中国・河西回廊~蘭州~

蘭州へ
 2015年5月19日07時59分、西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう。あらかじめ予約しておいたので予約番号を記した『列車予約票』とパスポートを窓口で提示すると、プラットフォーム番号と列車番号をメモ用紙に書き、方向を指差してくれる。簡単なことのように思えるが、豪華で合理的な駅舎や近代的な施設も大事だが、こういう対応は旅人の不安を解消し、旅人の心をうち、癒してくれる。旅人も街を好きになり、中国の人々を好きになる。そう、旅人の心は、単純にして素直なのである。 
 中国の大きい鉄道駅の待合室は、大抵そうであるが、行先別にブースがあって、そこ(目的地)に向かう人々が固まって座っている。見知らぬ人から「お前は、A市に行くのか」、「B州に行くのか」などと聞かれ、「俺も、私もそこに行く」、「俺の故郷だ」と話がはずむ。「食事はすんだのか」と聞かれ、『未だだ』と答えると、カバンからインスタントラーメンを出して、どこの駅にでもある(「例の」、と言っていいだろう)給湯器からお湯を入れてくれて、私に「どうぞ」。各種のメディアを通して日本国で報道されている“中国社会&人々”の実像は、私が旅先で経験するものとはかなり異なるのである。多くの場所で、多くの年齢層で、多くの状況で違うのである。「どこの国でも良い奴もいれば、悪い奴もいるさ」と、一言で割り切れないのである。
 西安から8時間弱で蘭州駅に着く。よく聞かれる。「列車の8時間って、退屈しないのか?」。確かに街から街への移動を単に点から点への移動だとしたら、「早く目的地に着け」とだけ思っているとしたら、それは苦痛だろうなぁ。列車の中で本を読めるし、人々を観光?したり、親切にされたり、地元の旨いものを売りに来るし、車窓の景色を楽しめるし、…等々、私にとって列車の8時間は体と心を癒す、とても大切な時間なのである。したがって、そんなに長く感じたことはない。
 蘭州駅(火車站…鉄道駅のこと)に比較的近い場所に蘭州大学があり、そこから歩いてすぐの所にホテルを取った。例によって道に迷っても住民に『蘭州大学』と聞くとすぐ分かるので、方向音痴の私向きの場所である。さらに良いことに、蘭州駅の斜向いに蘭州バスセンター(蘭州客運站)があるので、蘭州の観光後に訪ねる予定の『武威』へバスで移動するのにも便利なのである。
 明日は、蘭州郊外の『炳霊寺石窟』を訪ねる予定なので、今日は、早寝しよう。

列車時刻掲示板
蘭州行きT117の待合席

炳霊寺に向かう
 例によって、近場の蘭州市内観光よりも、郊外から攻める方法で今回も旅をする。蘭州から約100キロメートル、私のような土木工学の研究に携わる(携わった)者で、とくに河川やダム関係に携わる人が一度は訪ねたい場所がある。黄河とその支流である洮河(とうが)をせき止めて建設された中国有数の発電所、劉家峡ダムである。総水量57億立 方 メートル、ダム湖の面積130平方キロメートルの巨大な人造湖である。いわゆる、『大躍進時代』に建設されたダムである。
 そして、その上流に現存する、位置的には黄河の北岸側の峡谷の中にあるわけだが、中国最古の石窟であり、壁画で有名な炳霊寺(へいれいじ)石窟がある。今日の目的は、その石窟群を訪ねることである。
 蘭州西バスターミナルから劉家峡行きのバスに乗り、降車駅を運転手に告げて降りなければならないのだが、難しい中国語で書くことも読むこともできないので、『炳霊寺』と日本語(漢字)で書いたメモを示すと、「OK」の返事。降車場所が来ると合図をしてくれ、方向を指で示して、腕時計を抑えながら「ファイヴ、ファイヴ、ボート」と、歩くジェスチャーをしながら丁寧に教えてくれる。つまり、ここから歩いて5分で、炳霊寺までのボート乗り場があると教えてくれたのです。「ありがとう、運転手さん」。
 ボート乗り場(埠頭)には、ボートも来ていないし、人もいない。雨も降ってきて少し不安になるが、待つしか方法がない。20分くらい経ったであろうか、仲間が5~6人になり、さらに10人ほどのパーティがやってきた。そしてボート(快速艇)も。どうやら、所定の人数が集まると出発する仕組みらしい。片道約1時間で炳霊寺に到着→石窟の見学時間90分が目安→快速艇で戻る、というスケジュールらしい。往復で110元の料金が徴収された。3人ほどのパーティでやってきた中国人の話だと、以前は大型遊覧船で数時間かけての移動だったが、黄河の水量が減少したため運航中止になって、快速艇になったそうだ。

