中国・河西回廊~張掖~

張掖の歴史をレビューしてみよう
 旅については、往復のフライトと日程などを大まかに決めておいて、後は行き当たりばったりというか、音楽用語で使われる『アドリブ(ラテン語の「ad libitum」の略)』とでもいうか、『勝手気ままに』が基本であるが、『マルコ・ポーロ』に子供の頃から興味があったので、今回は、彼が一年間も滞在したという『張掖』を訪れるにつき、短時間ではあるがその歴史を勉強した。せっかくなので、最初にここにまとめてみたい。
 漢の武帝が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地、すなわち、武威、張掖、酒泉、敦煌を建設した。オアシス都市として栄える張掖は、邪連山脈( 祁連山脈、きれんさんみゃく) の雪解け水を源流とする黒河の流域に位置するため肥沃な土地に恵まれ、農業が栄えた。また、その位置(ゴビ砂漠の東端)からして、西域との貿易の中継地として市がたち、多くの商人達で賑わっていた。文献によると、「金の張掖、銀の武威」と言われるほど繁栄を享受した歴史を持つ。匈奴の渾邪王(こんやおう)を降伏させ、この地を奪取したのは、霍去病(かくきょへい)である。屯田兵や、治水を行う水利兵を派遣し、組織だった地域というか、国家の出先を作り上げた。
 その後、隋、唐、チベット系、トルコ系の民族の支配を受けたことから、当然のことながら民族やそれに伴う文化が交差する歴史を持つことになる。そして、しかし(and/or)、現在でも多民族都市として繁栄し、河西回廊に位置する都市の中でも豊かなオアシス都市としてその地位を保ち続けている。
 最後に、この都市の歴史を語るうえで、はずされないのは、『東方見聞録』のマルコ・ポーロである。イタリアのヴェニスを発ってから3年半の中央アジアの旅を経て酒泉に、そして張掖に1年間滞在している。13世紀半ば、中国の元の一朝支配、言うなれば、比較的安定していた時代である。それ故に、張掖を出てからモンゴルでフビライ・ハンに仕え、結果的に中国に17年間も滞在したのであろう。この辺りのことは、興味津々であるが、語るには私の能力と勉強の深さが足りない。申し訳ありません。

早速、出かける
 武威を出発してから3時間半で張掖バスターミナルに到着した。通常は、ホテルにチェックインした後に、目的の場所にバスで移動するのであるが、今回は違う。武威から乗ってきたバスの運転手がとても親切な男で、『今日のお助けマン第1号』である。アジアを旅行された経験のある方はご存知だと思いますが、事の良し悪しは別として、多くの都市で、乗客が運転手に話しかけることに寛容である。私もそれに倣って、運転手に尋ねた。観光客はもちろん、地元民にもあまり知られていないらしい『黒水国城堡遺址(Hei Shui Guo Han Tombs』について尋ねた。「行きたいのか?」。「行きたい」。「よしっ、任せなさい」と胸を叩いた。何を聞いても「任せなさい」である。任せるしかしようの無い私は、「プリーズ」である。「駄目で元々さ」と居直っていた。
 顛末はこうである。張掖バスターミナルに到着して、乗客が皆降りたのを確認して、私の荷物を持ってくれて、「ついてこい」。バスターミナルの建物のコーナーにある荷物預かり、と言っても雑貨売り場のおばさんがいるだけであるが、彼女に私の荷物を預けて、「6元を支払え」。そして、「ついてこい」である。バスが多数集合しているブースに行って、他の運転手達と何か話しているが、中国語なので私にはさっぱり分からない。「OK、10分後」みたいなことを言って、「このバスに乗れ」と、案内してくれた。そのバスの運転手に「マイ・フレンド、ユー・フレンド」とか言って、「黒水国城堡遺址、OK」のOK指マーク。お助けマン第1号に、なにか、お礼をしようと思ったのだが、毅然とした態度で「ノー」。感動で体が震えたね。
 この話は、まだ続く。何もない牧草地のような風景が続く道をバスはひた走る。少し心配になってきたが、20分くらい時間が経ってから、(お助けマン第1号から私を託された?)ユー・フレンド(今はマイ・フレンド)が停留所の無い場所でバスを止めた。こんな所で公共のバスを止めるなんて、バスにトラブルでも起きたのかと思っていたら、私に「降りなさい」といって、行き先を指で指示してくれた。停留所はないが、『黒水国城堡遺址』の入口を示す看板が道路脇にあった。乗車時に運転手に降りる場所を言っておくと、途中で降ろしてくれるやり方らしい。お助けマン第1号の指令らしい。助かった。そうは言っても、遺跡まで20分近く歩いた。

黒水国遺址の標示。バス停留所の役目をしていた

お助けマン第2号
 歩き疲れて途方に暮れていると、それらしき風化した城壁みたいなものがやっと見えてくる。ガイドブックには、張掖市街の西北13キロメートル、黒水河のほとりに残っている漢代の城壁跡で、黄土を盛り固めた簡素な造りであると説明されているが、初めて訪ねる人は、方向音痴でなくても迷うと思う。案内の掲示が無く、故城跡も砂に埋もれていて判りづらい。平屋建てが3棟ほどあって、小型トラックも止まっていた。黒水国古城の管理人の住居兼官舎なのだろうか?不法侵入を覚悟で建物の裏に行ってみると、若い女性二人と男性三人がテーブルというか、台の上に板を横にした即席食卓に食べ物を並べて食べていた。見知らぬ人達の食卓に勝手に入り込んで、「こんにちは、ジャパニーズ」から始まって、私の勝手な自己紹介。随分無礼な奴だと思うのが当たり前なのに、この若者達は笑顔で「ニーハオ」。直観的に「大学生だ」。この『黒水国城堡遺址』の研究がテーマで、指導教授も奥まった部屋にいるという。となれば、きちんと挨拶をするのが礼儀であろう。彼の部屋にある棚にはウィスキーが数本並べてあった。趣味が合うらしい。10分ほど歓談して、邪魔をしただけだが、部門が違っても研究者のお話を聞くことは、とても有意義で楽しい。お礼を述べたところに、大学院に所属する学生がフィールドから戻ってきた。可哀そうに、「この方は、誰々です。案内を頼む」と命じられ、私のガイド役を務めることになってしまった。
 考古学の知識は無きに等しく、ましてやここの遺址については文献すら読んだこともない。でも、彼はここのフィールドで研究をしたくて、地元の大学に入り、大学院に残ったという。彼と歩き廻ったのだが、『黒水国城堡遺址』は、彼は『黒水国漢墓』と言っていたが、その名のように漢代に造られたと推定される古墓群で、城、城壁、城門の跡が約2キロメートル四方に点在している。誰が造ったかも分からないそうで、そもそも論になるが、『黒水国』という国の存在自体が謎に包まれているそうだ。学究の徒らしく、「通説ではないが」と断ったうえで、「匈奴の一部がこの地域に住んでいたことがあり、建国した『小月氏国』の中心が黒水国だった」という言い伝えがあるそうです。「言い伝えです」。ガイドブックなどに載っている、『一部ではあるが、陶壺や古銭などが出土したらしい』については、答えが無かった、というよりも、彼も疲れているようだ。「ごめんなさいね」。
 メール・アドレスのやり取りをして、戻ることにしたが、近くの砂利道まで送ってくれて、「ここを真っ直ぐ行くと、来る時にバスが止まった所に着きます」と教えてくれた。彼は、私の「方向音痴」を見抜いたのだろうか?今日最後のお助けマン(の皆さん)、「ありがとう」。…。真っ黒になって頑張っているだろうなぁ。「頑張れ」。

黒水国南城遺祉(明)の石碑
東城門の左側
ここまで黒水国??

私も頑張って市内見物へ
 人の親切とやさしさに恵まれて、思いがけない充実した『黒水国城堡遺址』観光であった。張掖の市内に戻って、市内観光のスタートだ。まずは前から興味のあった大仏寺(宏仁寺)である。行き方は1路バスで向かい、バス停『広場』で降車して、…、「バス?あれっ、あれっ?」、「なんか変だ」。「あっ、荷物が無い」、「そうだ、武威を出発して張掖バスターミナルに着いた時、運転手さん、そう『今日のお助けマン第1号』が荷物預かり所に私の荷物を預けて、…。結局、私は未だホテルにチェックインしていなかったのだ(笑)。
 ということで、色々用事を済ませて、今は大仏寺にいる。

大仏寺
 大仏寺は1098年(西夏の崇宗永安元年)に創建された。面積は60000平方メートル以上あり、中国最大規模を誇る。元の名称は『迦叶如来寺』であり、その後、明の宣徳帝に『宝覚寺』、清の康煕帝に『宏仁寺』の名をそれぞれ賜るが、寺に釈迦牟尼の涅槃像が横たわっていることから『大仏寺』、あるいは『臥仏寺』とも呼ばれるようになったという。大仏殿の中に横たわる釈迦仏(釈迦牟尼涅槃像)は、体長34.5メートル、肩の幅7.5メートルと大きく、撮影距離も近いため、一枚の写真には収まらない。頭部と下半身を別々に写したが、全体像についてはご想像願うしかない。
 先に書きましたが、イタリアのフィレンツェ出身の旅行家、マルコ・ポーロについて、もう一言。子供の頃、インド、中国、日本などのアジア諸国のことを書いた旅行記『東方見聞録』(児童向け)を読んで、外国を夢見たことを覚えている。後年、マルコ・ポーロ自体は日本へ行っていないことを知り、「ジパングに関する記事は伝聞だったのか」と、少しがっかりしたが、『マルコ・ポーロ』と聞くと、ついつい興味を持ってしまう。ここ大仏寺の記述で急にマルコ・ポーロを持ち出したのは、寺のことが東方見聞録に書かれていることを知ったためである。さらに、歴史上の人物として私が個人的に興味を持っている、元の『世祖フビライ』が生まれた寺院であると、ガイドブックで知ったことである。歴史家のさらなる研究成果に期待したい。
 涅槃大仏寺の裏手に高さ33メートルの大きな仏塔がそびえるように建っている。チベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)である。安定感のある姿に多くのカメラが向いていた。

間口約50メートル、奥行き約25 メートル 、高さ約20 メートル の大仏殿
大仏殿の中に横たわる釈迦仏の頭部。体長34.5 メートル 、肩の幅7.5 メートル の釈迦仏
釈迦仏の下半身
大仏殿背後に高さ33 メートル のチベット仏教様式の金剛宝座塔(俗称、土塔)が建っている
土塔の内部
土塔の内部

大仏寺から万寿寺木塔へ
 中国では珍しい外回りを木で組んであるという『万寿寺木塔(まんじゅじもくとう)』に向かう。通行人に聞いたところ、大仏寺からは、大仏寺巷→中心広場→張掖中学校と歩くと、5~10分で木塔に着くという。教えられたとおりに中学校に着いたが、どこでどう間違ったのか、中学校の裏側の校庭に来てしまった。校庭だから当然のことかもしれないが、金網が張ってあって目的の木塔が見えるのにそれがバリアになっていて移動できない。逆に校庭側から見ると中学校に怪しい奴が忍び込んで来たと見えるかもしれない。困った。うろうろしていると、用務員みたいなおじさんが目ざとく私を見つけて、近づいてきた。「やばい、俺は不法侵入だ、それも中学校に」。ところが、このおじさん、笑いながら金網の入り口を開けてくれた。私のようなのが、時々いるのかもしれない。「あーあ、良かった」。とにかく、「ありがとう」。中学校の校庭に無断侵入したのに、『お助け公務員』のおかげで、私は、無事に 『 万寿寺木塔』に着きました。
 万寿寺木塔は、582年(隋の開皇2年)に創建された寺で、創建当時は『万寿寺』と呼ばれていた。次の唐以降、歴代王朝で修復が続けられてきたが、1926年(民国15年)に再建され、現在に至っている。繰り返しになるが、元々は万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものは既に失われている。塔は、高さ1メートル、一辺15メートルの基壇の上に建つ。塔の高さは32.8メートル、八角9層の塔で、1層から7層までの塔身の内壁はレンガ積み、外回りは木組で造られている。8層と9層は、釘やリベット(鋲、rivet)などを1本も使わず、すべて木造で壁も無い構造である。
 この中国全土でも珍しい貴重な建築様式の万寿寺木塔は、最上層まで登って市内の風景を一望でき、そして、現在は張掖市の民俗博物館になっている。

万寿寺木塔は高さ約32.8メートルの八角9層の木塔
とても貴重な木塔のアップ

鎮遠楼(鐘鼓楼)から甘泉公園
 万寿寺木塔から歩いて10分もかからないで『鎮遠楼』に着く。ここは、まさに張掖市の中心部であり、市民には『鐘鼓楼(しょうころう)』と呼ばれ、張掖のシンボルとして親しまれている。古く1507年(明の正徳2年)に建創建され、現在目にするものは1668年(清の康煕7年)に修築された姿である。基壇も大きく、高さ9メートル、一片の長さ32メートルである。その上に2層の楼閣が建つ。重量感、安定感のある鎮遠楼であった。
 ここから西へ100メートルも歩かないうちに明清街にぶつかる。右折して甘泉公園近くまで、ゆっくりと古い町並みを再現したこの明清街を楽しむ。古い建物が並び、飲食店や屋台でにぎわっていた。
 甘泉公園では、遊園地を兼ねているせいか、多くの家族連れやアベックが楽しんでいる。孫を思い出しているうちに、近くにあるマルコ・ポーロ像をカメラにおさめるのを忘れてしまった。大失敗。

張掖のシンボルである鎮遠楼。どっしりとした姿が印象的である
古い町並みを再現した明清街
甘泉公園近くまで続く活気あふれる明清街
甘泉公園入口
このおばさんのちょっと辛い焼き鳥はいけた。「ごちそうさま」

中国・河西回廊~武威~

楽しい思い出を貰って
 西安から蘭州に向かう時、「西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう」と、書いた。同じ文章を続ける書き方は私の趣味ではないが、ここは次の文章で始めたい。「蘭州と蘭州郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、蘭州発07時出発のバスで武威へ向かう」。武威バスターミナルまで約3時間半で移動だ。
 ここ武威は、前漢の武帝(紀元前159~紀元前87年)が河西回廊沿いに4ヵ所の郡司駐屯地を建設したうちの東端にある町で、以前は『涼州』と呼ばれた。現在の人口は190万人ほどと比較的小さな町で、武威の見所にはちょっと頑張れば歩いていくことが可能である。いつもは郊外から始める観光であるが、主要道路である北関東路と北大街の交叉近くにホテルを取ったので、すぐ近くに見所があり、今回は市内から観光を始めることにした。

