中国・四川省 峨眉山

峨眉山とは
『峨眉山(がびさん)』という名前をご存知ですか?私は名前は知っていたのですが、その名前の由来については知りませんでした。『峨眉』とは、少女の眉のことで、山の形がそのように見えるため、『峨眉山』と呼ばれているそうです。
 今日は、『峨眉山風景区(がびさんふうけいく)』へ成都から日帰りで出かける。成都の南西約160キロメートルに位置し、最高峰3099メートルの『峨眉山』を中心とした景勝地である。植物は約3000種、動物は約2000種が生息していると言われる。
 ここは、『普賢菩薩(ふげんぼさつ)』の山であり、山中には報国寺、伏虎寺、華蔵寺など多くの寺院がある。『普賢菩薩』と『文殊菩薩(もんじゅぼさつ)』は、『釈迦如来(しゃかにょらい)』の脇侍(きょうじ、わきじ)、すなわち、中尊である仏の左右に控え補佐する役割をもつ菩薩であり、『釈迦三尊』として、ここだけではなく、多くの名刹寺院に祀られている。『文殊菩薩』が悟りの知性的側面を象徴しているのに対して、『普賢菩薩』はその実践的側面を象徴している。簡単に言うと「悟りに入らず、衆生のなかで他者に対する慈悲を重視して衆生を救済していく」ことである。
 普賢菩薩が、『釈迦如来』 の右脇侍(向かって左側)として、六つの牙を持った『六牙の白象(ろくげのびゃくぞう)』に乗った姿を見たことがあると思います。あれですよ。今日も見られますよ。この位置関係でも両者を見分けることができますが、一般的には文殊菩薩は獅子に乗っています。
 さて、峨眉山風景区に戻りましょう。ここ『峨眉山』は、道教や中国の仏教で言う聖地であり、『五台山』、『天台山』とともに『中国三大霊山』と呼ばれる。また、『仏教』のキーワードで括ると、『五台山』、『九華山』、『普陀山』とともに『中国四大仏教名山』の一つである。後日訪ねる予定の『楽山大仏』と合わせて、1996年12月にユネスコの世界複合遺産に登録されている。

成都から峨眉山へ、そして風景区内の移動
 成都の新南門バスセンター(成都旅游バスセンター)から約2時間半で峨眉山旅遊バスセンターに到着する。風景区内の入場料は、185元であったが、老人割引が適応された(割引率は覚えていない)。それと、風景区内の移動はバスが使われ、2日間有効の3回乗車券が 90元であった。峨眉山旅遊バスセンターのスタッフは客慣れしているというか、客の要望を素早く察知して、適切なアドバイスをしてくれて、私以外の訪問者も笑顔で「サンキュー」を返していた。
  「サンキュー」 をもう一つ。実は、乗車券のことで、私は大失敗をしてしまった。3回乗車のうち1回分を使って頂上まで行ったはいいが、途中で乗車券を無くしてしまったのだ。頂上で運転手が代わったこともあって、胸がドキドキ、でも「失くしたことを言うしかない」。お助けマンはどこだ。いた、いたのである。ふもとから頂上までバスを運転してきた運転手が他の用事があってバスに戻ってきたのである。私を指差して、OKを出してくれた。あーあ、覚えていてくれたのだ。無事にふもとに帰ることができる。「ありがとうございます」。

さて、こういう風景区は、言葉による景色の説明よりも写真そのものをお見せしたほうが分かりやすいし、面白いと思うので、説明は簡単にします。

峨眉山入口付近
峨眉山旅遊バスセンター

 峨眉山旅遊バスセンターのスタッフの勧めで、バスセンター前から『雷洞坪』へバスで向かう。意外と遠く、1時間ほど途中の変化する景色を楽しめる。雷洞坪からの眺めを楽しむ人は少なく、多くの人達は1キロメートルほど登った所にある金頂行きロープウェー乗り場に向かう。
 「金の頂」とは、上手な命名である。この高さから眼下に見える景色に圧倒される。この辺りを散策する予定なので、『金頂景区』の案内図の概略を頭に入れるが、方向音痴の私にはあまり役に立たない。観光客が多いので、教えてもらいながら歩こうっと。

ロープウェイ
金頂景区案内図
金頂のシンボル・四面十方普賢菩薩金像(十方普賢)、高さ48メートル
金 頂
標高3077メートルの地点にある華蔵寺(大雄宝殿)。弥勒殿、大雄宝殿、普賢殿の三殿で構成
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
金頂銅殿(普賢殿)。後ろは断崖になっている。仏光などの観測ポイントである
四面十方普賢菩薩金像
広々とした金頂だが、その周りを取り囲むのは驚くほど険しい断崖絶壁。おー、怖い
険しい断崖絶壁
『金頂の日の出』の説明。峨眉山は金色の世界に変わるそうだ。それを観るために、朝4時起きで来る人もいるそうだが、“拝められる保証 はない
雲を眼下に見る
凶暴な猿。気を付けろ

中国・四川省 成都郊外(3)~安仁古鎮~

朝から忙しい
 今日は、四川省大邑県にある『安仁古鎮』を訪ねる。その概要であるが、地理的には成都市郊外の西南西約70キロメートルに位置する、バスで約1時間半の行程である。博物館が多いことで知られる古鎮である。街の中心部の通りは『安仁老街』として整備され、店、レストラン、映画館などが立ち並ぶ。
 ここから東側に1キロメートルほど歩くと、観光客が押し寄せる、著名な『大邑劉氏庄園』がある。中華民国時代に勢力を誇った、大地主の劉文彩(1887〜1949年)とその兄弟が1932年に建てた居園である。その後の増改築で、建築面積2万平方メートル以上に発展する。具体的には、『南の老公館(劉文彩公館)』と『北の新公館(弟の劉文輝公館、現川西民俗館)』の建築群が著名である。ここで、『公館』とは、高官の邸宅のことである。
 今日はここ成都市に夕方には戻りたいので、朝7時頃ホテルを出てバス停に向かったところ、面白い風景を見た。ビルの前の歩道でたくさんの新聞を広げて捌いている人達がいた。配達の地域別あるいは新聞の売店別に仕分けているのか、手際よくまとめている。面白いので立ち止まって見ていると、おじさんが一紙を私によこす。「買いなさい」と言っているのか、「あげるよ」と言っているのか言葉が分からないが、「ジャパニーズ」と答えたところ、笑いながら「ニーハオ」と言って、一紙をくれた。「ありがとう」。今日は朝からいいことがあった。しかし、中国語じゃ読めないんだよなあ。この後、すぐにその理由が分かるのだが、実はこのおじさん、今日の『お助けマン第1号』なのである。

朝7時20分、ビルの前の歩道で新聞の仕分けをしている
さあ、配達だ

早速、いいことがあった
 成都市の茶店子バスターミナルから『安仁古鎮』行きのバスに17元を支払って乗車。座席は指定されていない。結構込んでいて、私の横には中年のおじさんが座った。先程貰った中国語新聞の漢字を拾ったが歯が立たない。写真を眺めていると、隣の席のおじさんがにこにこして覗いている。「そうか、この人は読めるんだ」。「どうぞ、…プリーズ」と言って渡すと、「私が一緒に見ようと言っている」と解釈したのか、新聞の片方の端をもって読もうとしている。「ギヴ、ユー」と大きめの声で言ったところ、斜め後ろの若者が英語を理解したらしく、通訳してくれて、新聞は無事、おじさんの手に渡る。「シェイシェイ」と言って、カバンから饅頭を出して私にくれた。私は朝食をとっていなかったので、すぐ食した。御存知、中国のほかほか饅頭、旨い。「早起きは三文の徳」。貰った新聞は、貴重な食事に変わったのである。予定通り約1時間半で終点、下車する。

早速、方向音痴
 バスの乗車客全員が降りた。それぞれが思い思いに目的地に向かっていて、地図を持たない私は自分がどこの通りにいるのか分からない。早速、方向音痴である。うろうろしながら歩いていると、小さなトラックが固まって駐車しているエリアが見つかった。露店のおばさんもいるので、直感的に「市場だ」。市場大好き人間の私は、『古鎮』に来たのに『市場』に魅惑されてしまった。入ってみて、びっくり。とても大きな市場だったのだ。ガイドブックにも、ネットにも載っていない、したがって名称が分からない『安仁古鎮市場?』である。
 食材売り場が、調理済(熟食区)、干物(干?区)、生肉(鮮肉区)、水産物(水産区)などと利用しやすく区分されている。ここで、「公斤」=500グラム、したがって、1キログラム=2公斤、写真でお見せした今日の相場(今日行情)で言うと、鮮肉20元/公斤=40元/1キログラムである。2016年6月の情報である。
 因みに、「公里」は1キロメートルの単位である。

安仁古鎮の市場で掲示されていた今日の物価情報
安仁古鎮の市場
調理済みの肉屋さん
果物屋さん
西瓜がいっぱい
食材屋さん
本屋さん
寿司屋さんと揚げ物屋さん
寿司の値段
ごみ収集
ボタンやファスナーを付けている
靴の修理屋さん。とても親切なおじさんでした
魔法の靴修理器

お助けマン第2号
 この村には古鎮の見学に来たのに迷ってしまい、結果として来てしまった市場ですっかり楽しんでしまった。13枚の、皆さんには退屈極まりない写真を掲載させていただきました。最後に載せた『魔法の靴修理器』を使って靴を修理するおじさんの技術は、動画でお見せしたいくらい見事なものした。冗談ではなく、「弟子入りしたい」くらい卓越した技でした。
 数十年前、私の自宅から車で1時間半くらいの所に、季節になると『炭焼き』をしているおじさんがおりました。ゴルフの帰りに、煙を不審に思って近づいてみると、炭焼きでした。二度、三度と訪ねるうちに、「やるか」と言われて5日間ほどお手伝いしたことがある。研究好きが高じて『ドラム缶で焼く炭焼き』によって、炭を作り、上手にできたものは焼肉の炭に、うまくいかなかったものは床下の吸湿材として利用した覚えがある。しかし、今回の靴修理には『魔法の靴修理器』が必要で、日本に送るわけにもいかず、断念した。
 「笑わないでください。私の旅とはこんなものでして…」。良いこともありました。靴の修理屋さんは、修理をお願いに来たお客のおばさんに、「日本人を老街へ連れいってくれ」と、お願いしてくれたのです。10分も歩いたろうか、古鎮風景区に来ることができました。「ありがとう、おじさん。ありがとう、おばさん」。

靴の修理屋にいたおばさんに連れてきて貰った古鎮風景区

安仁老街
 おばさんに連れてきて貰った古鎮風景区(老街)は、いわゆる古き良き時代を彷彿させるぶらぶら歩きには最高の通りである。店、レストラン、映画館などが立ち並ぶ古鎮風景区で、特に説明は要しまい。写真を並べさせて下さい。

中華民国時代に勢力を誇った劉氏の建物が多く残り、町中に公館(高官の邸宅)が多い
太平洋映画館
説明は要しまい
安仁公館茶庁
陽孟高公館
鄭子権公館
劉體中公館

映画の看板から歴史を知る
 もっとも胸を震わせたのは、申影(映画)博物館である。私の世代、「白黒テレビが登場する前に鼻たれ小僧だった世代」は、絵具やペンキで書かれた映画の看板を覚えていらっしゃるでしょう。 おばさん達は看板に描かれた美男子にときめき、はなたれ小僧を卒業した先輩達は洋画の美女たちのミニスカートに興奮した時代である。その看板の中国版が目の前にあるのである。中国映画「風雪大別山」、「桃花扇」などの看板を見ただけで、ストーリーが分ったような気になり、さらに想像を膨らませてしまうのである。
 私をここ『古鎮風景区(老街)』に連れてきてくれたおばさんもここが好きらしく、言葉は通じないが、映画「桃花扇」の看板の前で、漢字(中国文字?)を書いて私に丁寧に説明を試みてくれる。『桃花扇』(とうかせん)は、清の孔尚任(こうしょうじん)による戯曲。明王朝の滅亡を背景に、明末の文人・侯方域と南京の名妓女・李香の恋愛を描いた物語らしい。ここまで10分かかった。それ故に(少しずつ理解が進むので)私の想像力がさらに膨らむ。そして驚いた。彼女は、紙に「孔子」と書いた。「えっ、3週間前に訪ねた武威の武威文廟」。あの「孔子」のことである。『桃花扇』の作者である孔尚任は、孔子の64代目の末裔だったのだ。いやぁ、驚いた。「ありがとう、おばさん」
 孔子と言えば、数えきれないほどの格言、名言があるが、今日は次の格言に頭を下げたい。

「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)をこえず」。

 私のような道草だらけの人生では、コメントできないほど、…?である。150歳まで生きなければ孔子の格言に至らないであろう。
 この『桃花扇』は『長生殿』と並ぶ清朝の伝奇の代表作だそうだ。そうです。私の場合は孔子の格言に違う(たがう)人生で、「…矩(のり)をこえず」どころか、『長生殿』の漢字から「古代ロマンスの舞台である長生殿」をイメージし、華清池の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台に心を躍らせるのである。

申影(映画)博物館 。 撮影に使われた衣装、映像機器、看板のコピーなどが展示されている

映画「風雪大別山」の看板のコピー
映画「桃花扇」の看板のコピー
映写機
『老公館』の西に位置する『有軌電車總站』の駅舎(左)とレトロな路面電車(右)
最後になってしまったが、ツァリスト・インフォメーション・センター。私の場合は、いつも『お助パーソン』がいるので必要なかった

大邑劉氏庄園
 街の中心部の通り『安仁老街』のぶらぶらを楽しんだ後は、この古鎮で最も人気のある『大邑劉氏庄園』へ向かう。交通手段もあるが、ここから東側に1キロメートルほどなので、歩きを楽しむことにする。
 始めに記述したように、中華民国時代を代表する大地主の居園として著名で、1966年に全国重点文物保護単位に指定されている。大邑劉氏庄園博物館(老公館)、庄園珍品書画館、劉氏祖居および劉文淵(文彩長兄)公館の4部に分かれている。入場料は40元であったが、60才以上は半額、70才以上は無料である。

大邑刘氏荘園の説明
老公館大門。右手に荘園文物珍品館(庄園珍品書画館)の大門
居室空間
劉文彩の寝室。9平方メートルを占める寝台室には写真で見るように金張りの龍の柱が豪華である

「龍泉井戸(Dragon Spring Well)」と名付けられた劉家の私的な台所用内井戸
小作料収納の状況を展示している「算帳」の場面
建川博物館聚落。中国最大の私立博物館。時間の関係で入口の写真撮影で終わった  

中国・四川省 成都郊外(2)~黄龍渓~

黄龍溪
 成都の南40キロメートルに位置する『黄龍渓(こうりゅうけい)』を訪ねる。ここは、219年(後漢の建案24年)に『武陽』として築かれ、その後宿場町として発展してきた。黄龍渓(黄龙溪)という名前は宋代の名前で、清代では『永興場』と呼ばれ、『黄龍渓』に戻ったのは、中華人民共和国以降のことだそうだ。いずれにしても、1700年以上の歴史を持っている古鎮である。
 成都の新南門バスセンターから『黄龍溪バスターミナル』行きに乗車して、終点まで約1時間、12元であった。赤色で『黄龍渓』と書かれた大きな石が見えると、観光客に笑顔が広がる。「もうすぐだ」。バスターミナルで降車してから10分ほど歩くと黄龍溪古鎮が見えてきた。
 古鎮の入り口から入ると、すぐに古い民家が続くが、これらは古く見せかけた通りである。ここ『黄龍渓』ばかりでなく、私が訪ねた多くの古鎮に見られるもので、中国の人達は「模倣街」と言うそうである。模倣と聞くと寂しくなるので、急ぎ足で模倣街を抜けると、噴水や小さな遊園地などの人工的というか、今はやりのテーマパークっぽい風景が見えてくる。そうは言っても、古い『蜀』の時代の町並みが残る歴史的街であることには間違いない。
 パンフレットによると、ここ『黄龍渓古鎮』は、1986年に日本でも公開され、ヒットした映画『霊幻道士』のロケ地だそうだ。私はここをロケーションとした中国のTVドラマや映画を観たことはないが、その後も撮影地として使われたそうである。

