中国・雲南省 麗江郊外(2)~虎跳峡~

虎跳峡に向かう
 早朝、6時30分、金沙江沿いに伸びる全長20キロメートル 、高低差3000メートルの大峡谷・『虎跳峡(こちょうきょう)』に向かう。地理的には、金沙江は『麗江』の『玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)』と『香格里拉(シャングリラ)』の『哈巴雪山(はばせつざん)』の間を流れる川で、麗江からも香格里拉からも同じような距離にある。標高も玉龍雪山のそれは哈巴雪山の5396メートルと大差なく、どちらから虎跳峡に向かっても良いのであるが、私の選択は後日シャングリラに向かう予定だが、とりあえず麗江側から 虎跳峡 を攻めることにした。
 2014年当時の旅行ガイドブックによると、公共交通は不便であって、麗江市内から往復400元でタクシーをチャーターすることを勧めていたが、ホテルのスタッフのアドバイスは違った。早朝6時30分に市内のバスターミナルから『虎跳峡』行きのバスが出ていて、3時間から3時間半くらいで到着するという。料金は、確かバス料金30元+保険料3元だと記憶している。片道約80キロメートル、往復で約160キロメートルの距離を70元、それも保険料付きである。タクシーをチャーターした場合に比べて、400-70=330元も浮く。選ばない手はない。
 夜も明けきらない早朝6時30分。国土の狭い、それも縦(南北)に長い日本では考えられないが、東西に国土の広い中国では北京時間(中国標準時)の早朝6時30分は、西側に位置するここ麗江では未だ夜が明けきらない時間である。それにしても、次第に明るくなっていく、それも明るくなるにつれて峡谷が険しくなっていく第一級の景色の変化は超お勧めです。

早朝、6時30分、麗江から金沙江沿いに伸びる全長20キロメートル 、高低差3000メートルの大峡谷・虎跳峡に向かう
出発して2時間後、遠くの山も白み始めた
雲が低く見える。皆さん、車内から写真を撮っている。雲海が好きである
出発して3時間。『虎跳峡景区』まで10キロメートルの道路標識。胸が高まる

高山病対策
 ホテルのスタッフに聞かれたのだが、「高山病の治療法の1番は何か?」。「?…」。私が答えに窮していると、彼はにこにこしながらこう言った。「下山または低地に行くことです」。「こいつふざけているのか」。でも冷静に考えてみると、その通りだ。そもそも高山病の症状は、低血糖、脱水症状、頭痛などと覚えていたので、素人療法で、彼のくれた飴をなめていれば低血糖対策にはなりそうだ。念がいったことに、飴が入っていた袋には、觔斗雲(きんとうん)に乗った孫悟空の絵が描かれていた。御存知のように、雲に乗って空を飛ぶ架空の雲『觔斗雲』と孫悟空、まさに高低差3000メートルの大峡谷である虎跳峡を象徴している。こいつ、意図したかどうかは定かではないが、「ユーモアとしても一流だ」。脱水症状対策は、こまめに水を飲むことでいいだろう。

ガイダンス
 麗江のバスセンターから3時間半くらいで『虎跳峡』の駐車場となっている建物の前に着いた。レストランを兼ねた広い待合室のような部屋に通され、管理人のような人が簡単な地図を配りながら説明を始めた。
①このエリアで金沙江の川幅が狭くなっており、虎がこの峡谷を飛び越えたというのが名前の『虎跳峡』の由来です。
②上流から順番に、『上虎跳峡』『中虎跳峡』『下虎跳峡』に分けられ、一般のガイドが付くツァー旅行の場合は麗江側の『上虎跳峡』を選ぶ人が多いです。『中虎跳峡』は峡谷が切り立っていて険しいです。
③『虎跳峡の入場券』を買い求めてください。上、中、下のどの虎跳峡に行かれても65元です。
④帰りのバスの時刻表は貼りだされています。
⑤気を付けて楽しんでください。
 「そう言われたら、『中虎跳峡』を選ぶしかない。ここで止めたら沽券にかかわる」。そう考えているらしい年寄りが数人、勇んで出かけてしまった。初めて会った私と同年配らしい男性は、「どうしますかね?」と話しかけてくる。「うっ、I wonder…」、英国人だ。隣にいた奥さんが「ネヴァー」と言って止めたせいか、彼はむきになって、私に向かって「レッツゴー」。「受けて立とうじゃないか」。奥さんの強い希望で、いきなり『中虎跳峡』に行かずに30分くらい管理棟の周りを散歩することにした。
 ここからでも、エメラルドグリーンの美しい川は眺められるし、流れの急なダイナミックな風景、好きな橋は見られる。ビビっているのではない。楽しんでいるのである。御同輩と目配せをして、中虎跳峡に向かった。

虎跳峡の入場券
エメラルドグリーンの川
ダイナミックな風景
神川大橋

中虎跳
 中虎跳の入口に、英語と中国語で書いた黄色い看板があった。簡単に言うと、「この山道は歩きやすくするために、地元民が政府の援助を受けないで造ったもので、これを維持するために10元を支払って下さい」。「途中、リフレッシュメントもあります」のような意味である。
 中虎跳は、上虎跳峡と比較して地形がかなり険しく、距離だけでなく勾配も急になっている。階段が途切れている所が多く、川に向かって降りていく時に滑ったり、躓いたりと厳しい状況が連続する。中途まで降りたはいいが、それ以上は進めず、そうかといって戻る(登る)こともできず、「ヘルプ・ミィー」と叫ぶ爺さんもいる。私の場合は助けに行くのも危険なので棒につかまって見ているしかない。こういう時に役に立つのが、『馬追い』というか、『馬子』のグループである。馬を上手に使って、救急車じゃない、救急馬になるのである。相手が大きい馬だけに乗っている時に掴まる所がなく、私は乗らなかったが、私なら確実に落馬してしまうだろう。
 この馬子達の仕事がもうひとつあった。前述したように、虎跳峽は高低差3000メートルの峡谷で、高山病の恐れがある高地である。「孫悟空飴」で対応が難しい時は、写真に示した「ブドウ糖注射液」がある。馬子達は忙しいのである。
 ここまで述べたことだけでは、『中虎跳』は危険な場所だけのイメージが定着してしまう。言いたいことは、「それでも出かけたい峡谷である」。お勧めは、一番下(川に近い場所)にある虎跳石の上から見る景色である。流れの激しさと見上げる両側の山々の迫力に感激すること間違いなしです。

蛇足ながら締めくくり
 流れのしぶきを浴びる一番下まで降りた人達は、証拠写真を撮ってガッツポーズ。しぶきを目前にダウンした方々も努力賞。さて、ガイダンスの直後に、「『中虎跳峡』は峡谷が切り立っていて険しいと言われ、ここで止めたら沽券にかかわる。『中虎跳峡』を選ぶしかない」と意気込んで出かけた年寄りの方々は、…?そう、ことごとく下を向いて弁解していた。それにしても目的達成度は、圧倒的に女性の方が多かった。「今時、筋を通し、不言実行するのは女なのです」。
 ここまで読んでくださった方々は、気になる人がいらっしゃいますね。そう、私のご同輩の「レッツゴー」さんは、英国人らしく、レストランで奥さんと二人でティを飲んでいた。
 ほら、もう一人、いるでしょう、ほら。気になる人が?「ええいっ、もう。おわり」

中虎跳への入口。ここでも10元の支払いを求められた
中虎跳への入口
傾斜の険しい斜面に咲く孤高の美しさ
急傾斜で足場が良くないため、とくに戻る時(登り)に馬に乗る人もいた
馬子たちが持っていたブドウ糖注射液。高山病対策のエース的存在である。よく考えれば、虎跳峽は高低差3000メートルであった
途中にあったリフレッシュメント売り場
鉄の梯子を下から写す。近道ではあるが、それ故に急勾配である
中虎跳峡。「さあ、こいっ。ここからがさらに難所」
人間が小さく見える
中虎跳峡の撮影に夢中な観光客。ここまで降りてきた人の中に年寄りはいなかった。そして女性の方が多かった。
写真の左上に赤いペンキで「虎跳石」と書かれている岩が見えるが、ここから見る流れの激しさと両側の山々の景色は超ド迫力
うわぁ
静かなり

中国・雲南省 麗江郊外(1)~束河古鎮~

大理から麗江へ
 大理から麗江へは、快速列車で約2時間、バスで約4時間で行くことができる。既に述べたように、古城内にホテルを取っているため、列車を利用する場合は古城側から大理駅のある下関側までの移動に時間を要するし、列車の便数やチケットの入手の難しさを考えると、早朝6時から一日に40便もある麗江行きのバスの利用の方が便利である。バスも下関発であるが、途中に大理古城前の通りにある乗り場を通るので、わざわざ下関まで移動する必要はない。ホテルからバス乗り場まで歩いて10分もかからなかった。待合室のようなものは無く、2畳程の小屋のような所にいたおばさんに「70元」と言われ、「えっ」と言ったところ「63元」と言われた。皆さん、市内の旅行代理店や宿泊先のホテルで70元とか90元でバスチケットを買ったみたいだが、「63元」を支払った私の「+3元?」は妙にリアルに響く。このおばさん、特定のバス会社の社員ではなく、旅行代理店の人みたいで、バス会社に次々に電話してバスの到着時間を教えてくれた。
 さて、麗江が近づいている。道路標示を見ると、ついついカメラに収めてしまう。英国の高速道路(Motorway)で使われているCarriageway(車道)やOvertaking lane(追い越し車線)の表示が懐かしい。よく誤用されているので、この際ですので、道路の正確な英語表示を掲げたい。道路は英国ではRoad、米国ではHighway、高速道路は 英国ではMotorway、 米国ではExpresswayと呼ばれます。「ハィウェイを突っ走ってはいけません。高速道路ではなく、道路なんですから。スピード違反ですよ」。余計なことかもしれませんが。
 麗江バスターミナルに到着した。壁に表示されていた「麗江→大理」の運賃表を見て納得した。「大理→麗江」の料金として私が支払った「63元」と同じであった。つまり。こういうことです。私は大理のバスの停留所でチケットを買ったので、正規運賃の「63元」、他の乗客はホテルの手数料とか、旅行代理店のおばさんに連れてきてもらったなどのサービス料金を含んでいるので、その分高かったということです。納得。

英国の高速道路(Motorway)の一部で使用されている表示。Carriagewayは車道、Overtaking laneは追い越し車線である

束河古鎮へ向かう
 今日は、忙しい。麗江古城には車両やバイクは入ることができないので、バスターミナルから古城の北側までタクシーで5分、15元/3人。ホテルまで徒歩10分くらいであった。チェックインを済ませて、お昼過ぎであったので、葡萄パンを買い求めて、バスの中で、…。私の旅の仕方らしくないが、早く行きたいのである。これから市内ではなく郊外の『束河古鎮』に出かけるのである。
 『束河古鎮』は、麗江古城の北西、約4キロメートルに位置する。資料によると、『束河(そくが)』は、ナシ語で「高い峰のふもとにある村」という意味である。束河古鎮は標高2440メートル、面積約5平方キロメートル、中心保護区域1平方キロメートルとある。ナシ族の最も古い集落の一つであり、ナシ族を中心に約1000世帯、約3000人が暮らしている。本ブログの『大理』で述べたが、ここもかつて『茶馬古道』の要衝として栄えた町で、1997年に麗江古城とともに世界文化遺産に登録されている。
 御存知のように、張芸謀(チャンイーモウ)監督、高倉健主演の『単騎、千里を走る』の撮影は、この村を中心に行われたことでも有名である。
 麗江古城付近からの行き方は、タクシー、乗り合いタクシーなどもあるが、バスセンターから出発する公共バス11路、6路も便利で、かつ安い。11路バスのルートを写真で載せておいたが、バスセンターから乗車すると20番目の『束河路』下車、徒歩10分である。