鳩摩羅什寺
 最初の訪問はホテルの近くにある鳩摩羅什寺(くまらじゅうじ)である。今までも仏教関連で何度か出てきたクチャの高僧『鳩摩羅什』については、このホームページの構成で言うと、『新旅行記アジア』‐『タイトル:中国・新疆ウイグル~クチャ~』-『もう一人の三蔵法師』の中で述べた。「多くの三蔵法師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる」と表現した、あの鳩摩羅什である。ここで、さらに加筆するならば、彼はインドの高僧と亀茲国の王族を父母にもち、また、少年時代から諸国を歴訪してあらゆる言語を身につけていた。
 鳩摩羅什と武威の関係を理解するために、鳩摩羅什が武威に滞在するに至った経緯を簡単に示す。385年、亀茲国(きじこく、現在のクチャ県付近)を攻撃した前秦の将軍呂光は鳩摩羅什を拉致したが、帰国途中で母国の前秦が滅びてしまったため、『涼州』(武威の旧名)に『後涼』という地方政権を建てた。必然的に鳩摩羅什も涼州にいることになり、401年に長安(西安)に移動するまで16年間の長きにわたって武威に滞在したのである。
 著名な鳩摩羅什塔は、鳩摩羅什が経典を講じたり、経典の翻訳に従事した場所であり、そこから『鳩摩羅什塔』と呼ばれるようになったと言われる。八角12層の中空の塔であり、高さが32メートルである。唐代の創建という説もあるが、創建不明説もあり、確定はできていない。現在、我々が目にする塔は1927年の地震で倒壊した後に大修理したものである。
 なお、この国では高齢者や軍人などが優遇され、多くの見所が無料であるが、ここ鳩摩羅什寺では全ての参観者に対して入場料無料であった。

鳩摩羅什寺
羅什塔院内部の像
八 角12層の羅什寺塔
羅什法師記念堂

武夷文廟
 中国には、『孔子』に関係する博物館、建物などが数多く存在するが、ここのそれは明代の1439年創建、その後の数度の改修を経て現在に至る建物である。約25000平方メートルの敷地に、東の文昌宮、中央の孔子廟、西の儒学院と3つの部分から構成される。甘粛省最大、中国でも第三の規模を誇る孔子廟である。
 私のお目当ての一つは、表に西夏文字、裏にその訳文である漢字で刻まれている西夏碑である。正式には『重修護国寺感応塔碑(ちょうしゅうごこくじかんのうとうひ)』というそうだ。解説書によると、中国の『ロゼッタストーン』と言われるほど、西夏文字の研究には必須かつ重要な資料だそうだ。
 話が飛ぶが、ロゼッタストーンは、古代エジプトの象形文字である『ヒエログリフ(神聖文字)』を解読するのに重要な手がかりとなった、あの石碑である。1799年、ナポレオンのエジプト遠征の際に、アレクサンドリア近郊のラーシード(ヨーロッパ人はロゼッタと呼んでいた)という町で発見されたもので、町の名前を取ってロゼッタストーン(Rosetta Stone)と言われるようになった。1801年アレクサンドリアでフランス軍がイギリスに降伏したためイギリスに引き渡されて、現在は大英博物館の収蔵品となっている。私は、1979年に大英博物館で初めて見る機会を得た。その後、十数人の日本人を案内したことを考えると、それほど日本人はロゼッタストーンに興味があるようだ。
 話を戻したい。門前の広場にある『西夏博物館』に入館する。西夏碑を表裏、何度もぐるぐる回って見させてもらった。元々、西夏文字も漢字も良く理解できないのであるが、長く眺めていると絵を見ているような不思議な気持になってきた。
 また、私は全く知らなかったが、李徳明(981 – 1032年)と書かれた像が訪問客の視線を浴びていた。西夏王朝の実質的な建国者だそうだ。敬意を表して、写さなくちゃ。

武夷文廟。甘粛省最大、中国で第三の規模を誇る孔子廟
武威文廟入口
門前の広場にある武夷西夏博物館全景
表に西夏文字、裏にその訳文を漢字で刻んだ西夏碑(正式には重修護国寺感応塔碑)。中国のロゼッタストーンと呼ばれる
西夏文字アップ
漢字アップ
李 徳明(981 – 1032年)の像。西夏王朝の実質的な建国者

やはり孔子は学問の神様
 やはり孔子は学問の神様である。多くの訪問客、とくに若い人達が孔子の像を取り囲んでいる。赤い布を孔子の像に結びつけ、線香をあげて手を合わせている。もちろん、お願いである。天神さま(菅原道真公)をお祀りする太宰府天満宮へお詣りし、合格祈願をするあれである。
 櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は大変な数である。帰りに階段で転んだ女性がいたが、ご利益は変わらないのだろうか?縁起を担いで、もう一度行った方が良いのかなと思っていたら、この女性、本当に戻っていった。今度は、大丈夫だ。

孔子行教像
櫺星門の橋の欄干に結ばれた赤い布は合格祈願

大雲寺(鐘楼)
 文廟から700メートルほど北にある大雲寺に向かう。西夏王国の護国寺であったと聞いて訪ねたが、私が訪ねた時は人(僧侶)がいなくて、明代に建てたという鐘楼(建物の外観)だけが残っていた、ただし、扉が閉まっていて、中にある肝心の唐代の鐘は観ることができなかった。

大雲寺
大雲寺鐘楼

海藏寺
 武威市の西北2.5キロメートルの海藏寺公園に向かう。ここにある海藏寺は、泉が湧く池と林に囲まれた環境から、「まるで海の中に隠された寺のようである」と言われ、この名がつけられた。創建は晋代と言われているが、確証はない。この古刹は修復が繰り返されてきたが、現存する建物の大部分は清代のものである。
 公園の北口を出ると、シンメトリーが美しい木造の山門がある。あまりにも緻密で複雑な木造の組物を見ていただきたく、その中央部分をアップした写真を載せたい。私の魂が震える。「可能であるならば、このような緻密で美しい組物の建築現場で作業を見学させていただきたい」。
 ガイドブックによると、元の時代にチベット仏教サキャ派のサキャ・パンディタが涼州を訪れた時に海藏寺など涼州四大寺に修繕資金を寄付したことから、チベット仏教寺院になったが、現在は仏教寺院のようだ。

対称形の美しい山門
複雑な組物が特徴の山門 のアップ 。緻密で複雑な木造の組物に圧倒される
海藏公園の北門を出て海藏寺に到着
美しいアクセス
海藏寺三星殿内部
勇ましい
勇ましい

中国・河西回廊~蘭州~

蘭州へ
 2015年5月19日07時59分、西安と西安郊外でたくさんの楽しい思い出を貰って、西安発T117列車で蘭州に向かう。あらかじめ予約しておいたので予約番号を記した『列車予約票』とパスポートを窓口で提示すると、プラットフォーム番号と列車番号をメモ用紙に書き、方向を指差してくれる。簡単なことのように思えるが、豪華で合理的な駅舎や近代的な施設も大事だが、こういう対応は旅人の不安を解消し、旅人の心をうち、癒してくれる。旅人も街を好きになり、中国の人々を好きになる。そう、旅人の心は、単純にして素直なのである。 
 中国の大きい鉄道駅の待合室は、大抵そうであるが、行先別にブースがあって、そこ(目的地)に向かう人々が固まって座っている。見知らぬ人から「お前は、A市に行くのか」、「B州に行くのか」などと聞かれ、「俺も、私もそこに行く」、「俺の故郷だ」と話がはずむ。「食事はすんだのか」と聞かれ、『未だだ』と答えると、カバンからインスタントラーメンを出して、どこの駅にでもある(「例の」、と言っていいだろう)給湯器からお湯を入れてくれて、私に「どうぞ」。各種のメディアを通して日本国で報道されている“中国社会&人々”の実像は、私が旅先で経験するものとはかなり異なるのである。多くの場所で、多くの年齢層で、多くの状況で違うのである。「どこの国でも良い奴もいれば、悪い奴もいるさ」と、一言で割り切れないのである。
 西安から8時間弱で蘭州駅に着く。よく聞かれる。「列車の8時間って、退屈しないのか?」。確かに街から街への移動を単に点から点への移動だとしたら、「早く目的地に着け」とだけ思っているとしたら、それは苦痛だろうなぁ。列車の中で本を読めるし、人々を観光?したり、親切にされたり、地元の旨いものを売りに来るし、車窓の景色を楽しめるし、…等々、私にとって列車の8時間は体と心を癒す、とても大切な時間なのである。したがって、そんなに長く感じたことはない。
 蘭州駅(火車站…鉄道駅のこと)に比較的近い場所に蘭州大学があり、そこから歩いてすぐの所にホテルを取った。例によって道に迷っても住民に『蘭州大学』と聞くとすぐ分かるので、方向音痴の私向きの場所である。さらに良いことに、蘭州駅の斜向いに蘭州バスセンター(蘭州客運站)があるので、蘭州の観光後に訪ねる予定の『武威』へバスで移動するのにも便利なのである。
 明日は、蘭州郊外の『炳霊寺石窟』を訪ねる予定なので、今日は、早寝しよう。

列車時刻掲示板
蘭州行きT117の待合席

炳霊寺に向かう
 例によって、近場の蘭州市内観光よりも、郊外から攻める方法で今回も旅をする。蘭州から約100キロメートル、私のような土木工学の研究に携わる(携わった)者で、とくに河川やダム関係に携わる人が一度は訪ねたい場所がある。黄河とその支流である洮河(とうが)をせき止めて建設された中国有数の発電所、劉家峡ダムである。総水量57億立 方 メートル、ダム湖の面積130平方キロメートルの巨大な人造湖である。いわゆる、『大躍進時代』に建設されたダムである。
 そして、その上流に現存する、位置的には黄河の北岸側の峡谷の中にあるわけだが、中国最古の石窟であり、壁画で有名な炳霊寺(へいれいじ)石窟がある。今日の目的は、その石窟群を訪ねることである。
 蘭州西バスターミナルから劉家峡行きのバスに乗り、降車駅を運転手に告げて降りなければならないのだが、難しい中国語で書くことも読むこともできないので、『炳霊寺』と日本語(漢字)で書いたメモを示すと、「OK」の返事。降車場所が来ると合図をしてくれ、方向を指で示して、腕時計を抑えながら「ファイヴ、ファイヴ、ボート」と、歩くジェスチャーをしながら丁寧に教えてくれる。つまり、ここから歩いて5分で、炳霊寺までのボート乗り場があると教えてくれたのです。「ありがとう、運転手さん」。
 ボート乗り場(埠頭)には、ボートも来ていないし、人もいない。雨も降ってきて少し不安になるが、待つしか方法がない。20分くらい経ったであろうか、仲間が5~6人になり、さらに10人ほどのパーティがやってきた。そしてボート(快速艇)も。どうやら、所定の人数が集まると出発する仕組みらしい。片道約1時間で炳霊寺に到着→石窟の見学時間90分が目安→快速艇で戻る、というスケジュールらしい。往復で110元の料金が徴収された。3人ほどのパーティでやってきた中国人の話だと、以前は大型遊覧船で数時間かけての移動だったが、黄河の水量が減少したため運航中止になって、快速艇になったそうだ。

船中の楽しい空間
 1時間も同じ空間にいれば、ましてや石窟見学という同じ目的を持つ旅行者同士であれば、何となく言葉を交わす。この場の主役は、10人ほどのパーティの一行である。日本人が私一人だったせいもあって、気を使ってくれて、次第に打ち解けてくると、身分を明かし始める。用心深い感じだったが、その理由が分かった。検察官とその職場の仲間達だという。この人達の知性のレベルは相当なもので、リーダーらしき人は癖のある英語を流暢に話す。英国のマンチェスター留学らしい。「道理で」。
 私の英国の友人を引きあいに出して恐縮であるが、彼の息子が日本の我が家を訪れた時に聞いた話である。彼は『バークシャー(Berkshire)訛りの正統派国語?』だったのが、マンチェスター大学に進学しで数学を学んでいるうちに、「父親と言葉の断絶ができた」、「違う言語になってしまった」と笑っていた。この際、専攻した数学は関係ない。彼が笑いながら私に言う「父親と言葉の断絶ができた」という英語を理解するのに、私は3回は聞き直したのである。「ジャパニーズ・ラングェッジ?」と、まぜっかえしてやったが、「あなたの英語は理解できる」と、懐かしい『バークス・アクセント』で返された。これ以上書くと、「気障」とか、「衒学的」とか、…、止めましょう。

中国のインテリはレベルが高いぞ 
 さて、検察官の話である。彼の職場がある地元に対する愛着は深く、著名な思想家の話などは、私は相当昔の知識しか持っていないので、したがって忘れてしまっているので、ついていけない。彼は、思想家に傾倒しているのではない、歴史的事実を理路整然と話すのである。
 一行の中では最も若い30代半ばの青年の口から「みしま」と聞こえる音が発せられた。「うっ?」。「三島由紀夫です」と明確に発せられた。日本文学が大好きで、謙遜しながらも「なんとか、原文で読める」という。一行の仲間内では「一番の日本通」ということであった。相当数の本を読んでいるらしく、「もう少し日本語が理解できるようになったらT大の大学院に留学して、日本文学について勉強したい」と、目を輝かせていた。私の母校ではないが、大歓迎だ。私から握手を求めて、彼を励ました。
 激励しただけなのだが、お礼に、彼はこんなことを教えてくれた。中国の前国家主席の胡錦涛氏は、清華大学水利工程学部卒の水力発電技術者で、在学中に共産党に入党したそうだ。驚いたことに、彼の最初の赴任地がこの劉家峡ダムを管轄する機関だったという。部門は違うが、土木工学の研究者として、襟を正して、先達に深く敬意を表したい。
 そうこうしているうちに、1時間くらいで炳霊寺石窟に着いた。石窟でボートを降りてから、「一緒に行きませんか?」と皆さんの笑顔で誘われた。もちろん、願ってもないことです。二つ返事で「プリーズ」でした。石窟についてきちんと勉強をしてこなかったのが恥ずかしいくらい、インテリジェンスの高さを感じさせる内容の説明と表現方法に、感謝感激でした。

