中国・河西回廊~嘉峪関・酒泉~

張掖から嘉峪関そして酒泉へ
 張掖バスターミナルから2時間10分で嘉峪関バスターミナルに着く。ホテルは、バスターミナルからほど近い新華南路(中路)と建設東路の交叉近くで、交通の便が良い。今回の旅行目的地は、『嘉峪関』と『酒泉』で、両者の移動はバスで30分と近いので、嘉峪関にホテルを取り、酒泉へは日帰り旅行とした。
 旅行記のブログなどで、ホテルや宿舎の名前を挙げてコメントしたり、推薦する方々がいらっしゃる。これからその町を旅行する方々に有益な情報かもしれないが、私の場合は衣食住に関する評価に全く自信がないので遠慮させていただいております。実は、旅好きの友人に「中国のどこの都市でも良いから『…之星』に泊まってみろ。経済的ホテルであるが、面白い情報がある。中国初のビジネスホテルグループであり、国有企業だそうだ」。「面白いな」ということで、ここ嘉峪関で宿泊してみた。前述した理由で、ホテルに関する評価は避けるが、英語が飛び交っていた。
 さて、酒泉へ行こうと嘉峪関バスターミナルに向かおうとしたら、ホテルのスタッフが「近くからミニバスが出ている」と教えてくれた。おおよその場所を聞いたので、そこを目指したが、うろうろが始まった。子供と散歩していたご婦人が「どうしたのですか」と声をかけてくれたので、事情を説明しているところに高級車が止まった。「パパ」。パパは、私に「車に乗れ」と合図して、乗って2分。「グッドラック」。「今日もまた」というべきか、「グッドラック」なのか?方向音痴はお助けパーソンに助けられて(迷惑をかけて)、今日も行く。

鐘鼓楼
 ミニバスで30分、「どこで降りる?」と聞かれても、行きたい場所の歴史や特徴はそれなりに調べてあるが、地図上の位置(方向)がよく分からないので、ガイドブックに『町の中心的存在』と書かれていたページを見せると、同乗者の全員が同じ場所であった。『鐘鼓楼』は、東晋永楽2年(346)の創建で、1905年(清の光緒31年)に再建されて今に至る。高さは27メートルで、容姿端麗である。さっきまで一緒にいた同乗者たちはアベックが多いせいか、独り者の私にカメラを渡す。御存知だと思いますが、中国人の写真ポーズは大変なものである。とくに、ヒロイン気取りは尋常ではない。私も他の観光客への加害者になりそうなので、カメラを受け取らないように心がけているが。
 さて、鐘鼓楼であるが、東西南北に4つの門があり、「東迎華岳(東に華山を迎える)」をはじめ、各門に文字を記した門額が有名である。基壇の四方に開けられた通路上の門額である。写した4枚の(東西南北の)門額をトリミングして掲載したが、それぞれは酒泉の地理的位置を表している。

酒泉の鐘鼓楼。基檀の四方に開けられた通路の上の門額が有名である
東迎華獄(東には華岳を仰ぐ)
西達伊吾(西はハミに達する)
南望邪連(南は邪連山を望む)
北通沙漠(北は砂漠に続く)

酒泉夜光杯廠
 『酒泉夜光杯廠』は、鐘鼓楼から約200メートルと近く、街並みを楽しみながらゆっくりと歩く。次第に人々の賑わいと出店や屋台などが増えてきて、繁華街らしくなる。ここには、『酒泉夜光杯工場』の直営売店のある場所であり、その製造工程を見学できる。祁連山で産出する玉を原料に酒杯を造っている。光を透過するほど極薄に磨き上げた玉杯に酒を注ぎ、「月光にかざすと光り輝き風味が増す」ので『夜光杯』と命名されたそうである。私が手に取った時は、盃に酒ではなく水を注ぎ、かつ、お昼の自然光の中であったので、風味が増したかどうかは分からないが、おいしい水であった。
 ここの夜光杯が唐の時代のオリジナリティを継いだものかどうかは定かではないらしいが、「人口に膾炙する」ようになったのは、唐代に活躍した『王翰(おう かん)』の唐詩『涼州詞』に詠まれた「葡萄の美酒夜光の杯…」の影響でもあるそうだ。お好きな方もいらっしゃると思いますので、『涼州詞』を掲げたい。

葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催。
酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回。