黄龍渓
黄龍渓入口
双流県黄龍渓古鎮
中央に大きな鼎がある黄龍広場
四川省三都博物館
黄龍大劇院

食堂街
 食堂街という通りがあるわけではない。古鎮と言えば人が集まる。人が集まれば、食事をする、土産物を買う。ということで、料理屋と土産物屋がひしめいている「正街」を歩く。この地のソウルフードである『一根麺』はその名の通り麺を長く伸ばして、ぐるぐる巻きにした麺である。日本では『一本麺』と呼ばれることが多いそうだ。私が覗いた店では数人の分業制で作っており、頼むとすぐにできてくる。いつも通り、食事に関して細かいコメントはしないが、一言。「さすが中国。うまい」としか言いようが無い。日本人が豆腐を好きなことを知っているのだろう、必死に勧める。行きと帰りで2回も食べてしまった。
 気合が入っているおばさんは、大忙し。隣の店の、タライの中で泳いでいた魚がおばさんの声にびっくりしてタライから飛び出した。

地元のソウルフード『一根麺』( 1本のヌードル の店 )
分業制で作っている
人気の豆腐
商売熱心なおばさん
近くの川で採れた魚

鎮江寺
 賑やかな正街には、おばさん達の元気な掛け声を包み込むような静かな三つの古寺が佇んでいる。耳学問であるが、どの寺も水に関連し、航海安全や治水に関わっているそうだ。黄龍橋を渡って左側(北側)に見えるのが、『鎮江寺』である。境内のガジュマルの樹に紅唐辛子がぶら下がっていたのだが、これは信徒の平安無事を祈るためだそうである。

鎮江寺
鎮江寺
鎮江寺内部

古龍寺
 正街の東端に位置する『鎮江寺』に対して、『古龍寺』は、正街の西端に位置する。清代に建てられた300年以上の歴史を持つ、黄龍渓鎮では最大かつ最古の寺院である。境内には石彫りの龍がからみついている柱が目を引く。
 ここで、私も初めて目にした『三県衙門』について説明させてください。古龍寺の隣にあり、黒塗りをベースとした由緒ある木造建築だったので、「おそらく、公的な建物だ」と考えた。そこで、帰属は分からないが、腕章を付けたおじさんがいたので、無礼を承知で質問したところ、丁寧に教えてくれた。
 『三県衙門』とは、『県役所』のことである。『黄龍渓』は、かつて華陽・彭山・仁寿三県の県境に位置していたそうで、そこでこの『県役所』、すなわち『県衙門』は、“三県共用の派出所”とでも言うか、『県衙門』だったのである。ある意味、県の役所の壁もなく、合理的な組織だったのかもしれない。帰国後に調べたのだが、鎮内の紛糾事の調停(民事の管理)、府河に築かれた古仏堰の堤防の水利管理、鎮内外の警察権の遂行などを職務としていたそうである。
 南北両側に生えたガジュマルの大木は、樹齢約1700年におよぶこの街の象徴である。北の大木は根元に『黄葛大仙』を祭祀し、この木に触るだけで病気を祓うことができるという。これには、写真を拡大して見ていただけるとお分かりになると思いますが、『土地堂』と額が掛かっていて、いわゆる土地神様(とちがみさま)信仰の意味をもつようある。
 さすがに舞台にあがりはしなかったが、古戯台の前で歌う真似をして、写真を撮っていた人がいた。昔の人々は、この演台で演じられる踊りや歌を楽しんだのだろうか。

古鎮の趣がある通りの突き当たりが古龍寺
古龍寺の境内
黄葛樹(Ficus virens )。前の柱に石彫りの龍がからみついている
観音堂
ガジュマルの古木の根本には、土地神様が祀られている
大雄宝殿
三縣衛門(さんけんかもん)。かつて華陽・彭山・仁寿の三県の県境にあったことから、“三県共用の派出所”として機能していた
三縣衛門
三縣衛門の執務室
古戯台。宴台
府河(錦江)の船乗場。ここから鹿渓河をのぼって古鎮行船乗場で降りる。群英橋が近い
鹿渓河に掛かる群英橋。この西側に大仏寺がある
鹿渓河を行き来する手漕ぎの遊覧船。他に大仏寺へ往復するエンジン遊覧船もある
大仏寺
大仏寺羅漢堂の内部
大仏寺羅漢堂の内部

龍と豆鼓に弱い男達
 お寺の近くに、『千年龍風古樹』の標識がある。日本人でも読めそうな、そしてなんとなく由緒ある名前である。中国語なので私には分からないが、古ぼけた様に見せかけた標識に何か書いてある。ところが、何のことはない、木を龍の形に剪定しただけの見世物であった。お寺とは関係なく、近づいていくと、いきなりおばさんが現れて、便乗商売で2元。皆、怒っていた。このおばさん、並みの男では太刀打ちできない。片手をあげながら、「見学料と合わせて5元支払えば…」(と言っているようだ?)、私の横にいたおじさんの腕を引っ張りながら『豆鼓』を扱っている店に連れて行った。このおじさん、『龍』に弱いのか、『豆』に弱いのか、それとも気の好いおやじなのか、指を2本あげて小分けにした『豆鼓』二つで見学料と合わせて7元支払い、一つを私にくれた。計算すると、…、こういう場合は計算ではなく、笑顔で「ありがとう」だ。
 ところで、『豆鼓』であるが、中国では日常的な食べ物らしい。結構、いける。ついでながら、『豆鼓』と並んで写真でお見せしたような店も連なっていました。
 最後の最後に、もう一つ。“気が良すぎる?”のか、“美男?が好き?”なのか、このおばさん、私の『千年龍風古樹』見学料金を取るのを忘れていた。無料で見学はできるは、豆は食べられるは、面白いやり取りは楽しめるは、「あーあ、今日はいい日だ。楽しかった」。

龍の形のような龍樹
龍の形のような龍樹
『豆鼓』を売っていた引き込み食品売り場。おばさん、どうも

中国・四川省 成都郊外(1)~青城山・都江堰~

青城山と都江堰
 昨日は、九寨溝発朝7時半のバスで約9時間半。さすがに疲れた。移動だけで終わった1日であった。成都には、郊外の観光も含めて、というか郊外観光が多いのであるが、約1週間の滞在予定である。例によって、いつも通り郊外観光からスタートの日程を組み、今日は『青城山(せいじょうざん)』と『都江堰(とこうえん)』に出かける。両者に共通するイメージは、一言でいうと「自然」で括られる感じがするのであるが、世界遺産の中でも文化遺産として認定されている。都江堰は古代水利施設であり、分野は異なるが土木工学の研究に従事してきた私には、特に興味を引かれる場所でもある。

青城山へ
 成都の成都旅游バスセンターを朝9時に出発すると、約1時間で終点の『青城山前山』に到着する。距離65キロメートルでバス料金は15元であった。青城山は標高1600メートル、周囲120キロメートルの広大な山で、先程到着した前山と后山に分けられる。とにかく峰が多く、「青城、天下に幽たり」と称えられるように独特の景観を見せている。また、山麓から山頂まで約5キロメートルである。『青城山』の名前の由来であるが、山全体が緑の木々に覆われていて、まるで青い城のように見えるのでこの名前がついたと言われている。

理屈っぽいですが、カンフー映画を楽しむのに役立ちます
 この自然豊かな青城山が世界遺産の中でも文化遺産として認定されている理由は、『道教』にある。『道教』は、『儒教』、『仏教』と並ぶ、中国三大宗教のひとつで、元々は老子や荘子の思想である『老荘思想』を源流とし、古代中国における『神仙信仰』とともに発展してきた宗教である。『神仙信仰』とは、仙人(不老長寿の人間)の実在を信じ,修行によって自らも仙人になることを願う思想である。そのために、肉体的鍛錬とか、薬(医学)の研究が唐代以後にも続けられ,中国の医学や化学が発達したと言われる。
 『陰陽説』と『五行説』にも登場してもらおう。一方の『陰陽説』である。このブログ『方向音痴の旅日記』で、『新旅行記』-『中国・河西回廊~天水~』-『伏羲廟』の中で、「『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていた…」として登場させた古代中国神話に登場する帝王『伏羲(ふくぎ)』が考え出したものである。「全ての事象は、単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」のように相反する形で存在し、それぞれが消長をくりかえす」という考え方である。例えば、明と暗、天と地、吉と凶、善と悪などである。
 他方、「五行説」は『夏(か)』の創始者『禹(う)』が考え出したもので、万物は「木火土金水」の五つの要素から成り立つとする考え方である。後に斉の陰陽家『鄒衍(すうえん)』によって、陰陽説と五行説が統合されて『陰陽五行説』が完成した。
 深読みは避けなければならないが、今日の日本の茶道は千利休が原型を策定したと言われるが、彼は陰陽師の一門で、陰陽五行の「木火土金水」の要素を取り入れていると言われている。

道教の聖山
 『青城山と道教の話』をするために、道教について猛スピードで勉強してきましたが、ここで本命の『張陵(ちょうりょう)』にご登場願う。中国の後漢時代の後期(2世紀後半)に蜀 (四川省)で『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれる宗教を創始した人物である。この宗教は、祈禱(きとう)による治病を主とし、入門の謝礼に米五斗を奉納したので、『五斗米道(ごとべいどう)』と呼ばれるようになった。後に道教の正一教(しよういつきよう)となり、道教の源流とも言われている。張陵が晩年に修行のためにこもったと言われるのが青城山である。幽玄で知られる山中に道教の寺院である『道観』が点在しているという。楽しみだ。難しい話はここまでとし、ここからは写真を並べて話を進めましょう。

中国でよくみられる朝の風景・壁新聞。朝7時半である
成都で宿泊したホテル近くにあったバス停

 成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ着く。終点の『青城山前山』である。先を急ぐわけではないが、青城山を観光後、午後に『都江堰』へ向かう予定で、うまい具合にこの近くから101A路バスで『都江堰』へ行くことができる。大丈夫、確認した。
 季節は6月初旬、野草が観光客を出迎える。清涼な空気を吸い込みながらアスファルトで舗装された参道を歩く。周りは緑いっぱいである。『青城山道教学院』、『西蜀第一山の山門』と続き、『建福宮』が見えてくる。

成都旅游バスセンターから約1時間で道教ゆかりの地・青城山へ
参道を歩く
途中で見えた青城山道教学院
『西蜀第一山の山門』

建福宮から月城湖
 『青城山前山』の山門の手前にある『建福宮』は、道教の寺院である『道観』の一つである。唐代(西暦618~907年)に建立されたもので、後に増改築が重ねられ、現在は2つの宮殿しか残っていない。『財神殿』や『老君殿』がカメラを引き付けている。

『青城山前山』の山門の手前にある建福宮
建福宮の財神殿
老君殿
建福宮

 建福宮から北へ歩くと、緑に囲まれた美しい『月城湖』に出る。ここから対岸のロープウエイの乗り場までボートが出ているが、湖岸に沿った遊歩道の方が人気があるみたいだ。

例によって貸衣装屋さん 。客が少ないのか、担当おじさん(おばさん)はいなかった
月城湖
湖岸に沿った遊歩道

上清宮
 月城湖から上る前山リフトは、約10分間の乗車時間で上り35元,下り25元であった。下りた所が『慈雲閣』で,ここから10分ぐらい石段を登ると『上清宮』である。パンフレットによると、「『上清宮』は晋代に創建,唐代に再建され,中華民国の時代に拡張された」とある。

青城山の月城湖から上る前山リフト
リフトを下りた所が慈雲閣で,ここから10分間くらい石段を登ると主殿である『上清宮』に辿り着く
悟真閣
慈雲閣
主殿である上清宮
上清宮
上清宮 のアップ
上清宮老君殿
上清宮三清殿
こういうサービスもある

下山そして都江堰へ移動
 『上清宮』辺りをうろうろして、時計を見ると正午である。ここから徒歩で下山した場合に『建福宮』まで戻るのに約2時間かかるという。リフト以外に選択肢はない。山頂の『老君閣』をあっさり諦めて、リフトで『建福宮』に戻る。『都江堰』に向かう先客も多数いて、101A路バスの中は賑わっていた。こういう場合は、必ずと言っていいほど、リーダーが登場する。「『都江堰』で下車後、7路バスで『离推公園』に向かわなくてはならない。20分だ。『都江堰』から『成都』へ最終バスは19時ジャスト」。「ありがとう」。「この人の後をついて行こうっと」。

ヘリテージ(Heritage)
 1979年、初めての外国である英国滞在中に私が受けたカルチュラル・ショック(cultural shock、culture shock)は数えきれないほどあるが、土木(Civil Engineering)に関する構造物や施設が『ヘリテージ(Heritage)』として大事にされていたことがその一つである。このブログでご紹介した記事を2,3あげると、『旧旅行記』-『フェスティバルのことなど』(1979年10月)-『ユニオン・ジャックか星条旗か?』や『旧旅行記』-『続々・フェスティバルのことなど』(1980年6月)-『技術者冥利』の中で書いた『アイアンブリッジ(Iron bridge)』が筆頭にあげられよう。
 バーミンガム(Birmingham)から車で約40分、英国中西部シュロップシャー州(Shropshire)のIronbridge(地名)にあるSevern川をまたぐIron Bridgeのことである。全長約60メートル、世界初の鋳鉄製のアーチ橋であり、エイブラハム・ダービー(Abraham Darby )がコークス用の石炭を使って始めて鉄鉱石を精錬した場所の名をとって、コールブルックデール橋(Coalbrookdale Bridge)とも呼ばれる。競馬の『ダービー』がその名を由来する『ダービー卿(Earl of Derby)とは、関係のない方である。
 1979年は『Iron bridge』が竣工200年を迎えた年であり、各種の記念行事が開催されていた。驚いたことに、あの著名な英国の『ロイヤル・アカデミー・オブ・アート(Royal Academy of Arts, RA)』で『アイアンブリッジ竣工二百年記念行事』が開催され、社会資本およびそれに携わる技術者の社会的評価がきわめて高いことをあらためて実感した。
 蛇足であるが、1979年は英国の『ダービー(Derby』』第200回開催の年であり、海外から多くの競馬ファンを迎えていた。私も家族と一緒に、エプソム競馬場で行われたダービー200回記念レースに出かけ、記念切手などを買ったことを思い出す。簡単であるが、『旧旅行記』-『続々・より道しちゃった』(2004年1月)-『血統』の中でご紹介してあります。
 蛇足の蛇足ですが、ということは2足目の蛇足ですが、第200回ダービーの優勝馬はトロイ(Troy)で、その遺体は私達が住んでいたバークシャー(Berkshire)に葬られている。

英国 Ironbridge(地名)にあるSevern川をまたぐアイアンブリッジIron Bridge)。1779年の竣工 である(1979年撮影)

都江堰と李冰
 さて、長々と『ヘリテージ』について語り、『アイアンブリッジ』や、競馬のヘリテージ?『エプソム・ダービー」まで話が及んでしまったが、今日の本題である土木のヘリテージ『都江堰(とこうえん)』と呼ばれる水利・灌漑施設と、それを成し遂げた人物についてご紹介したい。ここ中国の成都郊外にある『都江堰』は、人気の観光資源になっているのである。
 『李冰(りひよう)』は、紀元前256年(秦の襄王統治期)の時に蜀(四川省)の太守として,岷江(みんこう)の治水事業の指揮をとった。息子の李二郎(りじろう)も大規模工事を受け継いだが、『都江堰)』と呼ばれる水利・灌漑施設が完成するのは数世紀後である。
 書籍を参考にして簡単にまとめる。構造的には、都江堰は『魚嘴(ぎょし)』、『飛沙堤(ひさえん)』および『宝瓶口(ほうへいこう)』の3つの部分に分類される。岷江の川の流れは、人工的に造られた中州によって分けられ、そのまま下流に流れていく外江と、灌漑用水として『宝瓶口』に流れる内江に分けられる。岷江の流れを分ける中州は、竹籠の中に石を入れたものを積み上げて作製され、最上流部は(魚の口のようになっているので)『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる。内江の最下流部の『飛沙堤』は、岷江が基準水量を超えた時にここを通って外江に戻るように調整する機能を持つ。洪水対策である。氾濫の絶えない岷江の洪水を防ぎ、豊富な水を耕作地に引き入れた古代の大事業によって、『蜀(四川省)』は『天賦の国』と呼ばれてきたのである。
 簡単に述べたが、合理的、かつスマートな発想を支える素材の利用方法にも感服する。地元でとれる竹で籠を造り、 中に石を入れて使用したもので、安価かつ工程が簡単で高能率な工法である。また、写真で示した木の組み合わせで造ったテトラポッドの発明など、まさに文化的である。
 このような李親子の業績に対してその徳を称えるために、都江堰の東岸に南北朝時代に『二王廟』が建てられた。

