中国・雲南省 麗江市内(2)

麗江古城
 中国語は、いわゆる「ネィティヴ」が身近にいることから努力を怠っていて、私は「読み書き」がまったくできないが、中国では、「古城」とは、「古い都市」と言う意味で使うことが多いようだ。ここ『麗江(の)古城』は、大まかに言うと、民主路、長水路、祥和路、金虹路に囲まれている。民主路は、先日『毛沢東の像』が建つ『紅太陽広場』から『黒龍潭景区』に移動した時に通った南北に走る通りである。古城の南側でそれに交差するように西から東に走る長水路、それにつながる祥和路、そして古城の北側で民主路と交差する金虹路といった具合である。古城の中には車はもちろんバイクも入れないので、近くまでバイクに乗ってきて、そこから古城に向かうためか、駐輪場はいつもいっぱいである。
 私は今、古城の北側にいるのであるが、これから南に向かってぶらりぶらりする予定である。古城の北側に『麗江古城』と書かれた大きな石のある『玉河広場』がある。ツァーの皆さんは、ここに集合して、それから見学に入るらしい。誰に拘束されないで気軽な私は、自由に行動できる。最初はズバリ、『古城水車』である。紅太陽広場から麗江古城入口の大水車や玉龍橋があるあたりまで徒歩10分足らずである。
 玉河広場の大水車の脇には、江沢民氏の筆による「世界文化遺産 麗江古城」と揮毫した石碑も建っている。先日、訪ねた『黒龍潭』から湧き出た水を水路で引いて、この水車に辿り着いたかと思うと、感慨もひとしおである。この水の流れは、古城入り口の 『玉龍橋』で 「中河」、「西河」、「東河」の 3 方向の水路に分流され、街を潤すのである。

玉龍橋の向こうに見える古城水車。白壁に江沢民氏が揮毫した碑
古城水車
古城水車
玉龍橋。シンプルで美しい石橋である
おびただしい数の風鈴がぶら下がっている。願い事を書いて吊り下げる
麗江古城の北側にある玉河広場。ツァー客の集合場所となっている
自転車ポーター。単なる運び屋さんではない。気脈の通じたホテルへ案内して…。
多くの観光客がカメラに収めるトンパ文字の壁

四方街
 『玉河広場』から古城の真ん中を南北に走る『東大街』を南へ向かう。500メートルほど歩くと、古城の中心部にある長方形の広場『四方街』に着く。ここから四方に道が広がっているので『四方街』と言うそうだが、実際には四方八方に広がっていて私のような方向音痴にとっては、まさに迷路である。時間になるとナシ族のおばさんたちが出てきて、石畳の広場でスピーカーから流れる音楽に合わせて踊りを始める。おじさんも出てきて笛を吹くこともある。古城一の賑やかな四方街であり、人が集まり、したがって広場の周りは土産物屋で囲まれている。
 先に書いたように、『麗江古城』は南宋時代(12〜13世紀)に形を成し、明代に木氏が統治、さらに時代が進んで清代に『茶馬古道』の物流拠点として繁栄した。繰り返しになるが、ここは約800年の歴史を持つナシ族の街だったのである。
 四方街の西側に『科貢坊』がある。1994年に火災に遭い、現在のそれはその後に再建された建物である。中国語、英語、日本語および仏語で書かれた立派な看板が前に設置されていたので、「?」と思われる表現もあるが日本語で書かれた文章を転記する。「『科貢坊 Ke Gong Memorial Arch』 清朝の嘉慶年間の巷内の楊兆蘭、楊兆栄の兄弟及び道光年間の楊兆栄の息子楊碩臣が挙人になることにより、官庁が一家三挙人を表評して建てた二階の鳥居です。光緒年間、巷内の和庚吉が進士になったことにより、また鳥居に彩を添えています。」
 夜になると、大音量で音楽を流し、飲みながら踊る中国人のディスコ通りになるそうである。
 四方街から東に向かう五一街には歴史を感じる『大石橋』、『小石橋』がカメラの視線を浴びていた。四方街に戻って、そこから南東に向かう新義街は『官門口』までの数百メートルが観光客であふれていた。

千里走単騎。張芸謀監督、高倉健主演の「単騎、千里を走る」のロケ地の一つ
東巴宮(トンパ宮)
四方街の西側に建つ科貢坊
四方街から東に向かう五一街にある大石橋
官門口