船中の楽しい空間
 1時間も同じ空間にいれば、ましてや石窟見学という同じ目的を持つ旅行者同士であれば、何となく言葉を交わす。この場の主役は、10人ほどのパーティの一行である。日本人が私一人だったせいもあって、気を使ってくれて、次第に打ち解けてくると、身分を明かし始める。用心深い感じだったが、その理由が分かった。検察官とその職場の仲間達だという。この人達の知性のレベルは相当なもので、リーダーらしき人は癖のある英語を流暢に話す。英国のマンチェスター留学らしい。「道理で」。
 私の英国の友人を引きあいに出して恐縮であるが、彼の息子が日本の我が家を訪れた時に聞いた話である。彼は『バークシャー(Berkshire)訛りの正統派国語?』だったのが、マンチェスター大学に進学しで数学を学んでいるうちに、「父親と言葉の断絶ができた」、「違う言語になってしまった」と笑っていた。この際、専攻した数学は関係ない。彼が笑いながら私に言う「父親と言葉の断絶ができた」という英語を理解するのに、私は3回は聞き直したのである。「ジャパニーズ・ラングェッジ?」と、まぜっかえしてやったが、「あなたの英語は理解できる」と、懐かしい『バークス・アクセント』で返された。これ以上書くと、「気障」とか、「衒学的」とか、…、止めましょう。

中国のインテリはレベルが高いぞ 
 さて、検察官の話である。彼の職場がある地元に対する愛着は深く、著名な思想家の話などは、私は相当昔の知識しか持っていないので、したがって忘れてしまっているので、ついていけない。彼は、思想家に傾倒しているのではない、歴史的事実を理路整然と話すのである。
 一行の中では最も若い30代半ばの青年の口から「みしま」と聞こえる音が発せられた。「うっ?」。「三島由紀夫です」と明確に発せられた。日本文学が大好きで、謙遜しながらも「なんとか、原文で読める」という。一行の仲間内では「一番の日本通」ということであった。相当数の本を読んでいるらしく、「もう少し日本語が理解できるようになったらT大の大学院に留学して、日本文学について勉強したい」と、目を輝かせていた。私の母校ではないが、大歓迎だ。私から握手を求めて、彼を励ました。
 激励しただけなのだが、お礼に、彼はこんなことを教えてくれた。中国の前国家主席の胡錦涛氏は、清華大学水利工程学部卒の水力発電技術者で、在学中に共産党に入党したそうだ。驚いたことに、彼の最初の赴任地がこの劉家峡ダムを管轄する機関だったという。部門は違うが、土木工学の研究者として、襟を正して、先達に深く敬意を表したい。
 そうこうしているうちに、1時間くらいで炳霊寺石窟に着いた。石窟でボートを降りてから、「一緒に行きませんか?」と皆さんの笑顔で誘われた。もちろん、願ってもないことです。二つ返事で「プリーズ」でした。石窟についてきちんと勉強をしてこなかったのが恥ずかしいくらい、インテリジェンスの高さを感じさせる内容の説明と表現方法に、感謝感激でした。

中国有数の発電所劉家峡ダムダムの上流約50キロメートルにある石窟群へ快速艇で向かう
快速艇が船着場に近づいている

炳霊寺石窟
 その『炳霊寺石窟』である。『炳霊』とはチベット語で「十万仏」の意味だそうだ。周囲は、土林と呼ばれる岩が連なっている。その奇岩とも表現すべきそりたつ岩が続く、山水画のような風景の黄河北岸の崖に、長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所である。唐代の物が多いが、西秦(385~431年)から清(1636~1912年)にかけて刻まれた仏像や石窟が多数残っている。
 まず、山門をくぐり、コンクリートでできた通路を進む。玄奘三蔵がこの辺りから、シルクロードの旅に出たと言われているそうだ。
 幸いなことに写真が残っているので、詳細な説明は割愛させてください(さぼらせてください)。この炳霊寺石窟では、目玉である『大仏像』が人気であるが、石窟の他に陶器や銅器なども展示されており、それらも拾遺させていただいたので写真でお楽しみください。
 個人的に最も気に入ったのは、北魏時代に制作された第16窟の涅槃(ねはん)塑像である。全長9メートルと、中国国内に残る最大・最古の涅槃像で、かつ完全な形で残る非常に重要な塑像である。書籍によると、1960年代のダム建設にともない水没の危機に瀕したため、9分割にして水没窟内から搬出し、安全に収蔵されたということである。この搬出などの作業には日本の専門家の助力も大きかったそうである。