中国有数の発電所劉家峡ダムダムの上流約50キロメートルにある石窟群へ快速艇で向かう
快速艇が船着場に近づいている

炳霊寺石窟
 その『炳霊寺石窟』である。『炳霊』とはチベット語で「十万仏」の意味だそうだ。周囲は、土林と呼ばれる岩が連なっている。その奇岩とも表現すべきそりたつ岩が続く、山水画のような風景の黄河北岸の崖に、長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所である。唐代の物が多いが、西秦(385~431年)から清(1636~1912年)にかけて刻まれた仏像や石窟が多数残っている。
 まず、山門をくぐり、コンクリートでできた通路を進む。玄奘三蔵がこの辺りから、シルクロードの旅に出たと言われているそうだ。
 幸いなことに写真が残っているので、詳細な説明は割愛させてください(さぼらせてください)。この炳霊寺石窟では、目玉である『大仏像』が人気であるが、石窟の他に陶器や銅器なども展示されており、それらも拾遺させていただいたので写真でお楽しみください。
 個人的に最も気に入ったのは、北魏時代に制作された第16窟の涅槃(ねはん)塑像である。全長9メートルと、中国国内に残る最大・最古の涅槃像で、かつ完全な形で残る非常に重要な塑像である。書籍によると、1960年代のダム建設にともない水没の危機に瀕したため、9分割にして水没窟内から搬出し、安全に収蔵されたということである。この搬出などの作業には日本の専門家の助力も大きかったそうである。

今後の予定
 おおよそ石窟を廻ってから、船着き場近くにあるレストランでランチをご馳走になった。この食堂のメニューを写真に掲げておきましたが、三島ファンは、「ここ蘭州は、ラーメンが生まれた町。ラーメンは元々、回族が生み出したイスラム料理の一つです」。これまた知識が増えた。
 食事の最中に、「ここの炳霊寺石窟は、敦煌の莫高窟、天水の麦積山石窟と並び、中国甘粛省三大石窟と呼ばれている。すべてを訪ねる価値がある」と教えられた。西安からここ蘭州に(天水に寄らずに)まっすぐ来たことを説明し、今後、『河西回廊』を西に向かって、最終地の敦煌に6日間滞在後、西安に戻る予定であることを説明した。「余計なことかもしれないが、多分、敦煌で飽きてしまうでしょう。敦煌を3日間くらいにして、列車が好きみたいだから、敦煌から夜行列車で一気に天水に移動したらどうですか」とアドヴァイスを受けた。「天水で『麦積山石窟』を見学後、隣町の西安へは列車でもバスでも、いくらでもある」。細やかな交通手段まで教えてもらって大恐縮。敦煌に着いたらホテルのスタッフに相談して、予約しておいた列車のキャンセルや、新しいチケットの予約を決めることにした。

裁 定
 夢のような90分が過ぎた。帰りの準備をしなくては行けない。来た道を戻ればよい。ボートで戻り、バスの親切運転手に教えられたとおりに、5分ほど歩いて、蘭州市内行きのバスを待とう。暗くなり、雨の勢いが強くなってきた。お助けマンたちは、私の不安げな表情を察知して、彼らのマイクロバスに私を乗せて、バス会社の世話役みたいなお嬢さんに「日本人、一人」と掛け合った。契約違反である。気の弱い私めは財布を出したが、検察官は「(ノーではなく、ドイツ語っぽい発音で)ナー!お嬢さん、良いですよね」。裁定がくだった。私は温かいバスの中で、温かい人たちに囲まれて、無事、蘭州の市内に到着したのである。それも、蘭州大学近くのホテルに、である。
 「ありがとう、皆さん」。

炳霊寺石窟の標示
炳霊寺の山門をくぐる
長さ2キロメートル、上下4層にわたって彫られた石窟は合計183カ所
険しい岩肌に咲いている
なにか名前を付けたくなりますね。
彩色が残っている
ここも鮮やかに見分けられる
第11窟の釈迦坐像。菩提樹がヤシの木になっている
第82窟 北周。緑の彩色が鮮やか
第86窟
元代に掘られたと見られる舎利塔
大仏。全高27メートル
対岸へ渡る
北魏時代に制作された16窟の涅槃塑像。ダム建設にともない水没の危機に瀕したため9個に分割して移転
涅槃塑像の近くにある炳霊寺文物陳列館。仏像など展示されている
天王 第10窟南壁・唐
法の番人の立像
騾馬の像(銅製)
ご馳走になった食堂のメニュー

蘭州市内観光のスタート
 今日は蘭州市内の観光である。何度も繰り返すようで恐縮であるが、「蘭州と言えば黄河」である。その関係で言えば、『中山橋』である。この中山、すなわち『孫文』の名を関した橋は、100年以上前にアメリカ人の設計、ドイツ企業が施工した鋼橋で、『黄河第一橋』の名を持つほど有名である。蘭州駅から北に向かう天水路と、それに交差する東崗西路(とうがんせいろ)が主要道路となっており、さらに黄河が東西に流れているので、とても分かりやすい。例によって、道に迷った時には「黄河」と言って道を尋ねれば、とりあえず川岸に行くことができるので、後は何とかなる。おさらいしてみる。私のホテルは、駅から天水路を北に向かい、蘭州大学で右折すると東崗西路、そこから100メートル歩いて右側に、…「あったぁ、大丈夫だ」。

黄河第一橋
黄河に架かる中山橋
中山橋を歩く 。私の習性である。美しい橋を見れば、歩きたくなってしまう

白塔山公園
 中山橋の西側に、黄河をまたぐ形で建設されたロープウェイに搭乗して、『白塔山公園』に登ることができる。白塔山の名前の由来は、山頂の寺院に白塔があることから来ている。寺院は、チンギス・ハーンに謁見するために、チベットから派遣されたチベット仏教の僧職者僧が病死したため、その供養のために元代に建立されたものだが、その後、明代に改修されたものが現在の姿である。
 元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓、清の康煕57年(西暦1718年)に青銅で造られた鐘などが、その存在感を感じさせていた。建築関連の人達だろうか、専門用語が飛び交っていたが、1958年に建立、2013年に改修されたシャクヤク亭は、その二層八角形の僧帽屋根を持つ特異な形からカメラのシャッターを浴びていた。
 ロープウェイの山頂駅から10分程歩いた所に、『蘭州碑林』と刻字された立派な門が建っている。入場すると、日本のお城を派手にしたような建築物と美しい庭園がある。碑林は、回廊や建物の中に、黄河文明、シルクロード文明、西部文明の碑文を中心に展示している。ある意味、とてもマニアックというか、書道芸術の切り口から展開する、それに特化した空間を提供している。ここの庭園、そして、ここからの眺めは特筆に値する。

山頂に建つ白塔
元朝後期に白搭山を訪れたインドの僧から贈られたと言われている太鼓
清の康煕57年(西暦1718年)青銅で造られた鐘
二層八角形の僧帽屋根を持つシャクヤク亭。1958年建立、2013年改修
蘭州碑林の美しい建物と庭園

 ここは蘭州である。したがって、白搭山の最後も、やはり黄河である。近代的なビルを従えて悠然と流れる黄河は、悠久数千年の中国のエースである

白搭山から見た悠久数千年の中国のエース ・黄河

甘粛省博物館
 ここ蘭州にある甘粛省博物館は、甘粛省内各地からの文化財や化石などを展示する著名な博物館であり、また、外国人であってもパスポートを提示すると免費(無料)のチケットを貰えるためか、多くの人々が訪れる。バスによる交通の便も良く、近くのバス停『七里河橋』で乗降できる。
 地下1階、地上3階建ての建物を、「甘粛シルクロード文明」「甘粛の彩陶展」「甘粛古生物化石展」の三つの部門に分けて、それぞれ特色ある展示物を公開している。黄河上流域で出土した彩陶や漢代の木簡、青銅像、マンモスの化石等々、膨大な出土品が展示されているが、その中から著名なものをいくつかご紹介したい。
 子供達にも人気があるのは、化石展のマンモスの化石で、実物骨格も展示しているので、その迫力に圧倒される。子供達は、横目でまわりを見ながら、幼い仕草で マンモス に恐るおそる触ろうとしては失敗している。「可愛いですね」。「駄目か?」。

甘粛省博物館 は、甘粛シルクロード文明(2階)、甘粛の彩陶展(3階)、甘粛古生物化石展(2階)の3つのコーナーに分かれている
マンモスの化石
マンモスの化石

馬踏飛燕像
 次に、登場させるのは、この博物館で一番人気と言って良いでしょうから、時間を割いてご説明しましょう。甘粛省武威市の雷祖廟雷台漢墓から、多くの文物とともに発掘された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像(ばとうひえんぞう)』である。走る馬をかたどった青銅像で、高さ35センチメートル、頭から尾先まで45センチメートルである。馬が三本の脚で宙を蹴りながら天翔けるさまを表現し、残る一本の脚が踏みつけているのは燕であると言われている。他方で、『燕』ではなく、『龍雀』という空想上の鳥という説もあるそうだ。また、この奔馬は西域から入ってきた「『汗血馬』がモデルではないかという見方が多いそうだ。先に、西安近郊の『茂陵』の項で述べたが、“武帝が作らせた像・『馬踏匈奴』に出てくる伝説の名馬『汗血馬』”のことである。いずれにしても、空を飛ぶ燕を踏みつけながら天に舞う馬の姿は、まさに“ダイナミック”の一言である。一説によると、日本とも因縁の深いあの『郭沫若』が『馬踏飛燕』と名づけたそうだが、確認はしていない。
 古来、この国にとって馬は重要な兵器。どの為政者も“強い馬”を求めて西方に向かった。万里の長城も、馬が乗り越えられない高さに築かれていることは、ご承知の通りである。
 ジョークに聞こえるかもしれないが、現在でも“良血馬”を求めて、世界の金が動いているとも言える。

1969年、武威の雷台廟で発見された銅製の奔馬の傑作『馬踏飛燕像』。高さ34.5センチメートル、長さ45センチメートル
馬の頭の飾り。西周(紀元前1046-771年)
唄う俑の置物 春秋(紀元前770-476年)
張弿。武帝の命により匈奴に対する大月氏との同盟には失敗したが、漢に西域の多くの情報をもたらした
馬を引く三彩胡人俑
駱駝を引く三彩胡人俑

中国・河西回廊 西安郊外(4)~崋山~ 

西安郊外最後の訪問地・崋山
 『登山の愛好者』と言われる方々を引き付けるものは何なのだろう。目的地に辿り着く達成感、自然との触れ合い、ストレートに健康増進、高所から見る折々の景色、…等々、色々あると思われるが、特別『登山の愛好者』とは言えない私にはよく分からない。私が観光地としてガイドブックに載っているような山に登ったのは、2013年に訪れた中国・昆明の『西山森林公園』である。『登山の愛好者』の方々には、お叱りを受けるかもしれませんが、時間があったので、「いってみようか」といった程度であった。詳しくは、改めて別稿として書く予定であるが、動機が動機なので、達成感は無かったが、中国人の親切さ、自然との触れ合い、景色の美しさを楽しんだ記憶がある。もちろん、それらを楽しんだだけでも、十二分なのだが。
 今回の西安から出かける『崋山観光』は、「多くの人達が勧める著名な崋山を楽しんでやろう」と、少しは気合が入っている。2ページの記事が載っているガイドブックからの情報しか持っていない、「親切な中国人に期待して」出かけることにした。

崋山のお助けお嬢さん達
 西安駅前東広場の観光専用バス『游1路』に朝7:00に乗車して約2時間でバスセンターみたいな所に着く。一緒のバスに乗ってきた中国人達の流れについていくと、小さな建物に入っていく。どうやらここは崋山全体を概略的に説明し、頂上までの行き方、交通手段などについてガイダンスをしてくれる場所のようだ。大まかな説明の後、壁に貼ってあった詳しい地図を眺めても、もう一つ、合点がいかない。他の人達は思い思いに目的地に散らばっていく。とりあえず建物を出て、うろうろしていると、20代と思われる若い女性の3人組が私の方を見ている。「英語を話せますか?」と、聞かれる。『今日のお助けお嬢さん達』の登場である。私の希望に配慮しながら色々なアドバイスをくれる。しかし、私自身、崋山のことをよく分かっていないので、「希望を伝える」には動機も知識も不足している。相当に英語が上手なお嬢さん達だったので、微妙な意思疎通もできそうなので、「西安も崋山も初心者である」ことを伝えると、「では、一緒に行きましょう」と言ってくれる。日本語で、 心の底から 「ありがとう。よろしくお願いします」と、頭を下げた。

一緒に行きたい
 早速、アドバイスである。「山の上は風が強く寒いので帽子を買った方が良い。私も買うので一緒に行きますか?」。「えっ、えつ、アヴェック・シャッポウ?」と、和風フランス語が出てしまった。彼女は白、私は黒を選んだが、「こちらの方が良い」と違うのを勧められた。迷っていると、あご紐の有無だった。風で飛ばされないようにという配慮だった。もちろん「サンキュー」だ。
 バスに乗って旅客センター(遊客中心)に行く。そこで、①景区の入場チケット、②西峰の太華索道のチケット、③ロープウェイの山麓駅までのシャトルバスのチケットを購入する。「私達」、(彼女達の気遣いで、いつのまにか「私達」と甘えている)、私達はロープウェイを降りた後の移動が楽だという『西側の太華索道』を選んだ。2013年に開業した全長4,211メートルの世界最長クラスのロープウェイで、ロープウェイの頂上まで約22分で一気に登ることができるそうだ。ここで、私は仲間のお嬢さんに年齢を聞かれた。そして「パスポートを出して下さい」と言われた。急峻な場所なので、「登山日誌にでも記入を求められるのかな」と思いつつ、パスポートを見せると、「フリー」と言われた。お嬢さんは、にこにこ、可愛い笑顔で「免費!」。私の年齢では、『入山料』というか、『景区の入場料金』は無料だったのだ。「ありがとうございます」。

崋山景区の全体説明。この後、各自が登山ルートを選ぶ
バスチケット
入山チケット(免票)
ロープウェイの片道チケット(西峰索道)

