中国・雲南省 麗江市内(1)

麗江への導入部
 『束河古鎮』で会った若い日本人女性達に誘われて、乗り合いタクシーで麗江市内に戻ってきた。降車場所は、メインストリートの香格里拉大道と福彗路の交差から少し北側にある雲南航空麗江観光ホテルの近くである。『麗江古城』内へのタクシーの乗り入れは禁じられているので、古城外にあって、かつ古城に近いこの辺りは、エアポートバスや麗江高速バスターミナルの発着地点であり、郊外も含んだ交通ネットワークの中心的存在でもある。ここまで乗り合いタクシーで一緒に来た若い日本人女性達に聞いたのだが、「麗江は日本人にとても人気がある街だ」そうだ。そこで、麗江、とくに『麗江古城』について、少しまとめてみたい。
 麗江は、地形的にみると中国の西側に位置し、高度は市街地でも海抜2,400メートルと高い。周りに山が多いせいか水が豊富で、緑が多い町の構成に寄与しているばかりでなく、街の中を縦横に走る路地に沿って水路に水を供給し、橋を架け、井戸を整備して、美しい街並みの景色を醸し出している。
 歴史的には、木氏一族を抜きにしては語ることができない。雲南省北部を支配していた木氏一族が、南宋末(800年ほど前)に、支配の拠点をここに移し、それ以来、清の末までチベットと雲南を結ぶ『茶馬古道』の要衝として繁栄してきたのである。先に簡単に述べたように、土木や都市計画の手法を駆使して、「生活と美観」を統合させて、今に至っているのである。
 歴史を振り返ると『麗江古城』は、かつて少数民族のナシ族の王都であり、現在でもナシ族の人々が多く居住している。ナシ族の他にリス族、プミ族、ペー族、イ族などが居住していて、漢族より少数民族の人口の方が多い地域となっている。そのせいか『』で括る著名な建物の美しさもさることながら、地域によっては民族性を表して微妙にニュアンスの異なる家屋も散在する。旧市街の建築物のほとんどが木造であるせいか、細やかな造作がされ、建物の個性が一層際立っていて、気になるのである。
 そして、ここを歩く時は、一点の著名な建物だけを探さないで下さい。たまには足元を見てください。木造の建物が連なる風情たっぷりの小道です。きっとあなた好みのワンショットを見つけられますよ。すり減った石畳の路地は、一人で急ぎ足で歩くには、もったいない。よく、「一人で食事をするのは侘しい」などと言われますが、私の場合は、こういう美しい路地を歩く時に「一人で…は、(ちょっと)寂しい」。「わんこが脇にいてくれたら…」。そう、ここ麗江は犬の多い街です。ここの人達と同じように、非常に穏やかでのんびりとしたわんこ達です。

移動再開
 麗江の地理と歴史と人々とわんこ達を大急ぎでご紹介しました。『束河古鎮』から乗り合いタクシーに乗って麗江に着いたところで、道草をしてしまいました。市内観光を始めましょう。乗り合いタクシーを降りた所から、東の方向へ1キロメートルちょっと歩くと、『毛沢東の像』が建つ『紅太陽広場』や『人民広場』が見えてくる。パチリと1枚撮って、目的の『黒龍潭景区』を訪ねるために北へ向かう。時間は午後6時半であるが、本ブログの麗江郊外(2)~虎跳峡~の「虎跳峡に向かう」で述べたように、東西に国土の広い中国では北京時間(中国標準時)と西側に位置するここ麗江の時間(時計の針)では、生活感覚が異なるのである。ここは、頻繁にバスが往来しているし、5分間も乗っていれば、『黒龍潭」の南側に着いてしまうので、まだたっぷりと2時間は遊べる。後で確認すると、3、6、8、9路バスが走っていた。

