中国・四川省 成都郊外(1)~青城山・都江堰~

青城山と都江堰
 昨日は、九寨溝発朝7時半のバスで約9時間半。さすがに疲れた。移動だけで終わった1日であった。成都には、郊外の観光も含めて、というか郊外観光が多いのであるが、約1週間の滞在予定である。例によって、いつも通り郊外観光からスタートの日程を組み、今日は『青城山(せいじょうざん)』と『都江堰(とこうえん)』に出かける。両者に共通するイメージは、一言でいうと「自然」で括られる感じがするのであるが、世界遺産の中でも文化遺産として認定されている。都江堰は古代水利施設であり、分野は異なるが土木工学の研究に従事してきた私には、特に興味を引かれる場所でもある。

青城山へ
 成都の成都旅游バスセンターを朝9時に出発すると、約1時間で終点の『青城山前山』に到着する。距離65キロメートルでバス料金は15元であった。青城山は標高1600メートル、周囲120キロメートルの広大な山で、先程到着した前山と后山に分けられる。とにかく峰が多く、「青城、天下に幽たり」と称えられるように独特の景観を見せている。また、山麓から山頂まで約5キロメートルである。『青城山』の名前の由来であるが、山全体が緑の木々に覆われていて、まるで青い城のように見えるのでこの名前がついたと言われている。

理屈っぽいですが、カンフー映画を楽しむのに役立ちます
 この自然豊かな青城山が世界遺産の中でも文化遺産として認定されている理由は、『道教』にある。『道教』は、『儒教』、『仏教』と並ぶ、中国三大宗教のひとつで、元々は老子や荘子の思想である『老荘思想』を源流とし、古代中国における『神仙信仰』とともに発展してきた宗教である。『神仙信仰』とは、仙人(不老長寿の人間)の実在を信じ,修行によって自らも仙人になることを願う思想である。そのために、肉体的鍛錬とか、薬(医学)の研究が唐代以後にも続けられ,中国の医学や化学が発達したと言われる。
 『陰陽説』と『五行説』にも登場してもらおう。一方の『陰陽説』である。このブログ『方向音痴の旅日記』で、『新旅行記』-『中国・河西回廊~天水~』-『伏羲廟』の中で、「『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていた…」として登場させた古代中国神話に登場する帝王『伏羲(ふくぎ)』が考え出したものである。「全ての事象は、単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」のように相反する形で存在し、それぞれが消長をくりかえす」という考え方である。例えば、明と暗、天と地、吉と凶、善と悪などである。
 他方、「五行説」は『夏(か)』の創始者『禹(う)』が考え出したもので、万物は「木火土金水」の五つの要素から成り立つとする考え方である。後に斉の陰陽家『鄒衍(すうえん)』によって、陰陽説と五行説が統合されて『陰陽五行説』が完成した。
 深読みは避けなければならないが、今日の日本の茶道は千利休が原型を策定したと言われるが、彼は陰陽師の一門で、陰陽五行の「木火土金水」の要素を取り入れていると言われている。

道教の聖山
 『青城山と道教の話』をするために、道教について猛スピードで勉強してきましたが、ここで本命の『張陵(ちょうりょう)』にご登場願う。中国の後漢時代の後期(2世紀後半)に蜀 (四川省)で『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれる宗教を創始した人物である。この宗教は、祈禱(きとう)による治病を主とし、入門の謝礼に米五斗を奉納したので、『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれるようになった。後に道教の正一教(しよういつきよう)となり、道教の源流とも言われている。張陵が晩年に修行のためにこもったと言われるのが青城山である。幽玄で知られる山中に道教の寺院である『道観』が点在しているという。楽しみだ。難しい話はここまでとし、ここからは写真を並べて話を進めましょう。

