中国・新疆ウイグル~クチャ~

ウルムチからクチャへ
 ウルムチからクチャへ列車で向かう。ウルムチ発15時51分、クチャ到着予定時間は翌日の05時43分の夜行寝台列車による移動である。料金は、2005年当時で326元であった。今まで、四半世紀前からヨ-ロッパ各国、各都市間の夜行寝台列車による移動は、何度も経験済みだし、今回の中国人のホスピタリティには随分と世話になった。旅における慎重な行動はとても重要なことは百も承知だし、(「それが危ない」の声あり)、とにかく、「隣人を信じよう」。
 列車の係員にチケットを提示すると、席(部屋)まで案内してくれた。1室に2段寝台を2つ置いた4人部屋であり、ヨーロッパのクシェット(簡易寝台)の1等寝台とほぼ同じような構造である。日本人は私一人で、他は体格の良い中国人3人であった。なんとか意味が通じる英語を話す人もいて、消灯する時間まで色々な話をした。彼らは中国の軍関係の人達だった。三十代後半に見えた。私が「中国人民軍」と言うと、「正確には『中華人民解放軍』という」と訂正された。そして、その立場は「中国共産党が指導する中華人民共和国の軍隊」だという。少し時間がかかったが、何となく理解できそうである。外国で、その国の国家体制のことを話題にするのは注意を要するが、彼らは非常に友好的で、クチャのことを色々と教えてもらった。普段は自分たちのことを「解放軍」と言うそうだ。
 そして、私に袋に入った茶葉をくれた。その後の中国旅行でもいつも感心したことであるが、日本に無い中国の文化的インフラ?である。お湯である。公共の場、例えば、駅、バスステーション、列車の中などに、必ずお湯のサービスがある。タンクを備えているのである。人々は、茶葉を入れた魔法瓶をいつも持ち運び、いつでもどこでもお茶を飲むことができるのである。粉ミルクを入れた赤ちゃんの哺乳瓶を持ち歩くお母さんもいる。これは、是非、我が国にも導入したい慣習、文化である。

ウルムチからクチャへ向かう夜行列車のチケット
夜行列車の寝台の様子。私の寝台は左側の下段である
車内販売の朝食

クチャの歴史
 シルクロードのルート上にあって、長い間重要な地位を占めてきたクチャについて、分かりやすく説明するのは、浅学の私にはとても難しい。最も基本となる中学や高校で習う中国の歴史に現れる時代や地域も多岐にわたり、一筋縄ではいかない。そこで、まず、その地理的位置について概略を説明したい。中心となるのは、天山山脈、ウイグル語で言うテンリ・タグ、すなわち『神の山』である。タクラマカン砂漠の北あるいは中央アジアの国々との国境地帯にある大きな山脈である。シルクロードはこの天山山脈を境に南側を「天山南路」、北側を「天山北路」と呼んで分けている。
 この天山山脈の南麓に位置するクチャに、歴史あるいは時代を当てはめてみる。クチャ側から言うと、次々とやってくる歴史や時代を定点観測する手法である。時代として,よく知られている『前漢』、『後漢』、『唐』に登場してもらおう。前漢時代に登場したのは、『亀茲国(くじこく)』である。水を得て、農耕、牧畜を行ったり、キャラバン隊による中継貿易によって発展した、いわゆるオアシス国家である。後漢時代には西域都護府(せいいきとごふ)が置かれて西域を統括し、次の唐代には安西都護府が置かれた。これらはいずれも統治の形態であるが、歴史をおさらいする時、あるいは時系列に並べる時は、よく使われる手法であり、受験勉強のようで恐縮であるが、お許しください。
 西域は、どうしてもイスラム世界のイメージが強いが、『唐』が出現するからには、おのずから、『仏教』のキー・ワードが頭に浮かぶ。クチャが仏教の歴史に深くかかわる予感がする。そう、クチャには仏教遺跡が多数、存在するのである。ここはまさに、『クチャ』、そう地理的『十字路』であると同時に、宗教・文化の『十字路』であるのだ。

もう一人の三蔵法師
 日本では、西遊記に登場する玄奘はむしろ三蔵法師(さんぞうほうし)として知られているが、三蔵法師というのは一般名詞あるいは尊称であって、固有名詞ではない。『そもそも論』は、旅行記に馴染まないが、三藏法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことである。訳経僧をさす場合もある。したがって、多くの三蔵法師がいるのである。
 実は、前段の文章は伏線であって、ここ亀茲国を生誕地とする最初の三蔵法師を紹介したいためである。仏教普及に貢献した仏典翻訳者・鳩摩羅什(クマラジーバ)である。鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われている。若い皆さんはこれからアジアの仏教国を旅行する時、仏教国でなくてもかつては仏教が盛んであった、そういう都市を旅行する時に、鳩摩羅什のことを知っていると、深い旅を楽しめますよ。