崋 山
 仲間のお嬢さんが、デイバッグから崋山について英語で説明したA4判1枚の紙を取り出して私にくれた。これ幸いと、ここに転記させてもらう。『華山は最高峰である南峰(落雁峰2,154メートル)、それに北峰(雲台峰1,614メートル)、中峰(玉女峰2,037メートル)、東峰(朝暘峰2,096メートル)、西峰(蓮華峰2,082メートル)の5つから構成される。山頂の道教の寺院は、建立してから1000年以上も経つ』。ほぼ、こんな内容だ。あっ、そうそう、崋山全体の簡単なルート図も載っていました。
 「さあ、出発だ」。シャトルバスに乗ってロープウェイの山麓駅まで移動する。高山病対策なのか、吸入器のセットが売られていたが、高齢の方々は、最初から携帯していた人達もいた。山を見上げると、本当に高い山だ。立派なロープウェイであるが、花崗岩が露出した険しい山肌が続く景色は、最初のうちは恐怖の連続であった。さすがに慣れてくると、まさに著名な景勝地として知られているだけあって、可愛いお嬢さん達の恐怖の声は歓声に変わる。20数分で太華索道の頂上に着く。外へ出ると。急峻で美しい景色に改めて歓声が上がる。
 西峰の頂に建つ翠雲宮も人気である。前にある石が蓮の花の形をしていることから蓮華峰と呼ばれているが、この近くにあるコーヒーショップの“華山珈琲”の“今日のおすすめ”の看板はユーモアたっぷりで、笑いを誘っていた。今、12時30分である。頂上付近なので最高の眺めが得られるせいか、多くの人達が店の中ではなく、外に適当な場所を見つけて思い思いに昼食を取っている。
 さて、私である。急峻で、切れの良い景色、そして、明るく可愛いお嬢さん達に囲まれて、私はおいしいサンドイッチとチョコレートと、…をいただいている。お嬢さん達に分けてもらった貴重な食糧&デザートである。2015年5月18日、このところ悲しいこともあった私には、忘れられない楽しい、そして美しい心に触れられた『崋山』であった。「ありがとう、崋山」、「ありがとう、皆さん」。

皆で出発
入  口
西峰索道(ケーブルカー)乗場
西峰索道
花崗岩が露出した険しい山肌が続く
西峰索道(太華索道)の頂上
西峰の頂に建つ翠雲宮。前にある石が蓮の花の形をしていることから蓮華峰と呼ばれる
翠雲宮のアップ
翠雲宮近くにある“華山珈琲”の“今日のおすすめ”はユーモアたっぷり
怖い
このような所もあります 。下を向いて座り込む人もいた
子供を授かるように 。同行のお嬢さん達は顔を見合わせて、「きゃっ、きゃっ」と…。
「何とも言いようが無い 美しさ」を感じるのは、世界共通の美意識なのだろうか?
鐘 楼
色々なご利益がある金鎖閣
北峰索道

中国・河西回廊 西安郊外(3) ~半坡・香積寺~

導入部
 西安郊外の旅のうち、昨日は、兵馬俑→華清池→半坡辺りをうろうろしていたのだが、素晴らしい旅だったせいか写真が多くなり、(私の考える読者諸氏の)一回の読み切り量をオーバーしてしまいそうなので、前回は兵馬俑と華清池を一つにまとめた。今回は、前回入れられなかった『半坡博物館(はんぱはくぶつかん)』と、新たに宗教関係の史跡が多い南線ルートの中から浄土宗発祥の地として著名な『香積寺(こうしゃくじ)』を加えて一つにして、まとめたい。
 兵馬俑博物館のガイドのお嬢さん達はとても親切で、自分たちの守備範囲ではないのに、華清池から半坡博物館への行き方を中国語でメモしてくれた。このメモを運転手に渡せば、目的地の近くで降車の合図をくれる仕掛けである。45路バスの『半坡博物館』で降車、あるいは、11、42、307路バスで『半坡』へ向かえばよいとのことである。運転手さんに渡す中国語のメモのおかげで、スムーズに『華清池』から『半坡博物館』に来ることができた。若いお嬢さん達に親切にされることは、まっこと、気持ちがよく、健康に良い。ありがとう。(「お前は正直すぎる」の声が聞こえる)。

半坡博物館
 ここは、約6000年前の母系氏族社会の遺跡『半坡博物館』である。時代的には新石器時代に属するが、耕作中の農民により発掘されたのは1953年と比較的新しい。中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化、いわゆる『仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)』の代表的遺跡である。中国で唯一完全な形で現存する原始人社会遺跡である。規模的には約5万平方メートル、最盛期で500~600人程の規模の集落であったと推定されている。 
 『半坡博物館』は、遺跡の一部を体育館のような大きなドーム型の建屋で覆って、そのまま保護展示した博物館であり、このドームで保存するという試みは、中国で初めて行われた博物館だそうである。この村落遺跡は、おおまかには、居住地、公共墓地、陶器製造場に分けられ、それぞれに説明が加えられている。
 そもそも、 私には基本的に考古学の知識が無く、半可 通 な知識で語っては、せっかくここを訪れた方々に、申し訳なく、また失礼になってしまう。
 ここでは写真を中心にご紹介したい。

西安半坡博物館の案内図
半坡遺跡の出土文物展(陳列室)
半坡人と現代中国人の体質人類学の比較
尖底瓶。描かれた文様も独特
半坡遺跡
遺跡の北側にある公共墓地区の遺跡
集落の様子が分かる遺跡

今日のお助けマン
 今日は、西安郊外の南線ルートと呼ばれている、宗教関係の史跡が多い中でも、特に著名な『香積寺』に向かう。いつものことであるが、日本で使っている数珠を携帯している。
 『私は、旅行先にそれなりのお寺がある時は、宗派を問わずにお参りあるいは見学することにしている。ましてや、これからお参りする香積寺(こうしゃくじ、こうせきじ)は、浄土宗発祥の地である。ゆっくりと一人旅である。金花北路から遊9路バスに乗り、1時間15分くらいでバス停『香積寺村』に着く。あらかじめメモ用紙に『香積寺村』と日本語(漢字)で書いて運転手さんに見せてあったのだが、中国語と似たような字なので理解してくれたのだろう。運転手さんが親指を下に向けて「降りろ」と合図している。そして、渡したメモの『香積寺村』の『村』に丸印をつけて、バスの右側を指さしている。止まった所は大きな通り(子午大道?)にあるバス停で、降車口の右側には何も無い。首をかしげると、もう一度、マークした「村」を私に見せて、右側を指差す。指さした右側には、…?…、「村?」、…、「あった!」の大声は私の日本語である。。大きな通りの右側に並行するように小さな道があり、『村道』と書いた小さな青い看板が立っていたのだ。バスの運転手さんは、それを知らせようとして、メモに書かれた『村』に丸印をつけてくれたのだ。賢くそして親切な『お助けマン』に今日もお世話になった。ありがとう、西安のお助けマン。

『香釈寺村』で降車後、『村道』を歩いて香積寺に向かう

香積寺
 村道を歩いて10分。見えてきました。706年(唐の中宗の神龍2年)、浄土宗の門徒達が第2代祖師善導和尚を記念して建立した仏教寺院、浄土宗発祥の地『香積寺』についにやってきました。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承から「香積寺」と名付けられたそうである。善導和尚(613~681年)は、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家した。一生涯を浄土念仏の布教活動に費やし、 善導和尚が書き上げた『観経四帖疏』は、我が国の浄土宗の開祖・法然に大きな影響を与えたことはよく知られている。 
 日本の浄土宗信者も善導の墓所である香積寺を『祖庭』としており、1980年には善導和尚の円寂1300年を記念して善導太子像を寄贈している。仏教における『祖庭』とは、各宗派の開祖が在住、宣教もしくは埋葬された寺のことを言う。また、耳学問であるが、ここで言う『円寂』とは、「涅槃寂静 円満成就」を略した言葉で、悟りの意が転じて僧侶の死を意味する語となったそうである。
 ひときわ目立つのは、創建当時の建物で、現在、唯一残っている 『善導塔』である。 唐代680年に建てられた高さ33メートルの善導法師の舎利塔である。13階建てであったが、現在は11階まで残っている。文化大革命で大きな被害を受けて、現在の建築は『善導塔』以外は1980年以降に修繕・再建されたものである。
 唐代の詩人王維が『過香積寺』という詩を詠んだことでも有名である。引用で恐縮ですが、訳文とともに掲載させていただきます。
「不知香積寺,數里入雲峰。古木無人徑,深山何處鐘。泉聲咽危石,日色冷青松。薄暮空潭曲,安禪制毒龍」。
「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」

浄土宗発祥の地・香積寺 の大きな門
香積寺
ここは立ち入り禁止
仏 像
天王殿に安置された布袋様
鼓 楼
香積寺善導塔
華やかな内部
大雄宝殿
大雄宝殿に安置されている善導大師座像

中国・河西回廊 西安郊外(2) ~兵馬俑・華清池~

今日の日程
 今日は、2015年5月16日。西安郊外の観光で最も人気のある東ルートと呼ばれる地域を一人旅である。訪れる場所を簡単に記すと、西安駅東広場前の遊バス(306路あるいは遊5路バス)に乗車→次の停留所(バスストップ)である『華清池』で降りずに→終点の『兵馬俑』で降車→『秦始皇帝兵馬俑博物館』見学→(戻って)『華清池』で降車→楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』見学→45路バスで『半坡博物館』、あるいは11, 42, 307路バスで『半坡』へ→母系氏族社会の遺跡『半坡博物館』見学、といった旅程である。
 ただし、上記の旅程を一つにまとめて、『兵馬俑・華清池・ 半坡博物館』 とするには物理的に量が多すぎるので、 ここで は 『兵馬俑・華清池 』 としてまとめ、『 半坡博物館 』は次の項に譲りたい。 

兵馬俑 は人気がありすぎる
 言わずと知れた『秦始皇帝兵馬俑博物館』である。毎年500万人以上が訪れ、その数字は年ごとに伸びているという。祝日が続く10月の中秋節の週では、なんと40万人を超える人々が訪れたそうだ。この博物館について説明を試みても、入場者が多いことと比例して、インターネットへの投稿数が圧倒的に多いため、どこかで似た文章になってしまう。屋外と違って狭い館内を写すことから、写真自体も「どこかで見た写真」になってしまう。デジカメが普及していない、いわゆるフィルムカメラの時代であれば、フィルムの供給が追い付かなかったであろうと思われる。

秦始皇帝兵馬俑博物館
 館内には多くの情報がパネルで示されているが、その一つ、一号坑の解説パネルに『打井位置』と題してこの兵馬俑が発見された経緯が記されていた。簡単に言うと、「1974年、地元の農民が水を探して井戸を掘っていた時、いくつかの陶器の破片がここで発見された」。兵馬俑坑発見のきっかけである。この総面積約1万4260平方メートルの1号俑坑を皮切りに、北側に2号坑俑(第1号俑坑のほぼ半分の広さ)、3号俑坑が発掘されて、3つの俑坑の規模は2万平方メートルと言われている。そこに8,000点を超えると言われる陶製の兵馬が、地下に整然と並んでいる。死後の秦始皇帝を守るためである。
 70万人を動員して造られた兵馬俑であるが、兵力100万、戦車千両、騎馬1万、そして兵士の平均身長180センチメートル、馬の体長2メートルと、『史記』に記載されているという。第2号兵馬俑の広さは、第1号兵馬俑のほぼ半分であり、兵士には、歩兵、弓の射手、騎馬兵が含まれている。4頭の馬に引かれた戦車が全面積の半分を占めており、秦の時代の戦争は戦車中心であったことが分かる。前後を戦車と歩兵に守られた将軍の俑が全軍を叱咤するように立っている。身長約2メートルのひときわ高い一隊である。個人的に特に興味を持ったのは、小さな金属片を鋲でつづった兵士の甲冑(かっちゅう)である。その機能性と同時に、日本の武将の纏う鎧の美しさを想起させるものであった。
 秦はわずか2代、10年余りで滅び、続いて項羽に勝った劉邦の漢王朝が成立する。この辺りの歴史はダイナミズムにあふれ、『血沸き肉踊る』が、ここは、『秦始皇帝兵馬俑博物館』の舞台であるので、咸陽(かんよう)で出土された『漢の兵馬三千俑』があることを述べるにとどめ、詳細についてはここでは割愛する。
 説明が前後したが、『俑』とは権力者や為政者の死を追って、臣下がその死に殉じる代わりに埋葬された人形(ひとがた)のことである。ここでは、兵士俑は隊列を組んで東向きに並んでいるが、その方向とは敵国のある方向である。8,000点を超える俑を比較することは私には不可能であるが、ガイドブックによると、陶製の兵馬は、表情、髪形、衣服はどれひとつとして同じ形のものはないという。これは、始皇帝の軍団が多様な民族の混成部隊であったということであろう。

始皇帝兵馬俑博物館入口
一号坑の内部。整然と隊列を組む兵馬俑
銅製馬車のうち先導車
整然と並ぶ俑
整然と並ぶ俑
その数に圧倒される
農民の楊さんが井戸を掘削中に陶器(兵馬俑)の破片を発見した場所
整然と並んでいる
跪射俑
棚木遺跡
二号坑で発見された騎兵
立射俑
銅 剣
7人の将軍の一人。あごひげがあって威厳がある
兵馬俑坑、三号坑入口
兵馬俑坑の三号坑の様子。土中の兵傭を見ることができる

華清池
  西安駅東広場前から遊バス に乗って、ここ『兵馬俑』に一気に来たのであるが、ここに来る時に途中下車しなかった『華清池』に、戻りのバスで向かう。玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』である。気のせいか、女性の観光客が多いように感じる。
 『驪山』。私はこの字、『りざん』を読むことができなかった。辞書によると、『驪』には『黒色の馬』、『黒い』などの意味がある。海抜、約1300メートルの『驪山』は秦始皇陵や兵馬俑博物館まで見渡せる山で、これから訪ねる予定の『華清池』からロープウェイもあるが、そこからさらに歩かなければならないそうで、止めることにした。というか、温泉とロマンスの場を早く観たかったのである。
 その驪山の北麓に位置する華清池は、風景に加えて温泉が魅力の観光地である。でも、観光客の目的は、温泉に入る一部の女性?もいらっしゃるが、その大半は『楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス』の場を観るためである。楊貴妃(姓は楊、名は玉環719~756年)は、中国四大美女の一人、西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の、あの楊貴妃である。

楊貴妃
 歴代の王朝がこの場所に離宮を造ったが、唐の天宝年間(742~756年)には、華清宮そして池ほどの大きさの温泉が造られ、玄宗皇帝は寒い季節には自分の養生のため毎年訪れたそうである。
 本当であろうか?私は違うと思う。愛した、好きになった、美しく聡明な女性が「より美しくなりたい」と懇願したとしたら、いや、「楊がそう思っている」と気づいたら、『男たるもの』は、口に出さずに、「レッツ・ゴー」なのである。それほど、玄宗が惚れていたというか、楊が惚れさせたというか、「この色男と色女めっ」。その楊貴妃が使ったという温泉の跡を丁寧に写真で巡る。

