中国・河西回廊~張掖~

張掖の歴史をレビューしてみよう
 旅については、往復のフライトと日程などを大まかに決めておいて、後は行き当たりばったりというか、音楽用語で使われる『アドリブ(ラテン語の「ad libitum」の略)』とでもいうか、『勝手気ままに』が基本であるが、『マルコ・ポーロ』に子供の頃から興味があったので、今回は、彼が一年間も滞在したという『張掖』を訪れるにつき、短時間ではあるがその歴史を勉強した。せっかくなので、最初にここにまとめてみたい。
 漢の武帝が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地、すなわち、武威、張掖、酒泉、敦煌を建設した。オアシス都市として栄える張掖は、邪連山脈( 祁連山脈、きれんさんみゃく) の雪解け水を源流とする黒河の流域に位置するため肥沃な土地に恵まれ、農業が栄えた。また、その位置(ゴビ砂漠の東端)からして、西域との貿易の中継地として市がたち、多くの商人達で賑わっていた。文献によると、「金の張掖、銀の武威」と言われるほど繁栄を享受した歴史を持つ。匈奴の渾邪王(こんやおう)を降伏させ、この地を奪取したのは、霍去病(かくきょへい)である。屯田兵や、治水を行う水利兵を派遣し、組織だった地域というか、国家の出先を作り上げた。
 その後、隋、唐、チベット系、トルコ系の民族の支配を受けたことから、当然のことながら民族やそれに伴う文化が交差する歴史を持つことになる。そして、しかし(and/or)、現在でも多民族都市として繁栄し、河西回廊に位置する都市の中でも豊かなオアシス都市としてその地位を保ち続けている。
 最後に、この都市の歴史を語るうえで、はずされないのは、『東方見聞録』のマルコ・ポーロである。イタリアのヴェニスを発ってから3年半の中央アジアの旅を経て酒泉に、そして張掖に1年間滞在している。13世紀半ば、中国の元の一朝支配、言うなれば、比較的安定していた時代である。それ故に、張掖を出てからモンゴルでフビライ・ハンに仕え、結果的に中国に17年間も滞在したのであろう。この辺りのことは、興味津々であるが、語るには私の能力と勉強の深さが足りない。申し訳ありません。

早速、出かける
 武威を出発してから3時間半で張掖バスターミナルに到着した。通常は、ホテルにチェックインした後に、目的の場所にバスで移動するのであるが、今回は違う。武威から乗ってきたバスの運転手がとても親切な男で、『今日のお助けマン第1号』である。アジアを旅行された経験のある方はご存知だと思いますが、事の良し悪しは別として、多くの都市で、乗客が運転手に話しかけることに寛容である。私もそれに倣って、運転手に尋ねた。観光客はもちろん、地元民にもあまり知られていないらしい『黒水国城堡遺址(Hei Shui Guo Han Tombs』について尋ねた。「行きたいのか?」。「行きたい」。「よしっ、任せなさい」と胸を叩いた。何を聞いても「任せなさい」である。任せるしかしようの無い私は、「プリーズ」である。「駄目で元々さ」と居直っていた。
 顛末はこうである。張掖バスターミナルに到着して、乗客が皆降りたのを確認して、私の荷物を持ってくれて、「ついてこい」。バスターミナルの建物のコーナーにある荷物預かり、と言っても雑貨売り場のおばさんがいるだけであるが、彼女に私の荷物を預けて、「6元を支払え」。そして、「ついてこい」である。バスが多数集合しているブースに行って、他の運転手達と何か話しているが、中国語なので私にはさっぱり分からない。「OK、10分後」みたいなことを言って、「このバスに乗れ」と、案内してくれた。そのバスの運転手に「マイ・フレンド、ユー・フレンド」とか言って、「黒水国城堡遺址、OK」のOK指マーク。お助けマン第1号に、なにか、お礼をしようと思ったのだが、毅然とした態度で「ノー」。感動で体が震えたね。
 この話は、まだ続く。何もない牧草地のような風景が続く道をバスはひた走る。少し心配になってきたが、20分くらい時間が経ってから、(お助けマン第1号から私を託された?)ユー・フレンド(今はマイ・フレンド)が停留所の無い場所でバスを止めた。こんな所で公共のバスを止めるなんて、バスにトラブルでも起きたのかと思っていたら、私に「降りなさい」といって、行き先を指で指示してくれた。停留所はないが、『黒水国城堡遺址』の入口を示す看板が道路脇にあった。乗車時に運転手に降りる場所を言っておくと、途中で降ろしてくれるやり方らしい。お助けマン第1号の指令らしい。助かった。そうは言っても、遺跡まで20分近く歩いた。

