マケドニアのオフリド

ティラナからオフリドへ
 去りがたい『アルバニアのティラナ』から次の訪問地『マケドニアのオフリドへ』へ向かう。このルートのバス移動については、ネット上でも情報が飛び交っている。ティラナからストルーガにバスで移動し、そこからタクシーでオフリドへ向かうという情報が多いが、そして私も、バス会社でそのルートをお願いした。「ストルーガに用事があるのか?」、「ここティラナからオフリドまで直通があるので座ったままで行けるよ」と、教えてくれる。
 今乗車券を見て書いているが、ティラナ発14時00分、18€とある。会社名は『EURO BUS』 で住所はSTRUGA, Tel.046 787 312、Mob.070 940 787である。 2019年6月のことである。親切なティラナの窓口の女性、私との英語の会話に不安を覚えたのか、それと確認のためか、Every dayとメモってくれている。ティラナ発17時00分のバスもある。記憶が定かではないが、14時発のバスで17時頃に国境、18時30分頃にオフリドの町の北東にあるバスターミナルに着いたと思う。時間などについては電話で確認をして下さい。
 バスターミナルから予約しておいたホテルまで歩いて5分ほど、近くにスーパーマーケットなどもある便利な所だ。早速、お助けマンに手伝ってもらってATMを操作してマケドニア通貨デナルDENを引き出す。1DEN=約2円と、掛けるあるいはかけられる数字が一桁なので日本円に換算しやすい。ましてや、2円ならば倍にするだけなので暗算でできる。これが、二けたの場合は掛け算が遅くなるか、不可能になってしまう。「いや、年は…」。
 アルバニアのある意味、素朴で優しい人達を思い浮かべ、そして、これからの旅の安全と楽しいことがあることを祈って、恒例の、そう、今まで書かなかったのですが、恒例の乾杯です。横道にそれます。『こうれい』と打って変換すると『高齢』、『かんぱい』と打つと『完敗』と出る。どうしたんだろう。何か忘れているのかな?そうだ、順調にここまで移動できたので、安心してまだシャワーを浴びていなかった。『神のお告げ』だ。シャワーを浴びて「恒例の」「乾杯」。一人旅のせいもあるのか、これから着替えてホテルのレストランに行くよりも、Tシャツのまま飲るのが私流です。
 文章がくどくなってしまいますが、大事な情報を。マケドニアでは夜7時以降の酒類の販売は禁止になっています。私もあぶなかったです。
 今日はここまで。「お休みなさい」。

アルバニアとマケドニアの国境
これが今日の一本

おはようございます
 昨晩のワィンが効いた。「頭が重いのかな」とお思いでしょうが、逆にすっきりで、『ユネスコ世界遺産』の複合遺産であるオフリドの観光に朝一番に出かけた。一種の習性というか、調子の良い時はホテルから遠い場所から観光を始める。遠い場所というのは、地図上の直線距離である。例えば、ホテルからA地点まで5キロメートル、バスもある。B地点まで1 キロメートル という場合、間違いなくA地点までバスで出かける。近くの場所は、残っていても容易に行けるという戦略的配慮とまでは言わないが、この方法で『方向音痴』をカヴァしているところを考えると、同類の方々にはお勧めですよ。
 その遠い所であるが、今回は空間と同時に時間も遥か遠い古代劇場である。紀元前200年頃に建設され、当時はさらに上階もあったというから相当数の観客を収容できたものと推定される。このアリーナは面白い歴史を持っていて、1980年代に偶然に発見され、その後発掘修復されたそうだ。上からは旧市街を見渡せ、さらに美しいオフリド湖を望むことができることから、写真を撮るには最高のスポットです。
 私は6月に訪れたのだが、この後、夏場に向けてコンサートや各種の催しがあるそうです。お見逃しなく。

古代劇場

見逃されない
 古代劇場から西側に向かって歩くとサミュエル要塞がそびえ立っている。『サミュエル』の名は10世紀から11世紀にかけてこの要塞を築いたブルガリア帝国のサミュエル皇帝の名からとったものである。皇帝はオフリドをブルガリア帝国の首都と定めた人物であり、また、ビザンティンからの独立を守りぬいた人物でもある。
 ここからの眺望は美しいオフリド湖や街の景色を満喫できる場所であり、多くの観光客は要塞や城壁を見るよりも、カメラを構えて湖や町を写している。

