天水から西安へ
天水で『麦積山石窟』などを見学し、ここ西安に移動した。5月13日に西安に入って、6月1日に戻ってきたということは、15日間ほど、いわゆる『河西回廊』を巡ってきたわけである。仕事ではないのだから、前回、回りきれなかった所を回るという手法は取らない。行きたい所に向かうのである。今日と明日、西安をぶらぶらし、明日の夕方に『西安威陽国際空港』近くの、いわゆるトランジットホテルみたい所に宿泊、明後日朝早くシャトルバスで空港に送ってもらって、『四川九寨黄龍空港(しせんきゅうさいこうりゅうくうこう)』に飛ぶ。
いずれにしても、今回の『中国・河西回廊の旅』は、「西安から始まって西安で終わる」シリーズなので、『黄龍』、『九寨溝』そして『成都』へと続く旅は、別稿としたい。お許し下さい。
玄宗と楊貴妃・再び
「何々を見たい」という希望から、「何々を見なきゃ」というある種の強迫観念にとらわれて旅をしている若者に出会うことがある。昔の若かりし頃の私もそうであったかもしれない。ところが、この年になると、そのバイタリティはもう無く、淡々と歩むようになる。「年だな、お前」と言われるかも知れないが、「脅迫の旅から解放される旅は、一人旅の中でも王道中の王道である」と思うようになる。ただ共通するのは、双方とも以前に訪れた所を再訪すると、「懐かしい」と思う心である。人と会ってお互いに懐かしむのも同じ心境であろう。
西安駅は、初めて西安に来た時に最初に訪ねた場所であり、観光客を誘うおばさん、人々の雑踏、飛び交う色々な言語、…、「懐かしい」。引き込まれるように駅に入り、広い構内をうろうろ。駅をくぐった北側には、『大明宮国家遺址公園』がある。とてつもなく広い公園である。「こんな所を歩くのは大変だ」とばかりに、行先も確認せずにバスに飛び乗った。バスが一度角を曲がっただけで、方向音痴の私は、もう方向が分からなくなっている。20分くらい経っただろうか、水をたたえた緑の豊かな公園が見える。「よし、降りてみよう」。
なんと幸運なことだろう。唐代三大宮殿のひとつである興慶宮(こうけいきゅう)の跡地に、造られた約50万平方メートルの『興慶宮公園』だったのだ。現在は、市民の憩いの場となっているが、元々は唐の長安城の隆慶坊の一部で、玄宗皇帝が皇太子の時に住んでいた所だという。「玄宗皇帝と言えば、そう、楊貴妃です」。覚えていらっしゃいますか?私は、5月16日に玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』を訪ねています。その二人が遊んだ『沈香亭』がここに再建されているのである。沈香という香木で作り、周りには楊貴妃が様々な牡丹、芍薬を植え、愛でたという。
玄宗と楊貴妃は、詩人の李白を参内させて、満開の牡丹を詩に詠ませたこともある。その一首をご紹介したい。
「名花傾国両相歓 長得君王帯笑看
解釋春風無限恨 沈香亭北倚欄干」
(名花傾国両つながら相歓ぶ 常に君王の笑いを見るを得たり
春風無限の憎みを解釈し 沈香亭の北欄干に倚る)
「名花と傾国(美女)を…」、下手な解釈、コメントは止めた方が良い。
もう一つ、詩(歌)を。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」
教科書にも載っている『阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)』の詩である。御存知のように、716年に遣唐使に選ばれた仲麻呂(696~770年)は、翌年に唐に渡る。科挙にも合格し、玄宗皇帝に可愛がられて政府の要職を歴任する。帰国しようとしたが、台風のために南海に漂流、再び長安(西安)に戻る。そして、結局、仲麻呂は中国で53年間暮らし、逝去した。
公園には、1979年に入唐1200年を記念して建てられた阿倍仲麻呂の記念碑が建っているのである。その脇に上に掲げた歌が刻まれているのである。ところがである。1時間も駆け巡っても、公園の東南にあると教えられた阿倍仲麻呂記念碑は見つけることができなかった。いつものことである。
西安駅・再び
今日、最初に訪れた西安駅に戻る。手軽な格好で街をふらついているせいか、荷物を持っている人々を見ると、なんとなく「あの人は旅行客だな」と分かる。駅をくぐった北側にある広大な『大明宮国家遺址公園』に再度、向かう。
唐代の大明宮は、太宗の李世民が634年(太宗貞観8年)に父親の夏の宮殿を建てたのが初めで、永安宮と名付け、翌年、大明宮と改名した。唐代歴代の皇帝21人中17人がここに住み、国務処理を行った。
