中国・雲南省 大理(1)

茶馬古道
 茶馬古道(ちゃばこどう)をご存知かと思います。中国の雲南地域で採れた磚茶(たんちゃ;茶葉を圧縮成型して固めたお茶)をチベットの馬と交換したことから名付けられた交易路のことです。この他の交易品として、雲南地域から塩、茶、食料品、布製品銀、製品など、チベット地域から薬草、毛織物、毛皮などが扱われたのである。インドやネパールで生産された物資もチベットを経由して雲南に届いたと言う。その茶馬古道の要衝として栄えてきた中国側の都市が、今日登場する雲南省の大理であり、次回に登場予定の麗江である。

大理に向かう
 大理ペー族(白族)自治州の中心地である大理は、気候が穏やかであり、海抜4000メートル級の『蒼山』と透明度の高い『洱海』からなる風光明媚な風景は、「山水如画」と称えられている。
 地理的には、古くからの中心地である『大理古城』と、現在の大理ペー族自治州の政治、経済そして交通の中心地である『下関』に分けられる。前述したように、大理は交通の要衝だけあって、昆明大理鉄路と大麗線の起終駅である大理駅があり、バスターミナル(BT)も大理BT、大理快速BT、大理北BT、興盛BT、大理西南BTの5か所のバスターミナルがある。私は、夜行列車に乗ってみたかったので、昆明駅23時38分発のエアコン付急行列車K9636に乗車、大理駅着翌日の07時36分で移動した。メモを見ると、寝台は下段で105.5元とある。
 深夜の昆明駅は、皆さんは出発待ちブースに座ってお茶を飲んだり、本や新聞を読んだりと静まりかえっている。旅行ガイドブックを見ていると、50代くらいのご夫婦がたどたどしい英語で「日本人ですか?」と聞いてきた。「はい」と笑顔で返すと、彼らはご自分達のチケットを出して見せたので、「大理(ダーリ)」と応えると、指で「オーケーマーク」。「ストン」、「stone」と言うので、さすがに大理は大理石の産地であることは知っていたので、「ダーリー・ストン」と答えたところ、とても嬉しそうに、「イェス、イェス」と言ってくれた。そして、奥様から魚をかたどったお菓子とお茶をいただいたのだが、びっくりしたのは彼女がビスケットを指差して、「鯛(たい)」と発音したことだ。日本ではお祝いの魚だが、彼女の説明だと「中国では尖っているので良い魚ではない」と言うことであった。おもしろい。
 おもしろいことをもう一つ。ご夫婦に「仲がいいですね」と言ったところ、ご主人が「我爱老婆(我愛老婆)」と書いてくれた。「うっ、高齢の女性を愛する?」。私が理解できていないと思ったのか、今度は奥様が笑いながら「我爱老公」と書いてくれた。「お二人とも年寄り好みなんだ。私のようにセーラー服好みじゃないらしい」。でも、これを英語で分かってもらうとしたら時間がかかりそうだ。でも大丈夫。お二人はスマートな人達だった。「オー、イェス」と笑って、「老婆」は中国語で「妻」、「老公」は「夫」を意味する言葉だったのだ。また一つ賢くなった。「ありがとう」。
 話が盛り上がってきて、ご主人には大理について、私の日本語のガイドブックの地図に印をつけて色々と教えていただいた。日本語で書かれたガイドブックに写真と漢字?を見つけて説明してくれるので、名詞を並べるだけの英語でも私には十二分である。
 アナウンスと液晶の表示板で列車の発車案内があった。お二人に丁寧にお礼を言って「スイー、ユウ、トゥモロー」。「バイバイ」。
 駅のホームに行くと、大理行きの列車は既にホームに入っていた。「ハロー」、「ハロー」。寝台の仲間は若い女性3人組だった。お互いに笑顔で、(行先の)「大理古城」と言って頷き合ったのだが、深夜の睡魔には勝てない。「グッ、ナイ」。安心したせいか、寝台に横になった途端に眠ってしまった。

