クロアチアのドゥブロヴニク

クロアチアのドゥブロヴニク
 サラエヴォ発7時15分のバスで出発、11時半頃パスポートチェック、13時15分頃にクロアチアのドゥブロヴニクの長距離バスターミナルに着いた。6時間の乗車時間で2000円(47マルク)の乗車料金、1.5€の荷物料金であった。すぐ近くに路線バスのバス停があり、1A, 1B, 3番のバスで 10分ほどで旧市街のピレ門に行くことができる。乗車券は車内で買って30クーナであった。
 私の観光地の攻略方法は、遠くから攻めるというか、例えば、ある著名な街とその近郊都市があったとすると、まず、近郊都市というか外堀を攻めて、その後に街あるいは街の中心部を攻めるのである。これは攻略方法という戦略的なものではなく、一種の癖みたいなものである。ということで、元々坂の多いドゥブロヴニクではあるが旧市街ではなく、旧市街から城門の外に出て一気にスルジ山に登ることにした。ガイドブックによると、ロープウェイがあって登ることができ、ドゥブロヴニク随一の絶景ポイント、ビューポイントであると解説してある。旧市街の西側のピレ門近くにいたのだが、東側の『プロチェ門』から出るとロープウェイへの近道だということで東側に移動したのだが、「スルジ山のロープウェイは止まっていますよ」の日本語。「えっ、ここまで来たのに」。怒っても仕方が無いので、「あーあ」とため息で自分をなだめる。ところで、なぜ日本語?簡単な話で、クロアチアは日本人観光客が多く、とくにドゥブロヴニクはとても人気があるそうだ。
 実は、私が「heritage」なる英単語を知ったのも、そして「世界遺産」なるものがあることを知ったのも1979年英国にいた時だ。ドゥブロヴニクの旧市街が世界遺産に登録された年なのである。イランのいわゆる『ホメイニ革命』が起きた年で、イランから英国に来た日本人にイランのイスファハーンにある『イマーム広場』が世界遺産に選ばれたということを聞いた覚えがある。日常性を離れたというか、私にとっては特別な年なので記憶に残っているみたいだ。あれから40年、『アドリア海の真珠』は紆余曲折はあったが、世界中から観光客をひきつけ、今も働き続けている。


アドリア海の真珠
 スルジ山のロープウェイが稼働していないことで計画が大きく崩れてしまった。でも、予めとっておいた予備の時間はまだ数日間ある。ここは、気の向くまま、手に入れた大きな観光地図を両手に?、ブラブラしよう。旧市街を囲む城壁はゆっくり歩いて1時間半だそうだが、私の場合は、寄り道、道草、方向音痴を考えて3時間は見なくちゃ駄目だ。城壁は、全長1940メートル、高さは高い所で25 メートル 、 所々に要塞、見張り塔、稜堡が造られている。遊歩道の入口はピレ門の横、聖イヴァン要塞および聖ルカ要塞にあり、それぞれ近くにチケット売り場がある。もう1つ大事なこと。城壁巡りは反時計回りの一方通行である。
 ホテルから旧市街にバスで来た時に、最初に降りたのがピレ門だったので、山に登った後はピレ門からスタートという先入観があったのだろうか、この時点で地図上の自分の位置情報というか座標がずれている。ロープウェイに乗るために東側のプロチェ門(聖ルカ要塞の近く)にいるのだから、そこから城壁の遊歩道に上って反時計回りに歩けば、最初に絶景スポットとして皆さんがカメラのシャッターを切るミンチェタ要塞、そこを直角に回って進めばピレ門に行けるのである。時間ロスの始まりであった。
 でも、人生に無駄はない。失敗は成功のもと。苦労した結果、後で分かったことだが、西の『ピレ門』と東の聖ルカ要塞近くの『ルジャ広場』を結ぶブラツァ通りは、ドゥブロヴニク旧市街の目抜き通りであったのだ。この約300 メートル の大通りに沿ってレストラン、カフェ、お土産屋などが集中的に建ち並び、観光客も多いので、人々の観察や店の覗きなど、ブラブラには最高の通りでした。
 城壁巡りをしながら目に入る旧市街の建造物、オレンジ色で統一された屋根、アドリア海の美しさを楽しみ、一周した後に城壁を降りて旧市街の由緒ある施設などを巡ることにした。その説明や感想の順番は、目に入った順番とは異なることを、つまり、順不同になることをお許しください。口を滑らすと、ここで出会う人々は地元のクロアチア人よりも色々な国から来る外国人が圧倒的に多いので、その表情を伝えることが結構難しいし、この美しい街や海の風景は、私の下手な説明はむしろ余計なのではないかと思うのですが、…。
 続けます。ピレ門から城壁に上ると、ブラツァ通りの突き当たりにフランシスコ会修道院が見える。欧州で3番目に古い薬局が併設され、回廊が美しいと案内書に書いてあったが、迷ってしまって薬局には行けなかった。
 修道院の前に人気のオノフリオの大噴水が見える。イタリアの建築家のオノフリオ・ジョルダーノ・デラ・カヴァによって1340 年代に建設されたもので、噴水と言われているが天然水が湧き出る水の供給場である。いずれにしても、12キロ メートル 離れたスルジ山の源泉から市内のこの噴水まで水を供給する、水道建設のプロジェクトの成功は大変なものである。「源水はおいしい」などと言って飲んでいらっしゃる方が多いですが、現在供給されているこれって水道水だったはずだが、違ったかな。いずれにしても硬水だと思うので、慣れない方は用心したほうがいいですよ。
 