驪山の北麗に位置する温泉と風景の美しさが有名な華清池
華清池入口にある玄宗皇帝と楊貴妃の像
玄宗皇帝と楊貴妃の像。噴水で雰囲気を出している
騨山を背景にした古代ロマンスの舞台である長生殿
華清御湯
楊貴妃専用の『海棠の湯』に入っているこの姿を想像したら世の淑女たちに叱られるでしょうか?
楊貴妃像の奥にある温泉古源(温泉の源泉)。横に『泉無料体験』の表示あり
美人湯で顔を洗うのは、洋の東西を問わず女心。蓮の花の中心から、手で触ると少し温かく感じるお湯が出ていた。ということは私も顔を洗った。必要ないのだが
尚食湯。唐の時代、食事を作ったり、皇帝の世話をする人々が入る湯である
玄宗皇帝専用の湯、蓮花湯。10.6メートル × 6メートルと大きい
楊貴妃が入浴した『海棠(かいどう)の湯』。海棠の花の形をしていて、3.6メートル x 2.7メートルのサイズ
唐の太宗である李世民の時代に皇帝用の温泉として作られた星辰湯。18.2 メートル x 5 メートルとかなりの大きさ

あなたの好みは
 最後に、楊貴妃のボディ・サイズは?出典不明であるが、身長167センチメートル、体重64キログラム、…、後は教えない。写真を載せましたので、御自分の好みで造形してください。どうでも良いことですが、ジムで鍛えている私より1センチメートル低く、2キログラム重い、どちらかと言うと豊満で?…、あなたの好みで書き足してください。音楽や踊りの才能に恵まれた女性であったということですが、白居易(はくきょい)の『長恨歌』に描かれるとは、歴史のなせるわざか。華清池では毎日『長恨歌』と題した歌と踊りのショーが演じられている。(純な私めは)涙。ところで、『長恨歌』の英訳が、 『The story of everlasting』とあった。「単なる言葉遊びと笑われるかもしれないが、イメージとしてはこっちのほうが好きだな」。

一転、政治的事件
 ここは1936年に『西安事件』の起きた場所でもある。国民党と共産党の内戦のさなか、張学良、楊虎城が国民党の蒋介石を捕らえ、内戦終結と一致抗日を訴えた事件である。当時、滞在した五間庁のガラスには弾痕が残っている。最後に、この事件は、日本と中国にとってその将来を左右する大事件(大事変)であるが、ここでは数行で終わらせたい。政治的意図を持って訪れる人は別として、私を含めて多くの観光客にとっては、ここ華清池は『玄宗と楊貴妃のロマンスの地・華清池』なのである。バック・ミュージックに、フランシス・レイの『…』を入れてみたが、あなたはどんな曲を挿入しますか?

長恨歌芸術館
楊貴妃の衣装
歌と踊りのショー『長恨歌』が演じられる
望湖楼
1936年の西安事件の時 、蒋介石 が滞在した五間庁のガラスには弾痕が残っている

中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~

茂 陵
 先述したように、西線ルートは、市区中心部から離れて散在しているので、旅行会社の西線一日ツアーに参加することにした。西安鉄道駅に向かって右側にある西安バスターミナルの東広場を朝8:00に出発した。最初の訪問先は、前漢時代の陵墓群である。余計なことかもしれませんが、前漢時代とは大まかに言って、劉邦(りゅうほう)が中華を統一した時代を言う。前漢の11皇帝のうち、文帝,宣帝を除く前漢9帝の陵墓が東西50キロメートルにわたって、ほぼ真っ直ぐ並んでいる。最も大きい陵墓は第7代皇帝武帝(紀元前156~紀元前87年)の『茂陵(もりょう)』で、高さ46.5 x 東西39.5 x 南北35.5メートルで、基底部の四辺は240メートルと大きい。茂陵の築造は武帝17歳の時に始められた。完成後間もなく71歳で逝去。栄華を極めた人生だった。
 武帝には色々な逸話があるが、その一つは、宿敵『匈奴』との戦いであろう。前漢時代には、匈奴を野蛮な『夷狄』と呼んで恐れ、歴代の皇帝は、匈奴を兄、漢を弟と呼んで、貢物を届けていた。これに反旗を翻したのが武帝である。甘粛省西部にある山丹軍馬場は、2100年前の武帝の時代から続く軍馬繁殖場である。武帝は、はるか中央アジアから手に入れたと言われる優秀な馬の繁殖に力を注いで強力な騎馬軍団を作ったと言われる。一説には、40万頭に膨れ上がったという。そして、ついに匈奴を北方へと追い払うのである。匈奴に対する戦勝を祝して武帝が作らせた像が、『馬踏匈奴』である。昼間には千里、夜には800里走ることができると言われる伝説の名馬『汗血馬』は、馬が走る時に血のような汗をかくことから汗血馬と名付けられたそうだ。
 先に『歴史のおさらい』の中で登場させた人物の中に、『霍去病(かくきょへい)』を加えたことを覚えていらっしゃいますか?武帝が寵愛した武将で、紀元前 123年、18歳の時に叔父の大将軍、衛青と共に初めて、北方の異民族である匈奴征伐に従軍した。その後,匈奴征伐に5回赴き、この時代、最大の敵であった匈奴討伐に尽力した。紀元前 117年頃,病により 24歳で祁連山(きれんざん)で夭折した霍去病を悼んだ武帝は,彼の功績を讃えて手厚く葬った。墓は武帝の茂陵の近くに、叔父の衛青のそれと隣り合わせにある。

西安バスターミナル
霍去病の陵墓
匈奴を踏みつける馬(国宝)
去病石

懿(い)徳太子墓
 『懿(い)徳太子墓(博物館)』に向かう。懿徳太子は、唐の第3代皇帝高宗(628~683年)と則天武后(624~705年)の孫で、唐の第4代皇帝中宗(656~710年)の長男である。永秦公主の事件(高宗と則天武后の孫にあたる永秦公主が17歳の時に則天武后の情夫の批判をしたため、則天武后によって殺された事件)で、懿徳太子も則天武后によって殺された。
 参道と前後の墓室から成る全長100.8メートルの墓で、墓道から墓室につながる地下施設の壁面には彩色画が残っている。解説書によると、『闕楼儀仗図(けつろうぎじょうず)』は、当時の様子が表現されている貴重な壁画ということだが、乾陵博物館に移されたそうである。

懿(い)徳太子墓博物館
壁 画

武則天(則天武后)
 武則天について詳しく述べ始めると、漢の高祖劉邦の皇后『呂雉』、清代の『西太后』、そして唐代の『武則天(則天武后)』を“中国三大悪女”として述べなければ、「あれっ」ということになろう。小説、映画、TVドラマ等々、世界的に、そして歴史的に有名なのであるが、違う表現をすると、その本質はともかくも、そして真摯に歴史と向かい合って研究されている方々は別として、あの手この手を使って、面白おかしく登場させているとも言えよう。
 しかし、もし、私がこの種の女性にお会いしたら、どうするか?どうするも何も、目をそらしてすぐに逃げ出してしまうでしょうね、多分。「過去の歴史に現れた女性、それもとびっきりの魅惑的なというか、個性的な美女をとらえて悪態をつくのは、この場の役目ではない。ということで、ここでは、武則天について簡単に述べる」、と言い逃れしながら…。「意気地なし!」。私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう。
 則天武后は第2代皇帝太宗の後宮に入り、太宗の死後に尼になっていたが、高宗の第三代皇帝への即位により再度後宮入りして高宗の寵愛を得た。高宗が病気がちになると、その持前の能力を発揮して朝廷の政務を済決するようになり、高宗の死後は、皇太后、そして聖神皇帝として即位し、周をおこした。簡単すぎますか?では、もう一つ付け加えます。先に、『懿徳太子墓』の欄で述べた『永秦公主の事件』の繰り返しですが、則天武后は、自分の情夫の批判をしたことを理由に、17歳の孫娘を殺したのです。こんなことを改めて言うなんて、卑怯ですね。なんか、則天武后を悪者にして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている。言い逃れみたいですね。「私は。やはり、意気地なし!」みたいですね。
 なぜか、急に『つかこうへい』を思い出した。「今、義理人情は、女がやっているのです」のような名ゼリフがあったと思います。

乾 陵
 乾陵は、唐王朝第三代の皇帝高宗(628-683年)と中国の歴史上唯一の女帝武則天(624-705年)の合葬墓である。梁山の主峰と南の峰を利用し、唐長安城を模倣して建築したもので、正面の山(陵墓)に至る道(神道)が美しい。道の景観的には、神道に通じる526段の石段と18の踊り場(平台)が幾何学的な造形美を醸し出している。18座の平台は、唐の時代の皇帝の陵墓が18であることを意味し、また、2番目の21段の階段は、則天武后が政務をとった期間が21年であることを意味している。
 大型の石の彫刻が100件あまり現存していて、とりわけ乾陵司馬道の両側に分布する翼馬、無字碑、61蕃臣の石像などが存在感を示すように建っている。
 『無字碑』、つまり碑に何も記されていないのは、「自分の功績は文字で表現できない」という説や、功績は後の人々が決めるという説など、諸説があるそうだ。
 私が興味を持ったのは、首を切られた『61蕃臣の石像』である。彼らは、少数民族の指導者であり、また、唐王朝政府の官吏だったと言われている。こういう時代だったのですね。

乾陵参道。正面の山が陵墓。石段は575.8メートル
石像が続く
無字碑。「自分の功績は文字で表すことはできない」という説
参道脇にある無字碑
首を切り落とされた六十一蕃臣。彼らは少数民族のリーダーかつ唐王朝の政府の官吏だった
ド迫力

私の旅のスタイル
 旅行会社の主催する西線一日ツアーに参加し、午前の部は無事に終了した。西安バスターミナルの東広場から朝8時のバスで出発し、まず『茂陵』を見学し、次に『懿(い)徳太子墓』、そして『乾陵』で終わった。ツアーに参加すると、慣れていないせいか、ちょっと勝手が違うというか、戸惑うこともあるが、行先への交通機関の検索、乗り換え場所を間違わないようにする配慮等々から解放される。とても楽である。でも、何か、自分という物体が点から点に運ばれている感じがして、時間の余裕ができたのに人との接点が無いような感じがする。西安のような大都会では無理かもしれないが、もっと小さな町であれば、前もって運転手に中国語もどきの漢字のメモを見せながら「日本人です。どこどこに…」と言えば、その近くの停留所に近づくと、大抵の場合、「降りろ」と合図をくれる。そして、降りた場所から目的の場所への行き方を教えてくれる。もっと田舎になると、停留所でもないのに目的の場所で停車してくれる。あるいは周りのおじさん、おばさんが教えてくれる。これまでに相当数の国や都市を旅行したつもりだが、中国人は、本当に親切である。このことがらについては、これから何度も口にすると思う。
 ついでで恐縮ですが、イタリアのナポリあたりでも、周りのおじさん、おばさんが超親切に?教えてくれる。意見が違うと、おじさん、おばさん同士が喧嘩をしている。そうこうしているうちに、目的の場所を行き過ぎたこともある。「ありがとう、グラッツィエ・タンテ」。要するに、私の旅のスタイルは、『出会い』みたいです。『自由』みたいです。

法門寺
 午後は、1,800年以上の歴史を持つ古刹、『法門寺』を訪ねる。後漢の第11代皇帝桓帝(在位期間‎: ‎146~‎168年)から第12代皇帝霊帝(在位期間‎: ‎168~‎189年‎)にかけて建立されたお寺である。
 ガイドブックによると、言い伝えであるが、約2000年前、古代インドのマウリヤ朝の国王であるアショカ王(中国語で阿育王)が仏法を広めるために、仏舎利(釈迦牟尼の遺骨)を八萬八千四百に分骨して世界各地に送り、そこに塔を建てて、その中に仏舎利を安置したという。中国では19基の仏舎利塔が建立され、法門寺塔はその中で第五基といわれている。その経緯から、創建当時は阿育王寺と呼ばれていたが、西暦624年(唐の高祖・武徳7年)に法門寺と名付けられた。
 仏法のことを話しているのに、このような表現は不謹慎かもしれないが、1987年に信じられないことが起こった。1981年の大雨で法門寺の塔が半壊した結果、1987年から基礎部分を含めた修理が始まった。その時に、1100年あまり密閉されていた地下宮殿が発見され、調査の結果、なんと、『指の仏舎利』と貴重な仏教文物が発見されたのである。発掘物、文献、碑文等についての専門家による分析の結果、本物の仏舎利であると実証されており、現時点では仏教界の最高の聖物であると言えよう。地下宮殿の後方にある八重宝函には、仏舎利を入れるために金銀、真珠、宝石、玉石、象牙で作られた『入れ子細工』の箱が陳列されている。御存知のように、『入れ子細工』とは、同じような形状で大きさが異なる容器などを順番に中に入れたもので、ロシアの『マトリョーシカ人形』が有名である。
 この地下宮殿内に納められている『指の仏舎利』を見たくて、我々観光客はここに来るわけである。仏教界最高の聖物と言っても過言ではない『指の仏舎利』の価値もさることながら、とにかく巨大な寺院である。

法門寺
再建された明代の仏塔。仏舎利はこの塔の地下に納められていた
法門寺珍宝館。ここに『八重宝函』がある
仏舎利を納めた八重の宝箱『八十宝函』
仏舎利を納めた八重の宝箱『八重宝函』・第一重
法門寺仏塔 をバックに

中国・河西回廊 西安市内(2)

明代城壁
 鐘鼓楼広場などの『古都西安』を感じさせるエリアを囲んでいるのが、『明代城壁』である。唐の長安城をベースに1370~1378年(明の洪武3~11年)の7年をかけてレンガ積みで構築された城壁である。周囲13912メートル、高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メートルと、厚さが高さより大きい堅固な城壁である。周囲の長さは約14 キロメートル である。
 東西南北に4つの門があるが、最大規模の西門は西側のシルクロードにつながる城門で、明の時代はここからシルクロードへ向かって出発したのだと想像すると、胸が躍ってくる。 入口近くに西安城壁景区全景図が掲示され、旅客センター(ツァリスト・インフォァメーション)が設置されるなど、観光客への対応も万全である。
 多くの観光客は、南門から城壁に登り、市内をカメラに収めている。壁の上にある鐘も人気である。横にある説明文によると、この鐘は、高さ1.75メートル、直径0.96メートルで、主に祝祭用に使われたらしい。
 城壁を一周できるが、14キロメートルもの長さは普通の人には無理であろう。でも、いくつかの門から城壁内へ登り降りることができるので大丈夫。挑戦してみましょう。楽をしたい人は、レンタサイクルを利用しましょう。安遠門の自転車ステーションでは、十数台の自転車をそろえて客を待っていますよ。
 個人的には、城壁上部のレンガによる舗装構造の説明に興味を持った。説明文を写真に示したが、舗装部分は3層のレンガで構成され、6台の車の並走に耐える構造である。注目すべきは、端部から中央に向かって5度の勾配をつけて排水を良くしている点である。仕事がら、「流水層を設けている点などが特記される」と、論文調になるので、ここまでで。