城壁には4つの門があったが、現在残っている2つのうちの『上の門(Upper gate)』
旧市街を囲む城壁の一部
サミュエル要塞
サミュエル要塞とオフリドの町

要塞から教会へ
 サミュエル要塞から南へ少しずつ降りていくと、初期キリスト教の遺跡群であるプラオシュニク(plaosnik)がある。その跡地の一部に建つ聖パンテレイモン教会は、どの角度から見ても美しい外観を保っている。10世紀頃に建てられたオフリド最古の教会と言われているらしいが、再建を重ねて古めかしい感じはしない。
 バジリカや洗礼室の床のモザイク画などがフラッシュを浴びていたが、観光客は少なかった。。

聖パンテ レイモン教会の玄関
後方から眺めた聖パンテレイモン教会
プラオシュニク。聖パンテレイモン教会周辺にある初期キリスト教施設の遺跡
床のモザイク

あらためて教会
 聖パンテレイモン教会からオフリド湖岸に向かって下っていくと、岬の先端に13世紀に建てられた小さな教会が見える。14世紀に火災にあったことやオスマン・トルコ時代、その後に続く幾多の歴史をくぐってきた建物は、1968年に現在の姿に修復されたそうである。「アルメニア教会の影響がみられる」との紹介記事もあるが、解説するには私には荷が重すぎるようだ。私も含めて多くの観光客が内部のフレスコ画をあてにして訪れていたが、閉鎖中であった。
 それにしても美しい風景ですね。ピンク色のレンガで建てられたこの教会を引き立たせるのは、何といってもバイカル湖に続いて、世界二番目の澄んだ湖、透明度20メートルを超えるオフリド湖である。重いのが嫌で最近は敬遠しているが、この時ばかりは一眼レフが欲しい。

岬の先端に建つ聖ヨハネカネオ教会。13世紀創建
聖ヨハネカネオ教会から観る岬の先端

また教会
 聖ヨハネカネオ教会の近くに有料のボート乗り場があり、乗船して湖側から湖畔の景色を眺めることができるが、この美しいオフリド湖を眺めながら湖畔沿いに歩かない手はない。木で作った遊歩道があって、自転車で走っている人もいる。どこに向かうのか分からないが、何か教養のありそうなご夫婦が、私には少し速足だが、歩いていたので、その後をついていくことにした。15分も歩いただろうか、立派な建物が見えてきた。後ろに気配を感じたのだろうか、私に向かって笑顔で、「聖ソフィア教会」と教えてくれた。相当な知識人で、久々に緊張感を感じながら、この教会のことを教えていただいた。覚え立てであるが、まとめたい。
 聖ソフィア教会は11世紀初め頃に建てられた教会で、オフリドで一、二を争う大きい建物である。オスマン帝国時代には、約500年にわたって支配され、この教会はイスラム教のモスクとして使用され続けた。「各国各地」で見られるように、異教徒の作品、この場合はビザンティン美術の傑作といわれるフレスコ画は上から塗りつぶされ、長い間眠っていた。キリスト教会に再び戻されたのは、なんと第2次世界大戦後のことである。そして、建物内部に描かれた11世紀から13世紀頃のフレスコ画も復元され、今に至っているとのことです。これを聞いただけで立ち寄ってみたくなるでしょう。天井画も忘れないようにね。
 もう1つ。教わったことで印象的な言葉をご紹介します。「オフリドは、スラブ世界におけるキリスト教文化として栄えた歴史を持ちます。あなたが楽しんでいるこの街並みです」という言葉だ。私が持つ感性とか知識からすると、この街の風景に『スラブ社会』を重ねることは難しく、考え込んでしまう。旅で出会った人たちに聞いてはいけないこと、「あなたはどこの国の人ですか」と思わず聞いてしまいそうだ。「世界は多様で、複雑で、でも優しさにあふれている」を信じて旅を楽しまなくては。続けよう。
 聖ソフィア教会の中庭に行くと、壁に色々な絵が描かれている。触る人がいるのだろう、鉄格子の覆いがかけられているものもある。向かって左側の彫刻に、今日のお助けご夫妻が見入っている。「What’s」。思わず私が「ケンタウロス」と発音すると、「What’s」が何度も発せられる。確かに、英語、フランス語、ギリシャ語、…、と言語だけでなく、微妙に発音が違う「ケンタウロス」である。ざっくり言えば、ドイツ語が近いか?「ギリシア神話の半人半馬の怪物」と説明して、やっと分かってもらえた。確かにケンタウロスに似ているが、真偽のほどは分からない。でも、それ以上は、ご婦人の前では表現しづらいこともある。不正確な英語表現でケンタウロスについて語ると、セクハラになる可能性もある。深読みすぎるかな?とにかく、ひとまず、おしまい。