大理古城へ
 定刻通り、早朝7時40分に大理に着いた。熟睡だった。昨日、お世話になったご夫婦にお礼を言わなければと探したが、多数の乗客の混乱でお会いすることができなかった。心で念じるしかない。「申し訳ありません、ありがとうございました」。
 ご親切ご夫婦から教わった通り、到着した『大理駅(下関)』から1路バスで『大理古城』に向かうべく、目の前にある『大理バスターミナル』に向かったが、寝台の仲間だったお嬢さん達が、「大理古城?」と聞いてくるので「イェス」と答えたところ、「ヒァ」と言って、私の腕を引っ張る。「No.1 bus」と言っても、「Here」と譲らない。徒歩で行ける距離なんだと解釈して、北へまっすぐ延びる文献路について行く。小さいながらも荷物を引っ張って30分以上は歩いた。お嬢さん達も私と似た道草好きで、文献路に並行に造られた水路で手を洗ったり、野菜を洗って売っているおばさんに話しかけたり、なかなかのもんだ。

鉄道駅から文献路を北に歩いて20~30分くらいだろうか、「大理」と刻まれた門が見えてくる
野菜を売っている可愛いおばあちゃんと、寝台で一夜を共にした?お嬢さん達

大理古城
 やがて、『大理古城』の壁が見えてきた。ここで、「皆さんに写真をお見せして終わり」では、ここに来た甲斐がない。『大理古城』の歴史を語らなければならない。知らなければならない。前述したように、ここは中国とインドを結ぶ交通の要衝として栄えてきたのであるが、表舞台に出てきたのは唐に支援された蒙舎詔(もうしゃしょう)の時代で、それぞれ統治されていた6つのグループを統一して『南詔(なんしょう)、未詳~902年』という地方政権を樹立した。チベット・ビルマ語系部族の王国である。「詔」とは王の意味であり、蒙舎詔の統治するエリアが最も南に位置したので、南の王、すなわち『南詔』と呼ばれる。その後、『大理国』の町となったが、1253年に元のフビライによって破壊され、放置されていたが、1382年(明の洪武15年)に再建された。その形が基本となって、現在、私達が目にする大理古城を形成している。
 大理古城は、ほぼ正方形をした全長約6キロメートルの城壁で囲まれ、高さ7.5メートル、幅6メートル、東西南北にそれぞれ城門があったが、現在は『南門(なんもん)』と『北門(ほくもん)』の2つが賑やかである。
 北に向かってきた『文献路』は『南門』でメインストリートの『復興路』に名前が変わって北上し、東門から東西に走るメインストリートの『人民路』、さらに『護国路』、『玉洱路』、『平等路』などを横切って、最も北にある『北門』に達する。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された

南 門
 私の予約したホテルは、『復興路』にほぼ平行に南北に走る『博愛路』と東西に走る『人民路』が交差する便利な所であった。「身軽にならなくては」と、早い時間ではあったがチェックインを試みたところ、笑顔で「OKです」。「ありがとう」。
 さて、大理古城エリアの見学である。まずは、通り過ぎてきた『南門』から始めて北へ向かうことにする。その南門である。大理古城への南側からの入口である南門は、五華楼の南200メートルにある。城門の上には端正で豪華な2層の楼閣が建てられている。1984年に建てられたもので、驚くほど新しい建物なのである。その美しい姿を背景に記念撮影をする観光客も多い。この門から城壁に登る階段があり、2階から周囲の景色や遠くの『蒼山』の連なりを観ることができる。

メインストリートの復興路。正面は南門
南門とその上に建つ楼閣
この階段から南門の楼閣に無料で登ることができる
南門の 楼閣から見た景色
南門の 楼閣から見た景色
南門近くの広場で稼いでいる孫悟空(そんごくう)と 猪 八戒(ちょ はっかい)

五華楼界隈
 南門から復興路を北に300メートルほど歩くと、お目当ての『五華楼』があるが、その途中にある『大理市博物館』に寄ってみる。ガイドブックによると、『太平天国の乱』の頃に大理を治めた杜文秀(とぶんしゅう、1823~1872年)の総司令部であった元帥府を転用して造られた博物館である。大理国時代の石碑108基を集めた碑林や地元で出土した文化財を展示している。大理国時代にペー族が彫ったと言われる高さ1.6メートルの天王像がとくに有名だそうである。

大理市博物館
大理市博物館
大理国時代の石碑108基を集めた碑林

 南門の賑わいが復活するのは、『五華楼(ごかろう)』の辺りである。五華楼は865年南詔国の時代に建造され、政治、経済、文化の中心であった。建設時は、高さ30メートル、周囲の長さ2.2キロメートルであったが、大理国滅亡後の天災や戦災、そして文化大革命による破壊などを経て縮小され、現在の楼閣は1998年に再建されたものである。これまた、新しい建物なのである。
 近くに、人民英雄記念碑があるが、寂しい風景であった。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された。
五華楼 くのフォトジェニックな場所。夢中になりすぎて、水路に落ちた人がいた
人民英雄記念碑

