クロアチアのプリトヴィッツェ湖群国立公園からスプリット

クロアチアのプリトヴィッツェ湖群国立公園
 ザグレブからバスで2時間25分で大小16の湖と92の滝からなる世界遺産のプリトヴィッツェ湖群に着く。比較的短時間で行き来でき、また8便/日と便数も多いせいか、ザグレブからの日帰り観光の人達も多い。北寄りの入り口1と南寄りの入り口2の2つのバス停があるが、バス停入口2は公園入口2(ST2)に極めて近くすぐ観光が開始できる。バスの道順であるが、ザグレブからは入り口1、入り口2の順番に停車する。逆に、プリトヴィッツェ湖群からザグレブに戻る時は入り口2、入り口1の順番にバスが停車し、湖から見た場合ザグレブと反対方向の南側のスプリット方面に向かう場合は入り口1、入り口2の順番に停車する。
 私は、プリトヴィッツェ湖群の観光後一泊してからスプリット方面に向かう予定なので、バス停から近い(結果的には公園入口から近い)場所にホテルをとった。好み、シングルベッドの料金、公共交通機関へのアクセス、キャンセルの可否、英語可、携帯を持っていないのでWiFi設備の有無などと選択条件が多岐にわたるだろうから軽々に書けるものではないが、朝食付きで宿泊翌日の入園料が無料となるホテルを選んだ。早い時期に予約がいっぱいになるが、私も経験したことであるが、まじかに迫った数週間前に意外と空室が出るとの噂である。あきらめないで。
 とにかく、この種の観光地は理屈抜きにぶらぶらと歩き、船に乗り、ダイナミックな大自然の芸術を堪能すればよいのである。余計な解説は無視して、笑顔、笑顔。ただし、野暮を承知の助で言うが、人ごみの中では「たまにはデイバッグのファスナーに気を付けて」。

園内の案内図
ヴェリキ・プルシュタヴツィ(水がベールのように美しく流れ落ちる)

 

プリトヴィッツェ湖群国立公園からスプリットへ移動
 プリトヴィッツェ湖群の入り口2でスプリット行きのバスを待っている。出国してから1週間経つが、周りから聞こえる言語は今朝は日本語が優勢だ。スプリット行きではないが、同じ方向に行くバスを待っているようだ。「最近、日本人の間ではクロアチアが人気」だそうだ。昔のお嬢様方は実によく調べていて、昔のおぼっちゃまに色々な情報やお菓子までくれる。「ありがとう」。お返しするものが無いので、「外国でお会いするご婦人で、日本人が一番エレガントですね」。にこっ。…。あっ、余計なことを言ってしまった。昔のお嬢様方はすっかり勢いがついてしまって、お互いに他の人の言うことを聞かず、各自勝手にしゃべっている。携帯を鏡の代わりに使うおばさんもいる。困っておろおろしていると、神の助けか、バスが来た。「ボン、ボワィヤージュ」。4時間の行程に出発だ。

良い旅のスタート
 スプリットの長距離バスターミナルは、国内各地や近隣各国からの国際便が発着する大きなバスターミナルで、5分も歩けば鉄道駅やスプリット港に臨むフェリーターミナルに行くことができる、まさに至便の位置にある。ガイドブックによると、7世紀にローマ帝国が滅亡し、追われた人々が城壁に囲まれた皇帝ディオクレティアヌスの宮殿内に逃げ込んだのが入植の始まりだという。優秀な土木工学のセンスや技術を持った人がいたのだろうか。宮殿の基礎の上に建造物を増やす手法で施工したので、結果的には古代と中世の史跡が複層的に混在する街並みが構成され、さらに現在も人々が生活を営むという珍しい町だ。この『スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿』は、1979年に文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録されている。

