中国・河西回廊~武威~

楽しい思い出を貰って
 西安から蘭州に向かう時、「西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう」と、書いた。同じ文章を続ける書き方は私の趣味ではないが、ここは次の文章で始めたい。「蘭州と蘭州郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、蘭州発07時出発のバスで武威へ向かう」。武威バスターミナルまで約3時間半で移動だ。
 ここ武威は、前漢の武帝(紀元前159~紀元前87年)が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地を建設したうちの東端にある町で、以前は『涼州』と呼ばれた。現在の人口は190万人ほどと比較的小さな町で、武威の見所にはちょっと頑張れば歩いていくことが可能である。いつもは郊外から始める観光であるが、主要道路である北関東路と北大街の交叉近くにホテルを取ったので、すぐ近くに見所があり、今回は市内から観光を始めることにした。

鳩摩羅什寺
 最初の訪問はホテルの近くにある鳩摩羅什寺(くまらじゅうじ)である。今までも仏教関連で何度か出てきたクチャの高僧『鳩摩羅什』については、このホームページの構成で言うと、『新旅行記アジア』‐『タイトル:中国・新疆ウイグル~クチャ~』-『もう一人の三蔵法師』の中で述べた。「多くの三蔵法師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる」と表現した、あの鳩摩羅什である。ここで、さらに加筆するならば、彼はインドの高僧と亀茲国の王族を父母にもち、また、少年時代から諸国を歴訪してあらゆる言語を身につけていた。
 鳩摩羅什と武威の関係を理解するために、鳩摩羅什が武威に滞在するに至った経緯を簡単に示す。385年、亀茲国(きじこく、現在のクチャ県付近)を攻撃した前秦の将軍呂光は鳩摩羅什を拉致したが、帰国途中で母国の前秦が滅びてしまったため、『涼州』(武威の旧名)に『後涼』という地方政権を建てた。必然的に鳩摩羅什も涼州にいることになり、401年に長安(西安)に移動するまで16年間の長きにわたって武威に滞在したのである。
 著名な鳩摩羅什塔は、鳩摩羅什が経典を講じたり、経典の翻訳に従事した場所であり、そこから『鳩摩羅什塔』と呼ばれるようになったと言われる。八角12層の中空の塔であり、高さが32メートルである。唐代の創建という説もあるが、創建不明説もあり、確定はできていない。現在、我々が目にする塔は1927年の地震で倒壊した後に大修理したものである。
 なお、この国では高齢者や軍人などが優遇され、多くの見所が無料であるが、ここ鳩摩羅什寺では全ての参観者に対して入場料無料であった。

鳩摩羅什寺
羅什塔院内部の像
八 角12層の羅什寺塔
羅什法師記念堂

武夷文廟
 中国には、『孔子』に関係する博物館、建物などが数多く存在するが、ここのそれは明代の1439年創建、その後の数度の改修を経て現在に至る建物である。約25000平方メートルの敷地に、東の文昌宮、中央の孔子廟、西の儒学院と3つの部分から構成される。甘粛省最大、中国でも第三の規模を誇る孔子廟である。
 私のお目当ての一つは、表に西夏文字、裏にその訳文である漢字で刻まれている西夏碑である。正式には『重修護国寺感応塔碑(ちょうしゅうごこくじかんのうとうひ)』というそうだ。解説書によると、中国の『ロゼッタストーン』と言われるほど、西夏文字の研究には必須かつ重要な資料だそうだ。
 話が飛ぶが、ロゼッタストーンは、古代エジプトの象形文字である『ヒエログリフ(神聖文字)』を解読するのに重要な手がかりとなった、あの石碑である。1799年、ナポレオンのエジプト遠征の際に、アレクサンドリア近郊のラーシード(ヨーロッパ人はロゼッタと呼んでいた)という町で発見されたもので、町の名前を取ってロゼッタストーン(Rosetta Stone)と言われるようになった。1801年アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したためイギリスに引き渡されて、現在は大英博物館の収蔵品となっている。私は、1979年に大英博物館で初めて見る機会を得た。その後、十数人の日本人を案内したことを考えると、それほど日本人はロゼッタストーンに興味があるようだ。
 話を戻したい。門前の広場にある『西夏博物館』に入館する。西夏碑を表裏、何度もぐるぐる回って見させてもらった。元々、西夏文字も漢字も良く理解できないのであるが、長く眺めていると絵を見ているような不思議な気持になってきた。
 また、私は全く知らなかったが、李徳明(981 – 1032年)と書かれた像が訪問客の視線を浴びていた。西夏王朝の実質的な建国者だそうだ。敬意を表して、写さなくちゃ。

武夷文廟。甘粛省最大、中国で第三の規模を誇る孔子廟
武威文廟入口
門前の広場にある武夷西夏博物館全景
表に西夏文字、裏にその訳文を漢字で刻んだ西夏碑(正式には重修護国寺感応塔碑)。中国のロゼッタストーンと呼ばれる
西夏文字アップ
漢字アップ
李 徳明(981 – 1032年)の像。西夏王朝の実質的な建国者

やはり孔子は学問の神様
 やはり孔子は学問の神様である。多くの訪問客、とくに若い人達が孔子の像を取り囲んでいる。赤い布を孔子の像に結びつけ、線香をあげて手を合わせている。もちろん、お願いである。天神さま(菅原道真公)をお祀りする太宰府天満宮へお詣りし、合格祈願をするあれである。
 櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は大変な数である。帰りに階段で転んだ女性がいたが、ご利益は変わらないのだろうか?縁起を担いで、もう一度行った方が良いのかなと思っていたら、この女性、本当に戻っていった。今度は、大丈夫だ。

孔子行教像
櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は合格祈願

大雲寺(鐘楼)
 文廟から700メートルほど北にある大雲寺に向かう。西夏王国の護国寺であったと聞いて訪ねたが、私が訪ねた時は人(僧侶)がいなくて、明代に建てたという鐘楼(建物の外観)だけが残っていた、ただし、扉が閉まっていて、中にある肝心の唐代の鐘は観ることができなかった。

大雲寺
大雲寺鐘楼

海藏寺
 武威市の西北2.5キロメートルの海藏寺公園に向かう。ここにある海藏寺は、泉が湧く池と林に囲まれた環境から、「まるで海の中に隠された寺のようである」と言われ、この名がつけられた。創建は晋代と言われているが、確証はない。この古刹は修復が繰り返されてきたが、現存する建物の大部分は清代のものである。
 公園の北口を出ると、シンメトリーが美しい木造の山門がある。あまりにも緻密で複雑な木造の組物を見ていただきたく、その中央部分をアップした写真を載せたい。私の魂が震える。「可能であるならば、このような緻密で美しい組物の建築現場で作業を見学させていただきたい」。
 ガイドブックによると、元の時代にチベット仏教サキャ派のサキャ・パンディタが涼州を訪れた時に海藏寺など涼州四大寺に修繕資金を寄付したことから、チベット仏教寺院になったが、現在は仏教寺院のようだ。

対称形の美しい山門
複雑な組物が特徴の山門 のアップ 。緻密で複雑な木造の組物に圧倒される
海藏公園の北門を出て海藏寺に到着
美しいアクセス
海藏寺三星殿内部
勇ましい
勇ましい