 五華楼から100メートルほど東へ歩いて左折すると、新民路にある『大理天主教堂』が見える。1927年に建てられたカトリック教会である。1984年に国家の援助を得て改修され、現在の形となった。遠くから見ると屋根に十字架があることが分かるが、近くからでは屋根の十字架が見えないため、教会と認識できないであろう。それほど建築様式が地場と言うか、ペー族の伝統様式に近いのである。写真もちょっといたずらして写しました。

大理古城にある大理天主教堂
瑪利亜(マリア)
天主堂内部

いきなりですが中学校
 時計を見ると、11時57分。「昼時か」。ちょうど、すぐ近くに食堂みたいなのがあって、若い男女が7人ほどで3つのグループに分かれて外に置かれたテーブルで食べている。制服とセーラー服である。お客さんが好きなおかずをオーダーすると、おばさんが指図しておじさんが手下になって盛付けをする、いつものやり方のぶっかけ飯」のイメージである。私が迷っていると、セーラー服の二人組が「Can I help you ?」と声をかけてくる。私の大好きなセーラー服女学生である。「英国風英語だな。それにしてもどうして外国人だと分かるのだろう?」。うれしくて、まごまごしていると、「??」と頼んでくれた。少し時間がかかって、小さな壺のようなお碗に入った麺、野菜、ハムなどを混ぜて煮た一種のヌードルのようなものが出てきた。セーラー服お嬢さん達が書いてくれた文字は、日本の漢字で書くと「米線」と読めるような文字だった。雲南省は米どころであるから、麺は小麦粉ではなく米から作られた麺であった。「おいしい」と言ったところ、「oishii」と真似をして、「OK ?」と言われたので、「(おいしいの意味で)OK」と返したら、「追加注文OK」ととらえたらしい。次に「ルーシャン(乳扇)」と言って注文を続けた。これがおいしかった。ペー族が作る伝統的なチーズの一種らしい。油でパリっと揚げたり、塩をまぶして食べたりと色々なバージョンがあるらしい。ちょっと食べ過ぎだが、セーラー服お嬢さんのお奨めである。「ベスト・セレクション」。
 セーラー服と制服達との話を続けたい。彼女達は近くにある『雲南省大理第一中学校』の生徒で、お昼ご飯を食べにここに来ていたのである。中国では給食は無いみたいである。英語もまあまあできて、志望高校どころか、将来を見据えた大学の名前までも口にする才女(の卵)だったのである。「えっ、雲南から上海の大学を目指すの?」と聞いたところ、逆に不思議な表情を見せた。そうですよね、日本だって地方から東京の大学に行くのは別に珍しいことではないですよね。私が驚いたのは、中学の段階から目標とする大学を絞っている点である。そして、私のような年寄りからも日本のことを聞きたいという向上心や好奇心のあるお嬢さん達の熱意だ。敬意を表し、エールを送りたい。
 彼女達が持っていた小袋に小さな馬のマークが付いていた。気になって訊ねたところ、現在の雲南省は各種の良馬の産地として有名で、雲南の馬を総称して「雲南馬」と呼んでいるそうだ。冒頭の『茶馬古道』で、かつて、ここ雲南地域で採れたお茶をチベットの馬と交換したことからこの交易路が『茶馬古道』と名付けられたと述べたが、今では「雲南馬」が有名だと言う。おもしろい貴重な話を聞かせてもらった。「どうもありがとう」。
 「学校を見て下さい、運動場も」。母校に誇りを持つ精神も立派。「校内車両進入禁止」の看板を横に移して、セーラー服のお嬢さん達に連れられて、お寺のように立派な外形の中学校と運動場を見学させてもらった。「あーあ、楽しかった」。実はもう一つ、いいことが。
 今晩のワィンの友達にしようと、食堂に戻って「ルーシャン」を包んでもらった。手下のおじさんは食事中だったので、おばさんがくるんでくれたのだが、一つサービスしてくれた。

素直な表情がまぶしいセーラー服姿の女子中学生。右後ろは小さな食堂
雲南省大理第一中学校の正面
生徒達が広い運動場で走り回っていた
後回しになりましたが、「校内車両進入禁止」