今後の予定
 おおよそ石窟を廻ってから、船着き場近くにあるレストランでランチをご馳走になった。この食堂のメニューを写真に掲げておきましたが、三島ファンは、「ここ蘭州は、ラーメンが生まれた町。ラーメンは元々、回族が生み出したイスラム料理の一つです」。これまた知識が増えた。
 食事の最中に、「ここの炳霊寺石窟は、敦煌の莫高窟、天水の麦積山石窟と並び、中国甘粛省三大石窟と呼ばれている。すべてを訪ねる価値がある」と教えられた。西安からここ蘭州に(天水に寄らずに)まっすぐ来たことを説明し、今後、『河西回廊』を西に向かって、最終地の敦煌に6日間滞在後、西安に戻る予定であることを説明した。「余計なことかもしれないが、多分、敦煌で飽きてしまうでしょう。敦煌を3日間くらいにして、列車が好きみたいだから、敦煌から夜行列車で一気に天水に移動したらどうですか」とアドヴァイスを受けた。「天水で『麦積山石窟』を見学後、隣町の西安へは列車でもバスでも、いくらでもある」。細やかな交通手段まで教えてもらって大恐縮。敦煌に着いたらホテルのスタッフに相談して、予約しておいた列車のキャンセルや、新しいチケットの予約を決めることにした。

裁 定
 夢のような90分が過ぎた。帰りの準備をしなくては行けない。来た道を戻ればよい。ボートで戻り、バスの親切運転手に教えられたとおりに、5分ほど歩いて、蘭州市内行きのバスを待とう。暗くなり、雨の勢いが強くなってきた。お助けマンたちは、私の不安げな表情を察知して、彼らのマイクロバスに私を乗せて、バス会社の世話役みたいなお嬢さんに「日本人、一人」と掛け合った。契約違反である。気の弱い私めは財布を出したが、検察官は「(ノーではなく、ドイツ語っぽい発音で)ナー!お嬢さん、良いですよね」。裁定がくだった。私は温かいバスの中で、温かい人たちに囲まれて、無事、蘭州の市内に到着したのである。それも、蘭州大学近くのホテルに、である。
 「ありがとう、皆さん」。

炳霊寺石窟の標示
炳霊寺の山門をくぐる
長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所
険しい岩肌に咲いている
なにか名前を付けたくなりますね。
彩色が残っている
ここも鮮やかに見分けられる
第11窟の釈迦坐像。菩提樹がヤシの木になっている
第82窟 北周。緑の彩色が鮮やか
第86窟
元代に掘られたと見られる舎利塔
大仏。全高27メートル
対岸へ渡る
北魏時代に制作された16窟の涅槃塑像。ダム建設にともない水没の危機に瀕したため9個に分割して移転
涅槃塑像の近くにある炳霊寺文物陳列館。仏像など展示されている
天王 第10窟南壁・唐
法の番人の立像
騾馬の像(銅製)
ご馳走になった食堂のメニュー

蘭州市内観光のスタート
 今日は蘭州市内の観光である。何度も繰り返すようで恐縮であるが、「蘭州と言えば黄河」である。その関係で言えば、『中山橋』である。この中山、すなわち『孫文』の名を関した橋は、100年以上前にアメリカ人の設計、ドイツ企業が施工した鋼橋で、『黄河第一橋』の名を持つほど有名である。蘭州駅から北に向かう天水路と、それに交差する東崗西路(とうがんせいろ)が主要道路となっており、さらに黄河が東西に流れているので、とても分かりやすい。例によって、道に迷った時には「黄河」と言って道を尋ねれば、とりあえず川岸に行くことができるので、後は何とかなる。おさらいしてみる。私のホテルは、駅から天水路を北に向かい、蘭州大学で右折すると東崗西路、そこから100メートル歩いて右側に、…「あったぁ、大丈夫だ」。