クチャ郊外観光のスタートはキジル千仏洞
 私の旅の定石通り、クチャの中心部より先に周辺に出かけてみよう。「人っ子一人いない」とよく言われるが、クチャの郊外に向かう道路にはたまに観光バスとすれ違うだけで、本当に人通りがない。遠くに見える天山山脈は雪をかぶっている。雲一つない青空で、「青い空」とは、まさにこういう空を言うのであろう。70キロメートルの距離も1時間もかからずに目的地に着く。ここは、亀茲国の仏教文化遺跡『キジル千仏洞』である。『古代シルクロードの真珠』と言われたキジル千仏洞は,後漢から宋代にかけて(3世紀頃から8世紀末頃)、約40メートルの断崖に開削された、新疆で最大の石窟である。
 塑像はほとんど破壊されているが、壁画は比較的保存状態が良かった。案内のガイドは、第8号窟の『伎楽天画』の説明に力が入っていたが、個人的には第48窟の『飛天画』が好みだった。しかし、石窟内部にバッグやカメラを持ち込むことは厳禁であるので、写真は1枚もない。残念ながら壁画などはここでご紹介できない。お許しください。
 ガイドをした好青年、私と波長が合ってきたので、翌日の『クムトラ千仏洞』のガイドとして、個人的に指名することにした。ただ、注意を要するのは、どこの千仏洞でもそうであるが、亀茲石窟研究所で入場料を支払い、ガイド料金を追加で支払うシステムなので、許可無くガイドと勝手に千仏洞に入ることはできない。
 先ずは今日の午後の活動に備えて昼飯だ。

キジル千仏洞に向かう。遠くに見える天山山脈は雪をかぶっている
キジル千仏洞の全景
キジル千仏洞のアップ
近くで遊んでいた七面鳥
キジル千仏洞の敷地にあるレストラン近くにポプラ並木が続く

今日はまだ時間がある
 レストランで食事を済ませた。これから、ここキジル千仏洞から塩水渓谷に寄り、その後、クズルガハ千仏洞へ向かうことにした。塩水渓谷は、文字通り塩が蓄積している渓谷である。チェルターグ山(禿山)から流出する雪解け水は大量に塩分を含んでおり、それが谷間で干あがって塩の結晶が蓄積した結果、白い渓谷ができたわけである。私がこの写真を撮ったのは6月であり、8月の増水期以外はこのように,水が無く川床は乾いた塩で真っ白になるそうだ。そして、当然のことながら、この辺りの山は草木一本生えていない禿山が続く。 ただ、チェルターグ山では鉄や銅がとれるということであった。
 私の撮ったこの場所であるかどうかは定かではないが、玄奘はこのクチャの塩水渓谷を通ったそうである。あの玄奘が、悟空と沙悟浄、猪八戒を引き連れて、…。『西遊記』であれば、孫悟空が乗るきんとうん(觔斗雲)で、一飛びで十万八千里を飛ぶのだが。

乾いた塩で真っ白になる塩水渓谷
チェルターグ山(禿山)と道路

塩水渓谷からクズルガハ千仏洞へ
 塩水渓谷からクズルガハ千仏洞に向かう途中に位置する新疆エリアで最大のクズルガハ烽火台(クズルガハのろしだい)跡に立ち寄ることにした。ガイドによると、この烽火台は前漢時代(今から約2000年前)につくられたものだそうだ。南北4.5メートル、東西6メートルの土台の上に高さ13メートルの土塔が残っている。建設当時は、写真に見られるような烽火台が等間隔に設けられていたそうだから、国土防備もさることながら、さぞかし壮観であったと思われる。
 塩水渓谷の岩壁や谷の上にあるクズルガハ千仏洞に移動する。クズルガハ峰火台から約2キロメートルの近さである。この石窟群は、漢の時代から唐の時代にかけて46窟が開削されたそうだが、残っているものは少なく、それに損傷が著しい。キジル千仏洞の時と同じように、カメラの持ち込みは厳禁なので、写真がありません。申し訳ありません。    

クズルガハ峰火台(クズルガハのろしだい) 