ミンチェタ要塞
フランシスコ会修道院の内部
ピレ門をくぐるとすぐ目に入ってくる「オノフリオの大噴水」。源泉は、12キロメートルほど離れたスルジ山にある
ピレ門から城壁に入った所のプラツァ通りに面して聖救世主教会がある

用心して
 城壁の西側のボカール要塞で左に曲がって右側(南側)に広がる美しい海を眺めながらゆっくりと歩く。ここで気が付いた。一方通行ということは、私が追い抜かれるか、追い抜くかしかなく、常に他の歩行者の背中を見て歩く、つまり人の顔を見ないで歩いているということだ。旅行者がすれ違う時は「ハロー」とか「こんにちは」とか「チャオ」とか、笑顔で挨拶に慣れていたせいか、とても違和感を感じた。たまに靴紐を結び直している人に出会うとホッとして「こんにちは」と出てしまった。
 美しいものを観た時は、それを独占したいと思いますか、共有したいと思いますか、それもその場で共有だけではなく、自分を待っていてくれる人と共有したいと思いますか、あなたはどちらですか?旅は、旅というものは、気障な言い方ですが、「愛情というお土産を心に…」。ちょっとほほを濡らして、静かに、止めます。赤面です。
 胸に手を当てながら、何故か、本当に何故か、ヨハン・セバスチャン・バッハ(J.S.Bach)のBWV 147カンタータ『心と口と行いと命もて』の中のコラール『主よ、人の望みの喜びよ』の一節を口ずさんでいたのです。因みに、私はキリスト教信者ではありません。ただ、熱烈なバッハ信者ですが。「こんなところでカンタータ?お前大丈夫か?それとも…」。いや、気障で言っているのではありません。でも、とりようによってはキザ…。またしても、赤面です。

