中国・河西回廊~天水~

スケジュールの変更
 2005年に新疆ウィグル地区に広がる『シルクロード・天山北路』、すなわち、大きく括ると『ウルムチ』→『トルファン』→『クチャ』→『カシュガル』を旅し、その後、2015年に『河西回廊』と呼ばれるエリア、すなわち、『西安』→『蘭州』→『武威』→『張掖』→『酒泉』→『嘉峪関』→『敦煌』の旅の印象をまとめて、『河西回廊旅日記』を上梓した。『シルクロード』と称される地域をサーフェィス(鉄道・バス)で旅した印象は、「また訪れたい」であった。魅力の理由は、歴史、観光資源、そして人々である。
 日本出国前の大まかな旅行計画では、この後、『敦煌』から『西安』に飛び、『西安』でトランジットで『九黄空港』に飛び、『黄龍』に移動して『黄龍観光』→『九寨溝』に移動して『九寨溝観光』→『成都』に移動→『約10日間、成都およびその周辺を観光』→『帰国』の予定であったが、途中でお会いした皆さんのアドバイスやご助力により、スケジュールの一部を変更した。具体的には、『敦煌から西安に飛び、トランジットで九黄空港に飛ぶ』のを、『敦煌から天水に列車で移動し、天水および周辺を観光した後、西安に列車で移動して、西安を再度観光』→『西安』から『九黄空港』に飛び→『黄龍観光&九寨溝観光』→『成都に移動して成都および周辺観光』→『帰国』に変更した。要するに、旅行日程に『天水』を加えたのである。

朝早く着きすぎた
 敦煌駅に来るのは、2度目だ。3枚しか残っていない5月30日の敦煌-天水間の乗車券を買うために、背水の陣で来た所である。今日は余裕である。カップラーメン、パン、フルーツ、飲み物、そしてここの駅前でじいちゃん、ばあちゃんが売っているドライフルーツなどの用意はできた。
 敦煌駅 09時30分発(快速寝台列車K592次)→ 走行:1809キロメートル、乗車時間23時間57分、列車座席:二等席、新空調硬臥上段で、料金は377元であった。ところで、自分の簡単な旅行メモを見て、「1日いっぱい乗車、9時半に着く」と勝手に思い込んでいた。約24時間乗車するのは、西安まで行く場合であった。私が行く天水の到着時間は、04時26分であった。
 約17日前に、西安を出発して敦煌まで旅した河西回廊のルートを逆に移動するのが今回の移動である。乗り物好きなので車窓に登場する景色や車内販売の数々も楽しいが、経験した色々な景色、文化、そして一番印象の残る人々との想い出が目くるめくように思い出され、そばにあるグラスも忙しい。
 2015年5月31日、日曜日、朝4時20分頃に車掌に起こされた。天水にほぼ定刻に到着である。まだ、周りは暗く、どこに行くにしても早すぎる時間である。駅構内に用意されている椅子に横たわる人々は警備人に注意されて席を立つか、移動するように指導されている。どうやら、乗車券を持っていなければ利用できないらしい。私も何か言われたが、とっさに「ジャパニーズ」と言ったところ、「横になっても良い」と言われた。「どういう基準なのか、あるいはどこでどう間違ったのか、そんなことはどうでも良い、有難い」と勝手に思うくらい眠かった。ちょっと行儀が悪いかな?
 実は、天水に着いた時に駅前にあるそれ相応のホテルと掛け合い、「5時以降であれば、今日チェックインして、明日以降チェックアウトしても、1日分の宿泊代で良い」と確約を貰ってあったのだ。つまり、今日5時にチェックイン、シャワー、ベッドで仮眠後、すっきりして観光に出かけられるわけだ。今日宿泊、明日1泊分の支払い後、ホテルに荷物を預けて観光し、荷物を受け取って西安に向かうことができる。フロントのお姉さん、私の顔をじっと見て、この決断をしたのだが、まさか、私だけのスペシャル・サービスでは無いだろうな?「寝ぼけるな」。

立派な敦煌駅
全長1000キロメートルを超え、最高峰は6500メートルで、標高4000メートル以上の雪山が連なる祁連山脈(きれんさんみゃく)
早朝、天水駅に到着

天 水
 『天水』とは、高貴にして立派な名前である。ガイドブックなどによると、あくまで伝説であるが、この地の南側に赤い光と同時に雷雨が起こり、大地に入った亀裂に天の河から水が流れ込み湖ができあがった。以来、湖は水位が変わらなかったことから、天の河がこの地に水を注いでいるという『天河注水』の伝説が生まれ、『天水井』と名付けられた。前漢の武帝の元鼎(げんてい)3年(紀元前114年)のことである。その後、武帝は湖畔に城を築き、『天水郡』とした。伝説と笑うなかれ。実際に天水には湧水の泉が多く、味もなかなかのもので、特産物として売られている。女性にはとくににお勧めです。肌に良いそうですよ。但し、長期間の使用が前提です。『フロントのお助けお姉さん』が証明してくれています。

麦積山石窟へ向かう
 朝8時頃に起きてシャワー、朝食、留守宅の娘に「元気だよー」のメール。携帯電話は持ったことはないが、旅行の時だけ孫のタブレット(この言葉が出てくるまで5分間もかかった)を借りてきているので、Wi-Fiを通して家族と状況を伝えあうようにしている。皆元気なようで、安心だ。
 さて、ここに宿泊するに至った『フロントのお助けお姉さん』、流暢な英語で「おはようございます。今日は『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』ですね。そこの駅前から34路のバスで料金は5元です。普通は『麦積山』まで50分くらいで着きますが、今日は日曜日ですので、もう少しかかるかもしれません」。完璧である。そして、ボトルに入った水を「for you」と言って私にくれた with smile。おいしかった。天水の水はおいしい。伝説ではない。私も「ありがとうございます」with 笑顔。
 気持ち良く、天水の東南45㎞の山中にある麦積山石窟へ向かう。麦積山石窟は、渋滞も混雑もなく、1時間弱で到着した。この入口から石窟まで3キロメートルほどであるが、電気自動車による移動も可能である。若い人達は歩いて向かっていた。