スバシ故城
 チェルターグ山の南麓に広がる仏教遺跡であるスバシ故城に移動する。ガイドの話だと、『大唐西域記』に登場する寺院、『アーシュチャリア寺』だと考えられているという。『大唐西域記』とは、先にトルファンについて記述した際の『いきなり孫悟空』でご紹介した書物である。ガイドにとっては地元だったのか、「魏晋の時代に造られ、唐の時代には亀茲国最大の寺院だった」と誇らしく力説していた。
 スバシ故城は、クチャ河を挟んで東寺区と西寺区に分かれている。私は後者を廻ったが、広いエリアに石窟が点在している。魏晋の時代に造られたものが、21世紀に観られる、世界有数の歴史を誇る、やはりここは中国である。私が日本人であることを知っているガイドは、中部仏塔を指さして、「20世紀初めに日本の大谷探検隊が発見した仏塔ですよ」と笑顔で説明した。
 小さな洞穴の前で「ミイラが見つかった場所」と説明があったが、本当かな?もちろんガイドの説明を疑ったのではなく、この洞穴でミイラが見つかったことがである。それほど、どうってことのない穴だったもんですから。詳細は分からない。
 そうそう、スバシ故城もシルクロード遺跡群として世界遺産に登録されたということです。

チェルターグ山の南麓に広がるスバシ故城西寺大殿
日本の大谷探検隊が発見した中部仏塔
スバシ故城西寺仏塔
スバシ故城西寺仏塔
ミイラが発見された穴

クムトラ千仏洞
 亀茲石窟研究所で所定の手続きと支払いを済ませてから、昨日、約束したガイドと二人で『クムトラ千仏洞』に車で向かう。この名前は、付近のクムトラ村に因んで名付けられたそうだ。千仏洞の4キロメートル手前の入口をカメラに収めたが、肝心の千仏洞の外観を撮るのに失敗した。そして、ここでも千仏洞内へのカメラの持ち込み禁止されているので、お見せするものが無く、申し訳ない。
 クムトラ千仏洞は、5~11世紀(南北朝期~西州ウイグル期)の仏教石窟である。主に仏教的な内容が描かれており、彫刻も見ることができる。唐代に造られたものが多いので、結果的に壁画の人物は漢民族のように見える。玄奘はここにも滞在したと言われている。
 黒っぽく見える壁画が多かったが、ガイドの話だと、イスラム教徒がこの洞の中で肉を焼いたりしたために生ずる煙のせいだという。でも、事の良し悪しは別として、「その煙のおかげで壁画の劣化が守られたのでないか」と、複雑な気持ちになった。その保存状態であるが、1977年と1979年にそれぞれ相次いで発見された新1号窟と新2号窟は、石窟、壁画ともに保存状態が良く、絵葉書の人気も高かった。

クムトラ千仏洞の4キロメートル手前の入口

クチャ市内
 前述したように、亀茲国が栄えた土地クチャは、前漢(オアシス国家)、後漢(西域都護府)、唐(安西都護府)の時代を通して、10世紀頃まで西域支配の中心であった。亀茲国の王族を母とする高僧・鳩摩羅什はここで生まれ、彼と共に二大訳聖と言われる玄奘はインドへ向かう途中、ここに滞在するなど、仏教へのかかわりが深い国であった。仏教が東へ向かって伝来して行く、いわゆる『仏教東進史』の中心であったのだ。
 現在のクチャは、ウイグル族が大半のイスラム教徒の街であるが、丁寧に街を散策すると、『クチャ』、そう地理的にも、宗教・文化的にもその名の通り『十字路』なのである。方向音痴の才能を生かして、気の向くまま、足の向くままに歩いてみよう。
 『亀茲古城』と記された碑に気づかなければ見逃してしまう。荒れ地と言ってもいいであろう姿は、唐代に安西都護府が置かれた城壁の跡である。松尾芭蕉の「つわものどもがゆめのあと」の風情には、もう一つ何かが足りない気がする。なんであろう?いつか、ゆっくりと考えてみたい。
 ここから東に10分ほど歩くと、『モラナ・エシディン・マザール』がある。14世紀中期の著名なイスラム教伝道師エシディンの陵墓である。「モラナ」は、聖者の末裔、「マザール」は、聖者の墓所を意味することから、『聖者の末裔・エシディンを祀った聖なる墓所』である。祖先はチェコのプラハ出身と言われる。

亀茲古城。(唐代の安西都護府跡)唐代の安西都護府跡は亀茲古城として,僅かに城壁が残るだけ
モラナ・エシディン・マザールの入口

横 道
 ちょっと横道にそれる。歴史を整理したいためである。『チンギス・ハーン』について、ちょっとだけ。「『モラナ・エシディン・マザール』と何の関係があるのだ」と言われると、「そうですよね」と言わざるを得ないが、ちょっとだけです。
 『チンギス・ハーン』(1162年~1227年)をご存じですね。12~13世紀のモンゴルに群雄割拠していた周辺諸国を征服し、アジアにまたがる一大帝国、すなわちモンゴル帝国を打ち立てた建国者(太祖)である。このチンギス・ハーンが13世紀にプラハを征服した際にエシディンは捕えられて新疆に流され、そこで布教を始めたのだという。人間の運命とは、不思議なものである。
 チンギス・ハーンの、この国土拡大は子孫達にも受け継がれ、ユーラシア広域を版図に収めた大帝国に発展するのである。この中世モンゴルの英雄の子孫達について、日本人がすぐに思い出すのは、鎌倉時代に日本に攻めてきた(『元寇』)フビライ・ハンであろう。フビライ・ハンはチンギス・ハーンの孫である。そして、もう一人、登場してもらおう。チンギス・ハーンの次男『チャガタイ』である。彼を祖とする遊牧国家が、『チャガタイ・ハン国』であり、その後、子孫が国家の君主として君臨した。その中心となった都市がアルマリクであり、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能していた。しかし、歴史は繰り返す。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂してしまう。それを一時的に再統一したハンとして知られるのが、『トゥグルク・ティムール』(? – 1363年)である。