酒泉夜光杯の直営売店
酒泉夜光杯の直営売店(正面から写す)
この辺りが繁華街で、出店や屋台で賑やかである

酒泉公園
 鐘鼓楼から東に2キロメートルの位置にある酒泉公園は、町の名前の由来となった『酒泉』のある公園で、別名「泉湖公園」あるいは「西漢酒泉勝跡」と呼ばれる。1路あるいは9路バスが運行しており、『酒泉公園』がバス停である。高校生くらいの6人の集団が同じバスから降りたのだが、女子高校生3人に「写真を撮ろう」とせがまれる。老人を挟んだ4人の写真は、今頃どこをうろついているのだろう。ところで、少しローカルな場所に行くと、日本人がまだ珍しいのだろうか、こういうことが、ままある。私は、普通の容姿だと自分では思っているのだが、…、よくあるのである。これが小学生のこともある。どうしてだろう。「まぁ、いいか」。
 前漢代の名将軍『霍去病(かくきょへい)』が匈奴を破って大勝利を収めた。その報告に喜んだ武帝は、霍去病に一本の酒を贈った。霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるために酒を泉に注ぎ込んだ。すると池の水が濃厚な酒の香りを放ち、その美酒は尽きることなく湧き続けたという。「いいねぇ」。霍去病が酒を注ぎ込んだ泉は、古来、名水とされ、かつ飲めば不老長寿などと詩に歌われているという。「いいねぇ」。
 公園内には大きな池があり、さっきの若者達はここに遊びに来ていたのだ。笑顔でパチリと撮られた。

『西漢酒泉勝跡』の入口。町名の由来となった泉がある公園
西漢酒泉勝跡の説明
霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるためにこの手前の泉に酒を注ぎ込んだ
モニュメントのアップ
公園内の大きな池。さっきの若者達はここに遊びに来ていた

嘉峪関へ戻る
 酒泉を楽しんだ。おいしい水も飲んだので、元気で旅を続けられそうだ。そろそろ嘉峪関へ戻る時間だ。嘉峪関からここ酒泉に来た時に降りたバス停は鐘鼓楼であったので、とりあえずそこにバスで向かおう。「鐘鼓楼」と書いたメモを運転手に見せると、「OK」と首を縦に振る。西へ2キロメートルなので、あっという間に着いた。ここへはミニバスで来たので、ここから嘉峪関へ向かうバスを探さなくてはならない。例によってうろうろしていると、高校生みたい男の子達が、じろじろと興味深く私を見ている。「嘉峪関」と言うと乗り場を教えてくれた。でも心配なので、バスの向かう方向がどっちの方向かを確認するために、ディバッグに付けている(方向)磁石でチェックしたところ、OKだ。少年達は、磁石に興味を示している。日本の百均で数個買ってあったので「for all」と言いながら1個くれてやったところ、要求が続く。「写真を撮りたい」だ。バスが来たので、「OK」で、「バイバイ」。
 あーあ、疲れた。

今日は嘉峪関見学
 朝8時頃、ホテルを出て近くの市場で小さな饅頭一袋(6個で4元/約60円)を買い、4路のバスで『嘉峪関』へ向かう。運賃は1元だ。8時半頃、嘉峪関のある終点の関城景区で下車する。嘉峪関は世界文化遺産に登録されており、入場料は繁忙期は120元だが、閑散期のため60元であった。
 河北省から始まる『万里の長城』は、北京郊外の『八達嶺』→いわゆる『黄土高原』→そして、ここ嘉峪関につながる。つまり、これから訪ねる嘉峪関は万里の長城の最西端にある要塞で、1372年(明の洪武5年)に建設が始まった。『嘉峪山』の西麓に建設されたことから嘉峪関と命名された。東の『山海関』より9年早い建設であった。因みに、山海関は、北に燕を臨み、南に渤が続くので、これらのを取って『山海関』と名づけられたという。明代長城の東端要塞であり、「天下第一関」と称されている。これに対して、嘉峪関は「天下第一雄関」と言われている。
 明の征西大将軍『馮勝(ふう しょう。? – 1395年)』が河西回廊を支配下に置いた後に関(要塞)の建設が始まり、168年の時を経てシルクロードの重要拠点に強固な要塞が完成したのである。
 嘉峪関は、内城(ないじょう)、瓮城(おうじょう)、羅城(らじょう)、外城(がいじょう)、城壕(じょうごう)の部分からなる。周囲733メートルを高さ11メートルの城壁に囲まれ、内域は33,500平方メートル以上である。構造的には、壁や基礎を作る場所に両側から板などを当てて型枠を作り、その中に黄土などを詰めて突き固める版築法(はんちくほう)で城壁を構築し、西側は煉瓦を積み重ねて作っている。
 東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門(こうかもん)、西を柔遠門(じゅうおうもん)と言う。光化門の入り口の広場には文昌閣、関帝廟、劇台などの建物が並んでいる。また内城を通り西門である柔遠門を出るとその外に荒涼とした大地が続いている。
 この2つの門の上に高さ17メートルの3層の楼閣が建ち、嘉峪関のシンボルとなっている。2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路がある。旅人達は、ここに登って、万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物に思いを寄せるのである。
 旅人の一人である私目も、西安(せいあん)を発ち、蘭州(らんしゅう)、武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、嘉峪関(かよくかん)と、河西回廊に沿って砂漠の中に栄えたオアシス都市を巡り、人々の生活、歴史、文化、宗教などに一端ではあるが触れてきた。後は、これから数日後に向かう『敦煌』を残すのみである。城壁の上に立って辺りを眺めると、旅人が感ずるロマンチックで、ちょっと感傷的な気持ちになってしまう。南には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続き、北には黒山と呼ばれる小高い岩山がそびえ、西には遠く砂漠が広がる。