ディオクレティアヌス宮殿
 305年に退位した古代ローマ帝国のディオクレティアヌス皇帝が、生まれ故郷のサロナに近いスプリットに終の住処として造ったのがディオクレティアヌス宮殿である。彼は貧困層の出身であったが、その優れた政治手腕で皇帝にまでなり、他方で、当時広がりつつあった一神教のキリスト教を危惧して、積極的に弾圧を行った人物だそうだ。
 7世紀に入ってスラブ人などの侵攻によりサロナが廃墟となると、行き場を失った人々はこの強固な城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿に逃げ込み、その後宮殿の石材を利用して新しく町を造り始めた。城壁で囲まれたというか、張り巡らされているスプリット旧市街は、東西南北の4箇所に主な入り口がある。それぞれが『銀の門』『金の門』『青銅の門』『鉄の門』と呼ばれている。どの門から直進しても旧市街の中心部であるペリスティルと呼ばれる広場に着き、ここを中心に北が兵舎、南が皇帝の私邸になっている。
既にご紹介した長距離バスターミナルや鉄道駅の近くにホテルをとったので、結果的に東の『銀の門』からディオクレティアヌス宮殿に入ることになった。この周辺には、青空市場や露店がひしめき合っていて、相変わらずの方向音痴の私目はロスト・マイウェイだ。でも、焦ることはない、スプリットのランドマークともいえる大聖堂がすぐ側だ。迷ったら大聖堂である。
 ぶらぶらしていて偶然見つけたのが、旧市街西側にある1702年建設のサン・ジャン・バプティスト教会(Baptistery of Sy. John)。中には入れてもらえなかったが、関係者によると、ここでセザンヌが1886年4月29日に結婚式を挙げたそうだ。そして、セザンヌの父親の葬儀もここで行われたそうだ。びっくりしました。
 そうそう、私は昔の専門を引きずって、どうしても土木や道路の視点で景色を見てしまうが、宮殿前の道は海岸を埋め立てて造られたそうで、レストランやカフェが並ぶ、いい感じの所ですよ。一人じゃ、ちょっと寂しいくらいに。

宮殿の中庭・ペリスティル
ディオクレティアヌス宮殿の中でもひときわ目立つ大聖堂。スプリットのランドマークとなっている
円形の形をした広間が前庭で、皇帝の私邸の玄関の役目をしていた
ポール・セザンヌが結婚式を挙げたサン・ジャン・バティスト教会

一人でリゾート地のフヴァールへ
 『アドリア海の島めぐり』と称して、スプリットから出港する色々な日帰りツァーが催されているが、一人旅のせいかリゾートなるものにあまり興味がない。昔々、妻と二人でギリシャのピレウスから出る島めぐりを楽しんだり、一人でロードス島やクレタ島に行ったことが懐かしい思い出としてあるが、それも、一人の時はとくに、一言で括ると『文明への興味』であった。旅を愛する人々にはいろいろな動機や理由があると思うが、 『文明への興味』 は多くの人に共通する重要な要素であろう。そして風景も…。
 あっ、そうそう、ナポリにオペラを観に行ったついでに、青の洞窟見学は、ラッキーにも一発で天候に恵まれたこともありました。娘達は1日違いで2日間も挑戦して駄目でしたが。
 ここ スプリット からも、青い洞窟ツアー、…、とあったが、私は歴史的建造物があるというフヴァール島を選択した。スプリットからフェリーでスターリ・グラードへ、スターリ・グラードからファブールまではバス、そして帰りはフェリーでスプリットへのプランである。ところが大きな間違いをしでかした。フェリーでスターリ・グラードへ着いた後は、ここでそれなりに街を見学して、それからバスでファブールに行くつもりだったのだが、バスは「フェリーの到着に合わせて」運行されていたのだ。つまり、フェリーを降りてすぐ、バスに乗り換えてスターリ・グラードに向かわなければならなかったのだ。次のバスの出発(フェリーの到着)まで数時間、私目は、することもなくぶらぶらでした。美しいアドリア海と言っても、30℃を超える炎天下である。サングラスもスプリットのホテルに置いてきた。あーあ。

「美しい」は怖い
 写真の撮影時間から類推すると、スプリットを出港したフェリーから下船してフヴァール島へのスターリ・グラードに上陸したの10時20分。バスからフヴァールの町が見えたのが13時30分。差し引き3時間10分ほどイライラしていたわけだ。でも、正直なものだ。この白っぽい石で造られた美しいフヴァールの街並み、言葉で表現できない独特の色彩を放つフヴァール港の風景に接し、いつの間にか私の表情が和らいでいる。景色であれ、ものであれ、人であれ、「美しい」は怖い。妻を思い出した。

スプリット港で乗船を待つフェリ
フェリーから下船してフヴァール島へのスターリ・グラードに上陸
フヴァールの町が見えてきた
フヴァールの 旧市街
フヴァールの 旧市街
フヴァールの 旧市街
美しいフヴァール港
美しいフヴァール港
美しいフヴァール港