聖ヨハネカネオ教会付近と聖ソフィア教会方面をつなぐ木製の遊歩道
11世紀初頭に建造された聖ソフィア教会.
教会の中庭
中庭の壁に描かれた絵
中庭の壁に描かれた絵
『ケンタウロス』?

はじまり
 ランチを済ませて、午後の始まりは聖ソフィア教会のすぐ近くにあるという国立博物館である。入口が分かりづらく、相も変わらず、うろうろしていたが、近所のおじさんみたい人が「ミュージアム?」と言って教えてくれた。「多くの人が迷う」そうです。そして、この建物は出窓がはみ出た伝統的建築.『オフリド様式』だと教えてくれた。写真を撮るんだった。
 19世紀の貿易豪商ロベヴィRobevciの屋敷を利用した国立博物館と言われても、この人物について全く知らない私は、「そうですか」としか言えない。ギリシア・ローマ時代の発掘物や衣装などが展示されていた。知識を吹き込まれたせいか、博物館というよりもその成り立ちから分かるように、豪勢な屋敷といった感じであった。

おわり
 オフリド旧市街の散歩の終わりは、聖クリメント教会である。元々は聖母マリアに捧げられた教会であったが、聖クリメントが亡くなった時にその遺骸がこの教会におさめられたため、聖クリメント教会と名前を変えた経緯がある。そのクリメントであるが、解説書によると聖キリルと聖メトディウスの弟子で、886年頃にこの地に布教に訪れ、以来30年にわたってキリスト教文化の普及に身を捧げたという。師匠である聖キリルと聖メトディウス兄弟は、当時文字を持たなかったスラヴ語を表記するために工夫を重ね、後にキリル文字となったグラゴール文字を考案したと書かれてあったが、私にはちんぷんかんである。お許しください。
 さらに追い打ちをかけるように、当日は入場禁止となっていて、必見と言われる内部のフレスコ画をご紹介できなく、重ねてお許しください。

言語の話
 インターネットの普及で、英語を話す人が増えたと言われるが、あなたの周りではどうでしょうか?言語を通じて国民性を表す表現がある。「英語は商売をするための言葉」、「ドイツ語は口論をするための言葉」、「フランス語は愛を語るための言葉」、「スペイン語は神と話をするための言葉」。どうですか、ピンときますか?私が知りたいのは、「日本語は?」と「イタリア語は?」です。