黄河第一橋
黄河に架かる中山橋
中山橋を歩く 。私の習性である。美しい橋を見れば、歩きたくなってしまう

白塔山公園
 中山橋の西側に、黄河をまたぐ形で建設されたロープウェイに搭乗して、『白塔山公園』に登ることができる。白塔山の名前の由来は、山頂の寺院に白塔があることから来ている。寺院は、チンギス・ハーンに謁見するために、チベットから派遣されたチベット仏教の僧職者僧が病死したため、その供養のために元代に建立されたものだが、その後、明代に改修されたものが現在の姿である。
 元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓、清の康煕57年(西暦1718年)に青銅で造られた鐘などが、その存在感を感じさせていた。建築関連の人達だろうか、専門用語が飛び交っていたが、1958年に建立、2013年に改修されたシャクヤク亭は、その二層八角形の僧帽屋根を持つ特異な形からカメラのシャッターを浴びていた。
 ロープウェイの山頂駅から10分程歩いた所に、『蘭州碑林』と刻字された立派な門が建っている。入場すると、日本のお城を派手にしたような建築物と美しい庭園がある。碑林は、回廊や建物の中に、黄河文明、シルクロード文明、西部文明の碑文を中心に展示している。ある意味、とてもマニアックというか、書道芸術の切り口から展開する、それに特化した空間を提供している。ここの庭園、そして、ここからの眺めは特筆に値する。

山頂に建つ白塔
元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓
清の康煕57年(西暦1718年)青銅で造られた鐘
二層八角形の僧帽屋根を持つシャクヤク亭。1958年建立、2013年改修
蘭州碑林の美しい建物と庭園

 ここは蘭州である。したがって、白搭山の最後も、やはり黄河である。近代的なビルを従えて悠然と流れる黄河は、悠久数千年の中国のエースである

白搭山から見た悠久数千年の中国のエース ・黄河

甘粛省博物館
 ここ蘭州にある甘粛省博物館は、甘粛省内各地からの文化財や化石などを展示する著名な博物館であり、また、外国人であってもパスポートを提示すると免費(無料)のチケットを貰えるためか、多くの人々が訪れる。バスによる交通の便も良く、近くのバス停『七里河橋』で乗降できる。
 地下1階、地上3階建ての建物を、「甘粛シルクロード文明」「甘粛の彩陶展」「甘粛古生物化石展」の三つの部門に分けて、それぞれ特色ある展示物を公開している。黄河上流域で出土した彩陶や漢代の木簡、青銅像、マンモスの化石等々、膨大な出土品が展示されているが、その中から著名なものをいくつかご紹介したい。
 子供達にも人気があるのは、化石展のマンモスの化石で、実物骨格も展示しているので、その迫力に圧倒される。子供達は、横目でまわりを見ながら、幼い仕草で マンモス に恐るおそる触ろうとしては失敗している。「可愛いですね」。「駄目か?」。

甘粛省博物館 は、甘粛シルクロード文明(2階)、甘粛の彩陶展(3階)、甘粛古生物化石展(2階)の3つのコーナーに分かれている
マンモスの化石
マンモスの化石

馬踏飛燕像
 次に、登場させるのは、この博物館で一番人気と言って良いでしょうから、時間を割いてご説明しましょう。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から、多くの文物とともに発掘された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像(ばとうひえんぞう)』である。走る馬をかたどった青銅像で、高さ35センチメートル、頭から尾先まで45センチメートルである。馬が三本の脚で宙を蹴りながら天翔けるさまを表現し、残る一本の脚が踏みつけているのは燕であると言われている。他方で、『燕』ではなく、『龍雀』という空想上の鳥という説もあるそうだ。また、この奔馬は西域から入ってきた「『汗血馬』がモデルではないかという見方が多いそうだ。先に、西安近郊の『茂陵』の項で述べたが、“武帝が作らせた像・『馬踏匈奴』に出てくる伝説の名馬『汗血馬』”のことである。いずれにしても、空を飛ぶ燕を踏みつけながら天に舞う馬の姿は、まさに“ダイナミック”の一言である。一説によると、日本とも因縁の深いあの『郭沫若』が『馬踏飛燕』と名づけたそうだが、確認はしていない。
 古来、この国にとって馬は重要な兵器。どの為政者も“強い馬”を求めて西方に向かった。万里の長城も、馬が乗り越えられない高さに築かれていることは、ご承知の通りである。
 ジョークに聞こえるかもしれないが、現在でも“良血馬”を求めて、世界の金が動いているとも言える。

1969年、武威の雷台廟で発見された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像』。高さ34.5センチメートル、長さ45センチメートル
馬の頭の飾り。西周(紀元前1046-771年)
唄う俑の置物 春秋(紀元前770-476年)
張弿。武帝の命により匈奴に対する大月氏との同盟には失敗したが、漢に西域の多くの情報をもたらした
馬を引く三彩胡人俑
駱駝を引く三彩胡人俑