バスの運行経路。束河路口へ11路バスで

束河古鎮へ歩く
 大きな門から入って駐車場を抜けると、『束河古鎮』と書かれた山門のような入口が見える。北は玉龍雪山、南は象山、文筆峰が眺められ、美しい緑が広がっている。
 参道のような道を歩いていくと、『茶馬歓迎広場(Tea-Horse Welcoming Square)』と呼ばれる賑やかな広場がある。『茶馬歓迎広場(Tea-Horse Welcoming Square)』の看板が立っていて、『茶馬古道』を移動してきた隊商の一団がここで一休みしたことなどが書かれていた。かつて交易で栄えた束河古鎮らしく、この広場でも客を待つ観光馬車が並び、多くの露店の食べ物屋さんなどが続く。観光客の流れは一様で、私もその流れに従って歩くことにする。
 『四方聴音広場』と呼ばれる広場に辿り着いた。横にあるステージでは、毎日15時半から1時間、ナシ族、イ族、チベット族、ペー族の歌や踊りが上演される。残念ながらたった今、終演時間が過ぎてしまった。10分前に終わっていた。後で知ったことだが、夜の7時半から焚火を囲みながらナシ族の伝統的なダンスが始まる。これまた、時間が取れない。仕方がないのでステージの写真を撮って、石造りの民居を楽しみながらすり減った石畳をさらに進む。
 やっと『水』が見えてきた。今までどの町の古鎮であっても古鎮につきものの水の流れや池がここでは見られなかった。ましてや、『束河古鎮』は、「清き泉の里」とたとえられ、「麗江古城の縮図」と言われる古鎮である。やっと水を見たのである。小さいながらも『青龍河』という立派な名前の小川である。

農村風景と古い町並みの調和が美しい束河古鎮
麗江の北西4キロメートルに位置するナシ族の村・束河古鎮の入口
茶馬歓迎広場
茶馬歓迎広場で客を待つ観光馬車
茶馬歓迎広場の露店の食べ物屋さん
自在に愛馬を操る元気なおばさん
四方聴音広場にあるステージで多くの民族による歌や踊りが上演される

三眼井
 水の話が出てきたので、早速、水を利用した土木に関する施設をご紹介します。『三眼井』と呼ばれる古い井戸のことです。読んで字のごとく、目が3つある井戸である。つまり、水のたまる場所が連続して3か所あって、一番上から飲用水、二番目は野菜や食品を洗い、最後の三番目は洗濯用に使用するという、実に合理的に考えられた井戸のことである。『三眼井』は麗江古城にもある。
 相当以前から話題になっている話で恐縮であるが、水道には上水道と下水道があることがご存知ですね?日本やイランのように、水道水を飲料水として直接飲める国が少ないこともご存知ですね?口にする水をトイレの汚物を流す水として使っていることは、とても贅沢なことなのですね。そこで、上下の間を取って『中水道(ちゅうすいどう)』という考え方が提案されたのです。中水道とは、生活排水や産業排水を処理して循環利用する方法で、雑用水とも呼ばれる。主な用途は水洗トイレの用水や公園の噴水などで、当然のことながら人体と直接接触しない目的や場所で用いられる。『三眼井』から『中水道』の話になったが、水の問題は、どの国においても、どの分野においても、将来的課題になるであろう。
 三眼井の辺りは、住民の生活の場であることから、旅行者にとってはまさに人々の「生活実感」を観察できる場所でもある。(場所や地域にもよるが)このところ、まさに急変している風景は、喫煙者の数が激減していることである。中国に限ったことではないが、『禁煙』が普及することは大歓迎である。
 そして、今日の一枚。おじいちゃんの目線と、背中におぶっているお孫さんの目線がぴたりと合った瞬間の写真である。

三眼井。三か所の水が溜まった場所で、一番上から飲用水、二番目は食品を洗い、最後に洗濯用に使用するという井戸
グッ・タイミングで撮れました。羨ましい
何という遊びだろう。皆さん、気合が入っていた
触ることができなかったので確認できなかったが、材料は木だろうか、石だろうか

四方街
 『青龍河』まで来たのに、『三眼井』で道草をしてしまった。楽しんでしまった。『青龍河』に戻って河に沿って上流に向かうと、村の中心の『四方街』に辿り着く。束河の四方街は、長さ33メートル、幅27メートルの小さなエリアである。ヨーロッパの古い町などで行われる広場や通りの『自動洗浄』がここでも行われていた。自動洗浄とは、私が勝手に名付けたもので、人通りが少ない時間帯に水路をせき止めて水を路上に溢れさせ、そのエリアを洗う方法である。エリア全体を洗うことによる清潔保持はもちろんのこと、季節によっては気化熱を利用して日中の灼熱を抑える効果もある。この合理的システムによる洗浄は、磨り減った石畳に陰影を与え、一種の風情をかもし出していることも見逃せない。明の時代から行われているというから驚きである。
 もっとも、日本でも神社仏閣だけでなく、田舎の民家でも公道から自宅までのアクセスあるいは空きスペースに小粒の砂利を敷いておいて、朝に箒目(ほうきめ; 箒で地面を掃いたあとのすじ)をたてていた記憶がある。私の小学生の頃の役目であった。随分と昔のことである。

さて、どっちへ行くか
四方街の説明
四方街。中心部にある四角形をした石畳の広場

青龍橋から茶馬古道博物館
 四方街の西側に青龍河にかけられたおおきな『青龍橋』がある。この石橋は明の時代に架けられたもので、長さ25メートル、幅4.5メートルと大きく、麗江地域では最古の橋である。ナシ族の言葉で「ジア橋」とも呼ばれ、その意味は、「泉から湧き出た水が集まってくる所」と言う意味である。その名の通り、橋の上流側には『疏河龍潭』、『九鼎龍潭』と呼ばれる2か所に清流が湧き出ている泉があった。しだれ柳に囲まれた「潭(ふち)」は、玉龍雪山の雪解け水が溜まってできたもので、透明度の高い水中で小魚が泳いでいた。この水が村の家々を潤し、畑に水を供給しているのだ。まさに「命の水」なのである。
 この辺りから中和路を北に向かうと、かつての麗江地方の支配者、木氏の住居だった『大覚宮』と『茶馬古道博物館』がある。博物館の入口前の路地が工事中であったので、一部しか見ることができなかったが、茶葉の歴史、この地の歴史や文化に関する展示が主なものだった。
 大覚宮は明代後期の建物で、内部の壁には仏教画が6つ描かれていた。案内のお嬢さんは、「チベット仏教の影響が見られない」と説明してくれたが、浅学の私にはよく分からなかった。カメラも撮影技術も悪く、不鮮明な画像で申し訳ありませんが、それを吹き飛ばすような鮮やかで上品な蒼桃の花でお許しください。。

青龍橋
博物館への標識。道路工事中
茶馬古道博物館
茶馬古道博物館。茶葉の歴史、この地の歴史や文化に関する展示が充実している
大覚宮の壁画の紹介
大覚宮の壁画
バラ科の蒼桃の木
束河古鎮よ、さらば。扉を閉めさせていただきます

中国・雲南省 大理(2)

崇聖寺三塔
 『大理観光』の午前は、「セーラー服とルーシャン(乳扇)」で気持ち良く締めくくったが、午後は、予定通りに蒼山(そうざん)応楽峰のふもとにある『崇聖寺三塔(すうせいじ さんとう)』に向かう。崇聖寺三塔とは、崇聖寺とその敷地内の三つの仏塔の総称である。崇聖寺は、9世紀から10世紀の南詔・大理国時代に造られた仏教寺院で、王室の菩提寺となった由緒あるお寺であった。清の時代に焼失したが、2005年に再建され、現在に至っている。
 対称形をなすように配置された三つの塔は、清の時代に自然災害と戦禍にみまわれたが、倒れずに残り、現地の人達の崇拝の対象となっている。中央の主塔(千尋塔)は、南詔の勧豊佑時代(824~859年)に建てられた16層の方形密檐式仏塔である。レンガ製で高さ69.13メートルである。主塔の南北に建つ2つの小塔(北塔および南塔)は大理国の時代(12世紀)に建てられた10層の八角形密檐式仏塔である。レンガ製で高さは42.19メートルである。塔の後ろには聚影池という池があり、水面に映る三塔の姿は美しい。

三塔の隣にある倒影公園からは池に映った塔が見える
南詔建極大鐘
主塔の先に『石鳴蛙』と書かれた石がある。中央に置かれたこぶし大の石を凹んだ穴に投げ入れると「グェ、グェ」と蛙の鳴き声が聞こえなかった?
雨銅観音殿
観音殿に祀られていた金色の観音は、体は男性、顔は女性だった
崇聖寺山門のアップ
天王殿
弥勒殿
弥勒菩薩
弥勒菩薩の後ろをかためる韋駄天
十一面観音
本殿にあたる『大雄寶殿』
大雄宝殿のご本尊

洋人街界隈
 美しい三塔に別れを告げて、大理古城のホテルに戻る。午後4時半は、この地域ではまだ明るいが、夜行列車で今朝着いてすぐの観光開始だったし、ちょっと眠い。元気なのはセーラー服のお嬢さん達と仲良くなったからだ。そうだ、「ルーシャン」の友達の「ワィンを仕入れなきゃ」ということで、ホテルから近い洋人街に出かけた。大理古城の中心部だけあって、おしゃれな店が並ぶ繁華街であり、多くの観光客は中心広場で行われているパフォーマンスに興じていた。

洋人街近く
洋人街
洋人街
銅像の格好をしているパフォーマー

ペー族の村・喜州へ向かう
 『大理古城』西門から洱源『(じげん)』行きバスで30分、『喜州(きしゅう)』で下車。ここから目的の『喜州古鎮』近くまで1キロメートルほどなので歩くこともできるが、オート三輪で5元と安い。現在では日本で見ることがほとんどないので、若い方々はご存じないかもしれませんが、主に荷物を運ぶオート三輪である。「お前、運転するか」というようなジェスチャーで冗談を言う?元気なおばさんは、飛ばした、飛ばした。若い頃、『族だった』のだろうか?『オート三輪の族』はないか。そう言えば、飛ばしおばさんは自分を指差して、族は族でも『ペー族(白族)』と主張していた。
 さて、喜州は、大理古城から17キロメートルほど北に行った、洱海(じかい)の西岸にあるペー族の村である。南詔国の成立については先に簡単に述べたが、ここは、その軍事拠点、商業貿易の中心として栄えた地域である。約1000年を超えた現在でも、その町並みの一部が残っているので、多くの観光客が訪れる。特徴は、「白壁と青瓦を持つ『ペー族民居』」である。88軒の民居のうち、特に『厳家大院』、『董家大院』、『楊家大院』の3軒は保存状態が非常によく、明清時代のペー族独自の建築様式をそのまま残しているという。

喜州に入村
『喜州古鎮』近くまでオート三輪 の荷台に私を乗せて、砂利道をふっ飛ばす“(ペー)族おばさん”。5元。元気な『何でも屋さん』である

新しい喜州
 古き町並みを想像して、おばさんのオート三輪で村に入って驚いた。新しい建物と言うか、建設中のそれが連なっているのである。人もまったくいない。2014年3月のことである。近代的な建物が向き合って建ち、間にある道路の入口には、『喜州古鎮 喜州市場』と記された石塚が立っていた。しかし、古鎮ではない。『喜州古鎮』という村の、新しく建設する『喜州市場』という意味である。『人民法廷』も立派な建物であった。

