中国・四川省 成都市内(2)

昭覚寺
 この禅宗寺院は、唐の貞観年間(627~649年)の創建で、歴史があるだけに由来を列記するだけで大変である。『川西第一禅林』と称される名刹で、創建当初は『建元寺』、後に唐の宣宗に『昭覚寺』」の名を賜った。明末(17世紀初め)に戦災で全焼、清の康煕2年(1663年)に破山和尚により再建された。さらに続く。文化大革命時に破壊され、1985年修建され現在に至る。
 唐の時代より幾多の名僧を輩出しただけに、近隣の仏教国家との関係も深く、書物によると、円悟和尚(1063~1135年)が記した著書『碧厳録』は日本の僧侶に広く読まれ、また『茶禅一味』は日本の茶道に影響を与えたとある。
 交通手段であるが、乗車地点を確認して、1、49、53、71、90路バスで『昭覚寺公交駅』で下車、徒歩5分で着くが、『成都動物園』の隣なので、乗車の際、バスの運転手に「パンダ」と日本語で伝えておけば、バス停が近づくと、「OK」と言って、笑顔で教えてくれる。そう、昭覚寺は成都動物園の隣にあるのです。

『川西第一禅林』と称される名刹、『昭覚寺』
休憩所になっている虔心亭。信者なのだろうか、おじさん、おばさんが、おしゃべりに興じていた
天王殿は、国泰平にして民安らかなこと、そして豊年を願った
金 鐘
大雄宝殿
鼓 楼
蔵経楼
昭覚寺

金沙遺址博物館
  2001年、住宅開発のための下水道工事をしている最中に、偶然、古代四川文明(古蜀文明)の遺跡が発掘され、現在、成都市のシンボルになっている金の太陽神鳥、金のマスク、大量の玉製品、青銅や石製の人物像、マンモスの牙などが出土された。遺跡は、主に大型祭祀場跡をドームで覆った遺跡館と、出土品を展示した陳列館の2棟の建物で構成されている。
 遺跡から一部を切り取ってきた成人や子供の墓も展示されていたが、実にリアルな形で人骨が保存されていた。また、金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーがあって、現代でもアクセサリーや飾り物として十分に通用する、いやむしろ斬新に見えるデザインを施した金や銅の飾りに魅入られた。
 「玉を語らずして中国を語るべからず」。でも、この『宝石』について語る資格は私にはない。あまりにも深くそして広い。以下のように簡単に述べるにとどめたい。ここの『金沙遺址博物館』にも玉はあった。刀の形状をした儀礼用玉器(玉璋)、国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器(玉圭)、そして、武器であると同時に斬首を執行する刑具(玉斧)が展示されていた。外国人はせいぜい写真を撮るぐらいであるが、中国人は『玉』の周りを行ったり来たり、目つきが違うのである。ここまでにしましょう。
 外国人にも中国人にも人気があるのは、『黄金のマスク』と「太陽神鳥金箔」である。後者は、2001年2月25日に発掘され、外径12.5センチメートル、内径5.29センチメートル、厚さ0.02センチメートル、重量20グラム、金の純度94.2%である。制作年代は3000年前の商代と推定されている。書物によると、4羽の神鳥は四季を象徴し、太陽を表す中央の空洞の周りに透かし彫りされた12本の光芒は12カ月を表し、太陽と万物の生命が循環を繰り返す様を象徴していると考えられているそうだ。現在、成都市の市微になっており、本遺跡のシンボル的出土品である。
 私は、この「太陽神鳥金箔」がすっかり気に入って、ショップでイミテーションを購入して、今も飾ってある。ここのショップでもう一つ買い物をした。金糸で刺繍を入れた白い帽子である。2000年に所属ゴルフクラブの「三大トーナメント」の一つで優勝してカップに名前を刻印した後、15年間鳴かず飛ばずの成績が続いていたが、この帽子のおかげでパッティングが冴えて、月例などで好成績が続いたのである。いいですか、成都市の『金沙遺址博物館』のショップで売っている金糸で刺繍した白いキャップ( 帽子)ですよ。かぶり方は、パッティングの時だけ、つばを後ろに回してかぶってください。笑わないでください。このぐらいしないと、ジャックニクラウス設計のゴルフコースでは勝てません。

