中国・雲南省 麗江郊外(2)~虎跳峡~

虎跳峡に向かう
 早朝、6時30分、金沙江沿いに伸びる全長20キロメートル 、高低差3000メートルの大峡谷・『虎跳峡(こちょうきょう)』に向かう。地理的には、金沙江は『麗江』の『玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)』と『香格里拉(シャングリラ)』の『哈巴雪山(はばせつざん)』の間を流れる川で、麗江からも香格里拉からも同じような距離にある。標高も玉龍雪山のそれは哈巴雪山の5396メートルと大差なく、どちらから虎跳峡に向かっても良いのであるが、私の選択は後日シャングリラに向かう予定だが、とりあえず麗江側から 虎跳峡 を攻めることにした。
 2014年当時の旅行ガイドブックによると、公共交通は不便であって、麗江市内から往復400元でタクシーをチャーターすることを勧めていたが、ホテルのスタッフのアドバイスは違った。早朝6時30分に市内のバスターミナルから『虎跳峡』行きのバスが出ていて、3時間から3時間半くらいで到着するという。料金は、確かバス料金30元+保険料3元だと記憶している。片道約80キロメートル、往復で約160キロメートルの距離を70元、それも保険料付きである。タクシーをチャーターした場合に比べて、400-70=330元も浮く。選ばない手はない。
 夜も明けきらない早朝6時30分。国土の狭い、それも縦(南北)に長い日本では考えられないが、東西に国土の広い中国では北京時間(中国標準時)の早朝6時30分は、西側に位置するここ麗江では未だ夜が明けきらない時間である。それにしても、次第に明るくなっていく、それも明るくなるにつれて峡谷が険しくなっていく第一級の景色の変化は超お勧めです。

早朝、6時30分、麗江から金沙江沿いに伸びる全長20キロメートル 、高低差3000メートルの大峡谷・虎跳峡に向かう
出発して2時間後、遠くの山も白み始めた
雲が低く見える。皆さん、車内から写真を撮っている。雲海が好きである
出発して3時間。『虎跳峡景区』まで10キロメートルの道路標識。胸が高まる

高山病対策
 ホテルのスタッフに聞かれたのだが、「高山病の治療法の1番は何か?」。「?…」。私が答えに窮していると、彼はにこにこしながらこう言った。「下山または低地に行くことです」。「こいつふざけているのか」。でも冷静に考えてみると、その通りだ。そもそも高山病の症状は、低血糖、脱水症状、頭痛などと覚えていたので、素人療法で、彼のくれた飴をなめていれば低血糖対策にはなりそうだ。念がいったことに、飴が入っていた袋には、觔斗雲(きんとうん)に乗った孫悟空の絵が描かれていた。御存知のように、雲に乗って空を飛ぶ架空の雲『觔斗雲』と孫悟空、まさに高低差3000メートルの大峡谷である虎跳峡を象徴している。こいつ、意図したかどうかは定かではないが、「ユーモアとしても一流だ」。脱水症状対策は、こまめに水を飲むことでいいだろう。

ガイダンス
 麗江のバスセンターから3時間半くらいで『虎跳峡』の駐車場となっている建物の前に着いた。レストランを兼ねた広い待合室のような部屋に通され、管理人のような人が簡単な地図を配りながら説明を始めた。
①このエリアで金沙江の川幅が狭くなっており、虎がこの峡谷を飛び越えたというのが名前の『虎跳峡』の由来です。
②上流から順番に、『上虎跳峡』『中虎跳峡』『下虎跳峡』に分けられ、一般のガイドが付くツァー旅行の場合は麗江側の『上虎跳峡』を選ぶ人が多いです。『中虎跳峡』は峡谷が切り立っていて険しいです。
③『虎跳峡の入場券』を買い求めてください。上、中、下のどの虎跳峡に行かれても65元です。
④帰りのバスの時刻表は貼りだされています。
⑤気を付けて楽しんでください。
 「そう言われたら、『中虎跳峡』を選ぶしかない。ここで止めたら沽券にかかわる」。そう考えているらしい年寄りが数人、勇んで出かけてしまった。初めて会った私と同年配らしい男性は、「どうしますかね?」と話しかけてくる。「うっ、I wonder…」、英国人だ。隣にいた奥さんが「ネヴァー」と言って止めたせいか、彼はむきになって、私に向かって「レッツゴー」。「受けて立とうじゃないか」。奥さんの強い希望で、いきなり『中虎跳峡』に行かずに30分くらい管理棟の周りを散歩することにした。
 ここからでも、エメラルドグリーンの美しい川は眺められるし、流れの急なダイナミックな風景、好きな橋は見られる。ビビっているのではない。楽しんでいるのである。御同輩と目配せをして、中虎跳峡に向かった。