紅太陽広場に立つ毛沢東像
人民広場

黑龍潭景区
 黑龍潭景区の特徴を書き始めると、どう言葉を選んでも、どこかで使われている表現のコピーになってしまう。それほど、「人口に膾炙した」街、そして地域なのである。そこで、旅行ガイドブック数冊を読んでみた。予想通り、似た表現が羅列されていた。仕様がないので、思いつくままに書くしかない。
 毛沢東の像が建つ紅太陽広場から民主路を北に向かって700メートルほど歩くと大きな池が見えてくる。この公園は、1737年(清の乾隆2年)に『玉泉龍王廟』として造成されたものである。公園内の池にはたくさんの黒い鯉が泳いでいるが、そこはそれ、龍の好きな中国人は鯉と呼ばずに黒龍と呼ぶことから、この公園(池)は「黒龍潭」と呼ばれている。そうなれば、『玉』が好きな中国の人々は、池の水が玉(宝石)のように碧い(透き通っている)ので、『玉泉公園』と別名で呼ぶ。お好きにどうぞ。
 この周囲4キロメートルの大きな泉は、街の北側にそびえる玉龍雪山の雪解け水が、山麓の岩間から湧き出てできたもので、石灰岩が連なっているため良質の水に恵まれ、古くから麗江古城の水源にもなってきた。流れに沿って歩くと『鎖翠橋』と名付けられた長さ十数メートルの小さな橋があり、手前は滝になっているので分かりやすい。その横には『古城源』と刻まれた石碑が設置され、周りに小休止のための長椅子が置かれている。この辺りの雰囲気は、「幽玄な景色」、「静かな水の音」など、「黒龍潭ビューポイント」と言われる所である。いつもは賑やかな中国人観光客も静かで、被写体のポーズの時間も短い。私も仲間に入れてもらって、パチパチと忙しい。

水路沿いの道を黒龍潭へと歩く
黒龍潭を訪れる観光客
観光客が足を止める景色
「古城源」と刻まれた石碑

東巴(トンパ)文化
 ここは、『トンパ文化』の本質について語る場ではないし、元々、私にはその能力、見識もない。中国のいくつかの訪問先で、『トンパ文化』として紹介される文物に触れ、目にする程度であって、約1400とも言われる絵画のような象形文字を見ても読むことも、ましてや書くこともできない。古来、文字には“美しさ”があり、芸術的側面を持つと言われるが、トンパ文字には一種の造形美ともいえる“美しさ”を感じる。
 「トンパの文化は、ナシ族固有の宗教であるトンパ教(7世紀頃成立)を中心に発達した民族文化で、自然崇拝に基づいた民間信仰である。その経典は、シャーマンの“トンパ”によって“トンパ文字”で描かれる」と、教えられた。教えてくれたのは、ラオスの大学生で宗教(仏教)を勉強している英語の上手な学生である。つい先程、『古城源』の石碑の横で長椅子に寝転がっていた青年である。「ナシ族は、雲南省西北部の盆地や丘陵部などの高度地域に居住する人達で、その多くの人達は“トンパ文字”の読み書きができない」ということです。とても勉強になった。
 1時間ほど時間の余裕があるということなので、一緒に歩くことになった。私が、たまたま、仏陀の顔を描いたTシャツを着ていたので、仏教国出身者を連想し、日本人だと思ったそうだ。ラオスは、2012年に『ビエンチャン』と『ルアンパバーン』へ旅行した程度で深い知見は無いが、今でも思い出すことが二つある。
①全くの私見であるが、(敬虔な仏教徒が多いせいか)“沸騰するアジア”の中で、比較的穏やかな人々であり、そして外国人であっても仏教徒に親密感を持っていた。
②ビエンチャンのお寺にお詣りした時に、高校生くらいの男女が仲良くデートをしていた。「お寺でイチャイチャしている」と、はやとちりした。実は、かなり高度な数学を教え合っていたのだ。教えてやったら、鼻の下に塗ると鼻の通りがよくなる(スースーする)薬をケースごとくれた。鼻の通りが良くなって、「ハックショーン」。「かつての高校生達、俺の噂をしているな」。
 さて、現在の大学生と一緒に行動開始。細やかでエレガントな造りが特徴の『解脱林』に入る。名前は『解脱林』であるが、建物の名前である。かつてこの地の豪族であった『木氏』によって建てられ、70年代に麗江古城北西の芝山から移設されたものである。現在は『トンパ芸術館』として、トンパ文字を使ったさまざまな民芸品が展示されている。この『解脱林』からすぐの所にあるのが、麗江市トンパ文化研究所(研究院)である。文化大革命の時に、多くの教典が処分され、消滅の危機にあったが、一部はそれを免れ、現在ではここで研究が進められているそうだ。
 実は、玉泉公園(黒龍潭)の中には麗江市トンパ文化研究所の他に、もう一つトンパに関する展示を行う『麗江市博物館』がある。今度は公園の北側に建つ建物で、別名「トンパ博物館」というだけあって、約1000年の歴史をもつナシ族の起源、文化、トンパ文字などに関する展示が多い。
 ここで、ラオスの相棒が長い時間を取った。トンパ文字の経典をたっぷりと時間をかけて見ていた。そして「象形文字」と言う言葉を何度も発していた。
 そうそう、ショップに、偶然にも?トンパ文字の権威者と言われる人が来ていて、観光客(お客さん)の名前をトンパ文字で入れてもらったトンパ紙は200元だそうで、…。