黒水国遺址の標示。バス停留所の役目をしていた

お助けマン第2号
 歩き疲れて途方に暮れていると、それらしき風化した城壁みたいなものがやっと見えてくる。ガイドブックには、張掖市街の西北13キロメートル、黒水河のほとりに残っている漢代の城壁跡で、黄土を盛り固めた簡素な造りであると説明されているが、初めて訪ねる人は、方向音痴でなくても迷うと思う。案内の掲示が無く、故城跡も砂に埋もれていて判りづらい。平屋建てが3棟ほどあって、小型トラックも止まっていた。黒水国古城の管理人の住居兼官舎なのだろうか?不法侵入を覚悟で建物の裏に行ってみると、若い女性二人と男性三人がテーブルというか、台の上に板を横にした即席食卓に食べ物を並べて食べていた。見知らぬ人達の食卓に勝手に入り込んで、「こんにちは、ジャパニーズ」から始まって、私の勝手な自己紹介。随分無礼な奴だと思うのが当たり前なのに、この若者達は笑顔で「ニーハオ」。直観的に「大学生だ」。この『黒水国城堡遺址』の研究がテーマで、指導教授も奥まった部屋にいるという。となれば、きちんと挨拶をするのが礼儀であろう。彼の部屋にある棚にはウィスキーが数本並べてあった。趣味が合うらしい。10分ほど歓談して、邪魔をしただけだが、部門が違っても研究者のお話を聞くことは、とても有意義で楽しい。お礼を述べたところに、大学院に所属する学生がフィールドから戻ってきた。可哀そうに、「この方は、誰々です。案内を頼む」と命じられ、私のガイド役を務めることになってしまった。
 考古学の知識は無きに等しく、ましてやここの遺址については文献すら読んだこともない。でも、彼はここのフィールドで研究をしたくて、地元の大学に入り、大学院に残ったという。彼と歩き廻ったのだが、『黒水国城堡遺址』は、彼は『黒水国漢墓』と言っていたが、その名のように漢代に造られたと推定される古墓群で、城、城壁、城門の跡が約2キロメートル四方に点在している。誰が造ったかも分からないそうで、そもそも論になるが、『黒水国』という国の存在自体が謎に包まれているそうだ。学究の徒らしく、「通説ではないが」と断ったうえで、「匈奴の一部がこの地域に住んでいたことがあり、建国した『小月氏国』の中心が黒水国だった」という言い伝えがあるそうです。「言い伝えです」。ガイドブックなどに載っている、『一部ではあるが、陶壺や古銭などが出土したらしい』については、答えが無かった、というよりも、彼も疲れているようだ。「ごめんなさいね」。
 メール・アドレスのやり取りをして、戻ることにしたが、近くの砂利道まで送ってくれて、「ここを真っ直ぐ行くと、来る時にバスが止まった所に着きます」と教えてくれた。彼は、私の「方向音痴」を見抜いたのだろうか?今日最後のお助けマン(の皆さん)、「ありがとう」。…。真っ黒になって頑張っているだろうなぁ。「頑張れ」。

黒水国南城遺祉(明)の石碑
東城門の左側
ここまで黒水国??

私も頑張って市内見物へ
 人の親切とやさしさに恵まれて、思いがけない充実した『黒水国城堡遺址』観光であった。張掖の市内に戻って、市内観光のスタートだ。まずは前から興味のあった大仏寺(宏仁寺)である。行き方は1路バスで向かい、バス停『広場』で降車して、…、「バス?あれっ、あれっ?」、「なんか変だ」。「あっ、荷物が無い」、「そうだ、武威を出発して張掖バスターミナルに着いた時、運転手さん、そう『今日のお助けマン第1号』が荷物預かり所に私の荷物を預けて、…。結局、私は未だホテルにチェックインしていなかったのだ(笑)。
 ということで、色々用事を済ませて、今は大仏寺にいる。

