中国・河西回廊~敦煌~

敦煌(沙州)
 『西安』から西へ西へと向かってきた『河西回廊の旅』も、いよいよ終点の『敦煌』である。つい先日訪れた『酒泉市』の中にある県級市であるが、人口13万人と少ない町にも関わらず、その知名度は世界級と言って良いであろう。その理由は、ひとえに、古くは沙州と呼ばれていた歴史であり、『莫高窟』をはじめとするその観光資源に依るところが大きいと言えよう。
 嘉峪関のバスターミナルから朝9時発のバスに乗って、384キロメートルを約5時間で敦煌に着いた。高速道路が整備され、バスも最新型の車が導入されているせいか、快適な時間を過ごすことができた。私のように乗り物が好きな者は別として、5時間の乗車時間を長く感じる人達も、砂漠の風景が連続する単調な景色であったにもかかわらず、緊張感をもって車窓からの景色を楽しみ、熱心にガイドブックなどを読んでいた。『敦煌』に対する夢か、期待か?私はと言えば、ガイドブックではなく、ウィスキーの小瓶が横にあった。
 ホテルは、友人から勧められたユースホステルを予約してある。①宿泊者は若者(大学生)が圧倒的に多いこと、②一般的に、彼らは英語が堪能であること、③敦煌のような歴史的都市を訪ねる若い連中は歴史に対する造詣が深いこと、④ドミトリーだけではなく、バス&トイレ付きのシングル・ルームやダブル・ルームもあること、等が理由である。楽しみだ。チェックインの時、いきなり英語で話しかけられて、ニンマリ。
 受付の娘さん(実は新婚さん)は、オーナーの娘だったのだが、まさに百戦錬磨の『コンシェルジュ(コンシェルジェ)』のようであった。それなりのホテルの接客係の、あの『concierge』である。若者の質問や要望に応じて、てきぱきと仕事をこなしている。チップ無しである。私も、随分、お世話になった。

嘉峪関バスターミナル の時刻表
長城 の概略
トールゲイト(黒山湖)
高速道路の補修中
敦煌のトールゲートが近づく
トールゲート(敦煌)

早速お世話になった
 私のこの拙文を継続して読んでくださった皆さんは、あるいは覚えていらっしゃるかもしれませんが。再掲させてください。このブログ&ホームページの『新旅行記・アジア』-『中国・河西回廊~蘭州~』で、とてもお世話になった方々のことを感謝を込めて記しました。その中で、「敦煌に6日間滞在よりも、縮小して、その分、天水(天水)で『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』を見学したらどうか」との貴重なアドバイスをいただいた。
 このことを『お助けコンシェルジュ』に話したところ、自分のホテルへの私の宿泊数が減るのにもかかわらず、気持ち良く対応してくれた。窓口には彼女一人しかいないので、宿泊している若者に「30分で戻るから、君、店番?をしてくれ」、というようなことを言って、私のためにわざわざ近くの列車チケット販売所に同行してくれたのである。彼女がチケット売り場の人と掛け合って、敦煌駅と電話でやり取りをしてくれて、時間がかかったが、結論がでた。「4日後に敦煌から天水まで行く切符は3枚しか残っていない。ここの売り場では予約はできない。今すぐ敦煌駅まで行って切符を買いなさい、急げ」。私の西安で買い求めた切符も敦煌駅で払い戻されたのである。「背水の陣だった」と、思わずつぶやいた。

郊外ツァーのスタートは西路線コース
 今日は朝から忙しい。『お助けコンシェルジュ』の適切なアドバイスによって訪問地が分散している『西千仏洞(にしせんぶつどう)』、『陽関(ようかん)』、『玉門関(ぎょくもんかん)』、『ヤルダン国家地質公園』を巡る『西路線コースツァー』に参加する。四か所を適当な時間で巡る方法で、旗を振りながらの引率&説明員ガイドはいない。合理的でかつ安い。
 最初は、敦煌の中心部から西南へ約35キロメートルの位置にある『西千仏洞』である。敦煌の母なる河、党河(とうが)に面した崖の上にある石窟である。名前の由来は、莫高窟(ばっこうくつ))の西にあることから『西千仏洞』と呼ばれるようになったという。北魏や唐の壁画が狭い空間に残っているが、多くは破損していたり、整理中だったので、ゆっくり鑑賞できなかった。