嘉峪関長城文化旅遊景区の黒山石窟群
林則徐の像。日本では、広州でアヘン取り締まりを強化した人物として知られている
関城に入る主要通路である東門。「天下雄関」の額が掛かっている(左上の黒い部分)
東門の説明
文昌閣。後ろの戯台(ぎだい。 劇場の舞台) には「天下第一雄関」の額が掲げられている
文昌閣の説明
舞台。明清時代は文人墨客が集い、詩作、作画、読書をした場所
関帝廟
東の城門、光化門
光化門の説明
演舞場が見える
西の城門、 柔遠門 (じゅうおうもん)
柔遠門の説明。西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。ここを出るとそこは荒涼とした大地が口をあけている。観光の駱駝が客を待っている
馬道。将士が馬に乗って城に上がることで名付けられた。主な機能は、兵力を運送し、物資と武器を運ぶことである。馬道の上に見えているのが光化楼
嘉峪関楼
嘉峪関楼の説明
嘉峪関 から望む 南側には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続く
ここまで嘉峪関

懸壁長城
 嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口に向かう。チケットは嘉峪関と共通である。急勾配の山道は、「行きは良いよい、帰りは恐い」ので断念する。『懸壁長城』の名は、「あたかも鉄壁を空に引っ掛けた様に見える」のでつけられたそうだ。当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあったそうだが、1987年に改修したのは500メートル、うち勾配約45度の道231メートルを斜面に作ったという。頂上まで30分。ショーマン・シップにあふれた人物が担当したのだろうか?
 この見事な懸壁長城をバックに『シルクロードの彫塑群』の彫刻が鮮やかで、そして美しい。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した像である。7名の人物とは、張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である。ここで、この旅行記に初めて出てきた『左宗』とは、『太平天国の乱』の鎮圧に活躍し、「清代最後の大黒柱」と言われている人物である。
 大人物はともかくも、今日しか会えず、これからも話題にのぼることは多分無いだろう市井の人物に、私は興味を覚える。どこの街へ行ってもこの種の人物には、何故か好感を覚える。ここでは、商魂たくましい貸衣装屋さんである。熱心である。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックに写真を撮っては、儲けている。誠に勝手な想像であるが、帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なのである。「どこから来るんだよ、その発想?」。私もそう思う。

嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口
当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあった
シルクロードの彫塑群
シルクロードの彫塑群の説明。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した。この7名の人物は張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である
懸壁長城(けんぺきちょうじょう)     
山の斜面の傾斜角は45度
商魂たくましい貸衣装屋さん

