中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~

茂 陵
 先述したように、西線ルートは、市区中心部から離れて散在しているので、旅行会社の西線一日ツアーに参加することにした。西安鉄道駅に向かって右側にある西安バスターミナルの東広場を朝8:00に出発した。最初の訪問先は、前漢時代の陵墓群である。余計なことかもしれませんが、前漢時代とは大まかに言って、劉邦(りゅうほう)が中華を統一した時代を言う。前漢の11皇帝のうち、文帝,宣帝を除く前漢9帝の陵墓が東西50キロメートルにわたって、ほぼ真っ直ぐ並んでいる。最も大きい陵墓は第7代皇帝武帝(紀元前156~紀元前87年)の『茂陵(もりょう)』で、高さ46.5 x 東西39.5 x 南北35.5メートルで、基底部の四辺は240メートルと大きい。茂陵の築造は武帝17歳の時に始められた。完成後間もなく71歳で逝去。栄華を極めた人生だった。
 武帝には色々な逸話があるが、その一つは、宿敵『匈奴』との戦いであろう。前漢時代には、匈奴を野蛮な『夷狄』と呼んで恐れ、歴代の皇帝は、匈奴を兄、漢を弟と呼んで、貢物を届けていた。これに反旗を翻したのが武帝である。甘粛省西部にある山丹軍馬場は、2100年前の武帝の時代から続く軍馬繁殖場である。武帝は、はるか中央アジアから手に入れたと言われる優秀な馬の繁殖に力を注いで強力な騎馬軍団を作ったと言われる。一説には、40万頭に膨れ上がったという。そして、ついに匈奴を北方へと追い払うのである。匈奴に対する戦勝を祝して武帝が作らせた像が、『馬踏匈奴』である。昼間には千里、夜には800里走ることができると言われる伝説の名馬『汗血馬』は、馬が走る時に血のような汗をかくことから汗血馬と名付けられたそうだ。
 先に『歴史のおさらい』の中で登場させた人物の中に、『霍去病(かくきょへい)』を加えたことを覚えていらっしゃいますか?武帝が寵愛した武将で、紀元前 123年、18歳の時に叔父の大将軍、衛青と共に初めて、北方の異民族である匈奴征伐に従軍した。その後,匈奴征伐に5回赴き、この時代、最大の敵であった匈奴討伐に尽力した。紀元前 117年頃,病により 24歳で祁連山(きれんざん)で夭折した霍去病を悼んだ武帝は,彼の功績を讃えて手厚く葬った。墓は武帝の茂陵の近くに、叔父の衛青のそれと隣り合わせにある。

西安バスターミナル
霍去病の陵墓
匈奴を踏みつける馬(国宝)
去病石

懿(い)徳太子墓
 『懿(い)徳太子墓(博物館)』に向かう。懿徳太子は、唐の第3代皇帝高宗(628~683年)と則天武后(624~705年)の孫で、唐の第4代皇帝中宗(656~710年)の長男である。永秦公主の事件(高宗と則天武后の孫にあたる永秦公主が17歳の時に則天武后の情夫の批判をしたため、則天武后によって殺された事件)で、懿徳太子も則天武后によって殺された。
 参道と前後の墓室から成る全長100.8メートルの墓で、墓道から墓室につながる地下施設の壁面には彩色画が残っている。解説書によると、『闕楼儀仗図(けつろうぎじょうず)』は、当時の様子が表現されている貴重な壁画ということだが、乾陵博物館に移されたそうである。

懿(い)徳太子墓博物館
壁 画

武則天(則天武后)
 武則天について詳しく述べ始めると、漢の高祖劉邦の皇后『呂雉』、清代の『西太后』、そして唐代の『武則天(則天武后)』を“中国三大悪女”として述べなければ、「あれっ」ということになろう。小説、映画、TVドラマ等々、世界的に、そして歴史的に有名なのであるが、違う表現をすると、その本質はともかくも、そして真摯に歴史と向かい合って研究されている方々は別として、あの手この手を使って、面白おかしく登場させているとも言えよう。
 しかし、もし、私がこの種の女性にお会いしたら、どうするか?どうするも何も、目をそらしてすぐに逃げ出してしまうでしょうね、多分。「過去の歴史に現れた女性、それもとびっきりの魅惑的なというか、個性的な美女をとらえて悪態をつくのは、この場の役目ではない。ということで、ここでは、武則天について簡単に述べる」、と言い逃れしながら…。「意気地なし!」。私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう。
 則天武后は第2代皇帝太宗の後宮に入り、太宗の死後に尼になっていたが、高宗の第三代皇帝への即位により再度後宮入りして高宗の寵愛を得た。高宗が病気がちになると、その持前の能力を発揮して朝廷の政務を済決するようになり、高宗の死後は、皇太后、そして聖神皇帝として即位し、周をおこした。簡単すぎますか?では、もう一つ付け加えます。先に、『懿徳太子墓』の欄で述べた『永秦公主の事件』の繰り返しですが、則天武后は、自分の情夫の批判をしたことを理由に、17歳の孫娘を殺したのです。こんなことを改めて言うなんて、卑怯ですね。なんか、則天武后を悪者にして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている。言い逃れみたいですね。「私は。やはり、意気地なし!」みたいですね。
 なぜか、急に『つかこうへい』を思い出した。「今、義理人情は、女がやっているのです」のような名ゼリフがあったと思います。