西千仏洞
西千仏洞。莫高窟の西にあることからこう呼ばれる
一部撮影

陽 関
 『西千仏洞』からさらに西へ20~30キロメートルの『陽関』に向かう。敦煌の中心部からだと南西へ約70キロメートルの位置にある。バスの中で隣に座ったとびっきりの美しいお嬢さんが、見事な『英語』で色々と教えてくれる。中国のこと、敦煌のこと、等々。ところが、彼女の話す言葉が途中から分からなくなってしまったのだ。私は「えっ」と聞き返した。「そう、私はボーっとしていました。とびっきりの美しいお嬢さんが話す言語が、途中からは『日本語』でした」。てっきり英語で話すものと先入観を持って聞いていた私のボーンヘッド(bonehead)でした。このお嬢さん、日本語を勉強している大学生で、美人でそして所作が美しい、私の世代が憧れる『美しい』女性なのである。『砂漠の風景に佇む美しい女性』私の持つコンパクト・デジカメじゃ、役不足だ。一眼レフを持ってこなかったことを、ここでも、…、残念。
 さて、『陽関』である。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で建設した関所の1つで、 敦煌の急激な発展にともない、従来の玉門関だけでは対応できなくなったために新たに設けられたものと言われている。そして、 その位置が玉門関より南にあるので、 南を意味する『陽』の字を使って 『陽関』と名付けられた。 また、 玉門関と併せて『二関』と呼ばれている。
 よく引用される唐の詩人王維の詩は、この地の関所跡ではないかと言われている。
「西出陽関無故人(西のかた 陽関を出ずれば故人無からん)」

 現在、我々が目にするのは、荒涼とした砂漠で、丘陵の上に残っている烽火台(のろしだい、ほうかだい)の姿だけである。漢代に作られたものと言われている。一種の寂寥感を感じるのは、思い入れのせいか。 

陽関景区
陽関は、唐の詩人王維の詩に『西、陽関を出ずれば故人無からん』と詠われた古代の重要な関所跡と言われている
陽関博物館
漢の時代に、西域への道を切り開いた勇者、張騫
重厚そのもの
関所の向こうに超小さく見えるのは、漢の代に西域への道を切り開いた勇者、張騫
現在では陽関烽燧(烽火台)が高台の上に朽ちた姿で残っているのみである
烽火台 の拡大写真

玉門関
 『陽関』とともに『二関』を構成する古代の関所跡『玉門関』に移動する。『陽関』と『玉門関』は、ほぼ一本の道でつながっているが、位置的には敦煌の西約80キロメートルである。漢代に時代を戻せば、その国家権力が及ぶ西端の国境線である。この『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』にしばしば出てくるが、漢の時代に『汗血馬』を求めて攻め入る西域とは、この玉門関より西側の地域を言う。
 書物に出てくるほど良く知られている話を紹介したい。漢の将軍、李広利(りこうり)が西域における戦いに負けて玉門関に戻ってきた時、武帝は玉門関を閉じて彼らを入れさせなかったという史話である。この時代、将軍や兵士の命をかけるほど、汗血馬の確保は重要だったのである。
 玉門関は、現在、小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれ、約25メートル四方、約10メートル高さの城壁が残っている。また、「『二関』、すなわち『陽関』と『玉門関』の間は、長城で結ばれていた」と言われ、『漢長城遺址』の石碑がある。「ゴビ灘砂漠の中に黄色い土で固められた長方形の土塊があるだけ」と言っては、元も子もない。静かに瞼を閉じ、遠い、遠い昔を偲びましょう。

現在の玉門間は小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれている
玉門関は陽関と並び称される古代の関所跡。漢の時代は国家権力が及ぶ西端だった
麻布(あさぬの)などがここから出土された
漢長城遺址の標示
このフォルム、何に見えますか

