ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルからサラエボ

さらなる刺激を求めて
  真面目に考えたことはないが、私の旅行スタイルは、スタイルというほど洗練されたものではないが、すれ違うおじさん、おばさん、若い人達に仲良くしてもらって、色々教わって、そこにあるものを食べたり、歴史を感じたり、まぁ、言ってみれば、生活を感じることにある。それには、もう少し勉強して、皆さんのことを知りたい。そして仲間に入れてもらいたい。
 私は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国について余りにも疎く、せいぜいサラエボ事件くらいしか知らない。イスラム教を信仰するモスリム(ムスリム)の人々の割合が4割以上だそうです。単一国家でありながらボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人共和国(スルプスカ共和国)とに分かれている。国内の鉄道も連邦側のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦鉄道と、共和国側のセルビア人共和国鉄道とに分離されて運行されている。それで、私は今回は便利なバスを利用することにして、クロアチアのスプリットからバスで4時間30分の旅程で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルに来た。モスタルは、ボスニア語で『橋の守り人』という意味があるそうだ。町の象徴的存在である橋『スターリ・モスト』を中心に発展してきた町であるが、1992年から1995年まで続いた民族(宗教)間の紛争で、1993年11月に橋も破壊されてしまう。その後、ユネスコの協力で創建当時の姿に復元され、2005年にはこのスターリ・モストと旧市街が世界遺産に登録された。
 通貨はコンベルティビルナ・マルカ, KMであるが、私は次の訪問地であるサラエボも含めて、最後までこの通貨の発音ができなかった。でも、多くの店でクレジット・カードが使えたので現金を使うことが少なかったし、KM(マルカ)の発音で用事が足りたので、問題は生じなかった。ユーロに慣れている皆さんは、1KM=€0.5で換算して価格をつかんでいたようです。
 スターリ・モストの説明が先になったが、モスタルをゆっくりと歩いてみよう。モスタルのバスターミナルは北側に位置しており、そこからマーシャル・チトー通りを700メートルほど南下すると右側に1557年に建てられた白いカラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤが見えてくる。イスラム教の学校であるメドレッサも併設されている。
 さらに南に進むと、ネレトヴァ川に沿って17世紀に建てられたオスマン帝国時代の伝統家屋であるトルコの家が見えてくる。川に突き出るように建てられている2階の応接間が気になる。
 そして、1618年に建てられたイスラム寺院であるコスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤがある。観光客でも気軽に入場可能なモスクで、ここの中庭や尖塔からの眺めは良く、中庭からスターリ・モストを写そうとする観光客で混みあっている。例によって、ポーズをとり時間がかかる国の人達は西洋人にやじられていた。最近の西洋人は動きや表情ではなく、口に出すようになったようだ。
 そのスターリ・モストである。市内を分けてネレトヴァ川に架かるスターリ・モストは、オスマン帝国時代の1566年に創建されたモスタルを象徴する橋である。土木を研究してきた私はついつい説明が専門的になってしまうが、橋の両端で橋を支えている基礎のような構造物を橋台と言い、橋の中ほどで橋を支えている脚のようなものを橋脚と言う。橋そのものや交通によって生じる荷重はこの橋台や橋脚によって支えられるが、この橋は橋台を用いないで両岸からアーチ状に橋を架けており、その技術レベルはかなり高いといわれている。橋の両端に塔が建ち、東側の塔は『スターリ・モスト博物館』になっていて橋の構造や橋の遺跡などについて解説されていた。
 この橋を使って行われるパフォーマンスに『名物』と言われるものがある。地元のダイビング・クラブのメンバーによる橋の上から水面までの24メートルの飛び込みである。どんな人かと近くで見たいのか、橋の中央まで行く人がいるが、お金を払う状況になるらしい。「早く飛び込め」と、声がかかるが、強制してはいけない。私は、この橋を中心とした旧市街が好きで数時間ではあるが、2日間ぶらぶらしていたが、飛び込んだのを見たことがない。もちろん、期待もしていない。この種のことは、単なるショーだと思えばいいのだ。そう言っちゃ、おしまいだが。