西安古城のシンボル・明代城壁
城壁と水の組み合わせが美しい
西安城壁景区全景図
旅客センター
南門(永寧門)。多くの観光客がここから城壁に登る
レンガによって造られた舗装構造の説明
壁の上にある鐘
城壁からの眺め

清真大寺
 鼓楼から骨董品が並ぶアーケード『化覚巷』をゆっくりと北に向かう。中国人の骨董好きは英国人と並ぶと言われるが、特に『玉』には目がない。知識の無い私は店主と客のやり取りを楽しんで見ているだけであるが、現金の束を片手にやり取りするさまを見ていると、「本当?」と驚いてしまう。もちろん、骨董そのものを楽しむ人達も多いことは言うまでも無い。近くには、『西安蓮湖歴史文化街区』があって、この地域の保全を推進している。近年の歴史的地区や文化地区が画一化、均質化されていることへの危機感であろう。「頑張って欲しい」。
 化覚巷を北へ数百メートルも歩くと、西安最大のイスラム寺院、清真大寺がある。作りは仏教寺院に見えるが、木造のモスクである。化覚巷にあるため、化覚巷清真大寺とも、あるいは東大寺とも呼ばれているそうだ。敷地面積約 13,000 平方メートル、建築面積約6,000 平方メートルで4つのブロック(進院)に分かれている。深い知識はないが、今回の西安訪問の中で、清真大寺とこの周辺は、『兵馬俑』とともに私が最も楽しみにしていた所である。
 中国にイスラム教が正式に伝えられたのは、唐の時代の651年であるが、清真大寺の創建は742年(唐の天宝元年)、その後、拡張工事が重ねられ、現在に至っている。見所が多いが、第四進院の奥にある礼拝大殿の美しさ、緑色の瑠璃の瓦で被われているその美しさは、必見である。一眼レフを置いてきたことを後悔する。信者のおじさんの話だと、1000人以上が礼拝できるそうだ。もう1つ、教わった。西安にはイスラム教徒が約6万人いるそうだ。
 そして、第四進院の六角形建築物、鳳凰が翼を広げたような屋根が美しい鳳凰亭も多くのカメラのフラッシュを浴びていた。皆さんがため息をついていたのが、第三進院の省心楼である。アザーンを発する(礼拝を呼び掛ける)ミナレットである。工事のための足場を組む鉄棒で八角形の美しい姿が囲われていたのである。お見せするのは、美しさを誇る彼女にとっては酷なことだ。勘弁してやってください。

清真大寺後日談
 化覚巷の市場(バザール)風の賑わいに魅了されて、昼間の様子を見てみようと、翌日また出かけた。ところが、方向音痴は、やはり方向音痴。例によって『ロスト・マィウエイ』。相当歩き廻ったが、見つけられない。そこで、『清真大寺』の場所を何人かの歩行者に聞いたが、そのような寺は無いという答えが返ってきた。「えっ、昨日行きましたが?」。「胡散臭い奴だな」と思われたのか、皆さん、急ぎ足で行ってしまった。このやり取りを見ていたのか、おじいさんが出てきて、字を書けと鉛筆をくれる。英語が通じないようだ。『清真寺』と書いたところ、「ブーミンバイ(わからない)」と言って腕を組む。そして、数十秒おいて、はっと気づいたようなジェスチャーをして、(『清真大寺』ではなく、)『清真寺』と書いた。さらに東西南北と書いたうえで、西へ行けと言っているみたいだ。私はマージャンはできないが、東西南北ぐらいは分かる。「よしっ」じゃない、「ありがとう」と言って西へ向かった。何人かの通行人に聞いて、行ったり来たりして、やっとたどり着いた、でも、見たことのない風景であり、小さなモスクである。「信者ではない」と断ったうえで敷地内に入れてもらった。お昼時なので、かごに入れたパンを信者に配っていたおじさんが教えてくれた。「ここは清真西寺だ」。
 話をまとめよう。私は、『清真大寺』に行こうとしたのだが、間違って『清真寺』と聞いたり書いたりしたので(間違いをしたので)、「知らない」と言われ、さらに親切なおじいさんが西を示したので、その後に対応してくれた親切な方々は『清真西寺』を探していると考えて、その場所を教えてくれたのだ。
 その苦労を知ってか知らずか、パン配りのおじさんがにこにこしながら大きいパンを二つもくれた。丁寧にお礼を言って、一つは昼食に、もう一つは夜食に食べた。信者ではないので、イスラム教が禁じるワィンが横にありました。『方向音痴の旅日記』、真っただ中である。

西安蓮湖歴史文化街区
西安最大のイスラム寺院清真大寺
化覚巷にあるため化覚巷清真大寺とも呼ばれる
汲みあげ式の井戸。珍しい 、懐かしい
鳳凰が翼を広げたような屋根が美しい鳳凰亭
第四進院の奥にある礼拝大殿。緑色の瑠璃の瓦で被われている。1000人以上の収容可能 とのこと
礼拝大殿の内部
メッカの方向を向いているミハラーブ
賑やかな化覚巷界隈
化覚巷界隈
化覚巷界隈
化覚巷界隈

青龍寺
 中学、高校の教科書に出てくる『空海(弘法大師)』が学んだ『青龍寺』である。創建は隋の文帝治下の西暦582年(開皇2年)で、原名は『霊感寺』という名前であったが、662年に再建されて『観音寺』と改名、その後、唐の睿宋治下の西暦711年(景雲2年)に現在の名称である『青龍寺』に改名された。
 日本人の空海は、804年に遣唐使船で唐に渡り、ここで、『恵果和尚』を師として真言密教を学んだ。空海は多才かつ大変な勉強家で、中国の文化、芸術、科学等を学び、帰国後に国家の発展に大きな寄与をした名僧である。具体的には、高野山に金剛峯寺を建立し、真言宗を開いた。また、写真にも掲げたが、書に優れ、そして(土木工学の研究に従事した者としては胸が躍るが)、国土建設の中心技術である灌漑技術を我が国に伝えている。
 あるいは、報道で知っておられる方もいらっしゃると思いますが、我が国から桜の木1000株が贈られ、季節には「チェリィ・ブロッサム」と、信者のみならず、多くの方々が日本への感謝の祈りを捧げるのである。
 日本人は桜が好きで、毎年、『桜前線』に一喜一憂し、酒盛りをし、友情を高め、…、いいことづくめである。そして日本人が思う以上に、外国人の桜への憧憬は大変なものである。どの国に行っても、どの階層の人と話しても、どの季節であっても、『桜の話』は必ず登場する常連である。外国旅行をされる方々は、桜の写真をいつも持っていて下さい。

青龍寺遺址の入口、山門
古原楼。新しく復元した建物で有料の博物館
西安市青龍寺遺跡保管所
雲峰閣
空海記念碑
四国4県から1985年に寄贈された桜
展示室にあった空海の書

大興善寺
 数日前にここ大興善寺を訪ねたが、多分VIPの訪問だったのだろう、緊急閉館と近隣の交通止めに会ってしまって、断念せざるを得なかった。今日、改めての訪問である。 城壁外 の 長安中路はもう頭の中に入っている。
 大興善寺の創建は西晋の武帝(司馬炎)が治めた秦始秦康年間(256~289年)で、西安で最も古い仏教寺院の一つである。中国密教発祥の寺と言われている。隋の文帝治下に拡張され、大興善寺と改名された。隋唐代にインドから布教に訪れた高僧達が経典の翻訳や密教の教えに従事した。とくに、インド僧不空和尚(705~774年)が有名で、以後ここは長安における仏教経典翻訳の中心地となった。
 寺の敷地には、大雄宝殿、平安地蔵殿、鼓楼、観音菩薩殿などが建っている。日本の関連では、空海大師像や日中仏教文化交流記念碑等が残っている。
 もう一つ。我が国の「絵馬」のように、「願い事を記したい」時は、赤いリボンを使って下さい。無料です。

平安地蔵殿
大雄宝殿
本堂内にある五体の仏像
空海大師像。日本人の寄進に依る
日中仏教文化交流記念碑
境内の一角に建つ舎利塔。寄付を行なった人を記している

中国・河西回廊 西安市内(1)

西安から始めよう
 2005年に新疆ウイグル地区に広がる『シルクロード・天山北路』、すなわち、大きく括ると(ウルムチ)-(トルファン)-(クチャ)-(カシュガル)を旅し、その旅の印象を記した。その後、中国の各地を旅行したが、『シルクロード』で一繰りにした旅行記を連続してまとめるために、ここでは、『シルクロード』の残り、具体的には、西安-蘭州-武威―張掖―酒泉―嘉峪関-敦煌の旅行記をまとめて、先の『シルクロード・天山北路』につなげたい。 一般的に『河西回廊』と呼ばれるエリアで、正確には河西(黄河の西)は蘭州から始まるとされるが、ここでは一般に言われている西安から敦煌までとして、 旅日記をまとめたい。
 そして、例えば、『泉州』のように『海のシルクロード』の出発点と言われる都市については既に旅を終えているが、これらについては後に別稿でご報告をさせていただきたい。
 さて、陝西省西安を『シルクロード』の出発点としてのみ捉えるのは、中国の歴史の軽視である。旅行者の異動というか、都市の訪問客数を示す統計資料を調べたことは無いが、西安はロンドン・パリ・ローマ・ニューヨーク等にも勝るとも劣らない各国からの訪問者数を誇る都市であろう。歴史の長さだけではない、歴史の深さを誇る都市なのである。さあ、西安咸陽国際空港に着陸だ。

西安咸陽国際空港に着陸直前に航空機から撮った高速道路

歴史のおさらい
 都市の歴史を語るのに、年代順(時系列)に並べるか、国家の名前を並べるか、時の為政者あるいは時代に影響を与えた人物で区分するか、その入口で迷ってしまうほど複雑かつ多様なキー・ワードを持つ都市が西安(長安)である。長安の呼称は、漢から始まった。ザクッと括れば、紀元前1134年に西周が初めてここに都を定めて以来、前漢(西汊)・秦・漢・隋などと続き、唐が滅亡する907年まで11の王朝がこの地を都としてきた。その間およそ2000年という長さを誇る。前漢時代(紀元前1~2世紀)には絹がローマまで運ばれ、隋唐時代には小野妹子、阿倍仲麻呂、空海、最澄などの多くの日本人が遣隋使、遣唐使としてその足跡を残している。
 これからお付き合い願いたい私の『方向音痴の旅日記』に出てくる人物の名前で列記すれば、秦の始皇帝、前漢の武帝、霍去病(かくきょへい)、武則天、唐の玄宗と楊貴妃などが挙げられる。そして、『シルクロード』で括れば、『張騫』、『玄奘(三蔵法師)』などの名前も現れる。
 もう少し丁寧に文献などを参考に“シルクロードに注目して”まとめれば、前漢・武帝の時代に西域へ張騫を派遣し、数々の失敗を経ながらも、張騫の切り開いた西域への道が、『絹馬交易(けんばこうえき)』の商路の礎をつくったと言えよう。そう、現在、シルクロードと呼称される交易路である。
 前述したように、ここでは、西安-蘭州-武威―張掖―酒泉―嘉峪関-敦煌の順に旅の印象をまとめていくのであるが、西安を先頭に持ってきた理由は、長安、現在の西安がシルクロードの東の起点であるからである。次に向かう蘭州では、『黄河』と交差し、次の武威、張掖、…、と続く。賢明な読者の皆さんは、もう、お分かりだと思いますが、蘭州から先は黄河の西(河西)に向かう、『河西回廊』なのです。

旅の仕方の選択
 この都市、あるいはその周辺をまとめて語れば、現存する世界各国の一国を語る以上の時間を要するであろう。そのためであろうか、西安の交通機関や旅行会社などでは、効率化、利便性を考えて、西安を地域に分けて観光ルートを設定している。鉄道駅近くにはバスターミナルや観光地に向かうバスの発着場があり、日本で言うと、6畳ほどの小さな小屋のようなスペースの旅行会社が多数集中している。旅行会社のパンフレットはどこも同じようなもので、①西安市街地(陝西省歴史博物館、大雁塔、小雁塔、鐘楼)、②東線ルート(兵馬俑、秦始皇陵、華清池、半坡博物館)、③西線ルート(法門寺、茂陵、乾陵)、④南線ルート(興教寺、香積寺)、⑤その他のエリアに分けて、料金設定をしている。
  私のここ西安の滞在期間は、約1週間である。このまま、観光バスに乗ってツアーとして観光地を訪ねれば、見学の効率は良いだろうが、私の旅のスタイルではない。中国の方々ではなく、ここに来た外国人と接するための旅になってしまう。別にそれを嫌う理由はないが、我儘なのだろうか、フリーでいたいのである。そこで、訪問先が分散して移動が難しい西線ルートだけツアーに参加し、他はいつも通り気ままに一人旅をすることにした。どうなることやら。

市内観光のスタートは高い所から 
 観光客を旅行会社に誘うおばさんやおじさんは、市内観光の地図を売りつけようと必死である。西安の市内地図にはバス路線も記してあるので、観光客には役に立つ。どこからぶらぶらを始めるか。鉄道駅から南に歩いて10分くらいの所にホテルを取ったので、どこへ行くにもアクセスが良い。おばさんは地図の私の宿泊したホテルの場所にマークを入れてくれて、南側に高い塔が目立つ建物に行けと進める。素直に、そこに行ってみよう。『慈恩寺』とその敷地内にある『大雁塔』であった。『慈恩寺』は、唐の第3代皇帝高宗(628~683年)が、648年(唐の貞観22年)に「慈愛深い母親の恩徳を追慕する」目的で建立した仏教寺院である。大雁塔は、玄奘三蔵が天竺(インド)から持ち帰ったサンスクリット語経典や仏像などを保存するために、652年(唐の永微3年)に建立された。7層で、高さが64メートルもあることから、最上階からは西安市内を見渡すことができる。ただし、幅が狭い248段の階段を登らなければいけないので、普段、運動不足の方は覚悟が必要です。大雁塔の前に玄奘の像が建っている。パチリ。
 中国の『書』については多言を要しまい。中国各地を旅すると、各地の博物館や美術館で、『書』の展示物に接することが必ずあると思います。そこで、今日は、少し 『 珍しい書』をお見せしたい。大きな筆を墨ではなく水で濡らして大理石の上に書く『地書』をお見せします。何かの詩を書いているらしいが、私には分からない。
 もう一つ。中国の郵便ポストは緑色です。