虎跳峡の入場券
エメラルドグリーンの川
ダイナミックな風景
神川大橋

中虎跳
 中虎跳の入口に、英語と中国語で書いた黄色い看板があった。簡単に言うと、「この山道は歩きやすくするために、地元民が政府の援助を受けないで造ったもので、これを維持するために10元を支払って下さい」。「途中、リフレッシュメントもあります」のような意味である。
 中虎跳は、上虎跳峡と比較して地形がかなり険しく、距離だけでなく勾配も急になっている。階段が途切れている所が多く、川に向かって降りていく時に滑ったり、躓いたりと厳しい状況が連続する。中途まで降りたはいいが、それ以上は進めず、そうかといって戻る(登る)こともできず、「ヘルプ・ミィー」と叫ぶ爺さんもいる。私の場合は助けに行くのも危険なので棒につかまって見ているしかない。こういう時に役に立つのが、『馬追い』というか、『馬子』のグループである。馬を上手に使って、救急車じゃない、救急馬になるのである。相手が大きい馬だけに乗っている時に掴まる所がなく、私は乗らなかったが、私なら確実に落馬してしまうだろう。
 この馬子達の仕事がもうひとつあった。前述したように、虎跳峽は高低差3000メートルの峡谷で、高山病の恐れがある高地である。「孫悟空飴」で対応が難しい時は、写真に示した「ブドウ糖注射液」がある。馬子達は忙しいのである。
 ここまで述べたことだけでは、『中虎跳』は危険な場所だけのイメージが定着してしまう。言いたいことは、「それでも出かけたい峡谷である」。お勧めは、一番下(川に近い場所)にある虎跳石の上から見る景色である。流れの激しさと見上げる両側の山々の迫力に感激すること間違いなしです。

蛇足ながら締めくくり
 流れのしぶきを浴びる一番下まで降りた人達は、証拠写真を撮ってガッツポーズ。しぶきを目前にダウンした方々も努力賞。さて、ガイダンスの直後に、「『中虎跳峡』は峡谷が切り立っていて険しいと言われ、ここで止めたら沽券にかかわる。『中虎跳峡』を選ぶしかない」と意気込んで出かけた年寄りの方々は、…?そう、ことごとく下を向いて弁解していた。それにしても目的達成度は、圧倒的に女性の方が多かった。「今時、筋を通し、不言実行するのは女なのです」。
 ここまで読んでくださった方々は、気になる人がいらっしゃいますね。そう、私のご同輩の「レッツゴー」さんは、英国人らしく、レストランで奥さんと二人でティを飲んでいた。
 ほら、もう一人、いるでしょう、ほら。気になる人が?「ええいっ、もう。おわり」

中虎跳への入口。ここでも10元の支払いを求められた
中虎跳への入口
傾斜の険しい斜面に咲く孤高の美しさ
急傾斜で足場が良くないため、とくに戻る時(登り)に馬に乗る人もいた
馬子たちが持っていたブドウ糖注射液。高山病対策のエース的存在である。よく考えれば、虎跳峽は高低差3000メートルであった
途中にあったリフレッシュメント売り場
鉄の梯子を下から写す。近道ではあるが、それ故に急勾配である
中虎跳峡。「さあ、こいっ。ここからがさらに難所」
人間が小さく見える
中虎跳峡の撮影に夢中な観光客。ここまで降りてきた人の中に年寄りはいなかった。そして女性の方が多かった。
写真の左上に赤いペンキで「虎跳石」と書かれている岩が見えるが、ここから見る流れの激しさと両側の山々の景色は超ド迫力
うわぁ
静かなり

中国・雲南省 麗江郊外(1)~束河古鎮~

大理から麗江へ
 大理から麗江へは、快速列車で約2時間、バスで約4時間で行くことができる。既に述べたように、古城内にホテルを取っているため、列車を利用する場合は古城側から大理駅のある下関側までの移動に時間を要するし、列車の便数やチケットの入手の難しさを考えると、早朝6時から一日に40便もある麗江行きのバスの利用の方が便利である。バスも下関発であるが、途中に大理古城前の通りにある乗り場を通るので、わざわざ下関まで移動する必要はない。ホテルからバス乗り場まで歩いて10分もかからなかった。待合室のようなものは無く、2畳程の小屋のような所にいたおばさんに「70元」と言われ、「えっ」と言ったところ「63元」と言われた。皆さん、市内の旅行代理店や宿泊先のホテルで70元とか90元でバスチケットを買ったみたいだが、「63元」を支払った私の「+3元?」は妙にリアルに響く。このおばさん、特定のバス会社の社員ではなく、旅行代理店の人みたいで、バス会社に次々に電話してバスの到着時間を教えてくれた。
 さて、麗江が近づいている。道路標示を見ると、ついついカメラに収めてしまう。英国の高速道路(Motorway)で使われているCarriageway(車道)やOvertaking lane(追い越し車線)の表示が懐かしい。よく誤用されているので、この際ですので、道路の正確な英語表示を掲げたい。道路は英国ではRoad、米国ではHighway、高速道路は 英国ではMotorway、 米国ではExpresswayと呼ばれます。「ハィウェイを突っ走ってはいけません。高速道路ではなく、道路なんですから。スピード違反ですよ」。余計なことかもしれませんが。
 麗江バスターミナルに到着した。壁に表示されていた「麗江→大理」の運賃表を見て納得した。「大理→麗江」の料金として私が支払った「63元」と同じであった。つまり。こういうことです。私は大理のバスの停留所でチケットを買ったので、正規運賃の「63元」、他の乗客はホテルの手数料とか、旅行代理店のおばさんに連れてきてもらったなどのサービス料金を含んでいるので、その分高かったということです。納得。