万里長城第一墩へ向かうのだが
 嘉峪関からチャーターしたタクシーのおばさんは、とても乱暴な運転手で、こんな表現があるかどうか分からないが、手に冷や汗を握るほど怖かった。『万里長城第一墩(ばんりちょうじょうだいいちとん)』に向かう途中、狭い一本道に重機が入っていて、こちらは動くことができない。想像するに、稼ぎに影響するのだろうか、この運転手、かなり大きい岩のような石が堆積している河原へ無理やり突っ込むではないか。プロペラシャフトがあったかどうか定かではないが、車の底が音を立てて石を引きずっているのだ。言葉が通じないので「ストップ」しか言えないが、今更戻るわけにもいかない。運転手は悪戦苦闘、こちらは肝を冷やして15分間。「ふー」。やっと、道に戻った。私の額の冷や汗を見て、自分のお昼弁当なのかパンを出して私にひとつくれて、自分も食べ始めた。もう一度。「ふー」。
 そうこう言いながらも、舗装道路を走る車から眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、美しい。そして嫌なことを忘れさせてくれる。

峪関から『万里長城第一墩』に向かう途中、工事による通行止め。雇ったタクシードライバーはこの岩道に車を突っ込んで近道を試みたが 。
黄土の渓谷を挟んで眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、気高い

万里長城第一墩
 『万里長城第一墩』は、明代長城の中では西から東に向かう最初の物見台で、したがって長城の最西端にある。『墩(とん)』とは物見台のことである。討賴河の高さ56メートルの崖の上にあり、ここ長城第一墩から嘉峪関関城までは7.5キロメートルの壁が続いている。換言するならば、嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶えることになる。
 兵士や将軍の休憩テントが見えてくる。現在、実際に軍が駐屯しているわけではなく、観光客向けの展示であり、写真撮影5元などと書いたスタンドが入口に置かれている。担当者がいて説明があるわけではないが、容易に想像できる展示物でもある。
 ここからの階段を上がって行くと、断崖絶壁と吊り橋が見えてくる。思い入れを持って見ないと、単なる険しい地形が見えるだけである。しかし、「嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える」、「ここが長城の正真正銘の終点(出発地)」と考え、さらには、『北京の八達嶺』の長城まで思いを致すと、こみあげるものがあるのであろう。噂には聞いていたが、『長城マニア』と思しき人達が、抱き合い、涙を流して、「???」と叫んでいる。
 2016年9月に北朝鮮との国境の町として有名な遼寧省丹東市を訪ねた折に、虎山村にある明代の長城、虎山長城(こざんちょうじょう)の遺構を訪ねたぐらいの長城好きであることは白状するが(結果的に管理側の都合で、虎山に入山できなかった)、涙を流す、ここまではどうも。私は皮肉っているのではない、羨ましいのである。
 『長城第一墩歴史文化体験館』に移動する。写真で示した展示物は実物ではありません。

兵士や将軍の休憩テントが見えてくる
テントの内部
嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える
こが長城の正真正銘の終点(出発地)
ここにある墩(物見台)は天下第一墩(てんかだいいちとん)とも呼ばれている
吊り橋のアップ
長城第一墩歴史文化体験館に移動
展示物
展示物

魏晋壁画墓
 今日の最後の訪問予定地である『魏晋壁画墓』へ向かう。『魏晋…』と名付けられているからには、少しは知識を得ようと、にわか勉強をしたのだが、にわかに覚えたことは忘れるのも早いので、特に年を取ると忘れる速度も速いので、ここに超簡単にキー・ワードをメモする。『黄巾の乱』、『三国志』、『隋が中国を再び統一する間の群雄割拠時代』と並べた。うまい具合に、最近凝っている、日本のTV番組で放映されている中国ドラマの時代背景が重なっているので,覚えやすい。その後漢末期からの激動の時代と言うか、分裂の時代の380年くらいを生き延びた国家である。
 魏晋壁画墓群(ぎしんへぎがぼぐん)は、嘉峪関市の北東約15キロメートルのゴビ灘にある古墓群である。20キロメートルほどに広がっており、1972~1979年の7年間に13基が発掘され、660点の壁画が部分的に保存されている。壁画から埋葬された人の日常生活、道具、動物などを描いたレンガがはめ込まれている。具体的にその姿のいくつかを列記する。果実の収穫、料理をしている、駱駝を引く、ヤク?を引く、牛を使って農作業、楽器を奏でる、戦う将兵、狩りをしている、豚の料理、等々 がシンプルに描かれているのである。但し、撮影禁止である。
 これらの鮮やかな色彩の絵が1600年ほど前に描かれたものとは思えないくらい保存状態が良く、感動しますよ。おすすめです、お訪ねを。 

ここから魏晋壁画墓
果园--新城墓群