麦積山石窟の説明
麦積山入口
麦積山石窟までの電気自動車車内

麦積山石窟
 麦積山石窟は、歴史的には五胡十六国の一つである後秦の時代(西暦384~417年)に創建された。岩壁や断崖をくり抜いて仏像を安置するための場所、つまり石窟は194が現存するが(東崖54窟、西崖140窟)、7000体を超える塑像や石刻像、1300平方メートルにおよぶ壁画も残存している。内部の仏像はそのほとんどが塑像であるが、その理由は岩石の石質が礫岩層で比較的脆く、彫刻には適さないためだと言われている。また、石窟の多くは唐代以前に開かれたものである。
 さて、『麦積山石窟』は、『莫高窟』、『雲崗石窟』、『龍門石窟』に次ぐ中国四大石窟の一つで、2014年には『シルクロード:長安―天山(てんざん)回廊の交易路網』の構成資産として、世界文化遺産に登録されている。料金表を見ると入場料は70元であるが、60歳以上は身分証を見せると半額である。
 私が入場する時に英語で聞いたのであるが、入口のおじさんは言葉が分からず、私の後ろにいたイギリス人が日本語で教えてくれた。『麦積山』とは、農家が刈り取った麦の穂を乾燥するために積み上げた形が、この山に似ていたことから命名されたそうだ。 イギリス人 に「シェイシェイ」。

石窟の入口から石窟を写す
現存する194の石窟に7000体を超える塑像や石刻蔵、壁画が残されている 。中央に見える階段を歩いて見学する
麦積山の巨大な三尊像のレリーフのうちの2つ
石窟までの参道風景
石窟までの参道風景
ポーズをとるラクダ

伏羲廟
 中国では、伏義(ふくぎ、ふっき)、女媧(じょか)、神農(しんのう)を三皇と称して、最初の皇帝であり、民族の祖先として祀られている。その筆頭が伏義であり、天水に生まれたとされている。伏羲を祀る伏羲廟は1490年(明の弘治3年)に創建され、1524年(明の嘉靖3年)に修復された廟である。どの国においても、古い時代には『占い師』や『預言者』が国家の将来を占い、あるいは直接、指導者となる例は、枚挙に暇がない。この伏羲も『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていたと言われている。「当たるも八卦、当たらぬも…」の八卦である。
 私事であるが、小学校に入学する頃の年齢だったと記憶しているが、私が育った家から一里(約4キロメートル)ほど離れた場所に『八掛さん』と言われるご老人一族が住んでいらっしゃった。『八掛さん』と書いたが、『はっきょけ』と言っていたような気がする。一種の方言みたいものである。「しゃっぽをかぶれ」と祖母に言われた「しゃっぽ」が、フランス語シャポー(chapeau帽子)の鈍ったのと同じようなものだ。意識的に、「一里」と表現したが、私にとってはとても郷愁を覚える寒村である。私の祖母が月に一度このご老人を訪ねて、色々なことを占ってもらっていた。年なので、まさかの時のために、私が一緒についていくのである。「9のつく日は、…」など、驚くほどよく当たって、今でも、不思議に思うことがある。長じて、そのご老人が住んでいらっしゃった近くに、「温泉が出る」と彼が占い、本当に温泉が出たことを知った。今は、経営上の理由であろうか、すぐ近くに新しい温泉ができて、古いそれは無くなってしまったが、帰郷し、旧『M温泉』の近くを通る度に思い出すことがある。「占いによって発見された」旨が書かれた書が、額に入れて飾られていたのである。これ、本当の話である。

中国の三皇のひとり伏義を祭る祠廟の入口
顔を入れて中を覗く人もいる
柏の古木
伏義廟の中にある天水市博物館
博物館の展示物
陶製の「舞う馬」(唐)

南郭寺
 南廓寺(なんかくじ) は、1000年を超える古刹で、その美しさは唐の詩人である杜甫が天水(秦州)に滞在した折に「山頭南郭寺、水号北流泉…」と詩を詠んでいることでも有名であり、境内には杜甫を祀った詩史堂が建っている。文献によると、759年(唐の乾元2年)、陝西(せんせい)一帯で大飢饉が発生したため、杜甫は7月に官を辞して、家族全員で定住地を捜して秦州に寓居した。この時、杜甫48歳。しかし、安住の地とはならず、12月には成都に逃れたと言われている。自身の不遇と乱世を悲しみ、秦州雑詩二十首を作詩した。その一首で南廓寺を題材にした詩を掲げる。

  山頭南郭寺,水號北流泉。老樹空庭得,清渠一邑傳。
  秋花危石底,晩景臥鐘邊。俯仰悲身世,溪風為颯然。
 (山頭の南郭寺 水は北流泉と号す 老樹 空庭に得 清渠 一邑に伝う
  秋花 危石の底 晩景 臥鐘の辺 俛仰して身世を悲しめば 溪風も為
  に颯然たり)

 南廓寺の変遷をもう少し続けたい。宋の時代には『妙勝院』とも称し、清代には乾隆帝(1711~1799年)より『護国禅林院』の名を下賜される。現存する建築物は、順治帝(1638~1661年)、乾隆帝(1711~1799年)、光緒帝(1871~1908年)年間の建物である。

杜甫ゆかりの古刹・南郭寺。唐代中期の詩人杜甫の詩に詠まれたことで有名
境内側からパチリ
美しい天井( 南郭寺