英国の高速道路(Motorway)の一部で使用されている表示。Carriagewayは車道、Overtaking laneは追い越し車線である

束河古鎮へ向かう
 今日は、忙しい。麗江古城には車両やバイクは入ることができないので、バスターミナルから古城の北側までタクシーで5分、15元/3人。ホテルまで徒歩10分くらいであった。チェックインを済ませて、お昼過ぎであったので、葡萄パンを買い求めて、バスの中で、…。私の旅の仕方らしくないが、早く行きたいのである。これから市内ではなく郊外の『束河古鎮』に出かけるのである。
 『束河古鎮』は、麗江古城の北西、約4キロメートルに位置する。資料によると、『束河(そくが)』は、ナシ語で「高い峰のふもとにある村」という意味である。束河古鎮は標高2440メートル、面積約5平方キロメートル、中心保護区域1平方キロメートルとある。ナシ族の最も古い集落の一つであり、ナシ族を中心に約1000世帯、約3000人が暮らしている。本ブログの『大理』で述べたが、ここもかつて『茶馬古道』の要衝として栄えた町で、1997年に麗江古城とともに世界文化遺産に登録されている。
 御存知のように、張芸謀(チャンイーモウ)監督、高倉健主演の『単騎、千里を走る』の撮影は、この村を中心に行われたことでも有名である。
 麗江古城付近からの行き方は、タクシー、乗り合いタクシーなどもあるが、バスセンターから出発する公共バス11路、6路も便利で、かつ安い。11路バスのルートを写真で載せておいたが、バスセンターから乗車すると20番目の『束河路』下車、徒歩10分である。

バスの運行経路。束河路口へ11路バスで

束河古鎮へ歩く
 大きな門から入って駐車場を抜けると、『束河古鎮』と書かれた山門のような入口が見える。北は玉龍雪山、南は象山、文筆峰が眺められ、美しい緑が広がっている。
 参道のような道を歩いていくと、『茶馬歓迎広場(Tea-Horse Welcoming Square)』と呼ばれる賑やかな広場がある。『茶馬歓迎広場(Tea-Horse Welcoming Square)』の看板が立っていて、『茶馬古道』を移動してきた隊商の一団がここで一休みしたことなどが書かれていた。かつて交易で栄えた束河古鎮らしく、この広場でも客を待つ観光馬車が並び、多くの露店の食べ物屋さんなどが続く。観光客の流れは一様で、私もその流れに従って歩くことにする。
 『四方聴音広場』と呼ばれる広場に辿り着いた。横にあるステージでは、毎日15時半から1時間、ナシ族、イ族、チベット族、ペー族の歌や踊りが上演される。残念ながらたった今、終演時間が過ぎてしまった。10分前に終わっていた。後で知ったことだが、夜の7時半から焚火を囲みながらナシ族の伝統的なダンスが始まる。これまた、時間が取れない。仕方がないのでステージの写真を撮って、石造りの民居を楽しみながらすり減った石畳をさらに進む。
 やっと『水』が見えてきた。今までどの町の古鎮であっても古鎮につきものの水の流れや池がここでは見られなかった。ましてや、『束河古鎮』は、「清き泉の里」とたとえられ、「麗江古城の縮図」と言われる古鎮である。やっと水を見たのである。小さいながらも『青龍河』という立派な名前の小川である。

農村風景と古い町並みの調和が美しい束河古鎮
麗江の北西4キロメートルに位置するナシ族の村・束河古鎮の入口
茶馬歓迎広場
茶馬歓迎広場で客を待つ観光馬車
茶馬歓迎広場の露店の食べ物屋さん
自在に愛馬を操る元気なおばさん
四方聴音広場にあるステージで多くの民族による歌や踊りが上演される