建設中の喜州市場
今後の新築に使われる建築資材
喜州市場
豪華な人民法廷

やっと喜州古鎮

 建設中の喜州市場から少し歩いて、やっと『喜州古鎮』にたどり着いた。大きな門から中に入ると右側にカウンターがあって、ペー族の衣装を身に着けた係員が「票(ぴょう)」と声をかけてくる。ここで票(チケット)を買い、入場する仕組みである。

喜州古鎮の入口
チケット売場
ペー族伝統建築様式に西欧建築を一部取り入れた厳家大院
厳家民居
ペー族の少女
厳家大院の中庭
内 部
宝成府
喜州名物の喜州紦紦ソバをうっている青年。『地球の…』に載っていたとおりハンサムだった
楊錫龍宅入口
賑やかな市場

玉洱公園
 今日は、『大理』から『麗江』に移動する日である。ホテルから少し歩くとバス乗り場があり、麗江まで4時間、1日に40便もある。まだ、朝8時なので『大理』でまだ訪ねていないホテル近くの『玉洱園』に散歩に出かける。植栽をし、湖を作り、そこに小さな橋を架けるなど、中国伝統の工夫を凝らした公園である。公園の朝のすがすがしい空気がおいしい。自分もその一人であるが、時間がくると多くの観光客が訪れて雑踏が始まる。それを狙って、お土産屋さんや食堂のおばさん、おじさんが準備をしている。私も、朝ご飯代わりに焼き立ての大理の特産品『核桃餅(くるみもち)』をいただいた。本当においしい。私の年令ではもう遅いが、知人の中国人のおばあちゃんに教わったのだが、「クルミを毎朝食べていると頭がよくなる」そうです。私は頭が悪そうに見えたのか、職人が一つサービスしてくれた。「ありがとう」。

玉洱路と復興路の交差から東に向かうと玉洱園がある
水と橋の組み合わせで美しい風景を表現している
大理の特産品『核桃餅』を作っている職人さん
蒋公祠
言うことなし、美しすぎる

中国・雲南省 大理(1)

茶馬古道
 茶馬古道(ちゃばこどう)をご存知かと思います。中国の雲南地域で採れた磚茶(たんちゃ;茶葉を圧縮成型して固めたお茶)をチベットの馬と交換したことから名付けられた交易路のことです。この他の交易品として、雲南地域から塩、茶、食料品、布製品銀、製品など、チベット地域から薬草、毛織物、毛皮などが扱われたのである。インドやネパールで生産された物資もチベットを経由して雲南に届いたと言う。その茶馬古道の要衝として栄えてきた中国側の都市が、今日登場する雲南省の大理であり、次回に登場予定の麗江である。

大理に向かう
 大理ペー族(白族)自治州の中心地である大理は、気候が穏やかであり、海抜4000メートル級の『蒼山』と透明度の高い『洱海』からなる風光明媚な風景は、「山水如画」と称えられている。
 地理的には、古くからの中心地である『大理古城』と、現在の大理ペー族自治州の政治、経済そして交通の中心地である『下関』に分けられる。前述したように、大理は交通の要衝だけあって、昆明大理鉄路と大麗線の起終駅である大理駅があり、バスターミナル(BT)も大理BT、大理快速BT、大理北BT、興盛BT、大理西南BTの5か所のバスターミナルがある。私は、夜行列車に乗ってみたかったので、昆明駅23時38分発のエアコン付急行列車K9636に乗車、大理駅着翌日の07時36分で移動した。メモを見ると、寝台は下段で105.5元とある。
 深夜の昆明駅は、皆さんは出発待ちブースに座ってお茶を飲んだり、本や新聞を読んだりと静まりかえっている。旅行ガイドブックを見ていると、50代くらいのご夫婦がたどたどしい英語で「日本人ですか?」と聞いてきた。「はい」と笑顔で返すと、彼らはご自分達のチケットを出して見せたので、「大理(ダーリ)」と応えると、指で「オーケーマーク」。「ストン」、「stone」と言うので、さすがに大理は大理石の産地であることは知っていたので、「ダーリー・ストン」と答えたところ、とても嬉しそうに、「イェス、イェス」と言ってくれた。そして、奥様から魚をかたどったお菓子とお茶をいただいたのだが、びっくりしたのは彼女がビスケットを指差して、「鯛(たい)」と発音したことだ。日本ではお祝いの魚だが、彼女の説明だと「中国では尖っているので良い魚ではない」と言うことであった。おもしろい。
 おもしろいことをもう一つ。ご夫婦に「仲がいいですね」と言ったところ、ご主人が「我爱老婆(我愛老婆)」と書いてくれた。「うっ、高齢の女性を愛する?」。私が理解できていないと思ったのか、今度は奥様が笑いながら「我爱老公」と書いてくれた。「お二人とも年寄り好みなんだ。私のようにセーラー服好みじゃないらしい」。でも、これを英語で分かってもらうとしたら時間がかかりそうだ。でも大丈夫。お二人はスマートな人達だった。「オー、イェス」と笑って、「老婆」は中国語で「妻」、「老公」は「夫」を意味する言葉だったのだ。また一つ賢くなった。「ありがとう」。
 話が盛り上がってきて、ご主人には大理について、私の日本語のガイドブックの地図に印をつけて色々と教えていただいた。日本語で書かれたガイドブックに写真と漢字?を見つけて説明してくれるので、名詞を並べるだけの英語でも私には十二分である。
 アナウンスと液晶の表示板で列車の発車案内があった。お二人に丁寧にお礼を言って「スイー、ユウ、トゥモロー」。「バイバイ」。
 駅のホームに行くと、大理行きの列車は既にホームに入っていた。「ハロー」、「ハロー」。寝台の仲間は若い女性3人組だった。お互いに笑顔で、(行先の)「大理古城」と言って頷き合ったのだが、深夜の睡魔には勝てない。「グッ、ナイ」。安心したせいか、寝台に横になった途端に眠ってしまった。

大理古城へ
 定刻通り、早朝7時40分に大理に着いた。熟睡だった。昨日、お世話になったご夫婦にお礼を言わなければと探したが、多数の乗客の混乱でお会いすることができなかった。心で念じるしかない。「申し訳ありません、ありがとうございました」。
 ご親切ご夫婦から教わった通り、到着した『大理駅(下関)』から1路バスで『大理古城』に向かうべく、目の前にある『大理バスターミナル』に向かったが、寝台の仲間だったお嬢さん達が、「大理古城?」と聞いてくるので「イェス」と答えたところ、「ヒァ」と言って、私の腕を引っ張る。「No.1 bus」と言っても、「Here」と譲らない。徒歩で行ける距離なんだと解釈して、北へまっすぐ延びる文献路について行く。小さいながらも荷物を引っ張って30分以上は歩いた。お嬢さん達も私と似た道草好きで、文献路に並行に造られた水路で手を洗ったり、野菜を洗って売っているおばさんに話しかけたり、なかなかのもんだ。

鉄道駅から文献路を北に歩いて20~30分くらいだろうか、「大理」と刻まれた門が見えてくる
野菜を売っている可愛いおばあちゃんと、寝台で一夜を共にした?お嬢さん達

大理古城
 やがて、『大理古城』の壁が見えてきた。ここで、「皆さんに写真をお見せして終わり」では、ここに来た甲斐がない。『大理古城』の歴史を語らなければならない。知らなければならない。前述したように、ここは中国とインドを結ぶ交通の要衝として栄えてきたのであるが、表舞台に出てきたのは唐に支援された蒙舎詔(もうしゃしょう)の時代で、それぞれ統治されていた6つのグループを統一して『南詔(なんしょう)、未詳~902年』という地方政権を樹立した。チベット・ビルマ語系部族の王国である。「詔」とは王の意味であり、蒙舎詔の統治するエリアが最も南に位置したので、南の王、すなわち『南詔』と呼ばれる。その後、『大理国』の町となったが、1253年に元のフビライによって破壊され、放置されていたが、1382年(明の洪武15年)に再建された。その形が基本となって、現在、私達が目にする大理古城を形成している。
 大理古城は、ほぼ正方形をした全長約6キロメートルの城壁で囲まれ、高さ7.5メートル、幅6メートル、東西南北にそれぞれ城門があったが、現在は『南門(なんもん)』と『北門(ほくもん)』の2つが賑やかである。
 北に向かってきた『文献路』は『南門』でメインストリートの『復興路』に名前が変わって北上し、東門から東西に走るメインストリートの『人民路』、さらに『護国路』、『玉洱路』、『平等路』などを横切って、最も北にある『北門』に達する。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された

南 門
 私の予約したホテルは、『復興路』にほぼ平行に南北に走る『博愛路』と東西に走る『人民路』が交差する便利な所であった。「身軽にならなくては」と、早い時間ではあったがチェックインを試みたところ、笑顔で「OKです」。「ありがとう」。
 さて、大理古城エリアの見学である。まずは、通り過ぎてきた『南門』から始めて北へ向かうことにする。その南門である。大理古城への南側からの入口である南門は、五華楼の南200メートルにある。城門の上には端正で豪華な2層の楼閣が建てられている。1984年に建てられたもので、驚くほど新しい建物なのである。その美しい姿を背景に記念撮影をする観光客も多い。この門から城壁に登る階段があり、2階から周囲の景色や遠くの『蒼山』の連なりを観ることができる。

メインストリートの復興路。正面は南門
南門とその上に建つ楼閣
この階段から南門の楼閣に無料で登ることができる
南門の 楼閣から見た景色
南門の 楼閣から見た景色
南門近くの広場で稼いでいる孫悟空(そんごくう)と 猪 八戒(ちょ はっかい)

五華楼界隈
 南門から復興路を北に300メートルほど歩くと、お目当ての『五華楼』があるが、その途中にある『大理市博物館』に寄ってみる。ガイドブックによると、『太平天国の乱』の頃に大理を治めた杜文秀(とぶんしゅう、1823~1872年)の総司令部であった元帥府を転用して造られた博物館である。大理国時代の石碑108基を集めた碑林や地元で出土した文化財を展示している。大理国時代にペー族が彫ったと言われる高さ1.6メートルの天王像がとくに有名だそうである。

大理市博物館
大理市博物館
大理国時代の石碑108基を集めた碑林

 南門の賑わいが復活するのは、『五華楼(ごかろう)』の辺りである。五華楼は865年南詔国の時代に建造され、政治、経済、文化の中心であった。建設時は、高さ30メートル、周囲の長さ2.2キロメートルであったが、大理国滅亡後の天災や戦災、そして文化大革命による破壊などを経て縮小され、現在の楼閣は1998年に再建されたものである。これまた、新しい建物なのである。
 近くに、人民英雄記念碑があるが、寂しい風景であった。

復興路にある五華楼。865年南詔国の時代に建造された。
五華楼 くのフォトジェニックな場所。夢中になりすぎて、水路に落ちた人がいた
人民英雄記念碑

 五華楼から100メートルほど東へ歩いて左折すると、新民路にある『大理天主教堂』が見える。1927年に建てられたカトリック教会である。1984年に国家の援助を得て改修され、現在の形となった。遠くから見ると屋根に十字架があることが分かるが、近くからでは屋根の十字架が見えないため、教会と認識できないであろう。それほど建築様式が地場と言うか、ペー族の伝統様式に近いのである。写真もちょっといたずらして写しました。

