今日の日程
今日は、2015年5月16日。西安郊外の観光で最も人気のある東ルートと呼ばれる地域を一人旅である。訪れる場所を簡単に記すと、西安駅東広場前の遊バス(306路あるいは遊5路バス)に乗車→次の停留所(バスストップ)である『華清池』で降りずに→終点の『兵馬俑』で降車→『秦始皇帝兵馬俑博物館』見学→(戻って)『華清池』で降車→楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』見学→45路バスで『半坡博物館』、あるいは11, 42, 307路バスで『半坡』へ→母系氏族社会の遺跡『半坡博物館』見学、といった旅程である。
ただし、上記の旅程を一つにまとめて、『兵馬俑・華清池・ 半坡博物館』 とするには物理的に量が多すぎるので、 ここで は 『兵馬俑・華清池 』 としてまとめ、『 半坡博物館 』は次の項に譲りたい。
兵馬俑 は人気がありすぎる
言わずと知れた『秦始皇帝兵馬俑博物館』である。毎年500万人以上が訪れ、その数字は年ごとに伸びているという。祝日が続く10月の中秋節の週では、なんと40万人を超える人々が訪れたそうだ。この博物館について説明を試みても、入場者が多いことと比例して、インターネットへの投稿数が圧倒的に多いため、どこかで似た文章になってしまう。屋外と違って狭い館内を写すことから、写真自体も「どこかで見た写真」になってしまう。デジカメが普及していない、いわゆるフィルムカメラの時代であれば、フィルムの供給が追い付かなかったであろうと思われる。
秦始皇帝兵馬俑博物館
館内には多くの情報がパネルで示されているが、その一つ、一号坑の解説パネルに『打井位置』と題してこの兵馬俑が発見された経緯が記されていた。簡単に言うと、「1974年、地元の農民が水を探して井戸を掘っていた時、いくつかの陶器の破片がここで発見された」。兵馬俑坑発見のきっかけである。この総面積約1万4260平方メートルの1号俑坑を皮切りに、北側に2号坑俑(第1号俑坑のほぼ半分の広さ)、3号俑坑が発掘されて、3つの俑坑の規模は2万平方メートルと言われている。そこに8,000点を超えると言われる陶製の兵馬が、地下に整然と並んでいる。死後の秦始皇帝を守るためである。
70万人を動員して造られた兵馬俑であるが、兵力100万、戦車千両、騎馬1万、そして兵士の平均身長180センチメートル、馬の体長2メートルと、『史記』に記載されているという。第2号兵馬俑の広さは、第1号兵馬俑のほぼ半分であり、兵士には、歩兵、弓の射手、騎馬兵が含まれている。4頭の馬に引かれた戦車が全面積の半分を占めており、秦の時代の戦争は戦車中心であったことが分かる。前後を戦車と歩兵に守られた将軍の俑が全軍を叱咤するように立っている。身長約2メートルのひときわ高い一隊である。個人的に特に興味を持ったのは、小さな金属片を鋲でつづった兵士の甲冑(かっちゅう)である。その機能性と同時に、日本の武将の纏う鎧の美しさを想起させるものであった。
秦はわずか2代、10年余りで滅び、続いて項羽に勝った劉邦の漢王朝が成立する。この辺りの歴史はダイナミズムにあふれ、『血沸き肉踊る』が、ここは、『秦始皇帝兵馬俑博物館』の舞台であるので、咸陽(かんよう)で出土された『漢の兵馬三千俑』があることを述べるにとどめ、詳細についてはここでは割愛する。
説明が前後したが、『俑』とは権力者や為政者の死を追って、臣下がその死に殉じる代わりに埋葬された人形(ひとがた)のことである。ここでは、兵士俑は隊列を組んで東向きに並んでいるが、その方向とは敵国のある方向である。8,000点を超える俑を比較することは私には不可能であるが、ガイドブックによると、陶製の兵馬は、表情、髪形、衣服はどれひとつとして同じ形のものはないという。これは、始皇帝の軍団が多様な民族の混成部隊であったということであろう。
華清池
西安駅東広場前から遊バス に乗って、ここ『兵馬俑』に一気に来たのであるが、ここに来る時に途中下車しなかった『華清池』に、戻りのバスで向かう。玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』である。気のせいか、女性の観光客が多いように感じる。
『驪山』。私はこの字、『りざん』を読むことができなかった。辞書によると、『驪』には『黒色の馬』、『黒い』などの意味がある。海抜、約1300メートルの『驪山』は秦始皇陵や兵馬俑博物館まで見渡せる山で、これから訪ねる予定の『華清池』からロープウェイもあるが、そこからさらに歩かなければならないそうで、止めることにした。というか、温泉とロマンスの場を早く観たかったのである。
その驪山の北麓に位置する華清池は、風景に加えて温泉が魅力の観光地である。でも、観光客の目的は、温泉に入る一部の女性?もいらっしゃるが、その大半は『楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス』の場を観るためである。楊貴妃(姓は楊、名は玉環719~756年)は、中国四大美女の一人、西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の、あの楊貴妃である。
楊貴妃
歴代の王朝がこの場所に離宮を造ったが、唐の天宝年間(742~756年)には、華清宮そして池ほどの大きさの温泉が造られ、玄宗皇帝は寒い季節には自分の養生のため毎年訪れたそうである。
本当であろうか?私は違うと思う。愛した、好きになった、美しく聡明な女性が「より美しくなりたい」と懇願したとしたら、いや、「楊がそう思っている」と気づいたら、『男たるもの』は、口に出さずに、「レッツ・ゴー」なのである。それほど、玄宗が惚れていたというか、楊が惚れさせたというか、「この色男と色女めっ」。その楊貴妃が使ったという温泉の跡を丁寧に写真で巡る。
あなたの好みは
最後に、楊貴妃のボディ・サイズは?出典不明であるが、身長167センチメートル、体重64キログラム、…、後は教えない。写真を載せましたので、御自分の好みで造形してください。どうでも良いことですが、ジムで鍛えている私より1センチメートル低く、2キログラム重い、どちらかと言うと豊満で?…、あなたの好みで書き足してください。音楽や踊りの才能に恵まれた女性であったということですが、白居易(はくきょい)の『長恨歌』に描かれるとは、歴史のなせるわざか。華清池では毎日『長恨歌』と題した歌と踊りのショーが演じられている。(純な私めは)涙。ところで、『長恨歌』の英訳が、 『The story of everlasting』とあった。「単なる言葉遊びと笑われるかもしれないが、イメージとしてはこっちのほうが好きだな」。
一転、政治的事件
ここは1936年に『西安事件』の起きた場所でもある。国民党と共産党の内戦のさなか、張学良、楊虎城が国民党の蒋介石を捕らえ、内戦終結と一致抗日を訴えた事件である。当時、滞在した五間庁のガラスには弾痕が残っている。最後に、この事件は、日本と中国にとってその将来を左右する大事件(大事変)であるが、ここでは数行で終わらせたい。政治的意図を持って訪れる人は別として、私を含めて多くの観光客にとっては、ここ華清池は『玄宗と楊貴妃のロマンスの地・華清池』なのである。バック・ミュージックに、フランシス・レイの『…』を入れてみたが、あなたはどんな曲を挿入しますか?