世界遺産・都江堰
離堆大門の横の川に架かる南橋。お寺の門構えのように見えるが橋である。すぐそばに都江堰への入り口がある
伏龍観
伏龍観にある李冰(りひよう)の石像
伏龍観に展示してあった明代に作られた飛龍鉄鼎。 清代の1831年に青城山の頂上で発掘された
中州がある内江の最下流部である『飛沙堤(ひさえん)』は、岷江が基準水量を超えた時に外江に戻るように調整する。洪水対策である
都江堰の立体図
最上流部は『魚嘴(ぎょし)』と呼ばれる
都江堰の平面図
吊り橋の安瀾橋(あんらんきょう)。かなり揺れる
安瀾橋のアップ
分江亭
古代のテトラポッド。下部は石を入れた竹籠
都江堰の東岸にある『二王廟』の入口
『二王廟』は、李親子の徳を称えるために、南北朝時代に建てられた

中国・四川省 九寨溝

九寨溝国家級風景名勝区に向かう
 昨日は激動の1日であった。中国の多くの方々の助力によって、楽しくエキサイティングな“黄龍の1日”を過ごすことができた。ぐっすりと睡眠をとることができ、今日の九寨沟観光のため、そして明日の成都への長距離・長時間のバスによる移動に備えた体力を回復できた。昨日の若き技術者の根回しのおかげで、朝からの私のスケジュールがセットされていた。昨日、彼に応対したフロントのお嬢さん、実は英語が話せたのだが、「10分後にタクシーが来て、あなたを『九寨溝口旅游バスセンター』に連れていきます。近いので安いです。そこで、タクシーを待たせておいて、明日の『成都』行きのバスチケットを買って下さい。ここから9時間近くかかるので、朝7時半頃出発のバスがお勧めです」。忘れたら困るのでバスの出発時間をメモする。彼女は私の手元を見ながら続ける。「待たせたタクシーに戻って、そこから『九寨溝国家級風景名勝区』に行ってください、OK ?」。完璧な手配と説明であった。「ありがとう、お嬢さん&若き技術者よ」。
 ここ九寨溝から成都までのバスチケットを購入し、タクシーに戻って、「お待たせ」と日本語で言うと、運転手は、「にこっ」。やはり、ホテルを通してタクシーを予約をすると愛想が良い。再び乗車して、『九寨溝』入口で降車、タクシー代を支払う。中に入ると、平日の朝8時なのにお客さんが多い。

入山チケット(70歳以上は無料)や名勝区内を走るバスのチケットを買う
さあ、『観光専用バス』に乗って出かけるぞ

九寨沟へのイントロダクション
 ガイドブックを参考に、九寨溝についておさらいをしたい。九寨溝は四川省最北部にあるアバチベット族チャン族自治州の北東部にある景勝地である。峡谷沿いにチベット族の暮す集落(山寨)が9つあったことから『九寨溝』と名付けられた。
 約720平方キロメートルの広大な景勝地で、3つの渓谷を中心に、原始森林景区(げんししんりんけいく)、日則景区(にっそくけいく)、樹正景区(じゅせいけいく)、宝鏡崖景区(ほうきょうがいけいく)および長海景区(ちょうかいけいく)の五つのエリアに分けられている。
 私は6月に訪ねたが、湖、滝、湿地が点在し、季節によって、春の緑、夏の強烈な光、秋の木の葉の色づき、冬の純白の雪景色等々、想像しただけで心が震え、体が動いてしまう。この美しい、独特の景観は、氷河による浸食、地殻変動、火山活動などの結果であることは容易に想像できるが、「“美しさを感じさせる素材”を土木や地質の観点から一つあげよ」と言われたら、即座に、「石灰」と答えたい。石灰岩質の岷山山脈(びんざんさんみゃく)から流れ出た水の成分(炭酸カルシウム)が沼底に沈殿し、陽光を浴び、その変化に応じて独特の色で回りを染めよう。そして、本ホーメページで何度か登場させた『カルスト地方』の名を戴くクロアチアの世界遺産『プリトヴィツェ湖群国立公園』、また、昨日訪れたここ四川省の『黄龍』の美しさからも想像できよう。

観光開始は樹正景区から
 『九寨溝国家級風景名勝区』はとても広いので、シャトルバス(観光専用バス)で回る。最も北側にある入口から南側に向かって移動することになる。私のような方向音痴らしき人達は、地図を逆さまにして、つまり進行方向である南を上にして広げている。そうすると、谷というか池がY字状に分岐して見えるのである。笑わないでくださいね。
 Y字の根本(出発点)から『樹正景区』に向かって出発したバスは、20分ほどでバス乗場の1つである『老虎海乗車点』に着く。山肌を湖面に移す『老虎海』は、木々や雲などの周辺の自然条件によっては、虎の文様が湖に映る、ということからこの名前がついたという。下流部分に広がる姿は、端正なたたずまいを見せる静かな海子(湖、池)で、心が洗われるような気持になる。
 最初に降りたバス停( 老虎海乗車点)に戻ったところ、1台のバスが止まっている。よく見ると、観光客を移動させる『観光専用バス』ではなく、前面に『WC』と書いた移動式トイレバスだった。通常、この種の観光地に設置されているトイレは固定式であって、トイレが移動するものは初めて見た。後処理を考えても衛生的かつ合理的であり、先進的な発想に感心した。
 静かな『老虎海』の水を受ける『樹正瀑布』は多くの歓声を受ける人気の瀑布である。その豪快な瀑布は男性的で、荒々しい。写真を撮る時、中国人の女性がポーズをとる時間はとても長く、外国人の不平を買うが、ここでは、男性も長い。老虎海から樹正瀑布へと流れた水は、19の海子 が集まる樹正群海へと流れていく。

老虎海バス停留所
老虎海
老虎海
移動式トイレ
樹正瀑布
樹正瀑布

 『火花海』は、海抜2187メートル、水深9メートルの海子である。太陽の光を受けて湖面がきらめく様子が火花が散っているように見えるので、この名前が付けられたそうだ。私の場合は、残念ながら…。天気次第か? 
 ここの『火花海』の瀑布から流れ落ちた水は、『双龍海』に落ちる。中国人の大好きな『龍』であるが、この名称は、透き通る湖の中にあたかも二匹の龍が隠れているように見えることから付けられたそうだ。そう思い込んで見ると、湖水に沈んだ大木が龍の姿に見えてくる。もっとも、「『龍』なるもの、見たことはないですが」。「それを言っちゃ、おしまいですね」。

火花海の説明
魚が泳いでいる
山の姿が映える湖の美しさ
火花海。今日は火花が見えなかった
双龍海
双龍海

長海景区
 Y字の中心(左右の分岐点)にあたる『老虎海乗車点』から観光専用バスに乗車して、東側の長海景区の『長海』で下車。ここから先には進めないので、『長海』を眺める最終ポイントである。海抜が3060メートル、山に沿って湾曲する長さが約8キロメートル、幅が約600メートル、面積が93万平方メートル、そして湖水の最深部が約100メートルぐらいである。海抜、湖面面積、深さ、全てで九寨溝一を誇る。

九寨溝で最も長い海子(湖、池)である長海
長 海
チベット族の衣装を着て記念撮影
逆さまにしたらどう見えるのだろう?だまされる人がいそうだ
長 海
木製歩道が風景にマッチしている

 五彩湖は、海抜2995メートル、面積が5645平方メートル、最深部が6.6メートルと小さな湖で、長海から徒歩ですぐである。ここの売りは、なんと言っても湖水の底にある石が見えるほどの透明感とあくまで透き通った青、クリアブルーである。お楽しみあれ。

五彩池への案内標示
九寨溝の中でも最も鮮やかな五 彩池
五彩池
五彩池
五彩池 にあった『姓名作画』とは?お客の姓名から連想して絵を描いてくれる 。1枚10元、安い

原始森林景区
 長海の観光専用バスの乗換地点からY字の中心に戻り、Y字の西側に向かった。Y字の中心に近い日則景区を飛ばして原始森林景区の終点『芳草海(Grass Lake)』へ一気に移動した。Y字の中心から見ると遠くに位置する原始森林景区から始めて、近くの日則景区を観る作戦である。海抜2910メートルの地点にある3万平方メートルの海子(湖)。芳草海は文字通り草が多く、餌が豊富なのか、小鳥の鳴き声が耳についた。

原始森林景区の芳草海(Grass Lake)
原始森林景区の芳草海
芳草海
芳草海
天鵝海(白鳥の湖)の説明
天鵝海(白鳥の湖)
天鵝海を教えてくれたお助けパーソン達

日則景区
 九寨溝観光に訪れた人々が描くイメージを最も代表する景区である。流れが生み出す青い海子や滝、緑あふれる木々が光を受けて織りなす色彩豊かな景観である。緑あふれる木々は、秋には色づいて異なった様相を見せることであろう。箭竹海(せんちくかい)、パンダ海、五花海など、ストーリィ性を持った景区でもある。
 箭竹海は、海抜2618メートルの地点にある深さ6メートル、広さ17万平方メートルの海子である。ここには大量の箭竹が生い茂ることから、この名前が付けられたのである。『箭竹』と言えば、『パンダ』の好物。お分りですね。『箭竹海瀑布』から流れ込む海子は『パンダ海』である。実際に、以前はこの海子で水を飲む( 箭竹 を食べる)パンダが目撃されたそうだ。

箭竹海瀑布(せんちくかいばくふ)の説明
箭竹海瀑布
ここの箭竹はパンダの好物
パンダ海

 『日則溝景区』で最も人気のある観光地は、孔雀川の最も上流に位置する『五花海』と言っても良いであろう。標高が2472メートル、水深が平均5メートル、総面積が7.68万平方メートルの湖で、沈んでいる倒木などもはっきり見えるほど透明度が高い。マグネシウムや銅などの鉱物を含んだ石灰質が沈殿し、藻が定着していることから、光によって色彩が変わる摩訶不思議な光景を観ることができる。解説書に「九寨溝一絶(九寨溝にしかない)」とあるが、言いえて妙なり。ちょっと気障ですが、『絵画』で言う「太陽光線が当たって色があらわれる」のです。
 遊歩道を20分ほど行くと、「ビューポイント」みたいな小さな展望台があって、湖全体を観ることができる。エメラルドグリーンのグラディーション、思わず口から出た言葉は、「神秘的」という、なぜか英語だった。

海抜2471メートル地点にある深さ5メートルの五花海
最も人気のある場所で、思い思いに楽しんでいる
五花海

中国・四川省 黄龍

西安から黄龍・九寨溝に移動
 西安咸陽国際空港発08時35分、四川九寨黄龍空港着09時55分と定刻通りのフライトである。『四川九寨黄龍空港(しせんきゅうさいこうりゅうくうこう)』の空港名は長すぎるということで、一般には『九寨黄龍空港』、『九黄空港』と略称されている。今日のホテルは、九寨沟にとってある。
 空港から黄龍へは43キロメートル、九寨溝へは88キロメートルの距離である。また、高い山に登る予定なので、高山病対策のために調べておいたのだが、空港の海抜は約3400メートルと高い。私の希望は、理想と言っても良いが、今日中に『九黄空港』→『黄龍』を観光→『九寨溝』へ移動そして宿泊である。それにしても現地の情報が少ないので、着陸後に空港のツァリスト・インフォメーションに相談するか、仲間?を募って、車をハィヤして『黄龍』観光、そして『九寨溝』に移動、…。「何とかなるさ」。
 私は、後述するように、タクシーをシェァして移動したのだが、これから旅行する方のために、空港で得た情報をまとめておきますね。①空港内にバスチケットの売場がある。②黄龍経由九寨溝行きのバスは、運賃100元で、「10時位までに発車」と漠然としている。③直接、九寨溝行きのバスは、運賃45元で、6人程度集まるまで待たされる。④九寨溝に移動・宿泊して黄龍観光をする場合は、九寨溝発7時→黄龍観光→黄龍観光後黄龍発15時前後のバスで九寨溝に戻る。これらのメモが、読者の旅行計画に少しはお役に立つことを希望します。
 私の場合は、新婚夫婦と若い技術者に声をかけられ、トータル4人でタクシー600元をシェアして、空港→黄龍観光→九寨溝のホテルへと、とても効率よくかつ経済的な選択だった。そして、彼ら、彼女らのホスピタリティに、感謝、感激。旅の楽しさを倍増させてくれた。

黄龍観光
 空港から4人でタクシーをシェァして、いきなり黄龍(こうりゅう)、正式には黄龍国家級風景名勝区に来たが、地理的には四川省松潘(しせんしょうしょうはん)の郊外に位置する。松潘は、唐の時代に交易路の中継地として栄えた、城壁に囲まれた伝統ある町だと教えられた。今回は、諦めるしかない。
 さて、黄龍である。全長約7.5キロメートル、幅300メートルの峡谷沿いに広がる中国有数の景勝地である。約600平方メートルの面積に、池と森林が広がる高原湿原であり、金絲猴(きんしこう。別名ゴールデンモンキー)やジャイアントパンダなどの希少動物が生息している。1992年に『九寨溝』とともに『黄龍風景区』として世界自然遺産に登録された。
 特筆すべきは、土木&地質技術の観点から見ても、世界有数の『カルスト地形』であることだ。『カルスト地形』の名称は、地中海に面した旧ユーゴスラビアの北西部、スロベニアやクロアチアの『カルスト地方』の地形に多く見られることから、カルスト地形(ドイツ語で Karst)と呼ばれるようになった。この地形は、一般的には石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水や地下水などによって侵食されてできた地形である。専門的説明は省略するが、ここの地下水は大量の石灰質を含むため、その成分が結晶として土に付着して、気の遠くなるような年月を経て、現在の畔のようになったのである。春になると高山からの雪解け水が流れ込み、天然の『棚田(ライステラス、rice terraces)』ができたというわけだ。
 賢明な読者諸氏は、もう、思い出されたことでしょう。私のブログの中の、『新旅行記・ヨーロッパ』→『スロヴェニアのリュブリャーナ』→『ポストイナ鍾乳洞は迷っても楽しい』でご紹介した、スロヴェニアが誇るヨーロッパ最大級の『ポストイナ鍾乳洞』は、まさにこのカルスト地形の典型なのである。
 日本では山口県秋吉台のカルスト台地が有名である。時期になると贈られてくる「秋芳梨(しゅうほうなし)」を思い出して、よだれを拭く。
 一緒になった若者は、中国のエレクトロニクス関連の会社に勤務する技術者であった。彼は、韓国の世界的に著名なS社に仕事の関係でよく行くそうである。「日本にも行きたいが、我々の仕事で『三国同盟』は難しい。組む相手は一つだ」そうだ。「観光旅行に行きたい。多くの友人が日本に遊びに出かけている」。「ウェルカム」である。この青年によると、「黄龍は、龍が天に向かって舞い上がっていく姿に例えられることから、その名が付けられた」という。そう言われると、長い年数をかけて作られた黄金色の岩肌は、絵画やTVプログラムなどで見る想像上の動物、龍の鱗のように輝いて見える。
 さて、観光開始である。「旅は道ずれ」。撮ったり撮られたり、いつもよりは圧倒的に私が被写体になった写真が多かった。

山頂駅へロープウェイ
 入口付近に『雪山梁』の石碑。雪だるまでした。遠目には何か由緒あるものかと想像したのだが、展示物ではありませんでした。
 高地なので、いきなりロープウェイ(黄龍索道)を使って山頂付近に登る。写真を撮る暇がない、5分間、80元だった。下りは半額の40元だったが、5分間ではせっかくの景色がもったいない。ゆっくりと、だべりながら、歩いた。
 まさに、『黄龍の森』である。天然植物資源の宝庫である。植木の被覆率は、88.9パーセント、森の被覆率は65.8パーセント、区内には高山植物1500と表示されている。高地に咲く花々、果実を食べながら登山者を迎えるリスなど、自然いっぱいの黄龍高原湿原である。