かつてこの地の豪族であった木氏によって建てられた解脱林。70年代に麗江古城北西の芝山からここに移設された
トンパ文化研究所の石塚
トンパ文化研究院
トンパ文化研究所の内部の見事な庭
麗江市博物院。別名「トンパ博物館」というだけあって、トンパ文字に関する展示が多数あった
麗江市博物院の展示物
テンパ文字の展示物
くるくる回して止まった位置によって運勢を占うものである。その内容はトンパ文字の継承者『トンパさん』が読み解いてくれる

五孔橋と得月楼
 『鎖翠橋』近くの「黒龍潭ビューポイント」で時間を費やしたが、個人的にはこちらの景色の方が好きです。それがこれからお見せする『五孔橋と得月楼』です。「なんだ、その程度か」と言われたら、「はい、この程度です」と頭を下げるしかない。
 ご覧の写真は、5つのアーチを持った大理石製の『五孔橋(玉帯拱橋)』と、その傍らに立つ『得月楼』である。彫刻が美しい3層の得月楼は、元は1876年に清の光緒帝が建てた楼閣で、現在のそれは1960年代に修復されたものである。五孔橋と得月楼の景観が澄んだ水面に映りこみ、自然が豊かな雲南省らしい風景を味わえる。

5つのアーチを持った大理石製の五孔橋(玉帯拱橋)と得月楼
池に映った五孔橋と得月楼の姿はめったに見られない
得月楼のアップ

龍神祠
 龍神祠は1737年に龍神を祭って雨を願うために建てられた建物である。1812年と1889年の2度、嘉慶帝と光緒帝から「龍神」の号を下賜された。「龍」の名前が付くだけあって、守護人の姿は迫力があった。
 龍神祠のすぐ前の建物で、ナシ族の伝統楽器の演奏を聴くことができたのだが、建物と一緒に写真を撮ることに失敗した。ごめんなさい。

「龍の神」を祀る龍神祠(守護人)
右側にトンパ文字が見える

最後に五鳳楼、そして水入り
 『法雲閣』とも言われる「『五鳳楼』は明万歴29年(1601年)に創建され、1979年福国寺から移設されてきた。説明によると、3層からなる八角形の楼閣で、高さ20メートル、弓状に反り上がる庇(ひさし)が20ヶ所と記されている。下から見上げているせいか雄大で、それでいて装飾的な形状は、まさにフォトジェニックであり、建築関係の人ばかりでなく、写真好きにはたまらない景色であろう。
 「四方向どこから見ても、屋根の形が五つの羽を広げている鳳凰のように見えることから『五鳳楼』と呼ばれる」。「楼の形が飛んできた5羽の鳳凰とよく似ていることから『五鳳楼』の名前が付いた」。どちらも、分かりやすい説明だが、確証は無い。中央の馬上の武人は、ナシ族の伝説上の救世主と言われている神『三多神』である。これは本当である。現在は『トンパ文化博物館』として利用されているが、内部は撮影禁止である。
 最後に、本ブログ「中国・雲南省 麗江市内(1)」は、主として『黒龍潭(池)』について紹介したが、続く「麗江市内(2)」は、『麗江古城』を主眼に『水車』からスタートする予定である。「水から水へと繋がる」というか、「水が入る」というか、…。ここは、「まさに麗江」なのである。意図したわけではなく、今、私が佇んでいる場所は偶然にも麗江に水を供給する水源地の側であり、「黒龍潭飲用水水源」の表示が立っている。

1601年に創建された五鳳楼。中央の馬上の武人はナシ族の伝説上の救世主『三多神』
水源地に近い河
黒龍潭飲用水水源の表示