神のお告げ
 車のエンジンがかからない。「うっ、あれ?」。ポケットに手をやる。ポケットにキィが入っていなかったのだ。家に戻ってキィをとってきて、「改めてエンジンをかける」にはならない。私の場合は、『神のお告げ』になるのである。分かりにくいと思うので、例を挙げて説明しましょう。何かを忘れる→忘れ物を取りに行く→最初の忘れ物ではない財布がそこにある→なのである。神様は、「家に戻るにはそれなりの他の理由がある」と教えてくれたのである。人生の生き方の参考にしてください。余計なことですが。
 バッハのBWV 147が口に出たことに対する『お告げ』は分からないままですが、代わって皆様、お告げをお願いします。私は、旅を続けます。
 右側に続く海を眺めながら、ふと左に目をやると、バロック様式の聖イグナチオ教会が見える。ローマの聖イグナチオ教会を模して1699~1725年に建設されたそうだ。圧巻は内部の豪華な大理石造りの祭壇である。その奥の画家ガエタノ・ガルシアによって描かれた聖イグナシオ達の人生の一幕を描いた大作とともに圧倒される。
 少し元気が出たので、一気に東の海洋博物館まで歩く。ここで、大失敗。間違って、遊歩道入口から出てしまったのだ。戻ると再入場になってしまって、チケットを新たに買わなければならないのである。「駄目なものは駄目』。楽しい旅だ、守衛と争う気はない。城壁からの景色は見飽きたし、旧市街を歩いて楽しめという『神のお告げ』だ。
 そこで、いきなり聖母被昇天大聖堂、通称、ドゥブロヴニク大聖堂である。英国のリチャード王(リチャード一世)が1192年に創建したと言われているが、17世紀にバロック様式で再建された。英国にいた頃、『獅子心王』として知られるリチャード王の話は、パブで仲間から何度も聞かされた。とくに、アラブの歴史上の大英雄で、シリアの稲妻と称され、クルド人であるサラディン大王との戦いは、彼らには血沸き肉躍る話なのだ。在位10年間のうち、英国(イングランド)に滞在することわずか6か月というから、闘いの日々だったのだ。
 話を戻して、この大聖堂では見る機会がなかったが、金銀財宝や守護聖人である『聖ヴラホ』の聖遺物などが保管されているという。そして、私が興奮したのは、大理石で作られた祭壇の奥に、あのティツィアーノ・ヴェチェッリオの『聖母被昇天』が飾られていたことだ。16世紀に描いたものだという。心臓の鼓動が分かるほど、びっくりし、そして興奮した。ティツィアーノの『聖母被昇天』を最初に見たのは、ヴェニス(ヴェネツィア)のサンタ・マリア・グロリオーザ・ディ・フラーリ聖堂である。いつだったろう。私はヴェニスには、最初は妻と1988年に、次は娘達と1993年に、そして3年前の2016年に孫と3度訪れているが、記憶にあるのは3年前には『聖母被昇天』を見ていないことだ。3年前のことなら何とか思い出せるが、それ以前はどうも。忘れっぽくなったと言えば聞こえはよいが、要するに、どんどん老化しているということだ。年をとって大事なことの一つは、「年をとったということを認識することだ」。「それをできないのが年をとったということだ」。堂々巡りだ。「理屈はともかく、ティツィアーノに魅せられたということだ」と簡単に括るあたり、老化した証拠だ。
 先日、いつも通っているトレーニングジムの大先輩にこう言われた。「車の免許証を返納したことを忘れて車を運転してしまった」。笑えない話である。

1725年に建設されたバロック様式の聖イグナチオ教会
聖イグナチオ教会の石造りの祭壇が素晴らしい
聖母被昇天大聖堂
ティツィアーノの聖母被昇天

笑えない話
 2004年の私の年賀状から抜粋して掲載します。15年前の年賀状の文面の一部です。
「…、近くまで行きながら不思議と訪れる機会の無かったアイルランドにやっと行ってきました。「高校時代に『ユリシーズ』の言葉遣いに衝撃を受け、大学生の頃に凝りに凝ったジェームズ・ジョイスやバーナード・ショーが生まれた空間に立ってみたい」と、ずーっと心に秘めてきた国でした。御存知ギネス・ビールやアイリッシュ・ウィスキーに酔い、ダブリン近郊の世界遺産ニューグレンジの神秘さに触れてきました。「情報化時代だ」、「グローバリゼーションだ」と、荒々しい時代が声高に発している『まさに言葉の砂漠化』に渇きを覚えていたのですが、しっとりとした詩心を取り戻しました。アラン諸島のイニシュモア島に渡り、石塁に囲まれた四千年以上も前の遺跡ドン・エンガスの絶壁で目を回しながらもケルトの頑固さと純粋さをしっかりと確認してきました、…」。
 このところ、信じられないような事件が毎日のように起こり、もはや社会現象と言ってもよい惨状がこの国を襲っている。そして、片や、許容度の少ない『窮屈な世間』が大威張りで闊歩している。「餓鬼大将のお前は今だったら大変だな」と、かつての手下に言われる。「そうだな、よく叱られていたな」。寒村ではあったが、今は泉下にある大人たちが立派だったのだ。
「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」。よく知られた言葉である。そして、「来た道 行く道 二人旅 これから通る今日の道 通り直しのできぬ道」と続くそうです。ある宗教の信者が言ったとか言われているが、このシンプルな言葉、噛み締めましょう。