ヤルダン国家地質公園
 玉門関からさらに西へ85キロメートルに位置する『ヤルダン国家地質公園』は、私の専門である土木工学の観点からも、力が入る。美女は、依然として私の左側の座席に座って、流暢な日本語で「みかんの皮はむきますか?」。「土木工学の観点からも、力が入る」は、真っ赤な嘘である。
 でも、少しは説明しなくては。ヤルダン地形とは、風、雨などによって地表面の柔らかい部分が風化し、堅い岩部分が残る地形のことを言う。結果的に、東西25キロメートル、南北2キロメートルの砂漠の中に、色々な形の岩が点在して、奇景を構成している。悪魔が住む城、通称、『魔鬼城(まきじょう)』は、『張芸謀(チャン・イーモウ)』監督の映画『英雄(HERO)』のロケ地として、有名になったことは、ご存知の方も多いでしょう。そのいくつかをお見せしましょう。ご自由に名前を付けてください。
 但し、美女とのツーショットは見せない。

ヤルダン国家地質公園の紹介
ライオンがお迎えします
アップ画像
獅身人面
クジャク?
西海船隊

莫高窟への行き方
 莫高窟は、敦煌の東南約25キロメートルに位置する鳴沙山東麓の岩壁に掘られており、『敦煌石窟』、『砂漠の中の大画廊』、『オアシスの中の仏教美術館』などと色々な名前が付けられている。その『莫高窟(ばっこうくつ)』についに辿り着いた。多くの方々に助けられて、『河西回廊』の最後の都市、それもとびっきり著名な莫高窟にいることが信じられないくらいだ。心も体もしびれる興奮である。石窟の長さは約1618メートル、掘削は紀元366年に始まったと言われる。1991年に『世界文化遺産』に指定された。
 ここを見学するには、2015年当時は、「予約が必要だ」とか、「直接莫高窟に行かないで、前もって『莫高窟研究院』という所でチケットを買う」等々、情報が飛び交っていて、敦煌に着くまで心配していたのだが、『お助けコンシェルジェ』の一言で安堵。「当日、ここのホステルの近くから出ているバスで『莫高窟研究院』へ行って、ビデオを観たりの『莫高窟についての学習』を受けた後、そこでチケットを買って、バスで案内される」。気を付けることは一つ、『日本語』と言うだけ。「ありがとう」。
 『莫高窟研究院』でビデオ2本を40分くらい鑑賞した後、チケットを購入した。高齢者割引は無かったが、通訳の関係で外国人はちょっと高かっただけでした。日本語のガイド付きで180元は安いと思いました。
 非常に簡単だった。シャトルバスに乗車後20分くらいで莫高窟対岸の橋の付近で降車。歩いて橋を渡り、莫高窟入り口へすぐでした。入口付近は、この種の観光地がそうであるように、駐車場、土産売り場、食堂などが並んでいる。

莫高窟
 中国語は、所定人数が集まり次第見学スタート、中国語以外は9時、12時、14時の開始だった。9時ジャストに、「今日は寂しい」と言いながら女性ガイドがやってくる。寂しい理由は、日本語ガイドのお客さんが、私一人だったことだ。
 「甘粛省の他の石窟と似ていますが、4世紀の五胡十六国時代から清にかけて作られ、734窟あります」から説明が始まった。ネィティブと言っても過言ではないほど、完璧な日本語であり、説明もとても丁寧であった。たくさんある石窟で、一番大きな大仏がある96窟や敦煌文書が隠されていた17窟などは必ず案内されるようだが、他のどこを見学するかはガイドの一存で決められるようだ。約2時間の見学時間内で、12カ所ぐらいの石窟を案内しているみたいだが、見学者が1か所に集中しないようにお互いの様子を見ながら調整しているようだ。かつて訪ねた新疆ウィグルのクチャ近郊にある『キジル千仏洞』や『クムトラ千仏洞』の管理と同じように、見学の度にガイドが鍵を開けて中に入り、説明が終わるとまた施錠するという管理をしていた。また、石窟は一般窟と特別窟に分けられ、特別窟を観覧するには別料金が必要になる。まあ、これだけの世界的歴史遺産の管理は、保存状態も含めてこのぐらいの厳格さが必要だと思う。
 他に人がいないので、石窟にかなり近づいて丁寧な説明を受けられるが、逆に石窟の周りに人がいないので離れて全体を観ることもできる。なるほど、ガイドの言うとおり、「ここの石窟は、仏像の場合、壁に仏像を彫るのとは違って、まず洞窟を深く掘って、次に中央に台座を作り、その上に仏像を安置している」。なるほど。そして、「台座の周りを回って礼拝するのが作法だ」そうです。なるほど。でも、どっち周りに回るかは、聞かなかった。
 これらの窟が作られた経済的バックは、仏教の功徳を積むために地域の有力者が大金を拠出したり、お坊さんが集まって寄付などの方法で、援助したと言われている。当然のことながら数百年にわたって修復が必要なので、その際に寄進することによって功徳を積むなど、多くの人々の善意によって修復・保存されてきたのである。
 見学が終わった後、ガイドの口から意外な言葉が発せられた。「後は、あなた一人なので、ご自由に見学してください」。私は、もちろん鍵を持っていないのだから、「空いている所(他のグループ)に交じって自由に見学していいよ」と解釈して、ありがたいことに、たっぷりと時間を使って、見学することができました。
 なお、後述する、莫高窟特別窟のレプリカなどを展示する『敦煌石窟保持研究陳列センター』を除いて、『莫高窟』の内部は撮影禁止なので、皆さんには外観しかお見世できないことである。したがって、カメラに収めた写真(外観)のいくつかについて、ご説明を省かせていただきます。申し訳ありません。