大理古城にある大理天主教堂
瑪利亜(マリア)
天主堂内部

いきなりですが中学校
 時計を見ると、11時57分。「昼時か」。ちょうど、すぐ近くに食堂みたいなのがあって、若い男女が7人ほどで3つのグループに分かれて外に置かれたテーブルで食べている。制服とセーラー服である。お客さんが好きなおかずをオーダーすると、おばさんが指図しておじさんが手下になって盛付けをする、いつものやり方のぶっかけ飯」のイメージである。私が迷っていると、セーラー服の二人組が「Can I help you ?」と声をかけてくる。私の大好きなセーラー服女学生である。「英国風英語だな。それにしてもどうして外国人だと分かるのだろう?」。うれしくて、まごまごしていると、「??」と頼んでくれた。少し時間がかかって、小さな壺のようなお碗に入った麺、野菜、ハムなどを混ぜて煮た一種のヌードルのようなものが出てきた。セーラー服お嬢さん達が書いてくれた文字は、日本の漢字で書くと「米線」と読めるような文字だった。雲南省は米どころであるから、麺は小麦粉ではなく米から作られた麺であった。「おいしい」と言ったところ、「oishii」と真似をして、「OK ?」と言われたので、「(おいしいの意味で)OK」と返したら、「追加注文OK」ととらえたらしい。次に「ルーシャン(乳扇)」と言って注文を続けた。これがおいしかった。ペー族が作る伝統的なチーズの一種らしい。油でパリっと揚げたり、塩をまぶして食べたりと色々なバージョンがあるらしい。ちょっと食べ過ぎだが、セーラー服お嬢さんのお奨めである。「ベスト・セレクション」。
 セーラー服と制服達との話を続けたい。彼女達は近くにある『雲南省大理第一中学校』の生徒で、お昼ご飯を食べにここに来ていたのである。中国では給食は無いみたいである。英語もまあまあできて、志望高校どころか、将来を見据えた大学の名前までも口にする才女(の卵)だったのである。「えっ、雲南から上海の大学を目指すの?」と聞いたところ、逆に不思議な表情を見せた。そうですよね、日本だって地方から東京の大学に行くのは別に珍しいことではないですよね。私が驚いたのは、中学の段階から目標とする大学を絞っている点である。そして、私のような年寄りからも日本のことを聞きたいという向上心や好奇心のあるお嬢さん達の熱意だ。敬意を表し、エールを送りたい。
 彼女達が持っていた小袋に小さな馬のマークが付いていた。気になって訊ねたところ、現在の雲南省は各種の良馬の産地として有名で、雲南の馬を総称して「雲南馬」と呼んでいるそうだ。冒頭の『茶馬古道』で、かつて、ここ雲南地域で採れたお茶をチベットの馬と交換したことからこの交易路が『茶馬古道』と名付けられたと述べたが、今では「雲南馬」が有名だと言う。おもしろい貴重な話を聞かせてもらった。「どうもありがとう」。
 「学校を見て下さい、運動場も」。母校に誇りを持つ精神も立派。「校内車両進入禁止」の看板を横に移して、セーラー服のお嬢さん達に連れられて、お寺のように立派な外形の中学校と運動場を見学させてもらった。「あーあ、楽しかった」。実はもう一つ、いいことが。
 今晩のワィンの友達にしようと、食堂に戻って「ルーシャン」を包んでもらった。手下のおじさんは食事中だったので、おばさんがくるんでくれたのだが、一つサービスしてくれた。

素直な表情がまぶしいセーラー服姿の女子中学生。右後ろは小さな食堂
雲南省大理第一中学校の正面
生徒達が広い運動場で走り回っていた
後回しになりましたが、「校内車両進入禁止」

中国・雲南省 昆明郊外(3)~九郷風景名勝区~

 昆明3日目の観光は、市内から東北東に約90キロメートルの宣良県にある『九郷風景名勝区』である。幸いなことに、昨日訪れた『石林』と同じように、昆明の東部バスターミナル(昆明市東部汽車客運站)から出発して『宜良』に行き、そこで乗り換えで目的地の『九郷風景名勝区』に行くことができる。「さて、腹ごしらえだ」というか、もう皆さんご想像のように、昨日利用した東部バスターミナル前の超美人お姉さんの屋台風食堂へ向かう。昨日は、時間が無いので、最も簡単な麺を頼んだが、今日は早めに来て時間のかかりそうな「???」を頼んだ。満足。どうして中国人は「素肌美人が多いのだろう」。
 お姉さん(の料理)に満足して、スキップしながらバスターミナルの『宜良』行きのレーンに向かい乗車、18元である。相変わらず定時制は守られていて、時間通りに乗車後約1時間で終点の『宜良』バスターミナルに着く。立派なバスターミナルで、観光客がその前に建つ時計塔の写真を撮っている。私も観光客なので、記念の写真を撮った。ここから21路バスに乗って、所要時間約50分で目的地の『九郷風景区』に着く。10元である。

昆明東部バスセンター7時40分発宣良9時着のバス切符18元
宣良バスターミナル
宣良バスターミナルの時計塔
宣良9時20分発九郷10時20分着のマイクロバスのチケット10元
『九郷風景区』到着したマイクロバス

九郷風景区
 九郷風景区は、「地上石林、地下九郷」と言われるように、地下の巨大な鍾乳洞が目玉である。エリア内の洞窟は100以上もあり、また遊歩道の長さは約5キロメートルと長い。
 先ずは、救命具を付けて、蔭翠峡を小さな手漕ぎボートで往復800メートルほど往き来する。ベニスのようにカンツォーネのサービスは無いが、かわりに不動のどっしりとした石岩が、揺れる川面に映る美しい姿は、ここでしか味わえない至福の時である。そして、川面を渡る風を受けながらの手漕ぎボートの揺れが心地よい。

地質公園博物館
何の木でしょう?
エリア内にある洞窟は100を超え、遊歩道の全長は5キロメートルに達する
先ずは蔭翠峡を手漕ぎボートで往復800メートルほどを 往き来する
蔭翠峡の大文字
美しい風景が連続する
映像になった場所の写真を壁に掲げてある
遊歩道を歩く
めったに見られないストロマトライト(stromatolite)。藍藻(らんそう)類の死骸と泥粒などによって作られる層状の構造をもつ岩石である
ライトアップ

ユーモアたっぷり
 この辺りまで来ると、次々と特徴のある風景が続き、カメラが忙しい。一緒になるわけではないが、なんとなく近づき過ぎず、離れずに歩いていた同年配に見える紳士が、立ち止まって肩をすくめるジェスチャーで、「ファニー」と言って笑った。私も「ファニー」と言ってしまった。『仙翁酔臥』である。読んで字のごとく、仙人が酔って寝ている姿である。「こうありたいね」。二人は同時に英語で言ってしまって、同時に笑ってしまった。
 「神女宮」と呼ばれるライトアップされた鍾乳洞のけばけばしさに閉口しながらも歩みを進め、明るい場所に出たので、腕時計を見た。そして二人とも、また同時に笑ってしまった。彼も腕時計を見ていたのだ。「ジャスト…」。
 まさに12時00分、ランチタイムだった。30分くらい楽しい時間を過ごした。私は日本人、彼は北京在住の中国人、「共通語は英語」か「たどたどしいフランス語」と言いたいところだが、彼は古き良き時代の方々が使う「美しい日本語」を完璧に話した。色々なことを話したが、話の中心は『仙翁酔臥』がスタートだったせいか、「仙翁が飲んだのは、マオタイ酒だったかどうか」となってしまって、私はほとんど聞き役だった。但し、「ヴァン」と「スカッチ」は引き分けだった。
 彼は文学部出身で、しかし、スマートな方で、「あなたは工学部か」と言い当てた。そして、相当以前にここを訪ねたことがあるらしく、「是非、『リムストーン』を訪ねて下さい」と助言された。「あなたなら理解されると思いますが」と言って、彼が教えてくれた情報を要約する。
 鍾乳石(炭酸カルシウム)を豊富に含んだ水が水溜まりを作ると、ヘリの部分に炭酸カルシウムが結晶化して堤防のような壁ができる。これを繰り返して棚田のように小さな池が階段状に重なり合っていく。畦に当たるところをリムストーン(畦石、輪縁石)と言い、とくに、曲線的に長く伸びるリムストーンを英語では「Chinese Wall(万里の長城)」と表現している。

仙翁酔臥(The Sleeping Drunk Celestial)。読んで字のごとく、仙人が酔って寝ている姿である 。まさにユーモラス
ライトアップされた「神女宮」と呼ばれる鍾乳洞。洞窟の天井面から鍾乳石が垂れ下がっている
『神女宮』洞窟の近くにある休憩所 。ここで食事した
渦旋壺穴(Vortex Pothole;流れの渦が造った壺状の穴)
叠虹橋
棚田のようなリムストーン。鍾乳洞内にあるリムストーンとしては世界最大と言われている
 
ライトアップされた独秀峰。長期間石灰化した沈殿物によって覆われた落石から発達した。高さ5.4メートル、胸径4メートル
Bending Stalactite 鍾乳石(しょうにゅうせき)
出口からケーブルを使って登りのメインゲートへ戻る

のんびりいこう
 景区の中心から離れると、小さな店、レストラン、駐車場、トイレなどがあるのんびりとした村である。私は帰りの『宣良』行きマイクロバスの出発を待っているのであるが、運転手はマージャン(麻雀、Mahjong)の最中である。対面のおばさんは、「萬子(マンズ)のイッキツウカン(一気通貫)」を狙っているぞ、気を付けろ」。まだ、テンパっている人もいないので、もう少し時間がかかりそうである。私流旅行では、これも大切な旅の思い出なのである。「おじさん、おばさん、ありがとう」。

この小さな案内板が旅人には結構役立つのである
宣良行きバスの出発を待っているが、運転手は麻雀の最中である

中国・雲南省 昆明郊外(2)~石林風景名勝区~

石林風景区のガイダンス
 今日は、昆明市街から南東に約80キロメートルの『石林風景名勝区』を訪ねる。ブログのどこかで書いたのだが、日本人にとって、漢字はとても便利な表意文字である。中国語の「読み書き」が全くできなくても、何となく、一部ではあるが、そしてたまには誤解をしてしまうが、「石林」は石の柱が林立した風景」をイメージできること、まさに「読んで字のごとく」である。
 私は、土木に関する研究に従事していたことから、ここ石林を有名にしている『カルスト地形』なる用語についても、抵抗が無い。石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地がヒントである。ここの地形は、古生代後期の地殻変動によって海が隆起したことから、その石灰質の岩面が上部に出てきて、その後、削られて造られたものである。つまり、海の底が隆起して石灰岩からなる陸地となり、その後の風化と浸食によって、石の柱が林立する『石林』になったのである。結果として、この奇観を呈する石林は、2004年に『世界地質公園』と認定され、2007年にユネスコの『世界自然遺産』に登録されたのである。総面積は1100平方キロメートル余りで、そのうち約350平方キロメートルが保護エリアとなっている。
 石林風景区は大石林景区、小石林景区、歩哨山景区、李子園箐景区、万年霊芝景区などで構成されているが、多くの人は、『大石林景区』、『小石林景区』を回るようで、それだけでも見応えがあるし、時間もかかる。

石林風景名勝区へ
 石林風景区へは、ツアーを利用したり、タクシーをチャーターする方法があるが、帰りの集合場所や時間のトラブルが起きるので要注意である。タクシーを使って、『石林風景名勝区』と『九郷石林風景名勝区』の双方を1日で廻って900元というのもあったが、私は時間制限が無く、『九郷石林風景名勝区』は明日訪ねる予定なので、例によって「勝手気まま・最安旅行」を選んだ。バスの利用である。昆明東部バスターミナルは、大きく近代的な建物で、行先を表示した郊外行きのバスが並んでいる。『石林風景区』行きの片道27元のバスチケットを買って、乗車して1時間半で終点。実に簡単である。「方向音痴のお前が言うな」と叱られそうだが、それほど簡単なのである。
 朝早かったのだが、東部バスターミナルの前には麺類や饅頭の店が湯気をたててお客を待っている。簡単なものもあれば、雲南名物の汽鍋鶏など、本格的な料理も用意されていた。時間が無いので、最も簡単な麺を頼んだが、お腹がすいていたせいもあるが、温かい麺は美味かったー、安かったー。もう一つ。お姉さんが超美人だったので、帰りも寄った。違う人だった。何も食べないで帰ってきた。
 この種の観光資源についての余計な説明は、皆さんには煩わしいと思いますので、ここからは写真を並べさせていただきます。