大仏寺
 大仏寺は1098年(西夏の崇宗永安元年)に創建された。面積は60000平方メートル以上あり、中国最大規模を誇る。元の名称は『迦叶如来寺』であり、その後、明の宣徳帝に『宝覚寺』、清の康煕帝に『宏仁寺』の名をそれぞれ賜るが、寺に釈迦牟尼の涅槃像が横たわっていることから『大仏寺』、あるいは『臥仏寺』とも呼ばれるようになったという。大仏殿の中に横たわる釈迦仏(釈迦牟尼涅槃像)は、体長34.5メートル、肩の幅7.5メートルと大きく、撮影距離も近いため、一枚の写真には収まらない。頭部と下半身を別々に写したが、全体像についてはご想像願うしかない。
 先に書きましたが、イタリアのフィレンツェ出身の旅行家、マルコ・ポーロについて、もう一言。子供の頃、インド、中国、日本などのアジア諸国のことを書いた旅行記『東方見聞録』(児童向け)を読んで、外国を夢見たことを覚えている。後年、マルコ・ポーロ自体は日本へ行っていないことを知り、「ジパングに関する記事は伝聞だったのか」と、少しがっかりしたが、『マルコ・ポーロ』と聞くと、ついつい興味を持ってしまう。ここ大仏寺の記述で急にマルコ・ポーロを持ち出したのは、寺のことが東方見聞録に書かれていることを知ったためである。さらに、歴史上の人物として私が個人的に興味を持っている、元の『世祖フビライ』が生まれた寺院であると、ガイドブックで知ったことである。歴史家のさらなる研究成果に期待したい。
 涅槃大仏寺の裏手に高さ33メートルの大きな仏塔がそびえるように建っている。チベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)である。安定感のある姿に多くのカメラが向いていた。

間口約50メートル、奥行き約25 メートル 、高さ約20 メートル の大仏殿
大仏殿の中に横たわる釈迦仏の頭部。体長34.5 メートル 、肩の幅7.5 メートル の釈迦仏
釈迦仏の下半身
大仏殿背後に高さ33 メートル のチベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)が建っている
土塔の内部
土塔の内部

大仏寺から万寿寺木塔へ
 中国では珍しい外回りを木で組んであるという『万寿寺木塔(まんじゅじもくとう)』に向かう。通行人に聞いたところ、大仏寺からは、大仏寺巷→中心広場→張掖中学校と歩くと、5~10分で木塔に着くという。教えられたとおりに中学校に着いたが、どこでどう間違ったのか、中学校の裏側の校庭に来てしまった。校庭だから当然のことかもしれないが、金網が張ってあって目的の木塔が見えるのにそれがバリアになっていて移動できない。逆に校庭側から見ると中学校に怪しい奴が忍び込んで来たと見えるかもしれない。困った。うろうろしていると、用務員みたいなおじさんが目ざとく私を見つけて、近づいてきた。「やばい、俺は不法侵入だ、それも中学校に」。ところが、このおじさん、笑いながら金網の入り口を開けてくれた。私のようなのが、時々いるのかもしれない。「あーあ、良かった」。とにかく、「ありがとう」。中学校の校庭に無断侵入したのに、『お助け公務員』のおかげで、私は、無事に 『 万寿寺木塔』に着きました。
 万寿寺木塔は、582年(隋の開皇2年)に創建された寺で、創建当時は『万寿寺』と呼ばれていた。次の唐以降、歴代王朝で修復が続けられてきたが、1926年(民国15年)に再建され、現在に至っている。繰り返しになるが、元々は万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものは既に失われている。塔は、高さ1メートル、一辺15メートルの基壇の上に建つ。塔の高さは32.8メートル、八角9層の塔で、1層から7層までの塔身の内壁はレンガ積み、外回りは木組で造られている。8層と9層は、釘やリベット(鋲、rivet)などを1本も使わず、すべて木造で壁も無い構造である。
 この中国全土でも珍しい貴重な建築様式の万寿寺木塔は、最上層まで登って市内の風景を一望でき、そして、現在は張掖市の民俗博物館になっている。

万寿寺木塔は高さ約32.8メートルの八角9層の木塔
とても貴重な木塔のアップ

鎮遠楼(鐘鼓楼)から甘泉公園
 万寿寺木塔から歩いて10分もかからないで『鎮遠楼』に着く。ここは、まさに張掖市の中心部であり、市民には『鐘鼓楼(しょうころう)』と呼ばれ、張掖のシンボルとして親しまれている。古く1507年(明の正徳2年)に建創建され、現在目にするものは1668年(清の康煕7年)に修築された姿である。基壇も大きく、高さ9メートル、一片の長さ32メートルである。その上に2層の楼閣が建つ。重量感、安定感のある鎮遠楼であった。
 ここから西へ100メートルも歩かないうちに明清街にぶつかる。右折して甘泉公園近くまで、ゆっくりと古い町並みを再現したこの明清街を楽しむ。古い建物が並び、飲食店や屋台でにぎわっていた。
 甘泉公園では、遊園地を兼ねているせいか、多くの家族連れやアベックが楽しんでいる。孫を思い出しているうちに、近くにあるマルコ・ポーロ像をカメラにおさめるのを忘れてしまった。大失敗。

張掖のシンボルである鎮遠楼。どっしりとした姿が印象的である
古い町並みを再現した明清街
甘泉公園近くまで続く活気あふれる明清街
甘泉公園入口
このおばさんのちょっと辛い焼き鳥はいけた。「ごちそうさま」