三眼井
 水の話が出てきたので、早速、水を利用した土木に関する施設をご紹介します。『三眼井』と呼ばれる古い井戸のことです。読んで字のごとく、目が3つある井戸である。つまり、水のたまる場所が連続して3か所あって、一番上から飲用水、二番目は野菜や食品を洗い、最後の三番目は洗濯用に使用するという、実に合理的に考えられた井戸のことである。『三眼井』は麗江古城にもある。
 相当以前から話題になっている話で恐縮であるが、水道には上水道と下水道があることがご存知ですね?日本やイランのように、水道水を飲料水として直接飲める国が少ないこともご存知ですね?口にする水をトイレの汚物を流す水として使っていることは、とても贅沢なことなのですね。そこで、上下の間を取って『中水道(ちゅうすいどう)』という考え方が提案されたのです。中水道とは、生活排水や産業排水を処理して循環利用する方法で、雑用水とも呼ばれる。主な用途は水洗トイレの用水や公園の噴水などで、当然のことながら人体と直接接触しない目的や場所で用いられる。『三眼井』から『中水道』の話になったが、水の問題は、どの国においても、どの分野においても、将来的課題になるであろう。
 三眼井の辺りは、住民の生活の場であることから、旅行者にとってはまさに人々の「生活実感」を観察できる場所でもある。(場所や地域にもよるが)このところ、まさに急変している風景は、喫煙者の数が激減していることである。中国に限ったことではないが、『禁煙』が普及することは大歓迎である。
 そして、今日の一枚。おじいちゃんの目線と、背中におぶっているお孫さんの目線がぴたりと合った瞬間の写真である。

三眼井。三か所の水が溜まった場所で、一番上から飲用水、二番目は食品を洗い、最後に洗濯用に使用するという井戸
グッ・タイミングで撮れました。羨ましい
何という遊びだろう。皆さん、気合が入っていた
触ることができなかったので確認できなかったが、材料は木だろうか、石だろうか

四方街
 『青龍河』まで来たのに、『三眼井』で道草をしてしまった。楽しんでしまった。『青龍河』に戻って河に沿って上流に向かうと、村の中心の『四方街』に辿り着く。束河の四方街は、長さ33メートル、幅27メートルの小さなエリアである。ヨーロッパの古い町などで行われる広場や通りの『自動洗浄』がここでも行われていた。自動洗浄とは、私が勝手に名付けたもので、人通りが少ない時間帯に水路をせき止めて水を路上に溢れさせ、そのエリアを洗う方法である。エリア全体を洗うことによる清潔保持はもちろんのこと、季節によっては気化熱を利用して日中の灼熱を抑える効果もある。この合理的システムによる洗浄は、磨り減った石畳に陰影を与え、一種の風情をかもし出していることも見逃せない。明の時代から行われているというから驚きである。
 もっとも、日本でも神社仏閣だけでなく、田舎の民家でも公道から自宅までのアクセスあるいは空きスペースに小粒の砂利を敷いておいて、朝に箒目(ほうきめ; 箒で地面を掃いたあとのすじ)をたてていた記憶がある。私の小学生の頃の役目であった。随分と昔のことである。

さて、どっちへ行くか
四方街の説明
四方街。中心部にある四角形をした石畳の広場

青龍橋から茶馬古道博物館
 四方街の西側に青龍河にかけられたおおきな『青龍橋』がある。この石橋は明の時代に架けられたもので、長さ25メートル、幅4.5メートルと大きく、麗江地域では最古の橋である。ナシ族の言葉で「ジア橋」とも呼ばれ、その意味は、「泉から湧き出た水が集まってくる所」と言う意味である。その名の通り、橋の上流側には『疏河龍潭』、『九鼎龍潭』と呼ばれる2か所に清流が湧き出ている泉があった。しだれ柳に囲まれた「潭(ふち)」は、玉龍雪山の雪解け水が溜まってできたもので、透明度の高い水中で小魚が泳いでいた。この水が村の家々を潤し、畑に水を供給しているのだ。まさに「命の水」なのである。
 この辺りから中和路を北に向かうと、かつての麗江地方の支配者、木氏の住居だった『大覚宮』と『茶馬古道博物館』がある。博物館の入口前の路地が工事中であったので、一部しか見ることができなかったが、茶葉の歴史、この地の歴史や文化に関する展示が主なものだった。
 大覚宮は明代後期の建物で、内部の壁には仏教画が6つ描かれていた。案内のお嬢さんは、「チベット仏教の影響が見られない」と説明してくれたが、浅学の私にはよく分からなかった。カメラも撮影技術も悪く、不鮮明な画像で申し訳ありませんが、それを吹き飛ばすような鮮やかで上品な蒼桃の花でお許しください。。

青龍橋
博物館への標識。道路工事中
茶馬古道博物館
茶馬古道博物館。茶葉の歴史、この地の歴史や文化に関する展示が充実している
大覚宮の壁画の紹介
大覚宮の壁画
バラ科の蒼桃の木
束河古鎮よ、さらば。扉を閉めさせていただきます

中国・雲南省 大理(2)

崇聖寺三塔
 『大理観光』の午前は、「セーラー服とルーシャン(乳扇)」で気持ち良く締めくくったが、午後は、予定通りに蒼山(そうざん)応楽峰のふもとにある『崇聖寺三塔(すうせいじ さんとう)』に向かう。崇聖寺三塔とは、崇聖寺とその敷地内の三つの仏塔の総称である。崇聖寺は、9世紀から10世紀の南詔・大理国時代に造られた仏教寺院で、王室の菩提寺となった由緒あるお寺であった。清の時代に焼失したが、2005年に再建され、現在に至っている。
 対称形をなすように配置された三つの塔は、清の時代に自然災害と戦禍にみまわれたが、倒れずに残り、現地の人達の崇拝の対象となっている。中央の主塔(千尋塔)は、南詔の勧豊佑時代(824~859年)に建てられた16層の方形密檐式仏塔である。レンガ製で高さ69.13メートルである。主塔の南北に建つ2つの小塔(北塔および南塔)は大理国の時代(12世紀)に建てられた10層の八角形密檐式仏塔である。レンガ製で高さは42.19メートルである。塔の後ろには聚影池という池があり、水面に映る三塔の姿は美しい。

三塔の隣にある倒影公園からは池に映った塔が見える
南詔建極大鐘
主塔の先に『石鳴蛙』と書かれた石がある。中央に置かれたこぶし大の石を凹んだ穴に投げ入れると「グェ、グェ」と蛙の鳴き声が聞こえなかった?
雨銅観音殿
観音殿に祀られていた金色の観音は、体は男性、顔は女性だった
崇聖寺山門のアップ
天王殿
弥勒殿
弥勒菩薩
弥勒菩薩の後ろをかためる韋駄天
十一面観音
本殿にあたる『大雄寶殿』
大雄宝殿のご本尊

洋人街界隈
 美しい三塔に別れを告げて、大理古城のホテルに戻る。午後4時半は、この地域ではまだ明るいが、夜行列車で今朝着いてすぐの観光開始だったし、ちょっと眠い。元気なのはセーラー服のお嬢さん達と仲良くなったからだ。そうだ、「ルーシャン」の友達の「ワィンを仕入れなきゃ」ということで、ホテルから近い洋人街に出かけた。大理古城の中心部だけあって、おしゃれな店が並ぶ繁華街であり、多くの観光客は中心広場で行われているパフォーマンスに興じていた。

洋人街近く
洋人街
洋人街
銅像の格好をしているパフォーマー

ペー族の村・喜州へ向かう
 『大理古城』西門から洱源『(じげん)』行きバスで30分、『喜州(きしゅう)』で下車。ここから目的の『喜州古鎮』近くまで1キロメートルほどなので歩くこともできるが、オート三輪で5元と安い。現在では日本で見ることがほとんどないので、若い方々はご存じないかもしれませんが、主に荷物を運ぶオート三輪である。「お前、運転するか」というようなジェスチャーで冗談を言う?元気なおばさんは、飛ばした、飛ばした。若い頃、『族だった』のだろうか?『オート三輪の族』はないか。そう言えば、飛ばしおばさんは自分を指差して、族は族でも『ペー族(白族)』と主張していた。
 さて、喜州は、大理古城から17キロメートルほど北に行った、洱海(じかい)の西岸にあるペー族の村である。南詔国の成立については先に簡単に述べたが、ここは、その軍事拠点、商業貿易の中心として栄えた地域である。約1000年を超えた現在でも、その町並みの一部が残っているので、多くの観光客が訪れる。特徴は、「白壁と青瓦を持つ『ペー族民居』」である。88軒の民居のうち、特に『厳家大院』、『董家大院』、『楊家大院』の3軒は保存状態が非常によく、明清時代のペー族独自の建築様式をそのまま残しているという。

喜州に入村
『喜州古鎮』近くまでオート三輪 の荷台に私を乗せて、砂利道をふっ飛ばす“(ペー)族おばさん”。5元。元気な『何でも屋さん』である

新しい喜州
 古き町並みを想像して、おばさんのオート三輪で村に入って驚いた。新しい建物と言うか、建設中のそれが連なっているのである。人もまったくいない。2014年3月のことである。近代的な建物が向き合って建ち、間にある道路の入口には、『喜州古鎮 喜州市場』と記された石塚が立っていた。しかし、古鎮ではない。『喜州古鎮』という村の、新しく建設する『喜州市場』という意味である。『人民法廷』も立派な建物であった。

建設中の喜州市場
今後の新築に使われる建築資材
喜州市場
豪華な人民法廷

やっと喜州古鎮

 建設中の喜州市場から少し歩いて、やっと『喜州古鎮』にたどり着いた。大きな門から中に入ると右側にカウンターがあって、ペー族の衣装を身に着けた係員が「票(ぴょう)」と声をかけてくる。ここで票(チケット)を買い、入場する仕組みである。

喜州古鎮の入口
チケット売場
ペー族伝統建築様式に西欧建築を一部取り入れた厳家大院
厳家民居
ペー族の少女
厳家大院の中庭
内 部
宝成府
喜州名物の喜州紦紦ソバをうっている青年。『地球の…』に載っていたとおりハンサムだった
楊錫龍宅入口
賑やかな市場

玉洱公園
 今日は、『大理』から『麗江』に移動する日である。ホテルから少し歩くとバス乗り場があり、麗江まで4時間、1日に40便もある。まだ、朝8時なので『大理』でまだ訪ねていないホテル近くの『玉洱園』に散歩に出かける。植栽をし、湖を作り、そこに小さな橋を架けるなど、中国伝統の工夫を凝らした公園である。公園の朝のすがすがしい空気がおいしい。自分もその一人であるが、時間がくると多くの観光客が訪れて雑踏が始まる。それを狙って、お土産屋さんや食堂のおばさん、おじさんが準備をしている。私も、朝ご飯代わりに焼き立ての大理の特産品『核桃餅(くるみもち)』をいただいた。本当においしい。私の年令ではもう遅いが、知人の中国人のおばあちゃんに教わったのだが、「クルミを毎朝食べていると頭がよくなる」そうです。私は頭が悪そうに見えたのか、職人が一つサービスしてくれた。「ありがとう」。

玉洱路と復興路の交差から東に向かうと玉洱園がある
水と橋の組み合わせで美しい風景を表現している
大理の特産品『核桃餅』を作っている職人さん
蒋公祠
言うことなし、美しすぎる

中国・雲南省 大理(1)

茶馬古道
 茶馬古道(ちゃばこどう)をご存知かと思います。中国の雲南地域で採れた磚茶(たんちゃ;茶葉を圧縮成型して固めたお茶)をチベットの馬と交換したことから名付けられた交易路のことです。この他の交易品として、雲南地域から塩、茶、食料品、布製品銀、製品など、チベット地域から薬草、毛織物、毛皮などが扱われたのである。インドやネパールで生産された物資もチベットを経由して雲南に届いたと言う。その茶馬古道の要衝として栄えてきた中国側の都市が、今日登場する雲南省の大理であり、次回に登場予定の麗江である。

大理に向かう
 大理ペー族(白族)自治州の中心地である大理は、気候が穏やかであり、海抜4000メートル級の『蒼山』と透明度の高い『洱海』からなる風光明媚な風景は、「山水如画」と称えられている。
 地理的には、古くからの中心地である『大理古城』と、現在の大理ペー族自治州の政治、経済そして交通の中心地である『下関』に分けられる。前述したように、大理は交通の要衝だけあって、昆明大理鉄路と大麗線の起終駅である大理駅があり、バスターミナル(BT)も大理BT、大理快速BT、大理北BT、興盛BT、大理西南BTの5か所のバスターミナルがある。私は、夜行列車に乗ってみたかったので、昆明駅23時38分発のエアコン付急行列車K9636に乗車、大理駅着翌日の07時36分で移動した。メモを見ると、寝台は下段で105.5元とある。
 深夜の昆明駅は、皆さんは出発待ちブースに座ってお茶を飲んだり、本や新聞を読んだりと静まりかえっている。旅行ガイドブックを見ていると、50代くらいのご夫婦がたどたどしい英語で「日本人ですか?」と聞いてきた。「はい」と笑顔で返すと、彼らはご自分達のチケットを出して見せたので、「大理(ダーリ)」と応えると、指で「オーケーマーク」。「ストン」、「stone」と言うので、さすがに大理は大理石の産地であることは知っていたので、「ダーリー・ストン」と答えたところ、とても嬉しそうに、「イェス、イェス」と言ってくれた。そして、奥様から魚をかたどったお菓子とお茶をいただいたのだが、びっくりしたのは彼女がビスケットを指差して、「鯛(たい)」と発音したことだ。日本ではお祝いの魚だが、彼女の説明だと「中国では尖っているので良い魚ではない」と言うことであった。おもしろい。
 おもしろいことをもう一つ。ご夫婦に「仲がいいですね」と言ったところ、ご主人が「我爱老婆(我愛老婆)」と書いてくれた。「うっ、高齢の女性を愛する?」。私が理解できていないと思ったのか、今度は奥様が笑いながら「我爱老公」と書いてくれた。「お二人とも年寄り好みなんだ。私のようにセーラー服好みじゃないらしい」。でも、これを英語で分かってもらうとしたら時間がかかりそうだ。でも大丈夫。お二人はスマートな人達だった。「オー、イェス」と笑って、「老婆」は中国語で「妻」、「老公」は「夫」を意味する言葉だったのだ。また一つ賢くなった。「ありがとう」。
 話が盛り上がってきて、ご主人には大理について、私の日本語のガイドブックの地図に印をつけて色々と教えていただいた。日本語で書かれたガイドブックに写真と漢字?を見つけて説明してくれるので、名詞を並べるだけの英語でも私には十二分である。
 アナウンスと液晶の表示板で列車の発車案内があった。お二人に丁寧にお礼を言って「スイー、ユウ、トゥモロー」。「バイバイ」。
 駅のホームに行くと、大理行きの列車は既にホームに入っていた。「ハロー」、「ハロー」。寝台の仲間は若い女性3人組だった。お互いに笑顔で、(行先の)「大理古城」と言って頷き合ったのだが、深夜の睡魔には勝てない。「グッ、ナイ」。安心したせいか、寝台に横になった途端に眠ってしまった。

大理古城へ
 定刻通り、早朝7時40分に大理に着いた。熟睡だった。昨日、お世話になったご夫婦にお礼を言わなければと探したが、多数の乗客の混乱でお会いすることができなかった。心で念じるしかない。「申し訳ありません、ありがとうございました」。
 ご親切ご夫婦から教わった通り、到着した『大理駅(下関)』から1路バスで『大理古城』に向かうべく、目の前にある『大理バスターミナル』に向かったが、寝台の仲間だったお嬢さん達が、「大理古城?」と聞いてくるので「イェス」と答えたところ、「ヒァ」と言って、私の腕を引っ張る。「No.1 bus」と言っても、「Here」と譲らない。徒歩で行ける距離なんだと解釈して、北へまっすぐ延びる文献路について行く。小さいながらも荷物を引っ張って30分以上は歩いた。お嬢さん達も私と似た道草好きで、文献路に並行に造られた水路で手を洗ったり、野菜を洗って売っているおばさんに話しかけたり、なかなかのもんだ。

鉄道駅から文献路を北に歩いて20~30分くらいだろうか、「大理」と刻まれた門が見えてくる
野菜を売っている可愛いおばあちゃんと、寝台で一夜を共にした?お嬢さん達

大理古城
 やがて、『大理古城』の壁が見えてきた。ここで、「皆さんに写真をお見せして終わり」では、ここに来た甲斐がない。『大理古城』の歴史を語らなければならない。知らなければならない。前述したように、ここは中国とインドを結ぶ交通の要衝として栄えてきたのであるが、表舞台に出てきたのは唐に支援された蒙舎詔(もうしゃしょう)の時代で、それぞれ統治されていた6つのグループを統一して『南詔(なんしょう)、未詳~902年』という地方政権を樹立した。チベット・ビルマ語系部族の王国である。「詔」とは王の意味であり、蒙舎詔の統治するエリアが最も南に位置したので、南の王、すなわち『南詔』と呼ばれる。その後、『大理国』の町となったが、1253年に元のフビライによって破壊され、放置されていたが、1382年(明の洪武15年)に再建された。その形が基本となって、現在、私達が目にする大理古城を形成している。
 大理古城は、ほぼ正方形をした全長約6キロメートルの城壁で囲まれ、高さ7.5メートル、幅6メートル、東西南北にそれぞれ城門があったが、現在は『南門(なんもん)』と『北門(ほくもん)』の2つが賑やかである。
 北に向かってきた『文献路』は『南門』でメインストリートの『復興路』に名前が変わって北上し、東門から東西に走るメインストリートの『人民路』、さらに『護国路』、『玉洱路』、『平等路』などを横切って、最も北にある『北門』に達する。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された

南 門
 私の予約したホテルは、『復興路』にほぼ平行に南北に走る『博愛路』と東西に走る『人民路』が交差する便利な所であった。「身軽にならなくては」と、早い時間ではあったがチェックインを試みたところ、笑顔で「OKです」。「ありがとう」。
 さて、大理古城エリアの見学である。まずは、通り過ぎてきた『南門』から始めて北へ向かうことにする。その南門である。大理古城への南側からの入口である南門は、五華楼の南200メートルにある。城門の上には端正で豪華な2層の楼閣が建てられている。1984年に建てられたもので、驚くほど新しい建物なのである。その美しい姿を背景に記念撮影をする観光客も多い。この門から城壁に登る階段があり、2階から周囲の景色や遠くの『蒼山』の連なりを観ることができる。

メインストリートの復興路。正面は南門
南門とその上に建つ楼閣
この階段から南門の楼閣に無料で登ることができる
南門の 楼閣から見た景色
南門の 楼閣から見た景色
南門近くの広場で稼いでいる孫悟空(そんごくう)と 猪 八戒(ちょ はっかい)

五華楼界隈
 南門から復興路を北に300メートルほど歩くと、お目当ての『五華楼』があるが、その途中にある『大理市博物館』に寄ってみる。ガイドブックによると、『太平天国の乱』の頃に大理を治めた杜文秀(とぶんしゅう、1823~1872年)の総司令部であった元帥府を転用して造られた博物館である。大理国時代の石碑108基を集めた碑林や地元で出土した文化財を展示している。大理国時代にペー族が彫ったと言われる高さ1.6メートルの天王像がとくに有名だそうである。