ちょっと複雑
 かつて『ラグーサ共和国』として栄えた歴史を持つドゥブロヴニク。ここに、前出の建築家、オノフリオによって15世紀の初めに建てられた『総督邸』がある。当時、最高権力者の総督の邸宅、元老院、評議会、裁判所など行政を司る色々な機関が置かれた、まさに政治のど真ん中としての役割を果たした場所で、現在は「歴史文化博物館」として使用されている。
 最初は、前出のオノフリオによって15世紀にゴシック様式で建てられ、その後、近くで火薬の爆発があって、ルネッサンス様式で補修されたために様々な時代の建築様式が融合したユニークな建物になった。
 総督邸の北側のルジャ広場に面して美女がたたずんでいる。「ドゥブロヴニクで最も美しい美女のひとつ」と称される、…、「待てっ、美女のひとつはないだろう、美女なら一人だろう」、「えっ?」、…、「あっ、やり直し。ドブロブニクで最も美しい教会のひとつ」と称される『聖ヴラホ教会』。もともと、この場所にはロマネスク様式で14世紀に建てられた古い教会が建っていたが、地震で焼失したため、18世紀前半にヴェニスから招致された建築家によって建て替えられ、1715年に今の教会になったそうだ。街の守護聖人『聖ヴラホ』が祭られている。聖ヴラホは、972年、聖職者の夢に現れてヴェニスの襲撃を知らせて人々を危機から救ったと言われている。
 教会内部は荘厳な雰囲気で、大理石の主祭壇には天子を象った彫刻があり、その天使に支えられる様に聖ヴラホの像が建っている。

かつて『ラグーサ共和国』として栄えたドゥブロヴニクで、建築家のオノフリオによって15世紀の初めに建てられた 総督邸(現在、文化歴史博物館)
ドブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの名を冠した教会。ファサードの頂上には聖ヴラホの像が立っている
聖ヴラホ 教会内部。大理石の主祭壇に2人の天使を象った彫刻があり、支えられるように聖ヴラホの像が建つ

ここにも像が建っていた
 人々の流れに任せてルジャ広場へと向かう。ピレ門とここを結ぶドゥブロヴニク随一のメィンストリートのプラツァ通りは何度も行き来したので、さすがにおなじみになってしまった。用があってきたのではありません、道に迷って来てしまったのです。広場の真ん中には、サラセン人のイベリア半島侵略に対抗して戦った騎士『聖ローラント』の象が建っている。ドゥブロヴニク市の自由と独立の象徴とされている。
 説明書によると、騎士像の右手の肘から手までの長さ51.2センチメートルが当時の商取引に使う長さのユニットになっていて、像の土台部分にもこの長さがメジャーのように刻み込まれている。公正な取引を目指し、公共の広場にある像の肘をあえて長さのユニットに使ったのでしょう。
 ルジャ広場の北側に広場に面して1516年に建てられた『スポンザ宮殿』がある。ゴシックとルネサンスの建築様式が美しく融合した宮殿である。貿易で多大な利益を上げて、自由な都市として発展してきたドゥブロヴニクにおいて、一種の輸出入される物資や財の管理所だったことを考えると、極めて重要な役目を担っていたのであろう。その後17世紀に、税関の役目から学者や知識人の集まるサロンへ、そして現在は、1667年に起きた地震で奇跡的に焼失されないで残った裁判記録や歴史文書などを保管する古文書館としてその機能を果たしている。この書庫は一般公開されていないが、古いものは 1,000 年以上前のものもあるそうだ。
 さて、ドゥブロヴニクの旧市街観光も終わりに近づいている。聖ルカ要塞の側に城壁の遊歩道の入口があるせいか、人々の往来が多くなり、そしてドミニコ会修道院の入口に向かっている。大きな建物である。1228年にここに来たドミニコ会によって15世紀に建てられた修道院であるが、訪れた時は工事中で近づくのを禁じられる部分もあり、肝心の宗教美術館には入場できなかった。関係者もこの暑さの中で懸命に働いているのだ、汗だくで。

ルジャ広場の真ん中に建つ聖ローラントの騎士象
聖ローラントの騎士象
スポンザ宮殿
ドミニコ会修道院
ドミニコ会修道院美術館

汗だく
 6月なのに?毎日気温が高く、拭っても拭っても汗が噴き出る。海に面した美しい街に来ているのに、実は、ドゥブロヴニクは海水浴場が少なく、皆さんは近場の島へフェリーやボートで出かけるのである。一番近いロクルム島へドゥブロヴニクの旧港からフェリーで出かけた。20分もかからない、まさに近場の海水浴場というか避暑地である。ここの出迎えは人間ではなく、野生のクジャクである。サービス精神が旺盛で、お客さんが来ると美しい羽を目いっぱい広げてポーズをとるが、「Welcome」とは言わない。「こんにちは」と言うと、残念、やはり羽を広げるだけである。
 ヌーディスト ( Nudist) or ナチュリスト(Naturist)の場所もあり、それなりの数の人々が泳いだり、日光浴をしていた。

ドゥブロヴニクの旧港からロクルム島へ出発
ロクルムへようこそ
出迎えは野生のクジャク
ポーズをとる野生のクジャク
海水浴を楽しむ観光客
ドゥブロヴニクに戻ってきました