中国でよくみられる朝の風景・壁新聞。朝7時半である
成都で宿泊したホテル近くにあったバス停

 成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ着く。終点の『青城山前山』である。先を急ぐわけではないが、青城山を観光後、午後に『都江堰』へ向かう予定で、うまい具合にこの近くから101A路バスで『都江堰』へ行くことができる。大丈夫、確認した。
 季節は6月初旬、野草が観光客を出迎える。清涼な空気を吸い込みながらアスファルトで舗装された参道を歩く。周りは緑いっぱいである。『青城山道教学院』、『西蜀第一山の山門』と続き、『建福宮』が見えてくる。

成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ
参道を歩く
途中で見えた青城山道教学院
『西蜀第一山の山門』

建福宮から月城湖
 『青城山前山』の山門の手前にある『建福宮』は、道教の寺院である『道観』の一つである。唐代(西暦618~907年)に建立されたもので、後に増改築が重ねられ、現在は2つの宮殿しか残っていない。『財神殿』や『老君殿』がカメラを引き付けている。

『青城山前山』の山門の手前にある建福宮
建福宮の財神殿
老君殿
建福宮

 建福宮から北へ歩くと、緑に囲まれた美しい『月城湖』に出る。ここから対岸のロープウエイの乗り場までボートが出ているが、湖岸に沿った遊歩道の方が人気があるみたいだ。

例によって貸衣装屋さん 。客が少ないのか、担当おじさん(おばさん)はいなかった
月城湖
湖岸に沿った遊歩道

上清宮
 月城湖から上る前山リフトは、約10分間の乗車時間で上り35元,下り25元であった。下りた所が『慈雲閣』で,ここから10分ぐらい石段を登ると『上清宮』である。パンフレットによると、「『上清宮』は晋代に創建,唐代に再建され,中華民国の時代に拡張された」とある。

青城山の月城湖から上る前山リフト
リフトを下りた所が慈雲閣で,ここから10分間くらい石段を登ると主殿である『上清宮』に辿り着く
悟真閣
慈雲閣
主殿である上清宮
上清宮
上清宮 のアップ
上清宮老君殿
上清宮三清殿
こういうサービスもある

下山そして都江堰へ移動
 『上清宮』辺りをうろうろして、時計を見ると正午である。ここから徒歩で下山した場合に『建福宮』まで戻るのに約2時間かかるという。リフト以外に選択肢はない。山頂の『老君閣』をあっさり諦めて、リフトで『建福宮』に戻る。『都江堰』に向かう先客も多数いて、101A路バスの中は賑わっていた。こういう場合は、必ずと言っていいほど、リーダーが登場する。「『都江堰』で下車後、7路バスで『离推公園』に向かわなくてはならない。20分だ。『都江堰』から『成都』へ最終バスは19時ジャスト」。「ありがとう」。「この人の後をついて行こうっと」。

ヘリテージ(Heritage)
 1979年、初めての外国である英国滞在中に私が受けたカルチュラル・ショック(cultural shock、culture shock)は数えきれないほどあるが、土木(Civil Engineering)に関する構造物や施設が『ヘリテージ(Heritage)』として大事にされていたことがその一つである。このブログでご紹介した記事を2,3あげると、『旧旅行記』-『フェスティバルのことなど』(1979年10月)-『ユニオン・ジャックか星条旗か?』や『旧旅行記』-『続々・フェスティバルのことなど』(1980年6月)-『技術者冥利』の中で書いた『アイアンブリッジ(Iron bridge)』が筆頭にあげられよう。
 バーミンガム(Birmingham)から車で約40分、英国中西部シュロップシャー州(Shropshire)のIronbridge(地名)にあるSevern川をまたぐIron Bridgeのことである。全長約60メートル、世界初の鋳鉄製のアーチ橋であり、エイブラハム・ダービー(Abraham Darby )がコークス用の石炭を使って始めて鉄鉱石を精錬した場所の名をとって、コールブルックデール橋(Coalbrookdale Bridge)とも呼ばれる。競馬の『ダービー』がその名を由来する『ダービー卿(Earl of Derby)とは、関係のない方である。
 1979年は『Iron bridge』が竣工200年を迎えた年であり、各種の記念行事が開催されていた。驚いたことに、あの著名な英国の『ロイヤル・アカデミー・オブ・アート(Royal Academy of Arts, RA)』で『アイアンブリッジ竣工二百年記念行事』が開催され、社会資本およびそれに携わる技術者の社会的評価がきわめて高いことをあらためて実感した。
 蛇足であるが、1979年は英国の『ダービー(Derby』』第200回開催の年であり、海外から多くの競馬ファンを迎えていた。私も家族と一緒に、エプソム競馬場で行われたダービー200回記念レースに出かけ、記念切手などを買ったことを思い出す。簡単であるが、『旧旅行記』-『続々・より道しちゃった』(2004年1月)-『血統』の中でご紹介してあります。
 蛇足の蛇足ですが、ということは2足目の蛇足ですが、第200回ダービーの優勝馬はトロイ(Troy)で、その遺体は私達が住んでいたバークシャー(Berkshire)に葬られている。