シャトルバスを降りてこの橋を渡ると莫高窟である
外観が見えてきた
莫高窟

歴史的発見
 ガイドからの説明で面白かったのは、彼女の愛読書でもある井上靖の小説『敦煌』に関する話である。多くの日本人が興味を持って質問するのは、井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』だそうだ。戦乱から大切な書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である。この窟に入ってすぐ左側の小さな窟に隠されていたのである。横壁の入り口は塗り込められ、さらに壁には絵が描かれていたので、気づかれなかったらしい。発見したのは偶然で、この窟の管理人が壁に入ったキズに気づき、中の5万点もの経典や文書を発見したということである。ガイドが1900年と言ったか、1900年代と言ったか、聞き逃したが、いずれにしても歴史的発見である。
 多くの窟の中で私が好きなのは、頭の上に琵琶をかかげて演奏している『飛天像』である。昨日、知ったことであるが、敦煌市のシンボルである。『敦煌大劇院』による公演『敦煌神女』のチケットを買うために劇場を訪れた時に近くの交差点に立つ『飛天像』を初めて見たのである。でも、やはり『莫高窟の飛天像』である。素材が違うのだから当然であるが、鮮やかなタッチと色使いに圧倒された。

井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』。戦乱から書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である
敦煌莫高窟の象徴である九層楼。当初は大仏が三層の上から顔を出していたのを、清代に台4層から上を増築して室内仏ということになった
敦煌蔵経洞陳列館
大牌坊
飛天像

より道
 時間がたっぷりあるので、帰りのシャトルバスに乗る前に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』に寄る。お世話になった日本語ガイドさんから、「レプリカですけど、写真OKです」と教えてもらったことを思い出す。『莫高窟』は厳格に撮影禁止なので、年寄りの記憶保持のために撮っておくのも良いだろう。「私は自分の鑑識眼については、よく分かりません。しかし、レプリカと断らないでここに掲載するのは、読んでくださった皆さんに無礼だと思います」。
 私は以前にこのブログでこのようなことを書きました。『中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~』の『則天(則天武后)』で、屁理屈を並べて、言い逃れをして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている男。「意気地なし!」。「私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう」と。
 このような凛とした女性に愛された私は、先の文章を「レプリカですので完成度は高いとは言えないと思いますが、私のカメラの質、撮影技術も高くありません」。「そのうえで、参考にしてくださいね」。
 『敦煌石窟保持研究陳列センター』の名誉のために言っておきますが、石窟レプリカのセンターではありません。莫高窟修復の展示など、工夫を凝らした魅力的な展示センターです。
 なお、方向音痴の私の出番ではありませんが、この辺りで迷っている人がおりましたが、降車した場所から『莫高窟研究院』へ戻るシャトルバスが運行していました。そこから敦煌市街へのバスは30分に一本あります。

敦煌石窟保持研究陳列センター
莫高窟 隋代 第419窟のレプリカ
莫高窟 北涼 第275窟のレプリカ

沙州市場界隈
 午後1時半頃、莫高窟から市内に戻って、宿泊しているホステルから近い沙州市場に行く。沙州市場近くの百味街は、その名の通り食堂・屋台街で、賑やかな通りである。若いお母さんが遊びたい盛りの中学生ぐらいの子供に気合を入れている。名物の砂鍋料理は人気があり、元気おばさんに(半分、強制的に?)勧められて2日間続けて食した。おいしかった。
 中学生のはにかんだ様な笑顔と元気おばさんの大サービス大盛り砂鍋料理で腹いっぱいだ。「少し歩かなくちゃ」。さっきから、ミナレットから聞こえてくるアザーン(イスラム教における礼拝への呼び掛け)が気になっている。私はイスラム教徒ではないが、ここの近くのイスラム教寺院、清真寺に向かう。宗教、宗派を問わず、宗教関連施設の建築物の見学は、私の旅行の目的の一つになっている。礼拝中なので中には入れないし、また礼拝に向かう人々にカメラを向けることは厳禁であるが、美しい建物のいくつかをカメラに収めた。

市内に戻って沙州市場へ
この店は人気がありました
沙州市場近くのイスラム寺院・清真寺
清真寺横も夜は賑やかそう
清真寺

雷音寺
 元気おばさんの大盛りも、清真寺界隈の散歩で少しは腹もこなれた。この後の今日の予定は、敦煌から南に約5キロメートルの『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』である。3路バス終点と分かりやすいので安心である。多くの人達が降りたので、終点だと思って私も降りたのだが、終点一つ手前の『雷音寺』前であった。ちょっと焦ったが、鳴沙山まで歩いて5分だと教えられたので、流れに合流して『雷音寺』に入ってみた。久しぶりに出しますが、「神のお告げ」であった。(『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』参照)。そう、 一つ手前で降りたのは無意味ではなかったのだ。『雷音寺』は、市内で一番大きい仏教寺院で、1989年に建造と新しい寺院である。境内には菩薩像や羅漢像などの仏像が納められ、十分に楽しめる見所いっぱいのお寺であった。

鳴沙山へバスで向かう途中、1つ手前の雷音寺前で降りる
天王殿
大雄宝殿

鳴沙山・月牙泉
 『雷音寺』で予期しなかった仏像や展示物をたくさん見ることができて、なにか得をした気分で、シルクロードで最も美しい砂丘が連なる『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』へ軽々とステップを踏んで、そして十数年ぶりに口笛を吹いて向かいました。この後に待ち受けている拷問も知らずに。
 鳴沙山は、東西約40キロメートル、南北50キロメートルに広がる、サラサラの砂が堆積してできた、風が創り上げた砂漠の山である。最高峰は海抜1715メートルで、私の土木工学的センスで言うと、勾配はおおよそ15度くらいだと思う。名前の由来であるが、以前は神沙山と呼ばれていたが、砂山を滑り降りると地響きのような音をたてることがあることから『鳴沙山』の名がついたと言われている。砂の色も色々と混じっているで、太陽の角度、天候などによって多彩な姿を観察できる。
 ところで、よく歌われた名歌『月の砂漠』の歌詞をご存知でしょうか?

「月の砂漠をはるばると 旅のらくだがゆきました
金と銀との…」

のあれです。あの歌詞のイメージに近い風景が眼前に広がっている。私は歩いて山を登ったが、商魂たくましい人がいて、観光客を実際にラクダに乗せて稼いでいる。ここまで半月以上にわたって河西回廊を旅してきたが、この鳴沙山のラクダ商法はあるシーンと重なる。 あるシーンとは、『嘉峪関(かよくかん)』の『懸壁長城(けんぺきちょうじょう)』でご紹介した商魂たくましい貸衣装屋さんのことである。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックにその写真を撮っては、儲けている貸衣装屋さん。「帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物?」と私が勝手に想像した、貸衣装屋さんのシーンと重なるのである。
 怪しげな日本語で「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが…」と唄いながらラクダを引き、『砂漠を歩む隊商』になりきったお客さんからチップも貰うおじさん達は、…、いゃ、ちょっと待てよ。 ちょっと待って下さいね。 貸衣装屋さんより、こっちの 『砂漠を歩む隊商(キャラバン)』の方が、言葉がちょっときついが、金儲けの元祖ではないだろうか? 『砂漠を歩む隊商』は、なにか幻想的で、ロマンチックなイメージで捉えられているが、 私もそう思っているし、そう思いたいが、想像を超える困難に打ち勝って 、 『一攫千金を夢見るキャラバンの商人 』 なのである。
 私は好きである。『一攫千金 』のことではなく、はるかに少額のお金を稼ぐために、汗水たらしているおじさん達が好きである。そして、 せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なら、なおさら好きである。 「おかしいかな?」。「私は一生懸命が好き」なのかもしれない。『月の砂漠』を出したことから、もうお分かりだと思いますが、お客さんは、圧倒的に日本人が多いそうだ。

拷問には技術で対抗
 先に「この山の拷問が待っている」と書いたが、それは何か?ここを訪れる楽しみの一つは、この美しい景色を堪能することであるが、もう一つは砂山登りである。急斜面なので、一歩踏み出すと砂が崩れてなかなか上へ登れない。シューズの中に容赦なく砂が入ってくるので、布のオーバーシューズを10元で買う人もいる。砂の上に梯子を置いて登りやすくしている箇所もあるが、それでは面白くない。結局、砂に足を取られて3歩進んで2歩下がる状態の連続である。土木工学的知識を駆使して、頑張る。極細粒の砂は風で吹き飛んでいて残っている砂は極細粒分をあまり含んでいない。つまり、足を踏み入れる部分の砂は同じ粒径の(単一の粒径に近い)砂が多く、したがって、砂と砂の接点面積が少ないことから砂全体としての摩擦抵抗も小さいことになる。難しいかな?うーん。「大きい砂と大きい砂の間を埋める小さい砂が少なく、砂全体として密ではないことから足の圧力に抵抗する力が小さい」の表現ではどうだろうか?そこで考えた。誰かが歩いた跡は砂の粒が移動しあって固まっている(摩擦抵抗が大きい)。楽をしたい場合は誰かの足跡をたどろう。悪戦苦闘が面白いのだが。
 山頂へ登ると、時々風が強くなり、砂をかぶってしまう。予測したとおり、飛んできた砂は、確かに極細粒の砂であった。「良かった?」。飛んでくる砂など「なんのその」、一種の達成感だろうか、知らない者同士が抱き合って「成功」と言いながら祝しあっている。そして、遠くに広がる美しい風景と、下に見える『月牙泉』である。
 『陽関・玉門関・ヤルダン国家地質公園』を訪れた際に、とてもお世話になったお洒落なマルチリンガル美女に教えてもらったのだが、『月牙泉』は「砂漠の第一の泉」と言われ、また、漢の時代から「敦煌八景」の一つと称されているそうです。1970年代のダム建設と農業用灌漑(かんがい)などの大規模開発や地下水の大量汲みあげの影響を受けて、1990年代末には泉の底が干上がったそうだが、現在は各種の対策の効果があって、少しずつ回復している。お見せしている寺院と周辺の緑の写真は2015年5月に撮ったものです。