とても立派で大きい昆明東部バスターミナルの集票庁
昆明東部バスターミナルから、朝5時半出発の石林風景名区行きバスに乗車した
1時間半ほどで風景区のバスターミナルに到着して、石林風景区へ移動するバッテリーカー乗り場へ移動する
チケット売り場、ツァー・ガイドセンター
風景区へのバッテリーカー乗り場。人気の観光地だけあって観光客が列をつくって待っている
石林は2004年に『世界地質公園』と認定され、2007年にユネスコの『世界自然遺産』に登録された
参道には、石林イ族自治県のイ族の露店が連なる
ばあちゃん、頑張れ
大石林景区
「石林」と彫られている石林勝景
望峰」と名付けられた東屋が見える。ビューイング・スポットである
望峰亭から見た大石林景区
アンモナイトの化石を見るために列をつくっている
次々と触るせいか、表面がつるつるだった
私にはゴジラに見える
青い民族衣装を着た石林イ族の人達の踊り

石林の最後を飾るにふさわしい悲恋物語
 『大石林』と比較して観光客が少ない東側にある『小石林』の中で、人気があるのが『阿詩瑪(アシマAshima)』と呼ばれる石峰である。阿詩瑪石という巨石が阿詩瑪伝説の基となったのであろう。話はこうである。
 アシマはサニ族の伝説の少女で、阿黒哥という恋人がいた。ところが、地主の息子が横恋慕し、アシマを連れ去ってしまった。阿黒哥は艱難辛苦の末に、恋人アシマを助け出したが、地主の息子は二人を溺死させようと川の堰を切る。哀れアシマは水の底へと消え、残された阿黒哥がアシマの名を呼ぶとアシマの姿を映した石像が現れたという。
 アシマについての説明も横に建ててあったのでその写真を載せたが、私は涙で目が曇って、最後まで読み切れなかった。「オペラ良し」、『アンナ・ネトレプコ』でどうだろう。「文楽良し」、玉男が鬼籍に入った今、蓑助か?
 中国人も、この種の話が好きなせいか、感情移入して、貸衣装を着てポーズをとっていた。

サニ族の伝説の美少女『阿詩瑪(アシマAshima)』の石峰。
悲劇の美少女『阿詩瑪(アシマAshima)』の説明

中国・雲南省 昆明郊外(1)~西山風景名勝区~

中国人ってこんなに優しいの?
 インドのコルカタ (カルカッタ) 空港 (CCU) を00 時30分に出発、中国の昆明長水国際空港に(中国時間;中国北京時間)05 :10に着く。両国の2時間半の時差を考えても、実質の睡眠時間は、…ということで、機内でインドのビールを飲んだ覚えはあるが、あとは何も覚えていない。
 昆明長水国際空港は、航空需要の増加に対応するために、西部大開発の一環として市内から25キロメートルほど東側に建設された空港である。2007年11月15日に工事が開始され、2012年6月28日に開港した。今日は2013年3月19日朝5時半である。インドのコルカタ(カルカッタ)空港から20分ほど前に到着したのだが、まだ開港9カ月の空港内部は、早朝とは言え、埃一つないピカピカである。閑散としていて、ロビーにつきものの小さな店も、両替所も開いていない。『ツァリスト・インフォメーション』も人がいない。この時間じゃ無理もないか。
 事前の情報によると、空港から昆明市内に向かうのに、軌道6号線があるが途中までであり、現時点では行先によって区分されている空港1号線から空港6号線まである「エアポートバス」を利用するか、タクシーが便利である。とりあえず、ホテルに向かわなければならない。エアポートバスに乗るべく外に出たところ、知らないおじさんが「ノー、バス」と言いながら近づいてくる。「多分、タクシーの客引きだろう」と無視して、周りを見回したが、バスも見えない。また、「ノー、バス」と言いながら数人が近づいてくる。英語は全く話せないらしい。どうも、まだバスの運行開始時間ではないらしい。タクシー以外の選択枝は無いようだ。「100元」と書かれた数字を見て、「しまった、私は70元しか元の現金を持っていない。両替所も閉まっている」。焦ってお願いしたが、日本円やドルでは受けとらない。参った。そうこうしているうちに、貫禄のある50代くらいに見えるおじさんが、出てきた。私が財布を広げて中の70元を見せると、取り巻きの手下たちに命じて、私の荷物を運ばせ、「ありがとう」と聞こえるような日本語で、にこっつ。「ありがとう」は私が丁重に言わなければならない言葉なのに…。昆明のお助けマン、「ありがとう」。
 タクシーの運転手は、高速道路を飛ばし、中国語で書いてあるホテルの名前と住所のメモを見ながら、無事ホテルの入口まで行ってくれた。
 「中国人って、というか雲南の人達ってこんなに優しいの?」

チェックイン&西山風景名勝区へ
 早朝のチェックインにもかかわらず、予約通りの3泊の料金でOKだった。半泊分あるいは1泊分を追加されても仕方が無いのであるが、「シャワー」と言ってくれた。両替についても、日本円は両替できないので、100元貸してあげるから後で銀行で両替して戻してもいいよ」と言うような拙い英語のやり取りで10元を10枚貸してくれた。とりあえずの移動は可能だ。本当に、「雲南の人達ってこんなに優しいのです」
 すっきりしてから、あらかじめ調べておいた郊外の『西山風景名勝区』、『石林風景名勝区』、『九郷風景名勝区』へのそれぞれの行き方を中国語で書いてもらった。
 昆明初日なので、それに深夜便でインドから着いたばかりなので、無理をしないで近場の『西山風景名勝区(西山森林公園)』に出かけることにした。「バス、OK」の指サインをホテルのスタッフからもらったので、ホテル近くの停留所(バスストップ)→眠山バスターミナル→(6路バスで)西山森林公園のルートがベストらしい。
 眠山バスターミナルに着くと5人ほどが既に来ていた。西山風景名勝区の案内ポスターを見ながら話しこんでいるが、全員中国語であるので理解できない。仕方が無いので、案内ポスターを写真に収めようとカメラを向けたところ、「撮ってあげますか」と言う英語。二度、三度言われて、「ポスターをバックに写真を撮ってあげますか」と言ってくれたことを理解できた。まだこの頃は中国旅行に凝る前だったので、つまり慣れていなかったので、中国人への接し方とでも言うか、会話の間合いの取り方などが全く初心者だったのだ。もちろん、十数億人もいる中国であるから、一括りで論じることはできないが、…。
 人の親切はすんなりと受けるほうなので、「ありがとう」と日本語で言って、ポスターをバックに写真を撮ってもらい、「あなた方を撮っていいですか」と英語で聞いた。「OK、OK」と笑顔。若いお嬢さん達の笑顔は、どこでも、誰でも眩しく、人を幸せにする。試し?が効いて、「ありがとう」で日本人であることを理解してもらった。そして、「レッツゴー」になった。「あーあ、良かった、あーあ、幸せ」。
 教訓;人の親切には、外国では「サンキュー」ではなく、使い慣れている「ありがとう」と言いましょう。笑い;使い慣れていない方々は、日常生活(日本語)から始めましょう。何事につけ、感謝の気持ちを込めて「ありがとう」と言いましょう。

空港から昆明市内までの高速道路の入口
西山風景名勝区(西山森林公園)行バス乗り場(眠山バスターミナル)
眠山バスターミナルから一緒になったお助けお嬢さん3人組。「Arigatou」
西山森林公園のバス停留所。眠山バスターミナルから30分もかからなかった

森林公園の散歩開始
 眠山バスターミナルを出発した6路バスは30分もかからないで、『西山森林公園』のバスの停留所に着いた。驚いたことに、観光バスやツァーのバスではなく、いかに公共バスとはいえ、バス料金が1元であったことだ。この後、私は相当の年数をかけてトータルで200日間ぐらい中国全土を旅しているが、今回の旅は中国行脚を始めた最初の頃でもあったので、余計驚いた記憶がある。それも日本で走行しているそれ以上の豪華バスである。
 「中国の観光地の各種の入館、入園、入山料金などは通常の国民の平均収入からみて高い」と多くの日本人旅行者が言うが、確かにそういう見方もあるとは思うが、私にはよく分からない。ここ『西山森林公園』はそういう議論を閉じてしまう迫力がある。バッテリーカーやリフト代金、それに『劉門石窟』の入場料は別途払わなければならないが、入山・入場料金は年齢にかかわらず、無料なのである。
 さて、今日の私は、無料の若い女性ガイド3人がついているのである。幸運にも英語も通じるし、「ありがとう」にも微笑んでくれるし、何も言うことが無い。それに、この雄大な景色、きれいなすがすがしい空気感は、私の表現力を超える。ここは写真を中心に進めますので見て楽しんで下さい。
 ここ『西山森林公園』の魅力は、山中にある『華亭寺』と『太華寺』、『龍門景区』内にある石窟と道観(出家した道士が居住する道教寺院)、そして遊歩道のハイキングと言われる。わがガイド嬢達は中国語で書かれた地図付きの小冊子を片手に「キャーキャー」言いながら、そして私に気遣いしながら歩む。私は、普段は静けさを好むくせに、今日はその「キャーキャー」が心地よく響く。勝手なものである。いつもは、J.S.バッハの『6声のリチェルカーレ』をこよなく愛している私が、今日は、『♪♪♪』と大変身である。音楽が出てくるということは、今の私は上機嫌なのである。
 お嬢さん達にお任せの私は、メモ帳に中国語と英語でお寺の名前などを書いてもらったり、カメラをパチパチやるだけである。教わった一部と後で調べた知識をご紹介します。

よく整備された参道(山道)。ハイキングはここの楽しみの一つ
入山してから最初の休憩所。歩き始めたばかりであるが、お嬢さん達は私に気を配ってくれた

華亭寺
 『華亭寺』は西山華亭峰の中ほどにあり、元は円覚寺と呼ばれていた。現存する建物は、1923年、虚雲大和尚が再建したものである。昆明最大の寺院で900年の歴史を誇る古刹である。再建中に「雲栖」の字が刻まれた石碑が見つかったことから、寺院は『雲栖靖国禅寺』と改名されたが、現在も華亭寺の名で呼ばれている。
 山門をくぐると池(放生池)があり、その先には天王宝殿がある。中に入ると天王宝殿の表門(おもてもん)と対になって金剛力士の塑像が鎮座している。巨大で勇ましい表情で華亭寺を守護しているのである。殿内にはさらに弥勒像、韋駄天像、四大天王像が安置されている。

西山華亭峰の中腹にある華亭寺。昆明最大の寺院で900年の歴史を誇る古刹である
きれいに清掃された中庭
雲栖禅寺(せいさいぜんじ)天王宝殿
雲 樓

太華寺
 『華亭寺』を出したからには、それと並び称される『太華寺』に向かわなければならない。写真に示したが、『西山景区案内図』にあるように、ここ『華亭寺』と『太華寺』を結ぶ『太華古道』が便利である。距離は1.6キロメートル、歩いて30分、まさに遊歩道である。
 『太華寺』は西山の最高峰、太華山の中ほどにあり、『仏岩寺』とも呼ばれる。創建者は『雲南禅宗第一師』と称される『玄鑑』で、1300年から1310年頃に建てられた寺院である。『華亭寺』より10年ほど古いことから、西山で現存する寺院の中で最古の仏教寺院である。

