紹 興
昨日、「上海の浦東国際空港に入り、そこから長距離バスで杭州(ハンヂョウ)に移動した。かなりタイトなスケジュールをこなして熟睡、今日は日帰りで紹興(シャオシン)へ向かう。杭州の東駅から和階号(高速鉄道)で居眠りをする暇もなく紹興北駅に到着する。駅でうろうろした後、帽子をかぶった駅員さんに日本語で「魯迅」と聞くと、『魯迅故里』と紙に書いてくれて、バス乗り場の方向を指差してくれる。
『魯迅故里』とは魯迅ゆかりの見所をまとめた場所で、紹興でも人気の場所だけあって多くの路線バスが行き来している。バスを待っている間にガイドブック「地球…」を見ていると、30歳くらいの知的な感じの女性から「魯迅?」と聞かれる。英語も達者で、「『魯迅故里』の1つ手前で降車すると便利であること、降りるバス停が来たら私が合図してあげます」と、親切に言ってくれる。「お願いします。ありがとうございます」。「紹興は古い町並みがたくさんあるので、ウォーキングが楽しい所ですよ」。「それって、私の旅のスタイルです」。もっとお話を聞きたかったのだが、無情にも「ヒァ」。「本当にありがとうございました」。
実は、私は『魯迅』のというか、『阿Q正伝(あきゅうせいでん)』の大ファンなのです。最初に読んだのは、中学生の頃でした。「● ● ● 」の表現に不思議な感覚を覚え、言葉で表現できない、本当に不思議な感覚を覚えて、何度も読んでいるうちに、暗記してしまったのです。 「 ● ● ● 」 の表現とは、手元にある『阿Q正伝』(偕成社文庫4067『阿Q正伝・故郷』魯迅=作 小田嶽夫=訳)で言えば、 p.103の最終行の部分です。阿Qが死刑にされたことへの世論を描いた部分ですが、「…。銃殺されたのは彼がわるい証拠で、わるくなければどうして銃殺なんかされるか、と…」の表現です。今読み返してみて、「どうしてこの表現が気になったのか」分からない。人生長く生きると、他の人にとっては愚にもつかないことにこだわり、覚えているものである。分かったような、分からなかったような…。
さて、『魯迅故里』の観光の始まりである。前述したように、『魯迅故里』とは魯迅ゆかりの見所をまとめた場所で、魯迅祖居(周家老台門は祖父の館)、三味書屋(魯迅が子供時代に学んだ教室)、魯迅故居(周家新台門館。魯迅の実家を利用したもの)などで構成されている。それぞれ一日の入場者数が450人、450人、2000人と制限され、入口に現在の入場者数が表示されている。また、『魯迅故里(魯迅記念館)』では年齢に関係なく、パスポートを提示するだけで無料で入場できる。
古い町並みをブラブラ
魯迅故里の場所を教えてくれた妙齢の女性のことを忘れていない。そう、知的な顔立ちはもちろん忘れていないが、「紹興は古い町並みがたくさんあるので、ウォーキングが楽しい所ですよ」である。今、12時ちょっと過ぎなので、軽く食してからにしよう。実は、彼女から「『紹興酒』はご存知でしょうが、『三奇臭豆腐』がお勧めですよ」。と教わっている。漬け汁にさいの目状に切った押し豆腐を一晩漬けた後、油で揚げて辛いたれを付けて食べるあれである。似て非なるものかもしれないが、台湾でよく出てくる煮込の「臭臭鍋」のようなものらしい。
色々なニックネームを貰っている紹興であるが、「魯迅故里」もさることながら、「紹興古鎮」の名前を是非、加えたい。中国には多くの「…古鎮」があり、一部は「古鎮まがい」と言うか、テーマパークみたいものも見受けられるが、ここ紹興は、水の豊かさや垣間見る人々の生活や表情も含めて、「古鎮」だと思うのだが…。
杭州郊外の龍門古鎮へ
昨日は、「紹興」への日帰り観光を楽しんだ後、杭州のホテルに戻り、今日は杭州の隣の町、富陽市にある『龍門古鎮』を訪ねる。ここは、三国時代の呉の初代皇帝である孫権の故郷で、現在で第65世代という悠久な歴史と風俗・習慣を持つ。敷地面積は2平方キロメートル、人口が7000人以上、驚くのは住民の90%が孫氏であることである。
杭州の延安路、龍翔橋のバスターミナルから514bバス→富陽市へ70キロメートルを約1時間→タクシーの相乗りで『龍門古鎮』へ4人で70元。帰りはバスを利用した。
大きな龍門の碑坊が見えてきて、門の後ろには郷里の英雄である孫権の『孫権故里』の文字が見える。タクシーの相乗りで一緒だったフランス人夫婦は、カメラを2台、交換レンズを4本も持ったフォト・マニアックな感じだったので、別々に行動することにした。
古い町並みと懐かしさを感じる生活習慣や人々の表情は、優しさにあふれ、…、説明はできるだけ少なく、写真を並べるだけでご容赦願いたい。
杭州の西湖
杭州の『西湖』は、干潟であったので水深は平均1.8メートル、最も深いところでも2.8メートルと非常に浅く、水域面積は6.5平方キロメートルの湖である。『西湖』という名称が用いられるようになったのは唐代に入ってからだが、他に銭源、銭唐湖などとも呼ばれており、西湖の名称が固定したのは宋代に入ってからである。
西湖にまつわる伝承は多く、西湖十景と呼ばれる観光資源が豊富である。いくつか例をあげると、中国四大美人の一人、『西施入水』にまつわるもので、この故事により西湖の名称が定着したというものや、京劇白蛇伝の白素貞が入水したといわれる白堤、蘇軾の造営によるという蘇堤などが挙げられる。
私が個人的に好きなのは、 西湖北岸の宝石山に立つ 保俶塔 である。 西湖から観る寂しげで、そして凛とした姿は優雅で美しい。
この塔は、北宋太平興国元年(紀元976年)に 、呉越王が都へ出発する際、無事を祈る伯父が建立した塔である。 最初はレンガ木造の楼閣式の建物であったが、民国22年(紀元1933年)に再建され、1933年に現在の塔に修復された。
6面7層からなる、細身で優美な姿は、西湖湖畔に立つ美人にもたとえられ、 雷峰塔 との 南北対比で、 「保俶は美人如く、雷峰は老いた和尚のよう」と言われている。
2011年世界文化遺産に登録された。