言っちゃおう
 言いたくてしようがないのであるが、悪友から「止めろ」という声が聞こえてくるが、それに逆らって、「ちょっとだけ時間を下さい」。
 16世紀のオスマントルコを現在のトルコに単純に置き換えるには無理があるが、トルコは土木技術のレベルが高い国家として知られている。日本で本州四国連絡橋の瀬戸大橋が話題になった1988年、トルコのイスタンブールのボスポラス海峡に架かるファーティフ・スルタン・メフメト橋が竣工された。通称、第二ボスポラス橋と呼ばれ、その開通によって、ヨーロッパとアジアが結ばれ、アジアハイウェイ1号線(A1)および欧州自動車道80号線(E80)が通ったのである。この橋の建設については、誤解を恐れずに言えば、日本が関係している。我が国の政府開発援助(Official Development Assistance, ODA)、そして多くの土木技術、舗装技術が寄与しているのである。
 「普通の文章だと思うが、どうして遠慮するのか」、「アジアハイウェイ、おもしろそう」と言われると、なおさら、ためらってしまうのだが、実は、実は、竣工日の約二か月前の1988年5月4日,第2ボスポラス橋の舗装(マスチック工法)が打ち上がった直後,まさに直後に,家内と二人で美しい橋の上に立たせていただいたのです。これ,本当の話で、工事関係者以外では私達が世界で最初に舗装後の橋の上を歩いたのです。他誌に書いたのですが、舗装表面の温度がまだ下がっておらず,そのせいでイスタンブールで新しく靴を買う羽目になりましたが。

ヘルツェゴヴィナを代表する建築物、カラジョズ・ベゴヴァ・ジャミーヤ
市内を分けてネレトヴァ川に架かるスターリ・モスト
地元のダイビングクラブのメンバーによる水面までの24メートルの飛び込み
オスマン帝国時代の伝統家屋であるトルコの家
スターリ・モスト博物館

ほのぼのとした一日でした
 今日は、モスタル近郊に出掛ける予定だ。ガイドブックによると、モスタルを起点にしてバスを利用するとブラガイに約30分、メジュゴーリエとポチテリにそれぞれ約1時間20分となっているが、これらの都市(町)間の運行時間については情報がない。「まあ、何とかなるさ」精神で、精神でと言うと何か強く響くので、「最悪一つでもいいや」の思い込みで、ブラガイに来た。早く目が覚めたので、モスタル発06:00のバスで出発、40分で到着した。村なのでバスターミナルといったものはなく、写真に見るバス停留所一つと分かりやすい。そもそも訪ねるところがあまり無いので、ここさえ押さえておけば私のような方向音痴でも、最悪、モスタルのホテルに戻れる。お笑いなさるな、本人にとっては大問題なのである。
 すぐ近くに、今は廃墟となっている丘の上に建つ城塞スターリ・グラッドへの方向指示の看板が見える。行ってみると、他に何もないが、このような小さな村にも無人であるがツァリスト・インフォメイションなるものがあって、観光案内地図が貼りだされていた。左下に小さな日本の国旗が印刷されていて、後で聞いたのだが、この案内板は日本のJICA(Japan International Cooperation Agency、独立行政法人国際協力機構)の支援のようだ。
 ここまで来たからには城塞スターリ・グラッドを目指して丘を登るしかない。とにかく向かおう。ゆっくり歩を進めると、いつのまにか友好のサインである尾を振りながら犬が近づいてくる。犬大好き人間であることが分かるのだろうか、私に何か話そうとしているが、「わん、わん」と話しかけてみても「わん」はなかったので「ウヮン」と試みたが、やはり返事がない。色々な発音で話しかけたが、言語が違うのか、無口なのか返事がなかった。でも、最初は私についてき、次に横に並び、そのうち前に出て何か私を誘っているみたいだ。この賢い犬、『ブラガイ』と名付けたが、私が方向音痴であることを察知してガイドを買って出たのだ。写真でお見せすると怖いので省略しますが、長さ2メートルは超える細い蛇の死体に出会っても、平然として動じない。ガイドどころかガードの役目も果たす。
 途中、畑仕事の準備をしているピンクの上着がかわいいおばあちゃんに会った。お孫さんにここまで畑用の水と飲料水を車で送ってもらって、また、迎えに来るそうだ。飲料水をすすめられたが、丁重にお礼を言って遠慮した。その間も、我が忠犬『ブラガイ』はじっと待っている。「お待たせ」と言いながらスターリ・グラッドに向かう。5分くらい歩いたところでブラガイが止まって動かない。じっと茶色の看板を見ている。そこには、ボスニア・ヘルツェゴビナ語、英語、ドイツ語、イタリア語およびトルコ語で「壁に近づくな」というようなことが書かれていた。「ありがとう、ブラガイ」。
 いよいよ、スターリ・グラッドへの急勾配の始まり、登り口である。整備された歩道ではなく、一部、危険と思われる場所には道にポールを立ててロープが付いているが、どちらかというといわゆる獣道(けものみち)のような道である。来る途中に見た長い蛇を連想する。そして一番の問題は『忠犬ブラガイ』がじっとしていて登って来ないのである。いくら急かしても応じず、「お前ひとりで行け」と言っているようだ。他に誰もおらず、私一人だ。しようがない、年相応にあちこち痛いが普段からジムでトレーニングをしている体だ。頑張った。思いもかけず20分で登り切った。
古代から中世末まで改築を繰り返しながらも町の守備を担ってきた城塞だけあって、廃墟となっていてもその頑強さは想像できる。しっかりとカメラに収めて、そうそう、ここからの町の景色は、…言うまでもありません。

言うまでもありません
 急いで丘を下った。でも、5か国語で書いた注意書きの看板の所には『ブラガイ』はいませんでした。私がスターリ・グラッドの写真撮りに時間をかけ、待たせたせいではありません。忠犬は、ここまで私を送って、安心して帰ったのだと思います。涙。
 丘を下ってバス停留所まで戻る途中に、来る途中でお会いしたピンクのかわいいおばあちゃんが、のどを乾かして苦労をしている私に水をくれた。泣きっぱなしだよ。

のどを潤す
 バス停留所に向かった。バスはいつか来るだろうと思って待っていたところ、停留所の向かいにある小さな店で、お茶を飲んでいた4人組のお年寄りのうちの一人が近寄ってきた。英語の上手な紳士で、「ジャパニーズ?どこへ行きますか?」と「Could」を入れた英語で問いかけてきた。問答の中身を簡単にまとめるとこうだ。「あっ、ありがとうございます。この後、カトリック教徒にとっては奇跡の地であるメジュゴーリエに行きます」。「…?」。「ワィンの産地だとガイドブックにも書いてあったし」と言ってから、「しまった、この人たちはモスレムだった。カトリック教徒やワィンの話は禁句だった」。機転を利かせて、というか本当に観たかったので今日のスケジュールに入れておいた「時間があったらポチテリに行きたいです。オスマン帝国時代の建築物が斜面に沿って建ち並んでいるとか。私は土木技術者なので」。「うーん、ポチテリはいいが、あそこに行くにはチャプリナ行きのバスに乗り、途中下車しなければ駄目だ。まず、ここからチャプリナに行くのが難しい。モスタルからでも一日数本しかバスがない」
 状況として、モスタルに戻るしかないみたいだ。無いものはない。とりあえず、バスの時間までここで時間をつぶすしかない。「まあ、座りなさい。私も土木技術者だ」。お茶をごちそうになることになった。さらに、話が弾んで食事をすることになった。「丘に登ったのだから腹がすいているだろう。チェバプチナはどうだ。ボスニアの名物料理、挽肉ソーセージサンドだ」。
 そして、必然的にイスラム教のハラルの話になった。大まかな知識はあったが、宗教上のことなので詳細は分からない。この名士によると、『ハラル』とは、『(イスラムの教えで)許されている』を意味するアラビア語だそうで、食べてよいとされている食べ物を『ハラルフード』と呼ぶそうだ。「君達異教徒はハラル(許されているもの)ではなく、ハラム(禁じられているもの)』を覚えていた方が、便利じゃないか?豚肉とかアルコール」。「豚だって豚肉だけではなく、豚から抽出されたエキスを含む調味料や出汁の入ったスープも駄目だ」。話が長くなりそうなので、「私はモスレムではないので、何でも食べられます」。ストレート過ぎたかな?

便利じゃない
 話は楽しいが、バスはなかなか来ない。紳士殿は「どうしたんだろう、事故でも起きたのかな。この時間のバスが来ないとなると、次は…」。悠長である。「まだ時間がある。すぐそこにスターラ・デルヴィシュカ・テキヤがある。オスマン帝国時代に建造されたイスラム神秘主義教団の修道場だ。何よりも水が飲めることで有名だ」と教えてくれた。地元民の情報は貴重だ。バスの時間を気にしながらも行ってみると、本当に透明度の高いきれいな水で、思わず口にした。途中に、閑散としていたが、ハラルフードのレストランもありました。
 そういうことで、訪問したいところが色々あったのですが、結局、本日は『ブラガイの旅』でした。ワンちゃん、皆さん、ありがとう。本当にありがとう、again。私の大好きな形の一人旅の一日でした。

蛇足・水の味
 思わず口にした水はおいしかったか?おいしかったです。あの景色をバックに、あの透明度を誇る水です。おいしくないと思えないですよね。
 我が国のパソコンの出始めの頃、トップを誇ったN社とあるテーマで共同研究を行ったことがある。詳細は言えないが、コンピュータ関連ではなく、資源環境技術に関する研究である。突然、話が飛ぶが、遊びで、研究ではなく遊びで、ブランデーなどの成分分析を行った。私も含めて、好きな連中が揃っていたのだ。「旨いと感ずる理由、要素とは?」というほど真剣ではないことをお断りしておきたい。その結果、超純水よりも色々な成分、超純水から見れば不純物の多いものほど、高級品であった。高級品がよりうまいかどうかは個人差があるので皆様の想像にお任せしたい。「閑話休題」、「研究余滴」でした。

ラガイのバスストップ
Castle of herceg Stjepanへの方向表示
ⓘの観光案内地図。左下に日本の国旗

途中までついてきて案内してくれたワンコ
スターリ・グラッドに登る途中でお会いしたピンクの上着がかわいいおばあちゃんとお孫さん
畑用の水
城塞スターリ・グラッドの登り口にあった注意事項の看板
一部は道にガードロープが付いている
城塞スターリ・グラッドの入り口付近
まさに廃墟である
外壁
城塞スターリ・グラッドの内側
比較的形を保っている城塞スターリ・グラッドの一部
スターリ・グラッドから見下ろす町
スターリ・グラッドから見下ろす町
厳しい環境で咲く白い花
ここの水の透明度は抜群で、飲めるそうです
ハラルフードのレストラン

同じくボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォ
 最近は面倒になってあまり書いていないが、旅のちょっとしたメモをするB5版の手帳を持ち歩いている。モスタルの長距離バスターミナル07:00発→サラエヴォのバスターミナル09:45着。そのバスターミナル横にサラエヴォ中央駅があり、さらに目立つのは目の前に建物をねじった形のビル、その名も『アヴァズ・ツイスト・タワー(Avaz Twist Tower)』がそびえる。高い所を見上げている時は、ポケットに気を付けて。「142メーターね」と怪しげな目つきで男が話しかけてくる。欧州でアメリカ人以外の「メーター」の発音は珍しい。「meter? metre?…」とからかってやって、「グッバイ」。かかわらないのが一番。駅前にある、かねて調べておいたトラム1番に乗る。「ラテン橋(Latinskacuprija)」と運転手に告げて料金を支払って切符を受け取ると、横にいたご婦人がトラムの改札機に入れてガチャン。ラテン橋で「ヒァ」。乗車してから降車まで20分は経っていない。「ありがとうございました」。順調に来た、荷物も大丈夫だ。そしてどういうわけか?ここから徒歩5分の、予約しておいたホテルにも、そんなに迷わずにチェック・イン。珍しい。

サラエヴォのアヴァズ・ツイスト・タワー。アンテナを含まないで高さ142メートル

ラテン橋
 1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇嗣がセルビア人青年に暗殺され、これが契機となってオーストリア=ハンガリー帝国が宣戦布告、ドイツ、オスマン帝国、ブルガリアの同盟国陣営と、セルビア、ロシア、フランス、イギリスを中心とする連合国陣営による第1次世界大戦の始まりである。暗殺現場がミリャッカ川に架かるラテン橋の近くであるせいか、ラテン橋の写真を撮る人が多い。
 ホテルはラテン橋から南に向かうのだが、途中に止まっているバスをよく見かけた。そこは東サラエヴォ・バスターミナルに向かう103番のトロリーバスのバス停だった。道理でトロリーバス用の架線が空間に張られている。私は、ホテルから数分と近いのにもかかわらず、同じくトラムのラテン橋駅も近かったのでそちらを利用したが、103番のトロリーバスは朝の出勤時間や夕方など、結構混んでいた。日本大使館もすぐ近くなので、それに次に説明する北側の旧市街の中心『バシチャルシア』もこれまたすぐ近くなので、この辺りのホテルはお勧めだ。

1914年6月28日に起こった『サラエヴォ事件』の現場に近いラテン橋
サラエヴォ博物館。 周囲を工事中 だった

バシチャルシア
 ラテン橋を渡ってすぐ北側に広がるバシチャルシアは、徒歩で回れる広さの観光エリアである。橋の北側のサラエヴォ事件現場を越えた所にサラエヴォ博物館があるのだが、その周りが工事中のため閉館中であった。そこから100メートルも進むと、かつて絹取引所として重要な建物だったブルサ・ベジスタンが見える。オスマン帝国の大宰相リュステム・パシャによって16世紀に建てられたそうだ。現在は歴史博物館として使われているそうだが、確認はしていない。
 ブルサ・ベジスタンから東に歩くと、1531年に建てられたイスラム寺院、ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤがある。当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナの総督であったガジ・フスレヴ・ベイが建てたものである。敷地内にはこのモスクの他にメドレサ、ハマム、商取引所などが建てられており、一種のコンプレックスをなしている。
 モスクの西隣に建つ時計塔は、17世紀にイスラム教の習慣である1 日5回の礼拝の時刻を知らせるために建てられたそうだが、この高い建物は私にとっては時を知らせるのではなく、バシチャルシァで迷った時の道案内でした。偶然、知り合いになった英国マージーサイド州リヴァプール出身の私よりちょっと若いご老人が言うには、後に19世紀に新しい時計がロンドンから来たそうだが、真偽のほどはお確かめ下さい。

絹取引所として重要な建物だったブルサ・ベジスタン
1531年に建てられたイスラム寺院・ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャミーヤ
クロック・タワー

マージーサイド州リヴァプール
 どこかの雑誌に書いた記憶があるが、仲間内でやると(飲むと)「私はプレスリーには遅く、ビートルズには早く生まれすぎた」が口癖だ。「それでお前は、クラシック、バッハ、オペラ、グレン・グールド、ポリーニ、…、か?」。「ビートルズの音楽は、まさにウェールズのパブで聞く庶民のウェールズ弁だ」。「でも、あのグループの多様性はどこから来るのだろう?」。「繰り返しになるが、私達はスーパースターの合間に生まれたのだ」。
 先に、ロンドンの時計でご登場願った私よりちょっと若いご老人、まさにザ・ビートルズのど真ん中の世代、それもマージーサイド州リヴァプール出身者だった。リヴァプール出身者に単に「リヴァプール」と言わずに「マージーサイド州リヴァプール」と言うと、飛び上がって喜ぶのだ。その理由は色々と憶測はできるが、私の浅薄な知識ではよく分からない。そして、「バッハとビートルズの類似性」、「ビートルズに見るバロック音楽の 対位法的表現」などと衒学的なことを言うと目を輝かす奴は、「友達だ。ハィ、マイト」。
 止めよう、眠られなくなる。

多様性
 時計塔の北側にあるユダヤ人博物館は、ユダヤ人の集会所(会堂)であるシナゴーグを利用した博物館である。ご存知のように、オスマン帝国は、政治に関しても文化に関しても多様な対応をする国で、その手法は統治に関しても見受けられる。典型的な例が『ミレット』制である。帝国内に設けられていた非イスラム系、非トルコ系住民を保護し、そして支配する、ある意味で宗教自治体を指す言葉と言ってもよいであろう。ギリシア正教やアルメニア教会派の人々は、納税を義務にその習慣と自治を認められたのである。このユダヤ人博物館も15世紀にイベリア半島を追われたユダヤ人を受け入れた象徴的な施設である。彼らの生活や薬師の店に関する展示が訪問者を集めていた。

ユダヤ人博物館

違う宗教も
 サラエヴォ大聖堂とも通称されるイエスの聖心大聖堂は、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会の大聖堂であり、カトリック教会のヴルフボスナ大司教座の大聖堂である。建築家のヨシップ・ヴァンツァシュがパリのノートルダム大聖堂をモデルにデザインしたそうだ。解説書によると、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に全壊は免れたものの損害を受け、終戦後に修復されている。入り口にある窓のデザインは、サラエヴォ県の県旗と県章のデザインに、ロマネスク調の2本の塔はサラエヴォの市旗と市章のデザインにそれぞれ使われているそうです。

ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会のイエスの聖心大聖堂
イエスの聖心大聖堂 の前に建つ、かつてサラエヴォを訪れ、平和を訴えたローマ教皇の故ヨハネ・パウロ二世の像