 勝手ながら、ここで、横道から戻さしていただく。登場人物は、『エシディン』と『トゥグルク・ティムール』である。エシディンは、トゥグルク・ティムールを帰依させ、チャガタイ・ハン国の都アルマリクで16万のモンゴルの王侯、大臣、軍兵士、民衆をイスラームに改宗させたと言われている。歴史に翻弄され、立ち向かい、そして作った『エシディン』と『トゥグルク・ティムール』に、そして、ちょっと戻るが『チンギス・ハーン』も含めて、この登場人物の立ち位置と相互の関係を少しでも理解していただくために、僭越ですが、横道にそれました。お許しを。

まっすぐクチャ大寺へ
 横道で時間を使ってしまったので、まっすぐ、クチャ大寺(金曜モスク)へ向かう。ガイドブックの説明を忠実に再現すると、「16世紀新疆イスラム教依禅派の始祖イスハク・アリがクチャ滞在中に創建したといわれるモスク…」と記されているが、私には、『依禅派』とはどのような宗派なのかよくわからないし、『イスハク・アリ』なる人物は、初めて聞く名前である。したがって、ここではその宗教的意味をご説明できない。現在残っているクチャ大寺は、1927年に焼失した後に再建されたモスクだそうだ。新疆の中で、後日訪問するカシュガルの『エイティガール寺院』に次ぐ規模のモスクで、 青レンガで造られたアーチの高さは18.3メートルということだ。内部の天井をアップで示したが、緻密で装飾的な造作がなされている。

クチャ大寺正門
角度を変えて撮ったクチャ大寺正門
内部の天井は装飾的に造られている

オールド・クチャ
 クチャ大寺辺りから古い時代の街並みが残る、いわゆるオールド・クチャが広がる。“旅”の中で、私の一番好きな雰囲気で、旅の醍醐味を感じる瞬間である。変な日本語になってしまうが、「旅の醍醐味を感じる瞬間が継続する幸せな時間」なのです。写真に見える大きな建物はバスセンターなのだろうか?駐車するバスの前をおばあちゃんを乗せたロバ車がゆっくりと通り過ぎる。近代の乗り物であるバスと延々と歴史をつないできたロバ、時間が許されるならばあなたはどちらを選びますか?
 緻密な造作で造られた銅製品や幾何学模様の宝石箱などを売っているかと思えば、香辛料を量り売りする店、野菜を露店で売るおばさん達、怪しげな栄養補助食品など、いつも私がする表現、「楽しいのなんのって、楽しい」のです。とくに私が惹かれるのは、職人仕事です。世界のあちらこちらで随分多くのバザールを訪ねたが、やはり、職人仕事あるいは職人街に、一番惹かれてしまう。ここの靴の修理屋さんと15分も話して彼の貴重な時間を奪ってしまった。耳学問で英語を覚えたのだろうか。私の汚れたスニーカーを指さして、「お前のスニーカーは修理できない。そのように作られていない」。なるほど、職人の目から見れば、文字通り、ハキステだ。そして、横にあった切り取ったスニーカーの底(ゴムの部分)を私に見せて、「これは他の靴に利用できる」。この職人から多くのことを、技術的なことだけでなく、「人生を学んだ」。ありがとう。
 今日は、日曜日。バザールから日曜日に言葉が飛ぶということは、そう、『日曜バザール』が開かれているのである。場所は、クチャ大寺から500メートルも歩けば、川をまたぐ団結新橋に至る。その辺りである。早い時間から屋台が建ち始め、荷物を満載したロバ車が沿道に行列をつくる。
 写真が無いのは、意地悪ではありません。楽しむのに忙しくて、写真を撮る暇がないのです。それに、明日は05時49分発の列車で今回の一連の中国旅行の最終地、カシュガルに9時間の旅程で向かわなくてはならないのです。それに、クチャのワィンも飲まなくちゃならないし。意地悪ではありません、Again。

オールド・クチャ
バスとロバ車。新旧乗り物の対比。あなたはどっちを選ぶ
心優しい&スマートな靴の修理屋さん
路上の果物屋さん?