入口から近い雪山梁。雪だるまは展示物ではありません
雪山梁の標示
木道が整備されていて歩きやすい
険しい山
ロープウェイ(黄龍索道)
ロープウェイから写したつづら折りの道
ロープウェイから写した 黄龍の森林
美しい風景を夢中で写している仲間達
厳しい環境に咲く花
観光客を眺めに来たリス 。餌を持ったポーズが決まっている。お礼に近くで拾った実をあげたところ、手渡しで受け取った。周りで歓声があがった
池の景色が見え始めた
標高3553メートルの五彩池まで100 メートル の説明
お寺の上部だけ見えた

五彩池
 黄龍随一の見所と言われる『五彩池』である。総面積21000平方メートルに700にも及ばんとする池が広がっている。池が蓮の花のように連なり、光の変化や角度によって赤、紫、青、黄色、白といった様々な色で彩られ、旅人の歓声を誘う。1997年に娘と一緒に訪ねたトルコのパムッカレを思い出す。
 同伴者たちは、「五彩池は3700メートルの高さにある。大丈夫か?」と気遣ってくれる。めまいも息切れもしないし、「オーケー、サンキュー」と笑顔で返す。所々でこのような健康チェックが入るので、安心して?旅を続けられる。「ありがとう」。

五彩池
五彩池

黄龍寺
 黄龍は、中国古代の皇帝が治水工事を行った際に協力した龍がこの地に住みついたという伝説の地である。黄龍古寺はその龍の化身を祀った寺院だと言われている。そのせいか、この寺院は龍の装飾が多く施されている。『松潘(しょうはん)県志』によると、「黄龍寺は明朝の兵馬使『馬朝観』が修築した」と記載されている。蛇足だが、黄龍は松潘(しょうはん)の郊外である。現在は、黄龍古寺(チベット仏教)と黄龍中寺(道教)を合わせて『黄龍寺』と呼ばれている。
 写真で示した黄龍古寺の山門から10メートルほどの場所に位置する黄龍洞は、『帰真洞』、『仏爺洞』とも呼ばれる。伝説によると、黄龍の神・黄龍真人がここの洞穴(ほらあな)で修行したと言われている。

黄龍古寺の山門
チベット族の女性たち
黄龍古寺内部
黄龍古寺内部
黄龍古寺内部
龍の彫り物が目につく
黄龍祠の説明

争艶池、金沙舗池、洗身洞など
 『争艶池(そうえんち)』は、約650の池が集まって、その美しさを競いあっているように見えることから『争艶池』あるいは『争艶彩池』と呼ばれている。彩池とは、石灰華の段丘に水がたまってできた池のことを言うそうだが、『五彩池』と並んで最大規模の彩池群である。標高3460メートルとあった。
 「文字どおり水面を艶やかに彩る美しい景観」と言われているが、御存知のように、光によって色のトーンが刻々変化する。私が訪ねた時は翡翠のような深い緑色が印象的であった。
 『金沙舗池(きんさほち)』は、長さ1300メートル、幅40~122メートルで、珍しく急勾配になっている。水の中の炭酸ナトリウムも凝結していない。現在、枯渇(こかつ)状態で水流が無いため、黄金色の石灰が沈着した底がむき出しになっているので金沙鋪池と呼ばれている。
 『洗身洞(せんしんどう)』は、海抜約3280メートル、高さ約10メートル、幅約40メートルの石灰岩が沈着した茶色の壁が流れる水を黄金色に輝かせることから『黄金の滝』の別名を持つ。中央に高さ1メートル、長さ1.5メートルの鍾乳洞があり、ここで、仙人が修行したということである。説明書によると、6月から10月が見ごろだということである。

争艶池 。五彩池と並んで最大規模の彩池群である
金沙舗池。現在、水流が無いため、黄金色の石灰が沈着している底がむき出しになっていた
洗身洞。写真撮影時は渇水期だったので、地肌がむきだしになっていた

寂しい別れ
 西安咸陽国際空港発08時35分→四川九寨黄龍空港(九黄空港)着09時55分→新婚夫婦と若い技術者のトータル4人でタクシーをシェア→10時20分頃に黄龍観光開始→ の予定を楽しく過ごして、今は午後3時30分、黄龍旅客センターの出口にいる。仲間に頼りきりであったので、まったく考えていなかったが、これから待たせてあったタクシーで九寨溝のホテルに向かうことになる。若き技術者が見知らぬ男に近づいて、何か話している。戻ってきて笑顔で「OK」。こういうことである。九黄空港からここ黄龍まで送ってくれたタクシー運転手は既に空港に戻り、引継ぎの運転手が違う車で私達を九寨沟まで送ってくれる、という方法であったのだ。ここから空港までの客がいれば、タクシーの遊び時間というか、空車状態は無くなるし、運転手も地域の地理などで得手不得手があるだろうから、ある意味で非常に合理的である。
 この方法は、九寨沟の街でも取られた。黄龍からおおよそ3時間で九寨溝の街に着いた。広場みたい所で停車して、車と運転手が変わったのである。そして一人あたり150元の支払いを求められた。約束通りトータル600元であった。運転手二人の間でお金のやり取りがあったが、私達には関係の無いことである。そして、新しい運転手が私達のホテルを聞いてメモをしている。ここから宿泊ホテルまで近い順に並べると、新婚さん夫婦、若き技術者、私の順番であったが、若き技術者の申し出で、彼が最後に降りることになった。言葉が通じない私と運転手のコミュニケーションに危惧を感じただけではない。今後の私の行動に助言をくれるためであった。
 新婚さん夫婦に丁重にお礼を述べて、次に私の予約したホテルに向かったが、なかなか見つからない。ガイドブックやネット予約にも載っているホテルなのだが、気の短い運転手はいらいらしている。5分ほどかかって、やっとホテルが見つかった。若き技術者は、私の荷物を持ってくれて、大事なものの確認をして、チェックインである。ここで時間がかかった、というか、かけた。「彼は、中国語ができない」、「2泊で、明日は『九寨溝国家級風景名勝区』に日帰りで出かける」、「明後日は朝一番のバスで『成都』に向かう」。「『九寨溝口旅游バスセンター』の場所や切符の買い方を教えてやってくれ」などとスタッフに中国語で話し、同時に、私に英語で同時通訳してくれた。途中、タクシー運転手がしびれを切らして、フロントに来て、怒っていた。
 激動の、そして最上級の1日であった。「ありがとう、皆さん。皆さんも、ボン、ボワィヤージュ」。「心の底から、ありがとう」。

黄龍旅客センター出口
標高3700メートル を超える高山の気圧でペットボトルがへこんでいた。一瞬、物理の公式を思い出そうとしたが、睡魔に負けた

中国・河西回廊~西安再び~

天水から西安へ
 天水で『麦積山石窟』などを見学し、ここ西安に移動した。5月13日に西安に入って、6月1日に戻ってきたということは、15日間ほど、いわゆる『河西回廊』を巡ってきたわけである。仕事ではないのだから、前回、回りきれなかった所を回るという手法は取らない。行きたい所に向かうのである。今日と明日、西安をぶらぶらし、明日の夕方に『西安威陽国際空港』近くの、いわゆるトランジットホテルみたい所に宿泊、明後日朝早くシャトルバスで空港に送ってもらって、『四川九寨黄龍空港(しせんきゅうさいこうりゅうくうこう)』に飛ぶ。
 いずれにしても、今回の『中国・河西回廊の旅』は、「西安から始まって西安で終わる」シリーズなので、『黄龍』、『九寨溝』そして『成都』へと続く旅は、別稿としたい。お許し下さい。

玄宗と楊貴妃・再び
 「何々を見たい」という希望から、「何々を見なきゃ」というある種の強迫観念にとらわれて旅をしている若者に出会うことがある。昔の若かりし頃の私もそうであったかもしれない。ところが、この年になると、そのバイタリティはもう無く、淡々と歩むようになる。「年だな、お前」と言われるかも知れないが、「脅迫の旅から解放される旅は、一人旅の中でも王道中の王道である」と思うようになる。ただ共通するのは、双方とも以前に訪れた所を再訪すると、「懐かしい」と思う心である。人と会ってお互いに懐かしむのも同じ心境であろう。
 西安駅は、初めて西安に来た時に最初に訪ねた場所であり、観光客を誘うおばさん、人々の雑踏、飛び交う色々な言語、…、「懐かしい」。引き込まれるように駅に入り、広い構内をうろうろ。駅をくぐった北側には、『大明宮国家遺址公園』がある。とてつもなく広い公園である。「こんな所を歩くのは大変だ」とばかりに、行先も確認せずにバスに飛び乗った。バスが一度角を曲がっただけで、方向音痴の私は、もう方向が分からなくなっている。20分くらい経っただろうか、水をたたえた緑の豊かな公園が見える。「よし、降りてみよう」。
 なんと幸運なことだろう。唐代三大宮殿のひとつである興慶宮(こうけいきゅう)の跡地に、造られた約50万平方メートルの『興慶宮公園』だったのだ。現在は、市民の憩いの場となっているが、元々は唐の長安城の隆慶坊の一部で、玄宗皇帝が皇太子の時に住んでいた所だという。「玄宗皇帝と言えば、そう、楊貴妃です」。覚えていらっしゃいますか?私は、5月16日に玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台となった『華清池』を訪ねています。その二人が遊んだ『沈香亭』がここに再建されているのである。沈香という香木で作り、周りには楊貴妃が様々な牡丹、芍薬を植え、愛でたという。
 玄宗と楊貴妃は、詩人の李白を参内させて、満開の牡丹を詩に詠ませたこともある。その一首をご紹介したい。

「名花傾国両相歓 長得君王帯笑看 
 解釋春風無限恨 沈香亭北倚欄干」

(名花傾国両つながら相歓ぶ 常に君王の笑いを見るを得たり
 春風無限の憎みを解釈し 沈香亭の北欄干に倚る)

「名花と傾国(美女)を…」、下手な解釈、コメントは止めた方が良い。

 もう一つ、詩(歌)を。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」

 教科書にも載っている『阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)』の詩である。御存知のように、716年に遣唐使に選ばれた仲麻呂(696~770年)は、翌年に唐に渡る。科挙にも合格し、玄宗皇帝に可愛がられて政府の要職を歴任する。帰国しようとしたが、台風のために南海に漂流、再び長安(西安)に戻る。そして、結局、仲麻呂は中国で53年間暮らし、逝去した。
 公園には、1979年に入唐1200年を記念して建てられた阿倍仲麻呂の記念碑が建っているのである。その脇に上に掲げた歌が刻まれているのである。ところがである。1時間も駆け巡っても、公園の東南にあると教えられた阿倍仲麻呂記念碑は見つけることができなかった。いつものことである。

唐代三大宮殿のひとつである興慶宮跡地に建てられた興慶宮公園の入口
興慶宮公園
興慶宮公園
玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ沈香亭

西安駅・再び
 今日、最初に訪れた西安駅に戻る。手軽な格好で街をふらついているせいか、荷物を持っている人々を見ると、なんとなく「あの人は旅行客だな」と分かる。駅をくぐった北側にある広大な『大明宮国家遺址公園』に再度、向かう。
 唐代の大明宮は、太宗の李世民が634年(太宗貞観8年)に父親の夏の宮殿を建てたのが初めで、永安宮と名付け、翌年、大明宮と改名した。唐代歴代の皇帝21人中17人がここに住み、国務処理を行った。
 さて、移動である。簡単な市内地図を見ながら「この近くのバス停から飛び乗ってたどり着いたのが南東方向にある『興慶宮公園』だったのだから、…、反対方向に向かうバスに乗って行けば北西に位置する『広仁寺(こうじんじ)』に行ける」と、ぶつぶつ言いながら考えているうちにバスが来た。西安城壁の外の『環状北路』を西に向かい、『環状西路』で左折して南に向かった所で降りればOKだ。その通りだったのだが、南に向かった所の『広仁寺』をちょっと乗り越して『玉祥門』で降車した。どっちみち訪ねる予定の所なので「まぁ、いいか」。私でも来れたのですから、皆さんは大丈夫です。細かくは、「西安城壁の西側の北馬道巷にある玉祥門」です。ここから北へ向かえば『広仁寺』、南に向かえば『安定門(西門)』があります。とりあえず、玉祥門をパチリ。

大明宮国家遺址公園
西安城壁の西側の北馬道巷にある玉祥門

広仁寺
 西安城壁(西安城檣)の西北の隅に『西安城檣』と書かれた小さな建物を見つけた。心配ない、間違いなく、広仁寺、俗称、喇嘛寺(らまでら)に向かっている。数分歩くと、チベット仏教の象徴でもある空に舞う五色のタルチョ(祈祷旗)が見えてきた。黄・緑・赤・白・青の五色で、物質の5元素を表している。その意味は、黄(地)・緑(水)・赤(火)・白(風)・青(空)である。チベット仏教独特の祈りの旗で、経文が書かれており、タルチョ(祈祷旗)が一回風になびけば一回読経したことになると、お坊さんに教えられた。
 清の康熙44年(1705年)に、皇帝であった康熙帝によって建てられ、300年以上の歴史を持つ。寺院内には、装飾が美しい白い仏塔、福を祈る郵便局、仏像等々、見応え十分である。

『西安城檣』とかかれていた。『西安城壁』のことである。
陜西省で唯一のチベット仏教寺院
装飾が美しい白い仏塔
福を祈る郵便局なんてすばらしい
宗派はチベット仏教最大宗派のゲルク派(黄帽派)だと教えられた
寺院内部
関公

西安最終日
「実質、西安最終日になる今日は何をすべきか」などという考えは微塵も浮かばない。明日の朝出発のフライト時間が早いので、今日は、ホテルに荷物を預ける→足の向くまま気の向くまま→夕方、荷物を受け取って空港へ→フライトの状況を確認→予約してあるホテルのシャトルバスでホテルへ→? 
 朝10時過ぎに近くの散歩から始まる。『西安革命公園』とあった。『八路軍西安事務所記念館』が近くにあることは知っていたが、『西安革命公園』なるものは知らなかった。人の集まる所、食の提供あり。ここに、私の大好きな、勝手に名付けた『中国風ビュッフェ?』があったのだ。最初に西安に来て訪れた『陝西歴史博物館』の目の前にあった屋台式弁当屋さんを思い出した。以前のブログで書いたので、さぼって再掲する。
 「10種類を超える具材から好きなものを選んでトレイにとり、簡単な椅子に座って食べる方法である。無理にこじつけると、メインテーブルや棚に並べられた料理を各自が好きなように取り分けて食べる『ビュッフェ(フランス語でbuffet)』に似ているところがある。ビュッフェが立食形式なのに対して、簡単ではあるが椅子がついているので、より進化しているとも言える」。
 幸いなことに、今日は珍しく朝食を食べていない。『神のお告げ』である。私の言う「神のお告げ」とは、このブログ『方向音痴の旅日記』で何度か使っているが、例えば、『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』を見ていただけると幸いです。「そんなの面倒だ」と言われそうなので、ここでも再掲しますね。
 「神のお告げ;車のエンジンがかからない。「うっ、あれ?」。ポケットに手をやる。ポケットにキィが入っていなかったのだ。家に戻ってキィをとってきて、「改めてエンジンをかける」、にはならない。私の場合は、『神のお告げ』になるのである。例を挙げて説明しましょう。何かを忘れる→忘れ物を取りに行く→最初の忘れ物ではない財布がそこにある→なのである。神様は、「家に戻るにはそれなりの他の理由がある」と教えてくれたのである。人生の生き方の参考にしてください。余計なことですが」。
 『西安・再び』が『ブログ・再掲』になってしまった。腹もふくれたし、公園を散歩しよう。大学入試にも出てくる『張学良(ちょうがくりょう』とともに西安事件を主導した『楊虎城』(よう こじょう)の像もある。 数百メートルも歩いただろうか、西安人民体育場が見えてくる。多目的スタジアムである。
 西五路を西へ1キロメートルほど歩くと、北大街にぶつかる。目的は、この交差点にある地下鉄2号線の『北大街駅』である。何故か、地下鉄に乗りたくなったのだ。何故か分からない。ここから南へ一駅で『鐘楼駅』である。