戦争の愚かしさ
 日を改めてバシチャルシアを散歩する。ラテン橋からミリャツカ川に沿って東に200メートルほど進むと、旧市庁舎に突き当たる。美しい建物である。案内書によると、帝国時代に市庁舎として建てられ、その後国立図書館となったが、1992年の砲撃で外壁を残して全焼、2014年に修復されたそうだ。それにしても、灰になった貴重な大学や国家の蔵書200万冊は戻らない。永久に戻らないのだ、永久に。なんと言っていいのか。書かないことが抗議だ。
 無性にやるせない気持ちになって、目的もなく西に向かって懸命に歩いた。テラリ通りとかいう通りだった。喉がカラカラだ。どのくらい歩いたのだろう、人々の動きがある左側に曲がってみた。それから5分も歩いたのだろうか、人出の多いバシチャルシァ広場にある「セビリ」と呼ばれる水飲み場だった。サラエヴォに来たら観光客が必ず訪れる場所に、図らずも来たのだ。鳩に交じって?多くの人が水を飲んでいる。旧市庁舎を観て、カラカラになった喉を潤すのにちょうどよい。オスマン式建築物である木製の水飲み場は現役で、カメラもパチパチ忙しそうだ。喉を潤した満足感か、写真を撮るのを忘れた。もっともフォトジェニックな場所なのに、申し訳ありません。
 近くのセルビア正教の旧正教会も写真を撮るのを忘れてしまった。重ねて申し訳ありません。穴があったら入りたいです。

旧市庁舎。かつては国立図書館だった
違う角度から見た旧市庁舎
この英文を訳すのが怖い、悔しい。200万冊が焼失したのですよ

トンネル博物館
 1993年の戦争時に造られたトンネルの一部を公開しているトンネル博物館に行く。「ツァー料金はとても高い、誰でも簡単に行ける」とのホテルの若い従業員の一言で、つまり、「誰でも」の言葉に動かされた。方向音痴の私が「誰でも」に入るかどうかは分からないが、メモを貰ったので大丈夫だろう。例によって、近くのラテン橋から3番のトラム(トランバイ)で終点まで行く。すぐ近くのバスターミナルでメモに書いてあった32番のバスを探す。ここで、今日のお助けマン登場、「私もトンネル博物館に行く」。15分待ちぐらいでバスが来た。乗車15分間くらいでバスターミナルというか小さな折り返し点で降車。『Tunel spasa 800m』の看板を見つけるが、お助けマンは小さな橋を渡ってどんどん歩いていく。脇見もしない。この人、「私もトンネル博物館に行く」と言っていたが、「初めて来たとは思えない、大丈夫だろうか」、と思った時、急停止。「ここからまっすぐ行けば50メートルでトンネル博物館だ」、にこっ。「えっ?、えっ?」、地元の人だったのだ。道理で。バスを降りてから1km on foot。「ありがとう」。
 トンネル博物館の建物には未だに弾痕が残っている。この銃弾の跡を観るだけで怖くなってしまう。全長800 メートル のうち戦後ふさがれて25 メートル だけ公開されている。旧ユーゴスラヴィア連邦軍に包囲されて孤立していたサラエヴォは、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と物資の輸送が可能になったそうである。軍服、物資、武器等が展示されていた。ビデオも上映されていた。博物館と言っても、やはり生々しい。

トンネル博物館へ
トンネル博物館。建物には未だに弾痕が残る
展示物

ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館
 トンネル博物館を見学した後トラム2番で街に戻る途中、ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館および隣接する歴史博物館前で降りた。近くにサラエヴォ大学があり、この辺りは文化の薫りするエリアである。旧市街の中心であるバシチャルシアに向かって左側に行くと鉄道駅とバスターミナルである。
 オーストリア領だった1888年に建てられたという厳かな外見の博物館に入る。ここの中庭を囲むように建っているのが4棟の建物からなるボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館である。それぞれ、考古学、民族史、自然史、図書館の部門に分かれている。随所に英語の説明があり、『インターナショナル』を意識した先進の博物館である。一日で観て回るのは無理なほど展示物の充実した博物館で、興味のあるものを選んで見学して、中庭に出た。お昼のせいか、結構多くの人が植物園で楽しそうに話している。その中庭の木陰にテーブルがセットされ、たくさんのごちそうや飲み物が並べられて、思い思いにとって食べながら歓談しているのだ。何か見慣れた風景なので気になっていた美女に聞いたところ、農業関係の国際会議のランチタイムだったのだ。専門は違うが楽しい話題だったので聞いていると、「あっ、ごめんなさい」と言って、私によそおってくれる。「ワィン、オァ、…」。美女のホスピタリティを断ったことのない私である。
 後で知ったのだが、というか、やはりというか、ランチは会議費に含まれていたそうだ。「ごめんなさい、そしてごちそう様」。

植物園の入り口
1888年に建てられたボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館

たまたま農業関係の国際会議のランチタイムだった
考古学部門の展示物
考古学部門の展示物