墓を遺跡から切り取ってきて幾つか展示してあります。これは成人の墓です
金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーにあった銅の飾り
『銅虎』のアップ
アップ
石 虎
『玉璋』。刀の形状をした儀礼用玉器
『玉圭』。国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器
玉斧。斧は武器であると同時に斬首を執行する刑具。_thumb
『太陽神鳥』の金箔
一番人気の『太陽神鳥』の金箔。成都市の市微になっている
国宝級の黄金のマスク(金面具)。金沙遺跡が三星堆文化(約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化)を継承したことが分かる遺物と言われている
黄金のマスク(金面具)
古代の戦争に用いられた戦闘用馬車(戦車)
地形の模型

永陵博物館
 成都永陵博物館は、唐滅亡後の五代十国時代の前蜀(907~925年)の開祖、王建(847~918年)の陵墓『永陵』を博物館としたものである。1942年に発掘され、その後全国重要文化財に指定された。2015年6月、私が訪ねた時は、『永陵博物館』は工事中で閉鎖されていた。入口にある赤い看板がその『お知らせ』である。
 でも、そっと門を押してみると、開くではないか。工事のおじさん達が忙しそうに土木工事をしていた。私は自分を指差して「エンジニア」と言ったが、通じない。ところがである。リーダーらしき人が出てきたではないか。一瞬、ひらめいた。確か日本語の『技術士Professional Engineer』は中国語で『工程士』というはずだ。ここで、『技術士』とは、技術者の国家資格の一つで、特に土木においては最高難度の資格試験と言われている。
 紙を出して、「工程士」と書いて見せたが、反応が無い。「そうか?駄目か、…、そうだ!」、『士』を『師』と置き換えて、『工程師』と書いたところ、ニコッと笑って、私を見るではないか。博物館の閉鎖と技術士は何の関係も無いのであるが、彼は私を中に入れてくれたのである。調子に乗って、さっきの紙に「…士」を追加して書いたところ、握手を求めてきて、すっかりフレンドになってしまった。部下に命じて中を案内させ、帰りにはお茶までご馳走になってしまった。私は、資格について嘘を言っていません。自分の持つ資格などを正直に書いただけです。ハィ。
 私は、中国語を話せないが、改めて漢字の威力を感じた。漢字は表意文字で、簡単に言ってしまうと「絵文字」なので、字を見ただけでそこに何が書かれているか視覚的に分かる。ありがたい。
 このようなことは、遠い昔にもありました。本ブログの『旧写真旅行記』-『古くて新しいアテネの旅』(2007年4月)に載せたので、あるいはお読みになったかもしれませんが、ギリシャの『アテネオリンピック』のオリンピック・スタジアム(メイン・スタジアム)の工事が急ピッチで進められていた頃です。「頃」と言うよりも「時」が当てはまるような緊迫したスケジュールの真っただ中にあり、かつ、テロ対策で厳重警戒態勢下にありました。得体のしれない男が、のこのこと工事現場に入ってきて、「私は土木の研究者です」と勝手にカード(名刺)をお渡ししたところ、なんと建設中のメイン・スタジアムに案内してくれたのです。「グリーク・ホスピタリティ」とはいえ、あの時期、名刺一枚で、…。「私は心臓に竹ぼうきのような毛が生えている男では決してないつもりですが、自分ではむしろ繊細な男だと思っているのですが、…、違うのかな」。
 永陵博物館の工事担当の部下さんに促された。「そうだ、工事の進捗に影響を与えてはいけない」。急ぎ足で、ゆっくりと、この緑多き博物館のさわやかな清涼感を楽しんだ。
 「ありがとうございました」。丁重に皆さんにお礼を言って、お勧めの木製の観光バスで『寛窄巷子』へ向かった。

成都永陵博物館。唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建の陵墓永陵を博物館とした
横から写した永陵博物館入口
「内部の工事中につき閉館」のお知らせ
無理にお願いして中をパチリ
石像が並ぶ
石像の説明
工事中の館内。貴重な1枚である
参道に建つ石人像
王建墓
五代前蜀皇帝・王建の像

寛窄巷子
 寛窄巷子(かんさくこうし)は、旅行ガイドブックで見つけた「行ってみたい場所」であり、とても親切に面倒を見てもらった永陵博物館の工事関係者からも「是非に」と勧められたこともあって、気合が入っている。ここは、清の康煕帝の時代に兵士の駐屯地として造られた「巷子(路地)」の一部を2008年に再開発した場所で、寛巷子(かんこうし)、窄巷子(さくこうし)、井巷子(せいこうし)と名付けられた3つの路地が並行する。これらの路地によって囲まれたようなエリアには、明や清の時代の修復再現された四合院やヨーロッパ風の建物、レストラン、喫茶店などが並ぶ。夜にはモダンでおしゃれなバーが賑わうそうだが、私には“所用”があって、ここには来られない。この後、その“所用“については、書かせていただきます。
 銅像が路地などに設置されていて、面白いのは、突然、それら?が動き出すことである。
 バスが到着したので、ぶらぶら歩きを始めます。