西安革命公園
楊 虎城(よう こじょう)の像
革命亭
西安人民体育場。多目的スタジアムである。

鐘楼・再び
 『北大街駅』から地下鉄2号線で一駅、『鐘楼駅』である。「何故、地下鉄か?」。答は地下鉄2号線『鐘楼駅』であった。私は、『鐘楼』と近くにある『鼓楼』の外観を見ただけで、中に入っていなかったのだ。「中に歴史と文化の宝がある。見逃すな」と呼んでいたのだった。そして、もっと驚いたことがある。実は、すっかり忘れていたが、前回ここへは、地下鉄で移動していたのである。まさに、「神のお告げ」だ。

前回はこう書いたのだった。「鐘楼と鼓楼 小雁塔近くの地下鉄駅『南稍門』乗車→『永寧門』駅→『鐘楼』駅降車、まさに暴力的にあっさりと市内の交通の中心部に建つ『鐘楼』が目の前である」と。

 大先輩から、こう言われそうだ。「記憶力の低下とはそんなもんじゃない。前に書いたと思い出すうちは、まだまだ、序の口だ」と。
 さて、鐘楼である。高さ36メートル、楼閣は『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建てである。継ぎ目のない一本柱様式の木造建築である。1384年(明の洪武17年)創建、1582年(明の万歴10年)にここに移された。東大街、西大街、南大街、北大街、つまり東西南北の大通りが交差する場所に建つ鐘楼から撮った写真を掲載するのでお楽しみください。

鐘楼。高さ36メートル、『重櫓複屋造り』で屋根は3層だが、実際は2階建
銅鏡の展示
鏡を使う美女
鐘楼から四方を眺める
鐘楼から四方を眺める
鐘楼から四方を眺める
簡便カメラではボカシが難しいので、工夫して撮った1枚です

鼓楼・再び
 鼓楼が建てられたのは鐘楼の創建よりも4年早い1380年(明の洪武13年)である。大太鼓が吊るされていて、かつては太鼓をたたいて時刻を知らせていたという。楼閣の周囲は鐘鼓楼広場になっていて、市民の憩いの場となっている。
 鼓楼内の展示物で私がとくに興味を持ったのは、各種の『鼓』の展示である。夜警の太鼓、石鼓八角鼓、青銅鼓、石鼓、陶鼓、等々である。周りにいた人も言っていたが、「叩いてみたい」。音響関連の測定器を持ち込んで、周波数分析をしてみたい。新しい音楽が生まれるかもしれない。
 『清朝の家具の展示』も人気を集めていた。高級感があり、気品がある家具を久々に見ることができた。『特製の置物』もユーモアがあって、大声で笑ってしまった。「周りの皆さん、ごめんなさい」。『獅子の置物』、『鼠の置物』をお見せしますので、これまたお楽しみください。
 最後に、鼓楼から撮った美しい景色を追加しました。

鐘楼から写した鼓楼
鼓楼の入口
鼓楼にある『夜警の太鼓』。唐の時代には2時間おきに叩いて、人々に時間を知らせていた
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている石鼓八角鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている青銅鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている石鼓
西安市鐘鼓楼博物館に展示されている陶鼓
鼓楼内にある清朝の家具の展示 。右にある置物はなんだろう?
鼓楼内にある清朝の家具の展示
特製の獅子の置物
特製の鼠の置物
鼓楼から見えた美しい景色

回坊風情街
 鼓楼からの景色に満足して、近くの回族の食堂が集まる回坊風情街や骨董品は並ぶ化覚巷をぶらぶらする。とくに回族の回民街の中心である北院門の近くは縁日のように人であふれかえっている。近くにある清真大寺の名前から分かるように、回教(イスラム教)の寺院は『清真寺』の名前が付けられている。そして、イスラム教徒が経営しているレストランの前には、”清真”と書いてあることが多いのだが、これはイスラム教の教えに則って処理した料理のことを意味する。色々なバリエーションがあるが、共通点としては、豚肉や一部の魚を使わない、酒で味の下ごしらえをしないなど、ハラールが遵守されている料理を指す。御存知のように、イスラムの教えで『ハラール(ハラル)』とは、『許されている』という意味ですあり、他方、『ハラム』とは『禁じられている』という意味である。イスラム教徒ではない私には、その具体的な違いが正確には分からないのであるが、ここまでシルクロードと称される地域を旅行してきた私には、やはり新疆ウイグル自治区のウイグル料理が最も印象に残っている。「口に合う」のである。
 人気のエリアである鼓楼から近い通りは、地元民の生活必需品や食料品を売るイスラム人街というよりも、観光客向けのB級グルメ屋台街の雰囲気が漂う。よく分からなかったのは、北院門の前で記念撮影していたイスラム教徒の女性達である。うろ覚えで軽々に論じられないが、『偶像禁止』の社会で、写真は良いのであろうか?テヘラン在住のイラン人の友人は、「絶対に女性にカメラを向けるな」と教えてくれたが、彼女らが自分達で撮り合う場合は問題が無いのであろうか?もちろん、イスラム教と言っても、国や宗派で異なることにも留意する必要がある。
 テヘランの友人を登場させたので、彼が教えてくれたイスラム教徒の『五行』と呼ばれる信仰行為について列記する。

1.信仰告白(シャハーダ)アッラーを唯一の神として信仰すること
2.礼拝(サラート)一日5回お祈りをすること
3.喜捨(ザカート)貧しい者に施しをすること
4.断食(サウム)ラマダン月の日中の飲食をしないこと
5.巡礼(ハッジ)聖地メッカに巡礼をすること

西安の回民街・北院門

清真西寺・再び
 イスラム教の話になったので急に思い出したのではない。「もし、時間の都合がついたら再度訪れたい」と決めていた『清真西寺』にいる。さっきまでいた化覚巷にある西安最大のイスラム寺院『清真大寺』ではなく、『清真西寺』である。覚えていらっしゃいますか?このブログの『中国・河西回廊~西安~』で記した、西安の市内観光初日のすったもんだ『清真大寺後日談』に登場した『清真西寺』である。パンを貰った『清真西寺』である。何故か、忍び足で入って行ったので、「怪しい奴」と思われたかもしれない。「あった」。普通は「いた」と言いますよね、人の場合は。あったのです。私が貰ったパンが入っていた『かご』があったのです。私にパンをくれたおじさんはいなかったのですが、いきさつを話して、皆さんと笑顔で握手を交わしました。ちょっと、…、ぐっと来て、西安最後の日にふさわしい、温かく、優しく、和やかな時間をおくれました。「本当に、本当に、ありがとうございました」。帰り際に、「ちょっと待て、忘れものだ」。みんなで大笑い。パン二つが私のバッグに入った。「Thank you very much, again」。

イスラム寺院の清真西寺
清真西寺入口
このかごに入っていたパンを2つ貰った

中国・河西回廊~天水~

スケジュールの変更
 2005年に新疆ウィグル地区に広がる『シルクロード・天山北路』、すなわち、大きく括ると『ウルムチ』→『トルファン』→『クチャ』→『カシュガル』を旅し、その後、2015年に『河西回廊』と呼ばれるエリア、すなわち、『西安』→『蘭州』→『武威』→『張掖』→『酒泉』→『嘉峪関』→『敦煌』の旅の印象をまとめて、『河西回廊旅日記』を上梓した。『シルクロード』と称される地域をサーフェィス(鉄道・バス)で旅した印象は、「また訪れたい」であった。魅力の理由は、歴史、観光資源、そして人々である。
 日本出国前の大まかな旅行計画では、この後、『敦煌』から『西安』に飛び、『西安』でトランジットで『九黄空港』に飛び、『黄龍』に移動して『黄龍観光』→『九寨溝』に移動して『九寨溝観光』→『成都』に移動→『約10日間、成都およびその周辺を観光』→『帰国』の予定であったが、途中でお会いした皆さんのアドバイスやご助力により、スケジュールの一部を変更した。具体的には、『敦煌から西安に飛び、トランジットで九黄空港に飛ぶ』のを、『敦煌から天水に列車で移動し、天水および周辺を観光した後、西安に列車で移動して、西安を再度観光』→『西安』から『九黄空港』に飛び→『黄龍観光&九寨溝観光』→『成都に移動して成都および周辺観光』→『帰国』に変更した。要するに、旅行日程に『天水』を加えたのである。

朝早く着きすぎた
 敦煌駅に来るのは、2度目だ。3枚しか残っていない5月30日の敦煌-天水間の乗車券を買うために、背水の陣で来た所である。今日は余裕である。カップラーメン、パン、フルーツ、飲み物、そしてここの駅前でじいちゃん、ばあちゃんが売っているドライフルーツなどの用意はできた。
 敦煌駅 09時30分発(快速寝台列車K592次)→ 走行:1809キロメートル、乗車時間23時間57分、列車座席:二等席、新空調硬臥上段で、料金は377元であった。ところで、自分の簡単な旅行メモを見て、「1日いっぱい乗車、9時半に着く」と勝手に思い込んでいた。約24時間乗車するのは、西安まで行く場合であった。私が行く天水の到着時間は、04時26分であった。
 約17日前に、西安を出発して敦煌まで旅した河西回廊のルートを逆に移動するのが今回の移動である。乗り物好きなので車窓に登場する景色や車内販売の数々も楽しいが、経験した色々な景色、文化、そして一番印象の残る人々との想い出が目くるめくように思い出され、そばにあるグラスも忙しい。
 2015年5月31日、日曜日、朝4時20分頃に車掌に起こされた。天水にほぼ定刻に到着である。まだ、周りは暗く、どこに行くにしても早すぎる時間である。駅構内に用意されている椅子に横たわる人々は警備人に注意されて席を立つか、移動するように指導されている。どうやら、乗車券を持っていなければ利用できないらしい。私も何か言われたが、とっさに「ジャパニーズ」と言ったところ、「横になっても良い」と言われた。「どういう基準なのか、あるいはどこでどう間違ったのか、そんなことはどうでも良い、有難い」と勝手に思うくらい眠かった。ちょっと行儀が悪いかな?
 実は、天水に着いた時に駅前にあるそれ相応のホテルと掛け合い、「5時以降であれば、今日チェックインして、明日以降チェックアウトしても、1日分の宿泊代で良い」と確約を貰ってあったのだ。つまり、今日5時にチェックイン、シャワー、ベッドで仮眠後、すっきりして観光に出かけられるわけだ。今日宿泊、明日1泊分の支払い後、ホテルに荷物を預けて観光し、荷物を受け取って西安に向かうことができる。フロントのお姉さん、私の顔をじっと見て、この決断をしたのだが、まさか、私だけのスペシャル・サービスでは無いだろうな?「寝ぼけるな」。

立派な敦煌駅
全長1000キロメートルを超え、最高峰は6500メートルで、標高4000メートル以上の雪山が連なる祁連山脈(きれんさんみゃく)
早朝、天水駅に到着

天 水
 『天水』とは、高貴にして立派な名前である。ガイドブックなどによると、あくまで伝説であるが、この地の南側に赤い光と同時に雷雨が起こり、大地に入った亀裂に天の河から水が流れ込み湖ができあがった。以来、湖は水位が変わらなかったことから、天の河がこの地に水を注いでいるという『天河注水』の伝説が生まれ、『天水井』と名付けられた。前漢の武帝の元鼎(げんてい)3年(紀元前114年)のことである。その後、武帝は湖畔に城を築き、『天水郡』とした。伝説と笑うなかれ。実際に天水には湧水の泉が多く、味もなかなかのもので、特産物として売られている。女性にはとくににお勧めです。肌に良いそうですよ。但し、長期間の使用が前提です。『フロントのお助けお姉さん』が証明してくれています。

麦積山石窟へ向かう
 朝8時頃に起きてシャワー、朝食、留守宅の娘に「元気だよー」のメール。携帯電話は持ったことはないが、旅行の時だけ孫のタブレット(この言葉が出てくるまで5分間もかかった)を借りてきているので、Wi-Fiを通して家族と状況を伝えあうようにしている。皆元気なようで、安心だ。
 さて、ここに宿泊するに至った『フロントのお助けお姉さん』、流暢な英語で「おはようございます。今日は『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』ですね。そこの駅前から34路のバスで料金は5元です。普通は『麦積山』まで50分くらいで着きますが、今日は日曜日ですので、もう少しかかるかもしれません」。完璧である。そして、ボトルに入った水を「for you」と言って私にくれた with smile。おいしかった。天水の水はおいしい。伝説ではない。私も「ありがとうございます」with 笑顔。
 気持ち良く、天水の東南45㎞の山中にある麦積山石窟へ向かう。麦積山石窟は、渋滞も混雑もなく、1時間弱で到着した。この入口から石窟まで3キロメートルほどであるが、電気自動車による移動も可能である。若い人達は歩いて向かっていた。

麦積山石窟の説明
麦積山入口
麦積山石窟までの電気自動車車内

麦積山石窟
 麦積山石窟は、歴史的には五胡十六国の一つである後秦の時代(西暦384~417年)に創建された。岩壁や断崖をくり抜いて仏像を安置するための場所、つまり石窟は194が現存するが(東崖54窟、西崖140窟)、7000体を超える塑像や石刻像、1300平方メートルにおよぶ壁画も残存している。内部の仏像はそのほとんどが塑像であるが、その理由は岩石の石質が礫岩層で比較的脆く、彫刻には適さないためだと言われている。また、石窟の多くは唐代以前に開かれたものである。
 さて、『麦積山石窟』は、『莫高窟』、『雲崗石窟』、『龍門石窟』に次ぐ中国四大石窟の一つで、2014年には『シルクロード:長安―天山(てんざん)回廊の交易路網』の構成資産として、世界文化遺産に登録されている。料金表を見ると入場料は70元であるが、60歳以上は身分証を見せると半額である。
 私が入場する時に英語で聞いたのであるが、入口のおじさんは言葉が分からず、私の後ろにいたイギリス人が日本語で教えてくれた。『麦積山』とは、農家が刈り取った麦の穂を乾燥するために積み上げた形が、この山に似ていたことから命名されたそうだ。 イギリス人 に「シェイシェイ」。

石窟の入口から石窟を写す
現存する194の石窟に7000体を超える塑像や石刻蔵、壁画が残されている 。中央に見える階段を歩いて見学する
麦積山の巨大な三尊像のレリーフのうちの2つ
石窟までの参道風景
石窟までの参道風景
ポーズをとるラクダ

伏羲廟
 中国では、伏義(ふくぎ、ふっき)、女媧(じょか)、神農(しんのう)を三皇と称して、最初の皇帝であり、民族の祖先として祀られている。その筆頭が伏義であり、天水に生まれたとされている。伏羲を祀る伏羲廟は1490年(明の弘治3年)に創建され、1524年(明の嘉靖3年)に修復された廟である。どの国においても、古い時代には『占い師』や『預言者』が国家の将来を占い、あるいは直接、指導者となる例は、枚挙に暇がない。この伏羲も『八卦(はっけ)』を取り入れた占いに長じていたと言われている。「当たるも八卦、当たらぬも…」の八卦である。
 私事であるが、小学校に入学する頃の年齢だったと記憶しているが、私が育った家から一里(約4キロメートル)ほど離れた場所に『八掛さん』と言われるご老人一族が住んでいらっしゃった。『八掛さん』と書いたが、『はっきょけ』と言っていたような気がする。一種の方言みたいものである。「しゃっぽをかぶれ」と祖母に言われた「しゃっぽ」が、フランス語シャポー(chapeau帽子)の鈍ったのと同じようなものだ。意識的に、「一里」と表現したが、私にとってはとても郷愁を覚える寒村である。私の祖母が月に一度このご老人を訪ねて、色々なことを占ってもらっていた。年なので、まさかの時のために、私が一緒についていくのである。「9のつく日は、…」など、驚くほどよく当たって、今でも、不思議に思うことがある。長じて、そのご老人が住んでいらっしゃった近くに、「温泉が出る」と彼が占い、本当に温泉が出たことを知った。今は、経営上の理由であろうか、すぐ近くに新しい温泉ができて、古いそれは無くなってしまったが、帰郷し、旧『M温泉』の近くを通る度に思い出すことがある。「占いによって発見された」旨が書かれた書が、額に入れて飾られていたのである。これ、本当の話である。