鳴沙山・月牙泉 の入口
山に挑戦
強力な山登りの助っ人である梯子
月牙泉の横に建つ寺院
頂上到達を称え合う。

敦煌博物館
 明日は、いよいよ敦煌を発って、天水に向かう日である。したがって、今日は実質的に敦煌最終日である。大事に過ごそう。『莫高窟』へ再度行き、その後『敦煌博物館』に行くことも考えたのだが、「せわしない旅ではなく、ゆっくり旅を貫きたい」。それに大好きな博物館だ。未知への興味というか、博物館でなにか新しい発見があるかもしれない。うまい具合に、昨日、『鳴沙山・月牙泉』へ向かった時に乗った『3路』バスが博物館の目の前に停まる。
 2012年5月にリニューアル・オープンした『敦煌博物館』は豪華な建物で、外国人であってもパスポートを提示することによって無料となる。時代区分ごとに歴史的遺物が展示されており、それほど知識が無くても分かりやすい。日本語の説明があることも大サービスである。
 最初に目を引くのは、壁に掲げられた大きな仏教図である。見入っていると、「Could I help you ?」。胸にネームタグをつけた上品なご婦人の申し出に、丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお断りした。丁重に、丁寧にである。そして、「莫高窟のレプリカが色々ございます。写真撮影も可です」の助言に、これまた丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお礼を言いました。バッグからカメラを取り出しながら。
 莫高窟を訪れた際に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』の項で書きましたが、レプリカと言えども、莫高窟の復習になるし、また、見逃した遺物の写真も撮れる。壁に貼られた『敦煌の歴史とシルクロードの文明陳列 序言』を読んで、戦闘開始である。

敦煌博物館
最初に目を引く仏教図
『序言』のプレート
石塔(北魏)
今でいう囲碁をしているのだろうか?隋唐五代時代
唐代のもの
天王俑 唐代
おんどり(磁器)明代
天王像(銅に金メッキ)清代
康煕25年。仏陀の坐像(銅に金メッキ)

白馬塔
 この拙稿の中の『河西回廊』で、何度も登場する鳩摩羅什(くまらじゅう)のことを覚えていらっしゃいますか。現在の新疆ウィグルのクチャ(旧、亀茲国)出身の高僧である。鳩摩羅什が敦煌にいた時、経典を担がせていた白馬が死んだため、その供養のために馬をここに埋葬し、塔を建てたのが白馬塔の始まりと言われている。
 直径7メートル、高さ12メートルの大きさで、基礎部分は八角形、上部は円筒形をした九層建ての塔である。第六層目だけが赤色で、全体として白亜の塔である。西暦(公元)386年に建立された後、何度か改修されているが、現在の塔は清の時代に修復されたものである。

白馬塔
鳩摩羅什三蔵が敦煌にいた時、経典を担がせた白馬が死んでしまい、その供養のために建てられた白馬塔 

敦煌大劇院
 沙州市場界隈をおじさんとおばさんを冷かしながらのんびりと散歩している。職人の腕を眺めるのは、旅の醍醐味の一つである。近くの南北に走る沙州北路(沙州南路)と東西に走る陽関中路(陽関東路)が交差するラウンドアバウト(Round about)は敦煌随一の繁華街であり、郵政局(中国電信のビル)をバックにそこに立つ飛天像は敦煌のシンボルである。左端に琵琶を後ろ手に曲弾きする飛天像の姿は、美しく優雅である。
 ここから歩いて数分。今夜は、敦煌大劇院である。8時20分から開演される甘粛省雑技団によるショー『敦煌神女(とんこうしんにょ)』の鑑賞である。チケットは200元で既に買い求めてある。
 さて、その舞台である。初めて観る出し物であり、予備知識もない。面白かったのは、開演前に役者さん達が劇場前に出てきて皆さんに挨拶をしたことだった。本番用の衣装を身に着けてアップの写真撮影にも応じてくれ、ひいき筋なのだろうか、握手をする人達もいた。
 内容は、敦煌文化や莫高窟壁画のエピソードなどをテーマに構成された舞台である。歌あり、西域の少数民族の舞踊あり、アクロバティックなサーカスあり、中国雑技あり、武術あり、マジックあり、コミカルな演劇ありの、次々と変化する1時間半のショーは観客を驚きと笑いの渦に引き込む。拍手喝采が起きたのは舞台にある動物が登場した時である。何だと思いますか?砂漠で人気の動物とは?そうです、本物の駱駝(らくだ)である。

沙州市場で熱心に仕事に励む職人さん
大劇院近くの沙州北路と陽関中路が交差するラウンドアバウトに立つ飛天像
敦煌大劇院の入口
敦煌大劇院の出し物の紹介「敦煌神女」
スターたちの顔見世
アップの写真にも快く応じてくれる
時間になりました。続々と入場

IMG_4472公演開始

公演開始
「待ってました」と声のかかるところ
アクロバティックな演技が続く
本物の生きたラクダです
「美しい」の言葉以外ない
フィナーレ