国立博物館。旧ロベヴィの邸宅
旧ロベヴィの邸宅を利用した国立博物館の内部
旧ロベヴィの邸宅を利用した国立博物館の内部
聖クリメント教会

まだ終わらない
 オフリドに滞在した目的の一つは、近郊の町ビトラにあるヘラクレアを訪ねることである。早起きして、気合を入れてバスで1時間45分でビトラのバスターミナルに着く。町の南側に位置した鉄道駅と隣接しており、こじんまりとしたバスターミナルである。まず、町の概要をつかもうとうろうろしていると、お助けマン候補が話しかけてくる。鉄道駅、バスターミナルと言えば、普通の町ではタクシーの呼び込みが一般的であるが、「こんなに早い時間にオフリドから来るからには朝食は未だか」と聞いてくる。こちらも旅人の習性で、「食堂のおやじか?」と返す。「ノー」と言いながら、自分も食べている巨大ソーセージを挟んだナンを袋から出して私にくれる。このあたりのやり取り、人品の定めは直観だ。私は信じた、「良いおやじだ」。うまかった。
 町の概要、大きな通り、アレキサンドロス大王の父であるフィリッポス2世のこと、ヘラクレア遺跡への行き方、など、私が見学を期待し、そしてそのために欲しい情報をすべて教えてくれた。
 特別付録もあった。かつてオスマン陸軍士官学校の建物であった現ビトラ博物館である。なんと『近代トルコ建国の父』と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクがこの軍事学校の卒業生であったことを丁寧に、そして自慢しながら教えてくれたのだ。
 浅学の私がトルコのイスタンブールで至る所に掲げられている写真が『アタテュルク』であることを知ったのは、客引きをしているおじさんたちに教えられたのが初めてで、彼等は親しみを含めて『アタテュルク』と呼んでいた。ここビトラでは、『ムスタファ・アタテュルク』と呼び、ものの本によっては『ムスタファ・ケマル・アタテュルク』と書いてある。その理由が少し解けた。ソーセージおじさんによると、「ケマル」というのは「完全な」という意味だそうで、名前の一部では無いそうだ。いずれにしても、是非、行かなくちゃ。「ありがとう、ジャィアント・ソーセージさん」。

まずはヘラクレア遺跡
 ビトラのバスターミナルから南側へ歩いて15分で、ヘラクレア遺跡にたどり着く。紀元前4世紀にフィリップ2世によって創建され、最盛期には人口2、3万人を誇ったというから相当の規模の都市だったと言えよう。その後古代ローマ帝国、…、ビザンティン帝国と覇者が入れ替わり、現在に至っているが、現在、私たちが目にするのは紀元2〜3世紀」の「古代ローマ帝国時代」の遺構だという。まだ、全体の10%程度しか発掘されていないというから、全体像が明らかになるのはまだまだ先のことでしょう。
 入口に管理棟らしき建物があったが、誰もおらず、相当待った末に中に入ることにした。観光後、管理人がいたので「入場料はいくらですか?」と聞いたのだが、言葉が通じない。カメラを指さして指を2本立てたので2ユーロを支払うと「サンキュー」と言ったので、さらに1ユーロをあげると喜んでいた。
 ローマ遺跡につきものの浴場や劇場が遺跡としては比較的良い状態で残っていた。特にモザイクは美しく見事なものであった。私が訪問した時は6月で全てが公開されていたが、冬季にはモザイク保護のために砂で覆うなどの処置がとられるそうで、非常にラッキーだった。

特別に許可をもらって入場し、駅裏(ホーム側)を写す
ヘラクレア遺跡の入り口にある管理棟?
ローマ浴場跡
教会跡
教会の床のモザイク.
幾何学的な模様 のモザイク
動植物を使ったモチーフが多
古代劇場の下は小さな博物館に
古代劇場
古代劇場

次に旧市街
 ヘラクレア遺跡に超満足して、余韻を味わいながら北に向かう。色々とお世話になったバスターミナルで「後で来るよ」と挨拶して、さらに北へ向かう。旧市街である。先ずはビトラ博物館である。朝、Mr.Giant Sausageにたっぷりとご教示願ったムスタファ・アタテュルクに関する展示、ビトラ及びマケドニアの歴史のコーナー、ヘラクレア遺跡のモザイクなど、こじんまりとしているが、充実して展示であった。
 さらに北へ向かって街の中心が近くなると、人々の行き来が忙しなくなってくる。旧市街の中心にはフィリッポス2世像が建つ。子供達が周りを囲んで遊んでいる。どこの国でも、どこの町でも見かける風景だ。この町は歴史の成り立ちからして、モスクが点在するが、どっしりとして貫禄のあるイサク・ジャミーヤをお見せしたい。
 親切でユーモアのある人々に助けられて楽しい時間を過ごせたビトラともお別れの時間が来た。「さらば友よ」。

かつてアタテュルクが学んだという現ビトラ博物館
アタテュルク像の両側にマケドニアとトルコの国旗
ヘラクレア遺跡のモザイク
フィリッポス2世像が建つ旧市街の中心
イサク・ジャミーヤ