中国の三皇のひとり伏義を祭る祠廟の入口
顔を入れて中を覗く人もいる
柏の古木
伏義廟の中にある天水市博物館
博物館の展示物
陶製の「舞う馬」(唐)

南郭寺
 南廓寺(なんかくじ) は、1000年を超える古刹で、その美しさは唐の詩人である杜甫が天水(秦州)に滞在した折に「山頭南郭寺、水号北流泉…」と詩を詠んでいることでも有名であり、境内には杜甫を祀った詩史堂が建っている。文献によると、759年(唐の乾元2年)、陝西(せんせい)一帯で大飢饉が発生したため、杜甫は7月に官を辞して、家族全員で定住地を捜して秦州に寓居した。この時、杜甫48歳。しかし、安住の地とはならず、12月には成都に逃れたと言われている。自身の不遇と乱世を悲しみ、秦州雑詩二十首を作詩した。その一首で南廓寺を題材にした詩を掲げる。

  山頭南郭寺,水號北流泉。老樹空庭得,清渠一邑傳。
  秋花危石底,晩景臥鐘邊。俯仰悲身世,溪風為颯然。
 (山頭の南郭寺 水は北流泉と号す 老樹 空庭に得 清渠 一邑に伝う
  秋花 危石の底 晩景 臥鐘の辺 俛仰して身世を悲しめば 溪風も為
  に颯然たり)

 南廓寺の変遷をもう少し続けたい。宋の時代には『妙勝院』とも称し、清代には乾隆帝(1711~1799年)より『護国禅林院』の名を下賜される。現存する建築物は、順治帝(1638~1661年)、乾隆帝(1711~1799年)、光緒帝(1871~1908年)年間の建物である。

杜甫ゆかりの古刹・南郭寺。唐代中期の詩人杜甫の詩に詠まれたことで有名
境内側からパチリ
美しい天井( 南郭寺

中国・河西回廊~敦煌~

敦煌(沙州)
 『西安』から西へ西へと向かってきた『河西回廊の旅』も、いよいよ終点の『敦煌』である。つい先日訪れた『酒泉市』の中にある県級市であるが、人口13万人と少ない町にも関わらず、その知名度は世界級と言って良いであろう。その理由は、ひとえに、古くは沙州と呼ばれていた歴史であり、『莫高窟』をはじめとするその観光資源に依るところが大きいと言えよう。
 嘉峪関のバスターミナルから朝9時発のバスに乗って、384キロメートルを約5時間で敦煌に着いた。高速道路が整備され、バスも最新型の車が導入されているせいか、快適な時間を過ごすことができた。私のように乗り物が好きな者は別として、5時間の乗車時間を長く感じる人達も、砂漠の風景が連続する単調な景色であったにもかかわらず、緊張感をもって車窓からの景色を楽しみ、熱心にガイドブックなどを読んでいた。『敦煌』に対する夢か、期待か?私はと言えば、ガイドブックではなく、ウィスキーの小瓶が横にあった。
 ホテルは、友人から勧められたユースホステルを予約してある。①宿泊者は若者(大学生)が圧倒的に多いこと、②一般的に、彼らは英語が堪能であること、③敦煌のような歴史的都市を訪ねる若い連中は歴史に対する造詣が深いこと、④ドミトリーだけではなく、バス&トイレ付きのシングル・ルームやダブル・ルームもあること、等が理由である。楽しみだ。チェックインの時、いきなり英語で話しかけられて、ニンマリ。
 受付の娘さん(実は新婚さん)は、オーナーの娘だったのだが、まさに百戦錬磨の『コンシェルジュ(コンシェルジェ)』のようであった。それなりのホテルの接客係の、あの『concierge』である。若者の質問や要望に応じて、てきぱきと仕事をこなしている。チップ無しである。私も、随分、お世話になった。

嘉峪関バスターミナル の時刻表
長城 の概略
トールゲイト(黒山湖)
高速道路の補修中
敦煌のトールゲートが近づく
トールゲート(敦煌)

早速お世話になった
 私のこの拙文を継続して読んでくださった皆さんは、あるいは覚えていらっしゃるかもしれませんが。再掲させてください。このブログ&ホームページの『新旅行記・アジア』-『中国・河西回廊~蘭州~』で、とてもお世話になった方々のことを感謝を込めて記しました。その中で、「敦煌に6日間滞在よりも、縮小して、その分、天水(天水)で『麦積山石窟(ばくせきざんせっくつ)』を見学したらどうか」との貴重なアドバイスをいただいた。
 このことを『お助けコンシェルジュ』に話したところ、自分のホテルへの私の宿泊数が減るのにもかかわらず、気持ち良く対応してくれた。窓口には彼女一人しかいないので、宿泊している若者に「30分で戻るから、君、店番?をしてくれ」、というようなことを言って、私のためにわざわざ近くの列車チケット販売所に同行してくれたのである。彼女がチケット売り場の人と掛け合って、敦煌駅と電話でやり取りをしてくれて、時間がかかったが、結論がでた。「4日後に敦煌から天水まで行く切符は3枚しか残っていない。ここの売り場では予約はできない。今すぐ敦煌駅まで行って切符を買いなさい、急げ」。私の西安で買い求めた切符も敦煌駅で払い戻されたのである。「背水の陣だった」と、思わずつぶやいた。

郊外ツァーのスタートは西路線コース
 今日は朝から忙しい。『お助けコンシェルジュ』の適切なアドバイスによって訪問地が分散している『西千仏洞(にしせんぶつどう)』、『陽関(ようかん)』、『玉門関(ぎょくもんかん)』、『ヤルダン国家地質公園』を巡る『西路線コースツァー』に参加する。四か所を適当な時間で巡る方法で、旗を振りながらの引率&説明員ガイドはいない。合理的でかつ安い。
 最初は、敦煌の中心部から西南へ約35キロメートルの位置にある『西千仏洞』である。敦煌の母なる河、党河(とうが)に面した崖の上にある石窟である。名前の由来は、莫高窟(ばっこうくつ))の西にあることから『西千仏洞』と呼ばれるようになったという。北魏や唐の壁画が狭い空間に残っているが、多くは破損していたり、整理中だったので、ゆっくり鑑賞できなかった。

西千仏洞
西千仏洞。莫高窟の西にあることからこう呼ばれる
一部撮影

陽 関
 『西千仏洞』からさらに西へ20~30キロメートルの『陽関』に向かう。敦煌の中心部からだと南西へ約70キロメートルの位置にある。バスの中で隣に座ったとびっきりの美しいお嬢さんが、見事な『英語』で色々と教えてくれる。中国のこと、敦煌のこと、等々。ところが、彼女の話す言葉が途中から分からなくなってしまったのだ。私は「えっ」と聞き返した。「そう、私はボーっとしていました。とびっきりの美しいお嬢さんが話す言語が、途中からは『日本語』でした」。てっきり英語で話すものと先入観を持って聞いていた私のボーンヘッド(bonehead)でした。このお嬢さん、日本語を勉強している大学生で、美人でそして所作が美しい、私の世代が憧れる『美しい』女性なのである。『砂漠の風景に佇む美しい女性』私の持つコンパクト・デジカメじゃ、役不足だ。一眼レフを持ってこなかったことを、ここでも、…、残念。
 さて、『陽関』である。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で建設した関所の1つで、 敦煌の急激な発展にともない、従来の玉門関だけでは対応できなくなったために新たに設けられたものと言われている。そして、 その位置が玉門関より南にあるので、 南を意味する『陽』の字を使って 『陽関』と名付けられた。 また、 玉門関と併せて『二関』と呼ばれている。
 よく引用される唐の詩人王維の詩は、この地の関所跡ではないかと言われている。
「西出陽関無故人(西のかた 陽関を出ずれば故人無からん)」

 現在、我々が目にするのは、荒涼とした砂漠で、丘陵の上に残っている烽火台(のろしだい、ほうかだい)の姿だけである。漢代に作られたものと言われている。一種の寂寥感を感じるのは、思い入れのせいか。 

陽関景区
陽関は、唐の詩人王維の詩に『西、陽関を出ずれば故人無からん』と詠われた古代の重要な関所跡と言われている
陽関博物館
漢の時代に、西域への道を切り開いた勇者、張騫
重厚そのもの
関所の向こうに超小さく見えるのは、漢の代に西域への道を切り開いた勇者、張騫
現在では陽関烽燧(烽火台)が高台の上に朽ちた姿で残っているのみである
烽火台 の拡大写真

玉門関
 『陽関』とともに『二関』を構成する古代の関所跡『玉門関』に移動する。『陽関』と『玉門関』は、ほぼ一本の道でつながっているが、位置的には敦煌の西約80キロメートルである。漢代に時代を戻せば、その国家権力が及ぶ西端の国境線である。この『方向音痴の旅日記』-『新旅行記・アジア』にしばしば出てくるが、漢の時代に『汗血馬』を求めて攻め入る西域とは、この玉門関より西側の地域を言う。
 書物に出てくるほど良く知られている話を紹介したい。漢の将軍、李広利(りこうり)が西域における戦いに負けて玉門関に戻ってきた時、武帝は玉門関を閉じて彼らを入れさせなかったという史話である。この時代、将軍や兵士の命をかけるほど、汗血馬の確保は重要だったのである。
 玉門関は、現在、小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれ、約25メートル四方、約10メートル高さの城壁が残っている。また、「『二関』、すなわち『陽関』と『玉門関』の間は、長城で結ばれていた」と言われ、『漢長城遺址』の石碑がある。「ゴビ灘砂漠の中に黄色い土で固められた長方形の土塊があるだけ」と言っては、元も子もない。静かに瞼を閉じ、遠い、遠い昔を偲びましょう。

現在の玉門間は小方盤城(しょうほうばんじょう)と呼ばれている
玉門関は陽関と並び称される古代の関所跡。漢の時代は国家権力が及ぶ西端だった
麻布(あさぬの)などがここから出土された
漢長城遺址の標示
このフォルム、何に見えますか

ヤルダン国家地質公園
 玉門関からさらに西へ85キロメートルに位置する『ヤルダン国家地質公園』は、私の専門である土木工学の観点からも、力が入る。美女は、依然として私の左側の座席に座って、流暢な日本語で「みかんの皮はむきますか?」。「土木工学の観点からも、力が入る」は、真っ赤な嘘である。
 でも、少しは説明しなくては。ヤルダン地形とは、風、雨などによって地表面の柔らかい部分が風化し、堅い岩部分が残る地形のことを言う。結果的に、東西25キロメートル、南北2キロメートルの砂漠の中に、色々な形の岩が点在して、奇景を構成している。悪魔が住む城、通称、『魔鬼城(まきじょう)』は、『張芸謀(チャン・イーモウ)』監督の映画『英雄(HERO)』のロケ地として、有名になったことは、ご存知の方も多いでしょう。そのいくつかをお見せしましょう。ご自由に名前を付けてください。
 但し、美女とのツーショットは見せない。

ヤルダン国家地質公園の紹介
ライオンがお迎えします
アップ画像
獅身人面
クジャク?
西海船隊

莫高窟への行き方
 莫高窟は、敦煌の東南約25キロメートルに位置する鳴沙山東麓の岩壁に掘られており、『敦煌石窟』、『砂漠の中の大画廊』、『オアシスの中の仏教美術館』などと色々な名前が付けられている。その『莫高窟(ばっこうくつ)』についに辿り着いた。多くの方々に助けられて、『河西回廊』の最後の都市、それもとびっきり著名な莫高窟にいることが信じられないくらいだ。心も体もしびれる興奮である。石窟の長さは約1618メートル、掘削は紀元366年に始まったと言われる。1991年に『世界文化遺産』に指定された。
 ここを見学するには、2015年当時は、「予約が必要だ」とか、「直接莫高窟に行かないで、前もって『莫高窟研究院』という所でチケットを買う」等々、情報が飛び交っていて、敦煌に着くまで心配していたのだが、『お助けコンシェルジェ』の一言で安堵。「当日、ここのホステルの近くから出ているバスで『莫高窟研究院』へ行って、ビデオを観たりの『莫高窟についての学習』を受けた後、そこでチケットを買って、バスで案内される」。気を付けることは一つ、『日本語』と言うだけ。「ありがとう」。
 『莫高窟研究院』でビデオ2本を40分くらい鑑賞した後、チケットを購入した。高齢者割引は無かったが、通訳の関係で外国人はちょっと高かっただけでした。日本語のガイド付きで180元は安いと思いました。
 非常に簡単だった。シャトルバスに乗車後20分くらいで莫高窟対岸の橋の付近で降車。歩いて橋を渡り、莫高窟入り口へすぐでした。入口付近は、この種の観光地がそうであるように、駐車場、土産売り場、食堂などが並んでいる。

莫高窟
 中国語は、所定人数が集まり次第見学スタート、中国語以外は9時、12時、14時の開始だった。9時ジャストに、「今日は寂しい」と言いながら女性ガイドがやってくる。寂しい理由は、日本語ガイドのお客さんが、私一人だったことだ。
 「甘粛省の他の石窟と似ていますが、4世紀の五胡十六国時代から清にかけて作られ、734窟あります」から説明が始まった。ネィティブと言っても過言ではないほど、完璧な日本語であり、説明もとても丁寧であった。たくさんある石窟で、一番大きな大仏がある96窟や敦煌文書が隠されていた17窟などは必ず案内されるようだが、他のどこを見学するかはガイドの一存で決められるようだ。約2時間の見学時間内で、12カ所ぐらいの石窟を案内しているみたいだが、見学者が1か所に集中しないようにお互いの様子を見ながら調整しているようだ。かつて訪ねた新疆ウィグルのクチャ近郊にある『キジル千仏洞』や『クムトラ千仏洞』の管理と同じように、見学の度にガイドが鍵を開けて中に入り、説明が終わるとまた施錠するという管理をしていた。また、石窟は一般窟と特別窟に分けられ、特別窟を観覧するには別料金が必要になる。まあ、これだけの世界的歴史遺産の管理は、保存状態も含めてこのぐらいの厳格さが必要だと思う。
 他に人がいないので、石窟にかなり近づいて丁寧な説明を受けられるが、逆に石窟の周りに人がいないので離れて全体を観ることもできる。なるほど、ガイドの言うとおり、「ここの石窟は、仏像の場合、壁に仏像を彫るのとは違って、まず洞窟を深く掘って、次に中央に台座を作り、その上に仏像を安置している」。なるほど。そして、「台座の周りを回って礼拝するのが作法だ」そうです。なるほど。でも、どっち周りに回るかは、聞かなかった。
 これらの窟が作られた経済的バックは、仏教の功徳を積むために地域の有力者が大金を拠出したり、お坊さんが集まって寄付などの方法で、援助したと言われている。当然のことながら数百年にわたって修復が必要なので、その際に寄進することによって功徳を積むなど、多くの人々の善意によって修復・保存されてきたのである。
 見学が終わった後、ガイドの口から意外な言葉が発せられた。「後は、あなた一人なので、ご自由に見学してください」。私は、もちろん鍵を持っていないのだから、「空いている所(他のグループ)に交じって自由に見学していいよ」と解釈して、ありがたいことに、たっぷりと時間を使って、見学することができました。
 なお、後述する、莫高窟特別窟のレプリカなどを展示する『敦煌石窟保持研究陳列センター』を除いて、『莫高窟』の内部は撮影禁止なので、皆さんには外観しかお見世できないことである。したがって、カメラに収めた写真(外観)のいくつかについて、ご説明を省かせていただきます。申し訳ありません。

シャトルバスを降りてこの橋を渡ると莫高窟である
外観が見えてきた
莫高窟

歴史的発見
 ガイドからの説明で面白かったのは、彼女の愛読書でもある井上靖の小説『敦煌』に関する話である。多くの日本人が興味を持って質問するのは、井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』だそうだ。戦乱から大切な書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である。この窟に入ってすぐ左側の小さな窟に隠されていたのである。横壁の入り口は塗り込められ、さらに壁には絵が描かれていたので、気づかれなかったらしい。発見したのは偶然で、この窟の管理人が壁に入ったキズに気づき、中の5万点もの経典や文書を発見したということである。ガイドが1900年と言ったか、1900年代と言ったか、聞き逃したが、いずれにしても歴史的発見である。
 多くの窟の中で私が好きなのは、頭の上に琵琶をかかげて演奏している『飛天像』である。昨日、知ったことであるが、敦煌市のシンボルである。『敦煌大劇院』による公演『敦煌神女』のチケットを買うために劇場を訪れた時に近くの交差点に立つ『飛天像』を初めて見たのである。でも、やはり『莫高窟の飛天像』である。素材が違うのだから当然であるが、鮮やかなタッチと色使いに圧倒された。