西山景区案内図
華亭寺と太華寺を結ぶ距離1.6キロメートルの『太華古道』
太華寺の門の外にある大きなイチョウの古木
太華寺
西山で最大規模の寺院、太華寺
屋根のアップ
太華寺の内部

聶耳の陵墓
 『中国国歌義勇軍行進曲』の作曲者である聶耳(じょうじ)をご存知でしょうか。私は、彼の陵墓や記念館が西山にあることを初めて知りました。そして、1935年欧州留学のために立ち寄った日本国藤沢市で溺死、その縁をもって『昆明・藤沢友好林』が西山にあることを知りました。享年24才。合掌。

中国国歌義勇軍行進曲の作曲者・聶耳(じょうじ)の陵墓
聶耳の立像
昆明・藤沢友好林

西山龍門石窟
 「登龍門」の語源である『龍門石窟』に向かう。滇池(てんち)の西岸にあり、滇池に面した断崖絶壁に刻まれた道教石窟群である。楊父子と70余名の石匠によって、1781年から1853年の22年の歳月を費やして完成させたものである。
 お嬢さん達の持つ案内書によると、龍門石窟は漢字で「奇、絶、険、幽」を特色とする石窟だそうだ。深い内容は読み解けないが、表意文字である漢字にすると、イメージは浮かぶ。しかし、その後に続く説明文については、お互いに外国語である英語では、もう一つ物足りない。それで帰国後に中国語の分かる人に聞いたところ、説明文を漢文調に読み解いた。「昆明に到りて西山に到らざれば未だ昆明にあらず。西山に到りて龍門に登らざれば未だ西山にあらず」だそうだ。何となく分かったような気がするが、…。その『龍門』に私は向かっている。気持ちの昂りを抑えられない。
 龍門石窟は三清閣から龍門の頂上の達天閣まで全長66.5メートルで、慈雲洞、雲華洞などがある。『慈雲洞』から『雲華洞』と呼ばれる岩壁をくり抜いた全長40メートルの桟道(トンネル)が続き、中に掘られた階段を上ると『竜門』に行き着く。西山で一、二を争うビューポイントだけに観光客で混雑している。竜門を過ぎて人の流れに任せて歩くと、頂上に近い所に達天閣が彫られている。
 お嬢さん達が『竜門』の光っている部分を撫でていたので理由を聞くと、訪問者が撫でるために光っているという。触ると「良い事がある」そうだ。昔は、「科挙に合格する」とか、「出世する」ことを願ったそうだが、現在は、「?」、「?」を願うそうです。「?」、「?」については、ご自分で想像してください。若いお嬢さん達ですから、「あれですよ、あれ」。
 それにしても、この『蒼崖萬丈』の崖に、70余名の石匠が22年の歳月を費やして完成させた石窟、石彫、石坊、石段、石道、石刻等々、想像を絶する労苦であったと、身震いしてしまう。

旭光亭
『龍門石窟』入場券売り場
眼下に広大な 滇池(てんち) が見える
羅漢崖
羅漢崖の終点に近づく
三清閣
財 神
普陀勝境。ここを入ると龍門である
雲華洞
断崖絶壁に造られた龍門石窟
龍門の頂上に穿たれた達天閣
『龍門』と刻まれた石窟前の展望台は一番人気である
穿雲洞
手掘りのトンネル
眼下に見える景色

中国・四川省 成都市内(2)

昭覚寺
 この禅宗寺院は、唐の貞観年間(627~649年)の創建で、歴史があるだけに由来を列記するだけで大変である。『川西第一禅林』と称される名刹で、創建当初は『建元寺』、後に唐の宣宗に『昭覚寺』」の名を賜った。明末(17世紀初め)に戦災で全焼、清の康煕2年(1663年)に破山和尚により再建された。さらに続く。文化大革命時に破壊され、1985年修建され現在に至る。
 唐の時代より幾多の名僧を輩出しただけに、近隣の仏教国家との関係も深く、書物によると、円悟和尚(1063~1135年)が記した著書『碧厳録』は日本の僧侶に広く読まれ、また『茶禅一味』は日本の茶道に影響を与えたとある。
 交通手段であるが、乗車地点を確認して、1、49、53、71、90路バスで『昭覚寺公交駅』で下車、徒歩5分で着くが、『成都動物園』の隣なので、乗車の際、バスの運転手に「パンダ」と日本語で伝えておけば、バス停が近づくと、「OK」と言って、笑顔で教えてくれる。そう、昭覚寺は成都動物園の隣にあるのです。

『川西第一禅林』と称される名刹、『昭覚寺』
休憩所になっている虔心亭。信者なのだろうか、おじさん、おばさんが、おしゃべりに興じていた
天王殿は、国泰平にして民安らかなこと、そして豊年を願った
金 鐘
大雄宝殿
鼓 楼
蔵経楼
昭覚寺

金沙遺址博物館
  2001年、住宅開発のための下水道工事をしている最中に、偶然、古代四川文明(古蜀文明)の遺跡が発掘され、現在、成都市のシンボルになっている金の太陽神鳥、金のマスク、大量の玉製品、青銅や石製の人物像、マンモスの牙などが出土された。遺跡は、主に大型祭祀場跡をドームで覆った遺跡館と、出土品を展示した陳列館の2棟の建物で構成されている。
 遺跡から一部を切り取ってきた成人や子供の墓も展示されていたが、実にリアルな形で人骨が保存されていた。また、金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーがあって、現代でもアクセサリーや飾り物として十分に通用する、いやむしろ斬新に見えるデザインを施した金や銅の飾りに魅入られた。
 「玉を語らずして中国を語るべからず」。でも、この『宝石』について語る資格は私にはない。あまりにも深くそして広い。以下のように簡単に述べるにとどめたい。ここの『金沙遺址博物館』にも玉はあった。刀の形状をした儀礼用玉器(玉璋)、国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器(玉圭)、そして、武器であると同時に斬首を執行する刑具(玉斧)が展示されていた。外国人はせいぜい写真を撮るぐらいであるが、中国人は『玉』の周りを行ったり来たり、目つきが違うのである。ここまでにしましょう。
 外国人にも中国人にも人気があるのは、『黄金のマスク』と「太陽神鳥金箔」である。後者は、2001年2月25日に発掘され、外径12.5センチメートル、内径5.29センチメートル、厚さ0.02センチメートル、重量20グラム、金の純度94.2%である。制作年代は3000年前の商代と推定されている。書物によると、4羽の神鳥は四季を象徴し、太陽を表す中央の空洞の周りに透かし彫りされた12本の光芒は12カ月を表し、太陽と万物の生命が循環を繰り返す様を象徴していると考えられているそうだ。現在、成都市の市微になっており、本遺跡のシンボル的出土品である。
 私は、この「太陽神鳥金箔」がすっかり気に入って、ショップでイミテーションを購入して、今も飾ってある。ここのショップでもう一つ買い物をした。金糸で刺繍を入れた白い帽子である。2000年に所属ゴルフクラブの「三大トーナメント」の一つで優勝してカップに名前を刻印した後、15年間鳴かず飛ばずの成績が続いていたが、この帽子のおかげでパッティングが冴えて、月例などで好成績が続いたのである。いいですか、成都市の『金沙遺址博物館』のショップで売っている金糸で刺繍した白いキャップ( 帽子)ですよ。かぶり方は、パッティングの時だけ、つばを後ろに回してかぶってください。笑わないでください。このぐらいしないと、ジャックニクラウス設計のゴルフコースでは勝てません。

墓を遺跡から切り取ってきて幾つか展示してあります。これは成人の墓です
金器・青銅器・石器などが展示されている雑類のコーナーにあった銅の飾り
『銅虎』のアップ
アップ
石 虎
『玉璋』。刀の形状をした儀礼用玉器
『玉圭』。国の統治者が優秀な家臣に与えた玉器
玉斧。斧は武器であると同時に斬首を執行する刑具。_thumb
『太陽神鳥』の金箔
一番人気の『太陽神鳥』の金箔。成都市の市微になっている
国宝級の黄金のマスク(金面具)。金沙遺跡が三星堆文化(約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化)を継承したことが分かる遺物と言われている
黄金のマスク(金面具)
古代の戦争に用いられた戦闘用馬車(戦車)
地形の模型

永陵博物館
 成都永陵博物館は、唐滅亡後の五代十国時代の前蜀(907~925年)の開祖、王建(847~918年)の陵墓『永陵』を博物館としたものである。1942年に発掘され、その後全国重要文化財に指定された。2015年6月、私が訪ねた時は、『永陵博物館』は工事中で閉鎖されていた。入口にある赤い看板がその『お知らせ』である。
 でも、そっと門を押してみると、開くではないか。工事のおじさん達が忙しそうに土木工事をしていた。私は自分を指差して「エンジニア」と言ったが、通じない。ところがである。リーダーらしき人が出てきたではないか。一瞬、ひらめいた。確か日本語の『技術士Professional Engineer』は中国語で『工程士』というはずだ。ここで、『技術士』とは、技術者の国家資格の一つで、特に土木においては最高難度の資格試験と言われている。
 紙を出して、「工程士」と書いて見せたが、反応が無い。「そうか?駄目か、…、そうだ!」、『士』を『師』と置き換えて、『工程師』と書いたところ、ニコッと笑って、私を見るではないか。博物館の閉鎖と技術士は何の関係も無いのであるが、彼は私を中に入れてくれたのである。調子に乗って、さっきの紙に「…士」を追加して書いたところ、握手を求めてきて、すっかりフレンドになってしまった。部下に命じて中を案内させ、帰りにはお茶までご馳走になってしまった。私は、資格について嘘を言っていません。自分の持つ資格などを正直に書いただけです。ハィ。
 私は、中国語を話せないが、改めて漢字の威力を感じた。漢字は表意文字で、簡単に言ってしまうと「絵文字」なので、字を見ただけでそこに何が書かれているか視覚的に分かる。ありがたい。
 このようなことは、遠い昔にもありました。本ブログの『旧写真旅行記』-『古くて新しいアテネの旅』(2007年4月)に載せたので、あるいはお読みになったかもしれませんが、ギリシャの『アテネオリンピック』のオリンピック・スタジアム(メイン・スタジアム)の工事が急ピッチで進められていた頃です。「頃」と言うよりも「時」が当てはまるような緊迫したスケジュールの真っただ中にあり、かつ、テロ対策で厳重警戒態勢下にありました。得体のしれない男が、のこのこと工事現場に入ってきて、「私は土木の研究者です」と勝手にカード(名刺)をお渡ししたところ、なんと建設中のメイン・スタジアムに案内してくれたのです。「グリーク・ホスピタリティ」とはいえ、あの時期、名刺一枚で、…。「私は心臓に竹ぼうきのような毛が生えている男では決してないつもりですが、自分ではむしろ繊細な男だと思っているのですが、…、違うのかな」。
 永陵博物館の工事担当の部下さんに促された。「そうだ、工事の進捗に影響を与えてはいけない」。急ぎ足で、ゆっくりと、この緑多き博物館のさわやかな清涼感を楽しんだ。
 「ありがとうございました」。丁重に皆さんにお礼を言って、お勧めの木製の観光バスで『寛窄巷子』へ向かった。

成都永陵博物館。唐滅亡後の五代十国時代の前蜀国(大蜀)開祖、王建の陵墓永陵を博物館とした
横から写した永陵博物館入口
「内部の工事中につき閉館」のお知らせ
無理にお願いして中をパチリ
石像が並ぶ
石像の説明
工事中の館内。貴重な1枚である
参道に建つ石人像
王建墓
五代前蜀皇帝・王建の像