大雁塔(慈恩寺)と噴水広場
大雁塔の前に建つ玄奘三蔵像
筆先を水で濡らし、地面に文字を書く 『地書』 である
中国の郵便ポスト

陝西歴史博物館
 大雁塔から北に向かって歩くと、『陝西(せんせい)歴史博物館』がある。「あれっ、『陝西歴史博物館』の間違いでは?」とお気づきの方もいらっしゃると思いますが、『陝西歴史博物館』で間違いありません。この種の都市にある博物館などの名称は、『…博物館』と名付けるのが一般的ですから、そう思われても仕方がありません。ここのそれは、一種のプライドと言うか、省を越えた国立クラスの総合歴史博物館であることを誇示しているのです。確かに、面積は約60,000平方メートル、参観ルートの全長は約1,500メートルと言えば、この中国でも最大級ですからね。その外観は、華麗にして安定感があり、伝統的宮殿様式と言われている。私が訪ねた時は、無料チケットは、午前、午後それぞれ3000枚ずつ、1日に6000枚だけ発券されるということだったが、午前2500枚、午後1500枚という投稿もあることを考えると、出かけられる時に確認された方が良いと思います。軍人、学生、老人などは優先的に無料で入館できる。一般の窓口ではなく、別の窓口へ行くと、チケットが貰えて、この特典はパスポートの提示によって外国人にも適用される。
 この巨大な博物館は、3つの展示室に分かれていて、1階の第1展示室には先史時代から秦代、2階の第2展示室には漢代から、魏、晋、南北朝時代、同じく2階の第3展示室には隋、唐、宋、明、清の時代の文物が展示されている。自由に時間をかけられる一人旅なので、思いつくままに見学したが、質、量ともに中国を代表する大博物館である。印象を受けた展示物は数多く、そのすべてをここにご紹介できないが、多くの方々が見入っていた作品のいくつかを挙げてみたい。
 まず、古い時代の代表格である西周中期の『盛付け食器』と『酒を入れる白壺』である。これ以前、あるいはこれ以降の私の『中国旅』で訪問した『博物館』は四十数か所ぐらいであるが、『周』の時代の作品の展示は、博物館の一種のステータスのような扱いを受けているようだ。その背景の一つは、中国古代の王朝という歴史の古さであろう。殷を倒して王朝を開いた周(紀元前1046年頃~紀元前256年)であったが、紀元前770年の西北部の遊牧民である『犬戎(けんじゅう)』に都・鎬京(こうけい)を占領され、翌年、洛邑(らくよう)への遷都を余儀なくされた。これを境に、それ以前を西周、それ以後を東周と呼んで区分される。したがって、ここ西安(周の時代の鎬京)は、西周の“地元”なのである。
 地元に華を持たせて、最初に『西周』に登場してもらったが、博物館に入ると最初に出迎えてくれるのは、則天武后の母、楊氏の陵墓から出土した巨大な獅子像である。レプリカであるが、高さ3.1メートル、重量20トンの石像は、楊氏の墓の前に置かれ、守護像の役目をしているそうだ。確かに、威圧感がある。
 西安と言えば、『兵馬俑』の『俑』である。ここ陝西歴史博物館にも、人間の代わりに殉葬された俑陶が展示されていた。とても人気があって、多くの人達が争うように写す角度を変えて、写真を撮っていた。近日中に、私も兵馬俑に出かけるのであるが、とりあえず、数枚撮っておいた。
 私の個人的な好みで恐縮であるが、『唐三彩』の展示はお勧めである。その名の通り、唐時代の陶器で、金属を顔料に使って、酸化の炎色反応を用いて彩色されている。基本的には、緑、黄(茶)、それに土の色の白の組み合わせ、つまり、三色の組み合わせが多いことから、『唐三彩』と呼ばれる。説明によると、副葬品として遺骸とともに墳墓に埋葬されたという。その形状は、人物(武将、貴婦人)、動物(馬、ラクダ、獅子)、器(壺、皿)などが主なものであった。
 “清の時代の観音像”は気品を感じさせる。気品というのは、国、民族、男女、年齢などを超えて人々を引き付けるものなのだろうか?多くの言語が、飛び交っていた。

陝西省歴史博物館
盛付け食器(左)と酒を入れる白壺(右)。西周中期
則天武后の母、楊氏の陵墓から出土した巨大な獅子像
人間の代わりに殉葬された俑陶
同じく俑陶
獣面マスクの瓦
唐三彩 獅子(618-907年)
唐三彩 馬(618-907年)
彩絵釉陶笠帽女騎俑(唐 犮朔三年、663年)
観音像。清の時代(1644~1911年)

文化の鑑賞には体力を消耗し、腹が減る
 いつも思うことだが、文化の鑑賞には大変な体力を必要とする。頭が疲れるのではなく、体が疲れるのである。笑われるかもしれませんが、腹もすいてくる。ちょうど昼時だ。ジョークだと思われるかもしれませんが、目の前にあったのです。陝西歴史博物館を出たすぐの目の前に弁当屋さんがあったのです。10種類を超える具材から好きなものを選んでトレイにとり、簡単な椅子に座って食べる方法である。無理にこじつけると、メインテーブルや棚に並べられた料理を各自が好きなように取り分けて食べる『ビュッフェ(フランス語でbuffet)』に似ているところがある。ビュッフェが立食形式なのに対して、簡単ではあるが椅子がついているので、より進化しているとも言える。某国家(群)あるいは誰かが意図的に企てたのか知らないが、西が上等で東が下等であるかのような世界観、あるいは風潮が未だに存在する。この中国式簡易食堂というか、日本で言うと『屋台』であろうか、その高度な文化は、世界に誇ることができよう。
 かつて、私が一時、凝っていた歌舞伎のシーンで、寒空に屋台で蕎麦をすするシーンがよく出てくる。まさに江戸情緒の極みである。『すする』という庶民の食し方も『粋』のど真ん中である。江戸時代の中期、そう言っても西洋人に分からなければ、17世紀には、この蕎麦が庶民の食べ物として定着していたのである。片手で食べ物を挟むというスーパーテクニックで蕎麦を楽しんでいた頃、英国では、ナイフだけ、あるいは手づかみで食事をしていたのである。英国にフォークが普及するのは18世紀以降の話である。揶揄(やゆ)しているのではない。英国にいた頃、家族で箸の使い方を教えた弟子たちは、もう、忘れたかな?食事の内容が違うからな。
 話を戻しましょう。中国人は、たいていの人が茶葉を入れたポットを持ち歩いている。この時も、隣に座っていたご夫婦が店のおばさんからお湯を貰ってポットに入れている。私が余程、物欲しそうな顔をしていたらしくて、おばさんからプラスチックのカップを借りて、私にお茶を入れてくれた。おいしい。中国人のこの親切さには、本当に色々な場所でお世話になる。旅の楽しさを倍増してくれる。「どうもありがとう」。

道端で簡単な椅子に座って具を選んで食べる盛付け弁当屋さん
5元から10元で結構繁盛していた

ゆっくりと歩こう
 簡単ながら日本人には多すぎる量の食事を青空のもとでいただいたし、優しさいっぱいのお茶もおいしかった。食後すぐに動くと腹具合が悪くなるので、ここはゆっくりと歩いて近くの『大興善寺』に向かおう。あれっ、ゆっくりどころか、歩が進まない。もう近くまで来ているのに…。通りの至る所で、信号に関係なく停止をかけられ、歩道橋の上でも人々が足止めされている。警察関係者が多数出て、車両も完全交通止めである。「政府要人」、「外国賓客」、「VIP」のような英語も聞かれる。
 警護が解かれた後、予定通りに大興善寺に向かった。近くまで行ったのだが、警察関係者が中から出てきて両手で✖印をつくって、「ノー・エンター」。どうも、状況から察するに、VIPがこのお寺に来ていたみたいだ。警護が解かれた後も入場禁止なので今日はお寺の外観の一部をパチリ。しようがない、訪問日時を改めよう。

大興善寺に向かう途中、要人の警護なのか交通止めになった
車両も交通管理されている
大興善寺。警護が解かれた後も門を閉じている

もう少し歩こう
  大興善寺が閉まっていてはどうしようもない。今日は、大興善寺の入場は諦めて、ここからゆっくりと30分ほどぶらぶら歩いて『小雁塔(薦福寺)』に来た。薦福寺は684年に建立され、隋の煬帝(569~618年)や唐の中宗(657~710年)などが住み、後に寺院に改装したのが始まりである。詳細は省くが、唐の時代の高僧である義浄(635~713年)は、ここで仏教経典の翻訳作業を行うなど、ゆかりの地として有名である。
 小雁塔が建てられたのは707年で、大雁塔の半世紀後である。軒と軒の間が狭い密櫓式といわれる作りで、大雁塔に比べて小ぶりなので小雁塔と呼ばれた。最初は15層の塔であったが、地震で上部の2層が破壊されて13層43メートルになったという。また、小雁塔の鐘楼内には金の時代に鋳造された高さ3.5メートル、重さ10トンの大きな鐘がある。
 薦福寺の敷地内には西安博物院があったが、7つの展示室には西安と周辺から採集された玉器、青銅器、仏像などが展示されていた。

684年に建立された薦福寺の由来の説明
軒と軒の間が狭い密櫓式で建てられた小雁塔。最初は15層であったが地震で13層43メートルになった
小雁塔の鐘楼内にある鐘
薦福寺の敷地内にある西安博物院
西安博物院に展示されている十一面観音像

地下鉄の利用
 小雁塔から鐘楼や鼓楼に近い鐘鼓楼広場に向かう。鐘鼓楼広場は、西安市内の真ん中辺りにあるので、『方向音痴』にとっては地図上の東西南北の座標(0,0)に相当することになる。「迷っても、どこに行ってもここに戻ってくれば、…」のはずであるが、やはり駄目だ。迷ってしまう。こういう時の解決策は、もちろん、どなたかにお訪ねすることであるが、西安のような大都市では、地元民よりも観光客の方が多くて、「ソーリィ」と言われることがしばしばである。携帯を持っているなら、GPSなどを利用して最新のメカニズムに助けてもらうことができるが、『携帯所有歴無し』なのである。では、どうするか?目的地が遠くならともかく、近くまで来ているのに、もうすぐなのに、…。必殺の解決策は何か?このような大都市における私の究極の解決策は、どなたでも使っている『地下鉄の利用』である。路線図を見て、現在いる最寄りの駅(Origin)から目的地(Destination)の駅まで地下鉄を乗り継ぐのである。「当たり前のことを言うな」と言われますが、遠回りになっても、確実に目的地に着くことができる。地下鉄という、最小時間で何の障害物もなく走る、この暴力的とも言える交通手段の利用である。「でも、風景、ヘリテージ、人々を観察できないのでは?」。そうですね。代わりに車内で人々を、それとなく、見て楽しんでいますよ。蛇足になりますが、「タクシーの利用は?」に対しては、個人的意図は無いことを前提に、「あまり好きじゃないのです」。

鐘楼と鼓楼
 小雁塔近くの地下鉄駅『南稍門』乗車→『永寧門』駅→『鐘楼』駅降車、まさに暴力的にあっさりと市内の交通の中心部に建つ『鐘楼』が目の前である。中国でも最大級のものである。東大街、西大街、南大街、北大街、つまり東西南北の大通りが交差する場所に建つ鐘楼は、まさに、座標(0,0)である。4つの大通りはそれぞれの城門に通じている。1384年(明の洪武17年)創建、1582年(明の万歴10年)にここに移された。かつては、鐘で人々に時を知らせていたという。鐘楼の高さ36メートル、楼閣は、『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建てである。木造建築であるが、釘を一切使わず、継ぎ目のない一本柱様式の建築物である。
 鼓楼が建てられたのは鐘楼の創建よりも4年早い1380年(明の洪武13年)である。大太鼓が吊るされていて、かつては太鼓をたたいて時刻を知らせていたという。楼閣の周囲は鐘鼓楼広場になっていて、市民の憩いの場となっている。
 ところで、鼓楼の額に『聲聞于天』とあるが、事典で調べたところ、出典は『詩経』の「鶴鳴于九皐 声聞于天」であるとのこと。「鶴は深い谷底で鳴いても、その鳴き声は天に届く」の意。言うなれば、賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡るというたとえである。

鐘 楼
鐘のアップ
鼓楼チケット売場
鼓楼。 額に『声聞干天』 。 出典は『詩経』の「鶴鳴于九皐 声聞于天」で 、「賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡る」というたとえである

回民街
 そして、鼓楼の近くにある『回民街(イスラム通り)』である。その名の通り、イスラム寺院が10を超え、その周りに約2万人の回族の人々が住んでいるそうだ。なにか、今までとは異なった風情というか、イスラム世界に迷い込んだ感じがする街である。私の旅行経験では、この方達はどこの国でも意外と英語が通じることが多く、ここでも時間を惜しんで話し、そして徘徊した。「回民街」とは、『北院門」』、『化覚路地』、『西羊市』、『大皮院』の四つの街の総称だと教えてもらった。
 また、最長老のおじいさんが、ここは美食街としても有名で、「お前には『羊肉泡馍(ヤンルーポーモー)』が一番だ」と勝手に決められて注文してしまった。恥ずかしい話であるが、私は料理の名前が全く苦手である。どうも、羊肉に香辛料を振りかけ、鍋で煮込んだシチューの中に、ちぎった焼きパンを入れた料理らしい。運ばれてきた料理を見て、びっくりした。私がイスラム圏でよく食するものだったのだ。「おじいさんは、天才だ」と、褒めたが、当然、彼は「なぜ天才なのか」は分からない。詳細を語るには、二人の英語が通じない。
 そして、大失敗をした。話に、食に夢中になって、写真を撮らなかった。