英国 Ironbridge(地名)にあるSevern川をまたぐアイアンブリッジIron Bridge)。1779年の竣工 である(1979年撮影)

都江堰と李冰
 さて、長々と『ヘリテージ』について語り、『アイアンブリッジ』や、競馬のヘリテージ?『エプソム・ダービー」まで話が及んでしまったが、今日の本題である土木のヘリテージ『都江堰(とこうえん)』と呼ばれる水利・灌漑施設と、それを成し遂げた人物についてご紹介したい。ここ中国の成都郊外にある『都江堰』は、人気の観光資源になっているのである。
 『李冰(りひよう)』は、紀元前256年(秦の襄王統治期)の時に蜀(四川省)の太守として,岷江(みんこう)の治水事業の指揮をとった。息子の李二郎(りじろう)も大規模工事を受け継いだが、『都江堰)』と呼ばれる水利・灌漑施設が完成するのは数世紀後である。
 書籍を参考にして簡単にまとめる。構造的には、都江堰は『魚嘴(ぎょし)』、『飛沙堤(ひさえん)』および『宝瓶口(ほうへいこう)』の3つの部分に分類される。岷江の川の流れは、人工的に造られた中州によって分けられ、そのまま下流に流れていく外江と、灌漑用水として『宝瓶口』に流れる内江に分けられる。岷江の流れを分ける中州は、竹籠の中に石を入れたものを積み上げて作製され、最上流部は(魚の口のようになっているので)『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる。内江の最下流部の『飛沙堤』は、岷江が基準水量を超えた時にここを通って外江に戻るように調整する機能を持つ。洪水対策である。氾濫の絶えない岷江の洪水を防ぎ、豊富な水を耕作地に引き入れた古代の大事業によって、『蜀(四川省)』は『天賦の国』と呼ばれてきたのである。
 簡単に述べたが、合理的、かつスマートな発想を支える素材の利用方法にも感服する。地元でとれる竹で籠を造り、 中に石を入れて使用したもので、安価かつ工程が簡単で高能率な工法である。また、写真で示した木の組み合わせで造ったテトラポッドの発明など、まさに文化的である。
 このような李親子の業績に対してその徳を称えるために、都江堰の東岸に南北朝時代に『二王廟』が建てられた。

世界遺産・都江堰
離堆大門の横の川に架かる南橋。お寺の門構えのように見えるが橋である。すぐそばに都江堰への入り口がある
伏龍観
伏龍観にある李冰(りひよう)の石像
伏龍観に展示してあった明代に作られた飛龍鉄鼎。 清代の1831年に青城山の頂上で発掘された
中州がある内江の最下流部である『飛沙堤(ひさえん)』は、岷江が基準水量を超えた時に外江に戻るように調整する。洪水対策である
都江堰の立体図
最上流部は『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる
都江堰の平面図
吊り橋の安瀾橋(あんらんきょう)。かなり揺れる
安瀾橋のアップ
分江亭
古代のテトラポッド。下部は石を入れた竹籠
都江堰の東岸にある『二王廟』の入口
『二王廟』は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられた