西安から始めよう
2005年に新疆ウイグル地区に広がる『シルクロード・天山北路』、すなわち、大きく括ると(ウルムチ)-(トルファン)-(クチャ)-(カシュガル)を旅し、その旅の印象を記した。その後、中国の各地を旅行したが、『シルクロード』で一繰りにした旅行記を連続してまとめるために、ここでは、『シルクロード』の残り、具体的には、西安-蘭州-武威―張掖―酒泉―嘉峪関-敦煌の旅行記をまとめて、先の『シルクロード・天山北路』につなげたい。 一般的に『河西回廊』と呼ばれるエリアで、正確には河西(黄河の西)は蘭州から始まるとされるが、ここでは一般に言われている西安から敦煌までとして、 旅日記をまとめたい。
そして、例えば、『泉州』のように『海のシルクロード』の出発点と言われる都市については既に旅を終えているが、これらについては後に別稿でご報告をさせていただきたい。
さて、陝西省西安を『シルクロード』の出発点としてのみ捉えるのは、中国の歴史の軽視である。旅行者の異動というか、都市の訪問客数を示す統計資料を調べたことは無いが、西安はロンドン・パリ・ローマ・ニューヨーク等にも勝るとも劣らない各国からの訪問者数を誇る都市であろう。歴史の長さだけではない、歴史の深さを誇る都市なのである。さあ、西安咸陽国際空港に着陸だ。
歴史のおさらい
都市の歴史を語るのに、年代順(時系列)に並べるか、国家の名前を並べるか、時の為政者あるいは時代に影響を与えた人物で区分するか、その入口で迷ってしまうほど複雑かつ多様なキー・ワードを持つ都市が西安(長安)である。長安の呼称は、漢から始まった。ザクッと括れば、紀元前1134年に西周が初めてここに都を定めて以来、前漢(西汊)・秦・漢・隋などと続き、唐が滅亡する907年まで11の王朝がこの地を都としてきた。その間およそ2000年という長さを誇る。前漢時代(紀元前1~2世紀)には絹がローマまで運ばれ、隋唐時代には小野妹子、阿倍仲麻呂、空海、最澄などの多くの日本人が遣隋使、遣唐使としてその足跡を残している。
これからお付き合い願いたい私の『方向音痴の旅日記』に出てくる人物の名前で列記すれば、秦の始皇帝、前漢の武帝、霍去病(かくきょへい)、武則天、唐の玄宗と楊貴妃などが挙げられる。そして、『シルクロード』で括れば、『張騫』、『玄奘(三蔵法師)』などの名前も現れる。
もう少し丁寧に文献などを参考に“シルクロードに注目して”まとめれば、前漢・武帝の時代に西域へ張騫を派遣し、数々の失敗を経ながらも、張騫の切り開いた西域への道が、『絹馬交易(けんばこうえき)』の商路の礎をつくったと言えよう。そう、現在、シルクロードと呼称される交易路である。
前述したように、ここでは、西安-蘭州-武威―張掖―酒泉―嘉峪関-敦煌の順に旅の印象をまとめていくのであるが、西安を先頭に持ってきた理由は、長安、現在の西安がシルクロードの東の起点であるからである。次に向かう蘭州では、『黄河』と交差し、次の武威、張掖、…、と続く。賢明な読者の皆さんは、もう、お分かりだと思いますが、蘭州から先は黄河の西(河西)に向かう、『河西回廊』なのです。
旅の仕方の選択
この都市、あるいはその周辺をまとめて語れば、現存する世界各国の一国を語る以上の時間を要するであろう。そのためであろうか、西安の交通機関や旅行会社などでは、効率化、利便性を考えて、西安を地域に分けて観光ルートを設定している。鉄道駅近くにはバスターミナルや観光地に向かうバスの発着場があり、日本で言うと、6畳ほどの小さな小屋のようなスペースの旅行会社が多数集中している。旅行会社のパンフレットはどこも同じようなもので、①西安市街地(陝西省歴史博物館、大雁塔、小雁塔、鐘楼)、②東線ルート(兵馬俑、秦始皇陵、華清池、半坡博物館)、③西線ルート(法門寺、茂陵、乾陵)、④南線ルート(興教寺、香積寺)、⑤その他のエリアに分けて、料金設定をしている。
私のここ西安の滞在期間は、約1週間である。このまま、観光バスに乗ってツアーとして観光地を訪ねれば、見学の効率は良いだろうが、私の旅のスタイルではない。中国の方々ではなく、ここに来た外国人と接するための旅になってしまう。別にそれを嫌う理由はないが、我儘なのだろうか、フリーでいたいのである。そこで、訪問先が分散して移動が難しい西線ルートだけツアーに参加し、他はいつも通り気ままに一人旅をすることにした。どうなることやら。
市内観光のスタートは高い所から
観光客を旅行会社に誘うおばさんやおじさんは、市内観光の地図を売りつけようと必死である。西安の市内地図にはバス路線も記してあるので、観光客には役に立つ。どこからぶらぶらを始めるか。鉄道駅から南に歩いて10分くらいの所にホテルを取ったので、どこへ行くにもアクセスが良い。おばさんは地図の私の宿泊したホテルの場所にマークを入れてくれて、南側に高い塔が目立つ建物に行けと進める。素直に、そこに行ってみよう。『慈恩寺』とその敷地内にある『大雁塔』であった。『慈恩寺』は、唐の第3代皇帝高宗(628~683年)が、648年(唐の貞観22年)に「慈愛深い母親の恩徳を追慕する」目的で建立した仏教寺院である。大雁塔は、玄奘三蔵が天竺(インド)から持ち帰ったサンスクリット語経典や仏像などを保存するために、652年(唐の永微3年)に建立された。7層で、高さが64メートルもあることから、最上階からは西安市内を見渡すことができる。ただし、幅が狭い248段の階段を登らなければいけないので、普段、運動不足の方は覚悟が必要です。大雁塔の前に玄奘の像が建っている。パチリ。
中国の『書』については多言を要しまい。中国各地を旅すると、各地の博物館や美術館で、『書』の展示物に接することが必ずあると思います。そこで、今日は、少し 『 珍しい書』をお見せしたい。大きな筆を墨ではなく水で濡らして大理石の上に書く『地書』をお見せします。何かの詩を書いているらしいが、私には分からない。
もう一つ。中国の郵便ポストは緑色です。
陝西歴史博物館
大雁塔から北に向かって歩くと、『陝西(せんせい)歴史博物館』がある。「あれっ、『陝西省歴史博物館』の間違いでは?」とお気づきの方もいらっしゃると思いますが、『陝西歴史博物館』で間違いありません。この種の都市にある博物館などの名称は、『…省博物館』と名付けるのが一般的ですから、そう思われても仕方がありません。ここのそれは、一種のプライドと言うか、省を越えた国立クラスの総合歴史博物館であることを誇示しているのです。確かに、面積は約60,000平方メートル、参観ルートの全長は約1,500メートルと言えば、この中国でも最大級ですからね。その外観は、華麗にして安定感があり、伝統的宮殿様式と言われている。私が訪ねた時は、無料チケットは、午前、午後それぞれ3000枚ずつ、1日に6000枚だけ発券されるということだったが、午前2500枚、午後1500枚という投稿もあることを考えると、出かけられる時に確認された方が良いと思います。軍人、学生、老人などは優先的に無料で入館できる。一般の窓口ではなく、別の窓口へ行くと、チケットが貰えて、この特典はパスポートの提示によって外国人にも適用される。
この巨大な博物館は、3つの展示室に分かれていて、1階の第1展示室には先史時代から秦代、2階の第2展示室には漢代から、魏、晋、南北朝時代、同じく2階の第3展示室には隋、唐、宋、明、清の時代の文物が展示されている。自由に時間をかけられる一人旅なので、思いつくままに見学したが、質、量ともに中国を代表する大博物館である。印象を受けた展示物は数多く、そのすべてをここにご紹介できないが、多くの方々が見入っていた作品のいくつかを挙げてみたい。
まず、古い時代の代表格である西周中期の『盛付け食器』と『酒を入れる白壺』である。これ以前、あるいはこれ以降の私の『中国旅』で訪問した『博物館』は四十数か所ぐらいであるが、『周』の時代の作品の展示は、博物館の一種のステータスのような扱いを受けているようだ。その背景の一つは、中国古代の王朝という歴史の古さであろう。殷を倒して王朝を開いた周(紀元前1046年頃~紀元前256年)であったが、紀元前770年の西北部の遊牧民である『犬戎(けんじゅう)』に都・鎬京(こうけい)を占領され、翌年、洛邑(らくよう)への遷都を余儀なくされた。これを境に、それ以前を西周、それ以後を東周と呼んで区分される。したがって、ここ西安(周の時代の鎬京)は、西周の“地元”なのである。
地元に華を持たせて、最初に『西周』に登場してもらったが、博物館に入ると最初に出迎えてくれるのは、則天武后の母、楊氏の陵墓から出土した巨大な獅子像である。レプリカであるが、高さ3.1メートル、重量20トンの石像は、楊氏の墓の前に置かれ、守護像の役目をしているそうだ。確かに、威圧感がある。
西安と言えば、『兵馬俑』の『俑』である。ここ陝西歴史博物館にも、人間の代わりに殉葬された俑陶が展示されていた。とても人気があって、多くの人達が争うように写す角度を変えて、写真を撮っていた。近日中に、私も兵馬俑に出かけるのであるが、とりあえず、数枚撮っておいた。
私の個人的な好みで恐縮であるが、『唐三彩』の展示はお勧めである。その名の通り、唐時代の陶器で、金属を顔料に使って、酸化の炎色反応を用いて彩色されている。基本的には、緑、黄(茶)、それに土の色の白の組み合わせ、つまり、三色の組み合わせが多いことから、『唐三彩』と呼ばれる。説明によると、副葬品として遺骸とともに墳墓に埋葬されたという。その形状は、人物(武将、貴婦人)、動物(馬、ラクダ、獅子)、器(壺、皿)などが主なものであった。
“清の時代の観音像”は気品を感じさせる。気品というのは、国、民族、男女、年齢などを超えて人々を引き付けるものなのだろうか?多くの言語が、飛び交っていた。
文化の鑑賞には体力を消耗し、腹が減る
いつも思うことだが、文化の鑑賞には大変な体力を必要とする。頭が疲れるのではなく、体が疲れるのである。笑われるかもしれませんが、腹もすいてくる。ちょうど昼時だ。ジョークだと思われるかもしれませんが、目の前にあったのです。陝西歴史博物館を出たすぐの目の前に弁当屋さんがあったのです。10種類を超える具材から好きなものを選んでトレイにとり、簡単な椅子に座って食べる方法である。無理にこじつけると、メインテーブルや棚に並べられた料理を各自が好きなように取り分けて食べる『ビュッフェ(フランス語でbuffet)』に似ているところがある。ビュッフェが立食形式なのに対して、簡単ではあるが椅子がついているので、より進化しているとも言える。某国家(群)あるいは誰かが意図的に企てたのか知らないが、西が上等で東が下等であるかのような世界観、あるいは風潮が未だに存在する。この中国式簡易食堂というか、日本で言うと『屋台』であろうか、その高度な文化は、世界に誇ることができよう。
かつて、私が一時、凝っていた歌舞伎のシーンで、寒空に屋台で蕎麦をすするシーンがよく出てくる。まさに江戸情緒の極みである。『すする』という庶民の食し方も『粋』のど真ん中である。江戸時代の中期、そう言っても西洋人に分からなければ、17世紀には、この蕎麦が庶民の食べ物として定着していたのである。片手で食べ物を挟むというスーパーテクニックで蕎麦を楽しんでいた頃、英国では、ナイフだけ、あるいは手づかみで食事をしていたのである。英国にフォークが普及するのは18世紀以降の話である。揶揄(やゆ)しているのではない。英国にいた頃、家族で箸の使い方を教えた弟子たちは、もう、忘れたかな?食事の内容が違うからな。
話を戻しましょう。中国人は、たいていの人が茶葉を入れたポットを持ち歩いている。この時も、隣に座っていたご夫婦が店のおばさんからお湯を貰ってポットに入れている。私が余程、物欲しそうな顔をしていたらしくて、おばさんからプラスチックのカップを借りて、私にお茶を入れてくれた。おいしい。中国人のこの親切さには、本当に色々な場所でお世話になる。旅の楽しさを倍増してくれる。「どうもありがとう」。
ゆっくりと歩こう
簡単ながら日本人には多すぎる量の食事を青空のもとでいただいたし、優しさいっぱいのお茶もおいしかった。食後すぐに動くと腹具合が悪くなるので、ここはゆっくりと歩いて近くの『大興善寺』に向かおう。あれっ、ゆっくりどころか、歩が進まない。もう近くまで来ているのに…。通りの至る所で、信号に関係なく停止をかけられ、歩道橋の上でも人々が足止めされている。警察関係者が多数出て、車両も完全交通止めである。「政府要人」、「外国賓客」、「VIP」のような英語も聞かれる。
警護が解かれた後、予定通りに大興善寺に向かった。近くまで行ったのだが、警察関係者が中から出てきて両手で✖印をつくって、「ノー・エンター」。どうも、状況から察するに、VIPがこのお寺に来ていたみたいだ。警護が解かれた後も入場禁止なので今日はお寺の外観の一部をパチリ。しようがない、訪問日時を改めよう。
もう少し歩こう
大興善寺が閉まっていてはどうしようもない。今日は、大興善寺の入場は諦めて、ここからゆっくりと30分ほどぶらぶら歩いて『小雁塔(薦福寺)』に来た。薦福寺は684年に建立され、隋の煬帝(569~618年)や唐の中宗(657~710年)などが住み、後に寺院に改装したのが始まりである。詳細は省くが、唐の時代の高僧である義浄(635~713年)は、ここで仏教経典の翻訳作業を行うなど、ゆかりの地として有名である。
