の新疆イスラム教白帽派の指導者アパク・ホージャとその家族の墓である。ホージャ一族は「マホメットの末裔」と称していたとされるが、真偽のほどは分からない。私が訪ねた時は、ガイドが数人いたが、この墓のスタッフなのか、どこかのパーティのガイドなのか、この種の施設にたまにいるチップ欲しさの、自称“国家資格を持つ説明員”なのかよく分からないが、一生懸命に説明していたので断る理由もない。『アパク・ホージャの墓』は、別名『尊者の墓』、『香妃墓』である。後者の「『香妃墓』の言い方は、清の第6代皇帝、乾隆帝のウィグル人妃子だった伝説の美女、香妃が葬られていると誤って伝えられたためである」と、別のガイドが言っていた。つまり、乾隆帝の妃であった 容妃と混同されたため、ここに葬られたのである。“国家資格を持つ説明員”は、違う客を探しにどこかへ行ってしまった。私にとっては、要するに、カシュガルの歴代の統治者の墓なのである。
 西暦1874年(清の同治13年)の修復で、モスクなどが新しく追加されて、中央アジア式イスラム墓となり、その美しい姿を見せている。隣で、一眼レフで対象を引っ張っていたご婦人は、撮った4つのミナレット(尖塔)のモザイクのアップを私に見せて自慢していた。せっかくなので、「ビューティフル」と発音したところ、何を勘違いしたか、自分のことだと思ったらしい。「おい、“国家資格を持つ説明員”よ、相手をしてやってくれ」。
 アパク・ホージャ廟の西奥にある、清代初めの 17世紀に建設された小モスクが、緑頂礼拝寺である。アパク・ホージャがこのモスクで『コーラン』を読んだという。建物は奥のレンガ造ドーム屋根の棟と、手前の木造陸屋根の棟で構築されており、ドーム状の屋根が アパク・ホージャ廟に合わせた緑色のタイル(瑠璃瓦)で葺かれていることから、この名がついた。
 アパク・ホージャ廟の最も西側に位置する場所に大礼拝寺がある。説明書に「加満清真寺Mosque」と書かれてあったが、Jaman(ジャーミ)は金曜を意味し、中国語で 加満(ジアーマン)と音訳するそうだ。 清真寺とMosque は重複するが、まあ、いいか。このモスクの由来は、19世紀半ばに新疆地方で清朝に対する反乱が起きた際に、『ヤークーブ・ベク』(1820年~1877年)はカシュガル・ホジャ家の末裔であるブズルグ・ハーンの将軍として新疆に侵入した。そして、1865年に自らのイスラーム政権を樹立することに成功し、後に、アパク・ホージャ廟の整備や建物の新設を行った。そのひとつが、この 1873年の大礼拝寺である。

アパク・ホージャの墓の近くで出会ったウィグル人の姉妹 。お姉ちゃんの刺繍の指さばきは見事であった
アパク・ホージャの墓
墓の内部
アパク・ホージャ墓の後ろ正面
アパク・ホージャは、ここ緑頂礼拝寺でコーランを読んだ
1873年にヤークーブ・ベクが建てた大礼拝寺

バザール
 近くまで行ってもじっと我慢して、最終日にとっておいたバザールに出かける。艾孜熱提路の国際バザール付近で開かれているバザールは、ウイグル自治区随一の規模を誇る。お土産コーナーは別として、観光客を相手にするというよりも売り手も買い手もウイグル族で、また、商品も衣類、食品などの生活感のある品物の売り買いである。地元に密着しているバザールなのである。そして、とにかく広い。方向音痴の私は、迷子にならないように気をつけるのだが?
 『バザール』の高揚感を説明するのは、とても難しい。現在の表現手段では、言葉を操る天才を待つか、画像や映像に頼るしかないのだろうか?それにしても私のカメラ術では無理だ。やはり、皆さんに、それぞれに思いがあるでしょうが、「“旅”に出かけてください」と、お誘いするしかないか。
 半世紀以上も前の古い映画で恐縮ですが、フランスで1960年3月公開、日本で1960年6月公開の『太陽がいっぱいPlein Soleil』(仏・伊共同制作)という映画があります。説明は、もちろん省きますが、主演の男がバザール(のような所)を歩くシーンがあります。歴史的名監督ルネ・クレマンが描くあの高揚感、あれです。

監督;ルネ・クレマン 脚本;ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン 原作;                パトリシア・ハイスミス 製作;ロベール・アキム、レイモン・アキム、 出演者;アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ 音楽;ニーノ・ロータ 撮影;アンリ・ドカエ 編集;フランソワーズ・ジャヴェ 製作会社;ロベール・エ・レイモン・アキム、パリタリア 他

艾孜提路。カシュガルのメインストリート
混雑するバザール
バザールから入った中西亜国際貿易市場
肉 屋 
金物類の店
正大ショッピングセンター

フィナーレ
  明日は、ここカシュガルからウルムチ経由で北京へ飛び、1泊して帰国である。 楽しいバザールにたっぷりと時間を取って、思い残すことはない。バザール近くの吐曼路につながる気に入った小道を見つけたので、戻って、今日の1枚を撮る。お気に入りの写真になりそうだ。17時頃に写した写真である。ここを立ち去るには、まだ早い時間である。名残惜しい。ぶらぶらしながら、エイティガールに向かい、無名の皆さんに挨拶してからホテルに戻ろう。ここは本当に安全な町であった。
 その後の中国の旅で、いろいろな町で見たが、ここにも公衆電話があった。個人で各家庭に個別の固定電話をもつ経済的余裕がないのであろうか。でも、今では、携帯電話にとってかわられているのかも。
 もう1つ、私の子供の頃を思い出させる懐かしい風景がホテルへの帰り道にあった。きっと、多くの(お年を召された)皆さんも経験なさったことだと思います。勝手に造語させてもらえれば、「 TV 共同視聴です」。小さな田舎町に数台しかなかったTVを皆で観て楽しんでいた景色をここカシュガルで見ています。最近では、『パブリック・ヴューイング』とか。違うか(笑)。
 日本が貧しかった頃、でも皆が将来に夢を持っていた頃、おにぎりを二つに分けて大きい方を小さな子に与えたり、弱い子を絶対にいじめないガキ大将がいたり、さりげなく優しくしたり、さりげない優しさをさりげなく受けとめたり、…。感傷的になっていません。いい旅でした。皆さん、本当にありがとうございました。「スィー・ユー・アゲィン」。

吐曼路近くの小道
吐曼路近くの小道
店先に貸し電話器が置いてある
共同視聴TV。エイティガール寺院から色満路へつながる通りで
色満路の路上果物屋で。“吉”であるように