乾 陵
 乾陵は、唐王朝第三代の皇帝高宗(628-683年)と中国の歴史上唯一の女帝武則天(624-705年)の合葬墓である。梁山の主峰と南の峰を利用し、唐長安城を模倣して建築したもので、正面の山(陵墓)に至る道(神道)が美しい。道の景観的には、神道に通じる526段の石段と18の踊り場(平台)が幾何学的な造形美を醸し出している。18座の平台は、唐の時代の皇帝の陵墓が18であることを意味し、また、2番目の21段の階段は、則天武后が政務をとった期間が21年であることを意味している。
 大型の石の彫刻が100件あまり現存していて、とりわけ乾陵司馬道の両側に分布する翼馬、無字碑、61蕃臣の石像などが存在感を示すように建っている。
 『無字碑』、つまり碑に何も記されていないのは、「自分の功績は文字で表現できない」という説や、功績は後の人々が決めるという説など、諸説があるそうだ。
 私が興味を持ったのは、首を切られた『61蕃臣の石像』である。彼らは、少数民族の指導者であり、また、唐王朝政府の官吏だったと言われている。こういう時代だったのですね。

乾陵参道。正面の山が陵墓。石段は575.8メートル
石像が続く
無字碑。「自分の功績は文字で表すことはできない」という説
参道脇にある無字碑
首を切り落とされた六十一蕃臣。彼らは少数民族のリーダーかつ唐王朝の政府の官吏だった
ド迫力

私の旅のスタイル
 旅行会社の主催する西線一日ツアーに参加し、午前の部は無事に終了した。西安バスターミナルの東広場から朝8時のバスで出発し、まず『茂陵』を見学し、次に『懿(い)徳太子墓』、そして『乾陵』で終わった。ツアーに参加すると、慣れていないせいか、ちょっと勝手が違うというか、戸惑うこともあるが、行先への交通機関の検索、乗り換え場所を間違わないようにする配慮等々から解放される。とても楽である。でも、何か、自分という物体が点から点に運ばれている感じがして、時間の余裕ができたのに人との接点が無いような感じがする。西安のような大都会では無理かもしれないが、もっと小さな町であれば、前もって運転手に中国語もどきの漢字のメモを見せながら「日本人です。どこどこに…」と言えば、その近くの停留所に近づくと、大抵の場合、「降りろ」と合図をくれる。そして、降りた場所から目的の場所への行き方を教えてくれる。もっと田舎になると、停留所でもないのに目的の場所で停車してくれる。あるいは周りのおじさん、おばさんが教えてくれる。これまでに相当数の国や都市を旅行したつもりだが、中国人は、本当に親切である。このことがらについては、これから何度も口にすると思う。
 ついでで恐縮ですが、イタリアのナポリあたりでも、周りのおじさん、おばさんが超親切に?教えてくれる。意見が違うと、おじさん、おばさん同士が喧嘩をしている。そうこうしているうちに、目的の場所を行き過ぎたこともある。「ありがとう、グラッツィエ・タンテ」。要するに、私の旅のスタイルは、『出会い』みたいです。『自由』みたいです。

法門寺
 午後は、1,800年以上の歴史を持つ古刹、『法門寺』を訪ねる。後漢の第11代皇帝桓帝(在位期間‎: ‎146~‎168年)から第12代皇帝霊帝(在位期間‎: ‎168~‎189年‎)にかけて建立されたお寺である。
 ガイドブックによると、言い伝えであるが、約2000年前、古代インドのマウリヤ朝の国王であるアショカ王(中国語で阿育王)が仏法を広めるために、仏舎利(釈迦牟尼の遺骨)を八萬八千四百に分骨して世界各地に送り、そこに塔を建てて、その中に仏舎利を安置したという。中国では19基の仏舎利塔が建立され、法門寺塔はその中で第五基といわれている。その経緯から、創建当時は阿育王寺と呼ばれていたが、西暦624年(唐の高祖・武徳7年)に法門寺と名付けられた。
 仏法のことを話しているのに、このような表現は不謹慎かもしれないが、1987年に信じられないことが起こった。1981年の大雨で法門寺の塔が半壊した結果、1987年から基礎部分を含めた修理が始まった。その時に、1100年あまり密閉されていた地下宮殿が発見され、調査の結果、なんと、『指の仏舎利』と貴重な仏教文物が発見されたのである。発掘物、文献、碑文等についての専門家による分析の結果、本物の仏舎利であると実証されており、現時点では仏教界の最高の聖物であると言えよう。地下宮殿の後方にある八重宝函には、仏舎利を入れるために金銀、真珠、宝石、玉石、象牙で作られた『入れ子細工』の箱が陳列されている。御存知のように、『入れ子細工』とは、同じような形状で大きさが異なる容器などを順番に中に入れたもので、ロシアの『マトリョーシカ人形』が有名である。
 この地下宮殿内に納められている『指の仏舎利』を見たくて、我々観光客はここに来るわけである。仏教界最高の聖物と言っても過言ではない『指の仏舎利』の価値もさることながら、とにかく巨大な寺院である。

法門寺
再建された明代の仏塔。仏舎利はこの塔の地下に納められていた
法門寺珍宝館。ここに『八重宝函』がある
仏舎利を納めた八重の宝箱『八十宝函』
仏舎利を納めた八重の宝箱『八重宝函』・第一重
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