さて、移動である。簡単な市内地図を見ながら「この近くのバス停から飛び乗ってたどり着いたのが南東方向にある『興慶宮公園』だったのだから、…、反対方向に向かうバスに乗って行けば北西に位置する『広仁寺(こうじんじ)』に行ける」と、ぶつぶつ言いながら考えているうちにバスが来た。西安城壁の外の『環状北路』を西に向かい、『環状西路』で左折して南に向かった所で降りればOKだ。その通りだったのだが、南に向かった所の『広仁寺』をちょっと乗り越して『玉祥門』で降車した。どっちみち訪ねる予定の所なので「まぁ、いいか」。私でも来れたのですから、皆さんは大丈夫です。細かくは、「西安城壁の西側の北馬道巷にある玉祥門」です。ここから北へ向かえば『広仁寺』、南に向かえば『安定門(西門)』があります。とりあえず、玉祥門をパチリ。
広仁寺
西安城壁(西安城檣)の西北の隅に『西安城檣』と書かれた小さな建物を見つけた。心配ない、間違いなく、広仁寺、俗称、喇嘛寺(らまでら)に向かっている。数分歩くと、チベット仏教の象徴でもある空に舞う五色のタルチョ(祈祷旗)が見えてきた。黄・緑・赤・白・青の五色で、物質の5元素を表している。その意味は、黄(地)・緑(水)・赤(火)・白(風)・青(空)である。チベット仏教独特の祈りの旗で、経文が書かれており、タルチョ(祈祷旗)が一回風になびけば一回読経したことになると、お坊さんに教えられた。
清の康熙44年(1705年)に、皇帝であった康熙帝によって建てられ、300年以上の歴史を持つ。寺院内には、装飾が美しい白い仏塔、福を祈る郵便局、仏像等々、見応え十分である。
西安最終日
「実質、西安最終日になる今日は何をすべきか」などという考えは微塵も浮かばない。明日の朝出発のフライト時間が早いので、今日は、ホテルに荷物を預ける→足の向くまま気の向くまま→夕方、荷物を受け取って空港へ→フライトの状況を確認→予約してあるホテルのシャトルバスでホテルへ→?
朝10時過ぎに近くの散歩から始まる。『西安革命公園』とあった。『八路軍西安事務所記念館』が近くにあることは知っていたが、『西安革命公園』なるものは知らなかった。人の集まる所、食の提供あり。ここに、私の大好きな、勝手に名付けた『中国風ビュッフェ?』があったのだ。最初に西安に来て訪れた『陝西歴史博物館』の目の前にあった屋台式弁当屋さんを思い出した。以前のブログで書いたので、さぼって再掲する。
「10種類を超える具材から好きなものを選んでトレイにとり、簡単な椅子に座って食べる方法である。無理にこじつけると、メインテーブルや棚に並べられた料理を各自が好きなように取り分けて食べる『ビュッフェ(フランス語でbuffet)』に似ているところがある。ビュッフェが立食形式なのに対して、簡単ではあるが椅子がついているので、より進化しているとも言える」。
幸いなことに、今日は珍しく朝食を食べていない。『神のお告げ』である。私の言う「神のお告げ」とは、このブログ『方向音痴の旅日記』で何度か使っているが、例えば、『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』を見ていただけると幸いです。「そんなの面倒だ」と言われそうなので、ここでも再掲しますね。
「神のお告げ;車のエンジンがかからない。「うっ、あれ?」。ポケットに手をやる。ポケットにキィが入っていなかったのだ。家に戻ってキィをとってきて、「改めてエンジンをかける」、にはならない。私の場合は、『神のお告げ』になるのである。例を挙げて説明しましょう。何かを忘れる→忘れ物を取りに行く→最初の忘れ物ではない財布がそこにある→なのである。神様は、「家に戻るにはそれなりの他の理由がある」と教えてくれたのである。人生の生き方の参考にしてください。余計なことですが」。
『西安・再び』が『ブログ・再掲』になってしまった。腹もふくれたし、公園を散歩しよう。大学入試にも出てくる『張学良(ちょうがくりょう』とともに西安事件を主導した『楊虎城』(よう こじょう)の像もある。 数百メートルも歩いただろうか、西安人民体育場が見えてくる。多目的スタジアムである。
西五路を西へ1キロメートルほど歩くと、北大街にぶつかる。目的は、この交差点にある地下鉄2号線の『北大街駅』である。何故か、地下鉄に乗りたくなったのだ。何故か分からない。ここから南へ一駅で『鐘楼駅』である。
鐘楼・再び
『北大街駅』から地下鉄2号線で一駅、『鐘楼駅』である。「何故、地下鉄か?」。答は地下鉄2号線『鐘楼駅』であった。私は、『鐘楼』と近くにある『鼓楼』の外観を見ただけで、中に入っていなかったのだ。「中に歴史と文化の宝がある。見逃すな」と呼んでいたのだった。そして、もっと驚いたことがある。実は、すっかり忘れていたが、前回ここへは、地下鉄で移動していたのである。まさに、「神のお告げ」だ。
前回はこう書いたのだった。「鐘楼と鼓楼 小雁塔近くの地下鉄駅『南稍門』乗車→『永寧門』駅→『鐘楼』駅降車、まさに暴力的にあっさりと市内の交通の中心部に建つ『鐘楼』が目の前である」と。