中国・新疆ウイグル~カシュガル~

クチャからカシュガルへ
 クチャ発 05時49分→カシュガル着14時49分(予定)の列車N946に乗車。9時間の行程である。時代背景は、2005年である。平均最高気温は30℃と高いが、平均気温は25℃くらい。湿気がないせいか、このエリアにしては比較的過ごしやすい6月である。
 いきなり、ここカシュガルに飛ばずに、北京からウルムチに入り、トルファン、クチャと地球を西進してこの町に入ったので、大きなショックはないが、中国と言う切り口でとらえると、中国の他の都市に比較してやはり、大小はあるが、異質を感じる所である。ここでいう異質とは、違和感とは全く違う。『文化的におい』のことである。私は、1988年のトルコのイスタンブールに始まり、モロッコ(1996年)、トルコ(1997年)、イラン(1997年)、チュニジア(1998年)と、いわゆるイスラム圏を立て続けに旅行していた時期がある。魅せられたのである。
 政治的意味では全くない。長い歴史にわたる歴史的建造物の形状、美的感覚、色使い、幾何学的模様、あるいは植物を描くタッチ、…、そしてバザールなどの生活様式等々、「エキゾチック」と言う言葉では括ることのできない魅力に取り込まれたのである。50歳を過ぎて『イスラムの人々』、『イスラムの文化』、『イスラムの…』に魅了されたのである。
 カシュガルの鉄道駅は東郊外にあり、タクシーやバスで街に向かう。街に近づくにつれてモスクが多く見られ、ミナレットから聞こえるアザーンの響き(呼びかけ)に胸が躍ってくる。先ずホテルへのチェックインである。北京に住む娘があらかじめ予約しておいてくれたホテルは、旧ロシア帝国時代の領事館の建物だったそうだ。私の旅のくせを知っているので、とくに方向音痴対策を考えて、見所にまっすぐ歩いていくことのできるホテルを予約したのだ。パスポートのチェックだけで何事もなくチェックインが済み、あらかじめ用意しておいてくれた街歩きの地図を貰った。要所に赤いペンで印がつけられている。よし、出かけるぞ。

アラブの道づくり
 道路の研究者が使う言葉で、『アラブの道づくり』と言う言葉がある。まっすぐな道がなく、曲がりくねった道路づくり、坂の多い街づくりである。そう、敵からの都市防衛のためである。貰った観光用の地図を見ると、幅員の広い南北に走る解放路(解放北路と解放南路)と東西に走る人民路(人民西路と人民東路)が交差している。まさに、カシュガルの中心地であり、双方の道路はほぼ直線である。縮尺の関係上、そして観光用であるから、おおまかに描いたスケッチ風の地図である。したがって、小道の入り組んだ所まで描かれておらず、『アラブの道づくり』を地図上でチェックすることはできない。街の内部では、細かく曲がりくねっているのであろう。
 この交差点の東側に人民公園があり、巨大な毛沢東像が建てられている。そうそう、ホテルのスタッフによると、古代シルクロード時代に疎勅国(そろこく)と呼ばれたカシュガルは、インドから帰る途中に玄装三蔵が立ち寄り、マルコポーロもここで休養したそうです。二人とも、どこに行ってもせわしなく歩き廻るみたいですね。

歩き廻る
 最初の目的地は、と言うか、目指すは『エイティガール寺院』である。とりあえず、ホテルからきょろきょろしながら色満路を東側に歩いて行こう。途中で繁華街の前で右折しよう。地図で学習してある。ところが、恋人のささやきではなく、ミナレットから発生される大音声で、びっくりした。心地よいアザーンの呼びかけである。その美しい、心地よい呼びかけに酔ってしまって、「ロスト・マィウエイ(迷った)」。20分の予定が40分もかかってしまった。迷い方にも規則性があって、いつも同じ場所で同じ方向に迷うのである。「迷う」を定義すると、自分で想定している方向(場所)とは違う場所にいるのである。「I found myself …」。「気がついたら、…にいる」のである。道を間違った原因が分からないのであるから、戻る時も当然、「ロスト・マィウエイ」。あーあ。どなたか、ここに規則性を見つけて、『方向音痴』で学位を取ってください。切にお願いします。
 「そのおかげで」というとおかしいが、迷い道でいつも、同じ人達に会うのである。緑色の紐を山羊の首にかけていつもここにいて立ち話をしている白帽のおじさん、すっかり仲良しになった。おじさんに頼んで、紐を持たせてもらって山羊を誘導すると、他の山羊達も一緒に来るではないか。私とは初対面である山羊が私に従うはずがない、とすると、紐を付けられた山羊はリーダーなのだろうか?またまた、知的好奇心が湧いてくる。「何が知的好奇心だ。単なる惰性だ」。そうか、ありがとう。

満路からエイティガール寺院へ向かう途中に迷った小道
迷い道で山羊を引き連れた白帽おじさんと会う
カシュガルの人民公園
エイティガール寺院前の広場
エイティガール寺院前の広場

エイティガール寺院
 ここは、新疆で最大規模を誇る西暦1422年創建のイスラム教寺院、黄色いレンガづくりの『エイティガール寺院』である。イスラム歴846年、明の永楽20年である。その後、数回の修復を重ね、最終的には1872年(清の同治11年)の拡張によって巨大寺院になった。この寺院の信者の大半は、イスラム教スンニ派の信者である。解説書によると、この寺院の成り立ちに、一つの伝説がある。1798年、ウイグル族の女性がパキスタンへ向かう途中、カシュガルで病死した。人々は彼女の死を悼み、彼女が残した多額のお金でこの寺院を建てたそうです。伝説である。
 ペルシャ語で「祭を行う場所」という意味のエイティガール寺院は、金曜日に、導師が朗読するコーランに合わせて、メッカに向い祈りを捧げる。詳細は省略するが、毎週金曜日およびイスラム教の祭日(ローズ祭、クルバン祭)期間中以外は、信者でなくても寺院内に入ることができる。

黄色のレンガでつくられたエイティガール寺院
エイティガール寺院内部
エイテイガール寺院内部の天井の一部
エイテイガール寺院内部
エイテイガール寺院と前の広場

ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓
 『カラハン朝』にご登場願おう。「確証が得られていない部分が多い」と解説書にも書いてあるが、カラハン朝とは、中央アジアに起こった最初のトルコ系イスラーム王朝(840年~1212年)だそうだ。この王朝のベラサグン生まれのウイグル人で、首都カシュガルで大侍従になった人物が、『ユスフ・ハズ・ジャジェブ』である。今、訪ねている陵墓は彼が眠っている場所である。彼は、『クタドゥグ・ビリク(幸福になるために必要な知識)』を上梓したが、その内容よりも、アラビア文字でトルコ語(ウイグル語)を表記したことで有名だそうだ。どちらの言葉も分からないので、頷くしかない。

ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓
ユスフ・ハズ・ジャジェブ陵墓の入口
ユスフ・ハズ・ジャジェブの墓

盤たく城(班超紀念公園)
 ユスフ・ハズ・ジャジェブの陵墓から市内南部にある盤たく城(班超紀念公園)に移動する。盤たく城は、1世紀後半この地にあった疏勒国(そろくこと)の宮殿跡である。歩くにはちょっと距離があるし、それに、やっと念願の公共バスに乗ることができる。16路バスに乗車して20分くらいだろうか、『班超城』で下車してすぐである。まばらな乗客の全員が降りた。
 ここは、西暦73年に後漢の軍人、班超が明帝に匈奴の討伐を命じられ、拠点として西域の大本営を設営した場所である。匈奴を征伐して西域都護として102年まで留まった。当時、都であった洛陽からここカシュガルに至る物語の説明や、一緒に来た部下36人の勇者たちの像がある。皆さんは、この名言を残した名将が班超であったことをご紹介すれば、頷かれるでしょう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。

盤たく城に向かうバスの中の風景
盤たく城入口
盤たく城の班超たちの像

アパク・ホージャの墓
 カシュガル市内から20番のバスで約30分。16世紀末の新疆イスラム教白帽派の指導者アパク・ホージャとその家族の墓である。ホージャ一族は「マホメットの末裔」と称していたとされるが、真偽のほどは分からない。私が訪ねた時は、ガイドが数人いたが、この墓のスタッフなのか、どこかのパーティのガイドなのか、この種の施設にたまにいるチップ欲しさの、自称“国家資格を持つ説明員”なのかよく分からないが、一生懸命に説明していたので断る理由もない。『アパク・ホージャの墓』は、別名『尊者の墓』、『香妃墓』である。後者の「『香妃墓』の言い方は、清の第6代皇帝、乾隆帝のウィグル人妃子だった伝説の美女、香妃が葬られていると誤って伝えられたためである」と、別のガイドが言っていた。つまり、乾隆帝の妃であった 容妃と混同されたため、ここに葬られたのである。“国家資格を持つ説明員”は、違う客を探しにどこかへ行ってしまった。私にとっては、要するに、カシュガルの歴代の統治者の墓なのである。
 西暦1874年(清の同治13年)の修復で、モスクなどが新しく追加されて、中央アジア式イスラム墓となり、その美しい姿を見せている。隣で、一眼レフで対象を引っ張っていたご婦人は、撮った4つのミナレット(尖塔)のモザイクのアップを私に見せて自慢していた。せっかくなので、「ビューティフル」と発音したところ、何を勘違いしたか、自分のことだと思ったらしい。「おい、“国家資格を持つ説明員”よ、相手をしてやってくれ」。
 アパク・ホージャ廟の西奥にある、清代初めの 17世紀に建設された小モスクが、緑頂礼拝寺である。アパク・ホージャがこのモスクで『コーラン』を読んだという。建物は奥のレンガ造ドーム屋根の棟と、手前の木造陸屋根の棟で構築されており、ドーム状の屋根が アパク・ホージャ廟に合わせた緑色のタイル(瑠璃瓦)で葺かれていることから、この名がついた。
 アパク・ホージャ廟の最も西側に位置する場所に大礼拝寺がある。説明書に「加満清真寺Mosque」と書かれてあったが、Jaman(ジャーミ)は金曜を意味し、中国語で 加満(ジアーマン)と音訳するそうだ。 清真寺とMosque は重複するが、まあ、いいか。このモスクの由来は、19世紀半ばに新疆地方で清朝に対する反乱が起きた際に、『ヤークーブ・ベク』(1820年~1877年)はカシュガル・ホジャ家の末裔であるブズルグ・ハーンの将軍として新疆に侵入した。そして、1865年に自らのイスラーム政権を樹立することに成功し、後に、アパク・ホージャ廟の整備や建物の新設を行った。そのひとつが、この 1873年の大礼拝寺である。

アパク・ホージャの墓の近くで出会ったウィグル人の姉妹 。お姉ちゃんの刺繍の指さばきは見事であった
アパク・ホージャの墓
墓の内部
アパク・ホージャ墓の後ろ正面
アパク・ホージャは、ここ緑頂礼拝寺でコーランを読んだ
1873年にヤークーブ・ベクが建てた大礼拝寺

バザール
 近くまで行ってもじっと我慢して、最終日にとっておいたバザールに出かける。艾孜熱提路の国際バザール付近で開かれているバザールは、ウイグル自治区随一の規模を誇る。お土産コーナーは別として、観光客を相手にするというよりも売り手も買い手もウイグル族で、また、商品も衣類、食品などの生活感のある品物の売り買いである。地元に密着しているバザールなのである。そして、とにかく広い。方向音痴の私は、迷子にならないように気をつけるのだが?
 『バザール』の高揚感を説明するのは、とても難しい。現在の表現手段では、言葉を操る天才を待つか、画像や映像に頼るしかないのだろうか?それにしても私のカメラ術では無理だ。やはり、皆さんに、それぞれに思いがあるでしょうが、「“旅”に出かけてください」と、お誘いするしかないか。
 半世紀以上も前の古い映画で恐縮ですが、フランスで1960年3月公開、日本で1960年6月公開の『太陽がいっぱいPlein Soleil』(仏・伊共同制作)という映画があります。説明は、もちろん省きますが、主演の男がバザール(のような所)を歩くシーンがあります。歴史的名監督ルネ・クレマンが描くあの高揚感、あれです。

監督;ルネ・クレマン 脚本;ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン 原作;                パトリシア・ハイスミス 製作;ロベール・アキム、レイモン・アキム、 出演者;アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ 音楽;ニーノ・ロータ 撮影;アンリ・ドカエ 編集;フランソワーズ・ジャヴェ 製作会社;ロベール・エ・レイモン・アキム、パリタリア 他

艾孜提路。カシュガルのメインストリート
混雑するバザール
バザールから入った中西亜国際貿易市場
肉 屋 
金物類の店
正大ショッピングセンター

フィナーレ
  明日は、ここカシュガルからウルムチ経由で北京へ飛び、1泊して帰国である。 楽しいバザールにたっぷりと時間を取って、思い残すことはない。バザール近くの吐曼路につながる気に入った小道を見つけたので、戻って、今日の1枚を撮る。お気に入りの写真になりそうだ。17時頃に写した写真である。ここを立ち去るには、まだ早い時間である。名残惜しい。ぶらぶらしながら、エイティガールに向かい、無名の皆さんに挨拶してからホテルに戻ろう。ここは本当に安全な町であった。
 その後の中国の旅で、いろいろな町で見たが、ここにも公衆電話があった。個人で各家庭に個別の固定電話をもつ経済的余裕がないのであろうか。でも、今では、携帯電話にとってかわられているのかも。
 もう1つ、私の子供の頃を思い出させる懐かしい風景がホテルへの帰り道にあった。きっと、多くの(お年を召された)皆さんも経験なさったことだと思います。勝手に造語させてもらえれば、「 TV 共同視聴です」。小さな田舎町に数台しかなかったTVを皆で観て楽しんでいた景色をここカシュガルで見ています。最近では、『パブリック・ヴューイング』とか。違うか(笑)。
 日本が貧しかった頃、でも皆が将来に夢を持っていた頃、おにぎりを二つに分けて大きい方を小さな子に与えたり、弱い子を絶対にいじめないガキ大将がいたり、さりげなく優しくしたり、さりげない優しさをさりげなく受けとめたり、…。感傷的になっていません。いい旅でした。皆さん、本当にありがとうございました。「スィー・ユー・アゲィン」。

吐曼路近くの小道
吐曼路近くの小道
店先に貸し電話器が置いてある
共同視聴TV。エイティガール寺院から色満路へつながる通りで
色満路の路上果物屋で。“吉”であるように