井上靖の小説『敦煌』に登場する『第17窟 蔵経洞』。戦乱から書簡を守るために莫高窟に隠した件(くだり)の元になった『蔵経洞』である
敦煌莫高窟の象徴である九層楼。当初は大仏が三層の上から顔を出していたのを、清代に台4層から上を増築して室内仏ということになった
敦煌蔵経洞陳列館
大牌坊
飛天像

より道
 時間がたっぷりあるので、帰りのシャトルバスに乗る前に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』に寄る。お世話になった日本語ガイドさんから、「レプリカですけど、写真OKです」と教えてもらったことを思い出す。『莫高窟』は厳格に撮影禁止なので、年寄りの記憶保持のために撮っておくのも良いだろう。「私は自分の鑑識眼については、よく分かりません。しかし、レプリカと断らないでここに掲載するのは、読んでくださった皆さんに無礼だと思います」。
 私は以前にこのブログでこのようなことを書きました。『中国・河西回廊 西安郊外(1) ~茂陵・乾陵・法門寺~』の『則天(則天武后)』で、屁理屈を並べて、言い逃れをして、魅惑的な美女の視線から逃れようとしている男。「意気地なし!」。「私が愛した美しい女性は、上品な笑顔で私にこう言ったであろう」と。
 このような凛とした女性に愛された私は、先の文章を「レプリカですので完成度は高いとは言えないと思いますが、私のカメラの質、撮影技術も高くありません」。「そのうえで、参考にしてくださいね」。
 『敦煌石窟保持研究陳列センター』の名誉のために言っておきますが、石窟レプリカのセンターではありません。莫高窟修復の展示など、工夫を凝らした魅力的な展示センターです。
 なお、方向音痴の私の出番ではありませんが、この辺りで迷っている人がおりましたが、降車した場所から『莫高窟研究院』へ戻るシャトルバスが運行していました。そこから敦煌市街へのバスは30分に一本あります。

敦煌石窟保持研究陳列センター
莫高窟 隋代 第419窟のレプリカ
莫高窟 北涼 第275窟のレプリカ

沙州市場界隈
 午後1時半頃、莫高窟から市内に戻って、宿泊しているホステルから近い沙州市場に行く。沙州市場近くの百味街は、その名の通り食堂・屋台街で、賑やかな通りである。若いお母さんが遊びたい盛りの中学生ぐらいの子供に気合を入れている。名物の砂鍋料理は人気があり、元気おばさんに(半分、強制的に?)勧められて2日間続けて食した。おいしかった。
 中学生のはにかんだ様な笑顔と元気おばさんの大サービス大盛り砂鍋料理で腹いっぱいだ。「少し歩かなくちゃ」。さっきから、ミナレットから聞こえてくるアザーン(イスラム教における礼拝への呼び掛け)が気になっている。私はイスラム教徒ではないが、ここの近くのイスラム教寺院、清真寺に向かう。宗教、宗派を問わず、宗教関連施設の建築物の見学は、私の旅行の目的の一つになっている。礼拝中なので中には入れないし、また礼拝に向かう人々にカメラを向けることは厳禁であるが、美しい建物のいくつかをカメラに収めた。

市内に戻って沙州市場へ
この店は人気がありました
沙州市場近くのイスラム寺院・清真寺
清真寺横も夜は賑やかそう
清真寺

雷音寺
 元気おばさんの大盛りも、清真寺界隈の散歩で少しは腹もこなれた。この後の今日の予定は、敦煌から南に約5キロメートルの『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』である。3路バス終点と分かりやすいので安心である。多くの人達が降りたので、終点だと思って私も降りたのだが、終点一つ手前の『雷音寺』前であった。ちょっと焦ったが、鳴沙山まで歩いて5分だと教えられたので、流れに合流して『雷音寺』に入ってみた。久しぶりに出しますが、「神のお告げ」であった。(『新旅行記・ヨーロッパ』-『ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル~サラエボ』の中の『神のお告げ』参照)。そう、 一つ手前で降りたのは無意味ではなかったのだ。『雷音寺』は、市内で一番大きい仏教寺院で、1989年に建造と新しい寺院である。境内には菩薩像や羅漢像などの仏像が納められ、十分に楽しめる見所いっぱいのお寺であった。

鳴沙山へバスで向かう途中、1つ手前の雷音寺前で降りる
天王殿
大雄宝殿

鳴沙山・月牙泉
 『雷音寺』で予期しなかった仏像や展示物をたくさん見ることができて、なにか得をした気分で、シルクロードで最も美しい砂丘が連なる『鳴沙山・月牙泉(めいさざん・げつがせん)』へ軽々とステップを踏んで、そして十数年ぶりに口笛を吹いて向かいました。この後に待ち受けている拷問も知らずに。
 鳴沙山は、東西約40キロメートル、南北50キロメートルに広がる、サラサラの砂が堆積してできた、風が創り上げた砂漠の山である。最高峰は海抜1715メートルで、私の土木工学的センスで言うと、勾配はおおよそ15度くらいだと思う。名前の由来であるが、以前は神沙山と呼ばれていたが、砂山を滑り降りると地響きのような音をたてることがあることから『鳴沙山』の名がついたと言われている。砂の色も色々と混じっているで、太陽の角度、天候などによって多彩な姿を観察できる。
 ところで、よく歌われた名歌『月の砂漠』の歌詞をご存知でしょうか?

「月の砂漠をはるばると 旅のらくだがゆきました
金と銀との…」

のあれです。あの歌詞のイメージに近い風景が眼前に広がっている。私は歩いて山を登ったが、商魂たくましい人がいて、観光客を実際にラクダに乗せて稼いでいる。ここまで半月以上にわたって河西回廊を旅してきたが、この鳴沙山のラクダ商法はあるシーンと重なる。 あるシーンとは、『嘉峪関(かよくかん)』の『懸壁長城(けんぺきちょうじょう)』でご紹介した商魂たくましい貸衣装屋さんのことである。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックにその写真を撮っては、儲けている貸衣装屋さん。「帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物?」と私が勝手に想像した、貸衣装屋さんのシーンと重なるのである。
 怪しげな日本語で「月の砂漠をはるばると 旅のらくだが…」と唄いながらラクダを引き、『砂漠を歩む隊商』になりきったお客さんからチップも貰うおじさん達は、…、いゃ、ちょっと待てよ。 ちょっと待って下さいね。 貸衣装屋さんより、こっちの 『砂漠を歩む隊商(キャラバン)』の方が、言葉がちょっときついが、金儲けの元祖ではないだろうか? 『砂漠を歩む隊商』は、なにか幻想的で、ロマンチックなイメージで捉えられているが、 私もそう思っているし、そう思いたいが、想像を超える困難に打ち勝って 、 『一攫千金を夢見るキャラバンの商人 』 なのである。
 私は好きである。『一攫千金 』のことではなく、はるかに少額のお金を稼ぐために、汗水たらしているおじさん達が好きである。そして、 せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なら、なおさら好きである。 「おかしいかな?」。「私は一生懸命が好き」なのかもしれない。『月の砂漠』を出したことから、もうお分かりだと思いますが、お客さんは、圧倒的に日本人が多いそうだ。

拷問には技術で対抗
 先に「この山の拷問が待っている」と書いたが、それは何か?ここを訪れる楽しみの一つは、この美しい景色を堪能することであるが、もう一つは砂山登りである。急斜面なので、一歩踏み出すと砂が崩れてなかなか上へ登れない。シューズの中に容赦なく砂が入ってくるので、布のオーバーシューズを10元で買う人もいる。砂の上に梯子を置いて登りやすくしている箇所もあるが、それでは面白くない。結局、砂に足を取られて3歩進んで2歩下がる状態の連続である。土木工学的知識を駆使して、頑張る。極細粒の砂は風で吹き飛んでいて残っている砂は極細粒分をあまり含んでいない。つまり、足を踏み入れる部分の砂は同じ粒径の(単一の粒径に近い)砂が多く、したがって、砂と砂の接点面積が少ないことから砂全体としての摩擦抵抗も小さいことになる。難しいかな?うーん。「大きい砂と大きい砂の間を埋める小さい砂が少なく、砂全体として密ではないことから足の圧力に抵抗する力が小さい」の表現ではどうだろうか?そこで考えた。誰かが歩いた跡は砂の粒が移動しあって固まっている(摩擦抵抗が大きい)。楽をしたい場合は誰かの足跡をたどろう。悪戦苦闘が面白いのだが。
 山頂へ登ると、時々風が強くなり、砂をかぶってしまう。予測したとおり、飛んできた砂は、確かに極細粒の砂であった。「良かった?」。飛んでくる砂など「なんのその」、一種の達成感だろうか、知らない者同士が抱き合って「成功」と言いながら祝しあっている。そして、遠くに広がる美しい風景と、下に見える『月牙泉』である。
 『陽関・玉門関・ヤルダン国家地質公園』を訪れた際に、とてもお世話になったお洒落なマルチリンガル美女に教えてもらったのだが、『月牙泉』は「砂漠の第一の泉」と言われ、また、漢の時代から「敦煌八景」の一つと称されているそうです。1970年代のダム建設と農業用灌漑(かんがい)などの大規模開発や地下水の大量汲みあげの影響を受けて、1990年代末には泉の底が干上がったそうだが、現在は各種の対策の効果があって、少しずつ回復している。お見せしている寺院と周辺の緑の写真は2015年5月に撮ったものです。

鳴沙山・月牙泉 の入口
山に挑戦
強力な山登りの助っ人である梯子
月牙泉の横に建つ寺院
頂上到達を称え合う。

敦煌博物館
 明日は、いよいよ敦煌を発って、天水に向かう日である。したがって、今日は実質的に敦煌最終日である。大事に過ごそう。『莫高窟』へ再度行き、その後『敦煌博物館』に行くことも考えたのだが、「せわしない旅ではなく、ゆっくり旅を貫きたい」。それに大好きな博物館だ。未知への興味というか、博物館でなにか新しい発見があるかもしれない。うまい具合に、昨日、『鳴沙山・月牙泉』へ向かった時に乗った『3路』バスが博物館の目の前に停まる。
 2012年5月にリニューアル・オープンした『敦煌博物館』は豪華な建物で、外国人であってもパスポートを提示することによって無料となる。時代区分ごとに歴史的遺物が展示されており、それほど知識が無くても分かりやすい。日本語の説明があることも大サービスである。
 最初に目を引くのは、壁に掲げられた大きな仏教図である。見入っていると、「Could I help you ?」。胸にネームタグをつけた上品なご婦人の申し出に、丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお断りした。丁重に、丁寧にである。そして、「莫高窟のレプリカが色々ございます。写真撮影も可です」の助言に、これまた丁重に英語で「本当にありがとうございます」とお礼を言いました。バッグからカメラを取り出しながら。
 莫高窟を訪れた際に、『敦煌石窟保持研究陳列センター』の項で書きましたが、レプリカと言えども、莫高窟の復習になるし、また、見逃した遺物の写真も撮れる。壁に貼られた『敦煌の歴史とシルクロードの文明陳列 序言』を読んで、戦闘開始である。

敦煌博物館
最初に目を引く仏教図
『序言』のプレート
石塔(北魏)
今でいう囲碁をしているのだろうか?隋唐五代時代
唐代のもの
天王俑 唐代
おんどり(磁器)明代
天王像(銅に金メッキ)清代
康煕25年。仏陀の坐像(銅に金メッキ)

白馬塔
 この拙稿の中の『河西回廊』で、何度も登場する鳩摩羅什(くまらじゅう)のことを覚えていらっしゃいますか。現在の新疆ウィグルのクチャ(旧、亀茲国)出身の高僧である。鳩摩羅什が敦煌にいた時、経典を担がせていた白馬が死んだため、その供養のために馬をここに埋葬し、塔を建てたのが白馬塔の始まりと言われている。
 直径7メートル、高さ12メートルの大きさで、基礎部分は八角形、上部は円筒形をした九層建ての塔である。第六層目だけが赤色で、全体として白亜の塔である。西暦(公元)386年に建立された後、何度か改修されているが、現在の塔は清の時代に修復されたものである。

白馬塔
鳩摩羅什三蔵が敦煌にいた時、経典を担がせた白馬が死んでしまい、その供養のために建てられた白馬塔 

敦煌大劇院
 沙州市場界隈をおじさんとおばさんを冷かしながらのんびりと散歩している。職人の腕を眺めるのは、旅の醍醐味の一つである。近くの南北に走る沙州北路(沙州南路)と東西に走る陽関中路(陽関東路)が交差するラウンドアバウト(Round about)は敦煌随一の繁華街であり、郵政局(中国電信のビル)をバックにそこに立つ飛天像は敦煌のシンボルである。左端に琵琶を後ろ手に曲弾きする飛天像の姿は、美しく優雅である。
 ここから歩いて数分。今夜は、敦煌大劇院である。8時20分から開演される甘粛省雑技団によるショー『敦煌神女(とんこうしんにょ)』の鑑賞である。チケットは200元で既に買い求めてある。
 さて、その舞台である。初めて観る出し物であり、予備知識もない。面白かったのは、開演前に役者さん達が劇場前に出てきて皆さんに挨拶をしたことだった。本番用の衣装を身に着けてアップの写真撮影にも応じてくれ、ひいき筋なのだろうか、握手をする人達もいた。
 内容は、敦煌文化や莫高窟壁画のエピソードなどをテーマに構成された舞台である。歌あり、西域の少数民族の舞踊あり、アクロバティックなサーカスあり、中国雑技あり、武術あり、マジックあり、コミカルな演劇ありの、次々と変化する1時間半のショーは観客を驚きと笑いの渦に引き込む。拍手喝采が起きたのは舞台にある動物が登場した時である。何だと思いますか?砂漠で人気の動物とは?そうです、本物の駱駝(らくだ)である。

沙州市場で熱心に仕事に励む職人さん
大劇院近くの沙州北路と陽関中路が交差するラウンドアバウトに立つ飛天像
敦煌大劇院の入口
敦煌大劇院の出し物の紹介「敦煌神女」
スターたちの顔見世
アップの写真にも快く応じてくれる
時間になりました。続々と入場

IMG_4472公演開始

公演開始
「待ってました」と声のかかるところ
アクロバティックな演技が続く
本物の生きたラクダです
「美しい」の言葉以外ない
フィナーレ

中国・河西回廊~嘉峪関・酒泉~

張掖から嘉峪関そして酒泉へ
 張掖バスターミナルから2時間10分で嘉峪関バスターミナルに着く。ホテルは、バスターミナルからほど近い新華南路(中路)と建設東路の交叉近くで、交通の便が良い。今回の旅行目的地は、『嘉峪関』と『酒泉』で、両者の移動はバスで30分と近いので、嘉峪関にホテルを取り、酒泉へは日帰り旅行とした。
 旅行記のブログなどで、ホテルや宿舎の名前を挙げてコメントしたり、推薦する方々がいらっしゃる。これからその町を旅行する方々に有益な情報かもしれないが、私の場合は衣食住に関する評価に全く自信がないので遠慮させていただいております。実は、旅好きの友人に「中国のどこの都市でも良いから『…之星』に泊まってみろ。経済的ホテルであるが、面白い情報がある。中国初のビジネスホテルグループであり、国有企業だそうだ」。「面白いな」ということで、ここ嘉峪関で宿泊してみた。前述した理由で、ホテルに関する評価は避けるが、英語が飛び交っていた。
 さて、酒泉へ行こうと嘉峪関バスターミナルに向かおうとしたら、ホテルのスタッフが「近くからミニバスが出ている」と教えてくれた。おおよその場所を聞いたので、そこを目指したが、うろうろが始まった。子供と散歩していたご婦人が「どうしたのですか」と声をかけてくれたので、事情を説明しているところに高級車が止まった。「パパ」。パパは、私に「車に乗れ」と合図して、乗って2分。「グッドラック」。「今日もまた」というべきか、「グッドラック」なのか?方向音痴はお助けパーソンに助けられて(迷惑をかけて)、今日も行く。