大先輩から、こう言われそうだ。「記憶力の低下とはそんなもんじゃない。前に書いたと思い出すうちは、まだまだ、序の口だ」と。
さて、鐘楼である。高さ36メートル、楼閣は『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建てである。継ぎ目のない一本柱様式の木造建築である。1384年(明の洪武17年)創建、1582年(明の万歴10年)にここに移された。東大街、西大街、南大街、北大街、つまり東西南北の大通りが交差する場所に建つ鐘楼から撮った写真を掲載するのでお楽しみください。
鼓楼・再び
鼓楼が建てられたのは鐘楼の創建よりも4年早い1380年(明の洪武13年)である。大太鼓が吊るされていて、かつては太鼓をたたいて時刻を知らせていたという。楼閣の周囲は鐘鼓楼広場になっていて、市民の憩いの場となっている。
鼓楼内の展示物で私がとくに興味を持ったのは、各種の『鼓』の展示である。夜警の太鼓、石鼓八角鼓、青銅鼓、石鼓、陶鼓、等々である。周りにいた人も言っていたが、「叩いてみたい」。音響関連の測定器を持ち込んで、周波数分析をしてみたい。新しい音楽が生まれるかもしれない。
『清朝の家具の展示』も人気を集めていた。高級感があり、気品がある家具を久々に見ることができた。『特製の置物』もユーモアがあって、大声で笑ってしまった。「周りの皆さん、ごめんなさい」。『獅子の置物』、『鼠の置物』をお見せしますので、これまたお楽しみください。
最後に、鼓楼から撮った美しい景色を追加しました。
回坊風情街
鼓楼からの景色に満足して、近くの回族の食堂が集まる回坊風情街や骨董品は並ぶ化覚巷をぶらぶらする。とくに回族の回民街の中心である北院門の近くは縁日のように人であふれかえっている。近くにある清真大寺の名前から分かるように、回教(イスラム教)の寺院は『清真寺』の名前が付けられている。そして、イスラム教徒が経営しているレストランの前には、”清真”と書いてあることが多いのだが、これはイスラム教の教えに則って処理した料理のことを意味する。色々なバリエーションがあるが、共通点としては、豚肉や一部の魚を使わない、酒で味の下ごしらえをしないなど、ハラールが遵守されている料理を指す。御存知のように、イスラムの教えで『ハラール(ハラル)』とは、『許されている』という意味ですあり、他方、『ハラム』とは『禁じられている』という意味である。イスラム教徒ではない私には、その具体的な違いが正確には分からないのであるが、ここまでシルクロードと称される地域を旅行してきた私には、やはり新疆ウイグル自治区のウイグル料理が最も印象に残っている。「口に合う」のである。
人気のエリアである鼓楼から近い通りは、地元民の生活必需品や食料品を売るイスラム人街というよりも、観光客向けのB級グルメ屋台街の雰囲気が漂う。よく分からなかったのは、北院門の前で記念撮影していたイスラム教徒の女性達である。うろ覚えで軽々に論じられないが、『偶像禁止』の社会で、写真は良いのであろうか?テヘラン在住のイラン人の友人は、「絶対に女性にカメラを向けるな」と教えてくれたが、彼女らが自分達で撮り合う場合は問題が無いのであろうか?もちろん、イスラム教と言っても、国や宗派で異なることにも留意する必要がある。
テヘランの友人を登場させたので、彼が教えてくれたイスラム教徒の『五行』と呼ばれる信仰行為について列記する。
1.信仰告白(シャハーダ)アッラーを唯一の神として信仰すること
2.礼拝(サラート)一日5回お祈りをすること
3.喜捨(ザカート)貧しい者に施しをすること
4.断食(サウム)ラマダン月の日中の飲食をしないこと
5.巡礼(ハッジ)聖地メッカに巡礼をすること
清真西寺・再び
イスラム教の話になったので急に思い出したのではない。「もし、時間の都合がついたら再度訪れたい」と決めていた『清真西寺』にいる。さっきまでいた化覚巷にある西安最大のイスラム寺院『清真大寺』ではなく、『清真西寺』である。覚えていらっしゃいますか?このブログの『中国・河西回廊~西安~』で記した、西安の市内観光初日のすったもんだ『清真大寺後日談』に登場した『清真西寺』である。パンを貰った『清真西寺』である。何故か、忍び足で入って行ったので、「怪しい奴」と思われたかもしれない。「あった!」。普通は「いた!」と言いますよね、人の場合は。あったのです。私が貰ったパンが入っていた『かご』があったのです。私にパンをくれたおじさんはいなかったのですが、いきさつを話して、皆さんと笑顔で握手を交わしました。ちょっと、…、ぐっと来て、西安最後の日にふさわしい、温かく、優しく、和やかな時間をおくれました。「本当に、本当に、ありがとうございました」。帰り際に、「ちょっと待て、忘れものだ」。みんなで大笑い。パン二つが私のバッグに入った。「Thank you very much, again」。