美しい古都トロギールへ行
 クロアチアの古都トロギールは、元々は紀元前3世紀に古代ギリシャ人によりつくられた植民都市である。ここは歴史そのものを論ずる場ではないのでクロニクル(chronicle)というか、歴代記あるいは年代記でこの町の歴史を書くのは割愛させていただいて、ざっくりと、「古代ローマ、…、その後幾多の支配者が変わり、自治権をもったのが12世紀。さらに変遷を繰り返して、1991年に独立したクロアチアの一部となった」のである。ざっくり過ぎるかな?
 トロギールに出掛けよう。トロギールはクロアチア本土とチオヴォ島の間にある南北500メートル、東西1キロメートルほどの小さな島にある。スプリットの長距離バスターミナルから約40分で本土側にあるバスターミナルに到着する。ここから橋を渡って島に渡ると、旧市街入り口となる北門、その先にトロギール博物館、そして観光の中心地であるイヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場にたどり着く。旧市街は世界遺産に指定されているだけに、広場に面して多くの歴史的建造物が並んでおり、多くの観光客でにぎわっている。

重厚な橋を渡って旧市街へ向かう
ルネサンス時代に造られた城壁に設けられた北門。旧市街への入り口となる

観光の中心イヴァン・パヴァオ・ドゥルギ広場
 どこから始めようかと迷うことはない。誰もが聖ロヴロ大聖堂に向かうのに異論はあるまい。13世紀に着手され、その完成を見たのは15世紀とも17世紀とも言われているこの大聖堂は、まさにそれぞれの時代の時間や空間を彩った多様な建築様式が混在している。人々はそれぞれがその時代の空気をせいいっぱい吸って生きているわけだが、その努力が後の世に『ロマネスク』、『ゴシック』、『ルネッサンス』などと名付けられて新しい時代からの来訪者に感動を与える。我々、新しい時代の来訪者は、それ相応の覚悟と敬意をもって過去からの遺産に接しなければなるまい。
 さて、聖ロヴロ大聖堂である。背の高い位置にあるので余計に目立つのであるが、確かに鐘楼の窓の様式が階層ごとに異なり、この建物の特徴を表している。解説本によると、ヴェネツィア共和国の攻撃で破壊された後、14世紀から17世紀にかけて時間をかけて少しずつ修復されたためで、高さ47メートルの鐘楼は、1階がゴシック様式、2階がヴェネツィアン・ゴシック様式、3階が後期ルネッサンス様式になっている。
そして、ロマネスク様式の門である。言い訳がましいが、カメラも悪ければ腕も悪いせいでフレーミングが下手で、1枚の画像に門の両端に彫られたアダムとイヴの像を入れられないヘマをやっている。申し訳ありません。そして、結果として左右に配置されたライオンも対称の姿をお見せできませんが、かつてトロギールを支配していたヴェネツィア共和国のシンボルだったそうです。唯一、門のすぐ上に施された彫刻はイエス生誕の場面、さらに上の彫刻はイエスの生涯を表していることはご理解していただけるようです。いゃ、苦しい。ご理解を。
 広場の南側には14世紀に造られた聖セバスチャンの時計塔があり、今も正確な時を刻み続けている。そして、大聖堂と時計塔に挟まれている市庁舎の辺りが賑やかである。中庭には、ヴェネチアン・ゴシック様式の階段や窓があり、皆さんがパチパチやっていたのでした。

多くの観光客が訪れる聖ロヴロ大聖堂
アダムとイヴの像が両端に彫られたロマネスク様式の門は、13世紀のクロアチア中世美術の傑作
アダムの像
イヴの像
ライオンは、かつてトロギールを支配していたヴェネツィア共和国のシンボル
門のすぐ上に施された彫刻はイエス生誕の場面、さらに上の彫刻はイエスの生涯を表している
広場南側に面して建つ14世紀に建てられた時計塔。今も正確な時を刻み続けている
市庁舎の中庭のヴェネチアン・ゴシック様式の階段や窓が美しい

 聖ロヴロ大聖堂の建物自体はシンプルで飾り気がなく、観る角度にもよるが端正な外観であるが、是非、中に入って内部をご覧ください。華やか、かつ緻密な細部の装飾は実にエレガントで、宗教施設の表現に不適切かもしれないが、ある種ソフィスティケイテッド(sophisticated)というか、非常に洗練された内部である。私は教会について、宗教的意味を解説するほど、つまびらか(詳らか or 審らか)ではないが、色々な意味で刺激を与えられる教会である。

美しい聖ロヴロ大聖堂内部
主祭壇。右手前に見えるのはゴシック様式の聖歌隊席で、15世紀の傑作。
主祭壇手前のゴシック様式の聖歌隊席
聖イヴァン礼拝堂
シンプルなパイプオルガン