鐘鼓楼
 ミニバスで30分、「どこで降りる?」と聞かれても、行きたい場所の歴史や特徴はそれなりに調べてあるが、地図上の位置(方向)がよく分からないので、ガイドブックに『町の中心的存在』と書かれていたページを見せると、同乗者の全員が同じ場所であった。『鐘鼓楼』は、東晋永楽2年(346)の創建で、1905年(清の光緒31年)に再建されて今に至る。高さは27メートルで、容姿端麗である。さっきまで一緒にいた同乗者たちはアベックが多いせいか、独り者の私にカメラを渡す。御存知だと思いますが、中国人の写真ポーズは大変なものである。とくに、ヒロイン気取りは尋常ではない。私も他の観光客への加害者になりそうなので、カメラを受け取らないように心がけているが。
 さて、鐘鼓楼であるが、東西南北に4つの門があり、「東迎華岳(東に華山を迎える)」をはじめ、各門に文字を記した門額が有名である。基壇の四方に開けられた通路上の門額である。写した4枚の(東西南北の)門額をトリミングして掲載したが、それぞれは酒泉の地理的位置を表している。

酒泉の鐘鼓楼。基檀の四方に開けられた通路の上の門額が有名である
東迎華獄(東には華岳を仰ぐ)
西達伊吾(西はハミに達する)
南望邪連(南は邪連山を望む)
北通沙漠(北は砂漠に続く)

酒泉夜光杯廠
 『酒泉夜光杯廠』は、鐘鼓楼から約200メートルと近く、街並みを楽しみながらゆっくりと歩く。次第に人々の賑わいと出店や屋台などが増えてきて、繁華街らしくなる。ここには、『酒泉夜光杯工場』の直営売店のある場所であり、その製造工程を見学できる。祁連山で産出する玉を原料に酒杯を造っている。光を透過するほど極薄に磨き上げた玉杯に酒を注ぎ、「月光にかざすと光り輝き風味が増す」ので『夜光杯』と命名されたそうである。私が手に取った時は、盃に酒ではなく水を注ぎ、かつ、お昼の自然光の中であったので、風味が増したかどうかは分からないが、おいしい水であった。
 ここの夜光杯が唐の時代のオリジナリティを継いだものかどうかは定かではないらしいが、「人口に膾炙する」ようになったのは、唐代に活躍した『王翰(おう かん)』の唐詩『涼州詞』に詠まれた「葡萄の美酒夜光の杯…」の影響でもあるそうだ。お好きな方もいらっしゃると思いますので、『涼州詞』を掲げたい。

葡萄美酒夜光杯、欲飲琵琶馬上催。
酔臥沙場君莫笑、古来征戦幾人回。

酒泉夜光杯の直営売店
酒泉夜光杯の直営売店(正面から写す)
この辺りが繁華街で、出店や屋台で賑やかである

酒泉公園
 鐘鼓楼から東に2キロメートルの位置にある酒泉公園は、町の名前の由来となった『酒泉』のある公園で、別名「泉湖公園」あるいは「西漢酒泉勝跡」と呼ばれる。1路あるいは9路バスが運行しており、『酒泉公園』がバス停である。高校生くらいの6人の集団が同じバスから降りたのだが、女子高校生3人に「写真を撮ろう」とせがまれる。老人を挟んだ4人の写真は、今頃どこをうろついているのだろう。ところで、少しローカルな場所に行くと、日本人がまだ珍しいのだろうか、こういうことが、ままある。私は、普通の容姿だと自分では思っているのだが、…、よくあるのである。これが小学生のこともある。どうしてだろう。「まぁ、いいか」。
 前漢代の名将軍『霍去病(かくきょへい)』が匈奴を破って大勝利を収めた。その報告に喜んだ武帝は、霍去病に一本の酒を贈った。霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるために酒を泉に注ぎ込んだ。すると池の水が濃厚な酒の香りを放ち、その美酒は尽きることなく湧き続けたという。「いいねぇ」。霍去病が酒を注ぎ込んだ泉は、古来、名水とされ、かつ飲めば不老長寿などと詩に歌われているという。「いいねぇ」。
 公園内には大きな池があり、さっきの若者達はここに遊びに来ていたのだ。笑顔でパチリと撮られた。

『西漢酒泉勝跡』の入口。町名の由来となった泉がある公園
西漢酒泉勝跡の説明
霍去病は武帝からの酒を兵士全員に平等に与えるためにこの手前の泉に酒を注ぎ込んだ
モニュメントのアップ
公園内の大きな池。さっきの若者達はここに遊びに来ていた

嘉峪関へ戻る
 酒泉を楽しんだ。おいしい水も飲んだので、元気で旅を続けられそうだ。そろそろ嘉峪関へ戻る時間だ。嘉峪関からここ酒泉に来た時に降りたバス停は鐘鼓楼であったので、とりあえずそこにバスで向かおう。「鐘鼓楼」と書いたメモを運転手に見せると、「OK」と首を縦に振る。西へ2キロメートルなので、あっという間に着いた。ここへはミニバスで来たので、ここから嘉峪関へ向かうバスを探さなくてはならない。例によってうろうろしていると、高校生みたい男の子達が、じろじろと興味深く私を見ている。「嘉峪関」と言うと乗り場を教えてくれた。でも心配なので、バスの向かう方向がどっちの方向かを確認するために、ディバッグに付けている(方向)磁石でチェックしたところ、OKだ。少年達は、磁石に興味を示している。日本の百均で数個買ってあったので「for all」と言いながら1個くれてやったところ、要求が続く。「写真を撮りたい」だ。バスが来たので、「OK」で、「バイバイ」。
 あーあ、疲れた。

今日は嘉峪関見学
 朝8時頃、ホテルを出て近くの市場で小さな饅頭一袋(6個で4元/約60円)を買い、4路のバスで『嘉峪関』へ向かう。運賃は1元だ。8時半頃、嘉峪関のある終点の関城景区で下車する。嘉峪関は世界文化遺産に登録されており、入場料は繁忙期は120元だが、閑散期のため60元であった。
 河北省から始まる『万里の長城』は、北京郊外の『八達嶺』→いわゆる『黄土高原』→そして、ここ嘉峪関につながる。つまり、これから訪ねる嘉峪関は万里の長城の最西端にある要塞で、1372年(明の洪武5年)に建設が始まった。『嘉峪山』の西麓に建設されたことから嘉峪関と命名された。東の『山海関』より9年早い建設であった。因みに、山海関は、北に燕を臨み、南に渤が続くので、これらのを取って『山海関』と名づけられたという。明代長城の東端要塞であり、「天下第一関」と称されている。これに対して、嘉峪関は「天下第一雄関」と言われている。
 明の征西大将軍『馮勝(ふう しょう。? – 1395年)』が河西回廊を支配下に置いた後に関(要塞)の建設が始まり、168年の時を経てシルクロードの重要拠点に強固な要塞が完成したのである。
 嘉峪関は、内城(ないじょう)、瓮城(おうじょう)、羅城(らじょう)、外城(がいじょう)、城壕(じょうごう)の部分からなる。周囲733メートルを高さ11メートルの城壁に囲まれ、内域は33,500平方メートル以上である。構造的には、壁や基礎を作る場所に両側から板などを当てて型枠を作り、その中に黄土などを詰めて突き固める版築法(はんちくほう)で城壁を構築し、西側は煉瓦を積み重ねて作っている。
 東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門(こうかもん)、西を柔遠門(じゅうおうもん)と言う。光化門の入り口の広場には文昌閣、関帝廟、劇台などの建物が並んでいる。また内城を通り西門である柔遠門を出るとその外に荒涼とした大地が続いている。
 この2つの門の上に高さ17メートルの3層の楼閣が建ち、嘉峪関のシンボルとなっている。2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路がある。旅人達は、ここに登って、万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物に思いを寄せるのである。
 旅人の一人である私目も、西安(せいあん)を発ち、蘭州(らんしゅう)、武威(ぶい)、張掖(ちょうえき)、酒泉(しゅせん)、嘉峪関(かよくかん)と、河西回廊に沿って砂漠の中に栄えたオアシス都市を巡り、人々の生活、歴史、文化、宗教などに一端ではあるが触れてきた。後は、これから数日後に向かう『敦煌』を残すのみである。城壁の上に立って辺りを眺めると、旅人が感ずるロマンチックで、ちょっと感傷的な気持ちになってしまう。南には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続き、北には黒山と呼ばれる小高い岩山がそびえ、西には遠く砂漠が広がる。

嘉峪関長城文化旅遊景区の黒山石窟群
林則徐の像。日本では、広州でアヘン取り締まりを強化した人物として知られている
関城に入る主要通路である東門。「天下雄関」の額が掛かっている(左上の黒い部分)
東門の説明
文昌閣。後ろの戯台(ぎだい。 劇場の舞台) には「天下第一雄関」の額が掲げられている
文昌閣の説明
舞台。明清時代は文人墨客が集い、詩作、作画、読書をした場所
関帝廟
東の城門、光化門
光化門の説明
演舞場が見える
西の城門、 柔遠門 (じゅうおうもん)
柔遠門の説明。西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。ここを出るとそこは荒涼とした大地が口をあけている。観光の駱駝が客を待っている
馬道。将士が馬に乗って城に上がることで名付けられた。主な機能は、兵力を運送し、物資と武器を運ぶことである。馬道の上に見えているのが光化楼
嘉峪関楼
嘉峪関楼の説明
嘉峪関 から望む 南側には万年雪を被った神々しい祁連山脈が続く
ここまで嘉峪関

懸壁長城
 嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口に向かう。チケットは嘉峪関と共通である。急勾配の山道は、「行きは良いよい、帰りは恐い」ので断念する。『懸壁長城』の名は、「あたかも鉄壁を空に引っ掛けた様に見える」のでつけられたそうだ。当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあったそうだが、1987年に改修したのは500メートル、うち勾配約45度の道231メートルを斜面に作ったという。頂上まで30分。ショーマン・シップにあふれた人物が担当したのだろうか?
 この見事な懸壁長城をバックに『シルクロードの彫塑群』の彫刻が鮮やかで、そして美しい。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した像である。7名の人物とは、張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である。ここで、この旅行記に初めて出てきた『左宗』とは、『太平天国の乱』の鎮圧に活躍し、「清代最後の大黒柱」と言われている人物である。
 大人物はともかくも、今日しか会えず、これからも話題にのぼることは多分無いだろう市井の人物に、私は興味を覚える。どこの街へ行ってもこの種の人物には、何故か好感を覚える。ここでは、商魂たくましい貸衣装屋さんである。熱心である。人気の張騫や霍去病の衣装を観光客に着せては儲け、『シルクロードの彫塑群』をバックに写真を撮っては、儲けている。誠に勝手な想像であるが、帰宅してから、せっせと稼いだ小銭を奥さんにとられる好人物なのである。「どこから来るんだよ、その発想?」。私もそう思う。

嘉峪関の西北8キロメートルに位置する懸壁長城(けんぺきちょうじょう)の入口
当初、明代に築かれた時は全長1.5キロメートルあった
シルクロードの彫塑群
シルクロードの彫塑群の説明。中国古代文書に記載された嘉峪関を経由した7名の歴史人物を彫刻した。この7名の人物は張騫、霍去病、班超、三蔵法師、マルコ・ポーロ、林則徐、左宗である
懸壁長城(けんぺきちょうじょう)     
山の斜面の傾斜角は45度
商魂たくましい貸衣装屋さん

万里長城第一墩へ向かうのだが
 嘉峪関からチャーターしたタクシーのおばさんは、とても乱暴な運転手で、こんな表現があるかどうか分からないが、手に冷や汗を握るほど怖かった。『万里長城第一墩(ばんりちょうじょうだいいちとん)』に向かう途中、狭い一本道に重機が入っていて、こちらは動くことができない。想像するに、稼ぎに影響するのだろうか、この運転手、かなり大きい岩のような石が堆積している河原へ無理やり突っ込むではないか。プロペラシャフトがあったかどうか定かではないが、車の底が音を立てて石を引きずっているのだ。言葉が通じないので「ストップ」しか言えないが、今更戻るわけにもいかない。運転手は悪戦苦闘、こちらは肝を冷やして15分間。「ふー」。やっと、道に戻った。私の額の冷や汗を見て、自分のお昼弁当なのかパンを出して私にひとつくれて、自分も食べ始めた。もう一度。「ふー」。
 そうこう言いながらも、舗装道路を走る車から眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、美しい。そして嫌なことを忘れさせてくれる。

峪関から『万里長城第一墩』に向かう途中、工事による通行止め。雇ったタクシードライバーはこの岩道に車を突っ込んで近道を試みたが 。
黄土の渓谷を挟んで眺める万年雪の祁連山脈は神々しく、気高い

万里長城第一墩
 『万里長城第一墩』は、明代長城の中では西から東に向かう最初の物見台で、したがって長城の最西端にある。『墩(とん)』とは物見台のことである。討賴河の高さ56メートルの崖の上にあり、ここ長城第一墩から嘉峪関関城までは7.5キロメートルの壁が続いている。換言するならば、嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶えることになる。
 兵士や将軍の休憩テントが見えてくる。現在、実際に軍が駐屯しているわけではなく、観光客向けの展示であり、写真撮影5元などと書いたスタンドが入口に置かれている。担当者がいて説明があるわけではないが、容易に想像できる展示物でもある。
 ここからの階段を上がって行くと、断崖絶壁と吊り橋が見えてくる。思い入れを持って見ないと、単なる険しい地形が見えるだけである。しかし、「嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える」、「ここが長城の正真正銘の終点(出発地)」と考え、さらには、『北京の八達嶺』の長城まで思いを致すと、こみあげるものがあるのであろう。噂には聞いていたが、『長城マニア』と思しき人達が、抱き合い、涙を流して、「???」と叫んでいる。
 2016年9月に北朝鮮との国境の町として有名な遼寧省丹東市を訪ねた折に、虎山村にある明代の長城、虎山長城(こざんちょうじょう)の遺構を訪ねたぐらいの長城好きであることは白状するが(結果的に管理側の都合で、虎山に入山できなかった)、涙を流す、ここまではどうも。私は皮肉っているのではない、羨ましいのである。
 『長城第一墩歴史文化体験館』に移動する。写真で示した展示物は実物ではありません。

兵士や将軍の休憩テントが見えてくる
テントの内部
嘉峪関から南に延びる長城は北大河の断崖絶壁で途絶える
こが長城の正真正銘の終点(出発地)
ここにある墩(物見台)は天下第一墩(てんかだいいちとん)とも呼ばれている
吊り橋のアップ
長城第一墩歴史文化体験館に移動
展示物
展示物

魏晋壁画墓
 今日の最後の訪問予定地である『魏晋壁画墓』へ向かう。『魏晋…』と名付けられているからには、少しは知識を得ようと、にわか勉強をしたのだが、にわかに覚えたことは忘れるのも早いので、特に年を取ると忘れる速度も速いので、ここに超簡単にキー・ワードをメモする。『黄巾の乱』、『三国志』、『隋が中国を再び統一する間の群雄割拠時代』と並べた。うまい具合に、最近凝っている、日本のTV番組で放映されている中国ドラマの時代背景が重なっているので,覚えやすい。その後漢末期からの激動の時代と言うか、分裂の時代の380年くらいを生き延びた国家である。
 魏晋壁画墓群(ぎしんへぎがぼぐん)は、嘉峪関市の北東約15キロメートルのゴビ灘にある古墓群である。20キロメートルほどに広がっており、1972~1979年の7年間に13基が発掘され、660点の壁画が部分的に保存されている。壁画から埋葬された人の日常生活、道具、動物などを描いたレンガがはめ込まれている。具体的にその姿のいくつかを列記する。果実の収穫、料理をしている、駱駝を引く、ヤク?を引く、牛を使って農作業、楽器を奏でる、戦う将兵、狩りをしている、豚の料理、等々 がシンプルに描かれているのである。但し、撮影禁止である。
 これらの鮮やかな色彩の絵が1600年ほど前に描かれたものとは思えないくらい保存状態が良く、感動しますよ。おすすめです、お訪ねを。 

ここから魏晋壁画墓
果园--新城墓群