大理市博物館
大理市博物館
大理国時代の石碑108基を集めた碑林

 南門の賑わいが復活するのは、『五華楼(ごかろう)』の辺りである。五華楼は865年南詔国の時代に建造され、政治、経済、文化の中心であった。建設時は、高さ30メートル、周囲の長さ2.2キロメートルであったが、大理国滅亡後の天災や戦災、そして文化大革命による破壊などを経て縮小され、現在の楼閣は1998年に再建されたものである。これまた、新しい建物なのである。
 近くに、人民英雄記念碑があるが、寂しい風景であった。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された。
五華楼 くのフォトジェニックな場所。夢中になりすぎて、水路に落ちた人がいた
人民英雄記念碑

 五華楼から100メートルほど東へ歩いて左折すると、新民路にある『大理天主教堂』が見える。1927年に建てられたカトリック教会である。1984年に国家の援助を得て改修され、現在の形となった。遠くから見ると屋根に十字架があることが分かるが、近くからでは屋根の十字架が見えないため、教会と認識できないであろう。それほど建築様式が地場と言うか、ペー族の伝統様式に近いのである。写真もちょっといたずらして写しました。

大理古城にある大理天主教堂
瑪利亜(マリア)
天主堂内部

いきなりですが中学校
 時計を見ると、11時57分。「昼時か」。ちょうど、すぐ近くに食堂みたいなのがあって、若い男女が7人ほどで3つのグループに分かれて外に置かれたテーブルで食べている。制服とセーラー服である。お客さんが好きなおかずをオーダーすると、おばさんが指図しておじさんが手下になって盛付けをする、いつものやり方のぶっかけ飯」のイメージである。私が迷っていると、セーラー服の二人組が「Can I help you ?」と声をかけてくる。私の大好きなセーラー服女学生である。「英国風英語だな。それにしてもどうして外国人だと分かるのだろう?」。うれしくて、まごまごしていると、「??」と頼んでくれた。少し時間がかかって、小さな壺のようなお碗に入った麺、野菜、ハムなどを混ぜて煮た一種のヌードルのようなものが出てきた。セーラー服お嬢さん達が書いてくれた文字は、日本の漢字で書くと「米線」と読めるような文字だった。雲南省は米どころであるから、麺は小麦粉ではなく米から作られた麺であった。「おいしい」と言ったところ、「oishii」と真似をして、「OK ?」と言われたので、「(おいしいの意味で)OK」と返したら、「追加注文OK」ととらえたらしい。次に「ルーシャン(乳扇)」と言って注文を続けた。これがおいしかった。ペー族が作る伝統的なチーズの一種らしい。油でパリっと揚げたり、塩をまぶして食べたりと色々なバージョンがあるらしい。ちょっと食べ過ぎだが、セーラー服お嬢さんのお奨めである。「ベスト・セレクション」。
 セーラー服と制服達との話を続けたい。彼女達は近くにある『雲南省大理第一中学校』の生徒で、お昼ご飯を食べにここに来ていたのである。中国では給食は無いみたいである。英語もまあまあできて、志望高校どころか、将来を見据えた大学の名前までも口にする才女(の卵)だったのである。「えっ、雲南から上海の大学を目指すの?」と聞いたところ、逆に不思議な表情を見せた。そうですよね、日本だって地方から東京の大学に行くのは別に珍しいことではないですよね。私が驚いたのは、中学の段階から目標とする大学を絞っている点である。そして、私のような年寄りからも日本のことを聞きたいという向上心や好奇心のあるお嬢さん達の熱意だ。敬意を表し、エールを送りたい。
 彼女達が持っていた小袋に小さな馬のマークが付いていた。気になって訊ねたところ、現在の雲南省は各種の良馬の産地として有名で、雲南の馬を総称して「雲南馬」と呼んでいるそうだ。冒頭の『茶馬古道』で、かつて、ここ雲南地域で採れたお茶をチベットの馬と交換したことからこの交易路が『茶馬古道』と名付けられたと述べたが、今では「雲南馬」が有名だと言う。おもしろい貴重な話を聞かせてもらった。「どうもありがとう」。
 「学校を見て下さい、運動場も」。母校に誇りを持つ精神も立派。「校内車両進入禁止」の看板を横に移して、セーラー服のお嬢さん達に連れられて、お寺のように立派な外形の中学校と運動場を見学させてもらった。「あーあ、楽しかった」。実はもう一つ、いいことが。
 今晩のワィンの友達にしようと、食堂に戻って「ルーシャン」を包んでもらった。手下のおじさんは食事中だったので、おばさんがくるんでくれたのだが、一つサービスしてくれた。

素直な表情がまぶしいセーラー服姿の女子中学生。右後ろは小さな食堂
雲南省大理第一中学校の正面
生徒達が広い運動場で走り回っていた
後回しになりましたが、「校内車両進入禁止」