小雁塔が建てられたのは707年で、大雁塔の半世紀後である。軒と軒の間が狭い密櫓式といわれる作りで、大雁塔に比べて小ぶりなので小雁塔と呼ばれた。最初は15層の塔であったが、地震で上部の2層が破壊されて13層43メートルになったという。また、小雁塔の鐘楼内には金の時代に鋳造された高さ3.5メートル、重さ10トンの大きな鐘がある。
薦福寺の敷地内には西安博物院があったが、7つの展示室には西安と周辺から採集された玉器、青銅器、仏像などが展示されていた。
地下鉄の利用
小雁塔から鐘楼や鼓楼に近い鐘鼓楼広場に向かう。鐘鼓楼広場は、西安市内の真ん中辺りにあるので、『方向音痴』にとっては地図上の東西南北の座標(0,0)に相当することになる。「迷っても、どこに行ってもここに戻ってくれば、…」のはずであるが、やはり駄目だ。迷ってしまう。こういう時の解決策は、もちろん、どなたかにお訪ねすることであるが、西安のような大都市では、地元民よりも観光客の方が多くて、「ソーリィ」と言われることがしばしばである。携帯を持っているなら、GPSなどを利用して最新のメカニズムに助けてもらうことができるが、『携帯所有歴無し』なのである。では、どうするか?目的地が遠くならともかく、近くまで来ているのに、もうすぐなのに、…。必殺の解決策は何か?このような大都市における私の究極の解決策は、どなたでも使っている『地下鉄の利用』である。路線図を見て、現在いる最寄りの駅(Origin)から目的地(Destination)の駅まで地下鉄を乗り継ぐのである。「当たり前のことを言うな」と言われますが、遠回りになっても、確実に目的地に着くことができる。地下鉄という、最小時間で何の障害物もなく走る、この暴力的とも言える交通手段の利用である。「でも、風景、ヘリテージ、人々を観察できないのでは?」。そうですね。代わりに車内で人々を、それとなく、見て楽しんでいますよ。蛇足になりますが、「タクシーの利用は?」に対しては、個人的意図は無いことを前提に、「あまり好きじゃないのです」。
鐘楼と鼓楼
小雁塔近くの地下鉄駅『南稍門』乗車→『永寧門』駅→『鐘楼』駅降車、まさに暴力的にあっさりと市内の交通の中心部に建つ『鐘楼』が目の前である。中国でも最大級のものである。東大街、西大街、南大街、北大街、つまり東西南北の大通りが交差する場所に建つ鐘楼は、まさに、座標(0,0)である。4つの大通りはそれぞれの城門に通じている。1384年(明の洪武17年)創建、1582年(明の万歴10年)にここに移された。かつては、鐘で人々に時を知らせていたという。鐘楼の高さ36メートル、楼閣は、『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建てである。木造建築であるが、釘を一切使わず、継ぎ目のない一本柱様式の建築物である。
鼓楼が建てられたのは鐘楼の創建よりも4年早い1380年(明の洪武13年)である。大太鼓が吊るされていて、かつては太鼓をたたいて時刻を知らせていたという。楼閣の周囲は鐘鼓楼広場になっていて、市民の憩いの場となっている。
ところで、鼓楼の額に『聲聞于天』とあるが、事典で調べたところ、出典は『詩経』の「鶴鳴于九皐 声聞于天」であるとのこと。「鶴は深い谷底で鳴いても、その鳴き声は天に届く」の意。言うなれば、賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡るというたとえである。
回民街
そして、鼓楼の近くにある『回民街(イスラム通り)』である。その名の通り、イスラム寺院が10を超え、その周りに約2万人の回族の人々が住んでいるそうだ。なにか、今までとは異なった風情というか、イスラム世界に迷い込んだ感じがする街である。私の旅行経験では、この方達はどこの国でも意外と英語が通じることが多く、ここでも時間を惜しんで話し、そして徘徊した。「回民街」とは、『北院門」』、『化覚路地』、『西羊市』、『大皮院』の四つの街の総称だと教えてもらった。
また、最長老のおじいさんが、ここは美食街としても有名で、「お前には『羊肉泡馍(ヤンルーポーモー)』が一番だ」と勝手に決められて注文してしまった。恥ずかしい話であるが、私は料理の名前が全く苦手である。どうも、羊肉に香辛料を振りかけ、鍋で煮込んだシチューの中に、ちぎった焼きパンを入れた料理らしい。運ばれてきた料理を見て、びっくりした。私がイスラム圏でよく食するものだったのだ。「おじいさんは、天才だ」と、褒めたが、当然、彼は「なぜ天才なのか」は分からない。詳細を語るには、二人の英語が通じない。
そして、大失敗をした。話に、食に夢中になって、写真を撮らなかった。