寛窄巷子
 寛窄巷子(かんさくこうし)は、旅行ガイドブックで見つけた「行ってみたい場所」であり、とても親切に面倒を見てもらった永陵博物館の工事関係者からも「是非に」と勧められたこともあって、気合が入っている。ここは、清の康煕帝の時代に兵士の駐屯地として造られた「巷子(路地)」の一部を2008年に再開発した場所で、寛巷子(かんこうし)、窄巷子(さくこうし)、井巷子(せいこうし)と名付けられた3つの路地が並行する。これらの路地によって囲まれたようなエリアには、明や清の時代の修復再現された四合院やヨーロッパ風の建物、レストラン、喫茶店などが並ぶ。夜にはモダンでおしゃれなバーが賑わうそうだが、私には“所用”があって、ここには来られない。この後、その“所用“については、書かせていただきます。
 銅像が路地などに設置されていて、面白いのは、突然、それら?が動き出すことである。
 バスが到着したので、ぶらぶら歩きを始めます。

永陵博物館で乗車した木製の観光バスが寛窄巷子に着いた
車夫の銅像 。この像は本物の像ですか?人の変装ですか
「パンダ」というポスト 。単なる郵便局の名前です
ポストと言えば手紙。デコレーションである 手紙と配達員の自転車
壁のデコレーション
観光会社の観光案内。10か所の観光地のうち、9か所を個人で観光していた。頑張りすぎですね。
寛巷子
お土産屋さん
惣菜屋さん
手作り中
チベット人の経営する店。各地で会う彼らの親日的な応対とか、日本に対する好奇心は、並外れている
一見してチベット人だと分かる。チベットのバター茶は、我が家のお好みのお茶である

芙蓉國粹・川劇
 明日は帰国である。ひと月ちょっとの旅は、長いようで、短いようで、…。最後の夜は、オペラである。しかし、ここはヨーロッパでもなけりゃ、サンクトペテルブルグやモスクワでもでもない。ましてやニューヨーク、そしてSPやLPなどの、いわゆるレコードでしか知らないエンリコ・カルーソーやマリア・カラスが歌ったブエノス・アイレス(コロン劇場)でもない。こう列記すると、「いやな性格だな」と思われるかもしれないが、無いものねだりをしているのでは決してない。逆である。ここは、中国四川省の成都市である。そう、かつての『蜀』すなわち『四川』に受け継がれている庶民伝統芸能『川劇 (せんげき)』の中心地・成都である。川劇の故郷と言われ、唐代には「蜀戯冠天下」(川劇は天下を冠する)と称えられた四川なのである。ここの『芙蓉國粹・川劇』に行かないで、「成都を旅した」はあり得ない。
 ところが、この劇場に行くのに戸惑った。今書いている話は、2015年の旅行の話であるが、『芙蓉國粹・川劇』は旅行ガイドブックに載っていない、あるいは情報が古いのか、市内中心部を1時間も振り回された。ホテルに戻って、事情を話したところ、若いスタッフが「すぐそこですよ」と笑顔で答えてくる。旅行ガイドブックを見せたところ、「違います。すぐそこです」と方向を指差す。面倒に思ったのか、「ついて来てください」と歩いて5分もかからない。汗をかきながら表情を変えて走り回った1時間はなんだったのだ。10人には劇場の場所を聞いたぞ、もう(怒)。笑顔のホテルスタッフは、立派な建物を指差して、「友達がいるのです。ちょっと待って下さい」。5分くらい待ったろうか、にこにこしながら、「チケットは1枚でいいのですよね?ホテルが劇場の近所なので2割引きのご近所割引(neighborhood reduction)になりました」。こんな英語があったかどうか定かではないが、2割引は大きい。うれしくてチップをあげるのを忘れてしまった。このホテル、成都伊勢丹百貨やイトーヨーカドーにも近い『i成都春熙路店』である。
 なお、今回の私のようなこともあります。『川劇』のご鑑賞の際には、劇場の場所をご確認のうえ、お楽しみください。

川 劇
 肝心の四川の『川劇』であるが、北京発祥の『京劇』と同時期に完成したと言われているが、北京に行くたびに楽しんでいる京劇とは雰囲気が異なるように感ずる。さほど知識がないのに、そしてここの 川劇は初めて見ただけなのだが、誤解を恐れずに言えば、その趣きが異なるのである。京劇の洗練された様式美に対して、川劇は庶民の伝統芸能といった感じである。
 例えば、瞼譜(れんぷ)は、北京・京劇や日本の歌舞伎における隈取(くまどり)を指すが、この瞼譜を瞬時に変える技巧には「あっ」と驚くであろう。私は、すっかり虜になってしまったが、瞼譜を瞬時に変える変臉(へんれん)と呼ばれるこの技巧は、川劇を川劇たらしめる芸術と言って良いであろう。役者が顔に手を当てる瞬間に瞼譜が変わるのである。書籍によると、この変臉の仕組みについては、「一子相伝」の「秘伝中の秘伝」とされていて、中国では第1級国家秘密として守られていると書かれてあった。

錦江劇場
錦江劇場入場券
フィナーレ 。『西安』から始まるひと月を超える私の旅のフィナーレでもありました。皆様、ありがとうございました

中国・四川省 成都市内(1)

青羊宮へ
 地下鉄『通恵門』駅から『青羊宮』へ歩いて行く時には、古い町並みを再現した『琴台路』を抜けると便利である。途中、『文化公園』があって、そこを通り抜けると20分ほどで北隣にある『青羊宮』に行くことができる。近くの浣花南路と青羊上街の交差点の西南の角に四川博物館があるので、時間のある方はお訪ねを。
 また、青羊宮は人気の場所だけあって、多くの市バスが青羊宮前に停まる。私は、少し歩いてから自分のいる位置が分からなくなってしまったので、英語ができそうな若いご婦人に「琴台路はどこですか」と聞いたところ、「ここです」と答えが返ってきた。よく分からなかったので、もう一度「琴台路はどこですか」と聞いたところ、彼女はちょっと考えてから、私の腕をつかんで立派な門のある所に連れてきてくれた。「ここです」。「…?」。「分かった」私は琴台路にいるのに、「琴台路はどこですか」と聞いたので、スマートな(頭の切れる)彼女は、「琴台路の(美しい)入口はどこですか」と聞かれたのだと解釈したのだ。いるんだよなぁ、こういう予見力があって、スマートな人が。体型も、日本語英語で言う「すまーとダッタ」。「ありがとうございます」。しかし、長さがたかだか900メートルの琴台路で迷うとは、スマートなご婦人にお会いできるとは、「方向音痴万歳」。
 さて、その『青羊宮』であるが、成都最大の道観(道教寺院)である。成都市の『青羊宮』の成り立ちに関する記述は色々ある。大まかには、寺の起源は周代(紀元前1046年頃~紀元前256年)と言われ、三国時代へと続き、唐代に規模を拡張した。その後、明代に戦火で焼失しており、現存する宮殿は清代に再建されたものである。また、名前の『青羊宮』であるが、“青い羊”に乗った道教の始祖、老子がこの地に現れて教えを説いたという伝説によっている。そして、私のような方向音痴には容易には理解できないが、主要な建築物は南北一直線上に並んでいるそうである。

古い町並みを再現した通り・琴台路の美しい入口
琴台故径と書いた立派な門。つまり、「古い町並みを再現した通り(=琴台路)」の入口
古い町並みを再現した通りである琴台路
文化公園
青羊宮の入口にあたる霊祖殿

八卦亭と三清殿(無極殿)
 『青羊宮』の中で、先ずは、著名な『八卦亭』を訪ねる。『八卦』とは『易』の八つの図形を意味し、この組み合わせて吉凶を占うのであるが、その易の八卦を表しているのが『八掛亭』である。一言で、「美しい」。上段と中段の層の色が異なっている姿は珍しく、ある種の気品を漂わせている。また、全部で81匹の龍が彫られている。
 内部には老子が『青い牛』に乗り函谷関を出る場面の像が祀られている。
 そして、三清殿』である。多くの人がカメラを左右に向けている。「皆さん、カメラを左右に振って動画を撮っているのだろうか。それにしても何度も左右に振っている」と不思議だったのだが、左右別々に写真を撮っていたのだ。三清殿前に清代に作られた一対の黄銅製の羊の銅像が並んでいる。『双角の羊』と青羊と言われる『一角の羊』である。『双角の羊』は、1829年(清の道光9年)に雲南の工匠蔯文柄と顧体によって鋳造された銅像である。『一角の羊』は、1723年(清の雍正元年)に大学士張鵬が北京で購入して奉納したものである。
 写真を見ていただいて、両方の銅像とも体の上の部分が光っているのが分かりますか?そうです、共に災厄を祓う神羊と言われ、来訪者が触るせいです。

易の八卦を表した八掛亭
三清殿(無極殿)。前にある一対の黄銅製の羊が特徴的
三清殿の前にある双角の羊。一角の羊と共に災厄を祓う神羊
青羊と言われる一角の羊

杜甫草堂
 『青羊宮』から『杜甫草堂』に向かう。『杜甫草堂』は、1961年に中国国務院から後述する『武候祠』とともに「全国重点文物保護単位」に認定されている。人気の観光場所だけに、19、35、58、82路などの多くの路線につながるバスが停車するので、乗車位置によってこれらのバスの停留所から選択すればよい。
 先に、当ブログ『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』-『中国・河西回廊~天水~』-『南廓寺』の中で、唐の詩人、杜甫(712~770年)が759年に『秦州』から『成都』に居を移した経緯に書いた。その後、成都の西郊外、浣花渓(かんかけい)の畔に有人の助力を得て庵を建て、年令で言うと48~51歳の約4年余り、ここで240首余りの詩を詠んだ。
 創建当時の庵は無く、現在残っている建物群は、1500年(明の弘治13年)と1811年(清の嘉慶16年)に修理再建されたものが元になっている。
 ところで、「詩仙の李白」に対し、「詩聖の杜甫」と言われ、さらに「詩仏の王維」と言われているが、この意味するところと言うか、違いはどこにあるのか、どなたか教えてください。

杜甫草堂
ドラマの撮影中らしい
杜詩書法木刻廟
大雅堂に建つ杜甫像
白居易
王淵明
この景色を見て詩が浮かんだのだろうか

武候祠博物館
 『杜甫草堂』から同じく成都の観光場所として人気の高い『武候祠博物館』へ82路バスで向かう。武候祠博物館(ぶこうしはくぶつかん)は、『三国志』で有名な蜀の丞相(君主を補佐する最高位の官吏)『諸葛亮(しょかつりょう。字を孔明という。181~234年)を祀った祠堂である。西晋時代末期(4世紀初頭)頃から建てられ、明代には主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合された。そして、孔明の贈り名である忠武侯に因んで『武侯祠』と呼ばれる。戦火のため、現存する建物は1672年(清の康熙11年)に再建されたが、その時に祀る建物が分けられた。
 37000平方メートルの広大な敷地には、南北方向の一本の道が(中軸線に沿って)大門、二門、漢昭烈廟(劉備殿)、武侯祠、三義廟を貫いている。順番に簡単に説明すると、
①『大門』から進むと、左右に『明碑』と『唐碑』と呼ばれる石碑
②そのまま進むと、『漢昭烈廟(劉備殿)』;『劉備』、『関羽』、『張飛』が祀られている
③その奥に、『武侯祠』;『諸葛亮』、『その子供』、『その孫』の像が祀られている
④最も奥に『三義廟』;武候祠博物館内に建てられたもので、『劉備』、『関羽』、『張飛』の義兄弟の友情を称えている