木 府
 麗江古城で由緒ある建物と言えば、多くの方々は、木氏の館「木府(もくふ)」、正式には「土司木氏衙署」を挙げられるであろう。元の時代の1253年より麗江の府知事に任命されて以来、世襲で元、明、清の3王朝にわたって22世代470年にわたって麗江地域の統治を任されてきた。時の朝廷に対してひたすら恭順の姿勢を保って、信頼を得、他方で茶馬の交易によって富豪になった。
 五層の木造建築である木府は、土司木氏の役所であり、明朝の洪武15年 (1382年)に創建されたが、1998年再建された後、『博物院』に改名された。木府の敷地面積は約3ヘクタール、大小の部屋が162あると言う。
 そして、明代に時の支配者である万暦帝が「忠義」の二字を下賜して勅令により建造されたのが『忠義坊』である。先に、『科貢坊 Ke Gong Memorial Arch』の説明をした看板の日本語部分を転記したが、ここ『忠義坊』でも中国語、英語、日本語および仏語で書かれた立派な看板が設置されていたので、その日本語部分を転記する。「『忠義坊(Zhongyi )Memorial Arch』』 忠義坊は明の万歴48年(1620年)に木氏土司が建てたものです。何度も朝廷に金と物を献上して、万歴皇帝が“忠義”の二字を恩賜して勅令により鳥居を建造しました」。
 “木府”は、まさに国家を形成している。国家と言えば。知の中枢を構成する一つは図書である。『萬巻楼』は、山東省曲阜市にある『公廟』を参考に建てられた書庫なのである。『公廟』は言うまでも無く、孔子(紀元前551-前479年)とその末裔を祀った『孔子廟』であることは言うまでも無い。
 木府の入口である『忠義坊』から入って、一番奥まで来てしまった。木府の最後は、道教の最高神を祭った『三清殿』である。“三”の意味は、道教の創始者とされる三人を祀ったことを意味している。写真の建物は、世界遺産申請時に修復、再建された建物である。

木府の本殿である木府議事庁。木氏が政事を行った建物です
木府の入口にあたる忠義坊。4本の石柱で作られた
木府の中の萬巻楼。曲阜の公廟を参考にして建てられた書庫
歌舞を鑑賞した玉音楼
三清殿

獅子山公園
 まさに国家の構築である。現代であるならば、文化的生活をおくるための必要最小限の施設を並べて都市を構成する手法とでも言うか、それを達成するための、卓越した能力を持つスタッフを要求される街づくりである。
 木氏の屋敷は『獅子山』を背景に建てられている。山には柏の木が茂っており、現在、獅子山に残っている古い柏林は『麗江十二景』の一つになっている。獅子山の頂上に建つ萬古楼は1997年建立と新しいが、最上階からの玉龍雪山や麗江古城の眺めが多くの観光客を呼んでいる。

獅子山
万古楼横の店から眺めた麗江市内。瓦屋根が広がる古城市内

庶民の知恵
 一般の観光客は、ここでパチパチやって四方街に戻るが、私のような『道草好き』はこれからが旅だ。あまり知られていないが、古い町並みの忠義巷を楽しみつつ『忠義市場』を目指す。ところが、『忠義巷』に入った途端に道草をしてしまった。道草の道草である。『三眼井』が原因だ。『四方街』で既に説明したが、『三眼井』とは、連続する三か所に水を溜めて、一番上から飲用水、二番目は食品を洗い、最後に洗濯用に使用するという井戸の利用システムである。それが、ここ『忠義巷』でまた見つけたのだ。そして「三眼井用水公約」の立札まで見ることができた。古典的にして合理的な水を利用した街作り、それも庶民レベルの「使い方のルール」まで決める先進的なアイディアに敬服である。
 庶民の集まる場所、そうです、次は市場です。名物の麗江バーバをかじりながらブラブラ、ブラブラ。麗江バーバとは、真ん中の平たいホットケーキというか、丸いパンケーキのようなもので、中に甘いあんが入っている。物好きな(私のような)観光客もいるが、日用品や食料品などを求める地元民みたいな人々が圧倒的に多い。

三眼井
三眼井用水公約
忠義巷
忠義市場
名物の麗江バーバ
忠義市場

 十分に楽しんだので、忠義市場から四方街に戻ろうと、忠義巷→官院巷→関門口→(左折して)新義街→『四方街』の道を選んだつもりが、最初に選んだのは予定の官院巷ではなく、いつの間にか一つ東側の道に入り、結局、崇仁巷に向かっていた。これが幸いした。予期していなかった“良い事”が二つもあったのだ。
 一つは、七一街と崇仁巷をつなぐ橋『万子橋』を観ることができたのだ。万古橋の説明には、おおよそ次のように書いてあった。明代の金持ちが寄付をして建てた石橋で、石材の精選された砂の粒子から“子孫万千”の寓意を得て、後継者を願ったとのことである。良いものを観た、そして、付録も付いた。この万子橋の近くに、ナシ族の伝統的手漉き紙「トンパ紙」を利用した商品を販売している店があった。日本の旅行ガイドブックにも載っている店であり、商品を手に取ってみることができた。トンパ紙には沈丁花の成分が虫よけに入っているということだが、香りに鈍感な私には分からない。
 もう一つの“良い事”は、まさに迷って入った崇仁巷に『普賢寺』があったことだ。「仏光普照」の意味は、「仏法は人々の世界をあまねく照らす力がある」という意味である。

子々孫々の繁栄を願って個人の寄付で建てられた万子橋
崇仁巷にある普賢寺
「仏光普照」。仏法は人々の世界をあまねく照らす