永陵博物館で乗車した木製の観光バスが寛窄巷子に着いた
車夫の銅像 。この像は本物の像ですか?人の変装ですか
「パンダ」というポスト 。単なる郵便局の名前です
ポストと言えば手紙。デコレーションである 手紙と配達員の自転車
壁のデコレーション
観光会社の観光案内。10か所の観光地のうち、9か所を個人で観光していた。頑張りすぎですね。
寛巷子
お土産屋さん
惣菜屋さん
手作り中
チベット人の経営する店。各地で会う彼らの親日的な応対とか、日本に対する好奇心は、並外れている
一見してチベット人だと分かる。チベットのバター茶は、我が家のお好みのお茶である

芙蓉國粹・川劇
 明日は帰国である。ひと月ちょっとの旅は、長いようで、短いようで、…。最後の夜は、オペラである。しかし、ここはヨーロッパでもなけりゃ、サンクトペテルブルグやモスクワでもでもない。ましてやニューヨーク、そしてSPやLPなどの、いわゆるレコードでしか知らないエンリコ・カルーソーやマリア・カラスが歌ったブエノス・アイレス(コロン劇場)でもない。こう列記すると、「いやな性格だな」と思われるかもしれないが、無いものねだりをしているのでは決してない。逆である。ここは、中国四川省の成都市である。そう、かつての『蜀』すなわち『四川』に受け継がれている庶民伝統芸能『川劇 (せんげき)』の中心地・成都である。川劇の故郷と言われ、唐代には「蜀戯冠天下」(川劇は天下を冠する)と称えられた四川なのである。ここの『芙蓉國粹・川劇』に行かないで、「成都を旅した」はあり得ない。
 ところが、この劇場に行くのに戸惑った。今書いている話は、2015年の旅行の話であるが、『芙蓉國粹・川劇』は旅行ガイドブックに載っていない、あるいは情報が古いのか、市内中心部を1時間も振り回された。ホテルに戻って、事情を話したところ、若いスタッフが「すぐそこですよ」と笑顔で答えてくる。旅行ガイドブックを見せたところ、「違います。すぐそこです」と方向を指差す。面倒に思ったのか、「ついて来てください」と歩いて5分もかからない。汗をかきながら表情を変えて走り回った1時間はなんだったのだ。10人には劇場の場所を聞いたぞ、もう(怒)。笑顔のホテルスタッフは、立派な建物を指差して、「友達がいるのです。ちょっと待って下さい」。5分くらい待ったろうか、にこにこしながら、「チケットは1枚でいいのですよね?ホテルが劇場の近所なので2割引きのご近所割引(neighborhood reduction)になりました」。こんな英語があったかどうか定かではないが、2割引は大きい。うれしくてチップをあげるのを忘れてしまった。このホテル、成都伊勢丹百貨やイトーヨーカドーにも近い『i成都春熙路店』である。
 なお、今回の私のようなこともあります。『川劇』のご鑑賞の際には、劇場の場所をご確認のうえ、お楽しみください。

川 劇
 肝心の四川の『川劇』であるが、北京発祥の『京劇』と同時期に完成したと言われているが、北京に行くたびに楽しんでいる京劇とは雰囲気が異なるように感ずる。さほど知識がないのに、そしてここの 川劇は初めて見ただけなのだが、誤解を恐れずに言えば、その趣きが異なるのである。京劇の洗練された様式美に対して、川劇は庶民の伝統芸能といった感じである。
 例えば、瞼譜(れんぷ)は、北京・京劇や日本の歌舞伎における隈取(くまどり)を指すが、この瞼譜を瞬時に変える技巧には「あっ」と驚くであろう。私は、すっかり虜になってしまったが、瞼譜を瞬時に変える変臉(へんれん)と呼ばれるこの技巧は、川劇を川劇たらしめる芸術と言って良いであろう。役者が顔に手を当てる瞬間に瞼譜が変わるのである。書籍によると、この変臉の仕組みについては、「一子相伝」の「秘伝中の秘伝」とされていて、中国では第1級国家秘密として守られていると書かれてあった。

錦江劇場
錦江劇場入場券
フィナーレ 。『西安』から始まるひと月を超える私の旅のフィナーレでもありました。皆様、ありがとうございました