明 碑 
唐 碑
劉備像を祀る漢昭烈陵
武侯祠
諸葛亮の像。表情が優しい
三義廟

三義廟
 三義廟の建物に掲げられた『義重桃園』は、桃園の誓いで生まれた義は重いということを指す。劉備、関羽、張飛が義兄弟として生死を共にした生き方は、三国志ファンのみならず、多くの人々の共感を呼び、また、観光客が多いことも頷かれる。
 三義廟には、この三人の像と、『桃園の誓い』後のエピソードを記した10個の石碑がある。そのうち、関羽に関する一つを紹介したい。『関雲長刮骨療毒』とある石碑である。文献などから転記して簡単なあらすじを述べる。関羽が曹操の部下の曹仁の毒矢を腕に受け、すでに骨に毒が回っていたが、名医の華佗が手術をするシーンである。「荒療治なので、身体を縛り、目隠しをしようとする華佗に対して、関羽は華佗の提案を拒否し、馬良と平然と碁を打ちながら手術を受ける」というエピソードである。私なら麻酔薬の注射器を見ただけで気絶する。

『義重桃園』は、桃園の誓いで生まれた「義は重い」ということを指す
劉 備
関 羽
張 飛
『関雲長刮骨療毒』の石碑。「毒矢で侵された骨の手術を受けた時、馬良と平然と碁を打ちながら手術を受けた」というエピソードである

錦里歩行街
 大門を出て東方向に行くと、古い街並みを再現した『錦里歩行街』がある。『錦里』の入口は『武候祠』に隣接して「西蜀第一街」』と呼ばれている。ここで、『錦』とは成都のことを指し、かつて成都は錦の生産が盛んで『錦城』とも呼ばれていたことに由来する。300メートルほどの通りに、お土産屋、レストラン、喫茶店、旅館などがある。
 私が興味を持ったのは、中国の民芸品として有名な『剪紙(切紙)』屋さん。後日、訪ねる成都の『金沙遺址博物館』でその芸術性に立ちすくむ。

古い街並みを再現した『錦里』の入口
錦里の案内図。中国語、韓国語、日本語で表示されている
中国の民芸品として有名な『剪紙(切紙)』屋さん。この卓越した技術は、六朝時代から行われていたという。私も遊び心で数枚買い求めた。
街にある舞台
何でしょう

文殊院
 文殊院は南北朝時代(5世紀初め~6世紀末)に創建された仏教寺院である。古いお寺だけあって、時代の変遷にともなって名前も変わる。ガイドブックによると、唐代に『信相院』、一時『妙園塔院』と変わり、宋代には唐代の『信相院』の『院』が『寺』に変わって『信相寺』と呼ばれた。まだ続く。明代に戦乱で焼失してしまったが、(ここでやっと年号が入るのですが)1681年(清の康煕20年)に再建されて、現在の『文殊院』と名付けられ、現在まで残っている。貴重な文化遺産であり、今も信仰を集めている古刹である。
 山門をくぐると、左右に鐘楼と鼓楼の塔が向かいあって建っているのが見える。緑が多く、静謐な雰囲気が漂う。観音殿、大雄宝殿(本堂)、説法堂そして蔵経殿と続く。

緑あふれる文殊院の茶座 
 ところで、今まで何度かご紹介しましたように、中国には、皆さんが集まる場所、例えば、列車の中とか、駅、バスセンターなどにお湯を無料でサービスする貯湯タンクが備えてある。各自、茶葉をポットに入れて持ち歩いていて、必要な時にお湯を入れてお茶を楽しむわけです。世界的に著名なコーヒーショップ“S”などはおしゃれを売りものに若い人達に人気があるが、圧倒的に『my茶』が多い。そして、ここ文殊院では『茶座』なるものが人気のスポットとしてお客を集めている。由緒ある建物と美しい緑を眺めながらお茶を楽しむのである。茶座「香園」の利用方法は簡単で、入り口の売店で買った茶葉を「取水区」にいるお椀係に見せると、『蓋碗(がいわん)』とお湯の入った大きなポットがもらえる。『蓋碗』とは、蓋(ふた)付きの茶碗、茶托(受け皿)の3点セットのことである。あとは自分の席で思い思いにお茶をいれ、楽しむのである。ここで、「lovely」と言えば、『イングリッシュ・ティ』である。女性の場合?ですが。

文殊院の周囲の文殊坊は古い町並みを再現して観光客で賑わっている
文殊院の阿弥陀仏
鐘 楼
鼓 楼
文殊院大雄宝殿(本堂)
康煕36年(1697年)始建の説法堂
堂内にしつらえられた戒壇の中央壁面に、康熙帝の筆による「空林」の石刻が掲げられている

中国・四川省 楽山

楽山へ
 今日は、ここ成都から『楽山大仏』へ日帰りで出かける。昨日訪ねた『峨眉山』の旅日記で書いたが、『楽山大仏』は『峨眉山』と合わせて、1996年12月にユネスコの世界複合遺産に登録されている。楽山と峨眉山はバスで40分くらいなので、峨眉山観光後に宿泊して楽山に向かう方が効率的だし、経済的であるという考え方もある。私の場合は、荷物を持っての移動が面倒だし、同じ(成都の)ホテルに6泊とか連泊する余裕や安心感を選んで成都からの日帰りを選んだ。但し、片道2時間のバス移動が嫌いな方もいらっしゃるでしょう。お好みで…。
 楽山は港がある旧市街とそれ以外の新市街に分けられる。バスターミナル(バスセンター)も新市街に3か所もあり(乐山客运中心站、肖坝旅游客运站、乐山联运车站)、ここで各々について説明すると、私の説明力ではかえって混乱すると思うので、割愛したい。成都~楽山間のバスは朝7時頃からスタートし、多数あるので当日券で十分である。それぞれのバスターミナル間を結ぶバスも1路、6路とあり、それに楽山に到着してからの移動は行き先によって3路、13路などのバスが利用できるので難しくはない。私は、楽山バスセンターに着いてから大仏に向かう3路バスに乗車した。方向音痴の私でも行き帰り大丈夫だったので、安心してください。
 楽山は、成都の南約170キロメートルに位置し、人口は約354万人、面積は12.827平方メートルの大きな都市である。唐代に『嘉州』、清代に『楽山県』となった。地理的には長江(揚子江)の支流である岷江(みんこう)に大渡河(だいとが)と青衣江(せいいこう)が合流する辺りが市の中心であり、珉江の左岸地点に楽山大仏がある。

岷江、大渡河、青衣江の三江合流地点

凌雲寺
 『楽山大仏』のある『凌雲寺』は、『大仏』の知名度から『大仏寺』の別名で呼ばれる仏教禅宗寺院である。天王殿、弥勒殿、大雄宝殿などの仏閣が陵雲山に点在する。唐代に建立されたが、現在の建物は明および清代に再建されたものである。

兜率宮。布袋尊 。 唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧 。七福神の一人で「大量・度量の広さ」を司る神様
凌雲寺入口。大仏は近いぞ
凌雲寺山門を兼ねた天王殿(弥勒殿)
布袋に化身した弥勒菩薩
四大金剛像
四大金剛像
境内を先へ進むと大雄宝殿が見えてくる
左右の壁には僧侶像
左右の壁には僧侶像
釈尊の背面には、観音菩薩に会う財善童子の物語 。中央が観音菩薩で、左が童女、右で祈りを捧げるのが財善童子である。インドの裕福な家の童子が、文殊菩薩に始まり、53人の出会いで最後に普賢菩薩の導きで、真理の世界に入るという華厳経の中のお話。
6378大雄宝殿の奥は朱塗りの蔵経楼
蔵経楼内部
唐代に建立された13層、高さ38メートルの霊宝塔。航海安全のための仏塔。市内からも見える
霊宝塔内部はここまでで、中に入ることはできない。5つの堂があるそうで、後述する『海師洞』の入口に建つ海通和尚の遺骨が安置されているという

大 仏
 『楽山大仏』は、珉江に面する栖鸞峰(せいらんほう)の岩壁に彫られた石刻座仏で正式名は『凌雲大仏』という。『弥勒菩薩』を象(かたど)って彫られた巨大な磨崖仏(石仏)であり、石窟寺院の一種である。大仏の主なディメンジョンは、高さ71メートル、肩幅28メートル、頭部の高さ4メートル、頭部の直径10メートルで、世界最大の石刻座仏である。巨大な大仏を造った目的は、大渡河と岷江が合流するこの周辺は、古来より水害が多発する地域であったため、西暦713年(唐の玄宗皇帝の時代),凌雲寺の海通和尚は水害を鎮めるために大仏の建立を思いたったのである。完成したのは803年,90年の歳月を要したといわれている。建立当時は、大仏を守る13階建ての楼閣・大像閣が大仏を覆っていたそうである。

大仏の頭
6414大仏の足元へ。173段の下り。誰かが「九曲桟道」と言っていたが、公式な名前かどうかは分からない 
大仏の左手
海師洞。建立した海通和尚(写真左下)の座禅修行の場
大仏の上半身
大仏の顔
大仏の足元から下を見る
大仏の坐像
下から見上げた大仏像。大仏の高さ71メートル
大仏像の前に置かれた線香台。おじさんの頭をトリミングしなかったのは、ロウソクがわり?
『普同塔』;後漢時代(3世紀)の墳墓
凌雲山

漁村へ
 『麻浩崖墓』の近くにある狭いエリアで、近くで採れた魚などが食べられる食堂が続く。私は漁村育ちなので網を修理している漁師さんを見ると故郷を思い出してしんみりする。漁師さんと話をしたいが、言葉が通じなく残念。たばこ1本分、消えるまで手作業を見せてもらって楽しんだ。
 ところで、漁師の皆さんは何故、『くわえタバコ』が多いのだろう。極端な言い方をすると、世界中どこの浜でも、どこの海でも、必ずと言っていいほど、皆さんはタバコを吸っている、日本でもそうです。TVに映る方々を観察してください、くわえタバコが確実に多いですよ。何故だろう。別に、批判をしているのではありませんよ。

『漁村』の入口
『漁村』で網を修理している漁師さん
この親子亀の姿を見ると、私は食せない
この橋を渡ると烏尤寺(うゆうじ)。昔の名前は正覚寺

麻浩崖墓
 1800年以上前の後漢時代に四川で流行っていた『麻浩崖墓』は、地方豪族の陵墓と言われる。凌雲山と烏尤山に挟まれた麻浩湾の岩崖に造られていることから『麻浩崖墓(má hào yá mù)』と呼ばれている。「浩とは、川幅が広く穏やかに水が流れる場所」という意味だそうだ。『麻浩崖墓』の説明プレートによると、「『マー ハオ ヤー ムゥ(英語表記でMahao Tomb Caves)』は、0.1平方キロメートルの範囲に500ほどあって、墓の門は蜂の巣のように見える。墳墓の中は彫刻も施されている」と、記されている
 不鮮明であるが、壁に彫られ着色された『左手にほうき、右手にちりとりを持って掃除をしている門番』が見られるが、「ほうきを抱えてお客を迎えることは礼儀のひとつです」と、説明されていた。
 また、陳列館には馬や人物などの陶器製俑や精緻な彫刻がされた石棺などが展示されている。

『麻浩崖墓』の説明
1800年以上前の後漢時代に造られた陵墓『麻浩崖墓』の入口
入口から入場してすぐの展示
岩肌に彫られた小さな陵墓が蜂の巣のように並んでいる
部曲(かきべ)の俑。部曲とは、私有民や私兵などの身分のことで、日本では民部とも書く
彫刻をされた石棺
陶器で造られた馬
壁に彫られた左手にほうき、右手にちりとりを持った番人
『麻浩崖墓』の表示
人の集まる所、商売人あり